2020年03月18日

『収容所のプルースト』ジョゼフ・チャプスキー

外国人が多く住むパリには、外国語(つまりフランス語以外)の本を専門にした書店がいくつかある。そんななかでも、僕が好きなのが、サン=ジェルマン大通り123番の「ポーランド書店」だ。重い扉を押して、細長い店内に入ると、ポーランド関連のフランス語書籍が、背の高い本棚にぎっしりと並べられている。鉄製の狭い螺旋階段を上ると、ポーランド語の書籍を並べた隠し部屋のような二階に上がれる。僕はポーランド語は読めないが、ものすごく「文化」を感じる場所で、つい訪れたくなる。



この書店の母体は、帝政ロシアに対する11月蜂起(1830年)に失敗した亡命知識人が、1833年に創立したポーランド文芸協会である。フレデリック・ショパンは、同協会の初代運営委員だった。書店の方は、当初はヴォルテール河畔に店を構え、ショパンはよく立ち寄っては、ミツキェヴィッチなど、同郷の文学者と議論したという。1925年に、書店は現在の住所に移転。ここでかつて入手した『プルースト、堕落に抗してProust contre la déchéance』という本を、今回紹介したい。

著者のジョゼフ・チャプスキー(Joseph Czapski, 1896-1993. ポーランド語読みではユゼフJózef)は貴族出身で、1920年代に「カピスト派」の画家として出発した。パリに出てきた彼らは、幸運にも、同郷のミシア・セールMisia Sertの庇護を受けた。その美貌と教養で、マラルメからフォーレまで、パリの芸術家たちを虜にしたミシアは、ミューズとして名高い人物である。彼女の援助のおかげで、チャプスキーはパリの画壇へ入ることができた。

しかし、1939年に、独ソ不可侵条約の秘密条項に基づいて両国による東西からのポーランド侵攻が始まると、ポーランド軍の将校に任じられていたチャプスキーはソ連軍に捕えられ、グリャゾヴェツ捕虜収容所に送られてしまう。同房者の大半は後に、ソ連軍による将校の処刑、いわゆる「カティンの虐殺」の犠牲者となった(詳しくはアンジェイ・ワイダ監督の映画『カティンの森』をご覧いただきたい)。

チャプスキーは、同房の仲間たちと「連続講演会」を企画した。すなわち、自分が得意な分野について、毎晩誰かが話すというものだ。そこで彼が選んだのが、1924年の入院中に読んだプルーストだった。彼の「講義」は、まず『失われた時を求めて』の文学史的背景である自然主義と象徴主義の並行関係を指摘し、その代表として画家ドガを挙げる。プルーストは科学的なまでに正確な描写と分析を展開する一方、連想と比喩による喚起力において象徴主義的な作風をもつ作家であり、ドガとの接点がある、とチャプスキーは考えた。

また、『失われた時を求めて』をポーランド語に訳したボイ=ツェレンスキーが、「読み易いプルースト」を作り上げたことを批判した。パスティッシュの得意なプルーストが、あらゆる文体を駆使できるにもかかわらず、あのような文体を選んだことには、作家としての責任を見るべきである、と言うのだ。また、『失われた時を求めて』は、社交界や美や恋愛の空しさを語る点において、パスカルに比すべき作品と見なされる。さらに、フェルメールの絵の前でのベルゴットの死は、晩年のプルーストが「死に対してもはや無関心」な芸術家の境地に至ったことを示している、と考えた。

こうした評価は、通常のプルースト批評からは大きく外れている。しかし、これは収容所にあって、チャプスキーがプルーストのなかに見出した慰めだったに違いない。いつ殺されるか分からない状況にあって、画家は、生の空しさを直視し、死を間近に感じながらも仕事に没頭した作家像を、半ば理想化しつつ、描き出す。本書に見出されるのは、プルーストの「快楽」を語りがちな平和な批評家には見えない、死を前にした厳しいモラリストとしてのプルースト像である。

チャプスキーは、生き残った。しかし、終戦後は共産主義に転じた祖国を離れ、フランスに定住し、亡命ポーランド人の仲間とともに『クルトゥーラKultura』という雑誌を創刊した。この雑誌は、2000年までに637巻が刊行され、ユネスコの「世界の記憶」に登録されている。もちろん、パリのポーランド書店でも販売された。パリ郊外にあるメゾン・ラフィットのチャプスキー邸は、雑誌の編集部でもあった。彼の厳しくも温かい人柄は、ジル・シルヴァーシュタインの感動的な回想に詳しい。

『プルースト、堕落に抗して』は、獄中のメモと記憶をもとに、1943年にフランス語でタイプ原稿が作られ、1948年にポーランド語訳が『クルトゥーラ』に発表された。僕が入手したフランス語版は、1987年にNoir sur blanc社から刊行された。この出版社は、ポーランド語やロシア語の書籍のフランス語訳と、各国語の書籍のポーランド語訳の両方を刊行しており、パリのポーランド書店も拠点の一つである。本書はその後、文庫版も刊行されている。

晩年のチャプスキーの姿は、デヴィッド・リンチやゴダールなど、5人の監督が参加したオムニバス映画『パリ・ストーリー』(1988)に収録されている短篇映画「プルースト、わが救い」(アンジェイ・ワイダ監督)で見ることができる。この本の刊行の翌年に取材したもので、陰影のある室内の風景のなかで、しわがれた声の老人が、プルーストに支えられた捕虜収容所での生活を振り返っている。極限状態にあって、外国文学が精神の「堕落」への抵抗の根拠となったことは、驚くべきことである。しかし、あり得ないことでもない。外国語の読書が、それほどまでに深く受容されることもあるのだということを、この「戦場のプルースト」のエピソードは示唆している。

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2020年03月16日

『パリは燃えているか?』ドミニク・ラピエール&ラリー・コリンズ

パリ解放−と聞くと、思い浮かぶのがモノクロのニュースフィルムの映像。満面の笑みをうかべたパリ市民。美しいパリジェンヌ達の大歓迎を受ける陽気なアメリカの兵士達。フランスの地を再び踏んだド・ゴール将軍。つらい時代が終わった良き日、お祭り騒ぎの日、という漠然とした印象を持たれるのではないでしょうか。



この歴史的な日にいたるまでのプロセスに焦点をあてたのが、今回ご紹介するノンフィクション。「パリを失うのはフランスを失うのと同じ」と考えるヒトラーの厳命によりパリを爆破する準備を着々と進めるドイツ占領軍と、ド・ゴールの執念に押される形でようやくパリへ進路を向けた連合国軍の2つの勢力の動きを丹念に追い、パリが「あの日」を迎えることができたのは必然ではなく奇跡に近いことであったことをを教えてくれます。また、パリは無傷で解放の日を迎えたわけではないことも明かされます。連合軍を待ちきれず蜂起した市民とドイツ軍との間で血が流され、連合軍入市後も抵抗するドイツ軍との間で戦闘が行われたのです。解放後のフランスを巡るド・ゴールのフランス臨時政府とレジスタンスの共産党グループの思惑とかけひきも書き込まれていて、きれいごとで終わらせないのもこの本を深いものにしています。

しかしこのノンフィクションが数多ある歴史秘話本の一冊とならず、今なお血の通った名作として読み継がれているのは、パリ破壊の最終指令を下せなかった占領軍トップ、コルテッツ将軍をはじめとした歴史上の有名人を登場人物とする大きな物語を追うだけでなく、その場その時を生きた名もなき人々の数知れぬ小さな物語も徹底的に拾いあつめているからでしょう。解放までの1944年8月の数週間の一日一日が、こうした人々の取ったてんでばらばらな行動と発言をモザイクのように組みあげて再現されています。ワンカット、ワンシーンの積み重ねが1本の映画になるように、一人一人が何をし何を話したかが積み重ねられ、この本を作っているのです。軍人、レジスタンス、刑務所から強制収容所へ列車で移送される人々と、その列車に乗っている夫を自転車でどこまでも追いかける妻。ドイツ兵と逢い引きするパリジェンヌ。市内に潜伏するアメリカ兵。解放後の大もうけを狙ってパリで興行を準備するサーカス団長。劇的なことも、ユーモラスな話も、雑多な一コマ一場面が、ごく簡潔な言葉で鮮やかに描写されています。ひきしまったいい映画の印象的な場面を見るかのように。

こちらが思うよりはるかに多くの人が、レジスタンス運動に関わっていたのにも驚かされます。当時のフランス人の誰もがレジスタンスだったわけではないのは事実ですが、それでもあらゆる階層の数知れない人々が、細分化された任務を秘かに果たしていたのです。人をかくまったり、自転車で情報を運ぶ等日常生活の一部を活動に捧げた人、「煙草を買いにいってくる」と言い残して、自由フランス軍に加わるため北アフリカへ向かった人。貢献の仕方はそれぞれです。が、その行動に「愛国心」といった大きなスローガンが見えないのが印象的でした。誰のためでもない、ただ今の状態を受け入れることが私の信義に背く事だから、動く。そうした一個人の決断が結果として歴史を動かしたのです。

名著と言われつつも長らく絶版でしたが、この度ついに復刊されました。上下巻ある長い本ですが、ぜひ腰を据えて、頁をめくってみて下さい。(この本を原作にしたオールスターキャストの映画を見たからいいやと思っているあなたにはぜひ。本当におもしろいところを知らずにいるなんてもったいない!)読み終わった後、パリの街が違った目で見えてくるでしょう。時を告げる教会の鐘の音も、特別な思いで聞くはずです。


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2020年03月03日

『ルイーズ・ブルジョワ 糸とクモの彫刻家』 エイミー・ノヴェスキー

子供向けの伝記、というのは立派な業績の持ち主についてのものだとばかり思っていた。遠い昔買い与えられたその手の本は野口英世にリンカーン(おぼろげながら記憶に残っているのはたわいもないことばかり―結婚前は毎日同じメニューを外食していたとか木の葉を詰めたおふとんとか)。だから、ルイーズ・ブルジョワの人生についての絵本があると知ってたいそうびっくりした。



現代アートの人である。その作品の多くはわかりやすい美とかけ離れている。どう見ても男性のナニであるオブジェを小脇に抱え、婉然と微笑むメープルソープ撮影のポートレートで知られるあのアーティストがどんな風に描かれるのだろうか。

第一次世界大戦が勃発する数年前、1911年のクリスマスにルイーズ・ブルジョワは生まれた(戦前の古き良きフランス文化を知る世代の人なのである)。タペストリーの修復を手がける工房の娘として、時代を超えて生き残った精緻な手仕事をごく身近なものとして育った。パリ郊外の川辺のみずみずしい自然と芸術的な空気が共存する世界で過ごした子供時代を描いた頁は、とても魅力的だ。こういう色鮮やかな記憶があのアーティストの深奥にあったのかと少なからず驚いた。

自分とその周囲の世界への探求が創造と深く結びついているブルジョワにとって、その作品の背景として欠かすことのできない存在である両親も登場する。優しくもの静かで、休むことなく手を動かしすり減ったタペストリーを蘇らせていた、心の友でもあるお母さん。工房と顧客とをつなぐ仕事のため不在がちでどこか遠い人だったお父さん。ブルジョワの70年を超える活動において常に影響を与え続けたこの二人のことも、対称的なトーンできちんと描きわけられている(若きルイーズの自殺未遂の原因ともなった、父と身近な女性との不貞についてはさすがに言及がないが)。 

ブルジョワの代表作である金属と石でできたいかつい巨大なクモの彫刻がなぜ「ママン」と名付けられるようになったのかという種明かしもされていて、それはそれで興味深い。が、作品の読み解きよりもルイーズ・ブルジョワのクリエイターとしてのあり方にひきつけられた。この本が焦点を当てた晩年の作品群、ファブリック・ワークスについての頁では、製作の様子がはずむようにいきいきと描かれている。子供の頃から捨てられなくて手元に置いてきた服、ハンカチ、リネンといった雑多な布の山を素材とし、様々なコンセプト、形態の作品が誕生するのだが、布に触れ切り刻み縫い合わせる、忙しく動くブルジョワの手のイメージが浮かんでくる。

広く知られた「功成り遂げた老アーティスト」のブルジョワを描いた絵はこの本には一枚もない。本の創り手たちが伝えたかったのは有名芸術家のストーリーではなく、90才を超えた晩年まで活発であり続けたブルジョワの芸術家のたましいとでもいうべきものなのかもしれない。自分の中へと分け入り、見つけたものを他人の目にも見える表現へと昇華させてきた、真摯なエネルギー。手が止まる日は確実にやってくるが、私の中で鳴りひびくものを止めることはできない。ひたすら糸をはき、思いがけない所に予期せぬ形の巣を作り続けるクモにも通じるところがある。

ブルジョワの作品の他の側面、例えば生理を逆撫でするような感覚、怪しいエロティシズムや凝縮したナイトメアのような怖さ、は登場しない。評伝としては正しくない本かもしれない。しかし創り手が共感したに違いないブルジョワのアーティストとしての「美しい」存在感は確かに読む側に伝わる。晩年のブルジョワの作品のモチーフや「かわいい」色彩感覚を巧みにアレンジして絵の中に忍ばせた、透明感あふれる水彩によるイラストレーションの果たした役割はとても大きいと思う。

子供のための本ではあるけれど、むしろ大人にこそ多くのものが届くのではないだろうか。今年のしめくくる一冊として、自分のために選びたい本だ。


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2020年02月22日

是枝裕和監督、『万引き家族』でカンヌ映画祭パルム・ドール受賞

是枝裕和がついにカンヌ映画祭でパルム・ドールを受賞した。2004年の『誰も知らない』では柳楽優弥が史上最年少で主演男優賞、2013年の『そして父になる』が審査員賞と来ているので、いつかは受賞してもおかしくないと思っていたが、ついに2018年に栄冠を手にした。

1995年に『幻の光』で長篇映画の監督としてデビューから23年。是枝はついに日本を代表する映画監督の地位に登り詰めたと言っても過言ではない。だが、その道は必ずしも平坦だったわけではない。

是枝が『幻の光』でデビューした際、多くのシネフィルはほとんど黙殺したのではないかと記憶する。その理由は、この作品が宮本輝の小説を原作としていることにあったのかもしれないが、何かその朴訥な映像を俄かには信じることが出来なかったように思われる。『誰も知らない』がカンヌで大変な話題になっても、我々はまだ懐疑的だった。「これは柳楽の演技力の賜物ではないのか?是枝の演出がここにあるのか?」という具合に自問し、是枝を映画作家として認めることを留保し続けたのである。



少なくとも私が是枝を意識せざるを得ないと感じたのは、2008年の『歩いても 歩いても』を見たときからである。医者であった父(原田芳雄)と、その父の期待を裏切って家を出た息子(阿部寛)が妻(夏川結衣)を連れ、久々に実家に戻る。当然ながら生じる父との葛藤。母(樹木希林)、姉(YOU)との穏やかな語らい。そして、家族の中で封印された過去…。ここには間違いなく「家族」をテーマにして現代の人間の姿を描き出す映画作家がいた。作品を見るものは、一瞬でも画面から目を逸らすことが出来ないほど、登場人物の一挙手一投足に夢中にさせられたはずだ。

あまりにも話題になった『そして父になる』が「家族」の問題と言うよりも「親子」の問題に収斂したのに対し、『海街diary』(2015)は原作ものとはいえ、再び「家族」に焦点を当てる。普通に考えれば、綾瀬はるか、長澤まさみ、夏帆の三姉妹が暮らす家に異母妹の広瀬すずがやって来るという物語など、商業映画以外の何物でもないだろう。だが、この作品で四人は間違いなく「家族」としての在り方を模索する姉妹として存在しており、そこに母(大竹しのぶ)や大叔母(樹木希林)も加わることで、常に不安定なままの彼女たちの行く末を我々も思いやらずにはいられなくなる。やはり是枝の作品が光輝くのは「家族」をテーマとする時なのだ。



そして、再び阿部寛を主演に据えた『海よりもまだ深く』(2016)では、是枝のオリジナル脚本によって、崩壊した「家族」のつながりを取り戻そうと苦悶する男の姿が描かれる。売れない小説家(阿部)が別れた妻(真木よう子)と息子との関係を振り返る中で、失ったものの大きさをようやくにして悟るという物語であった。普通ならば悲哀を感じさせる主人公を演じる阿部寛は、持ち前の喜劇性を持ちこむことで崇高なまでの域に達している。だが、これは「家族」(とその崩壊した姿)をアンサンブルで造形する是枝の奇跡的な演出力があるからこそ成り立っているに違いない。

そして、最新作は『万引き家族』。仏語タイトルは ≪ Une affaire de famille ≫。ついにタイトルに「家族(famille)」の文字を入れ、正面から「家族」とは何か?という問いに向かおうとしている。この作品にパルム・ドールをもたらした審査員、女優ケイト・ブランシェットが「圧倒させられた」と言い、映画監督ドゥニ・ヴィルヌーヴが「魂を鷲づかみにされた」とまで言う映画は一体どういう映画なのか、それは見るまでは分からないが、我々の期待を裏切ることはないであろう。そして、「対立する人と人、隔てられている世界と世界を映画によって繋ぐことが出来るのではないか」と受賞時のコメントで語る映画作家の真摯な姿勢を疑うことはもはや誰にも出来ないだろう。



小津安二郎、そして木下恵介。日本映画には「家族」をテーマに作品を撮る系譜が確実に存在していたが、そこに是枝を加えることが出来るだろう。彼らは東洋の島国だけの小さな世界を撮っていたはずだったが、いつのまにか普遍的なテーマに辿り着いていたのかもしれない。是枝の映画は、家族を求め続けたトリュフォー、そしてそのテーマに周期的に回帰するヴェンダースのような大作家たちと同次元にあり、そして一層現代的であろうとしている。世界のシネフィルたちは今後も是枝の作品から目が離せないであろう。


posted by 不知火検校


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2020年02月19日

『ファントム・スレッド』

映画『ファントム・スレッド』が公開されるとすぐ、いそいそと映画館へ出かけた。監督のポール・トーマス・アンダーソンもご贔屓だし、主演のダニエル・デイ・ルイスもその演技を見届けたい数少ない俳優の一人。が、ここまで心待ちにしたのは、伝説のクチュリエ、クリストバル・バレンシアガを垣間見せてくれるという前評判を読んだからだ。



主人公はモード界の帝王と讃えられる英国人デザイナー、レイノルズ・ウッドコック。時は1950年代。彼の「城」であるロンドンのアトリエには世界中から金と時間を持て余した女達、成金のヘアレスから貴族階級のマダム、某国の王女様といった方々が押し寄せる。ミュージアム・ピースの域に達した工芸品とでもいうべき彼のドレス―デザイナー自ら針を持ち仕立てた夢のような一着−を自分のものにするために。彼の生活はほぼ100%仕事のために捧げられている。上品な美男ながら華やかな顧客達とは距離を置き、浮いた噂ひとつない。ひたすらデザインし、創作に打ち込む人生に彼が本当に満足しているかは誰にもわからない。

このキャラクターは、脚本を手がけたアンダーソン監督が一から造り上げたものではない。場所をはじめ細かな設定は変えてはいるけれど、そこから透けて見えるのは、1930年代にパリ、ジョルジュV通りにブティックをオープンしてから1968年に突然引退するまでモード界に君臨したクリストバル・バレンシアガだ。今やカジュアルなコットンのバッグのロゴとしてしか認知されていないけれど、モード界を去るまでバレンシアガは「絶対的」な存在だった。

新しいシルエットを提案した等、モード史を眺めてバレンシアガの功績を箇条書きすることはたやすい。しかし、それは「退位」後にまとめられた栄光の残り香に過ぎない。人々をひざまづかせたのは、彼の服の圧倒的な存在感に他ならない。

服は着る人があってこそ輝くもの、美術館に展示されたドレス達は名品といえど何やら寂しげで、影の薄さを感じさせる。が、バレンシアガのドレスは違う。顔のないトルソに着せかけられた状態でもそれはただ、美しい。

しかも、バレンシアガの服を着た人はもう他のメゾンの服が着れなくなる、と言われるほど着心地がいいのである。空気のように身体を包み、鏡に映せば体型の七難をきれいに消してあなたを美しい人に変える。

当然のことながらお値段も立派だ。手の込んだドレスを一着オーダーすれば、当時の平均的な男性の年収に匹敵する額が請求された。しかし、そんな請求書を眉一つ動かさず受け取れる身分の選ばれた大人の女達が、絶えることなくメゾンを訪れた。また、欧米の高級百貨店は、2倍の金額を払って服のデザインを買い、モード誌の読者である顧客にぐっとお求めやすいコピー商品を販売した。社交界から都会の片隅までその名が知れ渡った、パリ・モードの代名詞−バレンシアガ。しかしデザイナー本人は、その名声にも関わらずその姿をメディアの前に曝すことはほとんどなかった。

正式なインタビューの依頼に応えたのは引退後の一度きり。エキゾチックな美しい容姿に恵まれたにも関わらず写真に取られるのも、マスコミに取り巻かれるのも嫌い。心を許した少数の人々としか付き合わず(法外な金を落とす「太い」お客様でも親しく接するとは限らない)、生涯独身を通す。「バレンシアガは実在しない」というデマがまことしやかに囁かれた程、謎めいた人物だった。

両腕ともに利き腕という驚異的なドレスメーキングの才能にも恵まれ、デザインを描くだけでなく腕利きの仕立て職人やお針子達に混じって白衣姿で針を持ち続けた。寡黙で、己に厳しい人だった。拍手喝采で終わったコレクションの後、スタジオでお披露目したばかりの作品を引き裂いていたという逸話も残っている。それまでの人生を振り返って、「犬の生活だった」と後年語っているが、その表現には自嘲を超えた重さがある。

映画は、そうしたバレンシアガの仕事の現場を、メゾンのインテリアや顧客のために用意された椅子に至るまで「ウッドコックのブティック」として再現している。モノクロ写真でしか知らない伝説の場所、そして固唾をのむ顧客達の沈黙が支配したというサロンでのコレクションの発表―デザイナーが選び抜いた無表情のハウスモデル達が、番号札を掲げて室内を一回りするだけの簡素きわまりないもの―も見せてくれた(覗き穴から客の様子を伺うデザイナーの姿も含めて)。伝え聞いて妄想してはみたものの、実際にスクリーンで見たそれは胸を躍らせるものがあった。ダニエル・デイ・ルイスも、バレンシアガが漂わせていただろう厳しさと情熱を体現して見せてくれた。(バレンシアガの上客だった、満たされない人生を送ったアメリカのビリオネアの女性もしっかり登場していた)。バレンシアガのものとは違うけれども、ドレスの美しさも堪能できた。

しかし、監督自ら語っているように、バレンシアガはあくまでインスピレーションを授けてくれた素材でしかない。レイノルズ・ウッドコックとクリストバル・バレンシアガは似て非なる存在だ。その違いを通して眺めると、また興味深い。

ウッドコックの美への献身は、ごくプライベートな欠落感が原動力になっている。美しいものに魅了されていて、それを我が手で創り出すことに執着はしているものの、どれだけ仕事をしても欠落感は深まるばかり。塞がることのない穴をどうにかしようというあがきが、デザイナーとしてのウッドコックを突き動かしていたように見える。

バレンシアガは、生活してゆくために針を持った。スペイン、バスク地方の漁村に生まれ、12才で船乗りだった父を亡くし、お針子として兄妹を養う母を助ける立場にあった。雇われの身から起業しついにパリで成功してからも、スペインに残る妹達とその家族がバレンシアガ・ブランドに携わり立派に生活できるよう取りはからった。数多い従業員のことを考え、税金に頭を悩ませる経営者でもあった。

一方で、美しい服を作ることは幼いころからの望みだった。避暑のためにバレンシアガの村を訪れるカサ・トレス侯爵夫人のドレスの補修を母がしていたため、最新のパリ・モードのドレスに接していたせいもある。12才のバレンシアガはある日、高貴で洗練された美しさで名高い奥様の前に進み出る。「パリでお作りになったそのドレスと同じものを作ってみせます。」出入りのお針子の息子からの唐突な申し出に驚きつつも、侯爵夫人は必要な材料と道具を与えてみた。そして、立派に仕立てられたドレスを手に入れたのだ。侯爵夫人の口添えもあって、バレンシアガは都会に出て仕立て職人の見習いになる。美を探求することを許されたもの、アーティストであることの誇りが、彼を奮い立たせ続けたのかもしれない。

ウッドコックはついに欠落感を埋めてくれる、彼の追い求める美とはほど遠い女性と巡り会い、「幸せ」になる。しかし、欠落感が埋まり彼を縛ってきたものから解放されたことで、デザイナーとしてのウッドコックは緩やかに、確実に凋落してゆく(沢田研二の名曲の一節「男と女が漂いながら/落ちてゆくのも幸せだよと」が思い出されて仕方なかった)。この落ちてゆくめくるめく陶酔感が、この映画の本当の狙いであり美味なところだ。

バレンシアガは、引退後隠者のような生活を送り、ほどなく他界する。世間で言うところのわかりやすい幸せとは縁のない人だったかもしれない。しかし彼はウッドコックのような欠落感を味わうことはなかった。まず、心から愛したパートナーがいた。フランスとロシアの血を引くウラジオ・ダタンヴィルだ。貴族の出でバレンシアガが志した洗練された美を体現する人でもあり、スペイン時代からパリで名声を得るまで数十年の日々を一緒に過ごした。バレンシアガのデザインをより素晴らしいものにする帽子のデザイナーとして、ビジネスパートナーとして、バレンシアガを支えるとともに、思うような袖が作れないと煩悶するバレンシアガの苦しみ、クリエイターとしての才能と情熱を理解し慰めてくれる人だった。49才の若さでダタンヴィルが他界した時、バレンシアガは本気でメゾンを閉めることを考えたという。

また、愛する人を失ってからの人生も、光が射さないわけではなかった。息子のような年齢の若いデザイナー、ユベール・ド・ジバンシーとの出会いは少なからぬ意味を持ったと思われる。弟子ではなく商売敵であるにも関わらず、バレンシアガは自分のことを心から尊敬するジバンシーを見守り、手の内を披露し、仕事について親しく対話することを楽しんだ。美しいものの探求とそれを実現する技について語るに足る相手を得たことは、バレンシアガのデザイナーとしての晩年を潤いのあるものにしたに違いない。そのデザインはますます冴え渡った。当時発表された装飾的な要素を削ぎ落としたシンプリシティを極めたドレスは、時の移ろいをものともしない強い美しさを放っている。そして1968年、バレンシアガはメゾンを閉める。人生を彼の服で彩ってきた忠実な顧客達を心から信頼するジバンシーに託して。

人生いろいろ、である。どちらがいいということを言い出すだけ野暮だとは思う。しかし、厳しい道を歩んだバレンシアガが晩年に作り得た作品は、彼の献身に応えて天から投げられた花束のようなものではないか、と思うのだ。

この映画は音楽も素晴らしく、ドレスが放つうっとり感に見合う音が用意されている。トレイラーを見るよりまずこの音楽に接して頂ければ、映画の雰囲気がしっかり伝わると思う。
https://youtu.be/bT_XjcdgT6g

故郷ゲタリアにあるクリストバル・バレンシアガ美術館の所蔵品の映像。圧巻です。
https://youtu.be/VGrwn24aN_A


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2020年02月16日

『BPM ビート・パー・ミニット』

『BPM ビート・パー・ミニット』を見た。2017年のカンヌ映画祭グランプリ受賞作。1990年代初頭のフランスでエイズ患者の権利拡大やエイズを巡る諸問題の解決を目指し行動するグループ、「アクト・アップ・パリ」に参加した人々とその戦いを描いた映画だ。 グループには、HIVポジティブと判定された当事者やその家族もいる。そしてゲイ、レズビアンであるとカミングアウトしている人々も多数関わっていた。



その活動はけたたましく、過激だ。啓発ポスターを貼る、会議で発言する、デモをしビラを配布するといった世の理解が得られやすいこともする。が、そこで終わらない。きれいごとばかりの公的シンポジウムや患者への配慮のない製薬会社に殴り込みをかけ、ホイッスルを吹き手製の血糊をまき散らす。授業中のリセのクラスに乱入、生徒にコンドームを配り超実用的なエイズ予防のゲリラレクチャーをする。祭りの屋台の水ヨーヨーが顔にダイレクトヒットしたような、そんな衝撃を受けた。

なぜそこまでやるのか?それは、黙っていては誰も何もしてくれないことがはっきりしているからだ。当時、エイズのことを「社会の鼻つまみ―宗教的なタブーを犯しているペデやら売春婦、ジャンキー(注射器の使い回しで罹患していた)やら−を一掃してくれる恩寵」とのたまう輩も決して少数派ではなかった。「悪癖」のない自分達には関係ない、というスタンスを社会が取り続ければ、エイズは病気の知識のない人々を巻き込み、蔓延する。

またHIVポジティブの告知から一足飛びに死に向かうわけではない。感染後も人生は続く。だからこそ社会に対し感染者の存在を主張しなければいけない。今現在も続くあからさまなヘイトを恐れ性的志向を隠してきた人も、「エイズ患者であり同性愛者でもある私」の存在を世間に認めさせなければならなかった。普通、私は病気ですと外に向かって大声でアナウンスすることなんかしない。しかし声をあげなければ、戦わなければ、いないも同然に扱われ、日陰の身として生きてゆかなければならない。どうしてそんな目にあわなければならない?確実な治療法もない状況で、グループの若いメンバーや身近な友人がT細胞の数を減らし、発症し一人また一人と命を落としてゆく。やるしかないのだ。

当時、グループのメンバーだった監督ロバン・カンピヨが、かつて自分がいた場所についての映像作品を撮るにあたりドキュメンタリーではなくフィクションを選択したのはとても自然なことだったのだなと思う。過激な活動を記録した当時のニュース映像やインタビューをつないでも、仲間達の「熱」は伝わらない。感情の暴発と取られかねない行動の一つ一つが、メンバー間の激論の末採択され実行されたものだったのであれば尚更だろう。

この映画の見せ場の一つはミーティングの再現場面だ。政府や製薬会社に対する要求といった活動方針の決定からポスターに使うキャッチコピー選びまで、手話も交え全てをみんなで話し合って決める。ディスカッションはルールに乗っ取って進行する。例えば、賛意を示すときは拍手ではなく指を鳴らす(やかましくならないようにという配慮らしい)。大学の大教室とおぼしき会場いっぱいの人々が一斉に指を鳴らす場面は壮観だ。


議題はシリアスだが、しかめっつらした人の集いとはほど遠く、軽口や陽気なやりとりも飛び出す。ミーティングは「出会い」の場でもあった。ただ、参加者は遠慮なく意見をぶつけあう(これは俳優達が演じるお芝居なのだというお約束を忘れそうになる程だ)。言葉とその裏にある思いの応酬に煮詰まり、みんなが疲弊しどんよりすることもある。でも会場の外で一服ふかして、また戻ってくる。逃げるわけにはいかないことをわかっているから。

みんな知っているのだ。この病気は普通に暮らしてきたす誰の身にも起きることを。ティーンエイジャーの頃初恋の人と思いを遂げた結果感染し、青春時代を「未来のエイズ患者」として生きなければならない人もいる。彼に非があるとするなら、それは病気のことを知らなかった、それだけだ。検査をクリアできた人も、それまでたまたまラッキーだっただけ。

しかも、エイズは愛をひどく複雑にする。相手に対しどれだけ誠実でいられるのか。感染の事実を伏せておくのか、それともきちんと伝えるのか。感染していることも「込み」で相手を愛せるのか、踏み込まずにおくのか。そして互いにあきらめるのか。人を好きになれば、自分が相手とどう関係していくのかをいやでも考えなければならない。でも、恋に落ちてしまうものなのだ。

激しいアクト・アップの活動と隣り合わせに日常があり、メンバー達もそれぞれの毎日を生きていることも映画はしっかり描いている。フツーの若者としてアメリカ発の最新の音楽をチェックし、お気に入りの曲を集めたテープを交換したり、みんなでクラブにも踊りにいく。この映画でたくさん流れるのは、踊りの場でかかっている当時のハウス・ミュージックだ。映画の原題“120 battements par minuite”も、ハウス・ミュージックの典型的なテンポだったりする。まさに時代の音だ。

照明を落としたクラブで規則正しいビートに身体をゆらして、私を消して踊る姿を見ていると、いろいろと考えてしまった。「踊るならファンク」派で、刺激的でどうにもたまらん音に踊らされ巻き込まれる楽しさが気持いいと思う人間だ。だから、ハウス・ミュージックは詰めが甘く単調に感じられて積極的に聞いてはこなかった。しかし、この淡々としたパッシブな感じこそがこの音楽のキーなのかと思う。他人の視線を意識しなくていい、踊る人本位のダンス・ミュージックなのだと。踊りながら私の中にもどんどん沈み込んでゆけるし、互いの心音を聞くように相手の中へも入ってゆける。それはある意味とても自由で、踊る人を開放してくれる音楽だったのだなと。踊る「アクト・アップ・パリ」のメンバーの背景で流れていた、当時のハウス・ミュージックを代表するこのトラックは、映画を見てしまった今まったく違った顔で耳に届く。

聞いてみたい方はこちらでどうそ。
https://youtu.be/ZUsE5Rx-emk


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2019年04月02日

『新世紀 パリ・オペラ座』

パリ・国立オペラ座。17世紀に設立されてから世界中の才能を招き寄せ、延々とオペラとバレエの公演を続けてきた。ロッシーニやヴェルディの名作、バレエの古典『ジゼル』や『ラ・シルフィード』を初演している。1875年開場の豪華絢爛なネオ・バロック形式の劇場、ガルニエ宮と1989年に建てられたオペラを主に上演するモダンな第2劇場オペラ・バスティーユで年間400回近く公演の幕を開け、のべ約8万人もの観客が押し寄せる。擁するバレエ団は世界でも屈指のバレエ団として有名。



以上がネットでさっくり調べた情報。が、取りこぼしているもののほうがずっと大きいのではないか。フランスの威信がかかった芸術の発信地であり、シーズン初日には大統領もやってくる内外国の要人が集う社交の場であり、300年もの歴史を背負いながらも新演出、新作を舞台にかけて攻める姿勢も失わない、数知れぬ人を巻き込んで生き続ける巨大な生きもののような組織。個人的にそんなイメージがあるが、それでもまだつかみどころがない。音楽・バレエに関心のある方には特別な存在、誰も名前ぐらいは知っている、けれど本当のことはよく知らない―そんなオペラ座を、ノーナレーションで追っかけたのがこの映画だ。

カメラが入り込んだ時期は、何事にも動じないように見えるオペラ座にとってもタフな時期だった。フランスの歴史にも、文化史にも名を刻んだシャルリー・エブド事件とパリ同時多発テロ事件が起こった。オペラ座の内部も大荒れだった。新たな一章の始まりと期待されたバレエ団の新芸術監督バンジャマン・ミルピエが一年半であっさり退任してしまったのだ(奇しくも就任時の華やぎと退団時の冷ややかな空気をカメラは捉えることになった)。職員のストライキ、開演間近の出演アーティストに絡むごたごた(実はどの大劇場も経験する災難)はまだ小さなトラブルのレベルだ。

身震いするオペラ座を内側から眺めるにあたり、視点を提供してくれる二人の人物が選ばれた。一人はオペラ座総裁ステファン・リスナー。一番偉い人である。どんなハイソでシックな人物かと思いきや、親しみやすい笑顔を振りまく恰幅のよいビジネスマン然としたおじさん。10代で小劇場を立ち上げたのを振り出しに裏方仕事から舞台監督まで幅広く経験を積み、パリ管弦楽団のマネジメントやシャトレ座などの有名劇場の運営、国際音楽フェスティバルの総監督と音楽・舞台の仕事にずっと携わってきた業界の大ベテランだ。2014年にオペラ座のポストを引き受ける前は、イタリアのミラノ・スカラ座を取り仕切っていたというというから、その手腕の程がうかがえる。

が、そんな辣腕をもってしてもさばききれないほど、やるべきことは押し寄せる。上演演目についての議論といった「本来の」お仕事から1000人を超える職員の処遇の問題、コアなファン以外の人々も呼び込めるようなチケットの値段設定といった今後の展望、おカネに絡む問題にも取り組まなければならない。観劇に来た大統領のお相手だって務める。大統領のボックス席のどこに座ればその夜の業務をこなす上でベストなのか、なんてことまで自分で考え、決めなければならない。

ここまで公にしてしまっていいいのかとびっくりするような言動もカメラは収めている。特にミルピエ退任までのやりとりはスリリングだ。(噂される退任の原因が見えてくるようなミルピエ本人のショットがちらりと出てきたのも興味深い。)将来を預けたアーティストの意向を最大限尊重したくもあるが、とにかく舞台の幕を開けなければならない。アーティストと一緒に立ち止まるわけにはいかない。難題を前にしたときのリスナーのしたたかさと行動力は見物だ。8階にある総裁の部屋の壁面はガラス張りになっていて、オペラ座前の風景が一望できる。まさに下界を睥睨する部屋なのだが、その場所に陣取る男の立場で眺めるオペラ座は人間くさくておもしろい。

もう一人は駆け出しのバリトン歌手、ミハイル・ティモシェンコ。ロシアはウラル地方の片隅から声を頼りにドイツへ留学(事実耳に残るいい声なんである)。将来のスターを育てる人材育成プログラムのオーディションに受かって、オペラ座へやってきた。ドイツ語はまあまあ、英語はナントカ、フランス語は大丈夫?というレベルの純朴そのものの黒髪の青年は、新参者としてオペラ上演の現場を歩き回る。カメラが捉える彼の視点から見た世界はわくわくすることばかり。(有名オペラ歌手の素顔だけでなく、オペラ上演の裏側もたっぷり見せてくれ、オペラファンにはお楽しみが多い。)尊敬するあの歌手が僕に声をかけてくれた、ファンではなく歌手の一人として!まだ20才そこそこ、舞い上がったり落ち込んだりと忙しいミーシャ君が成長してゆく姿もカメラは追う。借りものの上着を着ているようだった彼のフランス語の歌がどうなってゆくかは注目だ。

そしてこの映画は、さらにもう一つ視点からオペラ座を眺めている。オペラ座を支える裏方仕事への眼差しだ。細かいショットを積み重ねて紹介されるのは、併設のレストランの調理場のスタッフから舞台裏の人々のためのアナウンス係まで実に様々。衣装を洗う、アイロン掛けするといった数えきれないほどの細かい仕事があり、それだけをこなす人がいて、なんとか回っているのである。奇抜なオペラ演出のために特別に投入した「あるもの」を世話する人も登場する(何であるかは見てのお楽しみ)。どんな職場でもある対個人レベルでの細かい気配りやフォローが公演を支えているのがよくわかる。スマートフォンがスタッフの仕事を増大させているのも興味深い。時代とともに内容に多少の変化はあってもなくなりはしない舞台裏の細かな雑用を、人対人の細やかなやりとりでこなし続けてきたからこそ、オペラ座は生きながらえてきたのだ。

立場が違い、職場が違い、歩む道が違う。直接顔を合わせることすらないかもしれない。しかし、巨大な劇場のあちこちで働く人々が最終的に目指しているのはただ一つ。舞台の幕を開け、高揚した観客を送り出すこと。このベクトルが「巨体」を動かし続けてきたのだと実感する。2017年9月に今シーズンの幕は開いた。オペラ座はまた一年を生きながらえる。


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2019年03月24日

『ロダン カミーユと永遠のアトリエ』

実在の人物を描いた劇映画は、大なり小なりヒーロー、ヒロインの映画になる。映画のおもしろさは、ヒーロー、ヒロインの側へ観客をひきこめるかにかかっている。だからこそ、映画の作り手は前へ進むヒーロー、ヒロインの傍らにいて、その人生のアップダウンに半ば巻き込まれてもいる。



芸術家として名を為した後のロダンの人生についての映画を作るにあたり、ドワイヨン監督は逆にヒーローであるロダンから距離を置いた―画家とイーゼルの向うがわにいるモデルのような位置関係に。

映画そのものはバイオピクチャーの王道から外れてはいない。写真で目にした数々の代表作が完成してゆくプロセスが見られるなど興味をそそるエピソードがたくさん盛り込まれ、歴史に名を残したあの人この人がちりばめられてもいる。しかし、ロダンの人生をよりおもしろく見せ観客を高揚させるような積極的なしかけはない。ロダンのことを世間がどう思っているかすらも伝え聞き程度にしか明かされない(ロダンの作品を見た当時の人々の生なリアクションはほぼ排除されている)。演出を支えるオーダーメイドの映画音楽も控えめだ。耳につくのは窓の外から漏れ聞こえる鳥の声や生活音。映画全体が、ある種の静謐さに包まれている。

そして、観客に自然の光の存在をおおいに意識させるような画面作りが随所に見られる。同時代の印象派の画家達がおもわず筆を取りたくなるような光線の濃淡の中で、ロダンの人生は展開してゆく。スクリーンのこちら側にいる者は、のめり込むどころかそれこそ「ロダンの一生」という絵本を眺めているかのような気にさせられる。

しかしこの距離感こそが、とっちらかったロダンの人生を語るのに必要だったといえる。40才過ぎまで世間から顧みられなかったことから生じたコンプレックスと屈折、彫刻家としてともに美しいものを目指す理想的な若い恋人カミーユ・クローデルにめろめろになる一方、苦しい日々を支えてくれた内妻ローズがもたらす平穏を捨てきれず、優柔不断で非力な立場につい甘んじてしまう。いい女達には手を出さずにおられないし、こんこんと湧き出るエネルギーに身をゆだね、ひたすら描いて作って―なんともぐちゃぐちゃ。が、ぐっと引いた視点から眺めると、「芸術家だからしかたがないか」と見ない事にしていた「裏」ロダンとも向き合える。ヴァンサン・ランドンが演じる権威を感じさせないロダンを見ていると、この人なりにせいいっぱいやってきたのだななどと思ってしまう。とても肯定できないけれど。

ウィキペディアに列記される類の大きな出来事とおなじぐらいの熱意をもってロダンの日常がていねいに描かれていることも、ロダンへの眼差しを変えてくれた。倉庫のような粗末な空間に粘土と石膏の大バケツ、作りかけの作品、手足のパーツがあちこちごろごろしているアトリエ。そこらへんで奇抜なポーズを取る、きれいなはだかの娘たち。華やかな場所とは縁遠い、汚れた仕事着姿。天才と呼ばれた芸術家も、私たちと変わらず何の飾り気もない日々を積み重ねている。遠いのだけれど、私とは違わない人がそこにいる。

静かなトーンの映画の中に強い色を持ち込んでいるのが、カミーユ・クローデルとの物語だ。『サンバ』で勝ち気なボランティア嬢を好演したイジア・イジュラン(元々はシンガーで兄はアルチュール・H、女優のキャリアは浅く本格的な映画出演はまだ数作目というからはびっくり)がスクリーンに登場させたクローデルは、伝説の麗しきアーティストではなく今のおっさんも惚れてしまうような活力と内面からの魅力に溢れた娘(こんな感じではななかったのかしらんと想像していた通りのクローデル像で、個人的に大いに納得)。ロダンが恋に落ちるのは当たり前―。

だから、彫刻家同士という特殊な立場ではあるものの、今も世のあちこちにいるだろう、同じ理想を目指して歩む惚れた同士の男と女としてロダンとクローデルは描かれている。甘いささやきから身を切るような言葉の応酬まで、二人の間の愛憎は実在の有名人という断り書きをはずしてもLoversの物語として見応えがある。

この映画の中で最も密度の濃い瞬間も、二人の物語の中にある。ピュアな蜜月から少しづつ醒めてゆく前のロダンとクローデルが、クローデルの新しい作品、男女の踊る姿をモチーフにした「ワルツ」を前にしてぎこちなく踊る。踊れないくせにとからかわれつつも手を取り腰を抱くロダンと、相手に身を委ねおぼつかなくメロディを口ずさむクローデル。数分もない短い場面だが、あからさまな「愛する二人」のショットをどんなに重ねても作り得ない、言葉にできない万感の想いが凝縮されている。こういう瞬間に会えるからこそ、映画はやめられない。

細部の美しさにもふれておきたい。室内の調度やろうそくの灯り、風になびくカーテン、といった何気ないものにも目がいく作りになっている。時代物映画にありがちな、今とは違う世界だったのねと認識させるだけの時代風俗のリアルな再現とは趣向を異にする。ロダンの生きた時代に今の観客を自然に溶け込ませる配慮のようにも感じる。

映画は最後の最後に観客を思わぬ所へ連れて行く。びっくりされる方も多いかと思う。そしてこうも思われるかもしれない。これまで劇場の暗闇でひとときをともにした、100年前にこの世を去った男と私とはつながっているのだと。

映画館に行く前に、ちらりとウィキペディアなぞ眺めておかれることをおすすめします。よりすんなり映画が入ってきて、深く楽しめるかと。


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2019年03月20日

『ルージュの手紙』カトリーヌ・ドヌーヴ&フロ主演

原題の Sage femme は「助産婦」の意味だが、邦題は『ルージュの手紙』である。ダブル・カトリーヌ主演なのに「助産婦」なんてあまりに地味なタイトルだからだろうか。確かに「ルージュの手紙」が登場するのだが、ユーミンの「ルージュの伝言」に似せて潜在意識に訴えようという作戦なのだろうか。



カトリーヌ・フロが演じる助産婦のクレールは49歳という設定だ。自分と同じ世代なので、とても身につまされる話でもある。アラフィフと言えば、これまでの人生を振り返り、人生の決算にとりかかりつつ、まだしばらくのあいだ残された人生を、しかしいつ中断されてもおかしくない人生を見つめざるをえない時期である。

助産婦のクレールは、確実に経験と実績を積み上げてきた。それが自分の仕事に対する自信と誇りにもなっている。20年以上も前に取り上げた赤ん坊が大きくなり、自分の出産のときに再び同じ病院に来るエピソードがある。あなたは命の恩人だと感謝されるが、それは母親が危険な状態になったとき、血液型が一致したクレールが自分の血液を提供したからだ。クレールには息子もひとりいて、やがて孫が生まれる。使命感を持って仕事をして、愚直に生きた。悪くない人生だ。しかしひとつだけ心にひっかかっていることがあった。その当人、継母のベアトリスが突然彼女の前に現れる。

再会したベアトリスは自由奔放に生きてきたツケを払っている。ベアトリスはカトリーヌ・ドヌーヴが演じているのだが、あまりにエレガントで重病人には見えない。役柄においても自分のスタイルを決して崩さないドヌーヴならではの演技は、醜態をさらすくらいなら死を選ぶんだろうなと自然に思わせる。クレールが「キスだけで人を幸せにできる」とその点については評価するように、ベアトリスの華やかな魅力は天性のもので、地道な努力によって人生を積み上げてきたクレールとは対照的だ。しかしクレールはベアトリスに少しづつ影響され、人生を楽しむことを学ぼうとする。

この映画が時代を反映しているとすれば、新しい生命の誕生を通して、経験と先端技術を対比させているところだろうか。クレールは最終的に「赤ん坊工場」で働くことではなく、自分が蓄積した経験を伝えることを選ぶ。映画で「赤ん坊工場」と揶揄される新しい病院のマネージャーは、「ここでは sage femme という言葉は使わず、新しく maïeuticienne (助産師の女性形)という言葉を使う」と宣言している。つまり経験に基づく昔ながらの「助産婦」と、最先端のテクノロジーによって高度に管理された医療システㇺで働く「助産師」が対比されている。前者の経験を支えるのが助産婦たちの手だ。

私自身、助産所で子供の出産に立ち会い、自分の手でへその緒を切った経験があるが、陣痛の波がやってくるたび、どこからともなく伸びてくる千手観音のような助産婦さんたちの手が印象的だった。出産の苦痛と孤独を癒すのは機械ではなく、「手厚い」ケアなのだ。かつての助産婦さんたちが介在する出産は、男尊女卑の伝統がベースにあり、女性によって囲い込まれたものだったが、近年は、カップルの関係性と選択において男が出産に関わるようになっている。クレールも出産に立ち会う際には積極的に男に出産に関わらせている。さらに外科医を目指して医学部に在籍しているクレールのひとり息子、シモンは助産師になりたいとさえ言い出す。クレールは女の仕事だと反対はするものの、シモンの意志は固い。こうやって医療側の意識も環境も変わっていくのだ。

時代の反映と言えば、複合家族的な関係もそうだ。クレールとベアトリスは、1970年代にオリンピックの水泳選手だったクレールの父親(=ベアトリスの夫)に生き写しのシモンを通して、共有する男の記憶を鮮明に蘇らせる。ベアトリスはシモンと別れるとき、死んだ夫を思い出すように彼の唇にキスをする。血がつながっていないからこそ、ある種人工的で倒錯的な絆を作る必要があるのだ。さらに彼らの関係を「水」が媒介する。それはパリを横切り、蛇行しながらクレールの住む郊外のイヴリーヌ県を巡るセーヌ川だ。水泳選手の祖父から水との親和性を受け継いだシモンがセーヌ川で泳ぐ姿を遠景で撮ったシーンが印象的だ。1923年に遊泳禁止になったセーヌ川も今や水質が改善し、泳げるようになっている。まさに2024年開催のパリ五輪ではセーヌ川で水泳競技が行われる予定だ。失踪したベアトリスは、シモンと水の中で出会えたのだろうか。


cyberbloom


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2019年03月16日

『ブレードランナー2049』ードゥニ・ヴィルヌーヴは電気羊の夢を見たか?

近年、映画業界ではフランス系カナダ人が熱い。その筆頭とも言うべきドゥニ・ヴィルヌーヴが、SF映画の金字塔として名高い『ブレードランナー』の続編を監督するというニュースが流れたとき、いかに今を時めくヴィルヌーヴとはいえ、そんなことが可能なのかと誰もが思ったに違いない。 だが、『ブレードランナー2049』は大方の予想を裏切り、一定程度の水準を維持したとは言えよう。



1982年にリドリー・スコットが監督した『ブレードランナー』の原作はフィリップ・K・ディックの『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』(朝倉久志訳、ハヤカワ文庫、1977年)。ディックの原作はSFの設定を借りたセリ・ノワール(探偵小説)であり、彼の多くの作品がそうであるように、すべての展開が迅速に進む為、読者が深い感情を寄せるような暇もないまま終わってしまう淡々とした小説だった。その「軽快なノワール」の部分に大幅に加味された叙情性(リックとレイチェルの恋)、そして、シド・ミードの美術とヴァンゲリスの音楽が相俟って、何度観ても魅力の尽きぬ傑作が完成する(この作品に関しては、加藤幹朗『「ブレードランナー」論序説 映画学特別講義』筑摩書房、2004年の詳細な解説が役に立つ)。

2019年を舞台にした前作に対し、今回はその30年後の2049年が舞台。作品そのものは35年後の映画化となる。リックを演じたハリソン・フォードは前作では40歳だったが、本作では75歳。まず、ハリソンが出ているだけで前作ファンが泣いてしまうのは当然かもしれない(それにしても、1970年代でも2010年代でも現役バリバリのハリソン・フォードとは、一体何という俳優なのだ!)。しかし、彼が現れるのは後半の1時間ほどであり、そこには確かに前作との繫がりを窺わせる興味深いシーンが多々あるのだが、メインとなるのはむしろ今回の主人公Kが活躍する前半部分であろう。

主人公のK(ライアン・ゴスリング)がブレードランナーであり、彼がネクサス型のレプリカントを始末するという設定は前作と同様だが、何よりも違うのは彼自身もレプリカントであるということだ。観客は「レプリカントがレプリカントを倒す」、つまりは「ロボット同士の戦い」を見るということになる為、そこに感情移入するのはどうしても難しい。さらにまた、Kと相思相愛の関係にある恋人ジョイ(アナ・デ・アルマス)はホログラムの「商品」であり、実体としては存在していない。主要登場人物がこのように実体を欠いた存在であるという設定は珍しく、その意味では「希薄」な作品である。

しかし、この「希薄」さが今回の『ブレードランナー2049』の特徴であろう。ここには前作のようなリックとレイチェルの情熱的な愛もなければ、名優ルトガー・ハウアーが圧倒的な強度で演じ切った「レプリカントの最後」のような強烈な場面は全くない。前作が闇の中で蠢く未来の人類・非人類の「生命力」を沸々と感じさせる作品だとしたら、今作ではそのような「ややこしいもの」はきれいさっぱり洗い流されているように見える。

ヴィルヌーヴ自身は「前作が「黒のブレードランナー」だとしたら、これは「白のブレードランナー」だ」と語っていたが、それは単に色彩の点のみならず、映画の本質的な部分に関わる発言だと言って良いだろう。つまり、様々な部分が多くの意味作用を生み出し、多層化・重層化された作品であったの前作に対し、今作は「レプリカントの謎(物語中では「奇跡」と呼ばれる)」の解明に一直線に進んでいくため、極めてシンプルな構造になっている。

その為、ハリソン・フォードが登場して「謎」が一気に解決する後半部分は、物語のテンポは良く、映画としては確かに楽しめるかもしれないが、あの『ブレードランナー』の続編としてはいささか楽観的過ぎる展開だったかもしれない。レイチェル(ショーン・ヤング)の登場には前作のファンならば間違いなく狂喜してしまうけれども、ややサーヴィス過剰と言えなくもない。

しかし、最大の驚きは、にもかかわらず、163分というこの映画の上映時間が、全く長く感じられなかったことだった。それは、ヴィルヌーヴがこの『ブレードランナー2049』という作品の世界を完全に統御し、自家薬籠中のものにした結果、すべての出来事をごく「自然なもの」として提示していたからではないだろうか。「驚くべき世界」であるにも拘らず「当たり前の世界」のように2049年の未来を作り上げてみせたヴィルヌーヴには、やはり一定の評価をしてみて良いと思う。凡人にはこれは出来ない。

そもそも『ブレードランナー』のような傑作の続編を作ること自体が無理な話なのだ。そのようなどう考えても不利な状況で、一定の整合性を構築し、前作が持っていた雰囲気を壊すことなく、映画としての「味」を確かに感じさせる作品を生み出したことは、むしろ驚嘆すべきことかもしれない。大傑作ではないが、興味深い作品であるとは言えると思う。


不知火検校




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