『お父さん、フランス外人部隊に入隊します』は、地方の国立大学を中退し、「就職も決まったので、卒業旅行でアメリカに行く」と身内に告げたまま、フランスに渡り、そのままフランス外人部隊に志願した日本の若者、森本雄一郎のドキュメンタリーである。本の構成は、「おれの育て方がまちがっていたのか」と自問し続ける父親と、雄一郎が兵役中に交わした手紙を骨子にして、著者の駒村吉重が自らの取材で肉付けしたものだ。ちょうど『クーリエ・ジャポン』(2013年6月号)にフランス外人部隊に同行取材したアメリカ人ジャーナリストの最新レポートが載っていたので、それと読み比べてみた。

主人公の森本雄一郎がフランスの外人部隊に所属したのは1994年から1999年までの5年間で、そのレポートとは10年くらいの時差があるが、新兵訓練の内容など、外人部隊に関する記述はそんなに変わらない。ジャーナリストが取材したのも偶然、雄一郎が勤務した仏領ギアナの基地だった。
フランス外人部隊の歴史はルイ・フィリップの時代の1831年にまでさかのぼる。それは多くの戦争に関わり、最も危険な場所に送られてきた。戦死した兵士の数は3万5千人にのぼるが、そのほとんどが、使い捨てられるように無名のまま亡くなっている。そこでは、「無意味な死も悲劇的であれば武勇と証し」という独特のニヒリズムが、高度な規律と忠誠心を保つ世界最強の部隊を作り上げている。
雄一郎本人がフランス外人部隊の存在を始めて知ったのは湾岸戦争のときだ。1991年1月、クウェートを武力制圧したイラク軍に対し、アメリカを中心とした多国籍軍が攻撃を開始した。2月に地上戦が始まろうとしていた。そのとき、日本の一部のメディアがフランスから派遣された1000人ばかりの部隊に注目した。サウジアラビアとクウェートの国境に配置されたフランス陸軍の主力は、フランス外人部隊の第1、第2騎兵隊で、中に多くの日本人青年が混じっていたからだ。そのとき雄一郎はテレビで「外人部隊」という言葉を聞いたのだった。1991年はちょうど雄一郎が大学に入る年で、それが大学3年のとき再び彼の脳裏にひらめいた。そして大学4年の春にはっきりした目標になった。
「いや、ぱっとひらめいたんですよ。本当にそれだけのことです」
![COURRiER Japon (クーリエ ジャポン) 2013年 06月号 [雑誌]](https://images-fe.ssl-images-amazon.com/images/I/61lMItJC3jL.jpg)
雄一郎はフランス大使館から具体的な情報を得た。当時、大使館には月に15本くらい問い合わせがあり、入隊手続きにはフランスの募集事務所に直接行く必要があることを知ると半数が躊躇する。それでも半数がパンフレットの郵送を希望するが、実際フランスに渡るのはほんの少数だった。最近ネット上で話題になっていたが、今やフランス外人部隊の隊員を募集する日本語のサイトが存在する。そこには給料を含めた雇用条件まで書かれている。つまり日本人もターゲットにされているのだ。湾岸戦争の際にクローズアップされたように、活躍する優秀な日本人兵士が少なからず存在してきたからだろう。それは同時にひとつの情報の網の目の中に世界が捉えられたことを実感させるものだ。
この本で最も引き込まれるのは新兵訓練の壮絶なメニューであるが、その最後にはferme (農家)という訓練が待っている。農村のあばら家で寝泊まりしながらの訓練で、メインメニューはフル装備を背負っての行軍だ。銃を含めた30キロの装備を背負って50キロも歩き続ける。それも夕方から始まり、10時間歩き続け、終わるのは明け方近くなる。それが2日に1度行われる。足にまめができ、それが潰れると皮がむけ、傷は肉にまで達するが、傷が回復する暇もなく、痛みをこらえたまま次の行軍が再開する。毎回靴下が真っ赤に染まり、足の裏がえぐられるように傷が深くなる。最終日には丸2日かけての150キロの行軍が待っている。荷物はさらに10キロ増しだ。しかし行軍の終わりには不思議に足の痛みが消えていく。意識が陶酔状態になり、風景が鮮やかさを帯び、輝いて見えてくる。つまりラリった状態になる。睡眠不足と苦痛と疲労が極限にまで達すると、それを麻痺させようと脳内物質が放出されるのだ。
雄一郎の勤務地は南米の仏領ギアナだった。そこにはヨーロッパ諸国が共有するアリアン衛星打ち上げ基地があり、その護衛が重要任務のひとつだ。また『クーリエ』掲載のレポートによると、不法に金を採掘する密入国者たちの取り締まりの仕事もあるという。仏領ギアナは国土のほとんどはジャングルで、マラリアが猛威を振るい、毒ヘビやサソリがうろつく場所でもある。ベトナム戦争を想定するような、大規模なジャングル戦の訓練センターもある。射撃の腕を買われた雄一郎は、そこで狙撃兵養成の訓練も受けている。200メートルで直径3センチの的、300メートルで直径15センチの的と、まるで『ゴルゴ13』の世界だ。著者が兵役を終えて日本に帰ってきた雄一郎に会ったとき、強く印象に残ったのはデューク東郷のような「猛禽類の目」だった。
「おれの育て方がまちがっていたのか」。雄一郎の父親は、息子がフランス外人部隊に志願したのは自分のせいだと思い込んだ。しかしどれだけ考えても、どれだけ内面をつきつめてもわかることではない。答えは彼の中にはないからだ。この本の主人公は雄一郎ではなく、むしろ父親である。彼の息子を理解しようとする誠実な努力、そして彼の中で引き起こされる内面的な変化こそが、非常に文学的な題材である。とめどない言葉は内省の産物だとすれば、軍隊にはそんなものは必要がない。外人部隊の上官は、「質問するな、意見を言うな、意味など考えずに戦え」と命令する。雄一郎はあまり多くを語らない。手紙の中でも正確に事実や欲求を伝えるだけだ。彼に関して印象付けられるのは、淡々としているが、揺るぎない冷徹な意志のようなものだ。
雄一郎が外人部隊に志願したのは、それは若気の至りとかチャレンジ精神としか言いようがないものだ。彼は中学のときソフトボール部で活躍したが、高校では、家が遠くて通学に時間がかかり、部活動ができず、不完全燃焼な感じが自分の中に残っていたという(雄一郎が入学した南宇和高校はサッカーの強豪校で、体格の良かった雄一郎はサッカー部にゴールキーパーとして勧誘されたようだ)。それが実際の感触なのだろう。最近、体罰指導が問題になっている日本の「体育会的、部活動的」現実は、軍隊的な現実と、そうかけ離れていないのかもしれない。
父親は「家族を持たず、自分のためだけに生きる」と言う息子に対して「刹那主義」と書き、息子は「家族のささやかな幸せを願う」父親に対して小市民的と書いた。外人部隊では、ゲリラや密入国者たちが潜む危険な場所に送られ、過酷な訓練の中で多くの仲間が事故死したり自殺したりする。常に死と隣り合わせの現実の中で、殺人マシーンとしての訓練を受けているのだから、日本の日常を生きる父親と世界観や考え方が乖離していくのも当然のことだ。『クーリエ』のレポートでは、アフガニスタンでいつ殺されるかわからない状況で稼いだ6か月分の給料をはたいてアムステルダムで酒と女の1か月間を過ごしたアルゼンチン人兵士のエピソードが語られているが、雄一郎の父親がそんな生活を刹那的というのも理解できる。
黒沢清監督の『トウキョウソナタ』でも、アメリカ軍に志願する若者が世代間の断絶の象徴として登場する。この映画に登場する父親は、ここ10年くらいの雇用流動化の中でリストラに遭い、次の仕事を探そうとするが、専門的なスキルのない「単なるサラリーマン」が不要になっていく状況を理解できず右往左往している。一方で「昭和的価値観」に染まった父親は、自分の子供たちに対しては父親の権威(「ダメなものはダメだ」)を振りかざすだけで、アドバイスするどころか、生きる指針として伝えるものが何もない。アメリカの軍隊に志願する子供に対しても、頭ごなしにダメだと言うだけで、なぜそれがいけないことなのか説得力のあることが言えない。だから子供たちは上の世代が生きたのとは別のルールが支配する世界に、自分自身の選択によって歩き出さなくてはならない。
軍隊のシビアな現実は、しばしば「アメリカの核の傘の下で平和ボケし、思考停止した日本」の現実にぶつけられる。それはちょうど1994年に出版され、「アンダーグラウンド」という日本のパラレルワールド描いた村上龍の『5分後の世界』を思い起こさせる。そこでは強靭な意志と鍛えられた肉体を持つ日本の兵士たちが連合軍と闘い続けている。村上龍は、私腹を肥やす官僚と何も変えられない政治家と前例を踏襲するばかりの無能な経営者がのさばる日本に、5分遅れたパラレルな日本をカウンターとして対置した。
また『フィジカル・インテンシティ』というサッカーエッセイで村上龍は、当時の「集団に逃げ込むようにパスを出す」日本代表チームと、個人の力で世界へと突き抜けて行った中田英寿の「肉体的強度」を鮮やかに対比して見せた。それも1990年代後半のことだ。終わらないダラダラした日常に対して、パラレルワールドの兵士たちや中田英寿のような、強度の象徴であるサムライたちが希求されたのである。
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「お父さん、フランス外人部隊に入隊します」の著者は、雄一郎が外人部隊に入った理由を家族関係に求め、とくに父子関係にその理由を求めようとしている。たとえ父子関係が歪んでいたからといって誰もが外人部隊を志願するわけではない。父親がしっかりしていなかったとか、寛容でなかったという問題では全くないのだ。雄一郎はただ単に自分で人生の選択をし、その結果を引き受けた。それ以上でも、それ以下でもない。考えてみれば、それは近代の根本的な原理なのだ。
外人部隊を就職先に選ぶことは、普通とは違う人生の選択をすると言う意味で、最近、フランスを二分する議論を巻き起こした同性婚も同じだ。自分の息子が帰郷して、同性と結婚すると言われたら、田舎に住む親ならば著しく取り乱すだろう。この本のひとつの教訓は、情報があふれ、人生の選択が多様化している現在、身内がどんな選択をしようともびびってはいけないということだ。雄一郎の父親は、次第に息子の行動に理解を示し始めるが、それは息子と自分の関係を見つめ直したからではない。彼が「箱の外の世界」について真摯に学び始めたからだ。
これはまた、世界がひとつに包摂され、これまで世界のつながらなかった部分がつながるという、グローバリゼーションのひとつの効果とも言えるだろう。簡単に国境が越えられ、メディアを通してこれまで知ることもなかった現実を目の当たりにし、インターネットによってあらゆる情報が検索可能になった。そこでは世界がひとつの網の目の中に捉えられたおかげで、これまで出会うことのなかった習慣や制度や文化が、個人の中で交通事故のように確率的に衝突するのだ。同じような力学で、穏健なイスラム系の若者がサイトを通じて原理主義グループにはまり、テロリストに仕立てあげられたりする。
加えて、雄一郎がフランス外人部隊に入ることにリアリティを感じられたのは、彼が大学時代にフランス語を熱心に勉強したからではないだろうか。日本人の志願者の多くは直接フランスに渡らなければならないことを聴いて躊躇するようだ。受付の際、Je suis volontaire. と言わなければならないだけでなく、部隊内の意思疎通のためにもフランス語は必要だ。訓練の中でもフランスの授業があり、罰の腕立て伏せ=ポンプ (pompe) もフランス語で数えなければならない。やはり語学がネックになるのだ。グローバリゼーションの時代にあっても、言語は適応力を試される重要な環境であり、行動を起こすべく異国の現実をリアルにイメージできるかも語学能力にかかっている。
フランス外人部隊に入るための条件は至ってシンプルだ。パスポートを所持していて、17歳から40歳までの男性で、「いかなる地域においても働ける」肉体があればよい。フランスに愛国心を持つ必要はない。モットーは「レジオ・パトリア・ノストラ=部隊こそが我が祖国」。家族もナショナリズムもねじ切るような、ある意味人工的で純粋な選択だ。何の縁もゆかりもない組織に忠誠を誓い、命をささげるのだから。また身体能力だけが資本の究極のノマド商売ともいえる。もちろん除隊後は、他国の傭兵やVIPのボディガード、あるいはデューク東郷のようになるにしても、人脈作りやコミュニケーション能力は不可欠であるのだけど。
もうひとつのグローバリゼーションの効果は、先進国の雇用を減らし、若者の失業率を上げ、給与水準を押し下げることだ。バブルの余韻の残っていた90年代ならともかく、格差社会に向かう今の日本ならば外人部隊に志願する正当な理由があるかもしれない。就職難の時代の現実的な就職先のひとつになりつつあるのだろう。雄一郎は兵士仲間から彼らの国の現実を聞き、日本の豊かさを実感するのだが、実際東欧からの若者の多くは貧困層出身で、家族に仕送りするために外人部隊に志願するのだ。
外人部隊の募集サイトによると、初任給は月1043ユーロ(現在のレートで約13万円)、勤続年数3年の伍長クラスで月1226〜1452ユーロ(約16〜19万円)。先進国の給与水準からすると安く思えるが、東欧の若者たちにとってはそうではないのだろう。ちなみに、日本人の場合は、自衛隊勤務のあと、より高度でプロフェッショナルな領域を求め、世界最強と言われる部隊に志願するケースが多いようだ。韓国人はフランス外人部隊で最も優秀なのだそうだが、韓国では男性に24から28カ月の兵役義務がある。
□仏テレビM6のドキュメンタリー(5:00にコンコルド仏和辞典を抱えた日本人兵士が登場)
cyberbloom
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