2016年04月09日

真の「作家」の去り方―宮崎駿『風立ちぬ』を観て

宮崎駿の最後の作品となるらしい『風立ちぬ』を観た多くの者は、当惑を覚えずにはいられなかったのではないか。これが、本当にあの『千と千尋の神隠し』(2001)と『ハウルの動く城』(2001)を世に送り出した映画監督の作品なのだろうか。もちろん、そんじょそこらのアニメとは比較にならない高水準の作品であることは間違いない。しかし、『千尋』や『ハウル』に溢れかえっていた夢幻性や躍動感は影をひそめ、作品はひたすら昭和初期の日本の暗い現実に焦点を絞ろうとする。一体、宮崎は何を表現しようとしているのか。

『風立ちぬ』はその表題からも明らかなように、宮崎がその文学的な源泉を明確に示した作品だと言えよう。もちろん、『ハウル』にも有名な原作小説はあるし、『もののけ姫』(1997)や『千尋』からも日本古典文学に対する作者の造詣を窺い知ることができた。しかし、文学が通奏低音として響いていたこれらの作品と比べ、『風立ちぬ』は文学的主題が前面に押し出されているように思える。それは一見したところ、宮崎が羨望を持ち続けてきた旧制高校的文学世界への賛歌と思えるほどだ。

風立ちぬ [Blu-ray]のっけから二人の主人公(二郎と菜緒子)は堀辰雄の『風立ちぬ』にエピグラフとして掲げられたポール・ヴァレリーの詩「海辺の墓地」の一節 (Le vent se lève. Il faut tenter de vivre.) を口にする。ここで宮崎は「風が起こる。生きることを試みなければならない。」という直訳を用いている。その意味を観客にはっきりと伝え、この作品の主題を明示する為だろう。この作品はあくまで零戦の設計者である堀越二郎が主人公なのだから、彼の半生が描かれればそれで良いはずだ。だが、宮崎はそこにほとんど強引に堀辰雄の影を重ねる。二郎はヴァレリーのみならず、西条八十が訳したクリスティーナ・ロセッティの詩までを暗唱する(「誰が風を見たでしょう 僕もあなたも見やしない…」)。もちろん、旧制高校出身の秀才がこれらの詩を暗唱することに違和感はない。だが、ここまで強調されるとそれは単なる人物造形の枠を飛び越え、登場人物を現実から遊離した詩的存在、文学的存在へと飛翔させてしまうかのようだ。「風」という言葉をキーワードのようにして、この作品は文学的な世界を旋回するように進んで行く。

その文学的な背景が極まるのは、物語の中盤に狂言回しのように現れる謎のドイツ人カストルプによってである。カストルプとはもちろん、トーマス・マンの『魔の山』の主人公の名であり、彼自身も「魔の山」という言葉を次郎との会話の中で律儀にも口にする。長編小説『魔の山』は、結核の治療の為に入ったスイスの療養所の中で、主人公のハンス・カストルプが様々な人物に遭遇し、奇怪で眩惑的な出来事を次々と体験することによって、人間の生涯の意味を理解する、という内容であった。一方、『風立ちぬ』の中のカストルプはそんな魔の山から戻ってきたかのような人物で、二郎に対して生の意味を問いかけ、彼に覚醒を促す。その姿は謎めいており、むしろメフィストフェレスを思わせる。しかし、ゲーテであろうがマンであろうが、いずれにせよ、ここには旧制高校的ドイツ教養主義の土壌、精神風土が色濃く立ち込めているように思える。

風立ちぬ [DVD]ここまで見せられると、宮崎が確信犯的に文学的濃度の高い作品を作ろうとしていることを、観客はいやでも認めざるを得なくなる。この文学世界を受け入ることができない観客はもう『風立ちぬ』の世界から排除されることになるであろう。しかし、このようなことはこれまでの宮崎作品には有り得なかった。なぜならば、これまでの宮崎作品は、文学や思想などというものからは明確に距離を取りつつ、登場人物たちが見せる軽やかで目も眩むような飛翔や跳躍によって観客を映画の中に引き摺りこみながら、その鮮やかな運動の様を飽くことなく提示し、そのこと自体を映画の核として来たからだ。もちろん、『風立ちぬ』の中にも当然ながら飛行機が鮮やかに滑空する場面は何度もある。しかしながら、この作品ではそれがメインとなっていないのだ(何よりも、肝心の零戦が飛ぶ場面がほとんどない)。宮崎はその生涯で、初めて、そして最後に、「運動」よりも先に「文学=思想」を据える作品を作ってしまったのである。

このように文学=詩への愛着を見せる『風立ちぬ』という作品が、荒井由美の「ひこうき雲」の「詩」によって終わりを迎えるのは必然的な流れと言える。この作品は彼女が17歳の時に作詞したものらしいが、その年齢の時にのみ書くことが可能であろう、研ぎ澄まされた鋭敏な感性に貫かれている。「誰も気づかずただひとり」、「何もおそれない」、「ほかの人にはわからない」、「あまりにも若すぎた」のような、刺すように聴く者の心を捉える歌詞。これらの単純な言葉はそれゆえに重みを持ち、一行の変更の余地もない。そして、この溢れんばかりの詩的感性が『風立ちぬ』という作品を閉じるのに十分な役割を果たしていることは、映画を観た誰もが認めざるを得ないであろう。

宮崎は初めて自分の作品を観て泣いたという。それは、この作品が最後になることを確信していたからであろうが、そればかりではなく、「文学=思想」が「運動」を超える映画を自分が作ってしまったことへの悔恨と畏怖、そして驚きゆえではないのか。宮崎は元々思想の人であった。それは彼がたびたび発する政治的発言から窺い知ることができる。しかし、その類まれなる創造者としての才能は彼自身の思想が露わになることを隠し、彼をして「映像美」の作家としての地位を確立させるに至る。だが、彼は最後の最後で「文学=思想」を直接的に表現する映画を作ってしまった。それは彼の美学から言えば決してやってはいけないことであり、作家としての死を意味するものだった。だが、実はそれこそ彼が本当にやりたかったことではないのか。宮崎の涙は、あらゆる束縛から解放され、初めて作りたい作品を産み出した思想家の満足感のように思えるが、事態はそれだけではない。

長く宮崎の作品を観てきた者を『風立ちぬ』がさらに驚かすのは、主人公二人の直接的な愛情表現の描写である。こんなことはこれまでの彼の作品には有り得なかった。『ルパン三世カリオストロの城』(1979)の最後、クラリスはルパンに胸に縋るもののルパンは彼女を引き離す。『風の谷のナウシカ』(1984)で、ナウシカの傍にいるのは常に動物たちであり、恋人の姿はない。『魔女の宅急便』(1989)のキキもしかり、淡い初恋のようなものはあっても、恋人らしき存在はない。『紅の豚』(1992)のポルコは自ら恋を禁じた存在。『もののけ姫』のアシタカとサンの距離は二人の宿命ゆえに縮まることはない。『千と千尋の神隠し』の千尋にとって、ハクは恋人と言うよりも保護者のような存在だ。わずかに『ハウルの動く城』のハウルとソフィーだけが、物語の最後で初めて愛を確認するがこれは貴重な例外である。宮崎アニメの主人公で愛の告白をしたのはひょっとしたらポニョだけかもしれない(「ポニョ、宗助のこと好き」、『崖の上のポニョ』(2008))。

それに対して、今回、主人公二人の愛の描写を宮崎は前面に押し出した。それも、ほとんどメロドラマに陥る寸前のところまで行っている。何より、登場人物の軽やかな跳躍こそが真骨頂であったこれまでの宮崎作品に対して、二人の男女の駅での抱擁シーンが『風立ちぬ』のクライマックス・シーンとなっている点にすべてが集約されているのではないか。そこで、彼らは二人そろって空を飛ぶこともなければ、駆け回ることもない。ただ、ひたすら肩を寄せ合いながら二人だけの時間をひっそりと過ごすだけなのだ。そこに、この映画の法則が「動」ではなく「静」であるということがはっきりと示されていると言える。愛を得た登場人物たちはもう動くことを必要としていない。これもまた宮崎作品としては例外的事態と言ってよいだろう。

「動」に対して「静」の優位を、つまり、「活劇」に対して「文学=思想」と「静寂な愛」の優位を選択するとき、宮崎の作品は当然ながら終わりを迎えざるを得ない。それは、これまで彼自身が築き上げてきた全てのものを否定する行為に等しいからだ。しかしながら、自分の作品をすべて否定するかのように去っていく作家というのは何と清々しく見えるのだろうか。そして、生涯を賭けたものを否定するようなことができる者こそ、真の「作家」と呼べる存在なのではないか。『風立ちぬ』という作品を観るとき、私はそんな思いに囚われざるを得ない。


不知火検校

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タグ:宮崎駿
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2009年08月20日

宮崎駿とサン=テグジュペリ

人間の土地 (新潮文庫)『星の王子さま』は2005年1月に翻訳出版権が消失したおかげで多くの新訳が出版され、物議をかもしたが、その重要なシーンのひとつになったと言われる1935年のリビア砂漠での飛行機墜落事故の体験は、サン=テグジュペリの『人間の土地』の中で語られている。重要なシーンとは、砂漠に墜落した飛行士の目の前に星の王子さまが現れ、Dessine-moi un mouton!と呼びかけるシーンのことである。

宮崎アニメの中でも最も印象的なシーンは飛行シーンだと誰もが認めるところだろう。「風の谷のナウシカ」、「天空の城ラピュタ」、「紅の豚」などの飛行シーンで私たちは独特のスピード感と浮遊感を味わうことができるが、飛行シーンのあるなしにかかわらず、宮崎アニメにおいて魅力的なキャラ以上に重要な役割を果たしているのが「自在な速度」である。

サン=テグジュペリと言えば、第二次大戦中の1944年に偵察のミッションを受けてコルシカ島を飛び立ったまま行方不明になっていたが、2003年7月に機体の一部が海底から引き上げられ、そこに記されていた製造番号によってサン=テグジュペリの乗っていたものと特定された。そして翌年、飛行機の残骸は、パリの北方、ル・ブルジェ空港の一角にある「航空宇宙博物館」に移された。しかし、サン=テグジュペリがなぜ死んだのか、エンジンの故障なのか、操縦ミスなのか、自殺なのか、その問いは宙吊りのままだったが、去年の3月、元ドイツ軍パイロット、ホルスト・リッパート氏が「私がサン=テグジュペリを撃った」とラ・プロヴァンス紙に証言した。リッパート氏は1944年7月31日、南仏ミルの飛行場を出発、トゥーロン付近でマルセイユ方向へ向かう米国製P38ライトニング戦闘機を発見したという。

「接近して攻撃を加え、弾が翼に命中した。機体は一直線に海へ落ちた。機内からは誰も飛び出さず、パイロットは見なかった。それがサン=テグジュペリだったことを数日後に知った。サン=テグジュペリの作品は大好きだった。彼だと知っていたら、撃たなかった」

「航空宇宙博物館 Musee de l’Air et de l’Espace」の「サン=テグジュペリ・コーナー Espace IWC-Saint Exupery」(飛行機の残骸の写真あり)

夜間飛行 (新潮文庫)1998年5月9日に放送された NHKのドキュメンタリー「世界わが心の旅・宮崎駿 ― サン=テグジュペリ紀行 〜南仏からサハラ」(DVD化されている)で、宮崎駿はサン=テグジュペリが通った郵便航路、トゥールーズ〜ブエノスアイレス間のうち、モロッコのキャップジュビー飛行場までの行程をたどっている。宮崎駿はこの取材旅行にひどく感銘を受け、帰ってからスケッチをかき、それがサン=テグジュペリの『人間の土地』『夜間飛行』(新潮文庫)のカバーに使われている。『人間の土地』には取材旅行のあいだに記した文章「空のいけにえ」があとがきとして収載されている。「空のいけにえ」とは印象的なタイトルだが、いかに宮崎駿が空にとりつかれていたかを的確に表すものだろう。

当時の宮崎駿は、「もののけ姫」(1997年)の大ヒットをよそに、自分の作品の方向性に疑問を感じ、スタジオジブリの引退宣言をしたところだった(もちろん「千と千尋の神隠し」で復帰するのだが)。心の師匠であるサン=テグジュペリの軌跡を直接たどり直すことで、自分の作品に対する姿勢を立て直す意味もあったのだろう。

番組の内容はこのHPに詳しく書かれています(リンク切れ)

このHPが取り上げている印象的なエピソードに、「宮崎駿はパリから旅の出発点になるトゥールーズまで、複葉機アントノフAN2機で飛行した。このアントノフなんですけれども、真っ赤な複葉機なんです。もしかして取材陣、宮崎駿監督が「紅の豚」のマルコになる、という画を撮りたかったのか?(笑)」というのがあるが、これはぜひ見てみたい絵だ。

宮崎駿にとってサン=テグジュペリと同じくらい重要なフランス人がいる。漫画家メビウスMœbius である(現在、来日中)。ふたりは相互に影響を与え合い、友人でもある。2004年12月から2005年4月にかけて「宮崎駿とメビウス Miyazaki et Mœbius 」展がパリで開かれ、開会式にはふたりそろって出席した。メビウスは自分の娘にナウシカという名前をつけている。

□オススメ関連本『サン・テグジュペリ (Century Books―人と思想)』稲垣直樹著


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2008年11月15日

「千と千尋の神隠し」宮崎駿インタビュー(3)

インタビュアー:少なくとも「紅の豚」以来、あなたは豚にとても興味をお持ちですね。「千と千尋」では、千尋の両親は誰もいない街に着いてすぐに豚に変えられてしまいます。
宮崎駿:はい、なぜならば、豚はすべてを食べつくす貪欲な生き物だからです。それは今日の日本を象徴しています!

インタビュアー:ところで、すべてを飲み込んでしまうカオナシはどこから来ているのですか?またこの映画には、カオナシ、坊、千尋の両親など、過食の強迫観念があることに気がつきます。
宮崎駿:そうです。これらの登場人物たちは性格的に欠陥だらけです。私はこの映画を私の友人たちの2人の娘のために作りました。2人は千尋と同じ10歳です。私は「善と悪の戦い」のようなものを見せたかったのではありません。世界の真実を見せたかったのです。少女たちはあまりに単純な善と悪の二元論的状況ではなく、あるがままの世界を発見しなければなりません。過食といえば、私はだいぶ前に「バベットの晩餐」を見ました。とても美しい大好きな映画です。その映画でも登場人物たちはたくさん食べます。

インタビュアー:あなたは、千尋/千のような子供が大人たちを救い、超常的な世界をサバイバルできる純粋さを持つとお考えなのですか?
宮崎駿:私は千尋が彼女の両親を救ってはいないと思います。最終的に人間の姿を取り戻したときでさえ、千尋の両親は本当には変わっていないのです。こういうタイプの親は日本にゴロゴロしています。日本でこの映画を見た2千万人の観客の中には子供だけでなく、多くの親=豚がいたはずです!子供たちは失敗してもやり直すことができます。あらゆる純粋さを失ってしまった大人たちとは反対に、決して遅すぎるということはないのです。しかし子供たちがこの純粋さを必ずしも持っているとは限りません。千尋は特別かわいいわけではありません。千尋は日本の何百万の少女たちと同じなのです。しかし、千尋が他の少女たちと違うのは特別な冒険をしたことです。

インタビュアー:楢山節考」の今村昌平が言うように、現代日本は幻想にすぎないのでしょうか?
宮崎駿:彼の映画は見たことがありません。本当のことを言うと私はほとんど映画を見ないのです。ましてや日本映画なんてもっと見ません。私は本当の日本がどうなのかということを子供たちに見せたかったのではありません。2時間内で、現在の世界を表現することはできないし、それは私の意図するところではありません。千は公衆浴場で働かなければならなかった。仕事をもらわなければ、自分が消えてしまうことをわかっていました。これは今の日本の少女たちの運命そのものと言えるかもしれません。サバイバルするには多くの勇気が必要です。




千と千尋の神隠し (通常版)千尋の両親がガツガツ食べながら意識を失い、豚になり、知らないうちに意識が戻ったとすれば、彼らが自分たちの行動を省みる機会はない。宮崎は千尋の両親だけでなく、「千と千尋」を見た観客の中に多くの「親=豚(parent-cochon)」いると手厳しい。確かに日本人はああいう状況に出くわした場合、同じような行動をとるかもしれない。屋台の料理を断りもなく勝手に食い散らかして、後でお金を払えばいいと考えるかもしれない。千尋の両親はありふれた日本人である。父親はいかにも体育会系って感じで、アウディに乗っている。千尋は甘やかされ、少しだらしのない感じのする一人っ子である。宮崎が言うように特に可愛いわけでもない。

宮崎のアニメには美少女キャラが「私、どうしたらいいかわからないの」と泣くシーンがよく出てくる。「オマエが撒いた種だろうが」とつっこみたくなるが、宮崎オジサンは少女にそう言われる(言わせる)のが好きなようだ。千尋にはそういうのがなくて良い。もっとも、カマジイやリンなど、ベストなタイミングで彼女を助ける周囲の好意は常に存在するのだが。

「みんなの中にカオナシがいる」とは宮崎駿本人の言葉。カオナシは金で人の関心を買うことしかできない。それ以外に人の心をつなぎとめるすべをしらない。カオナシが何も欲しがらない千尋にいらだち、「欲しがれ」と言う(この台詞はフランス語では Prends!=取れ、と訳され、うまくニュアンスを伝えていない)。これは資本主義の至上命令でもある。カオナシの出す金に群がる同僚たちにとは裏腹に、ほとんど悟りの境地に達し、凛とした強ささえ感じられる千尋は、金も食べ物も欲しくない。ハクを救うことしか頭にない。カオナシにきっぱりと、「あなたは私が欲しいものを出せない」と言う。

現実に世界に戻ったとき、銭婆にもらった髪留めがキラリと光る。全く変わっていない両親とは裏腹に、千尋が確実に成長したことを物語っている。千尋は「仕事をもらわなければ消えてしまう」運命にあった。これは「仕事がないと自分もない」、つまり「仕事を通して自己実現せよ」というメッセージである。実際、千尋は仕事で認められ、両親を助けることができた。しかし、このメッセージは現在の労働環境を前にすると非常にシビアに聞こえる。それは仕事での自己実現を煽る一方で、人間を熾烈な競争にさらし、仲間どうしで足の引っ張り合いをさせる。宮崎はそこまでの世界を想定していただろうか。今や仕事で自己実現できる人間なんてわずかしかいないし、仕事の中で信頼できる人間関係をはぐくみ、大切なことに気がつくことも稀なことだ。それ以前に多くの若者がそういう仕事=冒険のチャンスからも見放されている。

宮崎が次の「千と千尋」を書くとすれば、競争から降りよう、別の自己実現を目指そうという話を書いた方が今の若者たちにアピールするかもしれない。「千と千尋」にはすでに「欲しがらない」という重要なテーマが出てきている。「欲しがらない」ことは「欲しがれ」と命令し続ける社会からのひとつの降り方なのだから。

「千と千尋の神隠し-宮崎駿インタビュー(2)」

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2008年08月06日

「千と千尋の神隠し」宮崎駿インタビュー(2)

Le Voyage De Chihiroインタビュアー:最初から舞台背景はとても「混淆的」です。千尋が両親とともにたどり着いた誰もいない街は、西洋と東洋の装飾の要素に彩られた、西部劇の通りを思わせます。
宮崎駿:あなたの言う「混ざり合った」建築様式は私にとっては全く自然なものです。日本が1868年に外国に対して門戸を開き、それ以来あらゆる種類の様式が日常生活において混ざり合ったことを忘れてはいけません。私はその傾向を写し取っただけなのです。

■フランス人から見ると、千尋一家が迷い込んだ街(右、写真の背景)は一体どうやって構想されたのか不思議に思えるようだ。人間は訳のわからないものを理解しようとするときに、何か知っているものを手がかりにするわけだが、あの街から「西部劇」を連想するなんて私たちにとっては意外。砂ぼこりが舞い、ガンマンが早撃ちの決闘をするストリートのことだろう。確かに両側に屋台やお店が立ち並ぶ通りは地面がむき出しになっている。千尋の父親がバブルが弾けて破産したテーマパークなんだろうと言っているが、混ざり合った様式に関して、確かに私たちは違和感がない。日常生活そのものが世界文化のミクスチャーであり、テーマパーク的なものも日常的に氾濫している。
■混淆的な風景といえば、水の上を走る電車に乗って、千尋がカオナシと一緒に銭婆のところに向かうシーンは何ともノスタルジックである。あの風景も西洋的であり、かつレトロな日本の光景でもある。ベルギーのシュルレアリスト、ポール・デルヴォーの絵を想起させたりもする。ヨーロッパの観客もこの映画に全くのエキゾチズムを感じているのではなく、何らかの自分の文化の要素を見出すことができるのだろう。この映画が世界的にウケたのはこの混淆性にあるのかもしれない。

インタビュアー:千尋をとりまく神々は様々な起源を持ちます。ヨーロッパでは知られていない多くの神々がいて、オシラ様(大根の神様)やオトリ様(ヒヨコの神様)のように、その中のいくつかは日本でも稀なものです。想像上の動物たちや、とても汚いが金を呑みこんでいる川の神のような、自然に遍在する神々。それらの重要性は何なのでしょうか。
宮崎駿:私たちにとってそれらは神々というよりはむしろ霊です。原則として霊には形がありませんが、私は映画のためにそれらに形を与えなければならなかったのです。どんな物体でも、この机もそうですが、霊でありえるのです。それらに形と命を与えれば十分でした。実際、日本には霊の神話があります。川の神は別の形、龍の形をとって存在しています。しかし、私はそれを泥だらけで汚い形のないものに変えました。それをお風呂に入れて、洗うためです!私はそのことが川の神にある重要性を与えたと思っています。自然信仰は今も日本に息づいています。特に田舎では。確かに仏教や神道やキリスト教の大きな影響はあるでしょうが、深いところで、自然信仰は相変わらず盛んです。しかしながら、戦後以来、日本人は自然の大半を破壊してきました。またアジアのいくつかの森が日本の過ちによって破壊されたことも知られています。それは飽くなき経済的欲求のためです。それゆえ日本人はそのことに罪悪感を覚え、自然の霊への回帰はそのぶんだけ強くなっているのです。

■確かに日本で「オシラ様」や「オトリ様」はあまり知られていない。梅原猛の著作で「オシラ様」のことを読んだ記憶がある(縄文系、山岳系の神様だったか?) 。河川の汚染を象徴するドロドロの川の神も出てくる。しかし、自然のタブーを今の世に復活させることは不可能だろう。かつて自然はタブーに満ちていた。森を切り開けば、たたりがあった。確かにそういうたたりの話は未だに生きている。しかし、私たちの生活を本質的に規定しているわけではない。私たちは当然のこととして近代的な合理主義を受け入れている。
■「アジアのいくつかの森が日本の過ちによって破壊された」というのは、戦後、経済成長を遂げた日本が、戦争に対する謝罪パフォーマンスとして ODA (政府開発援助)をバラまいて、発電所や港湾施設を作り、それが結果的にアジアの自然破壊をもたらし、現地の人々を追い立てることになった。援助といいながら、実は日本企業に莫大な利益を還流させたにすぎなかったのである。
■宮崎の言う自然とは、戦後の急速な近代化によって失われていった日本の自然である。具体的に言えば、高度成長と団地化によって日本の森が切り開かれていったのである。そういう都市化・団地化のテーマは高畑勲が「平成狸合戦」で扱っている。宮崎の自然とは彼の世代の古き良き日本の記憶にすぎない。世代的な自意識である。私は田舎育ちで、辛うじて真っ暗な森の闇を知っている世代だが、自然の記憶のない(自然のない自然を生きてきた)世代は「自然を破壊したことの罪悪感」と言われても全くピンと来ないだろう(続きはこちら)。

※写真は「千と千尋の神隠し」のフランス版DVD。フランス語タイトルは LE VOYAGE DE CHIHIRO で、「千尋の旅」の意味。ちなみに英語は、SPIRITED AWAY。英語の方が「神隠し」のニュアンスを伝えている。

「千と千尋の神隠し-宮崎駿インタビュー」(3)

□CUTの最新2013年9月号号で『風立ちぬ』3万字徹底インタビュー

Cut (カット) 2013年 09月号 [雑誌]Cut (カット) 2008年 09月号 [雑誌]Cut (カット) 2009年 12月号 [雑誌]


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2008年08月05日

「千と千尋の神隠し」宮崎駿インタビュー(1)

千と千尋の神隠し (通常版)今回紹介する宮崎駿のインタビューは、「千と千尋の神隠し」が2001年7月に公開された直後に、フランスの映画雑誌「POSITIF」(2002年4月号)に掲載されたものである。現在、「ハウルの動く城」に続く「崖の上のポニョ」が公開中で、おまけに息子の宮崎吾朗までが「ゲド戦記」で映画デビュー済である。確かに「千と千尋の神隠し」は忘れ去られた感じもする。

それでも「千と千尋」は重要な作品だ。日本では破格の2300万人を動員し、日本国内の映画興行成績における歴代トップの記録を打ち立てた。最初にテレビで放映されたときは、紅白並みの視聴率(46.9%)をたたき出した。フランスでも100万人の観客が見たが、この手の映画にしてはかなりの動員数だ。

宮崎駿の他の作品は、最初から現代日本とかけ離れた世界に設定されているのに対して、「千と千尋」の始まりは現代日本である。どこにでもいる等身大の日本の少女が突然、超常世界に迷い込む。その世界も実は現代社会の直接的な反映になっている。観客は現代人として自分が置かれた立場と、具体的な問題の中で作品を考えることができる。そういう意味で宮崎アニメの中でも特異な作品と言える。

「千と千尋」はアメリカで公開される際に、マーケティング・リサーチのために各地で試写会が行われた。アメリカで映画が大きく外れることがないのは、試写会による徹底的なリサーチのおかげだ(観客の反応によってはストーリーは平気で変更される)。リサーチの結果、「千と千尋」は、「都市部の大学生」にもっとも評価されたようだ。

一時、このインタビューと「千と千尋」のフランス語版を教材に使っていたことがある。「千と千尋」のDVDにはフランス語の音声と字幕が入っている。英語の音声がないのに、フランス語があるのだ。宮崎アニメはだいたいそうなっているが、英語圏よりもフランス語圏の方が重要なマーケットということなのだろうか。

学生の文学離れが著しい昨今であるが、インタビューの発言に込められた宮崎駿のメッセージを含め、作品の解説していたときショッキングだったのは、「そんなふうに映画をみたことがない」と言われたことだ。確かに、宮崎アニメには美しく幻想的なイメージだけでなく、独特の浮遊感や速度があって、それに乗っかるだけでも気持ちがいい。難解な批評ツールを使って作品分析するのは、アナクロニックな文学オヤジの自己満足にすぎないのだろうか。

しかし、宮崎駿本人がフランスの雑誌に語ったことを噛みしめた上で、この夏休みにもう一度「千と千尋」に接してみるのも悪くないだろう。フランス人相手だからか、けっこう好き放題言っている。

(続く:今回は前書きで終わってしまった。つっこみをいれながらのインタビューの紹介は次回。続きはこちら。)

「千と千尋の神隠し」宮崎駿インタビュー(2)
「千と千尋の神隠し」宮崎駿インタビュー(3)
□関連エントリー(「宮崎吾朗インタビュー

□CUTの最新2013年9月号号で『風立ちぬ』3万字徹底インタビュー

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2006年12月07日

CAHIERS DU CINEMA 宮崎吾朗インタビュー(2)

cahirs616.gif―スタジオ・ジブリの偉大な戦略家、鈴木プロデューサーとのやりとりや対話はどんな感じだったのですか。
宮崎吾朗:私にとって映画を撮ることは初めてで、私は鈴木さんの誘いに応えました。私には具体的な経験がなかったので、具体的な問題があるといつも彼に聞きました。彼は各段階をどのように踏んでいくかを説明してくれました。彼がいなかったら映画を撮れなかったでしょう。彼がいなかったら、映画を撮るという具体的なイメージすら持つことができなかったでしょう。しかしながら、撮影のプランに関しては、私と父の作品には重要な違いがあります。父の映画では、主観的なカメラ(=視線)が物語の構成において重要な役割を果たしていますが、「ゲド戦記」では、私は決して登場人物たちの視点には立たずに、2、3メートル離れた位置にいました。しばしば後ろから、ときには前からといったふうに。

―押井守さんはあなたの映画を擁護しています。あなたとあなたのお父さんとの対立について「創造は対立から生まれる」と強調しています。
宮崎吾朗:押井さんの映画は私の人生の一時期、重要なものでした。私は大きな影響を受けました。今は全くそうではありませんが。宮崎駿と高畑勲は日本の現代アニメのパイオニアですが、押井さんはその次の世代の代表者です。スタジオ・ジブリと競合し、ライバルになりました。「ゲド戦記」は私の世代の他の監督たちへのメッセージです。アニメをコントロールし、シンプルにし、ジブリの最初の価値観に立ち戻ろうというメッセージです。このメッセージを私の同業者たち全員が喜んでくれるかどうかはわかりませんが。

―映画の最初の方に、親殺しのシーンを置くことを決めたのはあなたですか。
宮崎吾朗:はい。それは人々の好奇心をそそるでしょう。私はアレンではありません。私と父との関係は、父を殺したいと思うほど深いものではないし、私は復讐なんてしません。ただし、架空の物語の枠組みの中では、親殺しという行為によって主人公は自分の土地を離れ、冒険に出ることができるのです。一方で、それは日本の若い人たちにとって、より現実的なモチベーションだと思います。過ちを犯して逃亡するというモチベーション。プリンセスを救うとか、ポジティブなことから始まるよりも、こちらの方がモチベーションが高いと思います。

―最後に若い主人公は自分の国に帰ることを決意します。観客はそこにあなたとあなたのお父さんとの和解の試みをみるにちがいないでしょう。
宮崎吾朗:唯一の和解があるとすれば、それは自分の責任と向き合う、アレンとアレン自身との和解です。それには次の長編が必要でしょう。

―スタジオ・ジブリとは別の場所で映画を撮ることを想像できますか。
宮崎吾朗:私は2つの理由でこの映画を作りました。ひとつはそれが「ゲド戦記」だったからです。それは父の愛読書でした。もうひとつはそれがスタジオ・ジブリから来た話だったからです。スタジオ・ジブリの将来がどうなるかはわかりませんが、私は将来性を感じています。私は宮崎駿や高畑勲の後継者を探すより、鈴木プロデューサーの後継者を探すほうが難しいと思います。

(2006年8月 武蔵小金井のスタジオジブリにて)

□インタビュアーの関心はやはり宮崎親子の関係に向かっている。おそらく父子の対立を強調し、話題にしたかったのだろうが、拍子抜けって感じだったのだろうか。ポーズだけでも自分と親は違うと主張する2世が多い中で、この葛藤のなさは何だろう。「父は全く家にいなかった」とか「私と父の関係は殺したいと思うほど深いものではない」というのがすべてを物語っているのだろうか。鈴木プロデューサーに全面的に頼りましたとか、ジブリという枠から出るつもりもないと言ってはばからないし。親の遺産とノウハウをそのまま引き継ぐと臆面もなく宣言する、葛藤のない新しい2世の登場なのだろうか。
□「ゲド戦記」の原作者、ル・グィンは、宮崎駿のことを現代のクロサワとかフェリーニとか言って褒め称えている。宮崎駿が撮るというから「ゲド戦記」の映画化を許可したのに、息子が撮るなんて聞いてない、とかいったすれ違いもあったらしいし。とりわけ宮崎吾朗の「ゲド戦記」解釈には不満を漏らしていたようだ。


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2006年12月02日

CAHIERS DU CINEMA 宮崎吾朗インタビュー(1)

ゲド戦記CAHIERS DU CINEMA の今月号(訳しているあいだに新しいのが出てしまった)に「日本アニメの復活」という特集記事があり、そこに「ゲド戦記」の宮崎吾朗のインタビューが掲載されている。

宮崎アニメ好きのフランス人は、2世のデビュー作「ゲド戦記」も心待ちにしていたはずだ。これについて少し調べてみようと思っていたが、ほったらかしになっていたところに、タイミングよくフランスの老舗映画雑誌が特集を組んでくれた。少し前なら、CAHIERS DU CINEMA が日本のアニメ映画の特集を組むなんてありえなかっただろう。これも時代の流れか。

実は以前、もうひとつの映画雑誌 POSITIF に掲載されたお父さんのインタビューを掲載すると予告したのだが(06年7月29日)、これもまたほったらかしになっていた。そのエントリーでは、フランス人が宮崎アニメをどうみているのか、どこに興味を持ち、共感を覚えているのか、「Miyazaki en(in) France」を検証しておく機会があってもいいだろう、と書いた。日本のアニメにやたら詳しいフランス人からの質問の視点も面白いし、日本のメディアに言えないことも洩らしてくれるかもしれない。特に最大の関心事である親子関係について。お父さんのインタビューもそのうち訳出することにして、先に宮崎吾朗氏のインタビューを紹介したい。

― 子供のとき、あなたのお父さんの宮崎駿の作品は別にして、どんなアニメを見ていましたか。他に参照するアニメはあったのですか。
宮崎吾朗:私が若いころ、日本ではいくつかのアニメ映画、アニメシリーズが作られていました。私と同世代のクリエーターたちの多くは、その時代の影響を受けています。つまりロボット・アニメの時代ですが、宮崎駿はそれらが嫌いでした。父は私にそんなものを見るなと言っていましたが、父は家にいたためしがないので、私はそれらを全部見ることができました。私が高校生のころ、押井守の「うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー」(1984)が出ました。私は大好きでした。「風の谷のナウシカ」の直前に出ましたが、同じ年に出ています。私は周囲の人間に「うる星やつら」の話をしましたが、父は困ったものだと、鈴木さんに洩らしていたようです。

― あなたのお父さんの作品は日本の古典的な映画の影響を受けていますが、ゲド戦記はむしろ「ロード・オブ・ザ・リング」のような同時代の国際的な作品を思わせます。
宮崎吾朗:私は「ロード・オブ・ザ・リング」を見ていません。私のチームの何人かは知っているでしょうが。私は映画好きではありません。今はほとんど見ません。テレビでときどき見るくらいです。私の作品は映画文化よりも、私の読書体験や旅行や人々との出会いが反映されています。

― 「ゲド戦記」は明らかに「ナウシカ」や「ラピュタ」などのジブリの初期作品を参照してますね。また「ナウシカ」から「千尋」に至る絵のスタイルの混合が見られます。それはあなたのアイデアだったのですか、それともアニメーション・ディレクターの稲村さんや山下さんの提案ですか。
宮崎吾朗:それは私のアイデアでした。今、アニメ映画はあまりに細かく描かれていて、絵は情報量や本物らしさに固執しすぎています。これらの映画は技術において進歩していますが、私の意見としては、ドラマティックさを部分的に失っています。年を追うにつれ、ジブリの絵のスタイルは進化しましたが、つねに物語や登場人物への配慮を保つことができていた。私は、若いころに見たジブリ作品の時代から汲み取り、あの雰囲気を取り戻したかったのです。

― 最初のドラゴンの戦いのシーンは全く宮崎駿のスタイルの中にはありませんが、あなたはより現代的なものを撮らせてもらえたということでしょうか。あなたはあるシーンを強引に挿入するために喧嘩したりしましたか。
宮崎吾朗:私は初めドラゴンも魔法使いも望んでいませんでした。私はとても控えめなものを望んでいました(笑)。映画にはそれが不可欠だと強調したのはプロデューサーの鈴木さんです。私は実際、映画の中のあちこちで違った試みをしました。それには満足しています。私が控えめなものを望み、それを正当化すれば、やらせてもらえたでしょう。しかし、私はプロデューサーと喧嘩しませんでした。反対に彼を大変頼りにしました。

宮崎吾朗インタビュー(2)に続く




cyberbloom

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posted by cyberbloom at 09:54 | パリ | Comment(0) | TrackBack(0) | 宮崎駿 Studio Ghibli | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする