2012年07月29日

佐々木俊尚著 『キュレーションの時代』

佐々木俊尚は、twitter である人をフォローするということは、その人の視座にチェックインすることだと言う。その人のツィートが自分のタイムラインに流れこんできて、その人の目で、その人の視座で世界を見る。視座にチェックインすることは情報そのものを得るのではなく、その視座を得ることだ。

キュレーションの時代 「つながり」の情報革命が始まる (ちくま新書)ツィートを読んでいるうちに、その人特有のコンテクストの付与の仕方がわかってくる。情報を見極めるリテラシーを自分だけで鍛えるのは難しい。モデルとなる視座にチェックインして、それを真似ながら自分の視座を作っていく。

このような視座を提供する人間を近年キュレーターと呼ぶようだ。日本でキュレーターは博物館や美術館の学芸員の意味で使われている。芸術作品の情報を収集し、実際に作品を集め、一貫した何らかの意味を与えて企画展として成り立たせる仕事のことだ。これはノイズにまみれた情報の海から、ひとつのコンテクストに沿って情報を拾い上げ、SNS 上で流通させる行為と重なり合う。

このようにキュレーションの価値が高まっているのは、情報が爆発している状況の中で、情報そのものと同じくらい、情報をフィルタリングすることが重要になっているからだ。先に述べた視座とは、その人固有の情報のフィルタリングの方法と言い換えることもできる。キュレーション・ジャーナリズムという言葉も使われており、1次情報の取材と同じくらいに、すでにある膨大な情報を仕分けして、それらの情報が持つ意味を分かりやすく読者に提示できる能力が求められている。

個人の視座が重要なのは、情報が増殖しているからというよりは、情報がフラット化したからである。もはや文学や芸術を頂点とするような文化的な階層があり、その体系の中で個々の作品が価値づけられるように文化は存在していない。すべてが情報として同じ平面状にある。ミシェル・ド・セルトーは1968年直後に、学生の文化的な状況は「本屋を見ればわかる」と言った。本屋の光景は学術書とポケット版が隣りあうような文化空間に呼応し、序列化ではなく、ひとつの表面をつくりなすマスカルチャーの表現になっていると。今はインターネットを見ればわかる。すべてが徹底的に流動化し、フラット化しているので、検索エンジンや情報キュレーターの助けを借りて、私たちは自分のための情報の序列化を試み、自分なりの視座を構築せざるをえないのだ。このモデルは決して新しくはないが、ようやくそれがSNSなどによって現実的になってきたということだろうか。

西垣通は『ウェブ社会をどう生きるか』の中で、従来の「教え込み型教育」を批判し、それに生物情報学をモデルにした「しみ込み型教育」を対置している。「教え込み型教育」とは、言語化された明示的な知識体系が前提となっていて、知識体系を細かい要素に分解し、綿密なカリキュラムにしたがって学習者の頭脳に注入していく教育である。まさに今の学校教育のモデルなのだが、一方、今の時代に適合する「しみ込み型教育」は、生物が環境とコミュニケートしながら生きているように、もつれあい、波打っている情報の大海の中で、「今この時間に自分が生きる上でもっとも重要な情報を拾い出す能力」を身に付けさせる教育だという。「自分が生きる上で」と言われているように、情報の価値はあらかじめ決まっているのではなく、個人の置かれた条件やコンテクストに依存する。

生物モデルと言えば、佐々木俊尚もバイオホロニクスの用語であるセマンティック・ボーダーに言及している。それは自己の意味的な境界である。生物は様々な障壁=ボーダーを設け、自分だけのルールによって、同一性を保ちながら、外部から情報を取り入れる。一方、環境は刻々と変化するので、セマンティック・ボーダーは固定化してはならない。変化に応じて組み替えられる必要がある。このモデルからは、キュレーターはセマンティック・ボーダーを組み替える人たちと再定義できる。ボーダーを再設定することでそこに新しい意味や価値が生み出されるからだ。

手前味噌だが、FRENCH BLOOM NET もフランス文化のキュレーション・サイトとして運営している。これまでフランス文化と言えば、文学や思想と相場が決まっていた。それはグローバリゼーション1.0時代の、欧米と日本の権力関係を背景にしていた。しかし、今はフランスから届く情報も、学生のフランスに対する関心も多様としか言いようがない。INFOBASE の左サイドバーの多岐にわたる「カテゴリー」がそれを物語っている。それはフラットな世界のプラットフォーム上で、欧米人だけではない、多種多様なプレーヤーによって文化が動かされていることの反映でもある。フランスの若者が日本のサブカルチャーに強い関心を持ったり、さらにそこに韓流文化が入り込んで来たり、文化的なヘゲモニーも刻々と変化し、その都度、フォーカスされるテーマも移り変わるのだ。



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2012年05月28日

ノマドワーキング(1)―佐々木俊尚著 『仕事するのに オフィスはいらない』

仕事するのにオフィスはいらない (光文社新書)カリフォルニア、オークランドの「ノマドカフェ」で、バークレーの近くの大学で法律を学ぶ学生ティア・カトリーナ・カンタスはダブルのアメリカンコーヒーを、彼女のモバイルフォンとiPad のそばに置き、ラップトップの MacBook を開き、勉強するためにカフェの無線のインターネットにつなぐ。彼女がここの常連だが、彼女は現金を持っていない。彼女のクレジットカードの明細には「ノマド、ノマド、ノマド、ノマド!」と書かれている。彼女は常にインターネットにつながり、一日中、文章、写真、ビデオ、音声によって友達や家族とつながっている。同時に彼女はそれらを仕事にも使っている。彼女は町を歩き回り、しばしばノマド向けのサービスを提供するオアシスに降り立つ…

これは2008年4月10日付けの英誌『エコノミスト』に掲載された「ついにノマドがやってきた Nomad at last 」の導入部である。そこにはモバイルが切り開く新しいライフスタイルが楽観的に描かれている。そしてジャーナリストの佐々木俊尚は『仕事するのに オフィスはいらない―ノマドワーキングのすすめ』の中で、「正規雇用が当たり前だった時代は過去のものとなり、すべての人間が契約社員やフリーランスとなる社会へ移行しつつある」と言う。かつては会社に頼れば何とかなったが、今は自分自身で人生を切り開かなければならない。この変化には否応なしについていかなければならない。そのための知恵と術が「新しいノマド」の生き方であると、ノマドと新しい働き方を重ね合わせる。この働き方は正規雇用から脱落することを意味していない。自らそれを選択するのだから。正規雇用でないことこそがチャンスとなり、これからの時代に適応できるのだという価値転換を宣言する。

もちろんノマドにはモバイルが欠かせない。佐々木の言うノマドとはとりわけ IT テクノロジーで武装したフリーランスのことだ。新しいノマドの仕事のやり方は、オフィスを借りずに、まずはスマートフォンを購入することに象徴される。常にメールやサイトをチェックし、G メールや G カレンダーを同期しながらスケジュールを管理する。誰かに命令されるのではなく、積極的に仕事に取り組み、仕事と生活のバランスを自在にデザインする。遊びと仕事の区別がつかない、それらが併存するがゆえに、自分を律する能力も必要になる。上司の監視の目もないのだから。

ノマドのように働く「ノマド・ワークス」には3つの不可欠なインフラがある。それはブロードバンド、サードプレイス、クラウドである。この3種の神器が揃えば、都会の砂漠を気軽に移動することができる。サードプレイスとはオフィスでもない自宅でもない、ノマドたちが一時的に身を置く第3の場所のことだ。彼らの特徴は移動しながら仕事をすることであるが、移動しながら最も居心地の良い、仕事のしやすい場所を見つけていく。しばしばスターバックスでPCや参考書を持ち込んで仕事をしている人や、頭をつき合わせてミーティングをしている人々を見かけるが、スタバ的な空間はサードプレイスの典型である。コーヒーが美味しく、趣味の良い音楽が流れ、適度な静かさがある。禁煙で、無償のブロードバンドや電源があることも重要だ。

クラウドは雲のようなコンピュータのこと。その雲の中から様々なソフトやサービスを取り出して使う仕組みだ。これによって、どんな場所、どんな機会であっても、瞬時に自分の仕事場を再現することができる。ノートも書類も要らない。グーグルの技術者たちは iPhone だけをポケットに入れて仕事に出かけるのだと言う。ノマドは物理的に移動するのではなく、どんな場所で仕事をしていてもパーマネントコネクティビティが実現していることがノマドの原理になる。そして、その実践に関して佐々木は「アテンションをコントロールする」、「情報をコントロールする」、「仲間とのコラボレーションをコントロールする」ことの3つを挙げ、それを支援する EVERNOTE や Mind42 などの具体的なツールを紹介している。

年間20万マイル旅をしていたアメリカのコンサルタントが IT を使うことで旅ガラスの生活に終止符を打った。アメリカで WEB デザイナーやプログラマーがどのような仕事ができるか、どのくらいの報酬が欲しいか、サイトに打ち込んでおくと、企業がそれを見て、条件が合えばネット上で契約が交わされる(Elance という世界中のフリーランスを結びつける国境を越えたサービスもある)。仕事を探しにあちこち出歩く必要もないのだ。このような事例が『仕事をするのにオフィスはいらない』の冒頭で紹介されている。また Facebook や LinkedLn などの SNS は今や「職を得、生計を立てる」ための良質な「人のつながり」を求める際の世界標準になりつつあるようだ。

しかし彼がノマドワークスタイルとして挙げている例の多くは、自身のようなフリーランスのジャーナリストや、ソフトウェアの開発者である。そういう仕事だったら確かにノマドワーキングを実践できるだろうし、「都会の砂漠を気軽に移動」しながら仕事をしている実感を持てるだろう。つまりそういう職種が可能にするワーキングスタイルであって、それがすべての仕事に適応できるわけではない。さらに言えば、スマートフォンやブロードバンドやクラウドという新しい技術やインフラが、フリーランスの仕事を要請しているわけではない。働き方は相変わらず「職種や仕事の業態やニーズ」に規定されるのである。「新しい技術が仕事を一変させる」というキャッチフレーズに人はワクワクしがちだが、これまで手を変え品を変え登場し、バラ色の幻想を振りまいてきた言説であることも忘れてはいけない。

また「すべての人間が契約社員やフリーランスとなる社会へ移行しつつある」と佐々木は言うが、日本の非正規の労働者がそのままノマドなフリーランスになれるわけではない。非正規の仕事の多くはノマドという牧歌的なイメージからは程遠く、その労働条件は厳しく不安定だ。自分から仕事を選んだり、仕事を作り出せる状況にはないだろう。「ノマドワーキングは特権的なフリーランスができることで、誰でもできることじゃない」とツィッター上でも安易なノマド論に対する批判があったが、ノマドという言葉にみんなが飛びついたのは、雇用が流動化し、まさに根無し草の労働者になってしまった不安を反転させた自己肯定的な願望なのだろうか。ノマド論の先駆者であるジャック・アタリは世界に1000万人しかいない裕福な勝ち組ノマドを「超ノマド les hypernomades 」と呼び、定住民でありながら超ノマドに憧れ、ヴァーチャルに模倣する40億人の「ヴァーチャルノマド les nomades virtuels 」と区別する。スマホをいじりながらその気になっている人々もそれに含まれるのだろうか。彼らは国境を越えた企業の移転や労働者の移動という世界のノマド化の中で賃金が減らされていく人々でもある。

確かにリーマンショック後、アメリカではフリーランスの仕事は増えたのだろう。しかしアメリカでフリーランス化が進みやすいのはもともと雇用の流動性が高く、労働契約を個人化しやすい下地があるからだ。それはコストカットをせざるを得ない企業のシビアな要請でもある。ノマドを仕事だけに結びつけ、ノマドワーキングを主張するから話が一挙につまらなくなる。もっと広いライフスタイルとして捉えるべきだろう…(2)に続く。


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2011年12月10日

ウェブで変わる大学

「学問を修めるために若者が大学に通うということが、比較的早い時期になくなるだろう」と予想するビル・ゲイツの発言が記事になっていた。

universite01.jpg「ここ5年以内に、最高の教育リソースは無料でウェブ上に現れ、個々の大学などよりもはるかに良い教育を提供できるようになる」。さらにゲイツが問題にしているのは大学という場所だ。大学は「そろそろ施設などから開放されるべきで、皆で同じ場所に集まる必要はない」。アメリカも日本と同様に大学の授業料が高く、教育格差が問題になっているが、「ひとつ所に集まって学ぶ現状のスタイルは高価なものとなりがちで、十分な教育を受ける機会を失わせる」。ウェブ教育を充実させていけば、「現在の特定施設に立脚した教育システムの重要性は5分の1程度に減じるだろう」とゲイツは言う。

そういうシステム移行するためには「どのような手段で学んだにせよ、その学識は正統に評価される」必要がある。「MITから与えられた学位であれ、ウェブから学んだものであれ」同じように。ゲイツもそういう信念を持っているようだ。これは個人がどの大学を出たかという肩書きではなく、個人の能力をきちんと評価することにもつながるだろう。

大学のウェブ化の手始めが大学の講義のネット配信である。ネット上で講義を一般に無償公開するという考え方はMITが「オープンコースウェア(OCW)」という画期的な構想で5年前に先鞭をつけた。MITはその思想に共鳴したヒューレット財団やメロン財団などから大きな資金を調達してシステムを構築し、すべての講義を公開するという作業が進行している。

一方アップルは2007年に「iTune U」というサービスを開始した。スタンフォード大学、カリフォルニア大学バークレー校、MITなど全米の大学の講義を無料公開するサービスだ。アップルは「iTunes」と「iPod」の組み合わせによって音楽のプラットフォームを押さえたが、同じ仕組みを使って大学の講義をいつでもどこでも受けることができるようにした。すでに世界で800以上の大学が参加、うち半数がコンテンツを一般公開しており、その大学の学生でなくても聴講できるというオープンな条件が何よりも重要なのである。すでに35万以上の音声/動画ファイルが利用でき、ダウンロード数は3億を超えたという(8月25日現在)。もちろん講義ライブラリはこれからも充実していくだろう。

「iTunes U」には東大を初めとする日本の大学も加わっている。東大は「東大 Podcasts」で公開してきた講義を配信し、話題のマイケル・サンデル教授の東大特別講義「ハーバード白熱教室 in Japan」も配信予定だという。明大は森川嘉一郎准教授による秋葉原とオタクに関する講義、慶応SFCは村井純教授などによる講義「インターネット2010」。各大学が特色ある講義を配信している。多様なコンテンツが集積され、使い勝手が良くなれば、個々の大学の枠組みを超えた別の学びの形や場が形成されることになるだろう。

インターネットの普及によって知識を得たいと思えば誰でも世界中の情報にアクセスできる状況が整ったわけだが、ポイントは「知識を得たいと思えば」という条件である。つまりウェブを通しての学習は、標準的な能力を身につけるために与えられた課題をこなすのではなく、自発的に学び、新しいものを生み出すような意欲や好奇心が重要になる。『フラット化する世界』の著者が言っているように、ネットが浸透した世界ではIQ(知能指数)よりもPQ(熱意指数)やCQ(好奇心指数)が先行する。標準的な能力を持つ人間を組織で働かせ、近代社会を効率的に動かすための教育はすでに終わったし、必要ないのだ。

大学は講義をネット配信することで自分の大学が魅力的な授業をやっていると対外的に広くアピールする宣伝効果がある。一方で、面白い講義を聴きたいという純粋な知的好奇心のために大学が存在しているとすれば、それを阻んでいた大学の偏差値や親の収入という教育格差は取り払われることになる。誰でも最先端の高等教育に簡単にアクセスできる社会を作るという方向は、学生を偏差値によって序列化したり、一定数の学生を囲い込んで授業料を取るという大学の運営モデルを壊してしまうかもしれない。またとりわけ文系学部にとっての本質的なのは図書館で、それが大学という存在に必然性を与えてきた。それがグーグルによって図書館がデジタル化され、図書館というインフラが大学の外に開かれてしまったとき、大学の文系学部にどのような存在意義が残るのかも問われるだろう。

宮台真司がネット番組で「今の日本の大学は大学の先生たちのためにある。ネットの時代に大学に多くの教師をプールしておく理由はない」と身も蓋もないことを言っていたが、これはゲイツの発言とも共振するのかもしれない。一定のレベルの教育をするベーシックな講義はコンテンツ化しておけばいつでもどこでも聴講できる(毎年同じ板書を繰り返す退屈な講義は一掃される)。一方で面白い講義をする、学生に対して強い感染力のある教師はさらにひっぱりだこになり、価値の高いコンテンツを生むだろう。

学習内容のコンテンツ化は場所と時間にしばられないことを意味する。学生は自分で学習プログラムやカリキュラムを組み、教師はそのアドバイザーやコーディネーターのような役割を引き受けるようになるのだろう。ネット配信の拡大と平行して youtube や ustream など、映像や音声の配信を無償で行うプラットフォームが構築され、誰でもそれを簡単に使えるようになった。MIT のように大きなプロジェクトでなくても、リアルタイムで講義をネット配信するインフラは十分に整っている。また大学という虎の威を借りなくても、個人の研究内容そのものの魅力によって、自由な形でセミナーなどを主催し、仲間を集めることができる。その一方で大学は予備校、専門学校化する傾向にあって、自由な文系的な教育に向かなくなっている。授業料が高くなればなるほど、成績の公平性や透明性が求められ、教育投資に対するリターンが求められるからだ。だから自由な学問の場所は大学の外に展開する方がいいのかもしれない。

日本の大学は明治時代に西洋の技術や文化を翻訳し、日本に移入することから出発した。それらを特権的な人間が独占していて、少しずつ、もったいぶって下に流すことで権威を保っていた。このような西洋の知識を伝達・中継し、下に流す役割はもはや必要とされていない。また現在の新聞や雑誌の凋落が著しいが、大学も明らかに非フラットなトップダウン型社会の遺物で、それらと無縁ではないないはずだ。かつて日本のジャーナリズムの既得権益者たちは、伝統ある出版文化やジャーナリズムが崩壊すると叫んでいたわけだが、今やテレビや新聞の方が逆に信用されていないし、電子書籍化も確実に進んでいる。5年前のネットジャーナリズムはまだおぼつかないものだったが、同じようにこれから5年経てばビル・ゲイツが言うような新しい大学の動きが日本でも目に見えて起こるのかもしれない。

★2010年10月6日に main blog にアップした記事を加筆修正したもの。最近『ウェブで学ぶ―オープンエデュケーションと知の革命 (ちくま新書)』を読んだが、ウェブ教育の現在と研究の進展状況が紹介されている。この書評も書かねばなるまい。

ウェブで学ぶ―オープンエデュケーションと知の革命 (ちくま新書)
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2011年10月09日

WHOLE EARTH CATALOG (1) ペーパーバック形式のグーグル

wec01.jpg去年の10月「 Whole Earth Catalog 」 の全ページがウェブサイト上に公開された。 WEC はスチュワート・ブランドによって1968年創刊されたアメリカのカウンターカルチャーのカタログ。98年まで断続的に続いた。WEC はクリエイティブで持続可能なライフスタイルのために有用な商品―それは服であったり、本であったり、道具だったり、機械だったり―をリスト化したものだ。WEC は自ら商品を売ることはしないが、商品のベンダーと値段が記され、頻繁にアップデートされた。アップルのスティーブ・ジョブズが有名なスタンフォード大学でのスピーチで WEC に言及している。

"When I was young, there was an amazing publication called The Whole Earth Catalog, which was one of the bibles of my generation.... It was sort of like Google in paperback form, 35 years before Google came along. It was idealistic and overflowing with neat tools and great notions."

ジョブズは WEC を「60年代後半のパソコンもない時代にすべてはさみとタイプライターとポラロイドカメラで作られた。それは WWW のコンセプトの先駆であり、Google が生まれる35年前に作られた、ペーパーバック形式のグーグルだ」と言っている。またジョブズはスピーチの最後のメッセージとして1974年号の裏表紙に書かれていた言葉 "Stay hungry, stay foolish.” を引用している。

ブランドは創刊号に地球全体 (Whole Earth) のイメージとして宇宙から見た地球の写真を使った。彼はそれが「共有された運命の感覚」を呼び起こす力強いシンボルだと考えたからだ。スタンフォード大学卒のブランドは芸術と社会に対する強い関心を持った生物学者で、エコロジー的に社会的に公正な方向にそってアメリカの産業社会を全面的に刷新することにコミットしていく大きなうねりがあると信じていた。WEC はそのうねりを支えるものとして構想された。

The counterculture's scorn for centralized authority provided the philosophical foundations of not only the leaderless Internet but also the entire personal-computer revolution. カウンターカルチャーは中央集権化された権力に軽蔑心を示し、それが、リーダー不在のインターネットの世界だけでなく、PC革命に対しても哲学的な基盤を与えた。

Forget antiwar protests, Woodstock, even long hair. The real legacy of the sixties generation is the computer revolution. 反戦の抗議活動、ウッドストック、そして長髪も忘れてしまっていい。60年代の真の遺産は、コンピュータ革命だ。

梅田望夫はブラントの2つの発言を引用し、彼は60年代カウンターカルチャーと PC 革命のつながりを象徴する人物だと述べている(『ウェブ時代 5つの定理』)。アメリカのコンピュータ産業は軍事目的(砲弾の軌道計算)で始まり、第二次世界大戦後は政府や大企業が管理の道具としてコンピュータを利用し始めた。このような「コンピュータ=情報の集中化・管理」というイメージの担い手は IBM のような東海岸の大企業だった。一方西海岸では、1975年ごろハッカーたちを中心に手作りでコンピュータを作ろうという気運が高まり、集結した若者たちが誰でも安く買える PC を作り出そうとした。PC は最初から個人の能力を底上げする道具として、個人が権威と対抗しうる革命的な道具として作られた。70年代の PC 革命から現在未だなお続いているウェブの進化の背景には、テクノロジーこそが反中央、反権威、アンチ・エスタブリッシュメントの力になり、同時にそれによって個をエンパワーし、フロンティアを切り開こうという思想的な背景がある。

□WHOLE EARTH CATALOG http://www.wholeearth.com/


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2010年08月06日

GPS(2) GPSとiPod

音楽において GPS の役割を果たしているのは iPod ということになるだろうか。CD が出現したとき音楽がデジタル化されたが、同時に曲の進行時間が残り時間とともにデジタル表示されるようになった。これが LP から CD に移行したとき個人的に最も違和感を覚えたことだ。iPod に至っては一曲一曲が直線の座標軸として表示される。音楽には終わりがあるのだが、聴いているときのそれぞれの瞬間はある意味、永遠を孕んでいる。例えば、音楽のクライマックスはその部分だけ聴けば経験できるものではない。それまでの音楽の展開を確実に追い、経験的な時間を積み重ねていかなければ味わえないカタルシスなのである。特にクラッシクやジャズを聞く場合はそうであろう。iPod ではクリックホイールの操作で曲の各地点を簡単に特定し、そこに飛ぶことができる。しかし、その地点に下りることは、その地点の体験を得ることにならない。そこには蓄積がないからだ。iPod で音楽を聴いて盛り上がっているとき、ディスプレイの残り何分何秒という表示が目に入って急に興ざめしてしまったという経験はないだろうか(アナログ時代をひきずったオヤジの戯言?)。

denavan01.jpg

もっとも LP 時代にはそんなことを考えることすらなかった。ステレオのまん前に座って最初から最後まで聞く必要があったから(途中に針を落とすこともできたが、面倒だし、レコードを傷つける恐れがあった)。先々月、「アルバムに収められた曲をバラバラに切り売りするな」というピンク・フロイドの主張が裁判で認められたが、今や個人の手でひとつの曲を微分的に切り刻めるのだ。

ある人々はこのような事態に対して、街で迷い不安を感じる権利、音楽をアナログに楽しむ権利を主張するかもしれない。このような権利を確保すること、つまりリスクが計算できないものに対する寛容さが自由の空間を保証するからだ。それは人間が老いて、死にゆく存在であることと大きく関係している(「不死の機械の身体を拒否する人間」はよくある SF 的なテーマだ)。自由は計算不可能だから自由なのだし、音楽も計算不可能だから音楽なのだ。それは生活のあらゆる場面がデータ化され、解析され、リスク管理の資源としてシステムへとフィードバックされる新しい管理社会に抵抗しようという議論につながっていく。

しかし、一方であまりに拡大した自由(=選択肢の過剰)はもはや私たちに自由の感覚を与えてくれない。とりわけ情報が氾濫した現代社会に生きている立場からすると、自由は逆に忌まわしいものだ。GPS は明快な行程と最短距離を示してくれるし、iPod は何千曲もあるレパートリーを管理し、曲を適当に選んでくれさえする。私たちはこのような自由を逆に制限してくれる価値中立的な情報処理に依存し始めている。

先回のボードレールやポーの話に戻ろう。私たちはバーチャルな世界によって群集から逃れ、群集体験を失ったわけではない。相変わらず目的地に行くために雑踏や交通渋滞をかきわけなければならないし、いまだに満員電車と縁を切ることはできない。それらは共存しているのだ。ネットの世界の先端で生きている人間はすでにネットとリアルを区別しなくなっている。区別すると理解できないくらい感覚的に2つの世界は接合している。実際、脳は一般的に考えられているよりもはるかに柔軟性があり、高次知覚ではそもそも幻想と現実の区別などはないのだという。ネットとリアルの二分法はネットを使わない人間の思考法なのだ。彼らにとって2つの世界は並列したまま、決して交差することはない。ネットとリアルは交代するのではなく、境界領域が生まれていると言ったほうがいい。そこには2つの世界が複雑に入り組み、かみ合ったフロンティアが開けている。

ところで、GPS を導入しているタクシーにもだいぶ増えたが、それによって裏道を知り尽くしているタクシーの運ちゃんの経験的な価値が下がっただろうし、利用者からすれば運ちゃんに対する不信(近道と言いつつ遠回りしているのではないか)も多少は払拭されたことだろう。タクシーに GPS 標準装備の某タクシー会社は料金の安さで知られているが、同時にドライバーの管理=監視にGPSを使っているらしい。10分以上タクシーが動かないとサボっているとみなされる。まさに自由に動き回る労働者の管理の典型的なモデルである。

オランダでは GPS によって車の走行距離をチェックし、それに比例した納税を義務付ける制度が発足した。走行距離100kmにつき、0.03ユーロ(約4円)が課税される。2018年には倍額に引き上げられる予定だ。税額は走った道路、時間帯、混雑状況によっても変わり、クリーンな車種だと税が減額される。つまりドライバーが混雑していないルートと時間帯を選ぶことにインセンティブを働かせてある。GPS 装置にかかる費用は政府から補助金が出る。この制度はオランダのドライバーにおおむね支持されているが、問題は走行記録のデータがプライバシーを侵すかもしれないということだ(つまり車でどこに行っていたかバレてしまう)。税の納付通知書に記載されるのは走行距離と課税額だけらしいが、その部分をブラックボックスにすると逆に不満も生まないだろうか。

GPS はアートにもインスピレーションを与えている。砂漠や砂浜に巨大な絵を描くジム・デネヴァン Jim Denevan というアーティストがいる。その作品はまるでナスカの地上絵か、ミステリーサークルだ。スケッチを元にGPSで距離を測りながら、トラックを走らせて巨大な絵を描く(写真↑)。その壮大なアートは飛行機に乗って空から確認するしかない。

□The Art of Jim Denevan http://www.jimdenevan.com/




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2010年07月30日

GPS Global Positioning System(1)

私が始めて GPS について知ったのは湾岸戦争の直後だった。湾岸戦争の際、砂漠には目標物がないし、あちこちに地雷が仕掛けられていたので GPS が大活躍した。あらかじめ GPS 受信機に地雷源の位置を記憶させ、目的地を設定しておけば、真夜中だろうと砂嵐の中だろうと、正確に行軍することが可能になった。そういう技術がいまやケータイに標準装備されているわけだ。進歩の著しい情報技術が次々と戦争に応用されていく。そもそもインターネット自体が軍事技術の開発のもとで始まっている。半導体も軍事用レーダーの研究から生まれ、ディスプレーに情報を表示する現在のコンピュータのシステムや CG の発明も軍事用コンピュータの研究が基礎になっている。現在進行しているのは、軍事技術が日常化している事態と言うこともできるだろう。

イラク戦争では、91年の湾岸戦争時よりさらに進んだハイテク兵器が使われた。空爆の主体は、命中誤差が数10センチから10メートルという精密誘導弾で、投下後に軌道を修正しながら標的に近づく。この爆弾にも GPS が内蔵され、自律誘導で標的に達する方式が主流だった。湾岸戦争時には航空機から投下される爆弾の約1割が GPS 誘導弾だったが、イラク戦争では約9割まで増えたといわれている。GPS 誘導弾は、命中誤差が小さいだけでなく、天候や砂嵐等の気象条件に左右されないし、標的に接近する必要もない。撃ちっ放しが可能となり、しかも比較的安価なのである。

日常的実践のポイエティーク (ポリロゴス叢書)ピンポイントでミサイルを撃ち込むのは、戦争を効率的に遂行するためである。何よりも「非人道的だ」と批判される無駄な死者を作らないためだ。民間人を殺さず、テロリストのみを殺す、効率的で、「イメージの良い」戦争の遂行。戦争をターゲットスコープからのみ見せる。憎むべき敵だけを映し出し、他の余計なものを映さない。戦争のイメージをフィルターにかけ、中立的な、あるいは魅惑的な部分だけを前景化する。

イラク戦争と並ぶ、近年の大事件といえば、アメリカで起こった911・同時多発テロである。フランスの思想家、ミシェル・ド・セルトーが911の舞台となった WTC の天辺から下界を見下ろしている。それは1980年代のことであり、そこが凄惨な同時テロの舞台になるとはセルトーとて想像もしなかっただろう(以下引用は『日常実践のポイエティーク』)。

「こうして空に飛翔するとき、ひとは見る者へと変貌するのだ。下界を一望するはるかな高みに座すのである。この飛翔によって、ひとを魔法にかけ、呪縛していた世界は、眼下にひろがるテクストに変わってしまう。こうしてひとは世界を読みうる者、太陽の眼、神のまなざしの持ち主となる。視に淫し、想に耽る欲動の昂揚。おのれが、世界を見るに一点にのみ在るということ、まさにそれが知の虚構なのである」

ボードレール全詩集〈2〉小散文詩 パリの憂鬱・人工天国他 (ちくま文庫)「そうした神をよそに、都市の日常的な営みは、下のほう、可視性がそこで途絶えてしまうところから始まる。こうした日々の営みの基本形態、それは、歩く者たちであり、かれら歩行者たちの身体は、自分たちが読めないままに書き綴っている都市というテクストの活字の太さ細さに沿って動いていく。こうして歩いている者たちは、見ることのできない空間を利用しているのである。その空間について彼らが知っていることといえば、抱き合う恋人たちが相手の身体を見ようにも見えないのと同じくらいに、ただひたすら盲目の知識があるだけだ」

都市を歩く私たちはもはや盲目ではない。GPS によって神の視点とは言わなくても、衛星の視点を手に入れている。GPS によって複雑に入り組んだ場所でも自分の行動を読むことができる。私たちは迷えなくなってしまった。どこにいても補足される。私たちは GPS によってつねに現在位置を確認するが、それは自分で自分を捕捉することである。都市はいつのまにか Yahoo! や Google の地図に還元され、私たちはそのバーチャルな虚構の世界を受け入れている(Google Earth もリアルなイメージによって都市を制圧している)。そこでのスマートなふるまいは、時間と空間を可能な限り切り詰めること。迷うことなく、デートの場所に最短経路による最短時間によって到達することである。

モルグ街の殺人・黄金虫―ポー短編集〈2〉ミステリ編 (新潮文庫)かつて都市はロマンティックな広がりを持つ空間だった。都市の魅力は何よりも迷うことだった。いきあたりばったりにさまよい歩き、目に入った興味を引く情報を拾い集めていく。都市を歩くことはその軌跡によって自分だけの地図を作ることだったと言っていい。セルトーの表現にならえば、都市の歩行者たちの身体は、彼らが読めないままに都市というテキストを書き綴っていたのである。近代都市の出現時に文学者たちも新しい経験に文学を刷り合わせようとした。19世紀の詩人、シャルル・ボードレール Charles Baudelaire も新しい詩のリズムを、何か面白いものを見つけては立ち止まり、それを拾い上げる屑屋 chiffonnier (今で言えば廃品回収・リサイクル業)の不規則な歩行のリズムになぞらえていた。

都市はバーチャルな地図のようにクリーンな空間ではない。実際は猥雑で危険でノイジーな場所である。そこには様々な欲望を持った得体の知れない人々がうごめいている。都市の経験とはそのような見知らぬ人々との出会いであり、交渉だった。ボードレールは群集の楽しみとは街で出会う様々な職種の人々に感情移入することであると言い、E・A・ポーは『群集の人』の中で群集そのものが魅惑と陶酔の対象であることを示した。
(続く)




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2010年02月18日

『ハイデガーとハバーマスと携帯電話』

ハイデガーとハバーマスと携帯電話 (ポスト・モダンブックス)世界中でモバイル化が進んでいる。日本はすでに飽和状態だ。ケータイはどんどん便利になり、もはやケータイなしの生活なんてありえない。モバイル化は英語で、mobilization というが、同時に「動員」という意味もあわせ持つ。モバイル化されているのは電話ではなく、人間なのだ。繁華街ではケータイのキャンペーン campagne(=宣伝活動)が華々しく行われているが、キャンペーンには「軍事行動」という意味もある。インターネットはもともと軍事目的で始められたし、今やケータイに標準装備のGPSは、湾岸戦争のとき、砂漠のど真ん中でも自分の位置がわかるようにと開発された。世界のモバイル化は平和利用というよりは、軍事技術の日常化という様相を呈している。

さらにケータイは支配だけでなく、抵抗のイメージさえも取り込んでいる。『ハイデガーとハバーマスと携帯電話』の著者は、ガソリン税を上げた政府に抗議するためにケータイで連絡を取り合ってガソリン配送施設を封鎖したイギリスのトラック運転手の例を挙げている。私は真っ先に「黒を着ろ、エドサに行け」というチェーンメールのことを思い出す。それは黒い服を着たフィリピンの群集をエドサ通りに集結させ、エストラーダ政権を倒した。ケータイは便利なだけでなく、変化し続ける時代の気分を的確に表すモノなのだ。自分は新しい時代の人間だと実感したいなら、ケータイこそが手に取るべきものだ。

単に便利なものが発明されたということではない。私たちはもはやケータイなしには生きられない。モバイルは私たちの生き方や文化に深く入りこんでいる。モバイル化されているのは人間の方だというのは、そういう意味だ。ケータイのCMを見ていると、コミュニケーションという言葉が全世界の人々とつながり合えるようなイメージをふりまき、それは薔薇色の未来を保証するかのようだ。しかし、コミュニケーションって何だろう。一体、ケータイを使って私たちは何をしているのだろう、と著者は問いかける。

まず勘違いしてしまうのは、コミュニケーションが拡大しているのはケータイの方で、人間ではないということだ。ケータイは互換性が進み、違う機種でもスムーズにつながる。通信速度が速くなり、サクサクと動く。人間といえば、規格(人格)がバラバラでかみ合わないし、飲み込みも遅い。さらに人間関係を深めるには時間がかかる。

だからケータイを使ったコミュニケーションが最もうまくいくのは、人間を相手にしているときではなく、ひとりでネットにつないでいるときだ。国民の半分がケータイをもっているとか、どこかの国で加入者が50%増えたとか、宣伝される驚くべき数字とは裏腹に、コミュニケーションとは孤独な行為なのだ。その場合のコミュニケーションとは、言葉を限り切り詰めたメッセージのやりとりによって行われる。またケータイに向かって欲しいものをオーダー(命令=注文)し、それが瞬く間に手元に届けられることである。ケータイのコミュニケーションの理想は、インテリジェントでインタラクティブな最速の応答だ。しかし、インタラクティブといっても、それはバーチャルなもので、応答してくるのはシステムにすぎない。

スターバックスまであと3分に迫ったところで、ケータイでスタバのメニューを呼び出して、カフェラテのSサイズをクリックする。これで注文も支払いも済む。あとは取りに行くだけ。ハイデガー&ハーバーマス(ふたりともドイツ人)はこのようなモデルをコミュニケーションとは考えない。例えば、ハバーマスによると、コミュニケーションをとるのは、自分の欲望を「満たす」ためではなく、相手に自分の目的や欲望を「知らせる」ことである。もちろん知らせることで、批判されたり、様々なリアクションが想定される。さらにリアクションに対して自己弁護することもありえる。このようなコミュニケーションは外堀からゆっくり埋めていって、核心へと近づいていく。ケータイが無視し、切り詰めようとするコミュニケーションの過程や積み重ねを逆に重視するのである。

しかし、すべてのケースにおいてそんな悠長なことをやっていられない。現代社会では人間関係が複雑で、かつ処理すべき情報が多いからだ。本当に人間的なコミュニケーションを持とうすれば途方もない時間が必要になる。それゆえ、人間の取り決めの多くは、真のコミュニケーションよりも、「システム」によって行われる。ハバーマスによると、システムの代行の仕組みは、コミュニケーション・メディアの形を取って現れ、言葉による説明はできるだけ切り詰め、対話の代わりをする規則や金銭(通貨)や地位の交換(官僚機構や権力)によって済ませられる。健全な社会ではそれが地ならしをすることで、真のコミュニケーションのお膳立てをする。ある程度までシステムにゆだねるのは合理的なことだ。しかし、システムが自己増殖して、人間の共感を担保するスローなコミュニケーションが必要な領域までも覆いつくす危険性がある。ハバーマスの言う「生活世界のシステムによる包摂、植民地化」という事態である。

今やシステムの最大の担い手がケータイということだ。しかし、この著作にはユーザーの視点がなく、個人がそれをどう使いこなしているのかということあまり考慮していない。ケータイを使うことは孤独な行為と言っているが、メールのやりとりに関してもそう言えるのだろうか。例えば、大澤真幸があとがきで、若者たちがケータイに求めているのは近接性の感覚だと書いている。単に近いのではなく、「遠く隔たったものの間の近さの感覚」である。それも本来入り込めないはずの内面に直接入り込むような近さである。これは若くない私にも実感できることだ。また大澤によると、「街中で、電車の中で、そして授業中に、終始、送受信されている短いメールにおいては、肝心なのは何が伝えられているかではなくて、単に伝え合っているという事実である」。これは商売や政治につながる戦略的なものではなく、純粋に相手とつながっていることを楽しむ使い方と言える。






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2010年01月22日

電子ブックと書籍の未来(3) 本の未来図

kindle01.jpg電子ブックにもグーグルの罠が待ち構えている。読者は目を引く本の表紙や面白い書評の代わりに、「頻繁に引用される文章」という検索結果によって本に出会うことになるかもしれない。これまで世界中で書かれたすべてのページが競合関係に置かれることになる。1冊の本というまとまりは意味がなくなり、検索エンジンにひっかかりやすい独立したページや段落の集まりにすぎなくなる。何より頻繁に引用され、検索エンジンにひっかかることが販売戦略になる。それは本の書き方や販売方法を変えるだろう。

作家や出版社はページごと、あるいは章ごとにグーグルのランク付けを念頭において文章を書くようになる。キンドル kindle (写真↑)で売られている本の多くは最初の1章を無料サンプルになっているが、それは本の帯に書かれたキャッチコピーのような役割を果たすようになる。作家は読者が本の全体を買いたくなるように、この部分に力を注ぎ、入念に構成するようになるだろう。

これは19世紀のフランスで隆盛を極めた新聞小説を思い出させる。新聞小説は新聞の発行部数を伸ばすために案出された形式だが、それは波乱万丈の物語を連載の一回一回がちょっとした山場になるように按配し、1回分の最後には未解決の謎や未完のプロットを残し、続きを読みたくなるように構成していた。この手法は今のテレビの連続ドラマにも受け継がれているが、新聞という日刊の媒体に小説の形式が適応した例である。

しばしばコンピュータは画一化や均質化をもたらすと言われるが、それはむしろ印刷物にあてはまることだ。私たちは印刷物をその固定された構造にしたがって読んでいた。文学作品が正典となりえたのは、同じテキストの同じ読書体験が可能だと信じられたからであり、それをベースにすべての人々が文学的な遺産を共有し、文化的な統一も可能だという理想(妄想?)を抱けたからである。また印刷物は書き換えができないがゆえに、著者が決めたバージョンは神聖不可侵であり、それが書き手を読み手から遠いものにする。その関係を通して著者はモニュメンタルな姿を獲得し、読み手はその崇拝者になる。

しかし電子テクノロジーはテキストの章や段落をひとつひとつ別のものにする。印刷物のように有機的でひとつの方向に展開する全体を持たず、それぞれが完結した単位のつながりなる。電子テキストは断片的だが、潜在的な可能性を秘め、絶えまない再組織化の中に置かれることになる。新しい読者は著者に限りなく近づき、テキストを自分で操作するようになる。自分でテキストの断片を再配置し、作られたものを壊しながら、新たに結びつけるのだ。

とりとめない連想は自分が最も自由に感じられる楽しみであるが、印刷物の時代において、それは書く前の準備段階にすぎなかった。書くときには印刷物の厳密な秩序に従わなければならなかった。連想関係はテキストの源泉だが、そういう秩序関係に表れることない思考とイメージのつながり方である。それゆえ印刷物の構造では表現できず、排除されてきた。しかし電子テキストは段落や章、索引や注といった階層的な秩序の中に、多元性をひきこみ、書物をツリー構造からネットワークへと変貌させる。電子ブックは印刷物の形態を残しているが、そこでは階層的な思考と連想的な思考は共存することができるのだ。

キンドルには辞書が搭載されていて、わからない言葉があるとすぐに辞書を引けるが、可能になるのは言語的な参照だけではない。電子ブックはマルチメディア的な参照へと展開するだろう。ちょうどこのブログのような形態になっていく。小説の中に音楽が出てきたら、映画のサントラのように背後に流すことができるし、映画のシーンに言及された場合はその断片を映し出すことができる。当然、書き手もそういうものを小説の中に取り込んでいくだろう。これは自分でもやってみたいことである。文学理論では作品は参照・引用の織物であるとよく言われるが、これはマルチメディア的に現実のものになるだろう。

先回、「小説を読みながら不可解な文章に遭遇した場合は、すぐにオンライン上でその文章の意味について、世界中の読者がどのように注釈を加え、解説し、議論しているかを検索するようになるだろう」と書いた。そして参照されるのは「決して権威のある文学者や批評家ではない」と付け加えた。上意下達方式で「正統的な読み方はこれだ」と言ったってもう誰も聞いちゃいない。正しい解釈を上からおしいただくという権力関係から、議論を広く共有するような水平的な関係と、自らテキストに介入していく楽しみに移行しつつあるのだ。先回「文化的正統性のすき間に自分たちの創意や工夫をしのびこませながら、こうした教化をかわしている」というミシェル・ド・セルトーの一節を引用したが、読書の楽しみはもともとそういうもので、ただ単にそれが顕在化しなかっただけなのだ。文学者や批評家は「こういう読み方は面白いぞ」と介入していくようなプラットフォームをネット上に作り、読者のひとりとして参入していくしかないのだろう。

ブラックジャックによろしく (13) (モーニングKC (1488))東洋経済の8月29日号「アマゾン特集」で最も興味深かったのは、『ブラックジャックによろしく』や『海猿』の人気漫画家、佐藤秀峰氏が自分のHPで著作の有料配信を開始したという記事だった。これは最も出版社が戦慄する話だろう。それだけではない。佐藤氏と同じ機能を持ったシステムを一般に公開し、誰でも登録さえすれば、自由に自分の作品を発表できるようなマンガのためのインフラを作るつもりだという。それは多くの漫画家が参加する電子コミックを取りまとめたポータルサイトの形式で、佐藤氏のHPもそのうちのひとつにすぎなくなるという。

佐藤氏が出版社や電子書店と組んで共同開発をしなかったのは、中間業者が入ると値段が上がってしまうからだ。漫画家からすれば経費以外がすべて売り上げになるし、読者も既存のサイトよりも安く漫画を読めれば双方の利益になる。これは佐藤氏個人の選択と言うよりは、この先、漫画雑誌が立ち行かなくなって、いずれはなくなるだろうという現状認識がある。著者と読者を直接つないでしまう動きはマンガだけでなく、他のジャンルや書籍一般に関しても出てくるだろう。

□このエントリーは下記の記事を参照




追記:kindle は読書に限定された端末だが、アマゾンがアップルのiPhone 用にもキンドル・アプリケーションを発表している。こちらはキンドルがなくても、iPhone で本が読める。一方、アップルは1月27日に、新しいタブレット型デバイスを発表すると言われている。WSJによると、スクリーンサイズは10インチまたは11インチのタッチパネルで、MacBookのような製品に近いものになるという。もちろん、kindle のように文字を読むことに限定されないマルチメディアプレーヤーである。その主要な用途のひとつに、電子教科書としての利用が挙げられている。それを使って単に読み書きするだけでなく、その場でネットで調べたり、動画やインタラクティブコンテンツを使ってより効果的に授業を行える可能性がある。





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2010年01月21日

電子ブックと書籍の未来(2) 読書の楽しみとは

SONY LIBRIE EBR-1000EP e-Bookリーダーキンドルで本を読んでいて、ふと別の本のことが気になり、それをダウンロードして読み始めたとする。次の本に移ったのはとっさの思いつきだが、それは元の本に書かれていた引用や参照、文中の間接的な示唆などがきっかけになったのかもしれない。いつでも利用できる書店の誕生は、本の売り上げや知識の普及にとっては良いニュースかも知れないが、それは人間が1冊の本に没頭するための集中力を奪うことになる。21世紀の最も限りある重要な資本、それが集中力なのだ。集中力は、ひとつの線に沿い、ひとつのテーマに焦点を当てる読書を求め、ひとつの物語や議論に没頭することを強いるのだ。(写真はアメリカで普及しているソニーの電子ブック「リーダー」の日本版「リブリエ」)

本のデジタル化が進めば、作家の思想や、そこに広がる別世界にどっぷり浸かるという読書の最大の喜びが失われる危険もある。雑誌や新聞と同様に本も雑誌や新聞のようにつまみ食い的に読まれるようになるかもしれない。

しかし、もともと読書というものは持続的な集中力によって直線的に進むものなのだろうか。読書の楽しみはそういう形でしか存在しなかったのだろうか。ミシェル・ド・セルトーは『日常的実践のポイエティーク』の中で次のように書いている。もちろん、これが書かれたのは80年代後半のことで、セルトーはハイパーテキストの存在など知る由もなかった。

「読むという行為はページを横切って迂回しながら漂流する。それによってテクストを変貌させつつ、その歪んだ像を生み出す眼の旅だ。何かふとした語に出会うと想像の空を駆け、瞑想の空を駆ける。軍隊さながら活字が整列している本の表面でひょいと空間をまたぐ。(…)新聞だろうが、プルーストだろうが、テクストはそれを読む者がいないと意味をなさない。テクストは読み手とともに変化していく。テクストは読み手という外部との関係を結んで初めてテクストとなり、2種類の期待が組み合わされてできあがる、共犯と策略のゲームによって初めてテクストとになる。ひとつは読みうる空間(=字義性)が組織する期待、もうひとつは作品の実現化に必要な歩み(=読むこと)が組織する期待である」

セルトーによると、作者が決めた物語や議論の道筋に従って読まなければいけない、と私たちが思っているのは、読書という行為に「主人(=作者)と奴隷(=読者)」、「生産者と消費者」という権力関係が刻印されているからだ。つまり書くことは生産的な行為であるのに対し、読むことは受動的な行為であり、単なる消費にすぎないと考えられている。読者という行為は、このような社会的な権力関係と、詩的操作(=読者によるテクストの再構築)との結節点に位置する。社会的な権力関係は、読者をエリートのほどこす教化に従わせるようにしむけ、指定された道をまっすぐ行くように命じる。しかし、読者は実際のところ、作者の言いなりになっているわけではない。読むという操作によって文化的正統性のすき間に自分たちの創意や工夫をしのびこませながら、こうした教化をかわしている。読書とは寄り道と道草だらけの珍道中なのだ。

セルトーの「ページを横切って迂回しながら漂流する」とか「何かふとした語に出会うと想像の空を駆ける」とか「ひょいと空間をまたぐ」とかいう読者の意識の動きは、キンドルの操作によって、またネットとつながることによって、可視的なものになり、さらには共有可能なものになる。読書という行為が貶められていたのは、それが孤独な隠れた行為で、痕跡や結果が残らなかったからである。直線的な読書を迂回し、押し付けがましい教化をかわしたとしても、それはせいぜい読者の想像力の中でしか起こりえなかった。

電子ブックによって、読者が本と出合う機会や論じ方も変わるだろう。読者同士が公に本の感想をコメントするブログならぬ「ブックログ booklog 」が盛んになり、グーグルは本のページごとや段落ごとにインデックスをつけ、オンライン上で交わされる会話をもとにランク付けを始めるだろう。小説を読みながら不可解な文章に遭遇した場合は、すぐにオンライン上でその文章の本当の意味について、世界中の読者(決して権威のある文学者や批評家ではない)がどのように注釈を加え、解説し、議論しているかを検索するようになるだろう。自分が今まさに読んでいる文章や段落について、いつでも世界の誰かが話し合っている恒久的かつ世界的な読書クラブの誕生することになる。もう誰も孤独ではない。読者はもはや個人的な作業ではなく、世界の見知らぬ人々との会話することができる共同的な行為となる。






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タグ:Kindle
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2010年01月14日

電子ブックと書籍の未来(1) アマゾンのキンドル

週刊 東洋経済 2009年 8/29号 [雑誌]近年、革命的なテクノロジー体験が日常的なものになった。何千曲もの音楽をスットクし、指先で呼び出せるiPodしかり、自宅のパソコンから行きたいレストランの周囲の様子を見れるグーグル・アースしかり、どんなミュージシャンのレア映像も必ず出てくるyoutubeしかりだ。アマゾンの電子書籍「キンドル Kindle 」もそのひとつに加わるのだろう。カフェでビジネス書を読んでいたときに、ふと気になっていた小説が読みたくなる。キンドルの画面を数回タップするだけで、それが数分後に画面に現れるのだ。メールで請求書が届いたときには、小説の1章を読み終えているといった具合だ。

HOW TO USE KINDLE

本のデジタル化とは単にインクがピクセルに替わったということではない。本を読み、本を書き、本を売るということが根本的に変わったのだ。また本は「1冊」の中に完結しないものになり、読書という孤独な行為は共同的、社会的なものになりつつある。かつての文学理論(例えば、間テクスト性=intertexualityとか)において観念的に問題になっていたことが、現実になりつつある。19世紀のフランス文学者は代わり映えのしない白い紙と格闘し、自身の過剰な思考と想像力を受け止めてくれない「1冊の書物」という閉じた紙媒体の限界にいらだっていた。様々な媒体=メディアの限界を接合しながら新しい現実を切り開いて聞くテクノロジーに、今度は私たちの想像力が追いついていかない(このテーマは次回に切り込む)。

具体的な話をしよう。アメリカの出版業界は歴史的な転換の時期を迎えている。それを象徴する出来事が、全米最強の書店チェーン「バーンズ&ノーブル(B&N)」がアマゾンに全米首位の地位を奪われたことだった。B&Nとアマゾンは10年以上も前からライバル関係で、アマゾンがナスダックに上場したとき、アマゾン・キラーとしてオンライン書店「B&M.com」をスタートさせた。当時はすでに巨大な購買力と価格競争力を誇るB&Nがアマゾンを葬り去ると言われたが、アマゾンの独走を止めることさえできなかった。「B&M.com」はナスダック上場を果たすも、業績は低迷し、今や親会社B&Nの完全子会社になってしまった。現在B&Nの時価総額は11億ドル、一方アマゾンは360億ドルとその差は歴然としている。

オンライン書店最大手のアマゾンがリアル書店B&Nに完勝した中で電子ブック端末が急速に普及した。アマゾンが07年11月に売り出した「キンドル」が、09年2月の「キンドル2」、同年6月の「キンドルデラックス」によってさらに成長を加速させている。アメリカでは08年のインターネット経由でダウンロードされた電子書籍コンテンツの売り上げが1億1300万ドルで、07年と比べて68%伸びた。

日本では電子ブックが全く根付かなかったが、それはモノクロ画面で、ページをめくる時間がかかるなど、技術的な問題によるものだった。それは今も変わっていない。なぜアメリカではうまく行ったのか。ひとつはコンテンツの豊富さと安さである。ベストセラー小説をすべてキンドルで読めるうえに、安い。ふたつめの理由は持ち運びやすさである。アメリカのハードカバーは重くて持ち運びに不便。ペーパーバックは紙質が悪く長期間の保存に適していない。キンドルはデラックスで重さは535グラム。その中に3500冊のコンテンツを入れることができる。さらにアメリカ独自の問題もある。新聞業界の衰退のせいで新聞の宅配が止まったり、書店の数が減ったせいで近くで本が買えない人が増えたのである。キンドルならばどんな新聞もどんな本もあっという間にダウンロードできるのだ。

キンドルと対照的な事業展開をしているのが、ソニーの「リーダー」だ。リーダーはアイコンによって操作できるようにインターフェイスを工夫している。ビジネスモデルも対極的だ。アマゾンが自社の圧倒的な顧客基盤を背景に、キンドル独自のファイルフォーマットによってコンテンツを囲い込んでいるのに対し、ソニーは米出版業界標準のEPUBに対応している。このオープン戦略によって、グーグルが味方についた。7月末、ソニーとグーグルが保有する100万冊に及ぶ著作権フリーコンテンツがソニーのリーダーで読めるようになった。コンテンツの量ではアマゾンを凌駕した。

しかし、グーグルのポリシーもオープンであり、ソニーとだけ組むわけではない。グーグルとしては自身が蓄積しているコンテンツに自由にアクセスできる環境作りをしたいわけだ。グーグルは図書館にある著作権が切れた本のデジタル化を進めてきたが、それをケータイ、電子ブックなど、すべてのデバイスによって読めるようにする。さらにはそれをダウンロード販売するような方法も探っているようだ。

もちろん電子ブックには様々な問題がある。本質的なものとして、電子ブックのコンテンツは一体だれものかということだ。紙の本ならば買った人のものだが、アマゾンの購入契約では電子書籍コンテンツの権利はソフトウエアのライセンスに準じている。内容の変更や削除を行っても、コンテンツの購入者は文句を言えない。それは利用権にすぎないわけだ。

しかし、出版社にとってデジタル化の流れは大きなチャンスになるようだ。これまで紙の本は貸し借りできたが、デジタル化はそれを制限できるし、中古本のような2次流通も阻止できる。改訂作業も低コスト。表現方法も大きく変わることになるだろう。

ところで、日本といえば一度電子ブックの普及に失敗したが、キンドルは黒船のように現れた。日本の出版業界は、「出版社」「取次」「書店」というガチガチのシステムに守られてはいるが、それにも風穴が開こうとしている。
(続く)

□「電子ブック・キンドルが目論むデジタル新秩序」in 『週刊 東洋経済 2009年 8/29号 』を参照

□main blog で09年10月28日に掲載




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2009年12月08日

Bloom - iPhone Application by Brian Eno

bloom01.jpgブライアン・イーノはときどきブログの記事で紹介しているが、環境音楽 ambient music の創始者として知られている。環境音楽と言っても、イーノの場合は「音楽が周囲の雰囲気を積極的に定義付ける」と言う点で、単なるBGMでもないし、エリック・サティ Erik Satie の「家具の音楽」ともコンセプトが違う。イーノの音楽は、人の感受性を研ぎ澄ませ、人から想像力を引き出し、周囲の風景に新しい意味を与えるような音楽だ。

あまり知られていないが、Windows 95 の起動音 The Microsoft Sound はイーノの作曲によるもので、それは彼の音楽作品よりもはるかに多くの人に、はるかに頻繁に聞かれたことになる。イーノとよくコラボしている盟友、ロバート・フリップ Robert Fripp も Windows Vista のサウンドを担当している。彼らが密かにネットの世界で活躍しているとは意外だった。

そのイーノが iPhone のために Bloom というアプリケーションを制作した(すでに去年のことだが)。Bloom は私のHNやブログのタイトルに含まれている語なので、とても親近感がわく。Bloom は楽器であり、音楽作品であり、アートである。こういうセンスはアップルならではって感じがする。動画を見るとわかるが、スクリーンの上にタッチすると、単音とともにパステルカラーの水玉が現れては消えていく。単音はやがてループを成して音楽になる。音楽はアプリの自動生成にまかせることもできる。



未来感覚と癒しと美しさ。イーノの Ambient シリーズを愛聴してきたが、iPhone というモバイルに組み込まれた Bloom はその先鋭形態であることを実感できる。

apple store – apps for iphone - bloom

Harold Budd + Brian Eno - The Plateaux of Mirror (from "Ambient 2")

誰かが Bloom の発表を記念して iPhone の pocketguitar でイーノの名曲 by this river を弾いている。何て粋な。

Brian Eno - By the river(pocketguitar version)

Ambient 2: The Plateaux of Mirror
Harold Budd & Brian Eno
Virgin UK (2008-07-08)
売り上げランキング: 10923
おすすめ度の平均: 5.0
5落ち着ける曲
5アンビエントの名盤
4初心者ですが
5イーノの最高傑作
5深く思いに沈み…




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タグ:BLOOM eno iPhone
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2009年07月30日

予防原則 principe de précaution

グーグル・アースやストリート・ビューは監視技術と重なる面もあるが、基本的にはユーザーの利便性や個人の自由な行動に結びついている。私たちは今までにない利便性や自由を享受しながら、一方でグーグルのアプローチが可視化されていないことに一種の気持ち悪さを感じる。向こうからこちらが見えているようだが、こちらからは何も見えないという非対称的な関係に置かれている。私たちはアマゾンのオススメ機能やグーグルのパーソナルな広告にも同じような不透明さを感じる。どのような情報や自分の属性をもとにして、どのような計算が行われ、商品と自分のあいだにどのような相関関係が見出されたのかというプロセスはユーザーには開示されないからである。それは私たちのプライバシーを侵害しているように感じられるのだ。

今回は携帯電話について考えてみる。問題にするのはケータイの電磁波である。プライバシーに関していえば、個人の健康に対する影響ということになる。先週、TF1のニュースを見ていたら、フランスでケータイの中継アンテナ(antenne relais 日本では「基地局」と呼んでいる)から出る電磁波の危険性に関する議論が再燃しているようだ。TF1では二つのニュースが流れていたが、それぞれのタイトルは「中継アンテナを恐れるべきなのか?」「どうやって電磁波を避けるか」(後者はリンク切れ)である。

Téléphonie mobile : Faut-il avoir peur des antennes-relais ?
■Enquête du 20h - La fronde contre les antennes-relais de téléphonie mobile se généralise. Le mois dernier, deux opérateurs, SFR et Bouygues Telecom, ont été condamnés au nom du principe de précaution à démonter leurs équipements à la suite de plaintes. Pour l'Académie de médecine, le risque n'est pourtant pas démontré.

Comment éviter les ondes électromagnétiques
■Internet sans fil, micro-ondes, portables, les ondes électromagnétiques sont de plus en plus nombreuses dans notre quotidien. Et alors que des études sanitaires sont en cours, voici nos conseils pour réduire les risques.

基地局とは上を見上げるとマンションの屋上に立っているアレである。とりわけ子供への影響が危惧されているようだ。ヨーロッパのいくつかの国ではすでに電磁波は規制されているのに(オーストリアが最も厳しい基準値を設けている)、なぜフランスでは基地局から出る電磁波を規制しないのかと。フランス政府はケータイ会社と一緒になって一方的に安全だと主張してきたが、それと矛盾する調査がいくつも出てきたので、近いうちに議論の席に着くことを余儀なくされている(今月26日に会議が行われる)。日本ではケータイのCMはガンガン流れているけれど、全くそういうアナウンスがない。ケータイ会社は巨額の広告費を払ってくれるお得意さんなので、メディアはそれに不利になる情報は決して流さない。スポンサータブーってやつだ。

電磁波の身体への直接の影響だけでなく、この種の問題特有の不透明さからくる心理的影響もあるのだろう。グーグル・アースの場合、プライバシーの侵害は事実として確認できる。映っているか、いないかの問題だから。電磁波の場合はわからない。測定器で測ることはできるが、どの値を基準にすればいいのか専門家によっても意見が分かれるだろうし、人によっても健康に現われる影響は違うだろう(テレビのニュースのように、計測器がガーガー鳴るとイヤなものである)。一方で、電磁波過敏症と呼ばれる、電磁波の影響を受けやすい人たちが確実に存在するようだ。この不透明さは現代の本質的な不安と言えるだろう。放射能汚染、食品汚染、地球温暖化、テロリストに至るまで、この手の見えない不安には事欠かない。

企業天国の日本では、最大限の利益を上げるために規制は最小限にとどめるべきという考えが支配的で、ケータイ事業に関しても「危険性が確認されなければ規制されるべきではない」ということになっている。企業は基地局に反対する住民の主張に対して「科学的ではない」「因果関係を立証できない」と反論するが、一方で決して自分から「積極的に」安全性を立証しようとはしない。本来疑いがあれば、企業が自ら積極的に立証すべきはずだが、企業側の論理は「危険性が立証されなければ安全」、つまり「相手が立証できないのだから、こちらの勝ち」そして「疑わしきはOK」というわけだ。

これに対してヨーロッパでは予防原則(英precautionary principle 仏 principe de précaution)という考えが打ち出されている。環境や健康の問題の因果関係が明らかになったときには手遅れになるので、被害を最小限とする予防的措置を取るべきだという考え方である。ヨーロッパでは電磁波を規制する法律にこの予防原則が反映されているが、そうでない日本では裁判に持ち込んでもなかなか勝てないようだ。予防原則を訴える住民に対して、最近の大分での判決は「予防原則の適用は立法論。適用の可否や範囲は国民全体、住民全体が選択すべき政策的な判断だ」と言っている。つまり、日本では法律に反映されるどころか、そういう議論も起こらないのだからしょうがないというわけだ。

もちろん、基地局は私たちのモバイル社会を成り立たせている基幹的なインフラである。モバイルがモバイルであるためにはすべての地域を網羅しなければならない。ケータイは世界中の人々とのコミュニケーションをうたってきたが、その背後には地道な基地局の建設がある。「広がり」とともに重要なのは「速さ」である。モバイルの技術の刷新のサイクルは早く、通信速度が上がればそれだけ基地局の出力も上がる。

私たちはケータイに対して輝かしい未来のイメージを抱きがちである。私たちの日常性に直接結びついているわかりやすい未来だからだ。しかし、ケータイの便利さとは何なのか、その利便性は何を引き替えにしているか、ということを立ち止まって考える時期にあるのかもしれない。テクノロジーはあくまで人間が使いこなすものであって、人間がテクノロジーに奉仕するわけではない。ケータイはグーグル・アースより日常に浸透し、身体とも一体化しているだけに、はるかに「テクノロジック」である。その使いこなしの中には、電磁波問題との折り合いも含まれるのだろう。

日本の電磁波関連ニュース




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2009年07月07日

GOOGLE EARTH + STREET VIEW

The Google Story: For Google's 10th Birthdayグーグルの野望は世界中に眠る情報をすべてインデックス化することらしいが、それは空間の情報化=征服にも向かっている。最近公開された「Google Earth」の新機能「Ocean in Google Earth」を使えば、鮮明な画像で海洋探索を楽しめる。さらには、Google Mars 3Dを利用すれば、高解像度画像を通じて火星にある巨大なビクトリア・クレーターを探検することも可能だ。

それは軍事バランスにまでも影響を与えている。パレスチナの軍事組織は攻撃計画にグーグル・アースを活用しているらしいし、以前ならば一般人の目に触れるはずもなかった軍事機密を簡単に見ることができるようにもなった。グーグルアースで用いられている衛星写真の分解能力は10年前の軍事衛星の水準に達しているという。衛星写真による機密漏洩を防ぐため、中国軍が新たな隠蔽技術開発に乗り出したことも報じられていた。

グーグルの先端技術は個人のプライバシーとも衝突している。インターネットで地域画像を閲覧できるグーグルのサービス「ストリートビュー(SV)」をめぐり、日本で全国の議会や弁護士会などから中止や改善を求める声が相次いでいる。「ストリートビュー」は検索サービス「グーグルマップ」の付加機能で、日本では去年の8月5日から東京や大阪、京都、神戸など12都市を対象に開始。地図の道路をクリックすると、高さ2・5メートル(車に設置したカメラの高さ)からの360度パノラマ写真を見ることができる。

みんな自分の家がどう映っているのか気になるようだが、実際見てみるとベランダの洗濯物が写っていたり、表札や車のナンバーが読み取れたり、明らかなプライバシー侵害が認められるケースが少なくないようだ。去年、グーグル・アースを使って金持ちの邸宅を調べ、留守中に仲間を呼んでプールサイドでパーティーをするという愉快犯のニュースもあった。

先日行ったレストランのサイトにストリート・ビューがついていたので、店の周囲の様子を見てみたが、店の前に立って周囲を見回す視界が得られる。実際そこに行ったとき、奇妙なデジャヴュ感覚に襲われた。デジャヴュ(déjà-vu フランス語で「すでに見た」の意)そのものだが、自分を見失うような錯覚の経験であったデジャヴュが、あからさまで透明な体験になってしまったわけだ。

フランスの社会学者、ジャック・エリュール Jacques Ellul はテクノロジック la technologique という言葉を使い、ラディカルなテクノロジー批判を展開した。エリュールはエコロジー的な思想の先駆けともなった人物で、イヴァン・イリイチやジョゼ・ボヴェにも影響を与えた。テクノロジーを社会に組み込み、テクノロジーが不可欠な社会的世界を構築する。それがテクノロジックである。本来テクノロジーは手段であるはずなのに、それが自己目的化し、自動的に、自己拡大的に動き始めるのだ。それは最適な作動様態を執拗に探し求め、それを操作する人間までも侵食する。人間のための最適化ではなく、テクノロジーはそのものへの最適化を追求するのだ。まさにグーグル・アースの問題そのものである。

グーグル・アースは監視を目的としているわけではないが、すべてのものを見せたい=見たいという欲望がある以上、監視と同じ視線を共有することになる。それも国家の軍事的な監視技術とぶつかりあうレベルにある。現在の監視技術が実効性の追求からも切り離され、自己目的化しているように、グーグルの技術も、テクノロジーによって知覚を完全なものにしたいという欲望のままに突き進んでいる。しかし、その社会的な影響には無頓着で、そのテクノロジー信仰と拡大志向にはある種の無邪気さすら感じてしまう。テクノロジーの可能性をとことん追求してしまう強い欲望は、エリュールによると、宗教的な根源に根を張っているという。つまり、西洋人は超越的基準への参照なしには社会的な問題を解決できないのだ。監視技術を「神の視線」に似せながら、すべてを照らし出していくことは、彼らにとって違和感のない行為なのだろう。




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2009年06月24日

youtubeでギターレッスン

以前、キャベツ頭さんがギターとギター教本を買って、ギターの練習を始めたら、いきなり弦が切れて、その先に進めなくなったと書いていたが、ギターの弦は相変わらず切れたままなのだろうか。

Led Zeppelin IV Presence

小学1年生の息子がなぜかツェッペリンにはまり、「天国への階段」をギターで弾いてみたいと言い出したので、親バカにもいそいそと楽器店に行って、4分の3サイズのギターを買ってやったのだけど、弦を指でハジいてみたり、ギターの絵を描いてみたりと、さずがに戯れているのが精一杯って感じなので、ギターを教える前に、こちらが思い出さなくてはと専ら私が練習している始末。思えば、ギターに触るのは15年ぶり。震災で愛用のストラトキャスター(安物)を無くしたのだった。

何となく指の感覚は覚えているので、いまさら教本を買うこともないしなと思っていたら、youtubeに懇切丁寧なギターレッスンが山のようにアップされているではないか。フレットの位置と手の形を見せてもらえば、思い出すのも早い。タブ譜を集めたサイトもあり、弾きたい曲を一発で検索できる。耳コピーしたり、不親切な楽譜と格闘していた頃とはえらい違いだ。

少年が弾く「天国への階段」

指の感覚とともに、昔の青臭い思い出もよみがえってきて、思わずギターを弾きながらピンク・フロイドの「Wish You Were Here」を歌ったりなんかして。フロイドの歌詞って今の歳になって聴き直すといっそう味わい深く、若いときとは違った感慨がある。この歌詞なんて齢を重ねないと実感がわかないだろう。

How I wish, how I wish you were here
We're just two lost souls swimming in a fish bowl, year after year
Running over the same old ground
What have you found?
The same old fears
Wish you were here

Steve Howe(Yes)-Clap-Guitar Lesson
PinkFloyd-Wish You Were Here-Guitar Lesson

Wish You Were Here Rubber Soul

ツェッペリンにしても、ギターの凄さを再認識。ジミー・ペイジほど多彩で切れ味鋭いコードを奏でるギタリストはいない。これを先に聴いたものだから、ビートルズがあまりにも甘ったるく聞こえてしまった。ペイジのギターを堪能できる最高の名曲 Achilles Last Stand でギターレッスン。

Led Zeppelin-Baby, Achilles Last Stand - Guitar

ギターを弾いてみたくなるフランス語の歌がなかなか思いつかない。ミッシェル・ポルナレフの「ノンノン人形」?実はこの曲のギターはツェッペリンのジミー・ペイジが弾いているのだが、これもちゃんとアップしているフランス人がいる。

M. Polnareff-La poupee qui fait non-Guitar

もうひとつはビートルズの「ミッシェル」。これはビートルズの公式発表曲の中でフランス語が使われている唯一の曲。ついでに言うと、この曲が収録されているアルバム「Rubber Soul」には小説の映画化が話題の「ノルウェイの森」も入っている。

Michelle, ma belle
These are words that go together well
My Michelle

Michelle, ma belle
Sont les mots qui vont très bien ensemble
Très bien ensemble

歌詞は、Michelle と ma belle の音の組み合わせがいいっていう他愛のない内容。vont(原形は aller)には「調和する」という意味がある。さあ、みんなで Let's try!

The Beatles-Michelle-Guitar Lesson





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2009年04月25日

「iPodは何を変えたのか?」(4) PERFECT DJ

iPodは何を変えたのか?iPodが自分にとっての完全なDJになれば、本物のDJなんて要らない。シャッフルはランダムに曲順を決めているに過ぎないが、そこに魔法を感じている人がいる。しかし、そこに本当の意図が関わるとしたら。つまり、本当に自分の趣味と、そのときの気分に合った曲を選んでくれるとしたら。そういう魔法みたいなことをもくろむ企業が実際に動き出している。DJのセンスや趣味をコンピュータに置き換えようという、新しい音楽産業の動きだ。

少し前にexquiseさんがiTuneのGeniusという機能を紹介してくれたが、Geniusを起動させると、ライブラリに入っている曲全体を分析して、その人の好みだと思われる曲を探し出す。たとえばある曲を選択すると、その曲に相性がよさそうな曲をライブラリのなかからピックアップして新しいプレイリストを作成してくれたり、ライブラリにないお薦めの曲を探し出してくれたりする。

GeniusはデジタルDJの第一歩なのだろう。「iPodは何を変えたのか」が書かれたときはGeniusはまだ存在していなかったのだろうが、デジタル音楽の分類・研究で商業的な成功を収めている小さな企業が紹介されている。Geniusと重なり合う話だ。これらの企業の究極の目標は、慣れ親しんだ曲の快適さと飽きさせない多様性を巧みにブレンドしたパーフェクトな曲順で、リスナーの耳にデジタル音楽を届けることなのだという。

こうした会社が音楽を分類するための2つのアプローチがある。ひとつは数十人の音楽専門家を雇い、手(耳)作業で行う。専門家たちはブルース、ポストパンク、オルタナティブなど、小さなカテゴリーのマニアで、自分が引き受けた領域に関してはすべてを知り尽くしている。彼らは担当のカテゴリーの音楽をすべて聴きとおし、さらなる詳細なカテゴリーにしたがってカタログ化する。これが集められ、体系的なデータベースになる。コンピュータ・アルゴリズムがそれを活用して、適切な曲を適切なタイミングで再生するのだ。

もうひとつは、音楽ファイル自体を数学的に分析する。音楽は感情を初めとする様々な感覚的な要素の集合体で数値化なんて不可能だという反論もあるだろうが、現在、音楽ファイルの中にある謎を解き明かし、音楽の究極的な本質を探し当てるために、業界挙げて競い合っているのだと言う。それを目指して設立された会社のひとつは、音楽のDNAを解明すること。すでにタワーレコードなどと契約して、サイトの顧客にお薦めプレイリストを提供しているという。

その会社には音楽理論を専攻した30人の音楽アナリストがいる。彼らは新しい曲が届くたびに2、30分かけて集中的に分析を行い、400種類もの変数=遺伝子を確認する。歌声の感情的な傾向を特徴化するだけでも音色、ビブラート、ピッチ、レンジなど32種類に及ぶ。この方法論をすべての楽器に適用し、アナリストは曲を完全にデータ化する。この音楽のゲノム・プロジェクトを活用すれば、DJが聴き手の趣味に合わせてプレイリストを作る作業を完全に自動化できるというわけだ。

MITメディア研究所のブライアン・ホイットマンとコロンビア大学デローザ研究所のダニエル・エリスが共同執筆した「自動レコード批評」がこの分野の最も重要な研究成果だという。この論文は、デジタル形式の楽曲ファイルの解析紀結果とインターネット上で検索した音楽関連テキストの意味解析を組み合わせることで、該当する曲やアルバムを聞かなくても「適切なレコード批評をコンピュータで自動生成できる」と主張している。ロック評論家の文章は読み物や思い入れとしては面白いが、実際にその音楽が自分の好みにあうのかは確かに別の問題である。そういうものを断ち切り、「将来的な検索作業のための意味論的な価値を最大化した」レビューが作成可能だというのだ。アメリカ的な本質主義、合理主義もここまで徹底されると唖然とせざるを得ない。

「(これらの音楽解析システムは)、歌詞のつながりやバンド間の系統的な関係を巧みに駆使したり、スムーズな曲のつなぎを行ったりすることで、曲が切り替わるたびに興奮させてくれるだろう。大好きなアーティストの最新曲や、まだ聴いたことがないけれど趣味にぴったりあうはずのバンドの曲が音楽コレクションに自動的に取り込まれ、運動を始めたらIPODが心拍数の上昇に気がつき、理想的なトレーニング向けのプレイリストを再生してくれる。そんなデジタルDJの時代がくるのもそう遠いことではないのかもしれない」

このように著者はデジタルDJの時代の到来を予想しているが、果たして音楽の本質は音楽の中にあるのだろうか。音楽の主導権は常に聴き手の側にあり、音楽とは聴き手と音楽との対話なのだ、とういう考え方もできる。聴き手にしても、そのときの状況や環境に大きく左右される。そういう外部の情報のすべてを取り込むのは不可能だろう。「心拍数が上昇」したのは運動を始めたからではなく、好きな女の子に出会ったからかもしれないのだ。

自分にとって心地よい音楽だけを「孤独に」聴き続ける。デジタルDJはそういうリスナーにとっては自分を見守ってくれる天使のような存在なのかもしれない。天使というよりは、子供の行動に先回りして世話を焼く母親みたいだ。ロック評論の文章が実際の音楽と直接関係ないにしても、それは音楽をめぐるコミュニケーションの重要な一部なのだ。音楽について話すとか、音楽によって人間関係が生まれるとか、その関係の中で考え方が変わるとか、嫌いだった音楽を見直すとか、そういうことを含めて音楽なのである。音楽のゲノム・プロジェクトはパーフェクトなお薦め音楽を提供するといいながら、リスナーを完全にコントロールしよういう欲望に基づいている。音楽を完全にデータ化できるという発想は、音楽に対する人間の反応もパターン化できるという決定論である。私のようなひねくれ者は、それだけですでに大きなお世話だと言いたくなる。音楽の本質は何よりも自由な感覚にあることを忘れてはいけないのだ。

とはいえ、私にとってパーフェクトなプレイリストを作ってくれるというならば、それがどんなものになるのか興味津々ではある。その興味とは、ゲーム的な興味であり(「次はこう来たか!」みたいな)、そしてどうやってデジタルDJの囲い込みから逃げるかである。

「iPodは何を変えたのか?」(3) SHUFFLE





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2009年04月23日

YOUTUBE 礼賛

BRUTUS (ブルータス) 2008年 12/15号 [雑誌]今週のBRUTUS (ブルータス、2008年 12/15号)はyoutube特集。日本では一人当たり1時間14分13秒、youtubeを見るのだという(そうすると、私は平均的なyoutubeのユーザーということか)。そして現在アップされている動画を全部見るには20世紀もかかってしまうらしい。最近は著作権対策として、ビデオIDによって削除する方法が使われている。著作権者がビデオのIDのデータを送り、それと一致した動画がアップされた場合、著作権者に報告される。それに対して動画を削除するか、残すか、広告を入れるか選択できる。多くの場合、削除せずに広告を入れるのだという。それが合理的な選択なのだろう。

圧倒的なユーザーの支持の前に、著作権の意味が相対的に失われつつある。情報をスムーズに流通させることがネットの世界において最優先されるし、それを考慮に入れたこれまでの著作権とは別の対価の回収方法が模索されているのだろう。結局、著作権は「著者が決定した完全版が本屋を通して売られる」という情報流動性の低い印刷文化の産物なのだ。またその根底には偉大な作者のテクストを神聖不可侵のものとみなすロマン主義的な発想がある。今やテクストは著者の意図を尊重するためにあるのではない。意のままに呼び出し、書き換え、再編集するためにこそあるのだ。

世界の情報化、インデックス化はグーグルと言う企業が主導しているとすれば、youtubeはグローバル化の動きに乗って、世界で記憶(=動画)を共有しようという壮大な試みなのだろう。創業者は当初「結婚式やホームビデオ」などのささやかな投稿サイトを想定していたようだが、今や、自分の記憶を残したい、人に見せたいという国境を越えた欲望が一種の集合的な記憶になり、一種のデータベースのようになって、世界(空間)と時代(時間)を網羅していくダイナミックな動きの中にある。

見たい映像はとりあえず出てくる。Youtubeは検索の力を再認識させる。これまで視聴者の選択の幅はせいぜいチャンネルを変えることくらいだった。しかしYoutubeによって見たいものをピンポイントで探せるようになった。欲望は正確に実現されるのだ。子供が保育園で「ピンポンパン体操」をやっているというので、自分が見ていたリアルタイムの「ピンポンパン」を見せてやったり、私が小さい頃に見た「赤影」の主題歌を一緒に歌ったりする。また昔聴いていたバンドのレア映像がどんどんアップされている。ついさっき、FOCUSの「悪魔の呪文 HOCUS POCUS」のライブ(73年)を見ていたところだ(ヨーデルをフィーチャーしたハードロックで、オルガン&ボーカルのタイスの怪演ぶりが凄い)。FOCUSは高校生のとき(80年代)ライブ・アルバムを愛聴していたが、こんなふうに手軽にライブ映像を楽しめる日が来るなんて夢にも思わなかった。つまり80年代から眺めた70年代よりも、21世紀から眺める70年代の方が比較にならないほどリアルなのだ。

グーグルアースやGPSが空間認識を変えるたように、youtubeは時間や時代の感覚を変えようとしている。大量の動画が集積されることで、結果的に各時代が網羅的にデータベース化され、あたかも脳の中でそうするように、それを意のままに呼び出せる。時間の感覚を喪失させるタイムマシーンのようだとは言いすぎだろうか。

私にとってyoutubeを見ることは記憶を探したり、たどったりするのと同義だ。とりわけロックとかアニメとか、サブカルチャー体験の話だ。サブカル世代はサブカルそのものが記憶や時代感覚を作っているから。「赤影」の主題歌を子供と一緒に歌っていると、奇妙な感覚に襲われる。私と私の子供の関係は、私と私の親のような関係ではない。私と子供のあいだにはメディア体験において連続性がある。しかし、子供の方は特別なものとしてこれに触れているわけではない。私が子供の頃のような番組の選択肢の少ない中でのかけがえのない体験ではなく、無数の情報の中でたまたま出会ったひとつにすぎない。だからyoutubeを時代が刻印された記憶庫のように感じるのは、私の世代的な感慨にすぎないのかもしれない。ポストヒストリーな状況に育った世代にとっては、最初から世界は平面状にデータベース化されている。youtubeはそれをさらに網羅的に徹底させたわけだ。

最近は著作権問題をクリアしながら、新しいビジネスモデルを生み出し、さらにはyoutubeを活用した新たなカルチャー・シーンも仕掛けられている。以前紹介した「テクトニック tecktonik」もそのひとつ。

※この記事は昨年の12月のもの。上でも書いたビデオIDの活用によって著作権派の巻き返しが起こっているようで、youtubeのお気に入り動画が次々と削除されている。「空耳アワー」なんてほとんど消えてしまった。人気番組=コンテンツを著作権によって囲い込むのではなくて、もっともみんなが楽しめるような形で活用できるアイデアはないものだろうか。ただ単に囲い込んでも利益にならないだろうに。

BRUTUS (ブルータス) 2008年 12/15号 [雑誌]

マガジンハウス
おすすめ度の平均: 5.0
5 YOUTUBE特集:マニアックユーザー
による推薦352動画は必見





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2009年04月15日

WiiにOui - フランス老人ホームのレクリエーション

2006年12月に発売された任天堂 Wii.
日本では,リーマン・ショック以降,世界同時不況下においても,安定した業績を維持する企業の主戦力の一つとしてマスコミで取り上げられることが多いが,つい先日,フランスでもいくつかのメディアで Wii が話題になった.

Wii(「Wiiリモコンジャケット」同梱)11月26日付けの Le Parisien 紙によると,仏国内において業界3位の大手老人ホームグループ・メディカ社が,任天堂とパートナーシップを結び,その89の施設で Wii をオフィシャルに設置したとのこと.

老人ホームでの Wii の使用は,アメリカではすでに昨年より始まっていたようだが,フランスではモンペリエの老人ホームで試験的に採用されたことが話題となり,今回の大規模な導入に至ったようだ.

"La Wii réveille les maisons de retraite"
( Wii が老人ホームを目覚めさせる)

Le Parisien 紙は,このように見出しを付けていたが,ボーリングやテニス,さらにボクシングまで,もはや現実には断念せざるを得ないスポーツを,ヴァーチャルとはいえ体験することは,高齢者にとって,確かに自己の身体感覚を取り戻すことができる唯一の機会なのかもしれない.

このニュースは,同日付けの Europe.1 の放送でも報道されていたが,Le Parisien 紙と同様,極めて好意的な紹介になっていた.

Wii に Oui ということなのである.


leparisien
europe1




キャベツ頭の男

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2009年04月09日

フランス人も注目、日本のケータイ小説(1)

恋空 プレミアム・エディション (初回生産限定版)この本の帯は正式のものだが、それには次のように書かれている。2500万人の日本人がすでに『恋空』を読んでいる。しかし、この本は本屋に並んだばかりである。これは嘘なのだろうか。いや全くそうではない。『恋空』はデジタル時代の最初のベストセラーのひとつなのである。この本が実績を積んだのはケータイ向けのサイトである。『恋空』を読んだこともないし、映画も、TVドラマを見たことがないという15歳から24歳の日本女性を探すのは難しい。ミカ(美嘉)という名前の、それまで無名だった日本人女性は自分自身の話として語っていると断言しているが、『恋空』が成功したのはその内容が現代的だからだ。小説の中ではケータイが重要な役割を果たしているが、その小説を広めたのもケータイなのだ。ケータイは言うまでもなく、今世紀初めのカルトなオブジェである。

「クリアネス」や「ディープ・ラブ」、もっと最近の「チェンジ・ザ・ゲーム」と同様、恋空はケータイ小説のひとつだ。文字通り、それはケータイのデジタル・キーボードで書かれ、その小さな画面で読まれる。

そのコンセプトは数年前から現れていたが、2007年に少女たちのあいだで真の社会現象になった。彼女たちはケータイを手放さず、小説やマンガをむさぼり読んでいる。彼女のたちは、ケータイ小説に特化されたバーチャルな本棚からめぼしいものを探しながら、交通機関での移動中に無限の時間を過ごす。サイトにはジャンル別に分類され、読者のコメントがついた何千もの小説が並んでいる。

恋空〈上〉―切ナイ恋物語明らかに従来の小説家たちはケータイ小説を軽蔑している。彼らにとってこれらのデジタル小説は、面白みのないフレーズの寄せ集めに過ぎない。きちんとしたスタイルもなく、しばしば卑俗的で、筋は見えすいていて、分からない人には全くわからないジャーゴン(内輪にしか通じない言葉)による終わりのない対話が続く。確かに小さいスクリーンや、ケータイの技術的な能力が制限する文体のモードのせいで、微妙なニュアンスを出したり、使用頻度の低い言葉を使うことも出来ない。しかし、それはタブーのない、読むのが簡単で、若者の関心事を描いた文章しか求めていないのだ。

こうしたジャンルの信奉者である小悪魔的少女たちは、彼女たちにとって不可欠なケータイで、1日に2、3時間読むのだ。その小説が一筋の涙を流させるやいなや彼女たちはすぐに友だちにメールを送る。そして今度は彼女たちがその作品に飛びつくのだ。すぐにダウンロード・カウンターが暴れだす。『恋空』はそんな感じで2500万人を記録した。

昔からの出版社がケータイ小説の成功に気がつかないはずはない。彼らはこのような潜在的な利益を見逃すわけにはいかない。とりわけ、商売になりうるものすべてが最大限に開拓される社会、とりわけ女性の消費者が絶えず最新のガジェット(自分たちの仲間にもヒットするような)を逃すまいと狙っているような社会においてはそうなのだ。

出版社にとって最も重要なことは大人の読者を獲得することである。そこから本屋のショーウインドーの派手な帯を作らなければならない。子供たちが情熱を傾ける小説に自分も身を投じてみたいと思わせるような帯だ。

視聴者が偶然、ある晩のゴールデンタイムにザッピングをしていて、ある民放が小説と同じストーリーのドラマを放送していたとしよう。ほとんど確実なことは、視聴者はすでに背後に流れている音楽を知っているということだ。それラジオや店でしょっちゅう耳にしているからだ。小説を読む時間がなければ、マンガがある。さらに安心なことにはDVDも出るだろう。運が良ければケータイのストラップのおまけも付いてくる。書籍化された『恋空』は450万部も売れ、300万人が映画版の『恋空』を見た…。

(2008年9月11日付『ル・モンド』「デジタル・ベストセラーの時代の日本」より抜粋)

LE JAPON A L'ERE DU BEST-SELLER NUMERIQUE
11 SEP 2008 LE MONDE
par KARYN POUPEE



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2009年02月21日

Genius

ChangesiPod を使っておられる皆さんは、すなわちパソコンで iTunes をお使いだということになるわけだが、最新バージョンの iTunes に入っている Genius という機能をお試しになられただろうか。これは起動させると、その人のライブラリに入っている曲全体を分析して、その人ごのみだと思われる曲を探し出す、というものである。たとえばある曲を選択すると、その曲に相性がよさそうな曲をライブラリのなかからピックアップして、新しいプレイリストを作成してくれるわけで、自分では思いもつかなかった曲どうしの組み合わせが生まれてくる。


さらにすごいのは、ライブラリにない曲からおすすめの曲を探し出してくる、という機能だ。それらの曲は少しの間だけだが試聴することもでき、気になったアーティストはそこから iTunes Store へ移動してアーティストの情報を得たり他の曲を聴いたりすることもできる。さらに気に入ればダウンロードで曲を購入することもできるのだ。もちろん今までも iTunes Store は存在して曲単位でのダウンロード販売をしていたのだが、今回 Genius が登場したことで、個人のライブラリと無数に存在する世界中の音楽がより接近したといえるだろう。


具体例として私の iTunes のライブラリから Tahiti 80 のChanges を選択してみよう。サイドバーにはまず、Tahiti 80 自身の曲でライブラリに入っていないアルバムや曲が紹介され、その下におすすめとして 10 曲ほど別のアーティストの曲があがっている。

So Light / Benny Sings
Rose / Who Made Who
Skitzo Dancer, Pt.1 / Scenario Rock
Numero 1 / Sourya
Living in a Magazine / Zoot Woman
On My Mind / The Sunday Drivers
  :
  :

I LOVE YOU・・・LIVE AT THE BIMHUIS出てきたのはまったく知らない人ばかり。たまたま2曲分の無料クーポンがあったので、挙げられた曲や、同じアーティストの別の曲をさんざん試聴したあと、興味をもった Benny Sings の Little Donna と Sourya の Sleeping Beauty の2曲を購入してみた。


前者はオランダ出身のシンガーソングライターが歌う、聴きやすいまさに王道のポップスなのだが、決して平凡な音ではなく表情豊かな魅力的な曲だった。タヒチのほかにもギルバート・オサリバンやスティーヴィー・ワンダーが好きな人にもおすすめできる曲だろう。


後者は2004年にパリでデビューした3人組のインディー・バンドぐらいの情報しかないが、この曲はダウンテンポ系でエールや Zero 7 などのテイストに近い。これは彼らの曲が多く入っている私のライブラリから判断した結果だということか。


sourya.jpg来日も果たしていてある程度の知名度はある Benny Sings はまだしも、4曲入りEPしか発表していない Sourya などは、このシステムがなければ巡り会う機会はほとんどなかっただろう。Genius は個人のライブラリという閉ざされた領域を縦横に広がっている未知の音楽スペースへ開く扉みたいなものに思える(もちろんそこには「ビジネス」が思いっきり絡んでくるのだが)。


Genius が登場したことで、iTunes 上では「アルバム」という概念がさらに崩壊してしまった。10代のときにレコードというメディアが中心だった身としては、このような状況になるとは予想もしていなかったし、いろんな店を渡り歩いて1枚のアルバムを探しまくったり、参加者や曲名、あるいはジャケットのみで中身を予想して買うというギャンブルみたいなことをやったり、という楽しみはもはや失われてしまうのかもしれないと思うと寂しい。しかし一方でCDショップでは手にもとらなかったであろうアーティストの作品と接触するチャンスを家にいながら与えられるこのシステムは、音楽の新しい聴き方を提示してくれてもいる。アーティストの側でも今後このような状況に対応した動きを見せてくるだろうし、音楽を聴くという行為は新しい方向へさらに進んでいくのかもしれない。



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2009年02月12日

「iPodは何を変えたのか?」(3) SHUFFLE

Apple iPod shuffle 1GB ブルー MB227J/A少し前に「SHUFFLE! SHUFFLE! SHUFFLE!」という記事を書いたが、この本を読んでさらにシャッフル機能の奥の深さを思い知らされた。スティーブ・ジョブスが iPod Shuffle をラインナップに加えたのは、予算の厳しい人たちにもiPodを使えるようにという思いだけでなく、シャッフル機能の人気ぶりに気がついていたからだった。

現実的な問題として、ひとりの人間が何千曲もの音楽を相手にできるわけがない。容量が爆発的に増えても、人間のキャパは変わらない。取り込まれる音楽の総時間は人間の日常的な時間を越えていて、一日中聴きっぱなしにしなければ時間が足りないだろう。そこでランダムに抜き取る形で、シャッフルは膨大なライブラリーと人間の日常をすり合わせる。これは過剰な情報に対処するひとつのモデルにもなるだろう。

あるユーザーたちにとって偶然が曲を選ぶことはロマンティックというより、むしろスリリングな体験なようだ。著者は「スティーリー・ダン問題」に悩まされていた。それは彼のiPodがスティーリー・ダンを贔屓しているとしか思えないということだった。それを「NEWSWEEK」で記事にすると、「やっぱりそうなんだ」と多くの読者の賛同を得ることになった。シャッフルのランダム性には疑念が持たれていたのだ。シャッフルは本当に偏りがなく、公平に曲を選んでいるのか。著者は実際にスティーブ・ジョブスに聞いてみた。ジョブスが担当のエンジニアに答えさせたところによると「シャッフルの再生曲順は絶対にランダム」ということだった。

しかし、シャッフルが本当にランダムだと信じているユーザーは少なかった。あるユーザーはビートルズを全曲入れているのに、Get Back ばかりかけると言い、別のユーザーは夏なのにクリスマスソングしかかけないと不平をもらす。最も興味深いのは、iPodには状況に合わせて曲を選ぶ神秘的な力があると信じている多くのユーザーがいたことだ。

これに対して専門家は次のように答える。

「人間はしばしば、本当はランダムな出来事から何らかのパターンを読み取ったり、ときには、無理やりこじつけたりするものなんです。音楽のような感情を喚起するものならなおさらです」

「私たちの脳はランダムさを理解するようにできてはいないんです。何しろ、人間はランダムな分布に対応できないことに付け込んだ巨大産業だってあるくらいですから。そうギャンブルのことですよ」

著者は「勝負強いバッター」の例を挙げて説明している。打率の高いバッターはいても、勝負強いバッターなどいない。たまたま決定的な場面で打ったヒットが人々の記憶に印象深く焼き付けられるだけなのだ。考えてみれば、ランダムな状態から、単純なパターン、複雑なパターンへと生成、進化してきたのが人間だ。ゆえに常にランダムなものに何らかのパターンを読み取らざるをえないのかもしれない。白い壁をずっと眺めていると、何か模様やイメージが浮き出てくる。それが人間の知覚である。これは健全な知覚の働きであり、そこに何も見出せないことは人間にとって自我が融解してしまうような恐怖なのだ。

多彩なギターの織り成すツェッペリンの The Song Remains the Same のあとに、ブラームスの交響曲が第2楽章から始まり、コルトレーンのスピリチュアルなサックスがそれを切り裂く。シャッフルが絶え間なく生み出す音楽のコラージュを私たちは違和感なく受け入れている。私たちは日常的に「雑種的」な音楽を「雑食的」に聴いている。音楽がLPやCDのような物理的なメディアパッケージの制約から離れ、アルバムという形式はおろか、「ジャンル分けにしたがって音楽を聴く」という行為も過去のものにしてしまった。ある意味、シャッフルはジャンルや国境を横断する(ワープする?)文化の旅でもある。膨大な音楽データベースはグローバリゼーションの産物であり、世界中の音楽のコレクションとネットワーク化によってもたらされた。シャッフルを通して、私たちは拡大し混乱を極めている世界そのものを聴いているのだ。

世界は拡大していっても、人間のキャパは変わらない。私たちの現実は忙しくなっていくばかりだ。世界から届く無数のニュースと同様に、私たちはその中から適切な情報を選ばなくてはならない。しかし、いちいち吟味している暇はない。そのあいだを効率的に、自動的に媒介するシステムが常に必要とされている。シャッフルはそれを象徴しているかのようだ。

そのシステムは自己の形成にまで介入している。iPodは自分の好きな音楽を詰め込むという意味で、自分の大切な記憶の貯蔵庫と言える。音楽=記憶を使って自己という統一された物語(=アイデンティティー)を作るには、iPodの中の情報は多すぎる。私たちはアイデンティティーをあきらめ、シャッフルを使って過剰な情報を過剰なままに生きる方向に賭ける。シャッフルは決して情報を減らしているわけではない。自己という惑星の周囲を無数の音楽=記憶のかけらをスペースデブリのように高速で回転させるのだ。バラバラの情報はフラッシュバックするように、何の脈絡もなく自分の前に現れる。そうやって見せかけの統一感を作っているが、その中身は混乱と矛盾に満ちている。この時代は何よりも「最小限の時間で、最大限の情報を得ること」を目標に突き進んでいる。それは必然的に過剰な情報を過剰なままに生かす新しいシステムをさらに要請していくだろう。




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2009年02月06日

「iPodは何を変えたのか?」(2) IDENTITY

Apple iPod nano 8GB ブラックiPodは自己充足的な閉じたメディアとして語られることが多い。それはiPodの可能性を十分に引き出していない、つまり使いこなしていないからなのだ。「iPodは何を変えたのか?」にはiPodを交換したり、iTunesを見せっこしたりする楽しさが無邪気に綴られている。iTunes自体にそれを後押しする機能がいろいろ備わっている。iPodの本質がナルシスティックに自分のライブラリーを楽しむことではなく、ライブラリーの交換にあるとすれば、iPodから見える風景もずいぶんと変わってくる。

北京オリンピックでも自分の出番の直前まで音楽を聴いている選手が目に付いた。スポーツ選手たちの聴いている音楽はつねに詮索好きな記者たちの関心の的になっているようだ。アメリカでは政治家やセレブのiPodの中身も話題になる。もちろんブッシュ大統領やローマ法王も例外ではない。「あなたの・・・見せてください」というiPodの中身をテーマにした番組も多い。確かに他人のiPodの中身は気になる。誰とでもいいというわけではないが、iPodの交換はきっと魅惑的な体験なのだろう。

入手の難しい音楽で音楽マニアを評価する時代は終わった。もはやレアな音源を見つけること自体がレアになっている(youtubeもまたレア音源の宝庫である)。iPodの時代は、膨大な音楽データベースの中から吟味を重ねて曲を精選し、究極のプレイリストを作ることが音楽マニアの証なのだ。

それは自分を作ることでもある。つまりアイデンティティーだ。アイデンティティーはもはや人間関係や社会的な役割の中で形成されるのではない。レディメイドのものを選び取って形にする。再編集することもできる。またアイデンティティーは基本的に他者を意識する。IDカードを提示するように、他者の承認がなければアイデンティティーの意味がない。

いずれにせよ、これは一大事だ。誰かがあなたのiPodのクリックホイール(あの丸い部分)を回してライブラリーに目を通すだけで、あなたは丸裸にされるのだ。あなたはプレイリストよって採点され、評価されてしまう。他者の視線はプレイリストの編集にも影響を及ぼすだろう。好きでもない、ちっとも良さがわからない曲を、見栄をはるために、自分の評価を高めるために入れるかもしれない。「iTunesのインターフェイスは人物に対する印象形成に決定的な役割を果たしている」という正式な社会学の調査も出ているくらいだ。社会学者アーヴィング・ゴッフマンの言う「印象操作」だ。

iPodを聴いている素敵な女性を見つけたとき、彼女のどんな秘密よりも、彼女のiPodの中身を知りたい、という欲望もわかる気がする。著者が言うように、音楽ライブラリーの交換はエロティックな行為と言えるかもしれない。それがうまくはまったとき、とてつもない恋に落ちるかもしれない。音楽の趣味が合う友だちを見つけるのは意外に難しいものだ。しかし、音楽ライブラリーの交換は初対面であっても即座にふたりの共通点をあぶり出す。ふたりの距離は一挙に縮まるのだ。

音楽ほど感性に直接訴えるものはないし、歌には直接的な喚起力がある。好きな音楽に満たされる時間は自分が最も自分らしく感じられるときだ。音楽は他人が作ったものだとしても、それに対するセンシビリティーを持っているのは自分なのだ。また自分だけのプレイリストを作ることはDJ的、REMIX的な創造行為であることは言うまでもない。何よりも音楽という形式はコンパクトで、コントロールしやすい。小説や映画をクリックホイールでコントロールするなんて、あまり想像できないだろう。

著者は、アイデンティティーを賭した戦いだとか、エロティックな行為だとか、さんざん煽っておきながら、最終的にライブラリーの交換がもたらすものは「一種の学びの機会」なのだと謙虚に言っている。それは他者によって自分の身の程を知ったり、自分を修正する機会なのだ。それはiPodの社会的な機能と言えるだろうが、これはアメリカだから言えることかもしれない。日本でiPodはこの国のマニュアル化されたコンビニエンスなシステムと安易にシンクロしているように見える。

とはいえ、音楽によるコミュニケーションの可能性は確実に開かれている。すべては「使いこなし」にかかっているのだ。私はiTunesの見せっこはしたことがないが、よくメールにyoutubeの動画のURLを貼り付けて話のネタにする。そうすると意思疎通がスムーズになる。本当のことを言えば、プレイリストを見ただけで、相手がどんな人間なのかわかるはずがない。音楽的な共感は重要なインスピレーションになるが、言葉の介在も不可欠なのだ。音楽の素晴らしいところは、共感と言葉の双方の回路によって、その相乗効果によって繋がりあえることだろう。
(続く)


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2009年01月30日

「iPodは何を変えたのか?」(1) IPOD WAR

nano-red01.jpg私は地下鉄に乗っていた。私の向い側には真っ赤なワンピースを着た若い女が脚を組んで座っていた。彼女は目を閉じて音楽を聴いていた。例の白いイヤフォンで。それはすぐに見分けがつく。周囲と決して馴染まない、宇宙船の表面みたいな独特の光沢と質感がある。イヤフォンから延びた2本のコードが彼女の胸元でつながり、赤い生地の上を通り、彼女が右手で握っているipodにまで届いている。単色のワンピースのシンプルなデザイン。彼女の持っているのは白いiPodだけ。

彼女は眠りから覚めるようにゆっくりと目を開けた。私と目が合った瞬間、彼女は途方もない企みを思い付いたかのように、愉快そうな笑みを浮かべた。そして、いきなり立ち上がると、手に握っていたiPodのスクリーンを私の目の前に突きつけた。私はいやおうなく彼女の「現在プレイ中」の曲名を見せつけられる羽目になった…。

今度は彼女が私のジャケットのポケットを指さし、私のiPodを見せるように催促した。私は彼女のことが気になって、自分の聴いている音楽のことなどすっかり忘れていた。そのときちょうど曲が切り替わった。私はシャッフルで聴いていて曲をコントロールできない状態にあった。流れてきたのは運悪く、そのうち削除しようと思っていた・・・だった。彼女の曲に比べ、それが恥ずかしくなるほど凡庸なことを知りつつ、私はしぶしぶiPodを取り出した。

不意打ちとはいえ、私は完全に負けた。負けたというより、自尊心をズタズタにされたのだった。ドアが開き、サラリーマンの一群が乗り込んできた。赤い影はそのあいだを縫うようにして消えていった。


これはスティブン・レヴィ著「iPodは何を変えたのか?」に紹介されていたエピソードを私が小説風に脚色してみたのだが、NYの地下鉄線、LラインではこのようなiPod戦争が繰り広げられていた。iPodで何を聴くか。それはアイデンティティーを賭した戦いなのである。ちなみに本書では女が聴いていたのは Rezillosというパンクバンド、男は Petshop Boysだった。

例えば、ブログの文章やデザインも、その人間の趣味やセンス、考え方や問題意識を端的に表すだろう。初対面の人に「こういうブログやってます」とURLを教えると、手っ取り早く自分のことを説明できる。なぜか多くの場合、男性はノーコメントで、ブログを見たのかどうかも言ってくれないが、女性の方は率直に感想や意見を言ってくれる。ブログの媒介で共通の話題が見つかり、仲良くなれることもある。しかし、iPodはブログ以上の効果を発揮するらしい。

あなたはどんなプレイリストを作っていますか?
あなたはそれを人に見せたことがありますか?
(続く)


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4 ここまでとは
4 小さな成功の積み重ねが大きな成功へ




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2009年01月21日

アルバムジャケットの終焉?

ウィズ・ザ・ビートルズ2008年8月17日付の『インディペンデント』紙に、「ロック・アートよ、安らかに眠れ?」と題された記事が載っていた。内容は、もう何度も言われて今さら誰も話題にしなくなった「アルバムアートの縮小化」についてである。ビニール盤からCDに移行したとき、ジャケットサイズは4分の1以下になってしまった。いまiPodの普及によって、ジャケット画像はもはや切手サイズである。これでは、ジャケットのアートワークに力を入れる意味がなくなるだろう。実際、ジャケットに使われる費用の平均は、ビニール盤時代の10分の1である、云々。

この記事を読みながら、ビニール、CD、iPodの三世代を経験した僕は、いろんなことを考えさせられた。1分間45回転で聴くビニールのシングル盤(いわゆるドーナツ盤)は、通常厚紙の包装紙の中に収まり、それを両面印刷の紙と一緒にビニール袋に入れて包装してある。紙の表には、歌手の写真やイメージを刷り、裏面には歌詞が印刷されているのが、いちばん標準的なタイプだろう。オールディーズに凝っていた頃は、よく昔のシングル盤を中古で購入した。洋楽の日本盤には音楽評論家による「解説」が付いていて、ときには訳詞しか載っていない杜撰なものもあった。逆に特典のシールやポスターが折り畳まれて入っている場合もある。

クール・ストラッティン+2これがLP(long play)盤となると、表紙と裏表紙があり、さらに中開きになっていて、歌詞が載っていたり、写真が載っていたりする。見開きで歌詞を見られることから「アルバム」という名前が付いた。もちろん、開けない、厚紙を合わせて綴じ合わせたタイプのLPも数多く存在する。ジャケットのアートワークは、このLPサイズで花開いた。誰もがシンボルとして挙げるのが、ビートルズのアルバムだ。すでに2枚目の『ウィズ・ザ・ビートルズ』でロバート・フリーマンによる陰影豊かなバンドフォトを起用した4人組は、『ラバー・ソウル』でわざと間延びした写真を使い、『サージェント・ペパーズ』や『マジカル・ミステリー・ツアー』でコスプレに挑戦し、『ホワイト・アルバム』では一転して純白のジャケットに通し番号を打った。『アビー・ロード』に至っては、「ポール死亡説」の伝説を生み出すほど、喚起力があった。ビートルズのアルバムは、まさにジャケットによって一つのまとまりを得ている、とさえ言える。

ロックにおける名ジャケットを延々と列挙することは慎むことにする。ただ、ロックよりも前に、ジャズのスリーブ・デザインはすでに洗練されていたことを言い添えておこう。とりわけ、レタリングと色調の選択において、ブルーノート・レーベルのジャケットは、一目見ただけでそれと判る特徴をもっている。クラシック音楽のジャケットはと言えば、基本的には作曲家または指揮者の写真やイラストを載せるだけで、あまり凝った作りはない。もちろん、宗教音楽にはルネサンスの宗教画をジャケットに用いるなど、多少の工夫は見られるが、とりたててオリジナリティを競う場ではない。カルロス・クライバーのように、被写体がかっこよければ、『ベートーヴェン交響曲第4番』のような躍動感あふれる個性的なジャケットも可能だが、たいていは緊張した面持ちの顔写真に終始している。

ベートーヴェン:交響曲第4番さて、CD化によって、アルバムジャケットはアートというよりも漫画っぽくなった、と僕は感じている。ニルヴァーナの『ネヴァーマインド』を、LPサイズで見るのとCDサイズで見るのでは、感じられる毒の濃度が異なる。コールドプレイがドラクロワの絵をパロディーにしても(10年ほど前にドラゴンアッシュがしたように)、元が大きな作品なだけに、10センチ平方ではさほど強烈なインパクトはない。アートの力が発想や図柄だけでなく、サイズにも依存していることは、このことからも分かるだろう。思うにCD時代になっても、デザイナーはまだどこかでLP時代のインパクトを懐かしんでいるところがあるようだ。よくある「限定盤」は、たいていLP的発想に貫かれた厚紙ジャケットで、小さな文字を無理やりに並べたデザインもよく見かける。いい加減に発想を変えて、小さな画面とプラスチックケースを前提に遊ぶことを考えるべきである。

と思っていたら、iPodが出現した。iPodでアルバム画像を取り込むことには、もはやアイコンとしての意味しかない。写っているものの細部はiPod上では判然としないからだ。さらに言えば、iPodはそもそもアルバムという概念をほとんど成立させないオーディオ機器である。シャッフルやプレイリストによって、曲は元のアルバムから切り離され、別の文脈に載せられる。そのときアルバムは、単なる音情報の集合体でしかなくなる。ビニール盤ならば、リアルタイムで、1曲につき何センチの幅という風に、音楽の消費を時間的・空間的に把握できる。10分近い曲は、盤面を見るだけで判る。CDからは、そのような空間性が奪われ、ダウンロード可能なiPodからは時間性も失われた。実際、iPodでは収録曲の総時間よりも何MBなのかが問題なのである。それはもはや「作品」としてのまとまりに無関心な媒体であると言えよう。

Nevermindこう書いてくると、「作品」から「テクスト」へという、構造主義者が好んで語ったテーゼを思い出してしまう。確かにiPodは徹底したテクスト主義を強いる。音に付随してくる画像や厚紙の手触りや演奏者からのメッセージなどの外部情報−文学理論の用語で言えば「パラテクスト」−を無視して、ただ音だけを聴く。ひょっとしたら、そこには音との純粋な交わりのチャンスがあるのかもしれない。ちょうど作曲家も歌い手も知らない曲をラジオで発見できた時代のように。

ただし、ラジオと違って、iPodには使用者があらかじめ選んだ曲しか入っていない。音との交わりには、常に情報による選択が先行している。また、iPodの音質が悪いことはよく指摘されるところだが、そもそもiPodは基本的に屋外で聴くために作られており、最高の音質など望まないところから出発しているので、この批判にそれほど意味があるとは思えない。むしろ、そうした聴き方が個々の「テクスト=曲」の意味合いを薄めてしまうことが問題なのである。音楽における大量消費とは、単に音源の情報量の大きさを意味するのではない。いつでもどこでも聴ける状態を作り出すことで、「わざわざ」音楽を聴く時間を生活から奪っていることを意味している。

かつてビニール盤を聴くということが、特定の時間に特定の場所で特定の音に耳を傾けることだったとすれば、iPodとは任意の時間に不特定の場所(移動中も含めて)で音を聴く経験にほかならない。それが良いか悪いかということではなく、そうなっているのだということを認めざるを得ない。駅に着いたら、会社に着いたら、アルバムは途中で終わる。あるいは曲に飽きたら、すぐに写真や動画やゲームに切り替えられる。それを残念とも思わずに、当然と思うような感性こそが、大量消費を支えているのである。

そのような断片的な音の連なりに、もはやジャケットがまとまりとしての意味を付与しないことは、誰にでも分かるだろう。アルバムジャケットの終焉、それは必然的な状況で音を聴くことの終焉なのかもしれない。だが、嘆くことはない。そもそもビニール盤にしたって、CDにしたって、所詮は複製品なのだ。ある時ある場所である音を聞くことの必然性は、本質的にはすでに失われているのである。iPodはただ、そのことをあまりにも剥き出しのかたちで、そして高速で提示しているにすぎない。




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2008年11月11日

「ウェブ社会をどう生きるか」(2)

ウェブ社会をどう生きるか (岩波新書 新赤版 1074)梅田望夫氏の「ウェブ進化論」(ちくま新書)が、「とりあえずウェブの世界に飛び込んで、いろんなツールを使いこなしてみよう。そうすれば、試行錯誤の中で人間がウェブと良好な関係を保てるリーズナブルな地点に落ち着きますよ」ということならば、西垣氏はウェブの世界に警戒心を抱きながら外から眺めているという感じだろうか。何かを始めなければ、何も生まれないわけだが、西垣氏のウェブの世界全体を見通した上での警告にも耳を傾ける必要がある。また西垣氏の提唱する「しみこみ型教育」というモデルも非常に興味深い。

西垣氏は従来の「教え込み型教育」を批判し、それに生物情報学をモデルにした「しみ込み型教育」を対置する。「教え込み型教育」とは、言語化された明示的な知識体系が前提となっていて、知識体系を細かい要素に分解し、綿密なカリキュラムにしたがって学習者の頭脳に注入していく教育である。まさに今の学校教育のモデルである。そして、既存の専門知は、「言語化された明示的な知識体系」を縦割り形式で構築し、「教え込み型」教育の前提を作ってきたことは言うまでもない。(既存の専門知を称揚しながら、それと不可分な関係にある教え込み型教育を批判するのは矛盾しているし、この本の啓蒙的なスタイルがすでにエリートによる「正しさの注入」という形式になっていないだろうか)。

一方で、「しみ込み型教育」は、生物が環境とコミュニケートしながら生きているように、もつれあい、波打っている情報の大海の中で、「今この時間に自分が生きる上でもっとも重要なものを拾い出す能力」を身に付けさせる教育である。個人の置かれた条件や文脈に力点が置かれるので、むしろ「しみ込み型学習」と言った方がいいだろう。ここでの教育の役割は個人と環境のあいだを取り持つようなコーディネーター的なものだ。

「しみこみ型学習」は次のように言い換えることもできるだろう。私たちは今の社会を生きていくために、常に新しい知識やテクノロジーを獲得し、同時にその獲得したものによって自分を再帰的に捕らえながら、自分を組み替えていくことが求められる。それは学校のトップダウンの注入型授業(あるいは講義)形式による学びとは全く違う、日常的な学びである。学び方が決まっていない、個人の条件によってもやり方が違ってくる学びなのだ。そういう「学ぶことを学ぶ」プロセスを私たちは日常的に繰り返している。

とりわけ学びとテクノロジーの関係が重要な問題として浮上してくる。テクノロジーはもはや私たちの仕事の能率を高め、生活を便利にするというレベルのものではない。コンピューターに代表される新しいテクノロジーの働きは、文字や画像、音声などの記号を複製し、編集し、流通させることだが、そこでは人間の思考や感情がテクノロジーと不可分に接続されている。それは人間の中に入り込み、人間の根拠となっていた思考や判断と結びつき、人間のあり方をドラスティックに変えてしまっている。私たちはウェブという社会インフラから逃れられないと同時に、それらは私たちの現実感や日常を形作ってさえいるのだ。そしてテクノロジーの革新やそれが組み替える現実の変化のスパンは非常に短く、変化は次々とやってくる。

「本来の知とはどこかに蓄積されて、検索できるものではなく、私たちとの状況との関係によって刻々と生み出されれる。そういう活動の場の設計が必要になる」

西垣氏のこの的確な指摘には激しく同意したい。それを他人事のように言っていないで、「そういう場の設計」を自ら実践すればいいのである。専門家や研究者と呼ばれる人たちの多くは、少し前まではウェブ全面否定派が多かったが、最近は、一歩譲って「検索エンジンやウィキペディアは便利だが、ネット上にはろくな内容のものがない」という言い方に変わってきた。「ネット上にろくなものがない」と言うのならば、不正確で、誤った知識や情報が流通しないように、専門家が情報ベースのようなものネット上に作ればいい。専門知の特権を主張するのではなく、その成果をいかにウェブ上にわかりやすいように、使いやすいように流していく。そういうコーディネーターの役割がこれから専門家や研究者に求められるだろう。そして教育の新しいひとつの方向にもなるだろう。また専門家がウェブ上で自ら手本を示すこともまた「しみこみ型教育」に通じていくだろう。

ランキング・アルゴリズムが秘密にされているグーグルの検索エンジンに対する不信感も根強いようだが、ウィキペディアの創始者、ジミー・ウェールズ氏がオープンソースによる検索エンジンを開発中だというニュースも流れている。もちろんランキング・アルゴリズムも公開するのだという。多少は時間がかかるのだろうが、批判の根拠となっている事実がすぐに更新されてしまうのがウェブの世界だ。

最後に倫理的な態度として言いたいことがある。泡のように生まれては消えるノイズのようなものだとしても、その言葉を押さえつけるべきではない。それがくだらないとは誰も言えないはずだ。「語っていいのは私だけだ、おまえは黙っていろ」という言葉の囲い込み、言葉の独占に加担すべきではない。この関係は、男‐女、年長者‐若者、専門家‐素人など、いろんな関係の中で見出せる(言葉の独占は権益の独占でもあることがわかるだろう)。語ることが許されるのは、権力者や専門家だけではない。ウェブの世界を通して言葉が少しづつ解放されていることを認めるべきだろう。ただでさえ息苦しい日本。この息苦しさは語るべき言葉が奪われ、封じられているからだ。多くの人が自殺しているというが、貧しかったり、仕事がなかったりして死ぬわけではない。人間は言葉を奪われたときに最も絶望するのだ。



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2008年11月10日

「ウェブ社会をどう生きるか」(1)

ウェブ社会をどう生きるか (岩波新書 新赤版 1074)この本には、梅田望夫氏の「ウェブ進化論」に代表される楽観的なウェブ礼賛論に対する、情報社会学者からの批判が展開されている。その論点をいくつか拾い出してみると、「ウェブ礼賛論が安易に既存の専門知を排斥し、新たなウェブの集合知を主張するあまり、急速に知の堕落が生じつつあるのではないか、という疑念がある」とか、「量産される膨大な知識断片の海の中で、真に大切な情報が飲み込まれ、忘れ去られてしまうのではないか」とういものである。

つまり、ウェブの集合知は知の堕落であり、既存の専門知こそが「真に大切な情報」を提供できるのだと。しかし、「真に大切な情報」とは何だろうか。情報は個人が意味づけることで価値を持つ。すでに意味づけられ、価値のあるものとして上から与えられるものではない。個人にとって価値があるということと、専門的な正確さや詳しさとは別の問題である。以前は上から与えられるものを個人の価値として受け入れていたのかもしれないが、今や「真の大切さ」は専門家が決めることではなく、個人が決めることである。

「ウェブ人間論」の書評でも書いたことだが、これもアカデミズムの側の危機意識の表明なのだろう。誰も書かれた内容に責任を取らないネットの世界と違って、専門家の論文には厳しい審査があり、その内容は学会の責任において保証されていると言う。しかし、いくら学会が内容を保証しているからといって、アクセスが難しく、流通していなければ、責任の意味がない。「学問の場とは、決して一部の専門的権威が糾合する密室ではなく、原則として誰でも開かれているのです」と言うが、一方でアカデミズムは知を囲い込み、内輪でしか通じないような小難しい専門用語を使い、それによって自らを権威付けることで成立している。アカデミズムは、外部に向けて発信し、情報を流通させるというリテラシーの重要な部分においてレベルが低いとさえ言える。それゆえに何をやっているのか理解されず、大学無用論や教養無用論に付け込まれ、一方で当人たちは「わからないやつがバカなのだ」と開き直る始末である。この不幸な乖離を折り合わせることが今求められているのではないのだろうか。

さらにブログについて、これが「民主的で平等な集合知なのでしょうか」と問いかけている。その際に、西垣氏が挙げるのは、アクセスの著しく多いタレントのブログと、アクセスのほとんどない無数の個人ブログである。それらを引き合いに出して、こんなもの集合知と言えるのか、というのはあまりにも皮相的な分析である。つまり、端からブログを信用していないのである。

西垣氏はブログを読まないのだろう。ブログが生成しているフラットな世界(=ブロゴスフィア)と、アカデミズムを比較すること自体が間違っている。学問的な境界や専門性を問題にしない、全く別の知の形式だと理解した方が良い。確かにアカデミズムの厳密さは重要だが、一方で制度的な形式からはみ出ることを許さない不自由さがある。「ウェブ進化論」の梅田氏は毎日何十ものブログに目を通すというが、氏のブログに対する評価は、毎日の積み重ねから抽出された確信なのだろう。自分でブログを読み、あるいは書き、面白いブログを見つける努力をしなければ、ブログの面白さはわからない。特にジャーナリズムに関しては、ろくな情報や論点を出さないのは、むしろマスコミの方で、ブログによって、これまで決して表に出てくることがなかった貴重な知見や論考にアクセスできるようになった。これは文系的な集合知の重要な成果のひとつと言えるだろう。

また西垣氏は、ウェブ礼賛論が唱える「玉石混交の知識の断片の海から、グーグルなどの検索エンジンの力を借りて玉をより分けることが可能だ」という考えに疑念を挟む。同時に、ブログを検索エンジンと結びつけて批判しているが、つまり、読むに値しないブログのエントリーが検索の上位を占めると言いたいのだろう。同じ部分で「マスコミが一方的に流す情報のシャワーを受動的に浴びる大衆」という言い方をしているが、マスコミの時代の「アホな大衆」をそのままネットの世界に移動させている。マルクス風に言えば「偽りのイデオロギーに騙される大衆」だ。かつてのマスメディア論や大衆文化論において、大衆は資本主義の哀れな奴隷として描き出され、大衆側で起こっていることは、受動的な消費のプロセスにすぎなかった。ウェブ論にあてはめれば、検索結果がそのまま個人の頭脳に「注入される」わけで、個人がどのように検索エンジンを使っているのか、という受容者のプロセスを考慮に入れていないのである。

しかし、私たちは検索結果をそのまま正解として受け入れているわけではない。重要なことは、検索エンジンを信用せず、あるいは、ほどほどに信用しながら、検索エンジンを使いこなすことなのだ。実際、私たちは検索エンジンにときには裏切られながら、どうやって精度の高い情報を得られるのか考えながら使っている。梅田氏は重要なリテラシーのひとつに環境適応を挙げ、ウェブの負の部分をいかにやり過ごすか、一種の効率的な取捨選択能力について言及している。面白いブログを探すときも、検索エンジンだけに頼るわけではない。ブログのリンクやトラックバック、あるいは口コミを通じて、面白いブログにたどり着くノウハウを身に着けるのだ。

同じように、私たちは与えられた情報を自分の文脈に、個々の生の条件に置き直して解読している。自ら意味を作り出しながら理解するのだ。この生産的な読みがリテラシーの本質なのである。さらにブログを初めとする様々なツールによって、それを再編集し、発信するという新たなプロセスも加わった。ウェブ社会の到来によって、個人の意味づけと生産の余地が飛躍的に拡大したということなのだ。
(続く)


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5 ウェブ2.0万歳論への懐疑の提出
4 精緻な論旨の中に垣間見える著者の人間臭さ
2 主張は正しくても、何の影響力も与えられない
5 上滑りしない情報論
4 「アンチ」ウェブ進化論




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