2013年03月26日

セントラムに桜の模様が Cherry Blossom Car !

去年の12月23日、富山市でセントラムが運行を開始した。セントラムとは市の中心部を周回する環状線を走るユーロスタイルの路面電車の名前だ。セントラムに新たな変化があったと聞いたので、再び「にわか撮り鉄」になり、「にわか撮り小鉄」を連れて、見に行った。新しい車両が導入されたのではなく、期間限定で車体に桜の絵が描かれたのだった。

centram01.JPG

黒地にピンクの粋なデザイン。桜の花びらととにも英語が書かれている。

Spring has come.
Cherry blossoms are blooming.

バックミュージックはやはり、Cherry Blossom Girl by AIR

centram02.JPG

…と書いたのが、2010年のこと。毎年、この季節に車体に桜が描かれるようだ。

2011年バージョンもかわいい。http://bit.ly/10ddyFt
今年もやるのかな。

下の写真は桜の名所「松川べり」。私にとっても思い出の詰まった場所である。ここは宮本輝の『蛍川』の舞台になり、映画のロケにも使われた。名作『泥の河』と一緒に読みたい作品である。

今年もあの場所に帰ろう。 

centram03.JPG


蛍川・泥の河 (新潮文庫)
宮本 輝
新潮社
売り上げランキング: 14015
おすすめ度の平均: 4.5
5 昭和30年頃の庶民の心情
5 芸術的な作品
5 切ないなあ
5 2つの川
5 昔日の田園風景



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2013年03月19日

大人な感性で読みたい児童書:『ヤーク』

子どもと一緒に大笑い!幸せを絵に描いたようなこの風景、実はこと話が読書となると、実現するのは結構難しい。「変な顔」に代表されるヴィジュアルレベルの瞬間的な笑いの反応を除けば、親子が共有する笑いの間には、通常タイムロスが生じる。子ども心をくすぐるのはなんといってもスカトロものかおやじギャグ。しかし、普段から大したことは考えてないくせに、こうしたストレートなギャクに直面すると、大人は知的かつもう少しひねりの効いた笑いを求めてしまう。涙を流して笑い転げている子どもたちを目にして、自然とほころぶ親の顔。しかし、誓って言おう!私の笑いの対象は天地がひっくり返ってもその安直ギャクではない!この笑いは子どもからの伝染!自分に対する失笑でもあるのだ!!

ヤークとはいえ、子育てというのは、自分とは完全に異質な他者である子どもに親が合わせる(意識的にはレベルダウンする)という形で折り合いをつけることを学ぶ繰り返しでもある。例えていうなら、「パンはパンでも食べられるパンはなあに?」と無邪気に聞く子どもに、「そ、そういう答えを口にだすのも恥ずかしいような質問は、勘弁してくれ……」というスレた反応を押し殺し、「フ、フライパン……かな ?」とおずおずと答える。「どうしてわかったの〜!すご〜い!」というお祭り騒ぎの反応を前に、踏み絵を踏んでしまったかのような後味の悪さを噛みしめつつも、多くの大人は笑顔で子どもに合わせる。そう、おそらく大人たちは子どもの前ではちょっと我慢をしてる。幸福とは、愛とはこのようなものかもしれぬと考えながら……。

朝日学生新聞社から9月末に出版された『ヤーク』は、児童書にカテゴライズされる本ではあるが、実のところ、そんな日常の中で自分の笑いを子どもたちのためにちょっと棚上げしている感のある親たちにこそ手にとってほしい本である。もちろん、子どもは子どもで、そのまま本書に出てくるピュアなエピソードやモンスターのトホホ感を楽しく味わえることは間違いない。しかし、イラスト然り、内容然り、大人の読者は大人な感性のまんま、ブラックユーモアを楽しみつつ、新しい解釈を付け加えることができるのが本書の特徴である。

表紙のイラストを見てみよう。この表紙を飾るモンスターは、第一印象としては妙にかわいらしい。ぱっちりお目めで、花に彩られ、周りでは小鳥たちが楽しく集い穏やかな時を演出している。体の比率に対して異様に小さなその翼はまるでエンジェル。モンスターにしては、なんとも、愛らしい。しかし、よくよく観察してみると、手と口、そこからのぞく立派な歯はアンバランスに大きい。そして、一見したところ愛らしい上目遣いであるかのように思われるその両目は獲物を狙う視線ともとれる。なんとなく不穏な感じ。このイラストが示すアンビバレントなモンスターの特徴は、実は、そのままこの物語の核となっている。子どもがかわいいモンスターを楽しむ傍らで、大人な感性はこの辺の危うい感じを楽しむ。

ちょっとページを開いてみる。主役のモンスター、ヤークは、デリケートでグルメ。野蛮に描かれる子どもたちとは対照的な存在である。そう、子どもたちと違ってヤークはお上品、その繊細さは何となくシュレックが美しい所作でもって食事するシーンを思い出させる。さらにグルメなモンスターは、悪い子を食べると下痢をする。この野蛮な子ども、繊細なモンスターという設定は、なんとも大人心をくすぐる。その結果大人の自然な読みは、ヤークの内面に寄り添うこととなる。


ある日のこと、食べられるよい子を求めて試行錯誤のヤークは、理想的な少女マドレーヌと出会う。

「マドレーヌは本当に親切で優しい。ヤークは心の底から彼女をかわいく思い守ってあげたくなった。ところが不幸にも、かわいく思えば思うほど、ヤークはますます彼女を食べたくなってしまうのだ!」

子どもたちは、純粋に心配するだろう。マドレーヌ、食べられちゃうのかな?大丈夫かな?しかし、大人にとっては、赤ずきんちゃんの例を出すまでもなく性的隠喩を喚起させられるフレーズであることは間違いない。読み進めると、この葛藤から身を守るために、怪物ヤークはアートの道に入ろうとする。ますますおかしい!まさに性エネルギーの昇華!しかし、どんな芸術的行為も彼の欲望をなぐさめることはできない……。


ピュアでブラックなリアリティあふれる現代のおとぎ話、『ヤーク』。笑い、哲学的考察、心理学的読み。笑い転げる子どもたちの傍らで、あなたはどんな大人の読みをする?

『ヤーク』関連ページ:http://animationdefr.web.fc2.com/ofuransu_deanimashion/yaku.html
Le Yark Facebook (フランス語):http://www.facebook.com/pages/Le-Yark/133574866719844



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2013年03月12日

『ぐりとぐら』とフランス語

子供に絵本を読み聞かせるときには、やはり自分が好きだった本を読んでやりたいと思う。そんなとき、もはや古典中の古典とも言えるのが、『ぐりとぐら』だ。1963年の初版以来、10カ国語に翻訳され、世界中で読み継がれている。知っている人も多いと思うが、話はごく単純。野ねずみのぐりとぐらが、森を散歩していると巨大な卵を見つけ、大きすぎて運べないので、その場で調理してカステラを作り、森の動物たちに振る舞う、というもの。しかし、何度読んでも、「どうなるんだろう?」という子供の期待感を呼び起こす名作である。

ぐりとぐら [ぐりとぐらの絵本] (こどものとも傑作集)もともとは、1963年に福音館書店の雑誌『母の友』(現在も刊行中。脱原発記事など、硬派で良心的な内容は読み応えがある)に掲載された「たまご」という作品が基になっており、そのときは「グリとグラ」と、カタカナ表記だった。このグリとグラという名前、作者の中川李枝子(余談だが、『となりのトトロ』の冒頭を飾る名曲『さんぽ』の作詞家でもある!)によると、じつはフランス語なのだそうだ。彼女が学生時代にフランス語の先生から借りた Pierre Probst の絵本『Pouf et Noiraud』シリーズで、主人公の猫たちの前に現れた野ねずみたちが、「ぐりっぐるぐら、ぐりっぐるぐら」と歌う場面があり、その音が気に入って採用したとのこと(『ぼくらのなまえはぐりとぐら』収録のインタビュー参照)。しかし、編集部が確認したところ、当該の歌はどこにも見当たらない。つまり、中川さんの勘違いである可能性が濃厚らしい。

グリとグラの読み方は、「喉の奥で鳴らすような R の発音」と中川さんも言うように、それぞれ r の発音を想定している。ということは Gri, Gra という感じだろうか。しかし、これだとフランス人の耳には gris, gras と聞こえてしまうだろう。「灰色で、よく太った野ねずみ」でも、別におかしくはないが、食べられてしまいそうだ。ちなみに、フランス語訳では Gouri と Goura と表記されている(Circonflexe社、1990年、現在絶版)。日本では国民的人気作とも言えるこの絵本が、じつはフランス語の響きを隠しているというのは、フランス語教員にとってはちょっと嬉しい話である。

先に引用した本には、フランス人図書館員による『ぐりとぐら』論も載っていて、二人が森のなかで出会った巨大な卵をどうするかと思案し、結局その場でカステラ作りを始める決心をするまでの間、しばらく森が背景から消える、という鋭い指摘がなされている。視線が卵に注がれ、他のものは見えなくなる。日本絵画ではおなじみの焦点化の技法だが、この絵本もそうした伝統を自然と受け継いでいる。

しかし、なぜカステラなのか。作者曰く、『ちびくろサンボ』のホットケーキの向こうを張った、とのこと。カステラは、日本では「舶来」のお菓子の代表。アメリカ人にとっては日常そのものの「ママのホットケーキ」(枚数の多さだけがサンボにとっては特別だった)ではなく、ぐりとぐらは、特別なおやつを作ってみんなに振る舞う。そんな贅沢な幸福感が、この「道に落ちていた巨大な卵」事件の結末にはある。カステラは、残念ながら、今ではそれほど贅沢品ではなくなってしまったようだが、パエリヤ鍋かと見まがうほどの大きなフライパンで作るカステラの幸福感は、今でも子供たちはちゃんと感じ取っているようだ。それが伝わる限り、この絵本は今後も読み継がれていくだろう。


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2009年12月11日

『ノルウェイの森』−68年以降の大学生

balladeimpossible01.jpg『ノルウェイの森』は主人公が大学生ということに親近感を覚える小説でもある。そのせいか、私自身68年が舞台という意識はあまりなく、小説が発表された自分の大学生時代に重ね合わせて読んでしまう。この小説はワタナベと直子がふたりでひたすら歩くシーンが印象的だ。大学時代というのは、金はないが、時間だけは持て余すほどある。私自身もひたすらそういう無為な行動に明け暮れていた。茫洋としたモラトリアムな時間感覚。みんな勉強なんてしなかったし、何よりも大学で勉強することと、社会に出た先のことが結びつくという意識がほとんどなかった。みんな頭を真っ白にして企業戦士=サラリーマンになった。入社直後の新人研修は人格を破壊するために行われていたとも言われていた。そこには暴力的な要求と断絶があったわけだが、それが日本の高度成長を支えていたことは言うまでもない。

それゆえに、地理の勉強をして地図を作る仕事に就こうとしている、つまり目的を持って、愚直に将来とのつながりを意識して勉強している「突撃隊」が小説の中で揶揄される。それはワタナベの諦念の裏返しなのだろう。「ノルウェイの森」にはフランス語で Balade de l’impossible というタイトルがつけられている。「不可能なもののバラード」。次々と死んでいく『ノルウェイの森』の登場人物たちは、変貌していく社会に致命的な暴力を感じ取っていたということなのだろうか。

このようなワタナベの諦念には時代的な裏づけがある。教育社会学者の竹内洋が『教養主義の没落―変わりゆくエリート学生文化』の中で当時の大学を取り巻く状況について書いている。1960年代後半は日本の高等教育がエリート段階からマス段階に移行した時期である。新規就職者に占める大卒者の割合が急上昇し、大卒者の「タダのサラリーマン化」が進行する。1970年頃まで新規学卒労働市場ではどんな学部を出たかは将来の進路にとってかなり決定的で、大学が教養知や専門知を伝達する場であることは自明だった。しかし、1970年代から日本の企業は大卒の大量採用を始めた。大量採用だから大卒と言っても専門職に就くわけではないし、将来の幹部要員でもない。

ノルウェイの森 上 (講談社文庫)このプロセスを人事制度から見ると、年功序列と終身雇用の制度が確立した時期にあたる。個人の能力や知識がそれほど要求されず、新入社員に求められるのは組織秩序に従順でまじめであること、そして20代前半であること。大学卒業証書はその保証書に過ぎなくなり、大学は卒業資格の発行所に成り下がってしまったのである。そして大学時代は一種のモラトリアム期間となる。

そんな状況で大学生が「知識人とは何か」とか「学問するものの使命と責任」をとことんつきつめようとしたのが大学紛争だった。その根底には大学生がただのサラリーマン予備軍になってしまった不安とルサンチマンがあり、自分たちをサラリーマンとして強引に大衆化しようとする秩序を打ち倒そうとしたのだと、竹内洋は言う。その矛先はしばしば大学の教授たちに向かったが、彼らがお気楽に唱える教養主義は学生たちの目には一種の象徴的な暴力として映ったのである。やがて彼らの抵抗は潰える。大学紛争以後の大学生は教養知と専門知を放棄し、大学のレジャーランド化が始まる。60年代は学生の数が爆発的に増えたが、大学側の受け入れ態勢が十分でなく(つまらない講義とあふれかえる講義室)、意欲のある多くの学生が大学に幻滅したと小熊英二の『1968』にも書かれていた。

1968〈上〉若者たちの叛乱とその背景どの大学を出れば、どの会社に就職できて、どれくらい昇進できるか、あらかじめ人生の先が読めてしまう。大学時代とはそういう自分の行き先を自覚し始める時期である。社会がひとつのシステムと化している社会では、自分で人生を切り開くとか、社会に介入して社会を変えるという可能性がなくなり、敷かれたレールの上を進むだけの人生に不全感を感じる。自分の生きている意味や自分の可能性は社会から一方的に与えられたものでしかないという感覚だ。もちろんこれらは高度経済成長によってもたらされたもので、今から見れば贅沢な話に聞こえるかもしれない。生存が脅かされるくらいの貧困が問題になっている今、若い人たちのあいだでは反動的に敷かれたレールに対する憧れが広がっているという。

当時の若者論はモラトリアムの一時期をどう謳歌するかが問題だった。レールに乗ったらそれでお終いだったからだ。村上春樹はレジャーランド化した大学と親和性があったように思う。成り上がりの手段にすぎない、田舎者根性の丸出しの教養主義(竹内はそれが農村のエートスに支えられていたことを指摘する)にのせられるのを拒否して、カポーティやチャンドラーを読み、ジャズやロックに精通し、趣味の良いポロシャツを着て、慣れた手つきでスパゲッティを作り、付き合っている女の子のバッグの中身が魅惑的なモノで溢れているような、新しい都会的なスノビズムをもたらした。大江健三郎が1995年の時点で村上春樹を「世界全体のサブカルチャーがひとつになった時代の、まことにティピカルな作家」であり、「サブカルチャーという共通性から消費資本主義の世界性に開かれている」と述べている。まさにその世界性がトラン・アン・ユンを呼び込んだ。

現在、大学の中身は変わったわけでは全くないが、企業はコスト削減を強いられる中で新入社員を教育する余裕がなくなり、即戦力を求めるようになっている。以前に比べて大学の授業の期間もはるかに長くなったし、資格を取れとか、平常点重視とか言われ、大学生は入学時から日常的な管理と競争のもとにおかれている。ネオリベ時代の大学生にはモラトリアム感覚はないのだろう。教師の側も成績をつけるときは基準を明確にしろと言われるが、この個人の点数化は巧妙な自己責任化の側面を持つ。つまり就職できなかったとしても、それは大学や社会が悪いのではなく、自分の点数(公正に評価された)が足りなかったのだと自覚させればよい、とでも言いたげである。




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2008年04月25日

『忘却の河』 福永武彦

忘却の河 改版 (新潮文庫 ふ 4-2)人は死んだらどこへ行くのか。死者の記憶とどう向きあえばいいのか。生き残った人はどうやって生きていけばいいのか。そんな問いが現実味をもつのが戦後文学です。それはたぶんドイツでも同じことだったのでしょう、ハインリヒ・ベル、ハンス・エーリッヒ・ノサック、クリスタ・ヴォルフなどの小説にも、同様の迫力を感じます。震災で友人を亡くした僕は、戦後文学のなかに自分が求めている問題が書かれているように思い、一時はよく読みました。福永武彦は、死者をめぐる小説ばかり書いた日本の作家です。そのなかでも、この『忘却の河』は、ある四人家族のそれぞれの内面を交差させながら、そこに水をめぐる神話やフォークロアや古典文学を巧みに重ね合わせて、戦後の忘却と記憶の義務を見事に問いかけていきます。非常に完成度の高い小説なのですが、残念ながら現在絶版です。

□現在絶版、と書いた福永武彦の『忘却の河』は、池澤夏樹(福永の実子)の解説付きで昨年、見事復刊しました。


忘却の河 改版 (新潮文庫 ふ 4-2)
福永 武彦
新潮社
売り上げランキング: 109744
おすすめ度の平均: 5.0
5 人生の意味を真摯に問うた傑作
5 名作は、草の花だけではない。
5 静かに圧巻
5 これはまちがいなく名作です
5 完璧な小説


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2008年04月16日

『墓の話』 高橋たか子

墓の話敬虔なカソリックでフランスでの滞在経験もある、高名な純文学作家(ご主人は故高橋和己)の最新作品集、と説明したら食指が動かない方もいるかと思います。私もそうでした。しかし読まず嫌いは一生の損とはまさにこのこと!
 
作者のフランスでの経験に緩く基づいた、小説と随筆どちらにもカテゴライズできない不思議な手触りの短編が納められています。いずれも作品も死と戦争が通奏低音になっており、最後の一編(世界大戦による苦難を予言し涙を流す聖母のヴィジョンを見てしまった子供達について)を読み終わったときには、収録された作品全てが互いに響き合っていたのがわかります。
 
わき上がった感興を徹底的につきつめて、明晰な言葉で形にしたらこうなった、とでもいいましょうか。一作ごとに、静謐で澄んだ、散文でしか綴り得ない世界が立ち上がってきます。無駄のない、翻訳調を思わせるちょっと固めの文体で丹念に磨き上げられた作品は、読む人にとても豊かなひとときを与えてくれる事請け合いです。例えるならば、こんこんと湧き出る湧き水でしょうか。
 
読後、何ともいいようのない気持ちのざわめきと静かな高揚感に包まれます。

「珠玉の掌編集」といったコピーとは無縁の作品群ですので、念のため。


墓の話
墓の話
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高橋 たか子
講談社
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おすすめ度の平均: 5.0
5 墓にまつわる短編五話



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2008年04月11日

『快適生活研究』 金井美恵子

もともとエラソーな文章を書く人が苦手なので、この人はずっと食わず嫌いの作家だったのですが、いざ読んでみるとどこから湧いてくるのか皆目検討がつかない絶大な自信にあふれた文章がかえっておかしくて、すっかり毒されてしまい、昨年の前半は作品を片っ端から集めて読んでいました。「目白四部作」と呼ばれる作品群の続編となるこの小説には、大したことも起こらない日常を舞台としながらも、個性豊か、というより強烈なキャラクターの持ち主が次々と登場し、よくもこんな人物ばっかり思いついたものだと作者の想像力に感心しながら読んでいました。とりわけアキコさんという女性が書いた手紙の章は、その無邪気そうな文章のあちこちにチクチクする針が顔をのぞかせていて、相手を励ましたいのか意気消沈させたいのかわからなくなるところがすごいです。


快適生活研究
快適生活研究
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金井 美恵子
朝日新聞社
売り上げランキング: 198505
おすすめ度の平均: 4.0
3 一見冗漫な一人語りが、
日常や現実をトレースしてたりする
5 エマ・ボヴァリーは死んだけど、
中野桜子は生きている!
4 金井ワールド内小説


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2008年03月14日

『微熱少年』 松本隆

A LONG VACATION 20th Anniversary Edition作詞家松本隆の唯一の長篇です。映画化もされました。微熱といっても闘病生活の話ではなく、ビートルズ来日の年に16歳だった少年の恋とロックンロールの自伝的小説です。大滝詠一の『 ア・ロング・ヴァケイション』に収められた情景がいくつも出てくるので、このアルバムを聴きながら読むと、一層楽しめます。

『微熱少年』とは、少年らしい熱い血潮を燃えたぎらせることなく、かといって覚めきっているわけでもなく、静かな情熱を保って生きる少年を意味します。早くに妹を亡くし、東京の変貌をまのあたりにした松本隆は、喪失の予感のなかで生きていました。その淋しさは、当然ながら、恋愛によって解消されるどころか、かえって増幅され、少年はさらに傷ついていきます。吉本隆明はこの小説を「著者の鎮魂の物語」と評しました。それはロックンロールの魂、つまり少年の魂を鎮めるということです。


微熱少年
微熱少年
posted with amazlet on 08.03.13
松本 隆
新潮社 (1985/11)
売り上げランキング: 349024
おすすめ度の平均: 4.5
5 本屋で偶然・・・見つけた。。
4 青春だね


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2008年03月06日

『ナイン・ストーリーズ』 サリンジャー

ナイン・ストーリーズ (新潮文庫)文学などというものに引きずり込まれるきっかけとなったのが、この短編集の冒頭に収められた「バナナフィッシュにうってつけの日」という短篇です。最初は集英社文庫の『九つの物語』で、次に新潮文庫の『ナイン・ストーリーズ』で読みました。高校生の頃に原書を手に入れて私訳を試みたこともあります。でも、yellとyawnを間違えて「大声で怒鳴らないで」というところを「あくびが出ちゃうわ」と訳すような、とんでもない訳文でした。同短編集の「笑い男」や「小舟のほとりで」も大好きでしたし、初期短篇の「ブルー・メロディー」や「ある少女の思い出」にも涙しました。『ライ麦畑でつかまえて』の主人公は、最後には精神を病んで入院してしまいます。まともな感性をもった人間ほど、この世界では生きにくいのだということを、サリンジャーは怒りと慈しみをもって伝えようとしました。バナナ穴やバナナ熱の恐ろしさ、バナナフィッシュがくわえたバナナが6本であることの謎、断りもなく人の足元を見ることの是非については、今でも考え込んでしまいます。


ナイン・ストーリーズ (新潮文庫)
サリンジャー 野崎 孝
新潮社 (1986/01)
売り上げランキング: 6344
おすすめ度の平均: 4.5
5 緻密な策略家
5 切り取られた「永遠の思春期」
5 9つの物語



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2008年03月05日

『坑夫』 夏目漱石

坑夫色恋事件を引き起こして家にいられなくなった主人公が、道々、鉱山の仕事を斡旋しているポン引きと偶然出会い、鉱山に連れていかれるという話です。主人公は人生のしがらみが厭になり「そこでたびたび自殺をしかけて見た。ところが仕掛けるたんびにどきんとしてやめてしまった。自殺はいくら稽古をしても上手にならないものだと云う事をようやく悟った。自殺が急に出来なければ自滅するのが好かろうとなった」と、いっそのこと落ちるところまで落ちてみようと堕落を決意しているのですが、鉱山宿舎の「壁土」のような飯に辟易、青カビ臭い南京虫だらけの布団で寝るために奮闘、挙げ句、方向感覚が麻痺するほど上下左右に入り組んだ薄暗く湿っぽい鉱山のなかで精も根も尽き果て、自殺を試みようとさえするのですが、そういった過酷な体験の数々の中においても、「自己批評」をすることはやめません。そういった体験を語り手(主人公)はユーモラスに(講談調で)書きつらねています。

ちなみに、この作品は漱石作品の中でも「失敗作」と評価されてるようですが、それって「文学的」に失敗したということでしょうか。すくなくとも読み物としてはおもしろいと思いますが。文庫本の「解説」で吉田精一さんが、さきの語り手の「自己批評」をして「餓えと寒さになやみ、死に面する危険を冒している「坑夫」の生活の描写としては、いかにも悠長で、不自然であって、つくりものという観をまぬがれない。[...] 「坑夫」は先にのべたような理由から、一般には失敗作として見られている」と評しているものの、なんというかこの、人間って、苦しい状況にあってそのまま「苦しい苦しい」とそればかり考えるわけでなく、ほかにもその体験に直接関係ないこともふくめていろいろなことを考えると思いますし、いわゆる物語の大筋に関係ないそういう「脇道的思考」の描写に言葉遊びやユーモアが混じってて、そこがいいところかも。個人的には町田康さんの作品と似た感じを受けました。


坑夫
坑夫
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夏目 漱石
新潮社 (1976/07)
売り上げランキング: 25462
おすすめ度の平均: 4.0
4 漱石の異色作
4 三部作のプロローグ
5 心は三世にわたって不可得なり



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2008年02月27日

『人間失格』 太宰治

人間失格 (集英社文庫)冒頭付近の「恥の多い生涯を送って来ました」は落語の出だしにつかえるんじゃないでしょうか。この一文は取り扱い次第ではかなりユーモラスです。おそらくは自身の人間的な深層部分をもちあぐね、死にまで至った作者には申し訳ないのですが、この一文のあと、周囲の人々を笑わそう=楽しませようとした自身の失敗談&醜態の開陳が続くわけで、つまり周囲に気を配りまくって笑いをとろうとする自意識過剰なあほさ加減をさらに自嘲的に書き連ねていくわけですから、「笑い」の分野ではかなり高級なジャンルに相当するんじゃないでしょうか。この作品を通じてぼくも健康的に自己批判できました。「笑う」ってのは申し訳ないような気がしますが、笑ってしまうほうが太宰治の心にも近づけるんじゃないかとぼくは思っています。暗い深刻さとはべつの次元で読むほうが、故人も喜んでくれるんじゃないかな。津軽の新興資産家でなく大阪下町の商人の家で生まれていれば、太宰治は、ユーモアたっぷりの事業家にもなれたし、生粋のストーリーテラーとして上方落語の名人にもなれたんじゃないだろうか…。


人間失格 (集英社文庫)
太宰 治
集英社 (1990/11)
売り上げランキング: 252
おすすめ度の平均: 4.0
5 名作は色褪せない
4 集英社で買った理由。
5 重い・深い・・・


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2007年06月06日

「海辺のカフカ」の音楽(2)

シューベルトのピアノソナタ。「のだめ」もコンクールの課題として弾いていた気がする。小説の中でも言われていたが、シューベルトのピアノ曲は長大で、単調すぎると評判が悪かった。シューマンは「天国的に冗長」と言ったらしい。特に録音時間が短い戦前のSP盤(片面4分)では扱いきれず、その評価はLP盤(片面30分)という長時間録音媒体の登場を待たなければならなかった。CDの時代になるとピアニストにとってシューベルトをレパートリーに入れるのが常識になり、その長さと単調さ(反復の多い、漂うような構築性の不在)が逆に現代では評価されるようになった。媒体=メディアが作品の評価を規定する格好の例と言える。現代においては、聴く側に緊張と心の準備を要求するベートーベンの重さと激しさよりも、シューベルトの癒しと慰めに向かうという一面もあるようだ。カフカ少年は大島さんと隠れ家に向かう車の中でこの曲を聴く。この曲が長時間ドライブに合うというのもちゃんと理由があることなのだ。

村上春樹によると、

「ピアニストたちが仕掛けをしたり、メリハリをつけなければ間が持たない曲」

「運転をしながらシューベルトを聴くのは、何らかの意味で不完全な演奏だからだ。質の良い稠密な不完全さは人の意識を刺激し、注意力を喚起してくれる」

曲は二短調と言っているから第17番。小説の中では誰の演奏なのか言及がないが、他の著書で、アンスネス(ノルウェー)とカーゾン(イギリス)の名前を挙げているようだ。ピアノソナタの定番としてはドイツの巨匠ケンプが晩年に全集を完成し、広く知らしめることになったが、内田光子の新しい取り組みも評価が高い。


ベートーヴェン : ピアノ三重奏曲第7番 「大公」&シューベルト : ピアノ三重奏曲第1番 ベートーヴェン:チェロ作品全集


ところで、ホシノ青年がぶらりと入った喫茶店でかかっていたのがベートーベンのピアノトリオ「大公」。「百万ドルトリオ」と呼ばれた、ルービンシュタイン(p)、ハイフェッツ(vn)、フォイアマン(vc)による演奏(1941年)。ルービンシュタインはその下品な呼び方をひどく嫌っていたというが、確かにミーハー心を刺激する組み合わせ。「大公トリオ」もいいが、「百万ドルトリオ」で個人的によく聴くのは、哀愁を帯びたメロディーが美しいチャイコフスキーの「ある芸術家の思い出」。こちらは急死したフォイアマンに代わってピアティゴルスキーが参加している。当時、ルービンシュタインとハイフェッツの二人はベートーベンのクロイツェル・ソナタ(第9番)も演奏したらしいが、残念ながら録音は残っていない。

フランス関係では、フランスのチェロ奏者、ピエール・フルニエが出てきて、喫茶店のマスターはフルニエ先生と呼んでいる。小説ではハイドンのチェロ協奏曲(このアルバムに収録)が取り上げられている。フルニエ先生に関しては、先ほどのケンプと組んだベートーベンの「チェロソナタ」が外せない。

ホシノ青年はマスターにクラシックの手ほどきを受け、とりわけベートーベンにはまる。音楽だけでなく、その人生にも。今にしてみれば「のだめ」以降のクラシックのフラット化の先取りだったのか。


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2007年06月05日

「海辺のカフカ」の音楽(1)

海辺のカフカ (上)今やノーベル賞候補と言われている村上春樹。ある批評家が文壇に村上春樹を批判できない空気があると書いていたが、大作家としての地位を不動のものにした感がある。フランスにもファンは多いし、新興国にも支持を広げている。

田村カフカ君の、ブルジョワ的潔癖さがはぐくむ妙なセクシャリティや、佐伯さんの華奢な美少女イメージのベタ塗りには、「やれやれ」って感じだが、村上春樹の魅力のひとつはモノとライフスタイルの細部に徹底的にこだわる一種のスノビズムなんだろう。それが洗練された消費主義の心地よさ、ナルシシズムへといざなう。おそらく新興国で人気があるのもそのせいだ。新聞の対談だったか、島田雅彦も似たようなことを苦々しく言っていた。

それにしても、父親殺し=オイディプス神話の枠組み持ってくるのが強引というか、不自然。今の時代に、そういうモデルが先行して、個人の行動を規定するなんてありえない気がする。神話や精神分析という使い古された枠組みを解体するパターンを作っていくのが小説じゃないんだろうか。

小森陽一が「村上春樹論 『海辺のカフカ』を精読する」という本を書いている。まだ読んでないが、「女性嫌悪」がキーワードのようで(言いたいことはわかる気がする)、アマゾンの書評で春樹ファンに激しく反撃されている。

いろいろとケチをつけてはみるものの、ふたつの物語が同時進行しながら交錯していく展開は「世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド」を思い出させ、結局は巧みなストリーテリングにまんまと引き込まれ、「世界の終わり」と同じようにスリリングな読書タイムを満喫させてもらった。特に、猫と話せるナカタさんのキャラはなかなか味わい深い。後半のナカタさんとホシノ青年のロードムービーっぽい展開もいい。

ところで、今回のテーマは音楽だった。

My Favorite Thingsカフカ少年はウォークマンにいろんな曲を入れて聴いているが、そのひとつにジョン・コルトレーンの「マイ・フェイバリット・シングス」がある。

「僕は沈黙を埋めるために口笛を吹く。『マイ・フェイバリット・シング』、ジョン・コルトレーンのソプラノ・サックス。もちろん僕のたよりない口笛では、びっしりと音符を敷きつめたその複雑なアドリブをたどることはできない。頭の中に思い出すその音の動きに、ある程度の音を添えるだけだ。でも何もないよりはいい…」(下p.342)

カフカ少年は森の中を進みながら「マイ・フェイバリット・シングス」のソプラノ・サックスのソロの部分を口笛で吹く。コルトレーンなんて明らかに村上春樹の世代の趣味だろう。コルトレーンを聞く15歳の少年というのも不自然だが、カフカ少年は不吉なイメージを喚起させる異質なものとしてコルトレーンを聴いている。そこがミソなのだろう。

「そして今ではマッコイ・ターナーのピアノ・ソロが、耳の奥で鳴り響いている。左手が刻む単調なリズムのパターンと右手が積み重ねる分厚いダークなコード。それは、誰か(名前を持たない誰か、顔を持たない誰か)の薄暗い過去が、臓物みたいにずるずると暗闇の中からひきずりだされていく様子を細部までありありとまるで神話の場面のように描写している…」(下p.345)

確かに私の感覚ではマッコイ・ターナーのピアノ・ソロをカッコいいとは思っても、「臓物ズルズル」なんてイメージとは結びつくことはない。早熟な少年はレディオヘッドあたりがちょうどいい感じ。レディオヘッドに関しては exquise さんのエントリーを参照されたし。

カフカ少年はウォークマンでプリンスのベスト盤も聴いているし、古い蓄音機でビートルズの「サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド」も聴いている。音楽に対する耳は確かな人だから、出てくる音楽を拾って聴いてみてるのも「悪くない」だろう。

それにしても、架空のヒットソング「海辺のカフカ」を決定づける「2つの特別なコード」って実際どんなものなんだろう。


John Coltrane / My Favorite Things (Live)


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