2009年12月30日

パリのカフェ的コミュニケーション(2) マクドナルドの硬い椅子

先回(2007年)、ギャルソンに微笑み、一声かけるという「パリのカフェ」的なコミュニケーションとは対照的に、日本には人間の介在を可能な限り排除し、消費者の欲望を即物的に満たそうとするシステムが張り巡らされていると書いた。レンタルショップ、コンビニ、ファミレス。様々な自動販売機。広い駐車場を備えた郊外型の店舗。それらには人間が介在するにしても、店員はマニュアル化された言葉使いと態度で客と接し、私たちも彼らの人格を無視するようにふるまっている。現代の利便性は、人間を介さない自動的かつマニュアル化されたシステムに媒介されることを意味し、私たちはそれらに身をゆだねていると。

一方「人間の介在を可能な限り排除する」システムも、言葉で説明するとか、説得するとか、交渉するとか、そういう人間的なコミュニケーション能力を客に期待していない。そのシステムは、人間を人間とみなさずに、快・不快に反応するだけの動物としてコントロールする。

その象徴が「マクドナルドの硬い椅子」だと言われている。椅子を硬くすることにより、客の回転率を高め、客の流れをコントロールする。椅子の硬さだけではない。冷暖房の温度、照明の明るさ、BGMのジャンルや音量、家具やインテリアの仕様や配置。これらも環境の中にさりげなく埋め込まれて同じ役割を果たしている。重要なことは、個人がその中で自由にふるまい、リラックスしている感覚を損なわずに、客をコントロールすることである。

スポーツクラブでもそういう感覚を味わったことがある。溜まる場所がなく、移動し続けることを余儀なくされるような。お風呂もサウナも広いし、ジャグジーも充実しているし、施設に不満はないが、ふとした瞬間に、何か構造的に行動をコントロールされているような気がしてくる。

そういう外的な構造や快・不快の刺激でどのくらい人間をコントロールできるかはわからないが、監視社会論の中でこういう議論をよく目にする。従来の規律訓練的な管理に対して、環境型管理と呼ばれている。

一般的に管理社会というと、人々を強制的に束縛した状態に置く社会をイメージする。その最たるものは「1984年」(村上春樹ではなく、ジョージ・オーウェル)で描かれている世界だ。しかし、新しいタイプの管理が必要になっているのは私たちが自由に行動するからだ。この管理は自由を抑圧し、否定しているのではなく、逆に自由を条件としている。私たちは多様な趣味嗜好を持った消費者として行動する。自由に動く個人の行動を補足するために、マーケティングや顧客情報の管理が必要になる。これも同じタイプの管理である。

新しい管理は何よりも監視カメラと抱き合わせになっている。「ギャルソンに一声かけ、微笑む」という人間関係の蓄積がないので、どんな人間が店に入って来るかわからないからだ。店の中に限らず、マニュアル化された社会は人間の流動性が高い (つまり誰が誰だかわからない) ので、監視カメラが欠かせない。私たちもセキュリティーの確保のためにそれが必要だと信じている。

人間的なコミュニケーションをあてにしない。言葉による説得や交渉を最初から諦め、放棄する。不快感に訴えたり、居心地の悪い造りにして排除する。最近、ある自治体が公園が荒らされるのを防ぐために、「若者たむろ防止装置」を設置して話題になった。それはモスキート音と呼ばれる17KHz以上の高い周波数音を出す音響装置で、10代から20代前半の若者にはよく聞こえ、不快感を与えるが、それ以上の大人には聞こえにくいという特徴がある。何よりもそれは「選別的」だ。この出来事は自治体が公表したので問題になったが、公表されずに何らかのアーキテクチャーに埋め込まれる可能性もあるだろう。知らないうちにある特定の人々がある場所から排除されているということが日常的に起こっていても不思議ではない。

モスキート音装置に頼るのは警備員を雇うコストが高いからと言っていたが、問題はコミュニケーションの放棄にある。かつては言葉によって当事者のあいだで解決できたような問題も、権力やシステムにあっさり譲渡してしまう。日本でやたらと機械が喋るもの、「あーしろ、こーしろ」というアナウンス(特に電車の中)が多いのも、監視カメラを要請するのと同じ構造、つまり自ら管理を外部のシステムに任せている結果なのだ。

一方で、動物的な管理が全面化しているとも思えない。そのような管理が客の回転率を調整しているのであれば、それに抵抗することもできる。

駅前にあるドトールへよく行く。ドトールが「硬い椅子」のシステムを敷いているのは知らないが、一方で「読書や物書きによる長時間の席の独占はご遠慮ください」と、「コーヒー飲んだらトットと帰れ」みたいに書かれた小さな張り紙があちこちにある。とりあえず、言葉による説得という形を取っている。しかし、無視して何時間も居座る客も多い。空いているときは私もときどきそうする。

一律に動物的な管理が有効と言うわけではなく、人間的な部分にプレッシャーをかけてみたりと、人間と動物を組み合わせているのだろう。私のよく行くドトールには高齢者の仲良しグループが集って、何時間も居座っている。回転率を考えると個人客よりもそっちの方が問題なのではと思うが、やはりターゲットにされるのは若い個人客なのだ。流動性が高まっていく日本社会の象徴とみなされ、かつ自己管理=社会化がうまくいっていないとみなされ、しばしばバッシングの対象になる人々だ。これもモスキート音装置の件と同様、若者恐怖症が根底にあるのだろう。




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2009年10月20日

Stepping through the door ― 旅へのいざない

Moseley Shoals映画”Before Sunrise”(邦題『恋人たちの距離』はどうもしっくりこなくていけない。原題のままではだめだったのでしょうか)の二人におこったようなことは所詮フィクション、映画だからこそのエピソード、とばかり思っていましたが、全く同じとまでいかなくとも、それほど遠からずなセレンディピティを経験しているひともいるのですね。最新エッセイで、デビッド・セダリスは、20代前半の若者として体験したことを告白しています。

ルーツであるギリシャを訪問した後、デビッドは親兄妹達と別れ、一人イタリアに渡りローマへ遊びにいきます。まだ定職についていなくて財布に余裕がある訳でなし、イタリア語はからっきしワカラナイけど、ギリシャへ戻る船がでるまでまだ何日もあるしなんとかなるでしょ、というお気楽なヨーロッパ一人旅。

ローマへは英語がわかる親切なイタリア人の助けをかりて何とかたどりついたけど、船が出る港町への帰りの列車の切符を求めるときは、そうは問屋がおろさなかった。単語とボディランゲージでなんとか買った切符を手に指定された客車へ行くと、なんとそこは「座席なし、洗面所はもちろん水道もなし」の最低ランクの客車。イタリアを放浪中の世界各国の若人がパンパンに詰め込まれ、フランス語・ドイツ語から聞いたことのないヨーロッパのどこかの言語まで、英語以外のいろんな響きの囁きが渦巻いています。    
 
若いデビッド君を憂鬱にさせたのは、切符売り場の職員とのコミュニケーション失敗によるショックではなく、詰め込まれた同乗者へのコンプレックスでした。周りにいるのは適度にくたびれた、旅なれたバックパッカーばかり。家族旅行の延長で、ちょっと足を伸ばしてみましたみたいな呑気なのは自分だけのよう。客車の中は人いきれでむっとし、いっこうに目的地につく気配はなく、車窓を見ても単調な景色が流れていくだけ。立ちっぱなしにも疲れた同乗者の間で腰をおろす場所の取り合いがさりげなく始まり、引け目たっぷりの弱気なデビッド君、いつのまにやら隅っこに追いやられてしまった。

しかし、そこにいたのです。心ときめかせるその人が。「彼」(セダリスはカミングアウトしています)は、レバノンからやってきた、優しげな瞳が印象的な留学生で大学生活をスタートするべく、とある街へ向かっているところでした。しかもありがたいことに、「彼」は英語が上手く操れたのです。黙っている時間が長過ぎて気分も舌もすっかり固まってしまっていたデビッド君と「彼」は、おしゃべりに夢中になります。取りとめのない内容だけど、とにかくさえずれることがうれしい!あっという間に距離が縮まっていき、友情というほど大げさな物でなく、ロマンスと呼べるほど深遠なものでもない、なんとも言い難い親密な空気に二人は包まれます。「恋」とよべるほどの親密さに。
 
近くにいた同乗者が移動したおかげで、二人はドアで遮断された狭いスペースへ追いやられます。何もしなくても触れてしまいそうなほど側にいる「彼」に、キスしたい衝動にデビッド君はかられます。「彼」のほうも、口にはしないけれど、あきらかに「待っている」状態。しかし、シャイな性格がたたってか、あまりの展開にとまどったのか、今一歩が踏み出せず、時間ばかりが過ぎていきます。
 
やがて、「彼」の目的地が近づきます。「もしよければ、僕のところでしばらくすごさない?」「彼」は言います。これまたシャイな「彼」が勇気をふるって口にした、字面以上の思いが込められた精一杯の申し出。このままアメリカに戻っても、決まった仕事があるでなし、アルバイト先の建築現場で一輪車を転がすだけ。静かな大学町で、「彼」と過ごすイタリアでの日々はどんなにすばらしいだろう!心が動かされないといったらウソになります。でも、イエスといえなかった。
 
目的地に到着し、「彼」は幾つものスーツケースとともに列車を降りると、「ほんとうにいいの?」といいたげにデビッド君の目を見ます。それっきり、「彼」と会うことはありませんでした。
 
「レバノン」というコトバを耳にするたびに(特にこの国を巡る難しい情勢についてのニュースを聞かされるたびに)、思いが千々に乱れるようになったセダリスですが、出会いから4半世紀が過ぎた今、こうも語っています。

「当時の写真を見返すことがあったのだが、映っている自分をみてびっくりしてしまった。なんてカワイイんだろう。繋がり眉毛に豊かな黒髪、ロバを曵いて山道を行くのがぴったりくるような、素朴で無邪気な瞳の若者だったあの頃の僕は、ある意味人生のピークにいた。」あのとき瞼にやきつけた「彼」の姿は天使のように魅力的だったけれど、こうやってみるとこちらもまんざらでもなかったんだな。二人が惹かれ合ったのは、必然だったんだ、と。
 
何を言うんだ、おセンチなおじさんのノスタルジアかいと思う方もいるかもしれません。が、これは率直な感想だと思うんです。時の流れにのっかって生きるものとして、誰もが「あの時」の自分から変わらざるを得ないし、「あの時」の自分が何者でどんな風に他人の目に映っていたのかなんて、わからないんです。
 
彼が遭遇したような旅先での「出会い」を経験したとしても、それがもう一度あるなんて思っちゃいけないと、セダリスは言います。来年、また同じ季節に同じタイプの車両の切符を買って乗りこめば、別の「素敵な彼(彼女)」に巡り会える、なんて大間違いだよ、と。「出会い」は、あのタイミングで、あの空間に、あの時のあなたがいて、初めて成立したものなのだから。
 
セダリスほど万感の思いを込めてうなずくわけではありませんが、決して捨て置けないご意見だと思います。人は日々変わりゆき、とどまることがない。今の自分を代わり映えしないヒトだと思い込み、日々のルーティーンに閉じ込めてしまってはいませんか。たっぷりお休みを取れるひともそうでないひとも、ドアを開けて違う場所へ行ってみましょう。あなたをいつも通りではない空間に置いてあげることはけっして悪いことではないと思います。夢のような出会いは保証できませんが、偶然が起こすいたずらも、一歩外へでなければ、けっして期待できないのですから。ちなみにセダリスは、十数年後、イタリアの時とは真逆の、悪夢のような同行者とニューヨークまで列車の旅をした後、今のパートナーとつきあい始めるようになりました。家に戻って自己嫌悪でうんざりしている時に、ふっと彼のことを思い出してピンときたと。そう、動かなければ何も始まらないんです。

背中を押してくれる一曲をどうぞ。

□セダリスのエッセイ"Guy Walks Into A Bar Counter"は The New Yorker の2009年4月20日号に掲載





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2009年09月23日

ボノやゲイツなんて要らない!? アフリカ新世代によるアフリカ援助不要論

まずはこのニュースから。

最悪は仏伊、日米加は「合格」の報告書 対アフリカ資金援助で
■マイクロソフトの創業者ビル・ゲイツ氏と著名なミュージシャンらが支援する援助団体ONEは11日、主要国首脳会議(G8サミット)の加盟国によるサハラ砂漠以南の貧困国に対する資金援助活動の「評価」報告書を発表し、イタリアとフランスが約束を最も守っていない国と糾弾した。
■同団体には、ロックバンド「ブームタウン・ラッツ」のボーカリストのボブ・ゲルドフ氏やU2のボノ氏も協力している。資金援助額で約束を順守しない最悪の国はイタリアと主張、フランスは2005年レベルよりも劣ったとしている。
■半面、世界的な景気後退に襲われる中で、米国、日本、カナダは約束を守る金額を提供していると評価。今年のG8サミットはイタリアで開かれるが、ゲルドフ氏は「約束を守らない国が世界を指導出来るだろうか」との不信感を表明した。
■主要国首脳会議は英スコットランドで2005年に開いたサミットで、アフリカ向け援助額を2010年まで倍増の500億ドルにすることを約束している。ゲイツ氏は報告書の中で、アフリカ向け援助の大多数は衛生、教育や農業振興などに充てられるとして、10億ドルがワクチンに使われれば、50万人の命が助かるとも強調した。
(6月12日、CNN.co.jp)

Dead Aid: Why Aid is Not Working and How There is Another Way for Africaロックアーティストが慈善家になって久しい。それはエチオピアの飢餓に衝撃を受けたボブ・ゲルドフの呼びかけに応じて結成された1984年のバンド・エイド(Band Aid)にまでさかのぼる。80年代世代にとってゲルドフの歌う「哀愁のマンディ」(ブームタウン・ラッツ)やバンド・エイドの「Do they know it's Chrismas?」は忘れられない曲のひとつだが、当時はロックアーティストがアフリカのことまで気にかける必要があるのか、ロックもまたアフリカの搾取を始めたのか、などといろいろと思ったものだ。一方でグローバリゼーションの進行は私たちの日常的な消費生活がどのようなシステムにのっかっているのかを世界規模で可視化させてしまった。

根本的な問題はその著しい格差を生み出すシステムそのものにあるはずだ。しかし、ハリウッドスターやロックアーティストたちはそれと同じシステムにのっかってお金をもうけているのである。彼らはアフリカに儲けの一部を申し訳程度にキャッシュバックすることでシステムを温存しているように見えなくもない。そういうやり方は法外な利益を手にしている少数の金持ちたちの罪悪感を和らげるだけで、全くアフリカの役に立ってはいないと『デッド・エイド(=役に立たない援助)』(原題の Dead Aid は明らかに Band Aidに対するあてこすりである)の著者、ダンビサ・モヨ Dambisa Moyo は批判する。

ダンビサ・モヨはザンビア生まれの30代の女性。父は南アフリカ人の炭鉱労働者の息子で、学者であり反汚職運動家。母はインド・ザンビアン銀行の会長である。モヨはハーバードで修士号を、オクスフォードで博士号を取得し、8年間、ゴールドマン・サックスでグローバル・エコノミストとして活躍した。アフリカ大陸の中心的な問題についてアフリカ人の意見がほとんど聞かれることがない。そういうフラストレーションが、モヨにこの本を書かせたのだ。

これまでアフリカへの投資や資源開発競争は旧宗主国が監督してきた(フランスはその代表格だ)。そこに中国や新興国が参入するようになり、多くのアフリカ諸国の経済が依存しているコモディティ(一次産品)価格が上昇し、それが欧米の投資家の利益も増加させた。一方でアフリカには希望に満ちた新しい世代が誕生し、世界をまたにかけて活躍している。モヨもそのひとりだ。彼らはアフロポリタンと呼ばれ、中には外国資本と地元資本をつなぐ仲介役になるチャンスをつかんでいる。こうした活動はアフリカの国々にこれまでとは違う資金調達の選択肢を与えている。

従来の支援のような、施し同然の欧米の援助による非効率なやり方では何の成果も得られないとモヨは言う。援助活動は効果がないばかりか、アフリカの問題の大半を生み出している。民間投資を締め出し、汚職を蔓延させ、民族の対立に油を注ぎ、法治を不可能にしてしまうからだ。ボブ・ゲルドフはイタリアやフランスに援助が少ないと糾弾しているが、援助国側にしても大きな財政負担を強いられる。

アフリカにはすでに新しい貿易パートナーがいて、もう欧米に頭を下げる必要はないのだ。モヨは『デッド・エイド』の中で欧米の開発計画の60年にわたる失敗を容赦なく査定しながら、新しい選択肢に焦点を当てている。彼女の提唱するオルタナティブとは、世界の貿易構造をシフトさせるための機会と自由をとらえながら、マイクロファイナンスと財産権法の活用をブレンドするやり方だ。すでにアフリカには民間資本が次々と流入している。中国もアフリカのインフラ整備に投資し、国債を発行するアフリカの国も増えている。

さらにモヨは過激な処方箋を用意している。それはアフリカの援助依存国に対して5年以内に援助を打ち切ると援助国に通告させるというものだ。それを契機にして、援助依存国政府は商業ベースの資金調達の方法を模索し始め、ビジネスが繁栄する環境作りに着手するだろうと。

その場合、アフリカの貧困撲滅運動にいそしんでいるハリウッドスターやロックアーティストはどうなるのか。

いなくなるだけ、とモヨは言う。マイケル・ジャクソンが信用危機の解決策についてアドバイスを始めたら、イギリス人はいらだつでしょう?歌手のエイミー・ワインハウスが不動産危機を終わらせる方法について語ったりしたらアメリカ人は怒り出すでしょう?アフリカ人だってムカつくのは当然だと思わない?

つまり、アフリカの人々が専門家でもない人間に介入を受け、アドバイスされているということであり、彼女はそのことでボブ・ゲルドフやボノに対していらだち、ムカついている。彼らはモヨの発言に対してどう答えるだろうか。欧米メディアにとって「アフリカは手の施しようがない」という破滅的なシナリオを描く方が楽なのだ。それが援助のさらなる流入を正当化してしまう。もちろんモヨの批判は一面的で、欧米の援助がすべて無駄だったということは決してないだろうし、彼女のラディカリズムはアフリカに対する援助のうまく機能していた部分も壊しかねないだろう。しかし、それほどアフリカの援助依存は深刻な問題なのである。システム全体に手をいれなければならないのだ。

モヨはロンドンで快適な生活を送っているが、ザンビアの少女時代の夢はフライト・アテンダントになることだった。そのときは奨学金をもらっハーバードとオックスフォードに学び、天下のゴールドマン・サックスで働くなど夢にも思わなかった。それは両親のおかげだと言う。彼らはザンビアの首都ルサカの大学の一期生だった。そして1970年代に高等教育を受けるためにアフリカを離れたが、彼らは国の未来を築く力を身につけるとすぐに帰国した。もちろんアフリカの一部はあいかわらず混乱と衰退から抜け出せていないが、彼らの世代が確実に下地をならし、モヨのような人物の出現を待っていたのである。

次の元フランス代表のデサイーのニュースはモヨの考え方に通じるところがないだろうか。アフリカはあらゆる分野においてターニング・ポイントを迎えているが、そこには欧米の憐憫の視線に同一化しない、アフリカのためのオルタナティブを考えるアフリカ生まれのキーマンが確実に育っている。

「W杯の遺産をアフリカ全土へ」、元仏代表デサイー氏の想い
■翌年に行なわれるW杯の前哨戦として南アフリカでコンフェデレーションズカップが行なわれているなか、元フランス代表DFでユニセフ親善大使のマルセル・デサイー氏(40)が「南アフリカだけではなく、アフリカ全土がW杯の遺産を受け継いで欲しい」と想いを語った。現地時間19日、ロイター通信が報じている。
■ デサイー氏はガーナ生まれ。4歳のときにフランスへ移住した同選手は、のちにル・ブルー(フランス代表の愛称)の中心選手として活躍し、1998年W杯、EURO2000でのタイトル獲得に貢献した。代表キャップは116を数え、クラブレベルではマルセイユ(フランス)、ミラン(イタリア)、チェルシー(イングランド)など名門を渡り歩き、3年前に現役を退いた。
■輝かしいキャリアを誇るデサイー氏だが、ロイター通信に対し「アフリカサッカーの将来にとって鍵となるのは、ディディエ・ドログバやサミュエル・エトーのような、海外で成功し誰もが知っている選手ではない。アフリカ各国がトップクラスの若手選手を自国リーグで長くプレーさせ、そうすることでいかに自国リーグがレベルアップしていくかということだ」と、若い才能を国内に留めることが必要だと述べた。
■「最高峰の選手はヨーロッパに出て行くのが常であり、国内に残留させるのは難しい」と、その困難さを承知しているデサイー氏だが、「インフラが向上すれば、もう少し長く選手を残留させることが可能かもしれないし、これほど若いうちから外へ出て行くこともなくなるかもしれない」と、各国の社会基盤が整えば現状を変えられるかもしれないと期待をかける。
■そうした意味で、デサイー氏は今回のコンフェデレーションズカップと翌年のW杯が、アフリカ全土にとってターニングポイントだと考えているようだ。同氏は「我々は、アフリカサッカーにとって重要な時期を迎えている。逃してはならないチャンスだ。W杯の遺産によってアフリカの考えに変化が起こるかもしれない」とコメント。W杯によってアフリカ全土の意識が変わることを望んでいた。
(6月20日、ISM)

Lunch with the FT: Dambisa Moyo
By William Wallis
Published: January 30 2009





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2009年09月22日

フランス式大学入試 バカロレア この問題、解けますか?

6月18日の哲学を皮切りに、フランスの大学入試、バカロレア baccalauréat (略して BAC)の試験が始まった。日本のセンター試験のようなものだが、根本的にシステムが違う。バカロレアは大学入学資格を得るための統一国家試験。バカロレアを取得することによって原則としてどの大学にも入学することができる。

今年の哲学の問題は次の通り。

La langage trahit-il la pensee?(言語は思考を裏切るか?)
Est-il absurde de desirer l’impossible?(不可能を望むことは非合理か?)

これは日本の小論文のように一般論として好き勝手なことを書いていいわけではない。哲学の歴史的な議論を踏まえ、4時間かけて論述しなければならない。哲学はほとんどの分野で義務になっている重要な受験科目のひとつ。高校でこういう思考訓練を徹底的に受けている国民はさぞかし手強いことだろう。

TF1のニュースでも試験の様子を伝えている。

Les sujets du bac philo en version corrigée(TF1,18 juin)

受験生のひとりは朝の7時から来て、最後の見直しをしている。彼の手にしている参考書にはニーチェの引用が。試験が終わると、気の利いた受験生はネットで模範解答と照らし合わせ、自分たちの点数がどのくらいか見当をつける。

受験室ではカンニングを避けるためにバッグを部屋のすみに置かなければならない。しかし、なぜか食べ物の持込はOK。受験生のひとりはオレンジジュース、菓子パン(=chouquette)、バナナ(petit fruit)を持ち込んでいる。朝の7時45分に席について、8時から試験が始まる。それから4時間の長丁場だ。他の科目を含めると試験は来週の水曜まで続く。

多くの受験サイトが9時から行動を始め、哲学の教師たちが試験問題に対して評価を始める。ニュースの中で高校の先生が BAC ESと言っているが、ES (Sciences Economiques et Sociales)は「経済・社会科学系」のことで、一般バカロレア Le baccalauréat général のひとつ。別の大きな括りに技術バカロレア Le bac technologique と専門バカロレア le bac professionnel がある。入りたい学部に合わせてバカロレアの種類を選ぶ。

授業でバカロレアの話をすると、学生たちは膨大な量の記述式試験の採点の客観性がどのように保証されるのかという疑問がわくようだ。もちろん複数の採点者のチェックを受けるようだが、学生にきちんと自己表現させ、それを評価するにはそれなりの時間と労力を要するということだ(つまり相応の予算が要る)。一方で、日本のようなコンピュータが点数をはじき出す、採点が極めて合理化されたマークシート形式によって保証される客観性にどのような意味があるのか、それによって何が測れるのかということも同時に考えてみる必要がある。

相変わらず大学を出るのは簡単な日本では、いまだにすべてが大学入試に集約されている。そこが幼稚園から始まる「お受験」戦争が目指す地点であり教育の内容も大学入試の形式に向けて組み立てられることになる。小1の息子の同級生の中にもすでに中学受験のための塾に通い始めている子がいるし、「プレジデント・ファミリー」とかいう、それを煽りまくるお受験情報雑誌も人気である。また小中高とそこに到達するための下部システムが、受験ビジネスもからみながらきめ細かに整備され、日本だけの受験神話が再生産され続ける。つまり大学入試が変わらないとすべてが変わらないわけだが、フランスのバカロレアの風景を見るにつけ、熾烈な受験戦争の過程で、かけがえのない青春時代を費やしつつ、日本の子供たちが身につける能力って一体何なのだろうと考えざるをえない。

日本の受験制度は、高度成長期の終身雇用が保証された企業社会に、均質な人材を送り込むためのシステムだったのだろう。高度成長などとっくに終わり、雇用に関しても状況は一変してしまっている。最近では、就職の際に「就活力」と呼ばれる自分をひとつの企業のようにセルフプロデュースする能力が求められ、何よりも自分をアピールするコミュニケーション能力とさらなるスキルアップのための自己投資が求められている。一方で、今の子供は小さい頃から塾通いに忙しかったりして、将来のビジョンを思い描いたり、そこに向かう過程での試行錯誤的な経験を積むチャンスが与えられないまま大人になってしまう。本当はそこに一本のレールに還元されない、多様な、きめの細かいプログラムが必要になってくるはずだ(小学校に関しては、いろんな課外プログラムを用意してくれてはいるが)。

□バカロレアに関する最新記事はこちら⇒「フランスの大学入試=バカロレア始まる:この哲学の問題、解けますか?」(2013年度版)



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2009年09月15日

金融危機下の外食産業(2) ロブション、かく語りき

ロビュションの食材事典―四季を彩る52の食材と料理ジョエル・ロブション Joel Robuchon(ロビュションの方が正確)は21世紀において最も影響力のあるシェフだが、彼も今回の金融危機が外食の形態に転機をもたらすと信じている。革命とまで言っている。「いまはシンプルな料理を手早く食べたい人が多い。メインの料理を1品とデザート1品だけを注文して、それでおしまい。レストランはそうした要求に合わせる必要がある」と。不況下ではさすがの3つ星レストランでも空席が増えているようだ。日々のやりくりに四苦八苦している人々が、必要以上に手の込んだ高級レストランの料理に金を払うだろうか。不況下ではよりシンプルで良心的な料理や、品数の少ないコースが求められるのだ。ロブションが新しいスタイルのレストランとして展開しているのが、「ラトリエ・ドゥ・ジョエル・ロブション」。2つ星を獲得しているが、2品で2500円程度。「最高の料理は2、3種類の味を組み合わせただけのもので、それ以上は必要ありません」と断言する。ロブションは人を食ったような料理で知られる80年代のヌーベル・キュイジーヌを追放しただけでなく、近年ではミシュランの格付けの基準が時代遅れだと批判している。

L'Atelier de Joel Robuchon - New York
□Robuchon au Japon  http://www.robuchon.com/

ジョエル・ロブションのお家で作るフランス料理またロブションは「今回の経済危機は、私の仕事人生で経験したなかで最悪のものです。変化に対応できないレストランはつぶれるでしょう。銀行の貸し渋りが広がっているために、新たな出店もさらに難しくなると思います」と言っている。高級レストラン以上に打撃を受けているのがフランスの街角のビストロだ。2008年の上半期だけで3,000以上のビストロが経営破綻した。破綻の数としては過去最多で、その後も件数は増えている。金融機関の貸し渋りだけでなく、材料費の高騰も追い討ちをかけている。フランス人の1人あたりの注文金額も大幅に減り、人気レストラン「コートダジュール」では、前の年平均1,990円だったランチの平均支出は、620円程度に減ったという。定番の食後のエスプレッソを削る人も目に見えて増えている。

そしてフランス人が子羊のシチューの代わりに口にするようになったのが、マクドナルドだった。フランスにあるマクドナルドは1,134店舗。マクドナルドはフランスの食文化に近づこうと、2003年から店舗のインテリアを大幅に変え、メニューにサラダやヨーグルト、一口サイズのスナックを取り入れてきた。マクドナルドの世界進出には、マクドナルドのローカル化、つまりはホスト国への文化適応がキーになっているが、フランスでは最初からサラダに対する要求が高く、マクドナルドのフランス化の手始めはハンバーガーにサラダ菜を挟むことだった。先回紹介したマクドナルドの変貌にはフランスのモデルがあったのかもしれない。2008年、フランスでの売り上げが大幅に伸び、過去最高の33億ユーロ(およそ4,150億円)を記録した。2009年、さらに30店舗増やす計画を立てている。

マクドナルドの盛況とパラレルに、サンドイッチ・ブームも起こっている。03年から08年のあいだにサンドイッチ市場は規模にして28%も拡大。バゲットで作る伝統的なものから、イギリス風の食パンで作る三角形のサンドイッチまでバリエーションは豊かになり、ランチはオフィスで席についたままサンドイッチを食べるという光景ももはや珍しいものではない。日本のデパートにも入っている「ポール」(フランスではイートイン・スタイル)なんかもすっかり定着し、Goûtu という1ユーロ・サンドイッチも人気を博している。

□Goûtu http://www.goutu1.com/
□Paul http://www.pasconet.co.jp/paul/

長く守り続けてきたフランスの食文化がなくなるのを危惧する声が聞かれる中で、事態を意外に前向きにとらえている人々もいる。フランス食品振興会のジャン=シャルル・クルーアン氏は「ここ数年、企業のグローバル化で、昼休みを2時間もとるというのは許されなくなっていたのが実情です。古き良きビストロの倒産は残念ですが、金融危機はフランスの外食産業を時代に合った形に変えるきっかけになっています」と話している。実際、老舗のビストロが閉まったあとには、カフェなど安くて手軽なランチがとれる店が増え始めている。金融危機のあと訪れるパリの風景には、これまでとは少し違ったカジュアルさを帯びているかもしれない。

□本稿は『COURRiER Japon (クーリエ ジャポン) 2009年 04月号』(「料理界の帝王が語る金融危機メニュー」など)を参照

□関連エントリー「金融危機下の外食産業(1) マクドナルドの復活」



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2009年09月10日

金融危機下の外食産業(1) マクドナルドの復活

COURRiER Japon (クーリエ ジャポン) 2009年 04月号 [雑誌]マクドナルドの快進撃が続いている。2008年11月の時点で同社は世界中の売り上げで55ヶ月連続成長を記録している。1年間で3分の1も株価が下げた大恐慌以来の最悪の年に、株価は6%もアップしている。

90年代半ばから新たな競争相手が次々と現れ、マクドナルドは苦戦を強いられていた。新しい試みはことごとく失敗し、店員教育をおろそかにした店舗の拡大は顧客サービスの低下と店舗の不潔さを招いた。同時に既存店の売り上げは頭打ちになり、やがて低下を始める。

さらにマクドナルドは動物愛護運動家、環境保護活動家、栄養学者からますます批判を浴びるようになる。私もブログで何度も紹介したエリック・シュローサーの著作『ファストフードが世界を食いつくす』(映画化もされた)はマクドナルドの肉工場のひどい実態を暴きだし、マクドナルドを1ヶ月食べ続けるという人体実験ドキュメンタリー『スーパーサイズ・ミー』はアメリカ人の肥満と不健康の根源を明るみに出した。しかし、『スーパーサイズ・ミー』が公開された04年には水面下で復活劇が進行中だったのだ。

社内で「勝利への計画」と呼ばれる復活劇の指揮をとったのは、元社員のジェームズ・カンタルポ。彼が取った戦略は新たにフランチャイズを開いて客を捕まえるのではなく、既存店の集客を強化するものだった。広告にも手が加えられた。それが日本のCMでもおなじみのI'm lovin' it キャンペーンだ。大きな変化は悪名の高かったスーパーサイズ・メニューをやめて、健康的なメニューを導入した。このおかげで健康面での批判は激減した。

とりわけチキン・メニューに本腰を入れ、世界全体では牛肉よりもチキンの仕入れが多くなったほどだと言う。Yahoo!Franceのトップページでもマクドのチキンサンドの広告をよく見かけるが、おいしくて栄養バランスが良いこと gourmand et equilibre 、サクサクの野菜 de la batavia croquante、石焼きのパン un pain c uit sur pierre を売りにしている。

サラダの充実も重要な戦略だ。例えば、サウスウェスト・チキンサラダ。チキンがオレンジ風味で、14種類の野菜、ローストコーン、ブラックビーンズなどが入っている。目を閉じて食べてみるとマクドナルドにいる気がしない、I'm lovin' it な一品らしい。

マックカフェの誕生も忘れてはならない。高級な豆を使い、設備の質を高め、フィルターで濾した水を使った。プレミアムコーヒーを導入してから2年でコーヒーの売り上げは70%も上がった。09年のアメリカの外食産業の見通しが非常に悪いにもかかわらず、マクドナルドだけは楽観している。それはアメリカ市場がポシャっても、東欧や中欧に大きな商機を見出していることもある。

マクドナルドは常に食のグローバリゼーションの悪しき象徴として槍玉にあがってきたが、こういう展開をされると批判のよりどころがなくなってしまう。それに加え、金融危機がもたらした急激な不況が生命維持レベルまで脅かしている現状では、スローフードなんて悠長なことを言っていられなくなる。マクドナルドは金融危機後の世界を見据えていたかのようだ。マクドナルドは不況に強いというよりは、不況が恒常化する世界(まさにグローバリゼーションの本質だ)を前提にしたビジネスを展開していると言った方がいいのかもしれない。

それは911の際のコミュニタリアン、リベラル、多文化主義など、各イデオロギーの置かれた状況を思い出させる。東浩紀が911の教訓とは「理念や価値について議論するのもけっこうだけど、まず市民の安全を守らないと話にならないんじゃないの?」という身も蓋もないもので、それはある特定のイデオロギーの敗北というよりは、イデオロギーそのもの敗北だったと言っている(『情報環境論集』)。これを食にあてはめると、「食文化や食の理想を語るのもいいけど、まずは食えないと話しにならないんじゃないの?」ってことなのだ。テロと同様、食料品の高騰、あるいは収入の激減という事態もまた、私たちの動物的な生存本能に訴えかけてくる。マクドナルドの手強さはこのあたりにあるのかもしれない。マクドナルドはまさに不況下の救世主として定額給付金向けの割引クーポンまで発売し、「餃子の王将」(今年5月の既存店売上高が創業以来最高の伸び率!)とともに日本の外食産業を牽引している。

フランスのランチといえば、ワインを飲みながら2時間かけるというイメージがあったが、そんな光景は2009年には見られなくなってしまった。不況下でのマクドナルドの1人勝ちはフランスでも同じだ。(続く)

□「COURRiER Japon (クーリエ ジャポン) 2009年 04月号」参照




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2009年09月01日

『エンデの遺言』『エンデの警鐘』――利子っていったい…

エンデの遺言―「根源からお金を問うこと」まずはこの引用からご覧ください。現在の経済不況に悩む人たちの度肝を抜いてしまうような指摘だと思います。

「たいていの人は、借金しなければ利子を支払う必要はないと信じています。しかし、私たちの支払うすべての物価に利子部分が含まれているのです。(…)例えば、いまのドイツでなら、1戸あたり18,000から25,000マルクの利子を支払っています。年収が56,000マルクあるとすると、その30%も利子として負担していることになるのです」(『エンデの遺言』p.66 強調は引用者)

これは1990年代末のドイツを直接的な話題としていますが、現在でも状況はそれほど変わってないことでしょう(むしろ悪化してるのかな?)(註1)。この記述をはじめてみた10年前のぼくも、おそらく驚いたことと思いますが、たぶん「へえ、社会ってこうなってるんだ」くらいの印象しかもたなかったのでしょう。ところが、現在の不況下において読み返してみれば、ちょっと見逃せない指摘です。つまり、今日日本人のほとんどは「借金まみれ」の生活をしているのですね。このことを別角度からみると、つまりかりに利子がなくなれば大多数の人々の実質所得がアップしてしまうことになるのです(註1)。

話を分かりやすくするためにモデルを単純化してみますが、ある社会において

個人の平均年収→400万円
個人の平均的所有資産→1000万円
個人年収のうち利子支払い分→30%×400万円=120万円
銀行の預金金利→1%
可処分所得→収入の75%

(※極力いま現在の日本の状況に近似させてみました。銀行の預金金利はもっと低いけど…。また「可処分所得」ってのは収入のうち財・サーヴィスの購入にあてる分です)

エンデの警鐘「地域通貨の希望と銀行の未来」かなり単純化したモデルでの説明となりますが、もしも利子を撤廃した場合、平均的日本人は支払利子30%分、だいたい120万円を「借金の支払い」でなく、自分のために使えるようになるというわけですね。こうしてみると日本人のほとんどは「借金まみれ」の生活をしていることがわかります。もちろん別の側面から利子の恩恵を受けているのはたしかです。上のモデルだと1000万円×1%=10万円。と10万円分の所得もあるのですが、それを軽く凌駕する支払いをしなければならないのです。

まったく、「利子恐るべし!」ってかんじです。一般庶民が利子を身近に感じることがあるとすれば、貯金をするときか、家や車を買うために銀行からお金を借りるときぐらいでしょう。ところが、利子の奴ときたら、するすると日常品の価格にまでひっそり入りこんでさえいて、庶民の生活を圧迫します。

またこのことを別角度からみることも大事です。つまり、ではこの30%の恩恵を受けているのはだれかということです。支払う人がいるなら受けとる人もいるはずです。

答えはもちろんお金持ちです。より正確にいえば資産家や投資家であり、うえのモデルで説明すると支払利子よりも受取利子が多い人たちにです。たとえば、先ほどのモデルをつかいほかの条件は固定したままで、資産だけが異なる人物を想定しましょう。Aは1億円の資産もっていてこれをすべて銀行に預けているとしましょう。この場合、Aは1億円×1%=100万円ですから、受取利子と支払利子は、まぁ、ほぼおなじです。ところがBは10億円もっているとします。この場合、Bは1000万円の利子を受けとることになります。Bにとっては利子様様ですね。もちろん金持ちほど出費も多くなり、実際にはより多くの「支払利子(消費額がアップするほど支払利子もアップするので)」が発生しますが、とにかく、大多数の庶民は普段から「利子」を払いつづけ、ごく一部のお金持ちがこれを受けとっていることになります。

こうしたことを知れば、とある政治家の構造改革のせいで日本に「格差社会」が生まれたというのは正確ではなく、せいぜい「加速」させた程度ということがわかります。利子を前提にした社会にはそもそもシステム上、「格差社会」が内在しています。一方で、資産家=金持ちはなにもしなくてもお金を預ければどんどんお金が貯まります。そのなかにはMoney WorkならぬMoney Gameで、庶民の感覚では理解できない投機的なお金のやりとりで、数字が変動するのに一喜一憂してる人々もいます。他方で、大多数の庶民(=利子による儲けより損が多い人々)は働いて働いて苦労して家のローンのために利子を払い、さらに日常品を買う際にもそういったお金持ちのために利子を支払い続けます。まったくなんて世の中だってかんじですね。

モモ―時間どろぼうとぬすまれた時間を人間にかえしてくれた女の子のふしぎな物語 (岩波少年少女の本 37)ただ、以上もって「利子制度が、私たちの生活を追い立て圧迫する諸悪の根源だった!」といえば、それは間違いではありませんし、もう少し控えめに「結局利益を得るのは巨額の富をもつ投資家や資産家だけじゃないか!」というのならそのとおりですが、だからといって、利子を撤廃すればすべての問題にケリがつくかといえば、事はそう簡単ではありません。ここがむつかしいところです。つまり利子をなくせば大多数の人々は救われるのかといえば(とある信念の持ち主で、そう主張する人もいるでしょうか…)、ぼくは微妙だと考えています。

その理由ですが、たしかに利子率を撤廃すれば、現代人のほとんどは30%の「借金生活」から解放されます。現代人が生きているだけでなにか切迫した気持ちになってしまうというのは、潜在的にはこの「利子」のせいもあるんじゃないかなと個人的に思っているのですが、とにかく生きているだけで「負債」を負ってしまう社会からは解放されます。

ただ、その社会に住んでいると、しだいにモノがなくなっていくことを実感することになると思います。食べるモノ、着るモノには事欠かない社会になるかもしれませんが、たとえば車のような、莫大な資本を必要とする企業がつくる製品を所有する人々は確実に減ると思います。

その理由を説明しますと、利子率のない社会では大企業がなくなってしまうからです。大企業がなくなるって、いいことじゃないか(「普段からボロ儲けしやがって。いい気味だ」とかなんとか…)という人もいるかもしれませんが、べつの言葉で置きかえると、多額の資金が必要となるプロジェクトはほとんどなされなくなるはずです。

その根拠としては、お金を貸す人々が激減するだろうからです。友人、知人にならともかく、見ず知らずの人に「利子もなく」お金を貸すなんてことなんて、まずしなくなるでしょう。余裕のある金持ちならともかく、貧乏人ならなおさらです。というのも、その社会ではお金を貸す行為自体に「損」が内在しています。つまり人に貸すお金があるなら、そのお金をつかって英会話学校に通うなりして自分のスキルを磨いたほうが、将来より多くの収入をえられる可能性が高くなるからです。このように利子のない世界では、お金というのはそれこそ「タダでは貸さない!」つまり自分のためだけに使うほうが得という性質をもつようになり、この意味で、現代社会において種々様々なモノを提供してくれている大企業が発生しにくくなってしまうのです(註2)。

もちろんこの社会においても自分に身近な人たちには、家族愛や友情、義理などから、お金を貸すこともあるでしょう(これは、私たちも普段から実践していますよね?)。けれども、見ず知らずの他人に貸すとするなら、むしろ「施し」に近いものとなります。「(自分の利益=成長を省みず)見ず知らずの他人が成長するのを助けてあげる」というわけですね。もちろん、もしも「他人の成長」が「社会全体ひいては自分の利益」に合致するようなものであれば、人々はこの社会でも他人にお金を貸すこともあるでしょうが、いずれにしても借りるほうからすれば現在よりも「資金調達」がかなりむつかしくなるはずです。このように、利子率のない社会では、一方で人々は日々「借金」に追われることはなくなるでしょうが、他方でなにかの事業をしようにもなかなか資金が集まらないということになってしまいます。つまり皮肉なことに、現代の私たちは「借金生活」を代償として「モノにあふれた豊かな社会」に住むことができているというわけですね。

つまるところ、一般庶民にとって利子は「諸悪の根源!」でも「ないと困ってしまう…」となんとも罪作りな必要悪であることがわかりますが、じゃあ、この問題をすこしでも改善する道はないのだろうか。ここで登場するのが「地域通貨」です。いろいろな制約があり、万能薬とまではいえないのですが、すくなくとも「人と人との出会い」がむつかしくなった現在の不況下にある私たちにとって、一考に価するアイディアになると思います。

これについては次回に。


註1:「この利子30%ってなんのこっちゃ?」ついで「なんでこんなにあんねん?」という疑問がでてくると思いますが、ぼくもそうでした。ということで、なぜそのようになるかを考えてみました。

最初の疑問についてですが、「借金しなければ利子を支払う必要はないと信じています。しかし、私たちの支払うすべての物価に利子部分が含まれているのです」ということは、住宅ローンなどはこの文脈によれば「利子分」には含まれないことがわかります。ということはモノやサーヴィスを受けるときの対価、つまり「生活必需品」や「ぜいたく品&サーヴィス」を消費したときに支払う対価に「利子分」が含まれているということでしょう。つまり、モノを買うときに利子を支払っているということです。

ついで、「モノを買うときにまで利子を払っているとして、それが数%ならならまだしも、30%てどういうことや」と第二の疑問が出てくるわけですが、これを理解するために以下のようなモデルを考えてみました。結論からいえば、利子のある世界ではモノのやりとりのたびに利子分が累積され、そのため現代ではそれが30%になっているのではないでしょうか。

ある社会の銀行利息率が年率10%で固定されていて、さらにどの企業も銀行からの借り入れで事業を開始するとします。おなじくこの社会における企業はいずれも良心的で、生産費用(人件費とか)と利息分だけを製品価格に反映するとします。また企業は「利息分10%」とほぼおなじ程度成長しているとします(「自然利子率(社会の成長)」と「名目金利(銀行の利息)」の問題になるのでしょうが、以上の記述がややこしいと思う人は、要は企業が自然=社会の成長にしたがっていてそれ以上の損も得もしていないモデルだと考えてください…)。

この場合各企業は損をしたいのでもなければ、製品価格に利息分をモロ上乗せします。まずA社は銀行から利息10%で10,000円を借り、材料(価格10,000円)を仕入れます。これがたとえば自動車業界をモデルに以下のように続いていくとすると…

A*孫孫孫受け自動車部品製造業者:原価10,000円 →販売価格11,000円
(A社の支払う利子1000円)
B*孫孫受け自動車部品製造業者 :原価11,000円 →販売価格12,100円
                           (B社の支払う利子1,100円)
C*孫受け自動車部品製造業者  :原価12,100円 →販売価格13,310円
(C社の支払う利子1,210円)
D*自動車メーカー       :原価13,310円 →販売価格14,641円
                           (D社の支払う利子1,331円)

となります。この場合、消費者は販売価格のうち4,641円(約30%)を利子分として支払うことになるのが分かると思います。(内容を分かりやすくするために利子率を10%にしたので、たった4回の取引で利子が膨張してますが、現実社会ではより低い利率で、よりたくさんの取引で「30%」になっているはずです)。


註2:「大規模なプロジェクトは、国家プロジェクトとして国に任せればいい。そのための国家じゃないか!」という人もいるかもしれませんが、「ソヴィエト連邦」など似たようなことを実践していた国家の多くはすでに崩壊してしまったことを忘れてはならないと思います。当書においてエンデは「マルクスの最大の誤りは資本主義を変えようとしなかったことです。マルクスがしようとしたのは資本主義を国家に委託することでした」(p40)と述べています。ぼく個人の意見では、人間が「性善説的」であれば共産主義はパラダイスだと思いますが、実際はなぁ…。みなさん、そもそも「国」を信用できます?


エンデの遺言―「根源からお金を問うこと」
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2009年06月05日

学生の住居不足とスクオッター

Ces étudiants qui squattent près de la Sorbonne
A deux pas de la Sorbonne, un ancien dispensaire du Crous vide depuis quatre ans, est depuis un mois occupé par une dizaine de jeunes du Collectif Jeudi Noir, pour dénoncer le manque de logements étudiants.
(TF1,fev.14)

上記のニュース(2009年2月14日)の内容はだいたい以下の通りである(注:リンク切れしています)。

ソルボンヌ大学のすぐそばにある、4年前に閉鎖された学生支援組織(CROUS=クルス)の無料診療所を「暗黒の木曜日Jeudi Noir」のメンバーが学生の住居不足を告発するために1ヶ月前からスクオット(squatte, squatter 不法占拠)している。この診療所は改装工事のために4年前に閉鎖されたが、まだ工事は始まっていない。そこでは熱いお湯も出るし、暖房もあるし、PCも使える。建物の部屋は週末にピクニックに出かけたって感じで放置されていたので、そのまま住むことができたという。学生でもあるメンバーのひとりが言う。「パリでは12uの部屋が月150ユーロするが、この手の物件に大多数の平均的な学生にはアクセスできない。パリには30万人の学生がいるが、CROUSは3700人分しか部屋を提供できていない。100人に1人だ」。別の学生は「400ユーロの奨学金があるがそれだけでは生活できない。スクオットするしかなかった。みんな同じような状況だ。私たちはプロのスクオッターではないが、現実に住居が無いからそうするしかなかった」と。当然彼らは立ち退くように言われているが、拒否している。

木曜日はフランスで住宅情報誌が発売される日だ。住むところに困っている若者にとって憂鬱な日であり、それと世界恐慌が起こったブラック・マンデー lundi noir にひっかけて、「暗黒の木曜日」という名前がつけられた。彼らはときには非合法的な方法を使って(こういうやり方は日本では受け入れられないだろうが)、フランスの劣悪な住宅事情を明るみに出すことで世論に訴える。2007年のクリスマスの直前に、「暗黒の木曜日」を初めとする3つの組織が、パリ証券取引所の正面、パリのラ・バンク通りにある建物を不法占拠するという出来事もあった。彼らによれば、新しい「住宅省」を立ち上げるために「徴用」したのだ。それは3年前から使われていないCIC銀行の所有物で、そこをフランスの住宅問題の議論の場にし、世論にアピールするためだ。とりわけ金融危機に見舞われる直前までパリの不動産はバブル状態で、不動産や家賃が高騰し、パリの学生の住居不足にも深刻な影響を与えていた。

スクオッター(squatter)は、都心の廃屋・廃ビルや他人の敷地や家屋の不法定住者を指すが、ヨーロッパを中心に若者や社会運動家が使われていない廃墟や遊休資産を不法占拠するケースも多い。大都市などでは、古いデパートや工場などの建築や住宅街が地域の衰退によって空き家となったり、あるいは富裕層が投機目的のために都心の住宅を住まないまま保有することがある(フランスには200万戸の空き家があり、その多くが投機目的で放置されている)。

一方で、家賃の高騰や住宅不足で住む場所に困っている人々が大勢いる。スクオッターは空き家を不法占拠するだけでなく、そこを使ってコンサートを開いたり、情報センター(infokiosque)にしたり、有機菜園をしたり、リサイクルやブリコラージュのアトリエを開いたりする。低所得層のための社会教育センターや芸術家村などに改装してしまうこともある。

スクオットにはいろんなケースがあるようだが、それは一種の象徴的な行為である。住むこと=生きることの最低限の権利の正当性を主張しているだけでなく、消費社会を当然のこととして受け入れている私たちの生き方を問い直している。そもそも「土地は誰のものなのか」とか「所有とは何か」(土地に勝手に線を引いて、これはオレのものだと宣言した瞬間から始まった)という根源的な問いにまでさかのぼらせる。私たち自身、未曾有の金融危機(恐慌?)において資本主義システムが崩壊し、その暴走と限界を無様な形でさらけ出すのを目撃しているだけでなく、その混乱の中に否応なしに巻き込まれ、覚えのないツケまで払わされている。

□JEUDI NOIR http://www.jeudi-noir.org/




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2009年05月27日

隣人祭り Fête des voisins

「隣人祭り」という新しいタイプの祭りが世界中に広がっている。「隣人祭り」はアタナーズ・ペリファンさんが1990年にパリの17区で友だち同士で Paris d'amis というグループを作ったのが始まりだ。「隣人祭り」はフランス語で Fête des voisins と言うが、Immeubles en fête とも言う。つまり、同じアパートの建物(=Immeubles)に住むお隣さんやご近所で一緒にパーティーをするという企画である。祭りと言うよりは、パーティーというニュアンスだろう。

ペリファンさんが「隣人祭り」を始めたのは、お隣や近所の関係を強め、孤立を避けるという目的からだった。Paris d'amis は、経済的に困難な家庭の親の代わりをしたり、家族のいない人のためにクリスマスパーティーを企画したり、動くのが困難な人の手助けをしたり、仕事を斡旋したり、家庭で子供を預かるなど、様々な企画を実現した。

そして1999年、ペリファンさんは17区で最初の「隣人祭り」を開催した。800の建物で1万人の人々が集い、大成功を収めた。2000年には30の自治体が支援に乗り出し、フランス全国で50万人の人々が祭りに参加した。その後、「隣人祭り」は国境を越えて広がり、2003年にはベルギーで、2004年からはla Journée européenne des voisins (=European neighbours' day)として、ヨーロッパの150以上の都市で行われるようになった。

2003年、フランスは50年ぶりの猛暑に襲われ、40度以上の気温が3週間以上にわたって続いたことがあった。そのときにフランス全国で1万人以上の犠牲者が出たが、そのほとんどが80歳以上の独居老人だった(フランス女性は日本人女性に次ぐ長寿)。フランスでは扇風機や冷房が普及していないせいもあったのだが、何よりも独居老人の孤独な生活が白日のもとにさらされたのだった。ペリファンさんが「隣人祭り」を始めるきっかけになったのも、亡くなったあと2ヶ月ものあいだ放置されてた独居老人の発見者になったことだった。

「隣人祭り」は、分断され、孤立していく今日の人間関係の中で、人と人とのつながりを見直していこうという考えに基づいている。これは地域社会が機能しなくなっている状況で、新たに、意図的に人間関係を再構築していこうという動きである。昔は近所に叱ってくれるオジさんがいたとか、かつての地域社会を懐かしんだり、その時代に帰ろうとか言う人たちがいるが、社会構造や経済システムが大きく変わってしまった今、それをそのまま復活させることは不可能だ。かつての地縁とは違う形で人と人とのつながりを新たに作っていくしかない。「隣人祭り」はそのための「意図的な」仕掛けなのである。それは常に後手に回りがちな行政のサービスを補完するものにもなる。

下の動画を見ると、「隣人祭り」は日本にも広がっているようである。隣人関係が大きな役割を果たした震災後の助け合いの記憶を共有している神戸の人々のあいだで行われているのも興味深い。震災では多くの尊い命が失われたが、「家の壁」が崩れたことで親密な隣人関係が復活したという側面もあった。自分自身で経験したのでその感覚はよくわかる。また「European neighbours' days」のサイトを見ると各国の祭りの様子が紹介されているが、お国柄を反映した風景が興味深い。

これは地域社会の問題に限らない。現在の個人の分断は、「自分はあいつより上とか、マシ」とか言って、他人と自分を常に差異化することによっても生じている。私たちは生き馬の目を抜くような熾烈な競争の中で、他人と自分を差異化することを常に強いられている。そうやって自分を追い詰め、自分から孤立しているのだ。そして人を信頼することや、人とつながることも忘れてしまう。その巧妙な分断がネオリベラリズムの最大の罠であることになかなか気がつかない。このことを考えるにつけても「隣人祭り」は非常に興味深いモデルなのである。

IMMEUBLES EN FETE
European neighbours' days - Journée européenne des voisins 
隣人祭り 日本支部 





cyberbloom(thanks to belle-voile)

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2009年04月02日

THE BIG ISSUE ビッグイシュー

bigissue01.jpg「ビッグイシュー」という雑誌をご存知だろうか。駅前や駅の構内で雑誌を売っている人(ベンダー=販売者)をよく見かけるが、ホームレスの人々に収入を得る機会を提供する事業として1991年にロンドンで始まった。いわゆる「社会的企業」のひとつである。一部300円で、そのうちの160円がベンダーの収入になる。それを売ることでホームレスの人がソーシャル・スキルを身につけ、人間関係を築いたりできる。その収入を元手に自立することもできる。

日本では2003年9月に創刊され、今年が日本での創刊5周年。それを記念して脳科学者の茂木健一郎が公演を行い、その内容が107号の記事になっているが、なかなか興味深い。

ホームレスの人としゃべりたいと思っていても、それを実行するのは結構難しい。「ビッグイシュー」の媒介なしに、ホームレスの人とコミュニケーションを成立させようとすると非対称の関係になってしまう。コミュニケーションは対等であるときにもっとも進展するが、そこに上下関係が入り込むとコミュニケーションが滞る。誰もが日常的に経験することだ。「ビッグイシュー」が重要なのは商行為として成り立っていることである。お金を手渡し、雑誌を受け取るという、対面的なやりとりによって、ベンダーがお客と対等に、気兼ねなしに話せる基盤ができるからだ。

また資本主義はとりあえずのものとして採用されているシステムであり、それはつねに脆弱性をはらんでいる。それに対してフレキシブルに対応しなければならない。「多様な価値観を認めよう」とよく言われるが、その理論的な根拠はこの脆弱性にある。それを埋めるのが多様性なのだ。そのひとつが「ビッグイシュー」に象徴される社会的企業の試みだ。イギリスはチャリティとビジネスを結びつけるのが非常にうまい国なのだという。行政の支援もあるが、それをあてにしない別の回路もある、とうのがいいのだろう。日本にはチャリティという概念すらないので、「ビッグイシュー」にような試みがいっそう重要になってくる。

さらに茂木さんは、偶有性(contingency)という概念に言及している。

哲学的に偶有性の大事な要素は「私はあの人だったかもしれない。私は全然別の人生を歩んでいたかもしれない」ということを知ることだ。茂木さんは、小倉生まれの母親から、「もし長崎ではなく小倉に原爆が落ちていたら(あの日、小倉が曇っていたのでアメリカ機は落とすのを止めた)、あなたはなかった」とよく言われたのだそうだ。

偶有性は、敵と味方、富めるものと富まざるもの、そういう関係性を固定化するのではなく、混ぜ合わせてしまう。ここに人間の共感の出発点があり、そういう偶有性の感覚に眩暈を感じられるのは人間だけなのだ。今の立場を得たのは必然だとか、自分の才能なんだとかいう考えは、あさましい成り上がり根性にすぎない。すでにそこで他者を理解しようと言う回路を自ら断ってしまっている。

分断したカテゴリーや一見折り合えないように見えるもののあいだのコミュニケーションを考えること。これは社会学的な思考の根本だ。男と女、若者と年長者、専門家と素人、あらゆるところに分断があり、それが最終的に戦争にまで行き着いたりする。若い人たち対して茂木さんはこのように言う。

「若さと言うのは、自分が何者でもありえた、これからでも何者でもありえるということを引き受けて、そして他人の様々な苦境とか、そういうことに共感をもって、できることをやるという、これが大事なことだと僕は思います」

「ビッグイシュー」から受け取れるメッセージは、私たちがいろんな分野において善意を社会化していかなければ生き延びていけないということ。誰もが社会問題にディープに関われるわけではないが、「ビッグイシュー」によって私たちは善意を小さな形で積み立てることができる。善意をコーディネートする仕組みなのだ。善意があってもそれを形にしたり、方向付けたりできない人の方が圧倒的に多いのだから。

それにしても茂木さん、こうやって非常に面白く、示唆に富んだこともおっしゃるのだけど、脳について言及し始めると話が途端につまらなく、かつ怪しくなるのは何故。


□「ビッグイシュー日本版」 http://www.bigissue.jp/





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2009年03月06日

世界の大学、最新事情

Newsweek (ニューズウィーク日本版) 2008年 10/22号 [雑誌]『ニューズウィーク』(日本版10月22日号)の「世界の大学、最新事情」という特集を読んだ。日本にいると全くピンと来ないが、世界では優秀な頭脳の争奪戦が行われている。

世界の大学の頂点にはハーバード大学などの英米のエリート校が君臨してきた。そのヒエラルキーを揺さぶろうと多くの国が猛烈な攻勢をかけている。

ユネスコの統計によると学位取得を目指す学生の数は05年に世界で1億3800万人にのぼった。7年間で4割増えた計算だ。とりわけ新興国が豊かになれば、それだけ大学で学びたいと望む若者が増えるのは当然だろう。そして彼らはとりわけ英語圏の教育先進国の大学を目指すわけだが、最近は増える一方の学生を受け入れられなくなっているのだという。世界の留学生の数は2025年までに現在の3倍の約720万人に増えると言われている。

増加を続ける留学生を奪い合う各国の動きが、世界の教育地図を塗り替えようとしている。欧米の名門校の地位はすぐには揺るがないにしても、急成長し始めているペルシャ湾岸諸国や中国、シンガポールなどの大学に抜かれてしまう日はそう遠くないかもしれない。ヨーロッパの大学でも留学生を集めるために魅力ある大学都市を整備しているというニュースをよく耳にするが、こういう危機感が背景にあるのだ。アジアの中でも競争をリードしているのは中国で、留学生数は過去6年間で実に3倍以上に増えている。国内のトップ研究機関に40億ドル以上の資金を投入するなど、大学に多額の投資を行ってきたことが功を奏している。

欧米の大学の最大のライバルとして専門家の多くが挙げるのはオイルマネーで潤うペルシャ湾岸諸国。とんでもなく豊かで社会がそこそこ安定しているドバイやその周辺諸国は、カイロやベイルートを中東の学問の都の座から引きずり降ろし、大学の世界競争のなかでも特に激しい競争を展開している。UAEが文化・教育事業に費やす金額は200億ドル以上。UAEを構成するドバイやアブダビではシンポジウムや映画祭などの文化イベントが頻繁に開かれ、大規模なアラビア語の翻訳出版事業も着々と進められている。ソルボンヌ大学(パリ第4大学)もアブダビに分校を構えているが、その学長に言わせると湾岸地域は「現代のアンダルシア」で、1000年前に西欧とイスラム圏の知性が交流した南スペインのような雰囲気があるのだそうだ。

アブダビにはすでにMIT(マサチューセッツ工科大学)も進出。ニューヨーク大学アブダビ校も開校予定。ドバイにはハーバード大学やロンドン・ビジネススクールが現地校を開設、カタールにはコーネル大学やカーネギー・メロン大学などアメリカの有名大学が進出している。他の国にはアイデアがあっても、資金がない場合が多いが、湾岸諸国はアイデアに十分な資金を提供し、それを簡単に実現してしまうのだ。

湾岸諸国が大学教育の中心地に変貌している要因は、オイルマネーだけではない。何よりもエジプトやシリアとは対照的にカタールやUAEの指導者たちが寛容で未来志向であること。言論と表現の自由もおおむね保障され、在留外国人にも大幅な自由を認めている。服装や飲酒、男女の社会的な役割に対する法的規制もほとんどない。交通の便もよくなり、宿泊施設も充実し、外国からも訪れやすくなった。ビザの取得に関してはイスラエル人に対して以外は世界で最も緩い部類に入る。先ほどの「現代のアンダルシア」ではないが、この地域は非常にコスモポリタンな雰囲気があるのだという。

もちろん、すべてが薔薇色なわけではない。いくつか問題も生じている。アメリカ流のやり方が中東には合わないとか、現地の学生の基礎学力が足りないとか、勉強の習慣が身についていないとか。しかし、これらは克服できない問題ではなさそうだ。もうひとつの問題はいつまでドバイの繁栄が続くかってことだが、今月24日(2008年10月)、ドバイ政府や政府系企業が抱える債務が800億ドル(約7兆6000億円)あることが初めて公表され、借り入れをてこに進めてきた大規模開発を見直す方針が示された(それが今や債務不履行の危機に!)。それが文化・教育事業にどう影響するかだ。

一方、隣の韓国はアメリカの一流大学に多くの学生を送り込んでいる。アメリカの大学で学ぶ学生の数では人口の多い中国やインドに次いで3位(韓国の人口は5000万人弱)。ハーバード大学の学部で学ぶ韓国人は37人でカナダとイギリスに次ぐ。アメリカの名門8校への合格率を高校別に見たときの上位40校に入るアメリカ国外の高校は2校あるが、2校とも韓国の高校なのだという。

韓国政府は高等教育関連の支出を対GDP(国民総生産)比で2・6%に引き上げた。アメリカに次ぐ2位の数字で、欧米諸国の平均の2倍だ。韓国政府は今後5年で大学の研究活動に20億ウォンの資金を提供する計画で、仁川経済自由区域(仁川国際空港に隣接)にアメリカの大学の誘致を積極的に行っている。そこまでやっても、06年の留学生の数は2万2000人に止まり、逆にその10倍にあたる21万8000人が国外の大学に流出している(現在のウォン安は留学費用の高騰を招いているようだ)。

この記事を読んで愕然としたのは、日本の大学の話題がひとつも出てこないこと。中国、韓国、シンガポールなどの周辺の国々の動向が話題になり、注目されているにもかかわらずだ。

日本の大学は西洋の学問を翻訳し、移入するという使命から始まった。明治以降、大学の教師は欧米の情報を独占的に仕入れて、それを翻訳し、小出しにしながら自分を権威付けてきた。大学制度はこの情報の落差によって維持されてきたと言える。文系に関して言えば、この一方通行モデルはあまり変わっていない。欧米に対する受け身な体質と、自給自足可能な市場ゆえの内向き志向からは、少なくとも教育が国策だとか、教育を外国に向けて売ろうなどという発想は生まれないだろう。今年は複数の日本人ノーベル賞受賞者が出たが、その際には頭脳流出が問題になった。受賞者本人も「自分は日本の大学の産物ではない」と発言したものだから、そのときは大学改革をという声があちこちで上がっていた。

グローバリゼーションによって大学が国際的な競争にさらされているにも関わらず、日本の大学の変化の足取りは鈍い。何しろ国内の大学を守るために欧米の大学の進出を阻んできた輝かしい実績を持つ国なのだから。このような大学の鎖国化の背景には、大学が文科省とズブズブの関係にある既得権益と化していることもよく指摘される。

少子化で誰でも大学に入れる時代になったが、一方で大学を選ぶ価値基準も多様化しつつある。これまでは日本国内の偏差値しか大学を測る基準がなかったが、その気になれば情報を収集して外国の大学を選択肢に加えることができる。もちろん、親の外国語の能力とリテラシーが問われるわけだが、ここでもネットの果す役割は大きい。すでに一部では確実に海外脱出の動きが広がっている(勝間和代もよく話題にしている)。日本の大学が変わるのを待つよりは、さっさと外国に出てしまう方が手っ取り早いということなのだろう。

日本はGDP(国民総生産)に占める高等教育への公財政支出は0・5%で最低レベル。大学の授業料はバカ高いし、就職できるかもわからないのに奨学金という借金を背負わされる(高等教育費の公的負担率は13%)。日本の大学にそれだけの負担に見合う価値があると信じられているうちはいい。外国の教育条件(教育内容や学生の経済的支援)がだんだんと良くなり、お金の問題ではなく、情報の問題だとみんなが気づいたときには、状況は一変するかもしれない。

「日本の企業で働くために日本の大学に行く」という固定観念も、非正規雇用が半分近くに達していること(このアンフェアは若い世代の日本不信に確実につながっている)、多くの企業が多国籍化していること、あるいは人口減少によって日本の市場規模が急激に縮小することを考えれば、これからは崩れていくしかないのだろう。グローバリゼーションは外圧として働くだけでなく、内側から価値観そのものを溶解させるのだ。そして、ちょうど隣の国のように、良い教育を受けるには外国に行くしかないと気づいたならば、日本人は命がけで外国語を始めるだろう。

この国が外国語教育に熱心でないのは、それに気がつかれないようにするためなのかもしれない。いまだに「英語をぺらぺらしゃべるやつを見るとムカツキますよね」と真顔でいう学生がいるが、まだまだ日本の鎖国教育はうまく行っていると考えるべきなのだろうか。




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2008年08月20日

安楽死をめぐる2人の死

安楽死が非合法のフランスで、重病の男性がサルコジ大統領に安楽死の権利を認めるよう求める手紙を送ったが、否定的な返事を受け取りまもなく自殺したことが、8月14日付の共同通信のニュースで伝えられていた。男性の自殺により、安楽死の是非をめぐる議論が再び高まりそうだが、ヨーロッパではオランダやベルギーが安楽死を合法化している。

実は今年の3月、フランスのブルゴーニュ地方で同じような事件が起こっていた。元教師のシャンタル・セビール Chantal Sebire さん(52)が自宅で睡眠薬を飲んで自殺しているのが見つかった。セビールさんは、2000年にまず嗅覚と味覚を失い、2002年に鼻腔神経芽細胞腫と診断された。2007年10月には視力も失い、死の直前には腫瘍が原因で顔が激しく変形していた。この病気は過去20年間でわずか200例しか報告されていない極めてまれな悪性腫瘍で、ひどい苦痛を伴うという。

セビールさんはその2日前、ディジョンの地方裁判所に対し、これ以上の苦痛には耐えられず、病状も悪化する一方で回復は見込めないとして、主治医に安楽死を許可するよう求めていた。同裁判所は17日、現行法では安楽死は認められていないとする検察側の主張を支持し、この訴えを退けた。判決は「患者の苦痛に同情する」としながらも「自殺ほう助は犯罪と言わざるを得ない」と述べ、バシュロナルカン保健相も地元ラジオで「病状がどうであれ、安楽死は違法だ」と話した。セビールさんは控訴せず、安楽死が合法化されているオランダやベルギーで医師に相談することにしていた。

セビールさんが自ら命を絶った同じ日に、ベルギーの国民的な作家、ユーゴ・クラウス Hugo Claus が安楽死を遂げた。アルツハイマーにかかり、意識が明晰なうちに死にたいと、安楽死を選択したのだった。新聞は彼の死を、「明晰で、決然とした、穏やかな、美しい死 Une mort lucide, décidée, sereine et belle 」と書いた。ベルギーでは安楽死が合法化されており、ユーゴ・クラウスは死の数分前までシャンパンを飲んでいたという。

ユーゴ・クラウスは1929年生まれ。小説はオランダ語で書いていたが、ベルギー全体のアイデンティティーを考え、フランス語圏の人々にも支持されていた。代表作は『ベルギーの嘆き』。何度もノーベル文学賞候補になったが、結局果たせなかったことになる。

ベルギーの新聞、ル・ソワール Le Soir が「ふたつの人生の終わり、ふたつの倫理観 Deux fins de la vie, deux éthiques 」というタイトルで二人の死を並べて大々的に報じた。セビールさんの死の方は、「Une mort secrète et mystérieuse, entourée de géne et débats 気まずさと論争に取り巻かれた、秘密のミステリアスな死」と評されている。

2月にセビールさんはサルコジ大統領に法改正を求める手紙を送り、またテレビでもインタビューに応え、安楽死の権利を訴えており、フランスで論争を巻き起こした。あるメディアには発病前と後の写真に加え、顔を見ると子どもが怖がって逃げ出すとの本人のコメントが掲載された。先述の Le Soir にも彼女の発病後の写真が大きく掲載されているが、日本ではおそらく自主規制されているのだろう。AFPには発病前の写真だけが載っていた。


□「安楽死を求めていた仏女性、自宅で遺体発見」(3月20日、AFP)
□ベルギーの新聞 Le Soir(21 mars 2008)を参照。





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2007年02月22日

グローバル・ブランド RED(2)-世界エイズデーとU2の来日

redipod.jpgエントリーが大幅に遅れてしまったが、12月1日は世界エイズデーで、それに向けてエイズ予防啓発を呼びかける様々なRED CAMPAIGNが行われていた。日本でもチャリティーコンサート「RED RIBBON LIVE 2006」が行われたり、アニエス・ベーがアートコンドームを無料配布したり。当然、U2のボノが提唱したチャリティー・ブランド、REDにも注目が集まるわけだが、REDは写真家、アニー・リーボビッツによる「RED広告キャンペーン」を展開。キャンペーンにはクリスティー・ターリントン、ペネロペ・クルス、スピルバーグらが終結した。

最近のREDのアイテムと言えば、Gapが写真集「INDIVIDUALS」を発売。この写真集は30年間にわたってGap の広告キャンペーン用に撮影された、マドンナや坂本龍一氏など著名人の250点に及ぶポートレートを編集したもの。カバーの色は6種。ハードカバー(16000円、デニムの袋入り)とソフトカバー(4900円)があり、広告に使われた15曲のCD付き。写真集売り上げの100%がアフリカでHIV/エイズに感染した女性と子供を支援するため、世界基金(The Global Fund)に寄付される。また写真集を立体的に構成した写真展もGap原宿店で開催されている(25日まで)。

先日、ボノはU2のコンサートで来日し、安倍首相と面会。ボノはアルマーニのサングラス(RED PRODUCT)をプレゼントし、安倍首相はその場でかけてみせた。どう見ても似合ってなかったが、ボノは「クール」とか言ってほめたらしい。世界第2位のODA出費額を出す日本の首相を批判するわけがない。やはり最近のREDの注目商品は、IPOD NANO RED SPECIAL EDITION。4GBモデル23800円、1台あたり10USドルが世界基金に寄付される。

そのボノが、23日、音楽界への貢献と人道活動が評価され、英国の名誉ナイト爵位を授与されることになった。ブレア首相も同日声明を出し、ボノの活動を称賛。U2もホームページ上に、ボノは爵位の授与を「大変光栄に思っている」とする声明を掲載した。ボノは年明けにダブリンで英大使から爵位を受けるが、英連邦以外の市民のため「サー」を名乗れないらしい。ボノは2003年にフランスのシラク大統領からレジオン・ドヌール勲章も授与されている。

ボノの戦略をどう見るか。ダボス会議に出席し、各国の首相と会談し、ナイトの爵位や勲章をもらう、慈善事業に熱心なロックアーティスト。所詮はエスタブリッシュメントの側に入った金持ちロックアーチストの慈善事業じゃねーかという見方もできる。この前、アンチグローバリゼーションの動きとして「ANTI-PUB=反広告運動」を紹介したが、ボノは積極的にグローバル企業と結びつき、広告というシステムを最大限に活用している。

価値の転倒という観点からは、ANTI-PUBの方が圧倒的に本来のロックの匂いがする。ボノは慈善活動に熱心なビル・ゲイツみたいな他の金持ちと同じように、あくまで金持ちの高みから貧困を見下ろしている。しかし、いつそういう底辺に落ちるかわからない格差社会(アフリカの貧困は世界規模の格差がもたらしている)の住人としての連帯意識というのも可能ではないだろうか。結局はどちらのやり方が説得力があり、共感を勝ち得るかということに尽きるのだが。

ところで、今回のU2の来日ライブと言えば、「日本人はボノに熱狂しても貧困撲滅には無反応」(「ロサンゼルス・タイムズ」)という記事もあった。「一般的に日本人の政治意識は低く、個人のレベルで積極的に行動する政治文化もない」んだそうだ。ステージの巨大スクリーンに「世界人権宣言」の日本語訳のテロップにも観客は反応することはなかった。学校でそういうことを教わらないし、マスコミも取り上げることもない。意図的に非政治化された土壌からそういう文化が育つわけがない。ボノは日本の国旗、日の丸を振り回してステージに登場したらしい。他の国だと盛り上がるのが、日本ではあっけなく不発に終わった。日本の観客はボノにとって世界で最も歯がゆい人たちなんだろうなあ。

■関連エントリー「グローバルブランド、RED(1)

REDの公式サイト


cyberbloom(2006/12/24)

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2007年02月01日

スクォッター集団、暗黒の木曜日 JEUDI NOIR

jeudinoir01.jpg正月早々、朝日新聞が「ロストゼネレーション」特集を組んでいた。ロストゼネレーションとは現在25歳から35歳の世代で、失われた時代と呼ばれる90年代のあおりをもろに食らい、何よりも最も厳しい就職状況を生きた。「氷河期世代」、「混沌の世代」と自らを定義する。これは何も日本だけの話ではない。

昨年3月フランス中を吹き荒れたCPEのデモについて本ブログでも何度か取り上げたが、学生や労働者が「26歳未満なら2年間は理由を告げずに解雇できる新雇用制度=CPE」に真っ向から反対したのだった。この問題の根本にも世代間格差がある。フランスの若者たちがいらだちを覚えるのは現在60歳前後の「68年世代」で、日本のまさしく団塊世代にあたる。68年世代はかつて5月革命の主体となってドゴール政権(日本の文脈で言えば安倍現首相の爺さんの岸信介政権)を揺るがせたが、若者にとっては既得権益を離さない守旧派に映る。朝日に「68年世代は、社会の要職にいるのに、私たちの苦しい状況を全く理解しようとしない」、「私たちは上の世代の無策の犠牲者だ」というフランスの若者の発言が載っていた。

ライブドアショックからちょうど1年が経過したが、ロストジェネレーションに属するホリエモンが支持されたのは、近鉄買収騒動に象徴されるように「若者にも既得権をよこせ」と声高に主張したからだ。そこにホリエモンの同世代が自分の欲望を投影した。しかし、一方でライブドアショックは、新興市場に信用不安を引き起こし、ライブドア株だけでなく、他の新興株も暴落させ、「若い」個人投資家を奈落の底に突き落としたのだった。

韓国では無職者を「ペスク=白手」と呼ぶ。働かない者は手が白いからだ。韓国でもぺスクは急増し、120万人を越える。彼らも日本のフリーターと同じようにパートやアルバイトを転々とする。韓国では97年のアジア通貨危機をきっかけに企業のリストラが一気に進んだようだ。職にありつけない彼らは「オリュクド」と上の世代を呼ぶ。「56歳以上で働く者は給料泥棒だ」という意味で、「もう十分な収入を得ただろうから、若い世代に仕事を譲れ」という皮肉がこめられている。

格差社会に関しては、そんなものは存在しないとか、いろいろ議論があるが、この世代間格差に関しては比較的実感されやすく、どの国でも不満が噴出しているようだ。

朝日新聞が「ロストゼネレーション」特集に、フランスの「暗黒の木曜日 jeudi noir」というスクォッター(不法占拠)集団が紹介されていた。木曜日はフランスで、住宅情報誌が発売される日である。それと世界恐慌が起こった暗黒の月曜日=ブラックマンデーをひっかけて、「暗黒の木曜日」とした。こういうゲリラ的な手法は、議会制民主主義的な手続きに絶望した状況から生まれる。

ところで、彼らは何をするかというと、数人で家探しを装って賃貸物件を見せてもらい、家主と部屋に入ったとたんに外で待機する仲間を招き入れ、シャンパンと音楽でパーティーをおっぱじめる。ある意味、いやがらせ作戦だ。この活動は有力紙やテレビでも報じられた。

「家主側は無期限雇用の身分や高額な保証を求める。そんな条件で若者が住宅を借りれるわけがない。この深刻な問題を表現したかった」。

朝日新聞はシリアスな論調で彼らの主張を取り上げていたが、そのパーティーの模様がサイトで紹介されている。Disco King なる人物がノリノリで先導し(バックに流れるのはビージーズの「サタデー・ナイト・フィーバー」!)、ありえない条件を不動産屋にふっかけている。不動産屋のお姉さんもお兄さんも笑うしかない。舞台は部屋の物件ではなく、不動産屋の事務所のようだ。こんなシャレが通じてしまうフランスは懐が深いというか、ラテン系というか。

しかし「暗黒の木曜日」はいつも不動産屋でおふざけをしているわけではない。

彼らは、先日ピエール神父(ホームレスの救済に尽力したフランスの国民的英雄)が亡くなった際に紙上にコメントを寄せている。彼らはピエール神父を手本にし、神父から使命感を呼び覚まされたというのだ。「暗黒の木曜日」の広報担当のマニュエル・ドメルグは次のように言う。

私たちとピエール神父との共通点は「貧困、住宅問題、政治の無策」に対する怒りだ。ピエール神父は議員でもあったが、古典的な制度の枠組みでは物事を動かせないことを理解していた。神父は制度の外に身を置き、現場で活動しつつ、制度により良い影響を与えようとしたのだ。神父がなくなった今、私たちを導くキリストはもういない。私たちは集団で動くしかない。

制度の枠組みを越えたところで、ときには非合法スレスレのこともやって世論を刺激しながら、硬直した制度を動かしていく。この考え方は広告に落書きする戦術を取る「反広告運動」、マクドナルドを解体したジョゼ・ボベに共通する。

jeudinoir02.jpgさらに注目すべき事件がある。去年のクリスマスの直前のことだ。「暗黒の木曜日」を初めとする3つの組織が、パリ証券取引所の正面、パリのラ・バンク通りにある建物を不法占拠(=スクウォット)した(写真)。新しい省庁を立ち上げるために「徴用」したのだ。それは CIC 銀行の所有物だが、3年前から使われていない。省庁といっても、もちろん正式のものではなく、大臣はいないが、フランスの住宅事情の議論の場にし、世論にアピールするためだ。組織の代表者によると、その建物を「住宅危機省」として、住宅危機に関する活動家たちの出会いと議論の場にすると言う。

住宅の問題はホームレスに限らず、一般的に存在する。高い家賃、学生寮の状況、保護施設、公営住宅などに及ぶ。ホームレス問題に専念する「ドンキホーテの子供たち」よりも射程を広げ、すべての住宅に関する問題について、すべての関連組織とアトリエ(=議論の場)を持つ。提案された解決策が適応可能か、理想的すぎないか検証する。

「ロストジェネレーション」特集では、松本哉氏の「素人の乱」がしかけた「こたつテロ」も紹介されていた。決行は買い物客で賑わうクリスマスの夜。松本氏が新宿駅の南口の路上にこたつを置いて、居座る。「クリスマス粉砕集会」という横断幕を張り、「責任ある社会人ならやめなさい」と怒鳴る警察の警告を無視し続け、鍋を食べ続ける。「僕らは社会人になった覚えはない。金ばかり使わせるクリスマスなんてクソ食らえ!」…「暗黒の木曜日」の紹介もそうだが、朝日新聞が脚色すると何だか大きくテイストが変わってしまう。


「暗黒の木曜日」については以下の「リベラシオン」の記事を参照
Les dix vies de l'abbé des sans-logis(mardi 23 janvier 2007)

暗黒の木曜日 JEUDI NOIR 公式サイト(フランス語)



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2006年12月09日

「パリのカフェ」的コミュニケーション

郵便的不安たち#東浩紀が「「マトリックス」と人間不在の荒野」(「郵便的不安たち」に収載)というエッセイの中で、東京とパリの人間の占める位置の違いについて語っている。彼は映画「マトリックス」をサンジェルマン・デ・プレの名画座で見たあと、パリの街に出ると、映画の余韻が一瞬で砕け散るような断絶を感じたと言う。パリの街では何をするにしても人間同士のコミュニケーションが不可欠で、単にカフェに入るとしてもギャルソンに微笑み、何か一声かけることを要求される。

逆に日本にはそういう「パリのカフェ」的なコミュニケーションを意識せずに済むシステムが張り巡らされている。人間の介在を可能な限り排除し、消費者の欲望を即物的に満たそうとするシステムである。レンタルショップ、コンビニ、ファミレス。様々な自動販売機。広い駐車場を備えた郊外型の店舗。それらには人間が介在するにしても、店員は極端に儀礼化された言葉使いと態度で客と接し、私たちも彼らの人格を無視するようにふるまっている。現代の利便性は、人間を介さない自動的かつ儀礼的なシステムに媒介されることを意味し、私たちはそれらに身をゆだねている。

東浩紀は、そのような日本の現実と「マトリックス」の様式化された世界に同じものを感じ取る。もう一度同じ映画を日本の郊外型のシネコンで見たときは、そういう断絶感はない。マトリックスの世界と日本のシステムには連続性があるからだ。

マトリックス 特別版「マトリックス」は人間不在の映画だ。確かに人間は登場するが、かつての文学作品のように人間像や人間関係を深く掘り下げて描いているのではない。人間の類型や行動パターンを組み合わせているすぎない。東浩紀によれば、これはアニメの「キャラ萌え」に通じ、今の若い消費者は人間不在のままに、類型やパターンに対して感情移入したり、感動できるのだという(この話は「動物化するポストモダン」に詳しい」)。よく使われる「泣ける」というのも同じような表層的な感動なのだろう。表層的と言っても、悪い意味で言っているわけではない。感動の形式が違うということだ。ときどき映画やアニメ作品を「文学的に」に解説することがあるが、学生にそんなふうに映画は見ないと言われ、愕然とすることがある。「文学」は人間の排除=消費至上主義とともに終わったか、別の物になってしまったのだ。

bonjourと「こんにちは」は違う。bonjourは「こんにちは」よりもはるかに使用頻度が高く、見知らぬ他者とのコミュニケーションを開く呼びかけとしても機能している。つまりフランスでは言葉を介して他者と関係を作ろうとするのに対し、日本ではできるだけ他者と向き合わないようなシステムを作ろうとする。しかし、19世紀半ばのパリ改造以来、同じ佇まいを見せているように思われるパリでも、近年はファーストフードの店やセルフサービスのカフェの進出に押されて、老舗のカフェ、街角のカフェがひとつひとつ姿を消している。「ギャルソンに微笑み、何か一声かける」という習慣が失われつつあるのだ。近所に住む人々がたむろし、労働者が仕事前にカウンターでワインをひっかけていく、あるいは政治、文学、芸術の議論の場を提供するという、カフェ文化の象徴的な光景は消えていく一方だ。

言葉を介する世界は大人の世界でもある。リセの学生(高校生)がカフェに入るとき、大人を真似て背伸びをする機会であり、やがて大人の世界に迎え入れられる。そういうイニシエーションの場が失われるとき、大人と子供の境界もなし崩しになる。まさに日本的な状況だ。フランスでアニメが流行ったのは、アニメが「なし崩し」の部分にうまく入り込んだからだろう。「キャラ萌え」の話が出たが、フランスでの日本アニメの流行もまた「人間の不在化」と関係している。



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2006年11月09日

スターバックスコーヒー(3) Corporate Social Responsibility

なぜみんなスターバックスに行きたがるのか?最近気がついたのだが、スタバには「COFFEE CSR」というパンフレットが置いてある。CSR とは「Corporate Social Responsibility 企業の社会的責任」のことだ。企業は本来ひたすら利益を追求する組織で、いつも社会的責任をないがしろにすると考えられてきた。確かにそう思わせる不祥事も多い。しかし、アメリカで CSR は経営そのものになりつつある。美徳や評判も企業価値を高める不可欠な要素で、それが市場でも重要な評価基準になっている。

世界で一番そういうことを考えなさそうなアメリカの消費者ですら、中東の紛争や自然災害のニュースに接して、自分の行動と環境への影響を考えるようになっているという。ガソリンが急騰し、巨大ハリケーンがいくつも来襲すれば、どんな鈍感な人間でも危機意識を持たざるを得ないのだろう。

CSR は消費者に対してだけではなく、生産者との関わりにおいても重要だ。フェアトレードはスタバが自らを演出するもうひとつのキーワードだ。コーヒーを安く買い叩くのではなく、公正な価格で買い取る。そうすれば、コーヒー農家は喜んで品質向上のために努力する。コーヒーの市場価格は1ポンド(=454グラム)あたり、40‐60セントだが、スターバックスの昨年の仕入れ価格は1ポンドあたり、1ドル28セント(74%増)だそうだ。さらにはコーヒー農園の運営資金をサポートしたり(スタバが契約しているコーヒー農家の多くは小規模な家族経営)、生産者が生活する地域の環境の改善のために診療所や幼稚園などのインフラも整備している(パンフレットに書かれていることを信じるならば)。

こうやってスタバはフェアなイメージを前面に出しているが、最初からそうだったわけではない。生産農家についての情報公開を拒否していた前科がある。2000年2月、ABCテレビがグアテマラのコーヒー農園での児童労働とひどい低賃金の現状を報道。そのコーヒーがスタバにも販売されていることを明らかにした。その後、NPO、学生団体、フェアトレード団体、労働組合、教会団体などの抗議や株主への働きかけによって、フェアトレード運動が広がった。スタバもその波に押されて、2000年からフェアトレードコーヒーの購入を始め、同年11月にはコーヒー供給業者が行動規定を守っているかについて情報公開することを決めた。

マクドナルドを1ヶ月間食べ続けるという恐怖の人体実験ドキュメンタリー映画「スーパーサイズ・ミー」が大きな話題を呼び、マクドナルドもそういう批判を無視できなくなった。スーパーサイズを廃止したり、罪滅ぼしのためかフェアトレードのコーヒーを導入したりしている。

企業がそういうイメージアップに対して重い腰を上げたのも、消費者が企業に対してそういうものを求めていると実感したからだ。少し前までそういう問題は一部の過激な活動家が騒いでいるだけとたかをくくっていた。しかし企業はそれが利益にもつながり、業績や株価にも影響すると考え始めた。

日本企業の中でも、グローバル企業とローカル(国内)企業では意識の差が出てくる。欧米に進出しているグローバル企業は訴訟や不買運動などに直面するが、企業天国の日本の国内ではあまりそういう目には合わないので切実さがない。しかし、資金を調達する株式市場や金融機関が国際化している状況で、ローカル企業だからといってコンプライアンスを無視していいということにはらない。これまた外圧がなかったら、日本の内輪の論理で通しちゃえってことでは情けない。

ところで、この前、スタバにノートパソを持ち込んでブログの記事を書いていたら、ブログでも紹介したフランスのバンド Autour de Lucie がかかっていた。視聴コーナーで確認したら、スタバ限定発売のフレンチもののコンピレーションに収録されていたのだった。スタバではソウル、ボサノバ、ジャズなどがよくかかっているが、趣味の良い音楽を選んで、ライフスタイルもカスタマイズしてくださいってことね。


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2006年11月07日

スターバックスコーヒー(2) カスタマイズとグローバリゼーション

スターバックスマニアックススタバはカスタマイズというキーワードを前面に出している。ミルクを豆乳に代えたり、好みのフレーバーシロップを入れる。マイ・タンブラーを持参するという、エコなスタイルもそのひとつだ。個人の趣向、地域文化、季節の変化、時代の流行によって、味や楽しみ方やスタイルを変える。画一化された既製品を押し付けるのではなく、いくつかの選択肢を用意し、さらにはそれらの組み合わせを可能にする。個人が組み合わせによって、能動的に、自分の好みの味や自分だけのスタイルを作れるように。この能動性が重要なのだ。

あれだけスタバの店が増えると、ブランド性が希釈されてしまうように思えるが、この組み合わせ=カスタマイズによって、ブランド力は担保されているのだろう。スタバは誰でも入れるが、そこにあるのは自分だけの味やスタイルなのだ。

スタバやマックはグローバル化、アメリカ化の象徴として、ときには輸出先の地元文化と軋轢を起こし、攻撃のターゲットになった。フランスでは暴動が起こるとマックやケンタが真っ先に打ちこわしのターゲットになる(スタバは多少リスペクトされているのか)。カスタマイズはいわば「柔軟なグロバーリゼーション」の戦略だ。侵略されている、押し付けられているという意識を持たせてはいけない。カスタマイズは、もともとはカスタマーが製品を自分の好みに合わせて作り変えることだが、もっと広い射程を持つ言葉になっている。スタバはその広報的な存在だ。

もともと、グローバル化(globalizastion)に対して、ローカル化(localization)という用語がある。グローバル化はしばしば一方的な文化の押し付けだとか、文化侵略だとか批判されるが、必ずしもそうではない。地元の文化との交流や交渉によって、適応しやすいものに柔軟に変化する。ローカライズするのだ。


スタバ関連本紹介
■「スターバックス成功物語
■「なぜみんなスターバックスに行きたがるのか?
■「スターバックスコーヒー―豆と、人と、心と。
■「ブラジルで雨が降ったらスターバックスを買え


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2006年11月02日

スターバックスコーヒー(1) スタバの値上げ

Starbucks01.jpg伊藤園がタリーズを買収し、スタバに攻勢をかけている。一方スタバは最近、主力商品の大半を20〜40円値上げすると発表した。アルバイトなどの人件費や原材料高騰による影響で、96年に1号店を銀座に出店して以来、初めての値上げになる。いつも飲んでいるスターバックスラテは290円から310円になるみたい。その発表に反応してスタバの株価が上がり始めた。遊びで1株残しているが、58000円の高値掴みの分で、まだ含み損状態。ほんま、才能ないわ。

スタバは3月末が決算日で、6月ごろに株主優待の無料コーヒー券が送られてくる。サイズは自由に選べ、可能な限りのトッピングができる。やはりスーパーサイズのストロベリーフラペチーノを食べるしかない。みんな同じことを考えるらしいが、全部食べたら凍死しそうになった。

かつて「田舎とはスタバのないところ」と言われていたが、今はどんな田舎にもスタバは進出している。現在、全国41都道府県に649店。それでもスタバがない県がまだあるんだね。店舗を増やすだけでなく、別の展開も試みている。ここ1、2年でドライブスルー形式の郊外店を出したり、駅に売店を出したり、サントリーと共同でコンビニ用のカフェを出したり。

カフェラテというイタリア語を広めたスタバは、アメリカのシアトルに根付いたエスプレッソ文化がグローバルに展開したもので、そのスタイルは今や世界中の若者の人気を集めている。しかし、「カフェラテ」というメニュー自体は本場イタリアのカフェにはないようだ。カフェラテというと、イタリア人の友人はコーヒーとミルクを混ぜ、パンを浸して食べる子供の食事だと言ってたし、イタリアに留学していた友人は家で飲むようなミルクコーヒーだと言っていた。それゆえ、スタバは正統なエスプレッソ文化とは似て非なるものだと批判する人がいるが、むしろスタバはグローバル化した変種のカフェ文化と考えるべきだろう。

そこには新しい価値観も加わっている。
□禁煙…愛煙家はスタバ嫌い。
□フェアトレード…コーヒーといえば、プランテーション。昔は植民地的搾取の象徴だった。生産者から買い叩くのではなく、適正な値段で買い取ること。お店にもフェアトレードに関する詳しいパンフレットが置いてある。
□エコロジー…専用のタンブラーの持参。これを自然にやっている若い人たちは偉いなあと感心する。こういうモデルは他に見当たらない。
 
フランスはカフェ文化の長い伝統を持ち、また喫煙者が多いこともあり、スタバが受け入れられるか疑問視する声もあったが、それなりに定着している。特に若者たちは昔ながらのカフェを敬遠し、気軽なセルフサービスのカフェにシフトしつつあったので、スタバは歓迎されたのだろう。

フランスには「ANTI-PUB」という広告に反対する過激な運動家たちがいるのだが、彼らはスタバをマクドナルドと同じく、グローバリゼーションの手先として糾弾している。上の写真は彼らがスタバにゲリラ的に貼ったステッカー。スタバはいい迷惑だろうけど、何かユーモアも感じる。「ANTI-PUB」のサイトのフォーラムで、「長い間、カフェのタバコの煙に悩まされてきた私にとってスタバは救いだ」と「ANT-PUB」に反論している女性が印象的だった。伝統の名のもとに抑圧されてたものが(タバコって男権的な象徴だったりする)、グローバリゼーションによって解放されるケースもある。すべてが悪とはなかなか言えない。

ところで、フランスのスタバでコーヒーを注文すると、
Votre nom?(お名前は?)
と聞かれる。
カップにマジックで名前が書き込まれ、コーヒーが出来上がると、名前を呼んでくれる。これは本国アメリカ方式で、受け取りの際に間違えずに済む、合理的なやり方のようだ。確かに混んでるとき、あのシステムでは受け取りを間違えそうになる。でも日本で名前を呼ばれたら恥ずかしいかも。

17、18世紀の黎明期のカフェは、人々が情報を持ち寄り、議論し、世論が形成される民主主義の母体のような場所だった。パリには「フロール」や「ドゥ・マゴ」など、文学や哲学の議論が盛んに行われた老舗のカフェがいくつかあるが、今は単なる観光地と化している。飲み物が文化と言えるのは、それが人々をつなぎ、人々のあいだに何らかコミュニケーションの様式を生むからだ。

そう考えると、スタバは全く個人的な空間だ。もちろんおしゃべりしている客も多いが、むしろ文庫本、i-pod、ノートPC、ケータイなど、個人化されたメディアツールとシンクロする空間だ。


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2006年10月27日

フランスのケータイ事情

フランスには何とタバコが吸える年齢の規制がない!年齢に関係なくタバコを吸うことを法律によって許されているのだ。フランスの子供は12歳あたりから、タバコを吸い始める。そういうお国柄だからか、禁煙に対する姿勢もフランスは甘かった。しかし、政府が手を打つまでもなく、子供の喫煙率が劇的に下がっているらしい。それはケータイのおかげだ。子供がタバコを吸うのは、早く大人になりたいという背伸びなわけだが、好きなときに長電話するという、これまた大人な楽しみの方が魅力的に映るようだ。フランスではタバコがケータイにとってかわられたのだ。

この前、某女子大の学生たちとお茶を飲みに行った。スタバと喫茶店という選択があったが、彼女たちはスタバは嫌いだ、喫茶店がいいという。彼女たちは席につくなり、一斉にタバコの箱を取り出したのだった。しかし、左手にはしっかりケータイが握られていた。ちゃんと両立しているではないか!

つまり、タバコとケータイが両立するかしないかは、予算の問題があるのだろう。1ヶ月にタバコを10−20箱買うとすれば、だいたい1ヶ月のケータイの使用料に相当する。フランスはタバコが高いこともあり、貧乏な若者にとって両立させることは難しい。日本の若い人たちはまだ余裕があるのだろう。

Apple iPod shuffle 1GB MA564J/A日本では猫も杓子も(私も) ipod だが、イタリアの若者は高価で手が出せず、イタリアでは、ipod はもっぱら40代のチョイ悪オヤジが使うアイテムのようだ。一方、日本でケータイが普及し始めたとき、それに反比例してCDの売り上げが落ちた。こちらは予算よりむしろ、時間の制約の問題だ。ケータイをいじっていると、音楽を聴く暇がないというわけだ。音楽かケータイかという問題は今や技術が解決してしまった。

以前、黒猫亭主人さんが、フランスの低年齢層向けアイドル、イローナちゃんを紹介されていたが、彼女の「アローアロー」(フランス語で「もしもし」)というケータイの歌がフランスで大ヒットした。××ちゃんに電話したら話中で、○○ちゃんにメールしようとしたらバッテリーが切れちゃって、もしもし、パパ、これからおうちに帰るわ…みたいな、ケータイが浸透した他愛のない子供の日常が歌われている。あんな歌が流行ったら、小さな子供たちまでケータイを欲しがるだろう。

日本ではセキュリティーを理由に子供にケータイを持たせる傾向にある。ケータイが飽和状態になり、ケータイ会社にとって小さい子供は最後のターゲットでもある。ヨーロッパではケータイを子供に持たせないというのがコンセンサスになっているようだ。それはケータイから出る電磁波の人体への影響が問題になっているからだ。とくに成長段階にある子供の脳細胞に対する影響が大きいと考えられている。訴訟社会アメリカでは「脳腫瘍になったのは携帯電話会社のせいだ」という訴えが相次いでいる。まだ証拠不十分で勝てないらしいが、アメリカではケータイを直接頭部につけたくない人のために、イヤホンが無償提供されるようになった。そんな話、日本で聞いたことがない。最近、安全をうたった「電磁波が出ない機種」が売り出されているが、やはり危ないって認識があるってことか。

もうひとつケータイの基地局の問題がある。ケータイの電波を中継している巨大なアンテナだ。あたりを見回してみると、マンションの屋上とか、あちこちに立っている。2002年にフランスで中継基地局が発する電磁波の影響についての疫学調査が行われた。フランス国立応用科学研究所のロジェ・サンティニ博士が、基地局からの距離と健康への影響の因果関係を実証したのだが、世界で始めての正式結果の発表が大きな反響を呼んだ。スペインでは、近くに数十基の基地局が集中してしまった小学校で、小児ガンが多発した事件が知られている。ソフトバンクが買収した外資系ケータイ会社の本国イギリスでは、過激な反対派による基地局打ちこわし事件も起こっている。イギリスでは基地局の位置がネット上で公開されているので、どこにあるのか一目でわかってしまうのだ。

つまりヨーロッパでは、ケータイを持つリスク、ケータイ社会のリスクを知った上で使いましょう、という情報公開、情報開示が前提になっている。その上で、予防原則をもとに基準値を厳しく決めるなど、最低限の方策が取られている。こんな話も日本で聞いたことがない。企業天国日本は企業の利益最優先で、「疑わしきはOK」という原理で動いているようだ。私たちには「疑わしい」ということさえ知らされていない。あとはユーザーの人体実験に任せようってことらしい。

ところで、最近、世界保健機関(WHO)が、電磁波対策の必要性や具体策を明記した「環境保健基準」の原案をまとめた(読売新聞が今年1月12日トップで紹介)。電磁波に関する初の本格的国際基準で、WHO本部は「今秋にも公表し、加盟各国に勧告する」としている。ケータイ会社とともに、電磁波の影響などありえないと言っている日本政府はどう対応するのか?


こちらのサイトで詳しい情報を出してます。

□電磁波の影響に関する情報提供をしている「ガウスネット」はコチラ
□電磁波の影響に関する新聞報道の一覧はコチラ


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2006年09月07日

コカコーラ・レッスン

coca01.jpgフランス人はコカコーラが大好きだ。スーパーに買い物に行くと、1.5リットルの「コカ」(とフランス語では略す)6本セットを買っている人をよく見かける。駅の自動販売機にペリエはないが、コーラは必ずある。あるいはコーラしかない。夏になると、アルコール類を飲まない人は、カフェのテラスでコーラを注文する。バドワやシュウェップスよりも、圧倒的な人気だ。これもグローバリゼーションの成果なのだろうか。
 
ついでに言うと、ヨーロッパで最もマクドナルドの店舗数および収益が多いのもフランスである。イラク戦争以来、アメリカに対するアンチテーゼとしてのヨーロッパを体現しているようなイメージが定着しつつあるが、じつはこれほどアメリカと縁の深い国も少ない。イラク戦争を批判され、一部のアメリカ人がヒステリックにフランス産のワインボトルを割っていた頃も、フランス人は黙々とビッグマックを頬張っていた。

アメリカとフランスの関係は、アメリカの独立にまで遡る。イギリスとの植民地競争を背景に、フランスの啓蒙思想の後押しを得て、フランクリンは独立宣言の草稿をパリのカフェ「プロコープ」で起草した。自由の女神も独立百周年を記念してフランスから贈られた。

やがて文化的優位(ヘゲモニー)は、20世紀に入ってアメリカの手に渡る。コカコーラやジーンズの普及については、僕は一つの仮説をもっている。それは映画によって、これらの製品に対する憧れが植えつけられたのではないかということだ。1946年にフランスはアメリカとの間にBlum-Byrnes協定を結び、莫大な借金を帳消しにしてもらう代わりに、ハリウッド映画の全面的受け入れを認めた。そのため、戦後のフランス人は浴びるように黄金期のハリウッド映画を見た。ブルジョワ的教養によるのではない、即物的な豊かさが、当時はかっこよかった。カウボーイが履いているジーンズは機能的だし、ボトルからラッパ飲みするコーラは、カフェテラスのエスプレッソよりも軽快な飲み物だった。

ジーンズは履き心地のよいものではない。コカコーラは味わい深いものではない。そんなことは誰でも知っている。にもかかわらず、ジーンズを履き、コーラを飲み続ける理由は何か。それはもっぱらスタイルに対する愛着である。若々しく、活動的なスタイル。そのスタイルは、映画というやわらかいファシズムによって、ほとんど気づかれないうちに、そっと押しつけられたものである。ポール・ヴィリリオも指摘するように、映画とは戦争を遂行する強力な武器の一つなのだ。

もちろん、事態はフランスだけにとどまらない。ベルリンでもバルセロナでも上海でも東京でも、ジーンズを履いてコーラを飲むことは、最も日常的な仕草である。コカコーラは、スタイルとともに、安さと早さで他を圧倒する。メニューを眺め、ソフトドリンクを選ぶときにも、コーラは一番上に、一番安く載っている。そのうち、面倒くさくなって、とくにコーラが飲みたいわけでもないのに、なんとなくコーラを注文するようになる。マクドナルドのみならず、中華料理店でさえコーラを飲む。うまくはないが、どこで頼んでも同じ味というのは、便利なものなのだ。

コカコーラは多国籍企業の代表である。しかし、そのグローバリゼーションは、さまざまなメディア戦略を通して、永年の間に培われてきた。だから強い。ちょっとやそっとでは、コーラから抜け出すことはできない。ちょうどサンタクロースが赤と白の衣装から衣替えできないように。あの色合わせが、1930年代のコカコーラのポスターに由来することを、知らない人もいるかもしれない。いつか19世紀のドイツにいたような青や緑の服を着たサンタに出会える日まで、僕たちはコカコーラを飲み続けることだろう。


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