2016年03月27日

映画における不平等 - 「女性の年」と言われた今年のカンヌ映画祭

最近、「流行りの映画700本における不平等」という南カリフォルニア大学(USC)の研究レポートが話題になっていた。同大学には世界的に有名な映画学科があるが、2007年から2014年までの7年間に公開されたその年のトップ100の映画、合計700本を調査した。差別に関する興味深いデータをいくつか紹介すると、
□2007年〜2014年で、セリフのある役を演じた女性は、30.2%にしか満たない。
□2014年のトップ100本で主演もしくは共同主演した45歳以上の女優は皆無。その他の役で中年女性俳優が登場するのは19.9%。

つまり映画の中で女性は語る存在というよりは見られる存在で、しかも見られる存在は若い女性で、中年女性は映画から排除されているということだろうか。調査研究は、男女差別だけでなく、人種差別、性的マイノリティー差別など、多岐にわたって行われているが、それは今年のカンヌ映画祭で起こったことを否応無しに思い出させる。今年のカンヌも、これから日本にやってくるであろう、楽しみな作品が目白押しだったが、一方で、女性をめぐる問題や女性監督に焦点が当てられ、「今年は女性の年」と言われながらも、男性中心の映画界に対する女優や女性監督たちの異議申し立てが目立った。

女性の年?それとも女性差別?

カンヌ映画祭については、映画業界一般と同様に、これまでずっと男性が支配する世界だった。それゆえ、今年の公式セレクションが状況を少し切り開いたという安堵感があった。例えば、オープニング作品にエマニュエル・ベルコ監督の『スタンディング・トール Standing Tall 』が選ばれたが、女性監督作品がカンヌ開幕を飾ったのはカンヌ史上2回目のことだった。また、名誉パルム・ドールがアニエス・ヴァルダ監督に授与されたが、こちらは女性初だった。しかしベルコは、自分の作品がオープニングを飾ったことによって女性の権利が認められたと考えることを拒否した。「名誉なことは作品が選ばれたこと。このような名誉ある立場が女性に与えられたからといって、自分が恵まれているとは感じない」と。

コンペティション部門に、今年は2人の女性監督作品がノミネートされたが、とりわけ、レズビアンの抑圧された愛を描いたケイト・ブランシェト主演の『キャロル Carol 』は話題を集めた作品のひとつだった。アクション映画のジャンルでも、今日本でも上映され大人気の『マッドマックス 怒りのデス・ロード』でシャーリーズ・セロンが、麻薬組織との戦いを描いた『シカリオ Sicario 』ではエミリー・ブラントが、大活躍した。

しかし女性たちは「女性の年」と言われることに、いらだちを隠さなかった。「今年は女性の年だそうだけれど、1年限りの瞬間的ブームで終わらないことを願う」と、ブランシェットは記者会見でコメント。ブランシェットは、 2015年にもなっていまだにこうした問題が議論されるのは頭に来ると述べつつ、「これ以上議論されることを望まない。でも、議論する必要のある問題だ」と語った。

初監督作品『A Tale of Love and Darkness』のプロモーションでコート・ダジュールをかけずり回っていたオスカー女優、ナタリー・ポートマンは、女性が中心となって制作した作品は今なお「虚栄心のプロジェクト」‘vanity projects’ として片付けられてしまうと言った。ポートマンは「子供の頃、バーブラ・ストライサンドが自ら出演する作品を制作すると、人々がそれは虚栄心だ、虚栄心を満たすだけの作品だ、と言われていたことを思い出す」と語り、女性監督がわずかしか作品を撮っていないハリウッドの映画業界は「極めてアンバランス」だと批判した。

実際に数字を見てみよう。女性監督が全く含まれない状況も珍しくない今年のコンペティション部門には、2人の女性監督作品がノミネートされた。去年はどうだったか。コンペティション部門の18作品でも、女性は日本の河瀬直美監督(『2つ目の窓』)とイタリアのアリーチェ・ロルヴァケル監督(『ル・メラビジル Le Meraviglie』)の2人のみだった。2013年は1人、2012年はゼロだった。また去年カンヌに出品された1800作品全体でも、女性監督が手掛けた作品は7%だけだった。

今年のカンヌ映画祭のトークイベントで明らかにされたデータによると、昨年アメリカの大手映画会社が制作した映画のうち女性監督作品はわずか4.6%で、今年のアカデミー賞で最優秀作品賞にノミネートされた映画に女性主人公の作品は1本もなかった。また、昨年の米映画の興行成績トップ250作品のうち女性監督によるものはわずか6%で、1998年の9%かららに減っているという。

実はジェーン・カンピオンが審査員長を務めた去年のカンヌでも同じような議論があった。カンピオンは映画業界でトップを担う女性が少なく、それは業界「特有の性差別 ‘inherent sexism’」のためだと批判した。カンピオンは、パルム・ドールの受賞経験(1993年の『ピアノ・レッスン The Piano 』)がある唯一の女性監督であり、アカデミー賞でも監督賞にノミネートされた4人の女性監督の1人である。カンピオン監督の最新作は、テレビのミニシリーズ『トップ・オブ・ザ・レイク Top of the Lake 』で、故郷に帰った女性捜査官が児童虐待事件の捜査に関わっていくというストーリー。高視聴率を取り、賞もいくつか受賞している。

カンピオンは去年、「どれだけ経っても私たち(=女性)には取り分は回ってこない」と発言し、また「強い女性的な視点 a strong female vision 」を提示しただけで、それは驚きになってしまうと付け加えていた。つまりは、女性が映画を撮り、女性の視点を前面に出すことは特異なことになっていると。そのようなカンピオンの発言に対して、映画祭の主催者は、問題は認識している、しかし、作品の純粋な評価以外に別の要素を加えるならば、それはかえって女性監督たちに対する侮辱に当たるのではないかと反論した。主催者の発言は「作品の純粋な評価」と言われているものが、実は恣意的な前提に立つものだということを理解しておらず、評価の枠組み自体を全く疑っていない。

カンヌ映画祭のハイヒール論争

また今年のカンヌでは「ハイヒール論争」も巻き起こった。こちらは古臭いドレスコードに対する異議申し立てである。発端は映画情報サイト「スクリーン・デイリー」の記事によると、「キャロル」の上映会に出席しようとした50代の女性グループが、「ふさわしい靴に履き替えてくるように」と係員に言われ、入場を拒否されたという目撃証言があった。脚が不自由で平らな靴を履いていた女性もいたという。これに対して、エイミー・ワインハウスのドキュメンタリー映画でカンヌに参加したアシフ・カパディア監督が、ツイッターで「妻にも同じことが起きた(でも最後には参加できた)」というツィートが拡散した。監督や俳優/女優の、個々のツイートによる拡散の方が早くて、映画祭の主催者側の対応が常に後手に回るというのが近年の傾向のようだ。メディアだけを相手にするのならば、ある程度、情報を統制できるだろうが、SNSによる情報拡散は問題を即座に顕在化させてしまう。

カンヌ関係者は当初、「レッドカーペットでは女性はドレスにハイヒール、男性はタキシードの正装を義務付けている」と、ドレスコートの存在を認めていたが、ネット上で予想外の批判が噴出したことから、映画祭責任者のティエリー・フレモーはツイッターで「ハイヒールを義務付けているというのは根拠のない噂だ」とそれを否定した。しかし、すでに手遅れで、エミリー・ブラントが作品上映後の会見で、この件について意見を求められ、「とても残念。正直言うと、みんなフラットシューズを履くべきで、ハイヒールなんか履くべきじゃないと思う。私はコンバースのスニーカーの方が好き」と発言した。さらにイネス・ド・ラ・フレサンジュは「マッドマックス 怒りのデス・ロード」の上映会でレッドカーペットにフラットシューズで登場。イザベラ・ロッセリーニやサマンサ・ ベインズも追随し、ベインズはツイッターに「フラットシューズでレッドカーペットを歩くのはとっても楽しい」と投稿した。一方でカンヌではデビューしたての女優がカメラの前でセクシーポーズをとって自分を売り出す習慣があるし(写真上)、レッドカーペットを闊歩する女優たちのセクシーなドレスが話題になる(今年もソフィー・マルソーの〇〇が見えたと大騒ぎ)。

冒頭でも述べたが「流行りの映画700本における不平等」のデータによれば、映画に登場する女性は多くの場合、鑑賞される存在、男性の欲望の対象でしかないということになる。女性たちが男性の作った作品を喜んで見るのは、女性たちが男性の欲望を内面化しているからなのだろうか。それとも女性にはそれ以外の選択がないからだろうか。あまりにマッチョな場面に遭遇して(それを批判的に描いていたとしても)女性が不快になることは想像できるし、男女のあまりに固定化した役割や行動パターンに興ざめする経験は男性の側にも多々ある。女性たちが女性をとらえる新たな視点や枠組みの面白さに気がつき、また男性たちも、従来の境界のあいだを揺れ動き、攪乱するような固有の生き様に共感を始めれば、マッチョな作品をボイコットする突破口になるのかもしれない。グザヴィエ・ドランなんかの人気もそこにあるのだろう。

映画がリアルタイムの現実を反映し、多様なものになって行かざるをえないとすれば、映画を評価する人々は真っ先にそういう問題に敏感でなければいけないはずだ。しかし映画祭がそのような映画を批評する視点と力量をもたないとすれば、多様な現実を見せるという映画の役割に水を差すことになる。
現状を変えるのは経済の力?

一方で、メキシコの女優&プロデュサー、サルマ・ハエック Salma Hayek は経済的なインセンティブを強調していた。ハエックはカンヌで次のような発言をした。「私たちのできる唯一のことは、私たち(=女性)に経済的な力 an economic force があることを示すことです。それ以外に彼らを動かすことはできないでしょう。彼らはお金を見たとたんに即座に態度を変えますから」

女性ではないが、ある経済番組でLGBT(レズビアン、ゲイ、バイセクシャル、トランスジェンダー)のマーケットとしての可能性ついて特集していた(テレビ東京WBS特集「 声を上げる同性愛者」)。日本でも10人に1人は LGBT で、日本だけでもその市場規模は5.7兆円と試算されているらしい。LGBT の人々の生活習慣に根差した新しい需要を掘り起こそうというわけだ。例えば、同性カップルは従来の家族の定義には当てはまらないので、スマフォの家族割引を適用しない通信会社があるのだという。また同性カップルは賃貸住宅の入居さえも断られることもあるし、2人で住宅ローンを組むこともできない。このような不都合を解消していくことがマーケットを生み出すことになる。また、任天堂が作った家族ゲームが LGBT を排除していたことで、アメリカで社会問題化し、任天堂は謝罪に追い込まれた。つまり LGBT に対応しないことが、今やグローバル企業の大きなリスクになっている。番組ではソニーの幹部が LGBT を支援する NGO の主催者からレクチャーを受けていたが、そうやってまず消費者との関係において企業が動く。それが社会的な認知度を高め、最終的に政治も動かざるをえなくなる。

映画作品の中で LGBTQ(LGBT+ジェンダークィア)が占める割合も低く、2014年に公開された映画トップ100本の4610人のキャラクターの内、19人だけがレズビアン、ゲイ、バイセクシャル(トランスジェンターは無し)と確認されたそうだ。約0.4%である。先の10人に1人という割合からかけ離れた数字だ。世論調査によるとアメリカ人の3.5%がLGBTで(ミレニアル世代に限れば7%)、アメリカの人の20%が同性に魅力を感じたことがあるという。このような欲望や感受性を表現する余地はまだまだあるだろう。「流行りの映画700本における不平等」で白人男性中心主義で邁進していることが暴露されてしまったハリウッド映画は、一般公開まで試写会を重ね、観客の反応に対して徹底したリサーチを行い、場合によってはストーリーの変更も辞さないようだ。それが「我々は観衆の欲望を代弁している」という口実を与えているのだろうか。

最近、映画「007」シリーズの主人公ジェームズ・ボンドを演じたピアース・ブロスナンの「次期ボンドは黒人か同性愛者でも良い」というリベラルな発言があったが、一方で、映画がグローバル化し、イスラム教徒の人たちもハリウッド映画を見るようになった。つまりイスラム圏という新しいマーケットが意識されるようになったわけだが、その際、同性愛を禁じているイスラム教を信仰する人たちに配慮する必要も出てきたと言う。グローバル化が必ずしも多様性に行きつかない現象だ。

カンヌだけでなく、ハリウッドでも2015年は「女性の年」と言われていて、女性の主人公がストーリーを引っ張る作品が人気があるという。そのような作品は多くの女性客を呼び寄せ、今年のヒット作品『Cinderella』『Fifty Shades of Grey』『Insurgent』の観客の60%以上が女性なのだという。また家族客という枠組み(家庭でのDVD鑑賞も含め)も今年の映画において重要なファクターになっているようだ。

この文章は以下の記事を参照した。
□Inequality in 70 0 Popular Films(August 6 2015, USC)
□Cannes stars reject patronising 'Year of Women' tag(May 19 2015, AFP)
□「女性監督が少なすぎ、映画界は男性社会」カンヌ審査員長(2014年5月16日、AFP)

※(初出2015年8月23日):アカデミー賞では2015年から「白すぎるオスカー」が問題になっている。2015年のアカデミー賞授賞式で、ジョージ・クルーニーを含む複数の俳優が「会場が真っ白」などと、アメリカの映画界が未だ白人至上主義であることをジョークを交えて批判した。その傾向は2016年も変わらず、ノミネーションにおいて、2年連続で俳優部門20枠を白人が占めたことで議論が勃発した。スパイク・リー監督や、ウィル・スミス夫妻らが授賞式の欠席を表明し、アカデミー賞を主催する映画芸術科学アカデミーが会員ルールの変更を発表する事態となった。


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2013年10月12日

グローバル展開する MUJI とユニクロ

1990年代後半のある日、サンシュルピス教会の裏通りを歩いていた時に開店したばかりの MUJI (無印良品)の店に出くわしたことがある。ちょっと興奮してお店に入り、無意味に買い物をしてしまった。無印良品は70年代後半の大量消費社会の真っただ中で、実用本位の商品をよりやすく、過剰消費を促す既存ブランドのアンチテーゼをコンセプトに80年に生まれた。

カーサブルータス特別編集 MUJI  いちばん新しい無印良品のこと。 (マガジンハウスムック CASA BRUTUS)一方、ロンドンやパリの人々は MUJI に抱くイメージを訊かれると「クラシック」と答えるようだ 。「定番だが、良いもの」である。昔はどこでも見つけることができたオーソドックスなモノが、ヨーロッパでも消費の波によって忘れ去られてしまった感があるが2008年のリーマンショック以降、そのコンセプトが改めて評価されるようになった。

日本のバブル崩壊を予測するようにストイックなスタイルを貫いた MUJI は、21世紀の恒常的な経済危機と低成長の時代を先取りすることになった。例えば、MUJI のパリでのヒット商品ナンバーワンが「タッチパネル手袋」。真冬になるとパリは0度を近くになり、手袋は欠かせないのと同時に、スマホの普及率が4割に達している。かじかむ手でスマホを操作しなければならない国の必需品なのだ。そして今年の9月、レ・アールに1000平方メートルの前代未聞の広さのMUJIの旗艦店がパリにオープンするようだ。ヨーロッパ最大の規模である。

MUJI の欧州展開は順風満帆だったわけではない。一時の不調の反省として、物流をロンドンに一極集中し、在庫の無駄を省く改革を遂行した。これまで日本の商品とは別に、欧州向けの商品を開発していたが、既存の日本の商品の割合を増やしてコストを抑えることにした。欧州向けの商品を別に作ることよりも、欧州の消費者のライフスタイルの欲求を研究し、くみ取ることが重要だと気が付いた。つまりはローカライゼーションだ。そうすれば日本の商品でも売れる。顧客に対して商品の丁寧な説明を心掛け、じっくり商品を見てもらえるような店作りも心がける。実際MUJIの客は店内の滞在時間が長いことが特徴だ。

無印良品 世界戦略と経営改革何かと現代の象徴的な企業であるアップルと比較されることが多いが、MUJI はアップルの対極にあるという。MUJI の方針は「製品が生活の主たる存在になるのではなく、常に生活者が主役になりうるようにお手伝いする」ことだ。一方ユニクロはアップルと同じ方向性を持つ。iPhone は特定の顧客のためにあるのではなく、あらゆる人のためにある。それでいてデザインが強力なブランドを築いている。あえて顧客を設定しない、’Made For All’ な製品だ。通常デザインは具体的な顧客像を設定する。人種、年齢、教育レベル、職業、居住地区、ライフスタイルなどだ。そうやって差異化を図るのだ。

ZARA のようなブランドは流行を追い、シーズンごとに機敏に反応する。ある商品が予想外に売れれば、急いでそれに対応し、2週間で新しい商品を出荷する。しかしユニクロは正反対のサプライチェインを用いる。1年前に膨大な量を発注することで最低のコストで質の高い作業を確保する。そうやってコストを削減して安い商品を提供する。流行を追わず、基本を追求する、それは不景気な時期にも適している。

ところで、最近、ユニクロを傘下に持つファーストリテイリングの社長、柳井氏の発言が注目を浴びた。「将来は、年収1億円か100万円に分かれて、中間層が減っていく。仕事を通じて付加価値がつけられないと、低賃金で働く途上国の人の賃金にフラット化するので、年収100万円のほうになっていくのは仕方がない」 という発言だ。柳井氏は以前から「世界同一賃金」の主張をしてきたが、社会保障の貧弱な日本で年収100万円で生活していけるのだろうか。夫婦になり、共働きをしたとしても年収200万円で子供を育てられるのだろうか。そもそも、大半の人々の年収が100万円になり、中間層がそぎ落とされた社会ではユニクロのような商売が成り立つのだろうか。

一方で、グローバリゼーションが国境を越えて富の再分配を行う、つまり柳井社長の言うように先進国と新興国の収入が「世界同一賃金」に向けて平準化するよりも、多国籍企業が搾取をグローバルに行っていることを、ある事故がが明るみに出した。バングラデシュで起こった縫製工場崩落である。首都ダッカ近郊のビルに欧州ブランド衣料の縫製工場が入居し、約3000人が働いていたが、崩落事故で死亡者が1000人に達した。この工場に1ポンド(150円)の激安Tシャツなどを発注していたイギリスの激安ブランド「プライマーク Primark 」に批判が集まり、途上国の労働者から搾取するような低価格ブランドを買わないようにしようという不買運動も起こった。

プライマークの最低賃金は月13.97ポンド(約2100円)で、時給換算で約10円だったという。日本人の年収は100万円に向かって下がっているのかもしれないが、バングラデシュの縫製工場で働く女性たちの年収は100万円に向かっているどころではない。ユニクロは今回の崩落事故とは関係ないが、バングラデシュに進出していることには変わりはない。もちろん柳井氏がノーベル平和賞受賞者のムハマド・ユヌス氏が創業したバングラデシュのグラミン銀行と協力し、貧困や衛生、教育などの社会的課題の解決を目指すソーシャルビジネスを立ち上げていることは指摘しておく必要はあるが。

COURRiER Japon (クーリエ ジャポン) 2013年 03月号 [雑誌]ところで MUJI は現在、動物愛護の観点から批判を浴びている。槍玉に上がっているのは、準絶滅危惧種のヨシキリザメのフカヒレを使用した「ごはんにかける ふかひれスープ」だ。現在、世界的に乱獲されているサメの保護が叫ばれており、とりわけ finning=ヒレだけを取るためにサメを殺し、その他の部分は海上で投棄することに対する厳しい批判がある。「ふかひれスープ」に疑問を抱いた人たちが、動物保護団体などのサポートを受けながら、商品の販売中止を求めて活動を始めた。署名サイトで賛同を呼びかけ、店舗前でも抗議活動も行われたようだ。

それに対して無印良品を展開する良品計画が反論。同社が使用しているフカヒレは「約70%以上の量が宮城県気仙沼港の他、日本国内にて水揚げされたサメからのものであり、残り30%弱がスペイン産」と産地の内訳を明かし、「気仙沼港で水揚げされるヨシキリザメは、主にマグロ延縄漁の混獲魚として水揚げされたものであり、その混獲されたサメは水揚げされたのち、さまざまなものへ利用されています」と、フカヒレ目的で獲ったサメを使用しているわけではないと主張した。

無印が“販売中止運動”に反論、フカヒレ商品巡り署名活動起きる。(ナリナリ・ドットコム)

日本の企業がグローバルに展開する場合、当然、グローバルな企業ウォッチにさらされる。MUJI の主張は国内向けには説得力があるかもしれないが、同じ主張を欧州の人々に対してできるだろうか。「ふかひれスープ」が欧州で販売されているかはわからないが、フカヒレを扱っている企業とみなされるはずである。ドメスティックな論理をひきずったまま欧米に進出すると、訴訟や不買運動などに直面することがある。いくら国内的には妥当性があると思われても、グローバルなコードを考慮せざるをえないのだ。実は MUJI は3年前にも消費者運動の影響を受けたことがある。同社が2010年4月に発表したイスラエルへの出店計画が白紙撤回されたのは、NGOや無印良品の利用者らが「パレスチナでの占領・入植政策を続けるイスラエルを、同国への投資という形で支援することになる」として、計画見直しを求めるキャンペーンを続けた結果であった。

MUJI がそのような要求を受けるのは、同社の環境や社会に対する取り組みの中で「地球と生きる5原則」を掲げ、環境への配慮や公正さを求める消費者の信頼を得ようとしてきたからだ。企業が動物愛護やエコロジーに関するイメージアップに積極的になるのは、消費者が企業に対してそういうものを求めていることを実感するからだ。少し前まで多くの企業は一部の過激な活動家が騒いでいるだけとたかをくくっていたが、それが利益にもつながり、業績や株価にも影響すると認識し始めた。資金を調達する株式市場や金融機関が国際化している状況では、国内向けの企業であってもコンプライアンスを無視していいということにはならない。長い伝統を持つスペインの闘牛が動物愛護の視点から厳しく批判され、禁止に追い込まれているのを見ると、それがグローバルに共有される価値観に加えられつつあることがわかる。

■無印良品 なぜ「世界のMUJI」になれたのか(COURRiER Japon クーリエ ジャポン 2013年 03月号 収載)参照

■フィナンシャル・タイムズ紙は、ユニクロがアメリカの店舗が営業損失から抜け出せず、ヨーロッパ(英、仏、露)の店舗はほぼ破綻していることを指摘。一方、102店舗のオープンもあって、中国、香港、台湾では売上・営業利益ともに急増している。その地域での売上は1250億円で、ユニクロの海外店舗での約半分近くを占めており、営業利益は135億円で海外事業の74%近くを占めているという。また同紙は、シンガポール、マレーシア、タイ、フィリピンを含む東南アジアでの事業も好調で、期待できると伝えている(2013年10月12日加筆)。http://bit.ly/186Ozer


cyberbloom(初出2013年6月15日)

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タグ:ユニクロ MUJI
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2013年07月13日

『ローマ法王に米を食べさせた男』―世界と日本の地方が直接つながる

高野誠鮮氏は、石川県羽咋市神子原村で「限界集落」の活性化と農作物のブランド化にチャレンジした、スーパー公務員である。通常、前例を踏襲し、上から言われたことだけやっていれば年功序列式に定年まで地位と給料が上がっていく公務員の世界では、経営的な視点に立つインセンティヴはあまり働かない。高野氏の場合、経営と言っても、一定の投資に対して多くのリターンを求めるのではなく、お金をかけずに知恵をしぼるのだ。高野氏はそれを「思源作戦」(資源に対して思源)と名付ける。

ローマ法王に米を食べさせた男  過疎の村を救ったスーパー公務員は何をしたか?農家の人々に JA からの自立を促すためには、自分がお役所仕事から脱却して範を垂れなければならない。高野氏はまず会議をやめた。いくら会議を重ね、立派な分厚い企画書を書いたところで行動しなかったら意味がないからだ。とりわけ公務員はそうすることで何かやった気になり、満足してしまう。高野氏は、責任は自分が取ること、最低限の予算で「何とかする」ことを条件に、稟議書を役所で回すことをやめ、市長に事後報告という形で、事業のスピードアップを図った。お金がないから知恵を縛り、それを行動につなげ、さらにその責任を引き受ける。まさに今の日本に欠けている根本的な原理である。

農家が十分な収入が得られないのは、自分で作ったものに自分で価格をつけられず、流通に利益を中抜きされているからだ。そこで高野氏は農作物をJAに出さず、生産、管理、販売を自分たちでやることを神子原の農家へ提案した。しかし JA とズブズブの依存関係にある人々の激しい反発に会う。ヤジと怒号に囲まれ、ほぼ賛成者ゼロの状況で彼は「CIAの戦略」に基づき、反対派を懐柔していく。CIA の戦略とは、どうやってひとつの方向に大衆を動かしたらよいか、アメリカの英知を結集して練られた1953年の「ロバートソン査問会」のレポートである。

具体的に言えば、地元メディアに神子原地区の農業を事あるごとに取材させ、村が話題に中心にあるように思わせることだった。彼らは外からの評価にめっきり弱いのだ。さらには地元メディアだけでなく、アメリカの AP 通信、フランスの AFP 通信、イギリスのロイター通信に、高野氏が始めた「棚田オーナー制度」の英語のアピール文を、「山のきれいな水だけで作られた美味しいお米」と書き添えてファックスで流した。「棚田オーナー制度」とは、都市住民に村の棚田のオーナーになってもらい、田植えと刈り取りのときには手伝ってもらうシステムだ。早速、英ガーディアン紙に掲載された記事を通してそれを知ったイギリスの領事館員が登録の一番乗りになった。それをまたサプライズとして地元メディアにフィードバックし、その反響で40組の募集に対して100組の応募が殺到することになる。すでに神子原地区のコシヒカリは「全国の美味しいお米ベスト10」の第3位に選ばれるレベルあった。しかしその存在を告げ知らせる戦略が決定的に欠けていたのだ。

さらに高野氏は神子原米をワイン酵母で発酵させたお酒、「客人」(まれびと)を造り、高付加価値作戦でブランド化し、1本3万3600円の値段をつけて東京のデパートで売り出した。もちろん、農家の収入アップを考えてのことである。さらに「客人」を外国人記者クラブで宣伝した。そのおかげで仏の有名レストラン、アラン・デュカスのチーフ・ソムリエが「客人」を知り、彼自身が参加して神子原米でフランス料理に合う新しい微発泡酒をプロデュースし、アラン・デュカスで供されることになった。

東京のデパートに「客人」を売り出したことに対して、地元の人々からなぜ県内のデパートに置かないのかと批判が出た。つまり最初は何をやっても無視していたのに、外から評価されると気になってしょうがない。いちゃもんをつけたくなるのだ。「日本人は近くにある存在を過小評価する傾向にある」と高野氏は言う。内輪の人間が新しいことを始めるとバカにしたり、足をひっぱったりする。それでいて、外からの評価に左右され、自分の価値を見極め、自分で判断して行動できない。高野氏はそういう日本人の外圧に弱い習性を利用したともいえる(CIAのレポートのように大衆の動員の方法として普遍化できるのかもしれない)。それは日本のサブカルチャーの評価に似ている。それが輸出可能な価値あるコンテンツと気が付かずにいて、フランスなど外国の若者たちに評価されて初めて、ようやく自己像をとらえることができたのだ。

一方で私たちはどうやって高野氏が高度な英語を身に着けたか興味を抱かざるをえないのだが、それは本書には全く書かれていない。ローマ法王に神子原米を食べてもらったのも、NASA とコンタクトできたのも(UFO 情報も集まる宇宙科学博物館コスモアイル羽咋も彼のプロデュースだ)、アラン・デュカスのチーフ・ソムリエとコラボできたのも、高度な英語力があってこそ。英語によってマーケットはグローバルに拡大する。

やがて農家の人々は直売所で自分の生産物を売るメリットに気が付くのだが、それは中抜きされずに正当な利益を得ることだけでなく、自分の商品を買ってくれるお客さんと直接対面し、言葉を交わすことで「作る喜び」を知る。そのことを通して、今まで JA に指示されたものだけを指示されたやり方で作っていた農家が、どうしたら売れるのかを自分の頭で考え抜くようになったのだ。

奇跡のリンゴ―「絶対不可能」を覆した農家 木村秋則の記録 (幻冬舎文庫)高野氏の試みは、人は何に対して、(多少高くても)お金を払うのかということを考えさせる。ポイントはストーリー性と人間関係だ。ストーリー性とは、商品を買った人が、「ローマ法王が食べていらっしゃる…」「米袋の文字はエルメスの作家の…」「有名デパートでもなかなか手に入らない…」といった薀蓄を傾けたり、希少性について自慢したくなるようなストーリーを持っているかどうかだ。次にいろんな人間を巻き込めるか。限界集落に若者を集めるには、生み出される商品の持つストーリーに一人一人が自分のストーリーを重ね合わせることのできるような、人間関係を通して感動的な経験ができるような仕掛けがカギになる。自分自身の居場所を見出せる魅力的なコミュニティが存在しなければ、若者がそこに集うことはないだろう。高野氏は学生など、若い人たちに、農家に2週間留まり、農業体験してもらうために「烏帽子親農家制度」を立ち上げた。農家の人と仮の親子関係を結んで滞在してもらうのだ。若い人たちを客としてではなく、仮の形とはいえ子供として泊める。そうすることで法律で定められた面倒な宿泊設備の問題もクリアできるし、今後さらに希薄化していく親族血縁関係を補完するような関係を作り出すことができる。若い人たちが都会では忘れ去られた濃密な人間関係を体験し、村の人々は壊れていく親族血縁関係を補ってもらうのである。「烏帽子親農家制度」で農家に滞在した大学生たちがその後も農家の人たちと親子のような交流を続ける様子は感動的である。

現在、高野氏は「奇跡のリンゴ」で知られる木村秋則氏と組み、自然栽培を広める事業に取り組んでいる。日本の農薬まみれの農作物とそれを生み出すサイクルの泥沼から脱却するためだ。それが日本人を不健康にし、医療費を高騰させているのだ。高野氏のさらなる野望は、その自然栽培の作物でフランスに殴り込みをかけ、世界で最高の食文化と自負するフランスの料理の食材を、すべてメイド・イン・ジャパンにすることだという。日本はすでに農作物を作るすばらしいスキルを持っているのだから、自然栽培によってさらに付加価値が付く。現在、TPP の是非が議論されているが、日本の地方と世界を直接つないでいく、こういう攻めの農業も可能なのだ。

実は能登半島は「能登の里山里海」として世界農業遺産に登録されている日本で唯一の地域なのだ。ちょうど今年の3月、フランスのテレビ局TV5が、番組制作の取材のために能登町松波の松波酒造を訪れた。雪がちらつく中、築100年以上の酒蔵で、仕込んであった純米酒を手作業で絞る様子を撮影し、そこにあった神棚にまで深い関心を示した。番組は秋にフランス全国で放映され、家族経営で守られる日本の地方の伝統文化が紹介される。受け継がれた技術と人々の立ち振る舞いと背景となる自然は少なくともフランス人の興味を掻き立てるものなのだと、私たちは改めて気が付く。今後、ピンポイントで能登にやってくるフランス人の観光客も増えるだろうし、日本酒ブームがさらに勢いづくことが期待される。去年、「海に沈む太陽を見下ろすブドウ畑とワイナリー」という記事で紹介した門前町も話題の能登半島の先端にある。そこはフランスのブルゴーニュとつながる場所で、美しい海を見下ろす広い土地にブドウが植えられ、ワイナリーが建設中である。

□FBN関連記事「地域社会の持続とグローバル人材をつなぐもの」


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2013年07月04日

ガス・ヴァン・サント『約束の土地』とフランスのシェールガス

ガス・ヴァン・サントの新しい映画『約束の土地 Promised Land 』は石油会社と、自分たちの土地にあるシェールガス (英 shale gas 仏 gaz de schiste) の開発を拒否するペンシルベニアの農民たちの対立を描いている。シェールガスによってアメリカが最強の資源国になり、世界のエネルギー勢力図が大きく変わると言う記事を日本でもよくみかけるが、環境や人間に与える危険性についての情報はあまり届いてこない。フランスでは4月17日からの一般公開に先んじてフランス全土の130の会場で試写会が行われるが、この映画によってフランスの次世代エネルギーの議論が再びを盛り上りを見せている。



バラ色の未来をもたらすというイメージには逆らえないのか、アメリカではガス・ヴァン・サントの『約束の土地』にはあまり客が入らず、批評もあいまいなものばかりだったという。「シェールガス革命」を遂行するためには多少のことには目をつぶれという空気が支配的なのだろうか。

シェールガスは頁岩層に含まれているガス。主成分はメタンだが、従来のガス田とは異なる場所にあるため、「非在来型天然ガス」と呼ばれる。21世紀に入り、硬い岩盤に高圧の水や化学薬品を注入し、人工的につくった割れ目からガスを取り出す「水圧破砕法 Fracking 」の技術が急速に進み、生産コストも大幅に下がった。米国では、膨大な量のガス供給への道が開くものと期待される一方で、地下水の汚染リスクが高いと反対の声もあがっている。目立った動きとして、オノ・ヨーコが去年の8月にアメリカのニューヨーク州で進む天然ガスの掘削手法に反対するミュージシャンや芸術家らによる運動「アーティスト・アゲンスト・フラッキング Artists Against Fracking 」を立ち上げている。そこにはショーン・レノン、ポール・マッカートニー、レディー・ガガ、ユマ・サーマンらも名を連ねているという。

『約束の土地』をプロデュースし、脚本も共同で書いたマット・デイモンは映画の中で石油会社の営業担当の社員を演じている。彼はペンシルバニアの農民たちが彼らの土地でシェールガスを掘削する権利を認めるように説得する責任を負っている。その地域は経済危機のあおりを受け、大企業が提示する示談金が魅力的な額にもかかわらず、水圧破砕法による掘削に反対するデモを起こす。マット・デイモンは、水圧破砕法について、住民たちと掘削権の譲渡契約を結ぶことを任務とする人々について、徹底的に調査をした。彼らの多くに会い、その中でどうやって住民たちに近づき、何を話したのかが明らかになったという。もちろん、この映画はシェールガスの是非を問題にしているだけではない。共同体の未来とアイデンティティを左右する大きな問題に直面し、選択を迫られた小さな町の住人たちがどうようにして重大な決断を下したのか見せてくれている。

マット・デイモンはアメリカでの反応が芳しくなったので、ヨーロッパでの議論を期待していたが、ベルリン映画祭の直前に開かれた記者会見で映画祭の最高責任者、ディーター・コスリックが特に重要なテーマを扱っている映画として『約束の土地』を挙げた。実はアメリカだけでなく、ヨーロッパでもシェールガスの大量の埋蔵が確認されており、フランスではシェールガスの鉱脈がパリからドイツ国境にかけて存在している。これまでロシアにLNGを依存してきたヨーロッパは喉から手が出るほどシェールガスが欲しいだろうが、2011年に水圧破砕法が環境に与える影響が大きいという理由で開発が禁止された。

『約束の土地』のフランスでの反響はどのようなものになるのだろうか。フランスのエコロジー省のデルフィーヌ・バトは「この映画はアメリカにおけるシェールガスの舞台裏、とりわけ石油会社のやり口を雄弁に語っている」と評価している。2011年にすでに『ガスランド Gasland 』というショッキングなドキュメンタリー映画が公開され、試写会ですでに水圧破砕法に対する反対運動を盛り上げることに貢献していた。しかし世界でシェールガスに対する期待が高まり、さらに原子力発電に対して逆風が吹いている中で、「水圧破砕以外の技術が開発されれば」とオランド大統領も軟化し始め、緑の党が警戒しているところだ。

以下の記事を参照

Gaz de schiste : "Promised Land" de Gus Van Sant s'invite dans le débat
17/03/2013 CULTUREBOX



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2013年06月21日

原発と空き家、または終りの思考

もうすぐ東日本大震災から2年が経つ。ということは、福島第一原発事故から2年ということでもある。事故はまだ事後処理中で、放射能汚染は続いている。とくに溜まり続ける汚染水の行き場がないのが心配だ。貯水タンクはもうすぐ満杯で、もはや新設する場所もない状況である。

しかし、行き場がないのは、事故を起こした原発の汚染水だけではない。「健全に」稼働している原発から出る放射性廃棄物もそうだ。福島の事故をきっかけに、国民がはっきりと意識するようになったのは、そもそも原子力発電所というものが、「トイレのないマンション」と揶揄されるように、終りの姿をきちんと想定しないまま建てられてしまったということだ。

usine02.jpg確かに廃炉という工程はある。だが、廃炉が、原発があった場所が更地になるまで、という意味だとすると、商業用原子炉の廃炉が完了したケースは、じつは全世界でまだ一件もない。ドイツは原発を新設する際に廃炉の計画表も提出しなければならないそうだが、実際の廃炉作業は始まったばかりだ。先日、ドイツの廃炉工場を取材したドキュメンタリー映像を見た。建屋の建材から始めて、原発を構成するあらゆる配管や機材をひたすら細かく裁断し、除染する。それだけでも気の遠くなるような時間と費用と人員が必要だ。しかし、除染というのは、よく言われるように「汚染を移動する」ことにすぎない。最終的には、どうしても長期保管の核のゴミは出てしまう。それに汚染がひどすぎるもの、たとえば圧力容器については、ドイツの場合でも、50年待ってから解体する、としている。廃炉工場は、事実上の中間貯蔵施設なのである。

同じような、終りのない姿というのを、僕は最近とみに増えてきた空き家に見てしまう。アメリカにおける住宅ローンの発明は、本来家など建てる資金のないはずの中間層が、数十年にわたって金を払い続けるという悪魔的な契約で、家を保有できるようにした。親が金を払い続けた家に、では子供たちが住み続けるかというと、子供は子供でまた新たに家を建てる(そもそも同じ土地に住み続けるとは限らない)。そうすると、親の家は、親が死亡や養護施設への入居で住まなくなったときに、誰も住まない空き家になる。

カンバセイション・ピースもともと家というのは、壊れるまで、何世代にもわたって住むものだった(吉田健一は、震災で壊れた東京と違って、金沢には数世代住んでようやく出てくる家の表情があるのがいい、と『金沢』で書いていた)。また、空き家に別の家族が住んでも一向に構わないものだった(そうした住み継ぎの気配というものを保坂和志の『カンバセイション・ピース』はうまく表現している)。しかし、新築住宅が増え続けるなか、家はそう簡単には壊れなくなっている。むしろ、これからは積極的に空き家を取り壊す施策が必要となってくるだろう。とはいえ、行政が個人の不動産の処分をするためには、さまざまな権利上の問題があり、単純にはいかない。それに、行政サービスというのは、生活している(つまり生きている)市民に対するものであり、誰も住んでいない家は、どうしても後回しにしがちである。

だが、人が作り出したモノには、使い続けられるモノとそうでないモノとがある。たとえば自動車。トンネルに連なる車列を眺めながら、そして自分自身もそのうちの一台を運転しながら、これだけの鉄屑が、最後は結局どこに積み上げられるだけなのか、そしてこのトンネルも、いつかは崩落して土に埋もれるのか、などと近未来SF的な光景を夢想すると、背筋が冷たくなってくる。

どんな商品も、使われることを目的としているからか、使われた後のことにはまったく無頓着である。最後はどうなるのかという想定を放棄し、目の前の現実のだらしない延長としてのみ未来を構想している限り、世界はどんどんゴミに埋もれていくしかない。原発と空き家を同時に考えることは、衣服や食品包装からパソコンや家電まで、生活の裏側に吐き出されるゴミの行方を考えることにほかならない。問題は大きすぎて解決は難しいが、しかし、これでいいわけがない。震災2周年を間近に、僕はそんなことを考えている。

□初出2013年3月9日


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2012年11月23日

受難のフレスコ画または教会の存在意義について

スペイン北東部の町ボルハ(Borja)にあるミゼリコルド教会 (Santuario de Misericordia) のフレスコ画が世界的な話題をさらっている。それはエリアス・ガルシア・マルチネス Elías García Martínez (1858-1934) が、教会の柱にわずか2時間で描いたというキリストの受難画「エッケ・ホモ Ecce Homo 」である。と言っても、この作品の芸術的完成度が再評価されたり、何やら怪しげなメッセージが 解読されたりしたわけではない。
http://www.afpbb.com/...

話題になっているのは、マルチネスではなく、この絵を「修復」したセシリア・ヒメネスという80代の老婦人の画業である。画像を見てもらえれば分かるが、これを教会当局が許可したとは思えない出来映えである。CNN ニュースが映画『ビーン』(1997) におけるホイッスラーの「修復」を引用したのも頷ける。この二重の受難(画題と絵画そのものの破壊)とも言えるあまりの惨状に、かえってポップな名所となりつつあるようだ。すでに英語版とフランス語版の Wikipedia の項目まで立っている。それによると、1万人以上の人が、この新ヴァージョンを保存して欲しいと署名したらしい。
http://fr.wikipedia.org/wiki/Ecce_Homo_

このどうしようもない絵を好む人は、別にそこに芸術的価値を認めているわけではないだろう。これが本当にホイッスラーの絵だったら、いくら何でも保存請願の署名活動は起きないはずだ。ヒメネスさんの絵は、マルチネスのオリジナルが約束事を踏襲した退屈な作品であり、とりたてて名声に包まれていなかったために、いわば漫画的な倒錯の面白さを呼び起こしたのである。教会という聖域(それが教会の名前にまでなっている!)で、おそらくは敬虔な信仰によって一生懸命描いたものの、結果がほとんど冒瀆的である、というアイロニーこそが、この事件の面白さだ。

信仰心に厚い人はヒメネスさんを責めるだろうか。しかし、彼女は真面目にこの絵を描いたのである。ちょっと下手だっただけだ。それを責めるとすれば、芸術的価値のない絵が教会の柱を飾るのは、本来あってはならないことだからだ。逆に彼女を褒めそやすのは、信仰心のない人ばかりだろう。なぜなら、価値のない絵が教会を飾ることを喜んでいるからである。となれば、ヒメネスさんの絵は、教会という場があまりにもハイカルチャーな芸術と結びついてきた歴史を、裏返しに暴いたことになるかもしれない。

教会の修復は、フランスではほとんどの場合、共和国が全額負担する。もちろん「文化財」という名目だ。では、文化的価値を認められない教会や寺院はどうなるのか。それはたとえば、フランス各地のモスクが直面している財政的問題である。今回の事件は、現在のヨーロッパにおける教会の存在意義や、教会を飾る聖画の受容のあり方を問い直すきっかけでもある。絵は、もはや描かれた当初に想定していたような見られ方はしていないし、そのような見方を取り戻すこともできない。私たちは、信仰心ももたない教会に出かけて行って、何を見たがっているのか。ヒメネスさんを笑うだけでなく、そのことを考えてみてもいいかもしれない。

□初出 FRENCH BLOOM NET 2012年8月25日


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2012年11月02日

Recyclez vos cordes de guitares : c'est nickel !

仏メディアのカルチャーサイト Culturebox に掲載された記事「あなたのギターの弦をリサイクルしてください!それはニッケルです」を Twitter で紹介したところ、1週間にわたって 4000 RT (Crowdbooster によれば100万人以上に拡散) という破格の反応があり、この問題に対する関心の高さをうかがわせた。つまりは使用済みのギターの弦のリサイクル運動がフランスで始まったようだ。日本はどうなのだろう。以下が記事の訳である。

ギタリストたちへのお知らせ:切れてしまった弦、使用済みの弦をもう捨てないでください!若い組織の主導で、スタジオや楽器店がフランスの各地でギターの弦を集めている。ニッケルのような金属を回収するためだ。

ERNIEBALL アーニーボール エレキギター弦 #2221 レギュラースリンキー フレッシュパック「60年後になくなるというのに、ニッケルをゴミ箱に捨てることは許されないでしょう」。25年以来ギタリストをしている34歳の Music Solidarity の代表セドリック・ブルーズは言葉をはさむ。その協会は2012年の初めに設立されたばかりだ。(www.musicsolidarity.com)

「協会の目的ですか?ギター、ベース、ヴァイオリン、ピアノの弦の一部になっている金属に第2の人生を与えること。協会としては無駄遣いと戦い、回収した金属を売ったお金をアフリカに楽器を送るために使います」

数か月前に呼びかけたところ、行動が徐々に広がり、フランス各地で80近くの集積ポイントができた。スタジオ、音楽学校、MJC(青少年の家)、楽器店などだ。パリの大きな楽器店 Star's Music では、数か月前からポスターがレジの客の関心を惹いている。「今のところ、使用済みの弦を持ってくる人たちはあまり多くないですが、店の使用済みの弦を主に回収しています。しかし人々をその気にさせることができるとすれば、それをやらないことは愚かなことでしょう」と店長のダヴィ・デュプレは言う。

一方、レンヌの近くの楽器製作者は、最初の10キロ入りの小包を送ったと言う。彼はその後も弦と他の金属片を保管している。以前はゴミとして捨てていたものだ。

回収した金属の有効なリサイクルを行う余地はまだある。協会は、ケータイやPCの回路基板に含まれる、金のようなレアメタルを扱う特別な会社を見つけたことを強調する。

4分の3以上のエレクトリック・ギターの弦は芯の部分が鋼鉄で、ニッケルの針金が巻きついている、とセドリック・ブルーズは説明する。ヴァイオリンの弦の中にあるタングステンやピアノの弦の中にある銅など、他の金属も対象にしている。協会はドラムの壊れたシンバルも集めている。それらは銅と錫(すず)の合金で、ときどき銀も含まれる。

ニッケルのような、いくつかの金属についてはリサイクル率を高めることが極めて重要だ。ニッケルの世界の埋蔵量は40年から60年分と見積もられている。

「私の協会が生き延びるための大きな問題は、協会が機能するための費用をカバーするために、どれだけの量の弦が必要なのかを知ることだ」とセドリック・ブルーズは認めている。ニッケルは充電できる乾電池に再利用できるし、時計やフォークも作れる。ロンドンの先物取引市場でニッケルは現在1トン16000ドルで取引されている。

「私は自分の計画が経済的に見込みがあるかはわからないが、地球のためには良いとわかっている」と Music Solidarity の代表はつけ加える。Music Solidarity は音楽業界で名前を知られるために、夏の音楽祭を活用している。

Eurockéennes (ユーロケエンヌ)祭で彼はザ・キュア The Cure のギターの弦を集め、歌手のユベール=フェリックス・ティフェーヌ Hubert-Félix Thiefaine の参加の約束を取り付けた。金曜から日曜まで彼はジロンド県での Reggae Sun Ska 祭で自分のプロモーションツアーを続ける。

Recyclez vos cordes de guitares : c'est nickel !
Par Culturebox avec AFP
Publié le 01/08/2012



translated by cyberbloom

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タグ:リサイクル
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2012年09月27日

ナポレオンの英語の手紙について

6月10日にナポレオンが英語で書いた手紙がオークションにかけられ、32万5千ユーロで落札された。1816年3月9日付の手紙で、時事通信は「間違いだらけ―流刑地で勉強」という見出しを付けた。確かに、手紙の冒頭には “It is two o'clock after midnight, I have enow sleep...” とある。『日刊スポーツ』は「now のつづりが enow になるなど誤記が目立つ」と報じ、フランスの『エスクプレス』は、「午後2時だが、全然眠れない」と、記事自体が誤訳して、訳が分からなくなっている。これは NHK が報じたように、enough の誤記と解釈し、「「十分に」のつづりが違う」と見るべきだろう。この時期、ナポレオンは不眠症だったらしいが、それでなくても、彼は睡眠時間の少ないことで有名だった。

http://www.jiji.com/jc/c?g=int_30&k=2012061100111

この手紙の面白さは、何と言ってもフランス精神の体現者たるナポレオンが、敵国語の英語で自己表現を試みた、ということにある。しかも、それが決してうまくないことは、英語に対するコンプレックスを持つ者にとっては、どこかほっとする話のようである。ちなみにイギリスの『ガーディアン』紙は、「シェークスピアの言語で」ナポレアンが手紙を書いた、と二度も強調している。ここでの英語は、アメリカ語ではなく、イギリス語だった。近代英語は、欽定聖書とシェークスピアによって定着した、という定説を踏まえた修辞である。よく使われる表現だが、もちろんナポレオンがそんな華麗な英語を使いこなしているはずはないので、一種の皮肉も込められているのだろう。

http://www.guardian.co.uk/world/feedarticle/10282457

フランス語に関する限り、ナポレオンは名文家だった。アルベール・チボーデの文学史は、ナポレオンをフランス近代文学の始まりに位置づけている。それはもちろん、彼が執筆した法律の文言が、絶大な影響を後世に与えたからである(ナポレオンを取り上げることには、フィクション性を文学の根拠としないフランス文学史の伝統も関係しているが、ここでは触れない)。そのナポレオンが英語で手紙を書いた理由として、イギリス文化への憧れを挙げる人もいれば、英語誌で彼がどのように報じられているのか知ろうとしたため、と推測する人もいる。いずれにせよ、ナポレオンはサント=ヘレナ島で無聊を持て余し、手すさびに英語で手紙でも書いてみよう、と思い立ったにすぎず、本格的に英語を習得しなければならない状況にはなかった。

しかし、英語を学ばなければならないと感じている人にとっては、ナポレオンの深夜の苦戦(13行の手紙を書くのに2時間かけたという)は、微笑ましいエピソードに見えるだろう。天才にも隙あり、というのは凡人の好むところだからだ。ナポレオンが、大して勉強もしていないのに、英語も流暢だったら、面白味は半減する。英雄が自分と変わりないことを知るのは、それで自分が英雄になれるわけでもないのに、人を喜ばせるものである。

ちなみに、高額で落札したのは、パリの書簡手稿博物館。2004年に開館した、比較的新しい博物館で、住所はサン=ジェルマン大通り222番地、作家の原稿や作曲家の楽譜などのオリジナル版を多数所蔵・展示している。現在はジャック・ケルアックの『路上で』の最初のタイプ原稿を展示中とのこと(2012年8月19日まで)。僕は昔、村上春樹の生原稿をある展覧会で見て、ちょっと幻滅したことがあるけれど、もはや手書き原稿そのものが存在しない時代になってしまった。手紙もメールに取って代わられてしまった。この博物館は、20世紀までの書記文化を要約し、それ以後は扱わない。その意味では、人間と文字との付き合いを振り返る場所として、これからだんだんと意義深い博物館になるかもしれない。

http://www.museedeslettres.fr/public/



bird dog (初出2012年6月13日)

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2012年09月11日

911とパールハーバー

■L'Amérique sous le choc d'un «Pearl Harbor» terroriste
Les attaques kamikazes révèlent les failles de la sécurité aérienne

これはNYの同時多発テロの直後に出た、フランスのル・モンド紙(2001年9月13日付)の見出しである。ひとつめには「パールハーバー・テロリスト」、ふたつめには「カミカゼ攻撃」という表現がある。フランスでは「自爆テロ」が起こるたびに、カミカゼという言葉が使われる。カミカゼは普通の辞書にも載っている、日常的に使われる言葉だ。しかし、4年前の同時多発テロと、60年前の太平洋戦争に何の関係があるのだろうか?

その日のルモンド紙にはさらに、パールハーバー奇襲と山本五十六の写真が掲載されていた。日本人にはあまりピンと来ないかもしれないが、アメリカが他国に奇襲された記憶をたどると、パール・ハーバーに行き当たるわけだ。

同時多発テロが起こった日、私はパリの大学都市にある学生寮に滞在していた。キッチンで食事の準備をしていたら、ベルギー人の友人が階段を駆け上がってきて「大変なことが起こった」と興奮して叫んだ。その後、みんなサロンのテレビに釘づけになった。炎上し、崩壊するツインタワーや、オサマ・ビン・ラディンの映像の合間に、不思議なことに、日本の特攻隊がアメリカの戦艦に突っ込んでいく映像が流されていた。それが何度も繰り返され、あたかも日本と同時多発テロが関係あるかのような演出だった。アメリカならともかく、なぜフランスのメディアがこういう映像を流すのか理解できなかった。ほとんどが西洋系の学生の中で、そのような映像を見せつけられることは気持ちの良いものではなかった。

つまり、特攻隊もアルカイダも、西洋的な理性によっては理解できない、東洋人の野蛮で、狂気じみた行為として結びけられ、思い出されていた。NYを突然襲ったテロに対する驚きと恐怖を表象するのに、太平洋戦争時の日本のイメージが徹底的に用いられた。それは決して過去の遺物ではなく、今も確実に流通しているイメージ。そのことを思い知らされた。こういう緊急に作られた特別番組こそが、西洋人の無意識の欲望をあからさまな形で誘い出すのかもしれない。

■Après Pearl Harbor est venu Hiroshima

新聞にはさらにこんな見出しもあった。「パールハーバーのあとにはヒロシマが来た」。つまり、パールハーバーの報復として広島と長崎に原爆を落としたように、アメリカがテロ(=奇襲)の報復として核兵器を使うかもしれない。テロの直後、そういう記事をよく見かけた。非西洋的な狂気には西洋的な理性の力、核兵器がふわさしいと言わんばかりに。

日本人は敗戦という決定的な断絶によって、戦前/戦後と分けて考えてしまう。またイラク戦争に対してはアメリカと同調し、自衛隊を派遣したことで、アメリカと同じ視線でイラクを見ている。しかし、アメリカにとっては、太平洋戦争と、湾岸戦争やアフガン・イラク戦争は連続性のある行動なのだろう。フランス人の友だちに「なぜ日本人は原爆を落としたアメリカを憎まないのか」と聞かれることがある。この時期は、広島や長崎、あるいは空襲をテーマにしたドラマやドキュメンタリーがいくつも放映される。みんな戦争が憎いというけれど、アメリカに対する感情は屈折して、決して表に出ない(※)。

4年前のル・モンド紙の見出しは、あの日の日本と今のイラクを思いがけなく重ね合わて見せてくれた。確かにこの視点にはアジアに対する加害者という視点が抜け落ちているが、この想像力は意外に重要かもしれない。
(2006年8月7日)


(※)に関してだが、最近読んだ大澤真幸の『不可能性の時代』『夢よりも深い覚醒へ』が示唆的だった。大澤によると、占領当局が原爆による破壊への言及を禁止した9月半ばまで、日刊新聞は毎日のように広島・長崎の恐怖に言及していた。日本人は原爆の被害に対して強烈な自覚を持っていたはずだが、それはアメリカの憎悪につながらなかった。その理由はアメリカこそが戦後の日本人の存在を正当化する根拠だったから。このアンビヴァレンスは日本人の中の核に対する恐怖と魅力との関係に重なる。日本は核アレルギーがあるからこそ原子力に魅了された。日本人は敗戦のとき、アメリカの圧倒的な科学技術の差を印象付けられたが、その象徴が原爆だった。「原子力の平和利用」の名のもとに、その高度な科学技術を自分のものとし、使いこなすことによって失われた自尊心を取り戻し、再浮揚することを目指した。そうやって恐怖の対象が崇拝の対象にすりかわったと。(2012年9月11日加筆)


cyberbloom@メディアリテラシー

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2012年08月10日

ノマドワークスタイル(1)

仕事するのにオフィスはいらない (光文社新書)「ノマド批判」に応えた最近のインタビューで、佐々木俊尚は最初に「カフェなどで仕事やミーティングや商談をする機会が増え、オフィスは必ずしも要らないのでは」と書いたのが、いつのまにか「ノマド=フリーランス」と誤解されるようになったと述べている。佐々木の『仕事するのにオフィスはいらない―ノマドワーキングのすすめ』の主張の核心は、新しいテクノロジーとインフラのサポートによって、ある分野の仕事はオフィスを持つ必要性が薄れ、フリーランスの仕事がやりやすくなり、その仕事術を紹介した、ということのようだ。とはいえ、佐々木のノマド論は、モバイルフォンやラップトップPCを通して恒常的にネットにつながっているノマド生活の到来を楽観的に描き出した特集記事「ついにやってきたノマド時代 Nomad at last 」(英経済誌『エコノミスト』2007年掲載)を受けてのものだった。

『仕事するのにオフィスはいらない』の中で佐々木は、「正規雇用が当たり前だった時代は過去のものとなり、すべての人間が契約社員やフリーランスとなる社会へ移行しつつある」と言う。ノマド化の背景にはグローバリゼーションによる産業構造や労働環境の変化があるのだ。かつては会社に頼れば何とかなったが、今は自分自身で人生を切り開かなければならない。この変化には否応なしについていかなければならない。そのための知恵と術が「新しいノマド」の生き方である。この新しい生き方は正規雇用から脱落することを意味していない。自らそれを選択するのだから。

21世紀の歴史――未来の人類から見た世界これは福音のように響くが、非正規の労働者がそのままノマドなフリーランスになれるわけではない。非正規の仕事の多くはノマドという牧歌的なイメージからは程遠く、厳しく不安定な条件だ。自分から仕事を選んだり、仕事を作り出せる状況にはない。ジャック・アタリはノマドを3つに分類する。超ノマド、ヴァーチャルノマド、下層ノマドだ。超ノマドは、起業家、エリートビジネスマン、学者、芸術家、芸能人、スポーツ選手などで、その多くは広義のフリーランスである。一方でヴァーチャルノマドと呼ばれる、定住民でありながら、超ノマドに憧れ、ヴァーチャルに超ノマドを模倣する人々がいる。アタリは前者を1000万人、後者を40億人と見積もる。つまりラップトップPCやスマートフォンを持って、その気になっているのが大半というわけだ。それにはインターネットが与える平等幻想や万能感も影響しているのだろう。万人に対して情報やアクセスは開かれているが、誰もが超ノマドの仕事やコネクションに直接アクセスできるわけではない。

確かにリーマンショック後、アメリカではフリーランスの仕事は増えたのだろう。しかしそれはコストカットをせざるを得ない企業が要請した働き方や契約の問題であって、スマートフォンやブロードバンドやクラウドコンピューティングという新しい技術やインフラがフリーランスの仕事を要請しているわけではない。先にノマドワークスタイルがあるのではなく、働き方は職種や仕事の業態に規定されるのである。それに加え、アメリカでフリーランス化が進みやすいのはもともと雇用の流動性が高く、労働契約を個人化しやすい下地があるからだ。またIT技術のおかげでさらに起業がしやすくなったという状況がある。

とりあえず、ノマドの仕事術を観察してみよう。新しいノマドの仕事はまずスマートフォンを購入することに象徴される。常にメールやサイトをチェックし、GメールやGカレンダーを同期しながらスケジュールを管理する。誰かに命令されるのではなく、積極的に仕事に取り組み、仕事と生活のバランスを自在にデザインする。遊びと仕事の区別がつきにくいがゆえに、自分を律する能力も必要になる。上司の監視の目もないのだから。ノマド・ワークスには3つの不可欠なインフラがある。それはブロードバンド、サードプレイス、クラウドである。この3種の神器が揃えば、都会の砂漠を気軽に移動することができる。

サードプレイスとはオフィスでもない自宅でもない、ノマドたちが一時的に身を置く第3の場所のことだ。彼らの特徴は移動しながら仕事をすることであるが、移動しながら最も居心地の良い、仕事のしやすい場所を見つけていく。例えばスタバ的な空間はサードプレイスの典型である。コーヒーが美味しく、趣味の良い音楽が流れ、適度な静かさがある。禁煙で、無償のブロードバンドや電源があることも重要だ。クラウドは雲のようなコンピュータのこと。その雲の中から様々なソフトやサービスを取り出して使う仕組みだ。これによって、どんな場所、どんな機会であっても、瞬時に自分の仕事場を再現することができる。ノマドは物理的に移動するのではなく、どんな場所で仕事をしていてもパーマネントコネクティビティが実現していることがノマドの原理になる。

マニュエル・カステルによれば、2000年までの研究では「家」が多機能的な中心になり、テレワーク=在宅勤務が普及するといわれていた。しかし実際テレワークはそれほど広がらず(アメリカでも6%程度)、しかもそれは必ずしもネットを使うものではなかった。むしろ専門的な知識や技能を持つ労働者がインターネットや携帯で会社と連絡を取りながら多くの時間を現場で過ごし、クライアントやパートナーと交流するということが起こった。ほとんどの人々には毎日通う職場があるが、一方でそれに加えて自宅や現場で仕事をし、電車でも飛行機でも、空港でもホテルでも仕事をし、そしていつもつながっている状態にある。つまり現在の労働のモデルはテレワークではなく、インターネットによって「仕事の空間が複合的に配置」されることになった。オフィスを持つ必要性が減り、スタバでも仕事ができるようになるという傾向も、このような仕事場の複合的な配置の一環なのではないか。(続く)



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タグ:ノマド
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2012年05月03日

ADBUSTERS & ANTI-PUB 広告退治と反広告

1月1日の朝日新聞に「ウォール街を占拠せよ」の仕掛け人、カレ・ラースン Kalle Lasn 氏のインタビューが載っていた。彼は「アドバスターズ」という雑誌を発行している。アドバスターズ、つまり広告退治の雑誌だ。

「企業がもうけに走ることは善である。ゆえに商品を売り続けることが目標になる。そのためにテレビや雑誌に広告を出すのが効果的で、広告が浸透すれば消費意欲が高まり、企業は永続できる」というアメリカ流の常識と戦っている。私たちは過剰な消費、過剰な広告に無感覚になっているのだ。具体的な戦術としては、大企業広告のパロディーや環境保護についての意見広告を載せた雑誌を発行している。もちろん商業広告は一切なしだ。

商業広告と戦うために、反広告の広告を打つ。まさに情報戦だ。他にも米小売業界が狂ったように買い物を煽る歳末商戦の週末を選んで、No Buy Day を呼びかけ、デジタルに魂を抜かれないようにデジタル製品に触れない "unplugged" 状態で過ごす週、デジタル解毒ウィーク Digital Detox Week を設定する。消費者が動かされるのは、ちょっと視点を変えるようなユーモアだ。

ラースン氏は自社サイトで最も画期的な広告「ウォール街を占拠せよ=Occupy Wall Street(OWS)。9月17日決行、テント持参のこと」を打った。それは世界に火をつけ、最盛期には世界の1000ヶ所を若者たちが占拠した。彼は「ウォール街占拠」という知恵を出しただけで、占拠デモに参加したり、指導したりしなかった。運動は彼の手を離れ、ひとりで育っていった。しかし OWS は「アドバスターズ」の何よりも効果的な広告になった。毎号9万部発行していたのが、OWS 後12万部に増えたという。

リーマンショックの際に、アメリカ政府は、つぶれると世界の金融経済に大きな影響を及ぼすという理由で、ゴールドマン・サックスやモルガン・スタンレーなどの金融大手に税金を投入した。「大きすぎてつぶせない」という論理がまかり通った。しかし業績が回復すると性懲りもなく自社幹部に何千万ドルという報酬を支払った。一方で失業者は全く減ることがなく、若者は大学を出ても就職先が見つからない。住宅ローンの返済が滞った庶民の自宅は、税金で助けられた銀行が差し押さえてしまう。このゆがみはどこから来ているのか。OWS はそういう問いから始まった。’We are the 99%’ という OWS のスローガンは単なる数の比の問題だけではなく、1%にやりたい放題を許してしまう圧倒的な力の差でもある。

ラースン氏の主張と手法は、2003年の秋、フランスを騒がせた事件を思い起こさせる。
 
ある若者の集団がパリの地下鉄の構内に侵入し、大きな広告のポスターにスプレーで落書きして回った。そう聞くと、ヒップホップの落書きアート、グラフィティを想像してしまうが、それとは全く系統の違う、ある主張を持った組織的な活動だった。
 
襲撃されたのはパリ15区の La Motte-Piquet-Grenelle 駅。その駅には6号線、8号線、10号線のメトロが乗り入れている。この事件では3人の高校生を含む62人が逮捕され、地下鉄の会社に95万ユーロ (1億円)の損害賠償を請求された。そういう結末を迎えることは、彼らもわかっていただろう。しかし、彼らはなぜそのような行動に出たのか。

パリの地下鉄の壁は広告のポスターで覆い尽くされている。乗客たちはそれに慣れていて、誰も気に留めない。もちろん同じような光景がどこの国でも見られる。ヨーロッパの若者のあいだには環境破壊に対して相当な危機感があるようだ。彼らは自然環境だけでなく、都市環境にも破壊がもたらされていると感じている。彼らの確信犯的な行動の裏には「街は企業のものじゃない、私たちのものだ」という強い権利意識がある。



Laissez vos enfants rêver sans la pub!
−子供たちが夢見るのに広告は要らない!

これは広告の上に彼らが書き残したが書き残したスローガンのひとつ。つまりは、子供たちの想像力が広告に蝕まれているということだ。彼らはANTI-PUB と名乗る(広告に反対する運動、pub はpublicité=広告の略)。この2003年秋の事件でフランス中に名を知られるようになった。

企業による広告の垂れ流しと、街の風景の汚染。私たちにとっても決して他人事ではない。広告が批判されるのは、それが公共空間や日常生活を侵略しているからだ。テレビ、ラジオ、ダイレクトメール、電話、新聞、映画、広告パネルを活用し、騒音によって注意をひきつけ、インターネットの世界への進出も著しい。さらに ANTI-PUB は広告が強い政治的なメッセージを発していると考える。すなわち、「消費しろ、汚染しろ、資源の枯渇に参加しろ」というメッセージだ。

広告はそれを見る人々よりも、メディア側に利益をもたらしている。売り手と消費者は広告によって非対称な関係に置かれる。売り手は消費者の行動や欲望や選択の基準に関して、明確で客観的な情報を持つことができる。それに対して、消費者は売り手から受動的に情報=広告を受け取るだけである。それは消費者の利益ではなく、売り手の利益になるように選択されたものである。今や広告には先端の社会科学を応用して練り上げられたテクニックが用いられている。

さらにフランスでは違法ギリギリの方法で世論に訴え、議論を巻き起こそうという戦術を取る運動がいくつか起こっている。彼らは強い社会的、政治的影響力を持つ企業に対抗するには、それくらいの確信犯的な戦術が必要だという信念を持っている。彼らのやり方はときには法に触れ、逮捕を免れえない。しかし、そういう運動がフランスでは一定の支持を受ける。その象徴的な人物がジョゼ・ボヴェだ。彼は1999年8月、建設中のマクドナルドの店舗を解体して逮捕されたが、6週間の刑期を終えて出所してきたとき、多くの市民が彼を英雄として出迎えた。彼は今やヨーロッパ議会の議員である。

ANTI-PUB やジョゼ・ボベの話を学生にすると、「暴力はいけない」とか「法を犯してはいけない」とか理性的な答えが返ってくる。しかし、さらに彼らはこう問いかけるだろう。それでは、私たちが望まないような環境を強制することは暴力や犯罪ではないのか。私たちは今生きているのとは別の人生や環境を選択する権利はないのか。



TROP D'IMAGE TUE L'IMAGINATION
―多すぎるイメージは想像力を殺す
CONSOMMATION=ESCLAVAGE MODERNE
−消費、それは現代の奴隷状態

もちろん、ANTI-PUB の論理につっこみをいれることは可能だ。広告がかきたてる欲望や想像力は、必ずしも広告された商品に向かうわけではない。消費者はいろんな広告の見方を知っているはずだ。広告批評というジャンルもあるくらいで、成熟した消費社会の住人は広告を批判的に再解釈したり、新しい意味を付け加える方法を知っているだろう。広告と消費者の関係は相互的に生じるものであって、広告の作用を一方的なものとして規定できるわけではない。

また、かつての絵画や彫刻に代わって、広告はビジュアル・アートの先鋭的な部分を担っている。私たちの視覚的な楽しみの対象であり、美的経験ですらある。ANTI-PUB のコマンドたちがターゲットにしたパリの地下鉄の巨大ポスターは、個人的に気に入るものが多かった。特に12号線の Assemblée Nationale 駅のプラットホームを通過する機会を楽しみにしていたほどだ。

またウェブの到来によって、企業VS消費者という関係も崩れつつある。ウェブの世界は広告によって成り立っている部分が大きいが、アフィリエートやネットショップによって個人が小さな仮想商店を営むことができる。消費者が売り手に参入する壁は低くなり、逆に消費者が企業に提案したり、商品の企画に影響を及ぼしたりすることもある。最近では企業の広告に煽られて買うのではなく、SNSによる情報の共有を通して買うという変化も見られるようだ(一方で、ステルスマーケティングなど、より巧妙なやらせ的な広告が問題視されている)。

しかし、彼らが問うているのはもっと根源的な問題だ。私たちは「今生きている環境」を変更のできない自明のものと考え、決して問い返したりしない。企業天国にして権利意識の希薄な非民主国家にいては、あまりにも現実味がない問いかけに聞こえるかもしれない。しかしこんな世界に生きていてハッピーなのだろうかと、立ち止まって考えさせられるのも事実だ。日本の公共空間が「広告の無法地帯」と化していることをハタと思い出したりもする。ANTI- PUB のコマンドたちは日本の街の宣伝がらみの喧騒や、電車の無節操なアダルト吊り広告を見たらどんな行動に出るだろうか。

ちょっと風変わりで過激な人たちが、信じて疑わない常識を揺るがすような行動によって一般市民を挑発する。ある意味、健全なものを感じるし、ユーモアも感じる。そこにはロック的な表現や文学的な感性すら見出せるだろう。昔だったら文学や音楽に身を投じたであろう若者は、今は反グローバリゼーションの運動に向かっているとも聞く。

□ADBUSTERS http://www.adbusters.org


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2012年04月28日

欧州の学生事情

2010年11月、イギリスで大学授業料引き上げ案が発表され、それに反発する大学生たちのロンドンやイギリス各地でデモを行い、一部が暴徒化した。イギリスの大学の授業料は、現在年間3290ポンドだが、2012年9月から6000ポンドに引き上げ、場合によっては9000ポンドまで引き上げることも可能になる(1ポンド=120円計算で、約40万円から約110万円に上がる計算)。もちろん、低所得の家庭出身の学生への支援があるし、また原則的にイギリスの大学の授業料は卒業後、収入が一定のレベルに達した時点から長期返済するという仕組みになっている。かつて、イギリスの大学の数が少なかった頃は、大学の学費は無料だった。しかし、大学の数も大学進学者数も増加するにつれて、政府の支出が膨れ上がり、1998年から授業料を徴収するようになった。

イギリスの学位が高くなったので、その受け皿になる外国の大学を志願するイギリスの若者が増えている。オランダが有力候補のひとつだ。イギリスでは値上げ前ですら年間約40万円かかるのに、オランダでは平均18万円。英語の授業も充実していて、イギリス人の学生には言葉の支障もあまりない。加えて彼らは外国の大学で学んだことや、異文化の経験や外国で身につけたスキルが仕事を見つける際のポイントになると考えている。もっともオランダの大学は入学は簡単でも卒業が難しく、その点は英国と逆らしいが。

授業料が上がるだけではない。補助金も大幅にカットされる。それによって大学の質が下がることも懸念されている。’Students eye up foreign universities’ というザ・ガーディアン(2011年1月10日)の記事では、物理学を志すイギリス人のある受験生が、理系の予算が6億ポンドも削減され、授業料が高いことよりも、施設が貧弱になり、十分な研究ができなくなることを心配している。それに比べ、多くの資金を活用できているアメリカの大学は魅力的だ。2010年は4000人の学生と親が、アメリカへの留学をコーディネートするフルブライト奨学金の説明会に出席した。前年の同じ時期に比べて50%増だ。イギリスからのフルブライト奨学金のサイトへのアクセスも30%増えた。

大学をでたばかりの若い労働者たちも国境を越える。経済危機に陥っている国々、スペイン、ポルトガル、ギリシャから知的労働者がドイツに流入している。ドイツはヨーロッパから労働者を集める政策を採っているが、特にスキルの高い労働者を優遇している。労働市場でもドイツがひとり勝ちしている(大学の授業料も再無償化の方向)。イタリアも中間層が薄くなり、少数の金持ちと低所得者層に両極化しているが、頭脳流出も深刻だ。若者の失業率が30%に達し、海外に住むイタリア人の大学院生の数はフランス人の2倍、ドイツ人の4倍いるという。経済状態の悪い国では若者に仕事が回らない。教育予算も削られ、優秀な学生が外国に出て行く。さらに国が衰退するという悪循環に陥る。

去年の夏には経済危機のスペインから良い仕事の条件を求めて外国に人口が流出しいているという記事が「ル・モンド」に大きく載っていた。去年の4-6月で7万人が国を離れたという。特にスペインでは若者の失業率が半分近くに達している。外国語を磨き、有利な条件を求めて大学も仕事も外国に探しにいくのが当たり前な時代になりつつある。それぞれの国の状況や他国との力関係も変化するだろうが、外国語はそういう状況に柔軟に適応するためのツールと言えるだろう。留学もまた欠かせない経験となる。

France2 によると、セドリック・クラピッシュの映画「スパニッシュアパートメント」は未だに欧州の学生の留学のモデルになっているようだ。同映画はエラスムス(欧州の交換留学制度)を利用する学生を増やすのに貢献したと言われる。ニュースでは映画を真似てバルセロナのアパートを13人でシェアする学生たちが紹介されていた。今や21万人の学生がこの制度を活用してヨーロッパ各国で学んでいる。フランスからの留学生は2009-10年度で3万人を超え、前年比で6・9%増加した。留学は履歴書に書ける重要な経歴だ。留学先の第1位はやはりスペイン、次にイギリス、ドイツ、スウェーデンと続く。映画が公開された05年はユーロバブルが膨れている真っ最中で、フランス人の主人公はスペインで経済学を学ぶことを勧められる。その頃はスペイン経済の見通しも良かったのだろう。ユーロはリーマンショックの直前に1ユーロ=170円(=1・6ドル)をつけるが、今年の1月はまさかの100円割れ状態だった。



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2012年02月24日

世界経済フォーラムの「男女格差報告」で日本は135カ国中98位

去年の11月2日にダボス会議を主催していることで知られるスイスのシンクタンク、世界経済フォーラムが2011年版「男女格差報告」を発表した。政治、経済、健康、教育の4分野での性別格差を評価した国別ランキングだ。日本は調査対象となった135カ国中、98位で、前年より4つ順位を落とした。日本は報告書の中で、女性の約半数が高等教育を受けているにもかかわらず、指導的立場にいる女性は約9%しかおらず、女性の能力が生かされていないと評価された。日本で実現されているトップレベルの男女平等は健康・長寿や識字率で、仕事とは直接関係がない。

つまり、日本は女性に対して男性と同じくらい教育で投資をしておきながら、その人的な資源を活用しないことは、投資に見合ったリターンを回収していないことにもなる。OECD の統計をみると、先進国では高学歴(大卒・大学院卒)の女性 の約8割が働いている。北欧では約9割。フランスでも8割を超える。しかし日本や韓国は6割にすぎず、高学歴の専業主婦層が高い割合で存在する稀な国になっている。

世界経済フォーラムは世界各国で性別格差をなくすための努力が進められているが、政治・経済参加部門の男女平等は依然として実現していないと指摘。一部の国では女性の参加を拡大するため、女性国会議員や女性役員の割合を定めているが、それでも世界各国の大臣と国会議員に女性が占める割合は20%以下。フランスに関して言えば、比例代表選挙ではおよそ5割の女性議員候補の擁立を義務付け、小選挙区選挙では、男女差が2%を超えると政党助成金が減額される(韓国は比例代表全国選挙区候補の半分は女性と政党法で規定し、女性議員数は倍に増えた。政治的には日本に先んじている)。

『週刊東洋経済』(2011年10月18日号)で山田昌弘氏が「女性が活躍しない国は財政赤字が拡大する」と、専業主婦率が高い国は国の財政赤字が大きいという相関関係を指摘していた。日本は既婚女性の労働力率が低いだけでなく、女性の非正規雇用率も高ければ、男女の賃金格差も大きい。それは保険料や税金が免除される扶養家族の範囲内(年収110万円)で働いているからである。これでは保険料収入や税収も伸びない。また専業主婦の夫の収入が伸びない場合、夫の小遣いが削られることになる。これでは消費も伸びない。さらに専業主婦に対して保険料や税制で優遇措置を講じれば、その分保険料収入や税収が減る。日本の既婚女性の大部分を占める専業主婦は年金や健康保険料を納めずに権利取得できるが、その分の保険料は共働き夫婦や独身者、一人親で働く正社員の保険料に上乗せされている。もちろん専業主婦が悪いという話ではない。日本では専業主婦であることが合理的な選択になってしまっているのだから。女性が働くインセンティブが働かない社会のシステムの問題なのだ。

欧米では昔から共働きが一般的だったわけではない。20年代のイギリスでは90%が主婦だった。アメリカでも50年代には75%が主婦。今の日本よりもはるかに高かった。フランスでも60年代までは「サラリーマンの夫と専業主婦の妻」が標準家庭だった。しかし70年代に入って、フランス政府は働く女性に優しい法律を次々に策定することで、男女がフルタイムで働く社会への変化を促した。例えば、親権の平等化、嫡子・非嫡子の平等化、男女平等賃金法、人工中絶の合法化、妊娠を理由に採用を拒否することを禁止する法律、育児休業法などが挙げられる。アメリカやカナダでは、子育てで退職しても正社員での復帰が容易にできる労働環境が整っており、既婚女性の就労を後押ししてきた。こうして「夫婦でフルタイムで働いて相応の生活水準を保つ」という社会の転換に成功したのである。

シンガポールや香港や台湾などの新興国は専業主婦という慣習がないままに経済発展したので既婚女性が働くのは当たり前になっているという。一方、日本や韓国(そしてヨーロッパではギリシャやイタリア)はそうならなかった。これらの国々では働く女性が量的にも増えず、パートなどの低賃金労働者が多いのが特徴だ。このような専業主婦の慣習だけが残った国々が財政危機に苦しんでいるわけだ。とりわけ日本では消費の牽引力であった中間層が切り崩されていることが問題視されている。その厚みを取り戻すためには夫婦フルタイムで働く共働きの世帯を増やすしかない。そういうインセンティブを働かせる政策は増税以上に効果的なはずだ、と山田氏は主張するが、OECD の委員会も「女性が経済分野で活躍することは男女平等に資するだけでなく、課税ベースの広がりによって財政を助け、多様性が経済の活性化を促す」と同じ意見を述べている。

□山田昌弘 「女性が活躍しない国は財政赤字が拡大する」 in 『週刊東洋経済』(2011年10月18日号)を参照



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2011年06月30日

夏時間または失われた1時間のこと

ヨーロッパや北米、オーストラリアに1年以上暮らした人なら、夏時間を経験したことがあるはずだ。アメリカ英語で daylight saving time と言うとおり、日照時間を活用するのが主旨で、時計の針を1時間進めることで、朝早くから活動し、夕方も早く帰宅して、まだ日のあるうちに家族と過ごせるのが利点である。蚊の少ないヨーロッパでは、庭にテーブルを出して、日が暮れていくなか、屋外で夕食をとることがある。これはなかなか気持ちいいし、多少は照明代の節約にもなるだろう。庭があればの話だが。

このたび、ロシア政府が夏時間を取りやめる方針を発表した。正確には冬時間の廃止と言ったほうがよい。3月に夏時間に切り替え、そのまま戻さない、ということらしい。したがって、時差は標準時より常に1時間進んでいるということになり、時差計算は多少ややこしくなる。ニュースによると、「季節によって時間を切り替える生活は国民の健康に好ましくない影響を及ぼす」というのがその理由らしい。これに対して、慣れ親しんだ時間を変えないで欲しい、という不満の声が挙がっているという。

北欧で白夜になるように、緯度が高いほど、夏の日照時間は長くなる。モスクワの日照時間を調べてみると、夏至の日の出は5時前、日没時刻は22時頃である。これに夏時間を加えると、夜は23時に訪れるということになる。ちなみに冬至は日の出が10時、日の入りが17時となっている。僕はロシアを訪れたことはないので、いまいちイメージできないのだけれど、夏と冬のこの極端な日照時間の差が、そこに住む人々のメンタリティに大きく影響するだろうということは容易に想像できる。北欧では冬の自殺率が上昇すると聞いたことがある(いわゆるSAD=季節性情動障害)。

フランスに住んでいたとき、夏時間が終る直前の10月下旬、大学へ行くのがとてもつらかったことを思い出す。授業は8時30分からスタートするのだが、これは実際には7時30分であり、家を出るのはさらに30分前だったので、外はまだ真っ暗だった。白い息を吐きながら、うつむき加減で地下鉄の階段を足早に下りていく人たちにまぎれながら、ひしひしと孤独を感じたものだ。逆に夏時間に入る日を忘れていて、しっかり1時間遅刻してしまったこともある。

ちなみに、日本では過去に4年間だけ夏時間が実施されたことがある。第二次大戦直後、米軍占領下にあったとき、アメリカ流に夏時間が導入された。しかし、日本人には馴染まなかったのか、占領終了とともに廃止された。終戦直後の日本人には余暇を楽しむ余裕などなかっただろうし、日本の夏はむしろ夜の方が過ごしやすい(『枕草子』の「夏は夜」から久隅守景の「夕顔棚納涼屏風」まで)ため、昼を延ばすのは、労働効率から言っても、あまり意味がなかったのかもしれない。

夏時間を経験して強く感じたのは、時刻というのは、結局は人間が太陽の出没を基準に目盛りを付けて区切っているに過ぎない、という当然の事実である。ベルクソンは、時計は時間を空間化して表現しているに過ぎず、本当の時間体験は持続性のなかにこそある、と説明した。それはそうなのだが、その批判は、空間化する必要が人間の歴史を貫いていることまでは説明してくれない。

時刻とは慣習である。24進法に従っているのは古代メソポタミアに倣ってのこと、中国では長らく12進法で1日を区切っていた。フランス革命期には、有名な革命暦だけでなく、10進法の時計も作られた。同じく10進法のメートル法は普及したが、10進法の時間はすぐに廃れた。これはいったいどういうことなのだろうか。「伝統」と言ってしまえば簡単だが、不思議なことである。たぶん24進法がフランス人の身体の奥まで浸透していたのだろう。夏時間を採用するか否かという問題も、結局はそれが身体化されれば、誰も文句を言わなくなるはずだ。

しかし、ロシア政府の言い分には、少し疑問が残る。ロシア人の健康を蝕んでいるのは、「季節によって時間を切り替える生活」よりも、アルコールであるような気がするが。いずれにせよ、政府が強引に廃止した場合には、最初は朝の日射しの違いに違和感を覚えるだろう。しかし、結局は慣習なのだから、ちょうど明治の人々がだんだんと24分割された1日に慣れていったように、ロシア人も夏時間から離れていくだろう。

ところで、標準時より進めた際に失った1時間はどうなるのだろうか。深夜零時のはずが、もう1時になっているわけだから、どこかに1時間を落としているはずだ。この1時間は、冬時間に戻らない限り、取り返せない。その1時間で何ができるわけでもないけれど、そのことが妙に気になる。




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2011年01月19日

新しい優生学?−精子を売る若者とデンマークの精子提供の実態

加爾基 精液 栗ノ花デンマークの議会で性倫理に関する新しい法が審議されるというニュースを France 2 が伝えていた。デンマークは精子提供の最も多い国で、今や提供者の髪や瞳の色とか学歴などが細かくカタログ化されている。提供者の子供の頃の写真もあって、どういう子供が生まれるか想像できるようになっている。議会ではそれを禁じようというのではなく、状況をきちんと把握し、どうやって具体的に法を適応していくかが議論されるようだ。

ニュースでは精子を売りにきたデンマークの若い失業者がインタビューを受けていた。精子を売買するデンマーク(籍は外国)の会社のオフィスに行けば、身分を特定することを条件に、精子の状態や量によって 1日30から70ユーロ稼げる。最後の手段として血を売る話は昔から聞くが、実にショッキングな話だ。若い男はポルノビデオや雑誌のある個室に入って採取するが、そこにはいかがわしさのかけらもない。その会社は年間400万件の精子提供を受け、60ヶ国に販売し、1年に1000人近くの子供が産まれている。ネットでも売買されていて2000ユーロから。20万円ちょっとで買える計算だ。

身分を特定するのは生まれた子供が将来自分の父親を知りたがるときのためだという。アメリカでも金銭的な動機で若者がドナーになるが、そういうドナーでも自分の精子から生まれる子供に興味を持ち、子供の将来を心配するのだという。子供もまた自分に父親がいないことに関心を持ち、生物学上の父について知りたがる。しかしこれらは従来の父子の関係を超えてしまっている。

どのような人々が精子の提供を望むのかというと、不妊のカップル、レズビアンカップルやGIDカップルなどである。むしろ興味深いのは「選択的シングルマザー」の存在だ。つまり子供は欲しいが、男は要らないという女性だ。このような男性との関係性の否定は「男は種にすぎない。男の庇護も、男とのコミュニケーションも要らない」という女性の生き方の可能性を告げ知らせる。男は容姿や学歴などの属性のデータのみ測られ、選択される。それは否応なしに優生学的になり、容姿や学歴の高いほうに偏るだろう。レッセフェールな状態にすると、選ばれた少数の精子が多数の子供を生むことになるだろう。アメリカの精子バンクでは近親婚や遺伝病を避けるために1人あたりの出生数を厳しく制限しているが、ネット上ではそういう規制をかいくぐって売買されている。自分の精子提供によって少なくとも650人の子供の父親になったと主張している男性もいるようだ。一見、一夫多妻の王様のようだが、彼は人格や彼の取り結ぶ人間関係ではなく、カタログ化された属性によって評価されているにすぎない。選択権は明らかに女性の側にある。女性は自ら精子を選び、子供を宿し、子供と関係性を育む。男はわずかな金で精子を搾り取られるだけだ。

これが日本で起こった場合、臭いものに蓋をする式にありえない問題にされるだろう。例えばヨーロッパでは避妊の方法としてピルが普及しているが、日本では保険がきかないし、処方の体制が整っていないので普及していない。それは従来の家族規範にとらわれた保守派の政治家が、性病がひろがるとか、男女関係が乱れるとか言って反対しているせいだ。同じことが精子提供に関しても起こり、一方で問題は地下に潜るだろう。すでに一部の人々にとっては現実的かつ切実な問題になっているのだろう。だからヨーロッパでは起こっていることを認め、現実を把握しつつ、法規制によってコントロールしていくやり方を取る。

デンマークの精子提供のニュースは「これは新しい優生学なのか」と問いかけていたが、これはユダヤ人の大量虐殺という蛮行に至ったナチスのような、国家主導型の強制的な優生学ではない。両親たちの出生前診断や遺伝子治療や、今回の精子のカタログ化が、結果的に優生学的な効果を生み出してしまっているのだ。

親は美しく賢く健康な子供が欲しいと願う。それは自然なことで、偏見に基づくものとは言えない。その欲望が技術的に実現可能になったとき、局所的な視野と欲求充足によるとはいえ自分の生を最適化するために合理的な判断を下すだろう。しかしそれは極めて排他的な社会を生む可能性がある。(東浩紀「情報自由論」)

個人的な経験になるが、連れの妊娠の兆候が現れて、最初に飛び込んだ産婦人科で羊水検査を勧められた。高齢出産の年齢にひっかかっていたからだ。羊水検査とは出生前診断のひとつで、子宮に長い注射針を刺して羊水を抜き、得られた羊水中の物質や胎児細胞によって染色体や遺伝子異常の有無を調べる。「もし異常がわかったら堕ろすことになるのか」と産婦人科医に問い正したら、彼は「社会のお荷物になるだけだから」と言い放った。二度とその病院に足を踏み入れることはなかったが、この確信犯的な物言いは、個人の「局所的な視野と欲求充足」を背景にしている。「キレイごとを言ったって、みんなの本音はそうだろう」ってことだ。

生まれてくる子供すべてが肯定されなければならない。しかしそれまで自然の摂理として否応なしに受け入れていたものが、選択の問題になる。整然とカタログ化された形で、どのコースにしますかと選択を迫られるのだ。その選択は子供に対して重大な責任をともなうものになる。私たちは判断をめぐって右往左往し、これまでありあえなかった後悔を生むことになるだろう。

「正義とは計算不可能なものである」。生活のあらゆる場面がデータ化され、解析され、リスク管理の資源としてシステムへとフィードバックされる環境管理社会において、この言葉ほどわかりやすく実行が難しいことがほかにあるだろうか。(東浩紀「情報自由論」)




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2010年10月30日

フランス発、広告パネル付バスシェルター

最近目にするバス停がフランスっぽくてオシャレだなと思っていたら、国交省がバスシェルターへの広告設置を許可したのを受けて、フランスの会社(日仏合弁)が横浜・名古屋・神戸市などに広告パネル付バスシェルターを設置していたのだった。雨をしのげる屋根、ガラスの風防、広告のパネルを供えたデザイン性の高いバスシェルター。オシャレなバス停を日本全国に広げている仕掛け人は、フランスの広告会社と三菱商事の合弁会社であるエムシードゥコー(MC Decaux)。それはパリのレンタル自転車ヴェリブを富山市に移植した会社でもある。

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エムシードゥコーの親会社、ジェーシードゥコー(JC Decaux)が創業したのは1964年、フランスのリヨン。それ以後、世界中に徐々に広告付きバス停を浸透させてきた。同社はバスシェルターだけでなく、公衆トイレ、無料貸出自転車、音声認知フロアガイドなどを屋外広告として活用する事業で世界的地位を築いている。広告付きバス停は同社が初めて考案したビジネスモデルで、バス事業者と契約を結び、バスシェルターを無償で設置・維持管理を行い、そのコストを広告収入でまかなっている。同社とバス事業者は標準で20年という長期契約を結び投資回収を行う。初期費用は200万前後。広告は2週間ごとに切り変わる。自治体やバス会社はいっさい負担せずにバス停を再生できるのが、このビジネスモデルの強み。多くの公共交通機関が公営である西ヨーロッパでは、PPP(パブリック・プライベート・ パートナーシップ、公民連携事業:公共と民間の連携・協働によって公共性の高い事業をよりよく進める手法)としてこうしたビジネス・モデルが1960年代 から発展してきた。

日本での合弁会社、エムシードゥコーの設立は2000年。このビジネスの定着のきっかけは規制緩和の動きだった。設立当時は通行の妨げになるとして広告付きバス停の設置が禁じられていた。しかし03年に歩道の幅の確保など、一定の条件を満たせば設置を認める方向へと転換。これを機に導入が進んだ。エムシードゥコーの手がけるバス停は03年の岡山が第一号。現在は全国37都市1200箇所に広がっている。しかし、地域によってはバス停のデザインがオシャレすぎるあまり、全体の景観からやや浮いてしまっているケースもある。バス停のデザインの担当者はバス停の背景となる街の広告の規制をきちんとやるべきだという。パリにある広告付きバス停が周囲の景観とマッチしているように。つまり新しいバス停の設置を街の景観を再考するきっかけにしようというわけだ。

ところで「フランス人は数を数えられない」と発言した石原慎太郎都知事が、フランス生まれの広告付きバス停にもケチをつけたと言う。いつもの記者会見で「フランスの会社ごときが生意気にもだね」と東京に進出しようとしたエムシードゥコーを突っぱねて、東京都は交通局が民間を採用せず、独自に広告パネル付きバスシェルターを設置することを決めたようだ。エムシードゥコーは、長年にわたって蓄積されたノウハウを持つ同社のサービスを採用してもらえれば,自治体は税金を他の行政サービスに回すことができるし、シェルターの設置や整備のスピードを格段に高めることができると売り込みを続けている。

□写真はパリのバスシェルター:「バスを待ちながらバス停で雨宿り。ガラス張りの屋根に大粒の雨が叩きつける」(photo by キャベツ頭)





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2010年10月23日

カタルーニャで闘牛禁止‐動物愛護か文化的アイデンティティか

7月10日のニュースだが、闘牛反対派にとっては歴史的な勝利になった。カタルーニャ(カタロニア)の州議会の投票結果は68対55で闘牛の禁止に軍配があがった。カタルーニャは闘牛を禁止するカナリア諸島(1991年に禁止)に次ぐスペインの第2の州になった。投票の何ヶ月も前から、賛成派と反対派が二分し、新聞が論争の媒介をした。主要紙 El Pais はネット上に議論の場を提供した。

闘牛擁護派は5億ユーロに上る経済効果を失ってしまうと強調し、もし禁止されれば闘牛業界の保証のために4億ユーロが必要になると試算した。一方、バルセロナ大学の経済学の教授によると、損失はカタルーニャ人ひとりにつき57ユーロに過ぎないと言う。カタルーニャ州で闘牛はすでに縮小傾向にあって、08年には16回しか行われていない。同じ年にマドリッドでは343回も行われているにもかかわらずだ。

闘牛禁止でカスティーリャ(マドリッド)とカタルーニャ(バルセロナ)の対立が先鋭化している。France 2 を見ていると、マドリッドの闘牛好きの親父は「カタルーニャ人のアホどもめ!闘牛が嫌いなやつはくたばってしまえ」と怒り心頭。『カルメン』の舞台になったセビリアのあるアンダルシア州の首長も闘牛の禁止はありえないと発言している。カタルーニャの決定がこれからスペイン全体にどう波及するかが注目される。闘牛反対派はこれに勢いづき、他の自治州でも闘牛が禁止されることを期待している。

スペインの象徴的な文化である闘牛さえも世界的な動物愛護の流れには逆らえないようだ。フランスの南部でも闘牛が行われているが、これを受けて禁止の方向に向かうだろう。またスペインには牛の角に松明をつけたり、牛を追って虐待したりする風習も残っており、それらも槍玉に上がっている。だいぶ前から物愛護団体 PETA が闘牛と牛追い祭りに「裸で」抗議する様子がニュースになっていた。日本でも動物虐待と見られかねないものが少なくない。しかし本来祭りとはそういう過剰を孕んだものであり、動物を殺したり虐待したりする供犠性は祭りの本質ですらあるはずだ。

和歌山県太地町のイルカ漁を批判した映画『ザ・コーブ』に対する反論として、欧米の残虐な文化の例として闘牛がしばしば挙げられていた。欧米人だって残虐なことをやっているじゃないか。なぜ日本のイルカ漁ばかりが叩かれるのかと。『ザ・コーブ』の立場(つまりアメリカ人)からすると、日本のイルカ漁をバッシングすることは、イラクや中東問題、環境問題などとは違って、自分たちには跳ね返ってこない非近代的で野蛮な風習を叩けばいいわけだから、うしろめたさなしに正義を振りかざすことができたわけだ。

スペインの闘牛がここまで追い込まれ、かつ国内で賛成派と反対派に別れて激しい議論を戦わせているのを見ると、動物愛護は地球温暖化などとともに世界的な潮流であり、グローバルに共有される価値観になりつつあるのだろう。しかしスペインの闘牛もまた動物愛護の問題だけで割り切れるわけではない。

カタルーニャはスペインの一部でありながら強烈な文化的アイデンティティーを持つ。今ではカタルーニャ語は地方公用語として認められているが、フランコ政権下で大幅に使用を制限された歴史的経緯がある。過去にスペイン語(=カスティーリャ語)を強制的に押し付けられた抑圧の歴史が、逆にこの地方のアイデンティティーを強める結果となった。それもつい最近のことだ。この事情を知らないと、レアル・マドリッドとFCバルセロナ戦の異様な盛り上がりも理解できない。

闘牛もサッカーと同様にこの歴史的・政治的対立と無縁ではいられない。カタルーニャの場合、闘牛は右派とフランコの記憶と結びつく。フランコはかつて闘牛をいろんな国の寄せ集めであるスペインの求心的な文化として利用した面もあった。それでも闘牛愛好家によれば、闘牛はカタルーニャのアイデンティティの一部なのだ。やはり文化とアイデンティティの議論は動物愛護派ではなく、闘牛擁護派によって進められた。闘牛は重要な社会的な機能を果たしており、闘牛を誹謗中傷するものたちは政治的な理由でそうしているに過ぎないと擁護派は主張する。つまり中央政府とカタルーニャとの対立というロジックにのせようとしていると。一方、カタルーニャ当局は態度を保留し、闘牛をカタルーニャと中央政府の政争のネタにしないように要求してきた。闘牛を歴史的文化の問題ではなく、動物愛護の問題にしておいた方が面倒がないのだろう。

しかし闘牛によって文化的一体感を感じられることには変わりはない。日本から見ても闘牛の禁止はひとつの伝統ある文化の終焉と映る。あるカタルーニャの作家は闘牛の禁止は文化に対する攻撃であり、フランコ時代のカルナヴァルの禁止に比するべきものだと言う。フランコの真似をして自分の首を絞めるのかというわけだ。また二人の有名なスペインの闘牛士が新聞のコラムで表明したところによると、闘牛の禁止は自由に対する侵害であり、分離独立派を勝利させ、中央政府に亀裂を入れ、スペイン国内の不和を生むことにつながるのだと。この法律は何の解決にもならないとエル・パイス紙も書いている。なぜならカタルーニャには他にも動物を虐待する祭りがあり、それはどうなるのかという問題を宙吊りにしているからだ。

一方、動物愛護家たちの根底には、種差別 speciesism という考えかたがある。「性差別」や「人種差別」にならって作られた言葉だが、人間のみを特権化し、他の生物をないがしろにする差別は不当であり、「快苦を感じそれを表現することができる動物」に等しく道徳的配慮をするべきであると考える。動物の権利(アニマルライツ)を主張するピーター・シンガーらによって使われることが多いが、彼らは工場畜産、動物実験、狩猟、サーカス、動物園などを廃止し、人々にベジタリアニズムを呼びかけている。




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2010年09月02日

就活化する世界(3) グーグリネス Googliness

とりわけポスト近代型能力が要求されるのは情報化、消費化された分野であるが、変化と進化の著しいコンピュータ&ネット産業がその典型であろう。しかし今やどの業種も情報化とサービス業化の波を避けられない状況にある。製造業もフォーディズムの全盛期のように、あらかじめ画一的な製品の大量生産を続けることはもはやできない。気まぐれで多様な趣向性を持つ消費者を相手にしながら、彼らの要求を生産にフィードバックさせなければならない。

ウェブ時代5つの定理 (文春文庫)ポスト近代型能力の要請は明らかにアメリカから来ていて、それがひとつのグローバルスタンダードになりつつある。その先端を行く企業の人材の集め方、働き方、仕事の評価を見れば、その具体像を知ることができるだろう。そう言われて私たちが真っ先に思い出すのは、グーグルの社員レストランやレジャーコーナーである。彼らは美味しいものを食べながら、遊びながら仕事をするのである。

「現代の労働者は自分を事業主としてセルフ・プロデュースしながら、市場で競争し、常に自分の生産力を高めていかなければならない」と1回目で書いたが、つまりは普通の労働者であっても、アントレプレナーシップが要求されるということだ。アントレプレナーシップは起業家精神と訳されるが、それは「企業や会社経営に関わるメンタリティとは限らない」一般的な態度だと梅田望夫氏が的確に指摘している。さらに梅田氏の言葉を引用すると(『ウェブ時代5つの定理』)、

アントレプレナーシップとは社会をタフにポジティブに生き抜いていくための総合的な資質なのです。優れたアントレプレナーに共通する特徴は、人生のある時期に、たいへんな集中力と気迫で、新しい知識を確実に習得している、ということです。貪欲なまでに強い意志を持って、自ら道を切り開いていく。好奇心旺盛なアントレプレナーたちは、不確実な未来にいかようにも対応できるよう、徹底して「学び続ける」意志を持っているのです。(梅田)

最も重要なことは最後の一節に書かれている。不確実な未来に対応すること、学び続けることである。これはシリコンパレーの起業家たちについて書いていることだが、グーグルの企業文化についての次のような引用もある。

Google's emphasis on innnovation and commitment to cost containment means each employee is a hands-on contributor. There’s a little in the way of coporate hierarchy and everyone wears sereral hats.

グーグルではみんなが複数の帽子をかぶっている。つまり一人の人間が複数の仕事をこなすのだ。グーグルには数人単位のチームで、アイデア捻出、サービス創造から保守まで自分の手を汚して泥臭い仕事をやるという文化がある。普通、会社の規模が拡大していくと組織が階層構造化し、どんどん自分の仕事に線引きをし、蛸壺化していく。しかしネットサービスの時代になると、「みんながいくつもの帽子をかぶって取り組むことがイノベーションにもコスト削減にも貢献する」。グーグルは売上2兆円近い大企業にもかかわらず「間接部門は極端に少なくし、一人当たりの生産性が高い状態で疾走している状態」なのだという。

「権威を嫌い、階層を嫌い、合意と納得の上で仕事をする」のがグーグルのやり方だとすれば、「権威を傘に着て威張るのが大好き、上下関係最優先、一方的に命令され、納得できずにストレスを溜める。そのため生産性が著しく低い」のが日本の組織だろうか。もちろん、シリコンバレーには、権威と上下関係の元凶である年功序列と終身雇用を前提とする人事部一括採用のシステムは存在しない。必要とする人材は仕事ベースで募集し、その仕事に最適化したチームを作る。人材はその仕事のリーダーが選ぶというのが基本だ。人事部主導で「新卒」を一括採用し、本人の意思と関係なく勝手に配属先をふりわける日本企業のシステムは完全にその対極にあるわけだ。「日本の理系の大学では教授のところにメーカーから卒業生をくださいとお願いが来る。各社にまんべんなく人材を送るために、くじ引きやジャンケンで就職先を決める。どこへ行っても日本株式会社の一部門という感じ」と梅田氏はその実態を証言している。

梅田氏の尻馬に乗ってシリコンバレーを理想化しようなどというつもりは全くない。とはいえ、経団連も「主体的に行動し、自己責任の観念に富んだ、創造力あふれる人材」を採用の基準にすることを、文科省も「人間としての実践的な力」であり、「自分で課題を見つけ、自ら考え、自ら問題を解決していく資質や能力」と定義される「生きる力」を育成することをすでに宣言しているのだ。またそういうディスクールが世間にも蔓延していることも確かである。しかしそういうものが日本のどこに実現されているのだろうか。

経団連のお偉いさんたち自身は近代型能力によって生きてきた世代で、そんな能力を要求されたことなどないはずだ。たとえ日本の若者たちがポスト近代化能力を首尾よく備えたとしても、そういう古い頭の人たちが彼らを使いこなすことができるのだろうか。そして正しく評価できるのだろうか。まさにそのせいで若者たちは会社を辞めるのだと、城繁幸なんかがしばしば指摘していることである。






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2010年08月29日

就活化する世界(2) ハイパーメリトクラシーとは

それに対して、今求められつつあるのは、既存の枠組みに適応するよりも、新しい価値を自ら創造し、変化に対応し、変化を生み出していく人材である。組織的、対人的には、異なる個人のあいだで柔軟にネットワークを作り、そのときどきの必要性に応じて他者を使いこなすスキルを持つことが必要になる。

多元化する「能力」と日本社会 ―ハイパー・メリトクラシー化のなかで  日本の〈現代〉13教育社会学者、本田由紀はそれをメリトクラシーに対して、「ハイパーメリトクラシー」と呼び、前者が要求する近代型能力に対して、後者が要求する「ポスト近代型能力」を対置する。近代型能力において、努力=勉強すれば向上できる部分が相当に大きかった。受験勉強に代表されるような知識の暗記、公式や文法規則の適用、計算の習熟などの能力を伸ばすために最も必要なことは、時間をかけてしかも効率的にそれらのスキルを自分の頭に叩き込むことだった。つまり近代型能力を身につける一定のノウハウが存在し、それを的確に繰り返せばよかったのである。

しかしポスト近代型能力は努力やノウハウとはなじまない。個性や創造性、ネットワーク形成力を知識として詰め込むことはできないから。これらの柔軟で形が定まらず、しかも十人十色な能力は、身につけるためのはっきりしたマニュアルが存在しない。ポスト近代型能力は、個人の生まれつきの資質か、あるいは成長する過程での日常的、持続的な環境条件によって多くの部分が決まる。それは個人の人格や感情や身体と一体化したもので、家庭環境の及ぼす影響も大きい。

この求められる能力の変化は根拠のない話ではない。実際に、1996年に経済団体連合会が提出した「創造的な人材の育成に向けて―求められる教育改革と企業行動」の中にはっきりと書かれている。それによると、これから評価されるのは「主体的に行動し、自己責任の観念に富んだ、創造力あふれる人材」、「他者の定めた基準に頼らず、自分自身の目標・意思に基づいて、進むべき道を自ら選択して行動する」人材である。問題への対応に際しても「知識として与えられた解決策を機械的に適応するのでなく、既存の知識にとらわれない自由な発想により自力で解決する能力」が求められるのだ。教育の領域でこれに対応するのが、1996年の中教審の第1次答申に打ち出された「生きる力」である。「生きる力」もまた「人間としての実践的な力」であり、「単に過去の知識を記憶しているということではなく、初めて遭遇するような場面でも、自分で課題を見つけ、自ら考え、自ら問題を解決していく資質や能力である」と定義されている。

教育の職業的意義―若者、学校、社会をつなぐ (ちくま新書)整理してみよう。メリトクラシー=近代型能力が「基礎学力」、「標準性」、「知識量、知識操作の速度」、「共通尺度での比較可能性」、「順応性」、「協調性、同質性」という言葉で表現されるのに対し、ハイパーメリトクラシー=ポスト近代型能力は「生きる力」、「多様性、新奇性」、「意欲、創造性」、「個別性、個性」、「能動性」、「ネットワーク形成力、交渉力」によって特徴付けられる。

もちろん、近代型能力とポスト近代型能力が完全に入れ替わったわけではない。近代型能力は依然としてベースにあって、その上に新たな能力が付け加わりつつあるという形だ。もはや「ガリ勉」タイプが全く評価されない時代(佐藤俊樹)になってしまったが、表向きはスマートにふるまえる「隠れガリ勉」は全くOKだし、むしろそれが推奨されるのかもしれない。またハイパーメリトクラシーは人間の全人格にわたる様々な側面を不断の評価のまなざしにさらす。例えば、大学の授業の平常点評価を考えてみればいい。期末試験の一発勝負で成績を決めるのではなく、毎回の「授業の態度」で評価するとする。出席していたか、ちゃんと授業を聞いていたか、授業で積極的に発言したか、グループ学習の際にグループをうまくまとめていたか、など授業のあいだに言動が絶え間なく評価される。実際にそこまで細かく評価する教師はいないと思うし、「授業の態度」なんて本来数値化できないものだ。しかし、ハイパーメリトクラシーは、意欲や創造性、柔軟な対人関係能力を日々の生活において常に発揮することを求め、それを不断に評価する。それは社会が個人を裸にし、その「剥き出しの柔かい存在」(本田由紀)のすべてを動員し、活用するという、ある意味非常に過酷な状況と言える。
(続く)




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2010年08月27日

就活化する世界(1) あなたは会社のために何ができますか

トウキョウソナタ [DVD]2008年のカンヌ映画祭の「ある視点」部門で審査員賞を受賞した『トウキョウソナタ』。46歳の主人公の男がリストラに遭う。前の会社で総務課長までやっていた自分が何で他の会社で受け入れられないのか。男のプライドは傷ついている。リストラされた会社でも、新しい会社の面接でも「あなたは会社のために何ができますか」と聞かれて何も答えられない。質問の意味すらわからない。これまで与えられた仕事を淡々とこなしてきただけだからだ。アメリカ式の人事担当者は「すぐここであなたの能力を示してください」とまで言う。自分がゼロから会社のために何ができるかなんて考えたこともない。

「フランステレコムで何が起こったのか」で書いたことだが、今や労働者は与えられた仕事を従順にこなすことを求められているのではなく、潜在的な能力を持った人的なリソースとみなされている。新しい事態に対応するために、みずからの能力を開発し続けなければならない。学習は生涯続くのだ。そのための自己投資も必要になる。外資系の銀行に勤めている友人によると、今回の金融危機で多くの社員が解雇されたが、みんなそれをチャンスと捉え、大学院に入り直したり、新しい資格を取ったりして、更なるスキルアップを図るのだという。若い社員だけでなく、40代、50代の同僚さえもそういう自己投資に何百万円もかけることを厭わないようだ。つまり、何ができるかということと同時に、どれだけ潜在力を高め続けられるか、それが評価の対象になる。

このように現代の労働者は自分を事業主としてセルフ・プロデュースしながら、市場で競争し、常に自分の生産力を高めていかなければならない。その手始めが、就職活動の際に求められる「就活力」なのだろう。日本では70年代以降、大学はエリート教育の場であることをやめ、大学新卒者の大量採用によって、大学生はサラリーマン予備軍と化したが、その背後には終身雇用制度と年功序列賃金制度の確立があった。その時代の仕事はむしろ頭を空っぽにして社畜になること、組織とべったり同調することが推奨された。今は全く別の意味で大学と仕事が結びつかなくなっている。つまり、大学で何かを学べたとしても、それはある知識を詰め込み、ある技術を身につける、限定的な一段階にすぎなくなっている。それはすぐに役に立たなくなるかもしれないのだ。もちろん大学で学んだことが最初から役に立たないというケースも多く、「大学で学んだことに職業的な意義があったか」という問いに対し、YES の回答は日本は先進国中最低で12%しかない。

ところで、近代社会は「人々を生まれや身分と切り離し、その資質や能力に応じて社会の中に再配置する社会」と定義できるだろう。近代以前、人々は自分の生まれた村からほとんど外へ出ることなく一生を送った。生まれによって人生はほぼ決定されていた。しかし近代社会では自分の資質や能力を生かして、自分の望む職業に就いたり、生まれが貧しくても学業によって成り上がることもできる。その意味でも近代社会は個人の自由と平等の実現を建前としているわけである。

その際に基準となるのが個人の成績である。それを基準にして個人を社会の中に位置づける制度をメリトクラシーと言う。「メリット」(=能力)によって人々が配置され、メリットを持つ人々によって統治されている社会だから。メリトクラシーのもとでは、何をめぐって競争しているのか、何を目指して努力すればいいのか、はっきり示されていた。受験勉強がそうであるように、共通に与えられた内容を一生懸命消化すれば、良い成績や学歴を手にすることができた。そしてそれにふさわしい社会的に地位を期待することができた。

つまりこれまで評価の対象になってきたのは、標準化された知識内容をどれだけ習得できるか、どれだけ速くこなせるかなど、いわゆる基礎学力としての能力だった。それはテストの点数や偏差値という共通の尺度によって測ることができ、個人間の比較を可能にしていたのである。それは同時に与えられた枠組に対して個人がどれくらい順応できるかを測っている。組織的、対人的な側面として、同質性の高い文化や規範を共有する集団(つまり日本の企業)に対して協調的であることが期待されていた。
(続く)




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2010年04月22日

『卒業』とアメリカの68年

卒業(1967) 【プレミアム・ベスト・コレクション\1800】 [DVD]結婚式の真っ最中に花嫁を奪う。これほどドラマティックな出来事はないし、花婿や両親に対するこれ以上のダメージはない。言うまでもなく、ダスティン・ホフマンの出世作となった『卒業』(1967年)のことである。また音楽とラストシーンがこれほど印象深く結びついている映画もない。サイモン&ガーファンクルの「サウンド・オブ・サイレンス」のことである。最近、main blog で「映画の文化的、時代的な背景」がちょっとしたテーマになっているが、『卒業』もまたその時代背景を理解すると印象が一変する映画だ。私が『卒業』を見たのは高校生のころだったが(もちろんリアルタイムではない。思えば、私が初めて映画館で見た洋画はイレーン役のキャサリン・ロス主演の「レガシー」だった)、それがアメリカの世代間の文化戦争の反映だと知る由もなかった。

すべてをぶち壊しにした自分たちの行為に酔っていられる時間はそう長くはない。ラストシーンでベンとイレーンはバスの後部座席でどうしたらいいのか途方に暮れる。そもそもベンは映画の始まりから自分が何をやりたいのかわかっていなかった。しかし、はっきりとわかっていたことは、大学を卒業して家に戻ってきたとき、両親から受け継ぐべき世界が、自分の求めるものではないということだけだった。その後、ベンははっきりと自分の進むべき道を見出す。ちょっと強引な言い方をすれば、マイクロソフトのビル・ゲイツやアップルのスティーブ・ジョブスは彼のなれの果てなのだ。

「卒業」というタイトルだが、問題になっているのは大学からの卒業である。小熊英二が『1968―若者たちの叛乱とその背景』で日本の大学の1968年を描き出しだしたように、アメリカの68年もその後のアメリカを見る上で興味深い転換点になっている。アメリカの68年は、その後の世界の趨勢にまで多大な影響を与えただけでなく、現在の支配的なライフスタイルの原型を作ったのだから(詳細は次回以降)。

ベンの表情は今見ても感動的だ。こういう表情を今の映画では撮ることはできない。虚飾に満ちた大人の世界をがむしゃらに突破しようという情熱。今の世の中は草食系ばかりが話題になり、そういう若者の情熱と出会わない。若者が時代を食い破るような情熱を持てない世界は衰退していくしかないのだろうか。

卒業-オリジナル・サウンドトラックとはいえ、次の時代への脱皮の準備をしたのは大人たちだった。今のままではアメリカはもたないという意識から出たことだったのだろう。当時アメリカの大学は大きな変化の中にあった。ハーバード大学を例に挙げるなら、一地域のエリートのための閉じた大学から、アメリカの優秀な頭脳を集めた活気のある大学に変貌していた。1952年のハーバード大学は北東部の社会のエリート限定で、新入生はほとんどがWASPだったが、1960年にはアメリカ全土から学生を受け入れるようになっていた。ハーバードの学生は昔から優秀だったわけではなく、学力もこの時期に飛躍的にアップしたのだ。ハーバードだけでなくアメリカの有名大学が同じ時期に、血統や縁故ではなく、知能によって切磋琢磨するメリトクラットたちに門戸を大きく開いたのだった。多くの大学でユダヤ人(ダスティン・ホフマンはユダヤ系である)や女性に対する割り当て制限も撤廃され、大学の民主化も著しく進んだ。

そのような環境の中で、新しい成り上がり者たちは旧勢力にとって変わろうとした。WASP的な文化を破壊し、個人の実力を基準とした新しい気風でアメリカを塗り替えようとしたのである。いつの時代もそうだが、消えゆく運命にある既得権益層は、新興勢力を脅威として感じれば感じるほどますます意固地になる。最後のベンの行動を阻止しようと必死につかみかかる親たち。ベンはそれをかわして教会の扉を十字架でふさぐ。そしてイレーンの手を取り、彼らの目の前を軽やかに駆け抜けるのだ。1960年代の後半の若者たちの文化革命を右派は天災と言い、左派は奇跡と言ったが、それは1955年から1965年のあいだにアメリカの大学で起こったトレンド転換の必然的な帰結だった。

『卒業』ではプロテスタントのエリートたちの生活が情け容赦なく暴露されている。当時のWASPたちがどういう価値観を持ち、どういう暮らしをしていたかはデイビッド・ブルックスの『アメリカ新上流階級 ボボズ』に活写されている。豪奢なバー、モノグラム入りのゴルフシャツ、金時計、白い壁と白い家具。これらは浅はかさと偽善の象徴である。実際彼らは映画の中で人形かロボットのような印象を受ける。昔見た特撮人形劇「サンダーバード」(1965年のイギリスの作品)を思い出させる。そしてミセス・ロビンソンの姿を通して、カクテル三昧の生活に隠された絶望が暴かれる。ベンとミセス・ロビンソンの不倫関係が明るみに出るだけで、すべての仮面がはがれ、すべての虚像が脆くも崩れ去る。それらがいかに危ういバランスの上に成り立っていたかを証明するように。

ベンがイレーンを連れ去れる教会はサンタ・バーバラのプレスビテリアンの教会(長老派と呼ばれるWASP的な教会)である。花嫁を奪われる男は典型的なWASPタイプのくそ真面目なブロンドの医者。イレーヌに対する「僕たち、素晴らしいチームになれるよ」というプロポーズの言葉には、WASP文化の軽薄さと感情の冷淡さ、そして体育会系の執拗なスポーツ志向が表れている。

The Graduate - End Scene



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2010年03月23日

セントラムに乗ってみた

去年(2009年)の12月23日、富山市でセントラムが運行を開始した。セントラムとは市の中心部を周回する環状線を走る路面電車の通称だ。一周3・4キロの所要時間は約20分。路面電車としては初めての上下分離方式を採用し、軌道整備や車両購入は富山市、運行は富山地方鉄道が担当した。環状線は以前存在したが、路面電車の衰退にともない昭和49年に廃止されていた。

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30日に私も、にわか鉄ちゃんに変身して、小鉄を連れてセントラムに乗ってみた。車体には大きなDEBUT(デビュー:仏語)の文字が。沿線には三脚付のカメラを構えたマニア風の人たちの姿もがチラホラ見える。車内は子連れの家族でにぎわっていて、とりあえず話題の電車に乗ってみようという感じだった。

31日に正月の買い物にデパートに出かけた際にもセントラムに乗ってみた。そのときはガラガラだった。その日は大雪警報が出ていて、朝から雪が降りしきっていた。やはり雪が降るとみんな自家用車を使うのだろうか。確かに足元が悪くなると、ドアツードアで動きたくなる。雪景色の中を走るセントラムの姿は、「ここはストラスブールか」(笑)と見まがうほどで、カメラに収めたかったのだが、その日はデジカメを持っていくのを忘れてしまった。

富山市は路面電車によって街を活性化させている地方都市のモデルになっている。かつての赤字ローカル線あとに次世代路面電車、LRT(Light Rail Transit)をすでに導入していて、他県の地方自治体の視察も絶えない。とにかく車体のデザインがカッコいい。どこにでもあるような地方都市の風景を突き抜けるようなデザインだ。美しいデザインが見慣れた風景と組み合わさることでモンタージュのような異化作用もある。ローカルなものがグローバルに突き抜ける。日本の地方都市の方が大都市よりもヨーロッパに近いのだと思わせてくれる。

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富山市が参考にしたのが、フランス東部の町、ストラスブールだ。ストラスブールのユーロトラム構想には、電車は街の景観の一部であるというコンセプトがベースにある。停留所から軌道敷までが街のデザインになっている。オム・ド・フェール Homme de fer 広場の停留所を覆う大きなガラスのリングが象徴するストラスブールの衝撃的な変貌は、世界中の都市のアーバンデザインに影響を与えた。フランスではその後、モンペリエ、リヨン、オルレアンでも路面電車が開通し、その有効性が証明されることになる。つまりデザイン性によって街が変わり、市民の意識が変わるということなのだ。

田舎は車がないと生活できない。刷り込まれたようにうちの親なんかもそう言うが、モータリゼーションによって車がないと生活できないように仕向けられたにすぎない。アメリカでは自動車会社が鉄道会社を買収して、鉄道を潰した。そうやってクルマしか使えない社会に改造していった。モータリゼーションとは車しか使えないように、社会やライフスタイルを変えていくことだ。日本の地方都市の郊外化にもこの力学が強く働いている。

ヨーロッパやアメリカでは自動車中心のライフスタイルが郊外化を促進し、中心街が廃れ、環境や治安を悪化させた。多くの地方都市は自動車を運転できる人のための街でしかない。自動車を持たない人には極めて住みにくい。つまりそれは市民としての最低の権利であるシビルミニマム civil minimum を満たしていないことになる。自動車の利用を前提とした地方都市の姿は、社会的に見て非効率で、サステナブルではない。環境や高齢化に対応できていないからだ。高齢化に対応するためにも、行政サービスを効率化するためにも地方都市は構造をコンパクトにする必要がある。

社会の構成員のすべてが自動車を使いたいわけではないし、使えるわけではない。多様な好みや立場に対する多様な選択肢が必要なのだ。また街を利用するのはそこに住む人々でだけではない。観光やビジネスで街を訪れる人々もいる。住人とって不便ということは外来の人々にとっても不便な街ということだ。外から来る人々のことを考えることは観光の振興にもなり、街の魅力を高めることにもつながる。

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ストラスブールでは「トラムか地下鉄か」を選択する市長選挙があり、市民が自らの意志としてトラムを選択したという決定的な出発点がある。そういう市民の一般意志が政治に反映され、市民は決定されたことに関しては協力する。日本にいるとそういう明快な政治の手続きが奇跡のように思えてしまうが、日本では路面電車が導入されるとしても、それはあくまで行政主導である。先見性のある首長や企業を持てるか否かにかかっている。一般的にシビルミニマムという概念にも馴染みはないだろう。

車を運転する近親者や街で耳にした声を聞くと、相変わらず路面電車を自動車の障害物と考えている人も多いようだ。早速、セントラムと自動車の接触事故も起こっていた。しかし、こうして富山市は貴重な公共の財産を得たわけで、路面電車に対する様々な考え方をローカルメディアや広報で提示していくしかないのだろう。自動車に乗りたいという欲望は終わらないだろうが、ちゃんとした理屈があれば人は動くのである。富山市が市民とのコンセンサスをどうやって取っているのか、市民に対する広報活動はどうなっているのか、そのうちFBNでも取材・調査をしてみたいところである。

動画でセントラム




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2010年03月20日

リフレって何?(2) リフレとデフレ

これで、リフレ政策の大枠はご理解いただけたかと思いますが、その一方で「???…」と謎で頭がいっぱいになられた方もいると思います。代表的なのが、「こんなことしてなんになるの?」でしょう。経済の実体はお金のやりとりでなく、モノやサービスのやりとりが本質だとさきほど述べたことがたしかなら、どれだけ名目成長率を上げても意味がありません。それを政策として意図的にやるのですから、ぱっと見には理解に苦しむところがあります。くわえて、リフレ政策というのはインフレ政策といいかえてもよく、インフレといえば第一次大戦後のドイツ経済や、日本のオイルショック後の狂乱物価の例などを挙げてもわかるように、あまり響きのいいことばではありません。実体の裏打ちもなく、物価だけ変動するなどそこに住む国民にとって迷惑なだけでしかありません。

ところが、現実を見渡せば、世界のかなりの多くの国がこの政策をとっています(たとえばお隣の韓国)。これはどういうことでしょうか? 結論からいうと、リフレ政策の目的は中央銀行が意図的にお金の価値をさげることといってもいいかと思います。さらに踏みこめば(ここが大事になるかと思いますが)、不況に見舞われている国々では、政府や中央銀行がなにもしなければ、国民はどんどん財布のヒモをかたくして、できるだけモノを買わないようになります。するとさらに経済全体が冷えこむ。そこで、中央銀行が意図的にお金の価値を落として(インフレを起こす)、国民を消費に向かわせる。これがリフレ政策の中心にある考えかたになるでしょう。

この記事を読むと、まるで中国だけでなく韓国もぐんぐん成長しているかにみえます。ところがこれは記事にははっきり明記されていませんが、間違いなく名目成長率であり、最後まで記事を読めばわかるようにしっかりインフレ率が数%アップしています(それどころか韓国経済の実体は…この動画をご覧ください)。

そしてこのリフレ政策にはもちろん好ましい側面と危なっかしい側面があります。そちらを整理しておきましょう。

勝間さんの主張を綿密に調べたわけではないのですが、ともかく彼女の主張は現在の日本をデフレ状態から脱却させたいという狙いがあると思います。

デフレというのはインフレの正反対で、すくなくとも結果的にお金の価値がどんどんあがっていく現象を指します。現在の日本がまさにそうなのですが、このところモノの値段がどんどんさがってきています。このこと自体は悪いことでないようにみえるのですが、このことがお金の価値を高めることにつながってしまいます。どういうことかというと、たとえばいま手元に100万円の資金があり、これをつかって100万円の車を買おうと考えているとします。ところが、この車が来年には80万円になると予想されています。このとき合理的な人であればどうするでしょうか。緊急の必要性に駆られているのでもなければ、来年買って、20万を手元に残すことにするでしょう。「デフレ=お金の価値があがる」というのはこういうことで、モノを買うことよりお金を手元に残したがる傾向になってしまうということです。これでますますモノが売れなくなり、デフレスパイラルとなってしまいます。

リフレの好ましい側面ですが、以上のようにいまの日本のような「お金の価値があがっている=国民がお金を手元に残したがる」状態にある国においては、中央銀行によって意図的に市場でのお金の量を増やし、適正レベルでその価値を下げることに成功すると、好ましいかたちで国民を消費に向かわせる要因になるということです(中央銀行が100万円刷ればそのまま100万円分物価が上昇するという単純な話でないのがむつかしいところなんですが、それはさておき)。そしてこのときはデフレのときと逆の効果、つまりお金はもっているだけでは損をするということになります。現在の車の価格が100万円、来年200万円になるとすれば、手持ちが100万円以下の場合でもなんとか工面して今年中に買っておこうと思うはずです。

このようにリフレ(インフレ)というのは「物価狂乱」ということばを連想するなど悪いイメージがつきまといますが、お金の価値がさがっていくという効果を通じて、消費を刺激するといった意味では、不況下においてはありうる対症療法のひとつにもなります。

ついで、危なっかしい側面をみていきます。中央銀行のこうした政策が思わぬ負の副産物を生みだしかねないという点を押さえておきましょう。リフレ政策を実施するにあたって、中央銀行はインフレターゲットを設定します。これは中央銀行が目標とする物価上昇率のことで、たいていは1~3%程度といわれます。

そしてまず第一の負の側面ですが、リフレ政策によりハイパーインフレが起こってしまうかもしれないことが挙げられます。たとえば想定外の円安、国債の暴落などの要因により、目標値として定めた以上の物価高騰をまねきかねないということです。

つぎに、バブルを引きおこしかねないという側面です。お金の流通量のアップ=お金の価値の低下→金余りの状態となります。もしもこのお金が望ましい消費や投資に向けられるのならいいのですが、そうではなく株や不動産の取得に向けられた場合、バブルを誘発してしまう可能性が高くなります。現にこちらの記事をみていただければわかるように、実質的な経済成長がないにもかかわらず、韓国では不動産価格が高騰するという状況になっています。

そのほか、そもそも人口が減少傾向にある日本において、「デフレ」はそれ単体で悪と決めつけられるわけでなく(むしろ人口がどんどんどんどん減っていくのに、GDPが下落しないのだとすれば驚異的です)、日本においてデフレ脱却の手段としてのリフレ政策は、その有効性云々を議論する以前にこうした点も考慮に入れる必要があるでしょう。




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2010年03月06日

リフレって何?(1) 名目成長率と実質成長率

先日、経済評論家の勝間和代さんが管直人副総理に「リフレ政策」なるものを提言しました。ところで、そもそもリフレってなんなのかよくわからないという人が多いと思います。そこでわかりやすく紹介してみたいと思います。

リフレ政策を理解するにあたって、まず押さえておきたいのは名目成長率と実質成長率の区別をしておくことです。いずれも国などの一年の成長率をお金で表したものであることに変わりありません。違いはといえば物価を考慮しているかどうかです。物価変動を考慮に入れないで、たんにお金の増減だけに注目するのが名目成長率。物価変動も考慮に入れて、再調整したのが実質成長率となります。具体的には、まず車しか生産していないある国を想定してみます。

A年度  車100台×100万円=1億円
B年度  車110台×110万円=1億2100万円

この国の名目成長率は21%(2100万円)となり、実質成長率は10%(1000万円)となります。実質成長率の計算方法ですが、

@1億2100万円(名目成長)から、10%(10万円)の物価上昇分を考慮に入れ差し引く。つまり

1億2100万円(名目成長)−(10万円(物価上昇率)×110台)=1億1000万円(実質成長)

つまり車一台あたり10万円だけ「見せかけ」が混じりこんでいますから、これを控除する方法です。こうやって実質成長率を10%ととらえることもできます。

A以下のとらえかただともっとシンプルに、前年度の物価水準をもとに計算することもできます。

100万円(A年度の物価水準)×110台(B年度の生産高)=1億1000万円(実質成長)

というとらえかたです(以前、地域通貨の記事で経済の実体は金のやりとりでなく、実際のモノやサービスのやりとりを指すと指摘しましたが、これとからみます。上記モデルの国は1年間であらたに10台の車を生産する力(厳密にいうと売れるかどうかという需要サイドの問題もありますが、ここではあえて無視しておきます)が生まれたということになります。この10台分のあらたな上乗せが実質成長率というわけです)。

以上をまとめると、たんなる金の増減にだけ焦点をしぼったのが名目成長率。実際のモノやサービスのやりとりをある一定の基準点(物価水準)のもとであらわすのが実質成長率といっていいかと思います。

そして、ここのところを押さえておくだけで、リフレ政策がどのようなものかの大筋がわかってくると思います。リフレ政策とは「中央銀行が物価上昇率に一定の目標を定めることであり」、さきの例でいうと

a年度  車100台×100万円=1億円
b年度  車100台×110万円(10%の物価上昇)=1億1000万円

a年度にこの国の中央銀行が1000万円あらたにお金を発行し、車しか産業がないこの国において車1台が100万円だったのを、b年度には110万円にアップさせるというのもリフレ政策となります。この国の実質成長率は0%です。モノやサービスのやりとりに増減がないからです。しかし、中央銀行が1000万円お金を追加したために見かけ上、つまり名目成長率が10%アップしたということになります。(…続く)




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2010年03月05日

オランダのワークシェアリング 働くことと幸福の関係

最近、就活中の学生と話す機会が多いが、やはり就職状況は厳しいようだ。よりによって何で就活がこんな不況時にあたってしまったのか、何で相変わらず採用が新卒に限定されるのか(つまりチャンスは1回切り)、不条理に感じているようだ。後者に関して言えば、それは終身雇用と年功序列の形骸のようなものだ。その根本がとっくに崩れているというのに。



上の動画はテレビで特集されていたオランダのワークシェアリングである。ワークシェアリングのベースには「同一労働同一賃金」があるが、ILOでは、それを最も重要な原則の一つとしてILO憲章の前文に挙げており、基本的人権のひとつとさえ考えている。

もちろん、オランダと日本では国の置かれた状況が違う。国の規模も違うし、日本は産業立国なのでワークシェアリングが技術力の低下を伴う恐れがあると指摘されたりする。そんなやり方で「責任」が取れるのかという声も上がりそうだ。それでも日本でもすでに3人に1人は非正規雇用になっている。また日本の労働生産性の低さは先進国で最低である。だから国際競争力に勝つためにさらなる流動化を、という議論になったりするが、一方では天下りや渡り、あるいは企業に居座る高齢のお偉いさんに象徴されるように、ほとんど働かずに高額な給料をもらっている人々もいるわけだ。

テレビ番組というものは予定調和に作られているので多少割り引く必要はあるだろうが、オランダではパートタイムの方が人は集中的に働き、それなりに効率が上がっていると言う。経営側にとっては最終的に払う人件費が変わらなければ、むしろ雇用問題への取り組みをアピールするためにワークシェアリングを選択するモチベーションは十分にあるだろう(もちろん年金と保険の負担の問題はある)。むしろワークシェアリングの抵抗勢力は正社員の既得権益を守ろうとする一部の労働組合かもしれない。

オランダのケースはヨーロッパ的な合理性の徹底と言えるだろう。それを政府と企業と国民が協力して実行できたことが驚きですらある。さらにそれが新しい幸福のあり方の発見につながっていることも忘れてはいけない。ヨーロッパにこういう国が存在することを知っておくだけでも無駄ではないだろう。




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