2009年07月18日

「チェンジリング」

changeling.jpg昨年カンヌ映画祭のコンペティション作品に選ばれたクリント・イーストウッド監督の「チェンジリング」を観ました。


1920年代のアメリカ。シングルマザーとして電話会社で働くクリスティン(アンジェリーナ・ジョリー)が、ある日仕事から帰ってくると息子のウォルターがおらず、母親の懸命の捜索にもかかわらず数ヶ月行方不明だった。ある日警察からウォルターが見つかったとの知らせが入り、喜び勇んでクリスティンが駅へ迎えに行くと、そこに現れたのは息子とは別人の少年だった。彼は息子ではないと彼女は再三訴えるが、警察は全く取り合わない・・


無理がありすぎ、と思えるこの物語が実話である、というのですから驚きです。無駄のない冷静な語り口で、当時の警察の権威主義や腐敗が徐々に暴かれていくさまはさすがイーストウッド!という感じで、「許されざる者」や「硫黄島からの手紙」でのように、「正義の味方=善」だとか「敵=悪」というような固定化されがちなイメージを打破しつつ、ものごとを客観的に見つめる姿勢は今回も変わりません。しかし、この映画は単なる社会派ものというわけではなく、子供の失踪事件がやがて別の大きな事件へと繋がっていき、思いもよらぬ結末へと至るサスペンス映画でもあり、一級の娯楽作品として成立しています。


暗めの色調のざらりとした画面に、20年代の風景が映し出され、そこへ細身のアンジェリーナがこれまたほっそりした素敵なデザインの20年代ファッションを着こなして登場すると惚れ惚れしますが、ここでの彼女は決して「美しいセレブ女優」として撮られているわけではありません。彼女の気の強そうな大きな目は目深にかぶった帽子の下に隠され、遠目ではすぐには誰かわからないくらいです。


逆に彼女のもうひとつの特徴である厚い唇は真っ赤なルージュで強調されていて実に表情豊かです。ウォルターにキスする唇、不安や驚きであっと開かれた唇、子供の手がかりを求めて終始受話器に寄せる唇、そして「私の息子ではない!」と低いながらも強い声で叫ぶ唇・・・言葉を発する発さないにかかわらず(クリスティンは決して「おしゃべり」ではありません)彼女の唇は常に何かを語っています。


changeling01.jpgそしてその「何か」とは、必ず自分の息子に関わることです。クリスティンは警察の過ちや虐げられている女性たちのために行動を起こしますが、もともとそれはただ息子を見つけたいがためで、いつ何時でもウォルターのことを忘れることはありません。支援する人々が(神父さんですら)あきらめの態度を見せても、彼女だけは息子の生存を信じています。そのような意志の強さと愛情の深さを備えた母親役は、日頃から子供たちに対する関心の高いアンジェリーナ・ジョリーにはまさに適役でした。


クリスティンを支援するブリーグレブ神父役のジョン・マルコヴィッチは、警察の不正を明るみにすることにやっきになる姿が神父に見えないし、これまでの役柄のイメージが強すぎてうさんくさく見えてしまいました。一方でその他の脇役は、主にテレビで活動する俳優が多かったようですが、なかなかよいキャスティングだったように思います。特に後半から登場するゴードン・ノースコットを演じたジェイソン・バトラー・ハーナーの天真爛漫な表情と澄んだ瞳(最初に登場する場面の爽やかなこと)は、物語の顛末を知った後では深く複雑な印象を残しました。


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チェンジリング [DVD]村上春樹は『壁と卵』があるとして、たとえ卵がどんなに間違っていても僕は脆く弱い卵の側につく。壁の側から書いた小説に意味があるだろうかーとエルサレム賞の受賞に際して語ったが、イーストウッドも常に、アーティスト、監督として、卵の側から作品を作っている人だ。
 

しかも今回の作品では卵にあたる母親は間違ってもいなかったのである。


ある日突然いなくなった9歳の息子。半年後警察が息子が見つかったと連れてきたのは見知らぬ少年だった。しかし誰も彼女の言葉を信じない。当のナゾの少年までが「マミー」と抱きついてくる。


あらゆる権力に、世間に間違っていると言われても彼女は叫び続ける。「わたしの息子を取り戻したいの」−と。


秀逸な作品を撮り続けるイーストウッドゆえに楽しみにしていた反面、不安でもあった。主役のシングルマザーにA・ジョリーという起用が、である。これまでイーストウッドはあまり色のついていない、というかどんな役でもこなせる本当にうまい役者しか使ってこなかった。それをアンジーである。下手だというのではないが、あまりにも知られすぎた女優。しかも今まで強い役を演じているのに不意に内側から崩れ落ちるような脆さがあったジョリーである。しかし今回はその逆をいって、こんなに華奢な人だったのだと思わせるか細い体に決して折れない芯の強さを全編を通じて感じさせる。


「責任」−父親がいない理由を彼女が息子に語るシーンがある。パパは責任が怖くて逃げたのよーと。この責任―が後々まで響いてくる。責任を果たさない人々が息子を求める彼女の前に立ちはだかる。ミスを認めない警察。その警察のいいなりの精神科医。息子を捨てる父親。しかし彼女は精神病院に閉じ込められても「母」であることの責任から逃げない。息子のために戦い続ける。そして彼女の息子もまたー戦っていたのである。


息子の失踪は連続少年猟奇殺人事件へとつながっていくが、静かで美しい30年代のLA郊外から、土ぼこりの舞うケンタッキーのうらぶれた農場へ、場面の切り替えも鮮やかで登場する人々全てがまたぴたりとはまった見事な演技だ。一見間が抜けた犯人の、常に笑っているしまりの悪い口元。ねばつく話し方。その鳥肌の立つような気味の悪さも本物なら、彼に利用される従弟の少年の大きな瞳の絶望と恐怖の深さ。こんなひどい警官ってあり?と思わせる憎たらしい刑事部長の造形もまた巧みだ。


この犯人や彼を追う刑事の存在が、ヒロインを支える側が正義で警官たちが悪―となりがちな単純な図式に陥らせない。


むかつく刑事部長に「女ってやつは」と感情的で非論理的、倫理的に弱いと評される女性たちの強さ。ことに精神病院で出会う、同じように警察とのトラブルで収監された女性とヒロインの交流は、男でたとえればダイハードのブルース・ウィリスと、あの黒人警官にも負けない。「女の友情もありますよ、さて感情的なのは一体どちらで?」と言いたくなる。


彼女たちに注がれる視線にイーストウッドの女性への深い敬意が感じられる。思えば最初にアカデミー賞をとった「許されざるものーUnforgiven」でも顔を傷つけられた売春婦の復讐から話が始まった。


1935年度のアカデミー賞のエピソードも挟んで、ちらりと和むシーンを配するらしさもあり、重い話ではあっても勇気ある母と子に希望が感じられる、じっくり見たい見事な一本。


CHANGELING -trailer

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5 傑作としかいいようがない
1 5分先の展開がずーっと見える映画
5 クリント・イースウッド監督の底知れぬ才能
4 母親視点と子ども視点
5 アンジェリーナの魅力



黒カナリア

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2009年07月02日

「人のセックスを笑うな」

もうかれこれ1年近く前になるが、久しく会っていなかった友人に偶然会い、久しぶりに話をする。
当たり前か。

「最近何か映画観た」と尋ねれば「人のセックスを笑うな」を強く勧められる。
「60年代のフランス映画、初期のヌーヴェル・ヴァーグの映画みたいだよ」とのこと。
その言葉が長らく頭の片隅に浮かんだままなっていたわけだが、先日ようやくDVDを借りて観てみる。

するとどうだ。
友人の言っていた通り、やっぱり60年代のフランス映画みたいだった。
初期のトリュフォーやゴダールの映画、それに登場人物がまだ饒舌ではなかった頃のエリック・ロメールの映画が想起される演出には、劇場映画2作目の監督の並々ならぬ才能が感じられる。

ゼロ年代の日本の郊外の風景が、そっけなく、しかし極めて正確に映し出される。
驚くような出来事は起こらない。
とはいえ、やはり驚くべき出来事が感じられてしまう。

「人のセックスを笑うな」はそんな映画だと思った。


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4 どうなっちゃうのか、この先が問題だ
5 ユリに激しく嫉妬する
4 あっさりした作品
3 笑った
3 嫌いじゃないです。





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2009年06月09日

「ダークナイト」

ダークナイト 特別版 [DVD]最近のハリウッド映画はある程度当たりが見込めるシリーズ物が多い。確かにスーパーヒーロー物の2や3が目に付く。しかし当たることを意識したヒーロー物とは明らかに違う仕上がりなのがこのダークナイトだ。
 
邦題もダークナイトだけ、何の映画だかわからない。「暗い夜」なのか「闇の騎士」なのかー。バットマンビギンズで派手な路線から原点に回帰したバットマンシリーズの最新作なのだが、バットマンと冠に抱かないタイトルからもわかるようにこれはバットマンの映画ではない。これはジョーカーの映画なのだ。
 
惜しくも薬物死したヒース・レッジャー演ずるジョーカーはまるでシェイクスピアの悲劇に登場する「純粋悪」だ。しかも悪を背負った自分に対する悲しみー幾度となく細部を変えて語られる顔の傷の訳―不気味なメイクを通しても強烈に伝わる色気と絶望を感じさせる目の演技。

作品自体もヒーロー物の枠を超えた複雑で重厚な悲劇に仕上がっている。シェイクスピアの悲劇、オセロの悪役イアーゴーがなぜオセロを陥れたいのか自分でもわからないように、ジョーカーが何を目的として悪行を重ねるのか、見る者は理解不能なままその悪逆非道に翻弄される。

金が目的で、悪の世界で名を上げたいー最初はありがちな目的かと思われた、顔に消えない笑顔を刻まれた男。しかしそんな判断はすぐ覆される。仲間内からも「狂犬」と呼ばれるジョーカーは策を弄して手にしたはずの山と詰まれた金に惜しげもなく火を放つ。

ただ自分の前に立ちはだかるバットマンが憎い。しかし殺したいのではなく彼の意思をくじきたい。一番大事なものを奪って苦しめたい。「お前は俺のおもちゃだ」―その一言が彼の存在理由のヒントかもしれない。イアーゴーが嫉妬に狂うオセロを見て楽しむように、バットマンが守りたいと願う人の心の善き部分を人質に、究極の選択を迫る。

対するバットマンは純粋善ではありえない。その心の葛藤を映画は二人の騎士を登場させて表す。バットマン(C・ベイル)=正体を明かさない闇の騎士。表看板=光の騎士 (A・エッカート)。人々とバットマンの希望を背負った光の騎士は、ジョーカーの仕掛けた残酷な罠にはまりひどい火傷のトゥー・フェイスとなり、悪と化す。落ちた光の騎士をバットマンはどうするか。

ビギンズで原点に帰ったバットマンはジョーカーという敵役を経て初めて闇にこそ生きる騎士となる。表と裏、闇と光、善と悪、全ては対照ではなく混在する。哲学をも感じさせる作品となった。前前作のように派手で楽しい作品を期待してきた観客は???となってしまうだろう。闇と光二人の騎士に愛されるヒロインがずいぶんと地味なのも、悲劇にはふさわしいのかもしれない。
 
故人の受賞として史上二人目となったアカデミー助演男優賞。それを言うのもむなしい、惜しい才能が失われた。


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おすすめ度の平均: 4.5
5 ヒース!オスカー受賞おめでとう
3 正義と悪の物語
5 これ以上のバットマンは無いです。
5 アメコミ・キャラは進化する。
4 狂気のエンターテイメント





黒カナリア

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2009年05月21日

「ベンジャミン・バトン 数奇な人生」

curious_case_of_bbutton_ver.jpg一昨年のカンヌ映画祭で「ゾディアック」が高く評価されたデヴィッド・フィンチャー監督の最新作「ベンジャミン・バトン 数奇な人生」を観に行きました。


もうすぐ永遠の眠りにつこうとしているデイジー(ケイト・ブランシェット)に頼まれて、娘キャロライン(ジュリア・オーモンド)が読み始めた古い回想録。第一次世界大戦終結のニュースが流れる1918年のニューオーリンズ、初めての子供が生まれたバトン氏(ジェイソン・フレミング)が家に飛んで帰ってみると、妻は力つきて息絶えてしまった。残された子供を一目見るなりバトン氏は抱きかかえ、老人ホームの玄関先に置き去りにする。子供を見つけたクイニー(タラジ・P・ヘンソン)は、その老人のような風貌に驚愕するが、引き取ってベンジャミンと名付け育てることにした。ベンジャミン(ブラッド・ピット)はホームの老人たちと生活をともにするが、成長するにつれて次第に若返っていくのだった・・


1918年から約80年間にわたり、人とは逆向きに人生を歩む男を描いた物語ですが、その時代時代の雰囲気がセットや小道具などで自然にわかるようになっていて、まず背景の表現がしっかりしているなあと感じました。またデイジーが死の床にある現在とベンジャミンの過去の人生という二つの時間を行き来するという、普段ならうるさく感じられる構成も、編集の技のためかすんなり受け入れることができました。ストーリー自体は一種のファンタジーで、ツッコミどころも多い(なぜベンジャミンの背丈と精神は普通に成長するのか、等々)けれども、それを忘れさせるような印象深いシーンの連続で、3時間近くあった上映時間も気にならずあっという間にエンディングを迎えていました。


bbutton3.jpgベンジャミンとデイジーの恋物語を軸に、彼を取り巻く人々との挿話がちりばめられ、彼の家が老人ホームだったということが象徴するように、特に「別れ」の場面に重きが置かれています。とりわけ彼と「親たち」ー実の父親であるバトン氏、育ての母親、そして人生の師ともいえるキャプテン・マイク(ジャレッド・ハリス)ーとのエピソードは胸打たれるものばかりです。


ベンジャミン自身は特異な体に生まれついたものの、何かを成し遂げたわけでもなく、英雄的存在でもありません。デイジーは好きだけれど売春宿にも行けば他の女性ともつきあうし、酒もやるし、バイクやヨットで遊ぶし、いわゆる普通の男として描かれています。80年間という長い時間の描き方もスピーディーというよりまったりという感じで、そういった要素が作品に奇妙なリアリティを与えていて、ファンタジーが苦手な私でも楽しめたのでしょう。


原作はスコット・フィッツジェラルドだそうですが、時代設定などかなり監督の手が加えられているように思います。前作「ゾディアック」のときのように、今回も奇をてらったような演出や仕掛けはほとんどなく、誠実に作られた作品になっていて、今年のアカデミー賞に多数ノミネートされているのもうなずけます。作品、脚本、編集あたりで受賞してもらいたいなあ。


bbutton6.jpg日本ではブラッド・ピットの主演が強調されているようで、アカデミー賞でも主演男優賞の候補になっていますが、彼の演技はそれほど・・という感じに見えました(もちろん悪くはなかったし、ビジュアル的には文句はないですが)。一方でケイト・ブランシェットの奔放なバレリーナ、ティルダ・スウィントンの陰のある人妻など、女優陣の存在感が大きかったです。とりわけ印象的だったのは、慈悲深く心から息子を愛する母親クイニーを演じたタラジ・P・ヘンソンで、アカデミー賞でも助演女優賞にノミネートされています。



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2009年04月07日

ザ・コーポレーション

ザ・コーポレーション [DVD]世界同時不況、金融危機、株安、雇用不安、格差社会と最近のニュースを見聞きしていると、やっぱり人類はいつまでたっても安定した幸せを手にすることはできないんだなぁとしみじみ実感してしまいますね。原始時代から比べればはるかに富も知識も有しているはずなのに——たとえば原始人に、いま現在の世界全体の食料備蓄量をみせつけたらぶったまげるんじゃないかな。邪馬台国の農民が、現代日本の一反当りの米の収穫量を知ったなら、農作業があほらしくなって鍬を投げだすかも——、現代社会はひとたび不況となれば大混乱にみまわれてしまいます。

とまぁ、不況は資本主義社会にとって必要悪ともいえるので(不況・好況は「個人・企業・政府」という3つの経済主体間の相互作用を通じて起こるもので、「悪名高き=慢性的プチ不況?を引きおこす」計画経済制度を採用するのでもなければ、景気循環を制御することはかなりむつかしい)、ある程度しかたないものかもしれませんが、ただ現代社会を見渡してみるとどうも釈然としない気分になりませんか? つまり、たとえば不況になった以上、現在のように企業がある程度の雇用削減などの対策をするのは当然だといえます。これをとやかくいうつもりはありません。けれどもそれを差し引いたところで最近企業の振る舞いについて、どうも納得できないニュースが目立つようになってきているように思われます。食品偽装、環境汚染、粉飾決算、社員の不当解雇等々。逐一、具体例は挙げませんが、ここ100年ほどの間に人類に爆発的な富をもたらしてきた企業は、それと同時に世界全体にとてつもない影響力をもつようになり、さらに同時にその不正行為が全世界的に悪影響を与える存在となっています。

では、企業とは現代人にとっていったいなんなのか? その問いに真っ向から取り組んでいるのが、きょう紹介する映画『The Corporation』です。

まずこの映画の特色といえるのは、企業=Corporationそのものにまっすぐ焦点をあわせていることです。従来のこの手のドキュメンタリー映画では、結局批判の矛先が企業の「経営者」に向けられがちですが、『The Corporation』では企業=Corporationを営利法人→法人→ヒトとみなし、このヒトとしての企業=Corporationがそもそもどういう性格をもっているのかについて、さまざまな立場のひとたちの意見を交えながら綿密に検証しています。

この映画ではThe Corporationにたいして精神分析を行い、以下のようにその人格を定義しています。

1)他人への思いやりがない
2)人間関係を維持できない
3)他人への配慮に無関心
4)利益のために嘘を続ける
5)罪の意識がない
6)社会規範や法に従えない

もしこれがほんものの人間だったら、ぜったい友達になりたくありませんね。たとえばThe Corporationと友人関係を結んだとしましょう。The Corporationとうまく利益を共有できている場合、関係は良好です。ところがうまくいかなくなると、すぐさまポイです。そしてここが注意すべき点かもしれませんが、経営者にとってもそれはおなじことです。つまり経営者とはThe Corporationの取り巻きみたいなものでしょうが、彼らとて経営に失敗して利益をだせなくなれば、The Corporationからポイされてしまいます。企業問題等においてとかく非難されがちな経営陣にしたところで(政府から経済支援をえるために、プライヴェートジェットで陳情におもむくあほみたいな企業経営者たちは救いようがありませんが)、つねにThe Corporationからポイされるのではないかと戦々恐々としているという意味で、かならずしもThe Corporationの同胞=親友というわけではないのですね。

あるいは、いま現在の不況のさなかにおいて、The Corporationの非情さが露骨にあらわれているといえるかもしれませんね。The Corporationというヒトは、ぼくら一介の労働者であろうが経営者であろうが政治家であろうが、利益を生みだせなくなった人類にたいして冷たい態度をとりはじめ、いまぼくら人間を悩ませているといってもいいんじゃないでしょうか。

まったく、人類はやっかいなヒトを抱えこんでしまいましたね…。


ザ・コーポレーション [DVD]
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おすすめ度の平均: 4.0
3 興味深い映画だった
3 解決策など見当たらない問題です
3 企業活動の光と影
3 知らず知らず広告に踊らされる私たち。
4 本を読んでもいいけれど、
内容は十分目を覚まさせるもの。




superlight

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2009年03月31日

「イントゥ・ザ・ワイルド」

into_the_wild4.jpg今年のカンヌ映画祭の審査委員長、ショーン・ペンが、実在した青年クリス・マッキャンドレスを主人公に監督した映画「イントゥ・ザ・ワイルド」を観ました。


大学を優秀な成績で卒業したクリス(エミール・ハーシュ)は、自分の預金のほとんどを慈善団体に寄付し、家族に黙って家を出る。乗っていた車が鉄砲水で駄目になると、ヒッチハイク旅に切り替え、行く先々で様々な人びとと出会う。彼らは皆クリスに好意を持ち自分たちと一緒にいるようにすすめるが、彼はアラスカへ行くと言って、ひとり旅を続ける。最終的に彼が行き着いたのは、荒野に乗り捨てられた「魔法の」バスだった・・


物質至上主義に嫌気がさし、文明的なものから遠ざかり自由に生きるために旅に出たというクリスの物語は70年代頃のことかと思っていたら、90年代初頭という比較的最近の話であって、実は彼と私は同世代であったことがわかりました。彼が思春期を過ごした80年代後半は、日本でバブル経済が全盛であったように、アメリカにおいても物質主義と快楽主義の時代であり、繊細な神経の持ち主であったクリスにはそれが耐えられなかったのかもしれません。しかしながら、どんなに彼がもがいても消費社会や文明から逃れることはできません。それは彼が旅費稼ぎのためにところどころでするアルバイトの風景ー巨大な機械で行う麦の刈り入れや、ハンバーガーのチェーン店での大量生産ーに端的に表れています。彼が最後にたどり着いた場所が洞穴などではなくバスだった、ということも象徴的です。


into-the-wild6jpg.jpg彼と同じ年代のときに、そして90年代にこの映画を観ていたら、クリスの立場で共感を覚えることができたかもしれません。けれども彼よりも相当年上になり、方々で経済破綻のニュースが聞こえる今では、時代に流されまいとするその生き方がうらやましく思える反面、彼が無鉄砲でひとりよがりな考えの持ち主にも見えてしまいます。私には彼よりも彼が旅先で出会う人びとー「家族はこのことを知っているのか」とたずね、つかの間であっても彼の家族たらんとする人びとーのほうに共感を覚えました。そしてそれを証明するかのように、彼がひとりで生きようとする場面よりも、さまざまな人びととの交流のエピソードのほうが心に残りました。


とはいえこれは個人的な一つの見方であって、観る人の年代や立場によって感想はさまざまでしょう。映画はクリスに対して賞賛も批判もせず、一定の距離を置いて客観的にとらえているので、色々解釈が可能な作品だといえます。学生の人たちがこの映画を観てどういう感想を持つのかぜひ聞いてみたいです。


Into_the_Wild5jpg.jpg俳優出身の監督だけあってか、キャスティングはすばらしかったです。クリス役のエミール・ハーシュは清潔感のあるこの若者を爽やかに演じていましたし、また女優陣がことさら魅力的で、母親役のマーシャ・ゲイ・ハーデンをはじめ、雰囲気のある女性たちが次々と登場する映画でした。しかし最も印象的だったのは、アカデミー助演男優賞候補にもなったロン・フランツ役のハル・ホルブルックです。クリスとロンの別れのシーンはこの映画のクライマックスでもあり、老人の流す涙にこちらも涙腺が大いに刺激されました。

「イントゥ・ザ・ワイルド」オフィシャルサイト
INTO THE WILD -trailer


イントゥ・ザ・ワイルド
Happinet(SB)(D) (2009-02-27)
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おすすめ度の平均: 4.5
1 耐え難いほど古臭い
5 普通の人はアラスカにさえ行かない
3 そこまでせんとそれがわからんか?
5 泣いた
5 無題





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2009年03月25日

「つぐない」

つぐないのっけから流れるタイプライターの音の使い方がとてもうまい。小説家を夢見る少女、ブライオニーの足取りに合わせてマーチのように響き、時にはマシンガンのようにも聞こえる。タイプライターってこんなに鋭い音がしたっけ?と思わせると同時にそれを操る小説家が持つ暴力的なまでの「力」の暗示になっている。

「香水」という映画があって本当に匂いがスクリーンから出るとかいうふれこみだったが、それよりもこちらの方がわたしにはキーラ・ナイトレイ演ずるセシリアの香水の香りとか、屋敷に満ちる夏の重くだるい空気とか、戦場のきな臭さや血のにおいが漂ってきたように思う。

監督ジョー・ライトは300ページ近いイアン・マキューアンの原作を「語らない」ことで成功させている。やたらとキャラクターが能弁だったりナレーションが入ったりするのではなく、俳優たちの演技力を信じて、ふとした肩の上げ下げや、開きかけて思いなおした唇などで心情を語らせることで美しい一本を生み出した。

キーラはうまいし、とても綺麗な女優だと思うのだけれど、いつもなんか口元が気になって仕方なかったのだが(なんか噛みつかれそうじゃないですか?)今回それがなかった。なぜだろうと思っていたら、あまりしゃべらないし笑わなかったからなのだ。それもまた台詞の少なさが生み出した思わぬ効果の一つかも。

贖罪 上巻 (1) (新潮文庫 マ 28-3)台詞は少なくとも抑えてもほとばしる情熱をキーラはその細身から漂わせ、相手役ロビーを演じた今旬のジェームス・マカヴォイ(ペネロピや現在ウォンテッドに主演中)もまた、白いシャツの下に、熱を持った確かな肉体を感じさせるのにどこか「はかない」という、矛盾する役どころにぴったりはまっていた。「はかない」という表現が合う男優は少ないでしょう。他にはトビー・マクガイアぐらいか(そう思うのはわたしだけかもしれませんが)。

この二人を見るだけでも価値があるくらい美しく仕上がっている。またイングランドの片田舎の夏の屋敷から突然の第二次大戦中のロンドン、フランスへの画面のがらりとした切り換え。ここでも長回しのシーンが戦争というものがどれほど無駄で愚かしい行為かを訴えてきて、反戦映画として見ても優れている。

Come back to meとセシリアがロビーにささやく一言がキイワードでもあるのだが、どれだけ多くの女たちがそれをささやき、母や妻や恋人の元に無事に帰れたものは本当に限られたラッキーなものだけだったのだろうと思うと胸が詰まる。

最後のシーンは賛否分かれるところだろうと思うが、わたしには「つぐない」というよりも小説家の「業」の傲慢さが鼻についてちょっと褪めてしまいました。


□「つぐない」ジョー・ライト監督、イギリス、2007年
ATONEMENT-trailer(from youtube)
□「贖罪」(原作)、イアン・マキューアン、新潮文庫



つぐない
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4 思ったよりも良かった。
4 思春期の少女の「男性への嫌悪感」
5 言葉の重みを感じる
3 悪い予感が……
5 衝撃と感動の大河ロマンス




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2009年03月23日

パンズ・ラビリンス

pan's01.jpgスペイン映画はそこに流れる空気が濃密だ。アルモドバルなどはカラッカラに乾いていながらねっとりという不可能をやってのける達人だし、スペイン・メキシコ合作のこのパンズ・ラビリンス、ギレルモ・デル・トロ監督の映像からは、しっとり甘く濃密な空気が流れ出してくる。映像を見ているだけで、深い森の湿った空気、鳥の鳴き声、虫達の羽音まで聞こえくる。

舞台は内戦後も抵抗運動の続く山岳地帯。独裁的で残酷な大佐の元に子連れで嫁いできた身重の貧しい女。

その連れ子のヒロインの少女とともに苔むした森をさまよっている間にダーク・ファンタジーが展開する。といっても決して子供向きのファンタジーではない。

片方には残酷な現実―森に潜む抵抗勢力と、それをいぶりだそうとする大佐率いる軍人の見せる残酷さー生々しい拷問、殺人、流れる血。弟にひそかに物資を流す女中メルセデス。彼女をじわじわと追い詰めてなぶる大佐の視線のいやらしさ。

母親は冷酷な夫に失望し日に日に弱っていく。その悲惨な現実を何とかパン(牧羊神)に言われた試練を乗り越えて立て直そうとする少女。普通ならばそこから逃れる手段が別世界と決まっているのだけれど、この映画の場合別世界(ラビリンス)の方も決して美しいだけの世界ではない。一歩間違えばまだ見ぬ兄弟もろともに母の命も自らの命も失う危険な迷宮。

残酷な現実界と、美しいけれど同じように危険で残酷な迷宮の世界。二つの世界が重なって、そこを行き来する少女が、生まれてくる弟に注ぐ愛と、館の女中メルセデスが抵抗運動に身を投じる弟を案じる気持ちもまただぶってくる。

母と生まれてくる弟のためにパンの難題に立ち向かう少女と、エプロンにひそませたかみそり一本で大佐と渡り合うメルセデスのりりしく美しいこと。

振り返ると、ああこれは美しい姉たちが可愛い弟たちに注ぐ無償の愛の物語だったのか、と思えてくる。

他には迷宮に住む子供を食らうモンスターの恐ろしくも見事な造形と、不気味でありながらユーモラスなパンも見所の一つ。

残酷さの中に父親の影から抜けられない弱さ、複雑さを見せた大佐の演技も見逃せない。

ファンタジー嫌いな人にも勧めて間違いのない一本。少女のけなげな成長と、思いがけない結末を見守ってください。


□公式サイト http://www.panslabyrinth.jp/
PAN'S LABYRINTH - trailer


パンズ・ラビリンス 通常版
アミューズソフトエンタテインメント (2008/03/26)
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おすすめ度の平均: 5.0
5 見た人と話したくなる映画
5 ファンタジーとは実現しなかった
悲しいパラレルワールド、素晴らしいです
5 傑作です。




黒カナリア

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2008年12月02日

「バッファロー'66」

バッファロー'662005年に注目された本のひとつに、ロバート・パットナムの「孤独なボウリング」がある。アメリカではひとりで孤独にボーリングをする人が増え、その姿はアメリカ社会が人間のつながりに乏しい社会であるかを象徴しているのだという。社会的な信頼や市民参加の衰退は、経済的停滞、不平等拡大、犯罪増加、健康不安、学力レベルの低下へと連動していく。パットナムはテレビなどの個人的な娯楽メディアが社会不信の要因のひとつと考える。個人の娯楽や個人の利便性の追求は、まず社会の最小単位である家族を破壊してしまうのだ。ボウリングはみんなで楽しむレジャーのはずだが(私も学生のときよくやった)、アメリカでは孤独でナルシスティックなゲームに成り下がってしまったようだ。

1999年にアメリカのコロラド州のコロンバイン高校で銃乱射事件が起こった。トレンチコート・マフィアと自称する同校の2人の生徒が銃を乱射。12名の生徒および1名の教師を射殺したあと、2人とも自殺した。その2人の少年は当日の朝6時から事件を起こす直前までボウリングに興じていたという。

この事件を題材にした映画にガス・ヴァン・サントの「エレファント」があり、マイケル・ムーアの「ボウリング・フォー・コロンバイン」がある。ムーアが事件とボウリングを結びつけたのは、「犯人たちがマリリン・マンソンに悪い影響を受けた」として保守系メディアから槍玉に挙がったにもかかわらず、犯行の直前までプレイしていたボウリングの影響が論じられないのはおかしいと考えたからだった。

アメリカは巨大な田舎といわれ、それを壮大なフィクションとギミックがコーティングしているわけだが、その日常の素顔は意外にさみしい。そんな日常を淡々と映し出す佳作がある。ヴィンセント・ギャロが監督・主演をしている「バッファロー '66」もそういう作品だ。

この映画の主人公のビリーもまたボウリング好きである。ボウリングの細部にこだわり、ひとりよがりなノリを見せる。アメリカ人の「孤独なボウリング」とはこういう感じなのかとリアルに納得される。ビリーは人を信用しない、他人を寄せ付けない、神経質な男だ。行きずりのコギャルキャラの少女、レイラが意外な包容力で、その男の頑なな心を溶かしていく。

ヴィンセント・ギャロはミュージシャンでもあるが、この映画の音楽の使い方も衝撃的。ボウリング場でレイラが KING CRIMSON の Moon Child でタップを踊り、YES の Heart of the Sunrise が下品なストリップ・バーで鳴り響く。映画にプログレを使うこと、そしてありえないシーンで使うこと。二重の裏切りに唖然とさせられた。

BAFFALLO '66 TAP TO MOONCHILD OF KING CRIMISON
HAERT OF THE SUNRISE / Yes

バッファロー'66
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5 愛をくれる人を大切にしよう
5 好きな人と二人で観てください
4 要所要所でキラキラ光る
5 V・ギャロよりも、敢えてC・リッチ
のファニーさを!
3 ラストが良かった



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2008年11月25日

懐かしの70年代の名優たち(7) ライアン・オニール

ある愛の詩 [DVD]ある愛の詩』(1970年)という映画を語る人はいまや皆無に近いのではないだろうか。一昔前まではテレビでもよく放送されていたが、最近は観ることはまずない。忘れられつつある映画の一本である。しかし、今にして思えばこれこそ究極の70年代映画と呼ばれてよい作品かもしれない。主人公はハーバードに通うエリート大学生。しかし、恋に落ちた相手が白血病のため余命幾ばくもないということを知ると、周りの反対もよそに献身的に彼女に尽くし、その愛を貫く…。

こうして書くと殆ど近年流行した韓国ドラマの設定であるが、この映画を世界中の人間が深い感動と共に観たというのだから、まこと70年代というのは良い時代であったと思う。アメリカという国はかつてこういう映画を作ることも出来たのだが…。さて、この映画で主役の青年を演じ、一躍世界に名を知らしめたのがライアン・オニールという俳優であった。そう、1970年代とはまたライアン・オニールの時代でもあった。

その後、オニールが愛娘テイタム・オニールと共に出演したピーター・ボグダノビッチ監督『ペーパー・ムーン』(1973年)も娘の天才的演技も話題となってこれまた大ヒットとなり、ライアン・オニールは飛ぶ鳥を落とす勢いとなる。娘のテイタムも様々な映画に出演し(懐かしの『がんばれ!ベアーズ』(1976年))、一時オニール父娘はアメリカ映画界の命運を握る存在とまでもてはやされた。そんなライアンが何かの間違いで出演してしまったのがキューブリックの『バリー・リンドン』(1975年)であった。

バリーリンドンキューブリックとライアン・オニール。片や映画界の鬼才。片や実力よりも人気が先走る若手俳優。これほど不釣合いな組み合わせも珍しい。しかし、天才キューブリックにとっては役者が誰であろうが問題はなかった。彼の世界に染まれるものならば、ジャック・ニコルソンであろうが、トム・クルーズであろうが役者は誰でもかまわないのである。そして作品は大方の予想を超えて傑作として仕上がるのである。

2007年の冬、パリのMax Linder Panorama(9区、ポワソニエール大通り24番地)その他の劇場においてニュープリントで再公開された『バリー・リンドン』はいまでも伝説的な映画として語りつがれる一本である。18世紀のヨーロッパが舞台。片田舎で生まれたバリーは軍隊生活や貴族の執事など様々な運命の変転を繰り返す。何の因果か美しい貴族の未亡人と結婚をし、人も羨む裕福な生活を手に入れるが、運命は過酷な最期を彼に突きつける…。サッカレーの小説を自在に作り直したキューブリックの映画は、その映像の美しさで常に賞賛され続けてきた。当時の技術では不可能であった蝋燭の灯りの中での撮影を、NASAの機材を借りて実現したという話は映画ファンならば誰もが知る有名な話である。

とある貴族の館の晩餐会でのトランプ遊びの場で主人公バリーがリンドン夫人と劇的な出会いを果たす場面は、その類い稀なる美しさゆえに映画史上に名を成す場面であり、マーチン・スコセッシを始めとする映画監督をも驚嘆させてきた。確かにこの場面を見るだけでもこの映画を観る価値はあるかもしれない。また、リンドン夫人を演じるマリサ・ベレンソンの美しさには誰もが息を呑むのではないだろうか。彼女はこの作品を超える作品にその後出演していないのだが、それでも十分なのではないかと思わせるほど、この映画は彼女にとって究極の一本となっている(それでも1990年のイーストウッド監督作品『ホワイトハンター・ブラックハート』で彼女を見ることが出来たときは感動したものだ。さすがクリントである)。

『バリー・リンドン』は『博士の異常な愛情』(1964年)や『2001年宇宙の旅』(1968年)、『アイズ・ワイド・シャット』(1999年)などと比べれば、キューブリックの映画としては地味な方かも知れない。しかし、歴史公証の正確さと細部へのこだわり、前編にちりばめられたユーモアと皮肉、あらゆるショットの完璧さ、美へのこだわり、そして一人の人間の生き様を飽くまで突き放したように描こうとする点からして、やはりキューブリックの映画にしかない独自性があるといわざるを得ない。ライアン・オニールはこの奇跡的な物語の主人公を見事に演じきっている。彼はこの映画に出たことにより、映画史に名を残すことになったと言ってもいいだろう(かつてフランスの歌手ジョニー・アリディがゴダールの『探偵』(1985年)に出たときにつぶやいたと言う。「これで俺の名前も永遠になった…」)。

あの頃の栄光に比べて、最近のライアン・オニールの凋落振りはどうしたことだろう。昨年、オニールが自宅で息子に発砲したというニュースが流されて、悲しい気分になった。最近はテレビで活躍しているそうだが、どうかもう一度、スクリーンの中であの姿を取り戻してもらいたい。




不知火検校

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2008年11月18日

「イースタン・プロミス」

eastern_promises.jpgカナダ出身で、フランスでも人気のあるデヴィッド・クローネンバーグ監督の新作「イースタン・プロミス」を観に行きました。フランスの映画誌「カイエ・デュ・シネマ」の読者が選んだ2007年度映画トップ10で第4位になった作品(*)です。


舞台はロンドン。赤ん坊を産んで死んだ身元不明のロシア人少女タチアナの家族を捜す助産師のアンナ(ナオミ・ワッツ)は少女の残したロシア語の日記に挟まっていたロシア料理店のカードを見つけ、その支配人セミオン(アーミン・ミューラー=スタール)に会う。セミオンは家族を捜してやるから日記を渡すようアンナに言うが、実は彼はロシアン・マフィアのボスで、タチアナの日記にはセミオンとその息子キリル(ヴァンサン・カッセル)が彼女に対して行った非道な行為の数々が書き連ねてあったのだった。セミオンの正体を知りつつも、果敢に彼と渡り合おうとするアンナは、交渉の際にキリルの運転手である謎めいた男ニコライ(ヴィゴ・モーテンセン)と関わるようになる・・


eastern1.jpg暗い色調で覆われたロンドンを背景に、この街のダークな部分に焦点をあてた作品で、抑えた演出のもと、派手な抗争が描かれるわけでもなく、静かに物語は進展していきます。アンナと家族との会話から、彼女がなぜ赤ん坊に関心を寄せるのか自然にわかるようになっているなど、いつもながらクローネンバーグ監督の余計な説明を省いた、無駄のない話の進め方には感心させられます。


この監督の特色としてグロテスクな暴力描写があります。今回も冒頭のマフィア・ファミリーの暗殺シーンをはじめ、目を背けたくなるような過激な場面がところどころ出てきますし、生まれたての赤ん坊を長く映しだすなど、人間の体のなまなましさが随所に強調されています。ところでマフィアがらみの暴力シーンが多いとはいえ、拳銃が登場することはなく、使われるのはナイフのみ。しかしながら、この最も単純な凶器は、人間の体が「肉」であってそれが切り裂かれるときの痛みを文字通り痛烈に感じさせる最も効果的な道具となっています。


暗い内容で悲惨な場面も多い一方で、この映画はそれほど重苦しさに支配されてはおらず、どこかふっと気が抜けるような部分も持っています。それは前作「ヒストリー・オブ・バイオレンス」と同じように、物語が常に一定の距離を置いて冷めた目線で見られているからです。そのためか、笑う余地がないはずなのにどこかおかしさが感じられるシーンがいくつかあり、その代表といえるのがクライマックスのサウナでの格闘場面で、タトゥーだらけの全裸のヴィゴ・モーテンセンが奮闘している姿を見ていると何がどうというわけでもないのに笑いがこみ上げてくるのでした。そのような不思議な雰囲気が全体的に漂う作品でした。


eastern3.jpg「ヒストリー・オブ・バイオレンス」でも主人公を好演していたヴィゴ・モーテンセンが、今回もニコライという謎めいた人物を非常にシブく演じていました。彼はクローネンバーグと相性がよいようで、個人的には「ロード・オブ・ザ・リング」のアラゴルン役よりもクローネンバーグ作品の配役のほうが断然魅力的に感じました。また「ドーベルマン」「オーシャンズ12」などでおなじみのフランス人俳優ヴァンサン・カッセルが、どうしようもないマフィアのドラ息子役で出演しています。酒浸りで、売春婦をモノ扱い、手下のニコライに無理難題を言いつける、ホモと言われて激怒するが多分にその要素を感じさせる、という役どころを実にいやらしく演じていて、こちらも印象的でした。



*ちなみに第1位はジャ・ジャンクーの「長江哀歌」、第2位はガス・ヴァン・サントの「パラノイド・パーク」(批評家による投票では第1位)、第3位はデヴィッド・リンチの「インランド・エンパイア」でした。


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2008年09月18日

懐かしの70年代の名優たち(6) クリント・イーストウッド

2007年12月22日夜7時過ぎ。筆者は寒風吹きすさぶパリで、ある映画館の入場券売り場の前に並んでいた。場所は Rue des Ecoles にある映画館 Action Ecoles。ここでは12月中旬からクリント・イーストウッドの監督作品の特集上映が行われていた。1970年代の初期作品から最新作に至るまで、ほぼ全ての彼の作品が上演される画期的な企画である。東京の京橋にあるフィルム・センターでもこれほどの特集上映はまだやっていないのではないだろうか。「パリで観る映画がイーストウッドとは…」と思われるかもしれない。だが、果たしてこれは特殊なことなのだろうか。

恐怖のメロディここで、一般のフランス人に最も愛されている映画作家は誰だろうか、と問うてみる。私見によれば、フランスのテレビで最も頻繁にその作品が放映される映画監督は恐らく以下の三人だ。フランソワ・トリュフォー、ロマン・ポランスキー、クリント・イーストウッド。私がパリに滞在していた頃、彼らの映画は月に一本は確実に放映されていた(それも芸術系のチャンネルでなく、国営放送で)。既にフランス映画の父と看做されているトリュフォーは当然としても、残りの二人については意外に思う方もおられるかもしれない。

しかし、ポランスキーはもう長くパリに住み続けている映画作家であり(彼は暴行事件の容疑者とされて以来、アメリカへの入国は出来ない)、フランス人にはお馴染みの存在となっている。10年ほど前にはパリの劇場でカフカの『変身』の一人舞台をやるなど、俳優としての活動にも余念がない(思えばトリュフォー、ポランスキー、イーストウッドは三人とも監督権俳優である)。一方、イーストウッドもフランスで発見された映画作家と呼んでも過言ではないほど、フランス人には高く評価されている。1992年、『許されざる者』で米国アカデミー賞において監督賞を受賞したイーストウッドが壇上に上がるなり「フランスの批評家に感謝している」と述べたことを覚えている人もいるはずである。

いまでこそイーストウッドの映画作家としての力量を疑うものは皆無だ。『許されざる者』と『ミリオンダラー・ベイビー』(2004年)で二度アカデミー監督賞を受賞するという快挙を成し遂げたのみならず、『パーフェクト・ワールド』(1993年)、『マディソン郡の橋』(1995年)、『ミスティック・リバー』(2003年)や硫黄島二部作(2006年)など、常に世界の映画ファンを瞠目させる作品を撮り続ける監督として、いまやその映画作家としての地位は不動のもののように思われる。だが、1971年に彼がその監督第一作『恐怖のメロディ』を世に問うたとき、それを真面目に取り上げる者はどこにもいなかった。

特にアメリカでの評価の低さは決定的なものだった。ポーリン・ケールをはじめとする大新聞の有力批評家はイーストウッドの作品に罵詈雑言を浴びせ続け、それは『許されざる者』を発表するまで20年以上の長きに亘って続いた。アメリカは確実に一人の優れた映画作家の誕生を認めることが出来なかったのだ。イーストウッドを俳優として使った映画監督のセルジオ・レオーネでさえ、あるインタヴューで「(デ・ニーロと比べれば)イーストウッドは単なるスターに過ぎない」と述べ、その映画監督としての力量を認めないどころか、俳優としての資質すら軽視する発言をしていたのだ。

ところが、フランスの映画批評家は全く違っていた。『カイエ・デュ・シネマ』誌を中心とする批評家たちは早くからイーストウッドの作家性を見抜き、この「映画作家」の全作品を分析することに余念がなかった。それはイーストウッドが『許されざる者』を撮る遥か以前からである。さすがにトリュフォー、ゴダールを生み出した映画批評誌であり、その先見の明には驚かされざるを得ない(もっとも、蓮実重彦によると世界で最初にイーストウッドを発見したのは日本だとのことである。確かに蓮実と山根貞夫は70年代初頭からイーストウッドの監督作品に対して熱烈な批評を書いており、作家の金井美恵子を呆れさせていた・・・)。また、中条省平の分析によれば、あのゴダールまでもがイーストウッドを存命の映画作家の中で最もライヴァル視しているというのだ(『クリント・イーストウッド―アメリカ映画史を再生する男』、ちくま文庫、2007年)。このようにフランスにおいては、イーストウッドは商業的成功を収めるのみならず、芸術的な面でも常に高い評価を得てきたことが分かるであろう。

さて、筆者がその日に観た映画は『ペイルライダー』(1985年)という作品だった。既に繰り返し観ている作品であるにもかかわらず、今回観直してみて、イーストウッドの才能には改めて唸らされた。彼の映画の中でも5本の指に入る傑作ではないだろうか。この作品は彼自身の旧作『荒野のストレンジャー』(1972年)のリメイクと呼んでもいい作品だが、映画自体の雰囲気は全く別物になっている。性根の汚い荒くれ者たちによって支配された西部の小さな町。保安官すら悪の手に染まっている。そこに、どこからともなく男がやってくる。彼は名前を持たず、しかも牧師の姿をしている。だが、ある家族が極限の状況に陥っていることを知ると、男はガンマンとしての本性をついに表す・・・。とこう書くと、「どこにでもある西部劇ではないか」、と思われるかもしれない。しかし、聖書の祈りと共に男を乗せた馬がゆっくりと現れる場面。男の過去を物語る、背中に刻まれた6発の弾痕。極悪の保安官がつぶやく「あいつは死んだはずだ」という不可解な言葉。山の向こうから響いてくる「過去の声」など、この映画には神秘的な要素が数多く含まれている。とても西部劇とは思えないほど、この作品は形而上学的な高みを目指しているかのように感じられる。

イーストウッドの作風はこの『ペイルライダー』の頃から確実に変わったような気がする。それはもはや単なるアクション映画などでは有り得ない領域に達したかのようだ。その映画は常に「死」と「生」の狭間を、「悪」と「正義」の狭間を凝視している。そして、このテーマが究極的な場所にまで辿り着いたのが『ミリオンダラー・ベイビー』と『硫黄島からの手紙』なのだと言えよう。前者では尊厳死、後者では戦争での際限のない暴力をこれ以上ないほどの峻厳さで描き出している。決して一作でそのテーマを解決させることはなく、飽きることなく繰り返しながら、イーストウッドはその問題に挑み続けているのではないだろうか。「本質的な思想家は唯一つの問題にだけ立ち向かう」とはハイデガーの言葉だが、まさにイーストウッドの新作映画は常に一つの「思想」として観客の前に到来してくる。このような映画が商業映画として大劇場で上映されているという事態は、100年を超える映画史の上でも奇跡的なことではないだろうか。




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2008年09月16日

「パラノイドパーク」

paranoid_park.jpg昨年のカンヌ映画祭に出品され、特別賞を受賞したガス・ヴァン・サント監督作品、「パラノイドパーク」がDVDになりました。


スケボー好きの少年アレックス(ゲイブ・ネヴァンス)は、友人に連れられて行った通称「パラノイドパーク」と呼ばれるスケボー公園に惹かれ、危険な雰囲気が漂う場所であるにもかかわらず、夜に一人で出かけて行く・・


映画の冒頭は、断片的な映像が並べられたり繰り返されたりで、かなり混乱する編集になっています。しかし、それは作文の苦手なアレックスが、その日の出来事に至るまでを何とか語ろうとする姿と重なり、何度も何度も文章を書いては捨てている状態を思わせます。つまり、アレックスがまとまりのない記憶からひとつの物語を文章化するのと同時に、映画はそれを映像化しているのです。なぜアレックスが文章を書くことにそれほどこだわるのか、彼が体験した事件は何だったのかは最後に明らかになり、物語を完成した彼の虚脱したような姿が映し出されて映画は終幕を迎えます。今回はアレックスの内面に焦点をあてた描写がされており、その点では、2003年にやはりカンヌでパルム・ドールと監督賞を同時受賞した「エレファント」の客観的な描写とは大きく異なっていました。


Paranoidpark1.jpg「エレファント」と異なるもうひとつの大きな要素は、音楽を多用しているということです。今作では多くのシーンに音楽が流れて、新鮮な効果を与えています。特に多く使われているのはフェリーニ作品に使われたニーノ・ロータの音楽。「ほかの選択肢も考えたが、結局この音を使うしかなかった」と監督も語るように、アレックスの姿と重ねられるととても印象的でした。


撮影はウォン・カーウァイ作品でおなじみのクリストファー・ドイル(アレックスのおじさん役で画面にも登場しています)。「花様年華」や「2046」のような官能的な鮮やかさはなく、かなり抑えた色調の映像(カーウァイ作品でいえば、「ブエノスアイレス」に近い)ですが、人物のアップの場面などでは、はっとするような透明感にあふれています。そしてスケボーをする若者たちの映像の何と美しいことか。きめの粗い映像、スローモーション、足だけを映したショットなど、さまざまなやり方で何度もスケボーのシーンが流れますが見飽きることはありません。


paranoidpark5.jpg「エレファント」同様、今回も素人の若者たちが多く起用されました。アレックス役のゲイブ・ネヴァンスもその一人で、彼はほとんど表情を変えることなく演技をしているのですが、ひとたび映画を観終わると、終始無関心を装う彼の本当の気持ちがその大きな目から物語られているように思えてきます。ガス・ヴァン・サントの選ぶ少年少女たちは、すごく整った顔立ちをしているわけではないのに、みんな独特の雰囲気を持っていて印象深く、学校の廊下の向こうからこちらへ彼らがぞろぞろ歩いてくるだけのショットでも、一枚の美しい絵となります。彼らが交わす会話も、たわいのないものだけれど非常にリアルで、スケボー少年たちが一室に集められたときの場面などがそのよい例でしょう。


監督の最新作は暗殺されたゲイの政治家ハーヴェイ・ミルクを扱った Milk で、主演は今回のカンヌの審査委員長ショーン・ペンです。これまでの作品とはまた違った感じの映画が期待できそうで、公開を楽しみにしています。


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2008年09月04日

吉田喜重 全作品

エロス+虐殺すでに最終週となってしまったが,3月26日よりポンピドゥー・センターで吉田喜重のレトロスペクティブが行われている.
エロス+虐殺」,「煉獄エロイカ」,「戒厳令」.魅力的なタイトルが並ぶ.

長い間ずっと興味を持っているものの,吉田喜重の作品で観たことがあるのは65年の「水で書かれた物語」と2003年の「鏡の女たち」のみ.

この2つの作品.
40年近い時差があるが,共に作品の冒頭,画面は人気のない通りを日傘を傾けて歩く岡田茉莉子を執拗に映し出していたように思う.

煉獄エロイカ例えば,夏の日に喫茶店で無為に時を過ごす.
目の前に置かれたアイスコーヒーの透明な氷が音を立てて崩れる.
ふと外に目をやると,日傘を傾けた女の人が通り過ぎる.
そうした瞬間,いつも吉田喜重の映画のことを思い出してしまうから不思議だ.

吉田喜重は,あるインタヴューで小津安二郎の「父ありき」について,ストーリーは忘れてしまったが,父と子が渓流で流し釣をしているショットのみ記憶に残っていると語っているが,吉田喜重の作品も,時に物語性を排除してしまうほどの,強い断片の美学によって支えられているのではないだろうか.




キャベツ頭の男(2008年5月13日)

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2008年07月30日

「1999年の夏休み」-映画の中の夏休み(3)

1999年の夏休み「1999年の夏休み」は二度と来ない。かけがえのない夏休みだ。2008年の夏休みも1度きりだが、「1999年の夏休み」の緊急性にはかなわない。

2000年を超えてから、時間の流れが確実に変わった。世紀末に向かって進んでいた時間は一挙に緊張感を失い、今は茫洋とした広がりがあるだけだ。次の世紀末には確実に生きていない。

昔から夏休みという言葉の響きが好きだった。自分が夏生まれというのもあったからかもしれない。小学生のころから、夏休みに対して方向感のない、しかし張り裂けそうなほどの期待を抱いていた。何か特別な予定があったわけでもない。あまりの期待に自分の方が押しつぶされそうだった。小学生のころは、遊んでも遊んでも遊び足りなかった。思春期のころになると、いつも夏休みから取り残されているという虚しい思いだけがあった。

そういう期待や、それがもたらす絶望の正体が何だったのか、改めて思い出させてくれる映画である。

金子修介の「1999年の夏休み」は萩尾望都の「トーマの心臓」をベースにした、いわゆるギムナジウムもの。1988年の作品で、1999年は近未来として描かれている。例えば、主人公たちが使うコンピュータのメカニカルな感じが面白い。

この映画にインスパイアされた Momus というイギリスのアーティストが Summer holiday nineteen ninety nine♪と歌っていた。フリッパーズ・ギターの2人がプロデュースした渋谷系の記念碑的作品「FAB GEAR」に収録。

いわゆる美少年モノはひとつの様式美として確立されているが、この世界は個人的にいまいち詳しくないので、木魚さんにそこらへんを解説していただく。



「1999年の夏休み」か。
そういや平成ガメラの金子修介監督やったなー。

世にタルホ系と呼ばれるジャンルがある(と思う)。作家稲垣足穂のタルホにちなむんけど、バッサリ言わしてもらえれば、女性が中心として登場しない男だけの世界、といってもバラ族風ではない。まだ性の開花以前の少年と少年の淡いなんたらかんたらを主に描くちゅうんかな、そんな作品系統をタルホ系というのやろか、どなんやろか。

そうやとすると『トレインスポッティング』のヤカラ連の青春グラフィティはここにおさめるわけにはいかん。かといって『スタンド・バイ・ミー』とも微妙にズレてて、なんやろ、生活臭のない、もっとスタイリッシュな関係が綴られるんかな、まあ、お坊っちゃん達らの耽美でときに残酷でレモネードのように清涼感漂うお話なんやろな。大きい人にはようわからん少年紳士だけの理屈でなんかに拘泥したりしてるし。

植物よりも鉱物や星、土よりもガラスやメタルといった無機質なものを有機的に贔屓にして生活のどろどろを追い出してるぶん、よけごと想いが純になるのがこの系統に多く、『1999年の夏休み』も夏休みやいうのに、純な想いのわりに暑さ/熱さ/厚さ/圧さがなかったような気がする。気がするのはこれ書くためにビデオを見直してないからで、怠慢の誹りは免れないっすが、もっかビデオ見れない環境なんですみません。ですまされるかっ!て言わんといて下さい。

4人の少年に扮するのは4人の少女。やたらべっぴんさんでないとこが萌えを封じる。小説やマンガと違って正味の人間が演じる映画でほんまの男の子が役者をつとめれば、あらあら小僧さん小僧さんとなってうまくいかんかったやろね。バラ(のキャラ)とユリ(の俳優)をかけ合わせて性の未分化を演出したのは金子監督の慧眼か。深津絵里がいっちゃん小僧さんやったな。

1999年の夏休み
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4 少年 深津絵里
5 永遠の過去
5 プラス★★★★★でしょう


cyberbloom & 木魚

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2008年06月09日

懐かしの70年代の名優たち(5) 『天国の門』

天国の門『天国の門』(1980年)という映画が語られなくなって久しい。というか、この映画はまともに語られることの非常に少ない映画であり、もっといえば公開される前から語られることを禁じられた映画であった。

監督はマイケル・チミノ。前作、『ディア・ハンター』の世界的成功で一躍スターダムに伸し上がったこのイタリア移民の監督が、満を持して取り掛かった映画であった。しかし、人気があるというのは恐ろしい。監督が望む限りの制作費がつぎ込まれ、湯水のごとくお金が使われるのだが映画はいつになっても完成しない。1970年代の映画史はこういう場面を何度も経験している。『トラ・トラ・トラ』(1970年)では製作者との軋轢のため、日本側監督である黒澤明の解任にまで至った。『地獄の黙示録』(1979年)のコッポラもまた、物語同様、ジャングルからいつになったら帰れるのかと思われるほどの迷走を続けた。『天国の門』はそうした例の極まった例といえよう。

結果、この映画は完成したときには既に失敗作の烙印を押され、あたかも見ることが許されぬような扱いを受けることになってしまう。この映画が記憶されるのは、その興行成績の悲惨さにおいてである。制作費の十分の一の興行収入しか収めることができなかった史上最低の映画として長く語り伝えられることになってしまうのである。監督のチミノはそれ以後ハリウッドから干されることになり、『イヤー・オブ・ザ・ドラゴン』(1985年)で復活するまでに数年を待たなければならなかった。

ディア・ハンターだが、と私は断言したい。この映画は紛れもない傑作であり、『ディア・ハンター』をも凌ぐ、マイケル・チミノの代表作である。これほどの傑作が無視されてしまったのが今となっては信じられないと思えるほど、この作品には映画の面白さが詰め込まれている。主役はクリス・クリストファーソン。その友人にジェフ・ブリッジス。主人公と絡むフランス人娼婦にイザベル・ユペール。圧巻は放浪のガンマン役のクリストファー・ウォーケン。また、イギリスからはジョゼフ・コットンが特別出演しているのが素晴らしい。この作品が忌み嫌われたのは19世紀末のワイオミング州で実際に起きた東欧系移民の虐殺事件という、アメリカ史の恥部を扱ったからであり、映画自体の出来とは何の関係もないということが、このキャスティングを見ただけでも分かるであろう。

中でもイザベル・ユペールは素晴らしい。この頃のユペールはまだゴダールの『勝手に逃げろ/人生』(1980年)にも『パッション』(1983年)にも出演していない、いわば駆け出しの女優で、フランスではむしろお嬢さん女優として知られていた程度であった。しかし、この映画でのユペールはそうしたイメージをかなぐり捨てる演技を見せている。食卓で突然全裸になり、主人公に抱きついてくる場面。水面に反映する光が眩ゆく煌く小川の中で水浴びをする場面。ユペールはどの場面でも最高に輝いており、この映画は恐らくユペールが最も美しく撮られた映画といっても過言ではない。そして、この映画を通して、ユペールがいま我々の知る演技派女優へと変貌していく瞬間に立ち会えるだろう。彼女を見るだけでも、この映画を見る価値は十分にある。

そして、クリストファー・ウォーケン。いつもながらの影のある役柄であり、いつになっても正体のつかめない男を演じている。だが、いざその時となると全身に弾丸を浴びながらもまだふらふらと立ち上がり、決して戦うことを止めない男。こういう人物がウォーケンによって演じられるとその圧倒的な風貌と眼力ゆえにあらゆる悲劇性までをも吹き飛ばしてしまうように感じられる。この演技はこの役者の魅力が存分に味わえるという点で、『ディア・ハンター』でのそれと並んで、ウォーケンの中では出色の出来ではないかと思われる。

他方、主演のクリス・クリストファーソンは自ら望むわけではないのに、戦いの中に否応なしに巻き込まれていく男を味わい深く演じている。これほど静かな主役が70年代にいたろうか。クリストファーソンの役柄は例えばイーストウッドが演じる主人公像の対極にある。全身から怒りを爆発させ、着実に復讐を成し遂げていくのがイーストウッドの典型的タイプとすれば、クリストファーソン演じる男は「何か分からぬまま」争いの中に入っていき、「何か分からぬまま」戦いを続けざるを得ない主人公である。これは全く新しいタイプの主人公像ではないだろうか。そしてこれは1970年代の映画に慣れた観客には受け入れがたいものであった。

その意味で、この主人公は70年代と80年代を繋ぐ分岐点にいると言える。80年代になるとブルース・ウイリスにせよ、ハリソン・フォードにせよ、そこに登場する主人公たちは何と単純化された、内面のない、明るい男たちになってしまうのだろうか。彼らは自分の置かれた「訳の分からぬ」状況を解釈することはなく、ただ笑い飛ばしてしまう。90年代のトム・ハンクスに至って、その平板化した登場人物像は極限にまで達するように思われる。この「中身のない」人間の姿はそのままアメリカの姿を現しているように思われる。映画はそれ自体が望む以上に時代を映しているのかもしれない。

『ディア・ハンター』に引き続き撮影を担当するヴィルモス・ジグモントはスピルバーグの『未知の遭遇』(1977)の撮影監督として知られているが、この映画のほうがはるかに良い仕事をしている。いつ果てるともなく続く民衆たちのダンス・パーティー。これをぐるぐると回転するカメラで捉えた場面は、『暗殺の森』におけるタンゴの場面を捉えたヴィットリオ・ストラーロのカメラをも越えて、憂いを帯びた相貌を見せる。加えて、全体に茶色のフィルターをかけた濃淡色の映像によって、歴史の中に浮かび上がる悲劇を見事なまでの詩的感性で引き出すことに成功している。これほど美しく撮られた映画はヴィスコンティという稀有な例外を除けば70年代には存在しなかったのではないか。その意味でもこれは70年代に属することの出来ぬ映画なのだ。

巨額の制作費を投じて、歴史の一幕を壮大なスケールで描くという1970年代の映画手法はこの作品で終わり迎えたと言っていい。いや、実際には制作費はその後はるかに昂騰しているのだが、膨大なエキストラ、膨大な撮影日数、そして撮影自体が様々なドラマと危険を孕むという映画はもうなくなってしまったのではないだろうか。80年代以降は役者のギャラと特撮・CG技術に制作費が割かれることになるだろう。

まさに70年代映画とは、『天国の門』という一本の映画によって、その「幸福な時代」の扉を閉ざしてしまったのだった。


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2008年06月06日

懐かしの70年代の名優たち(3) ハーヴェイ・カイテル

1990年代以降、最も活躍している映画俳優は誰か、と聞かれたら皆さんはどう答えるだろうか。大方はブラッド・ピット、レオナルド・デカプリオ、トム・クルーズ、ジョニー・デップ、 ジョージ・クルーニーなどの名前を挙げるのではないだろうか。どれもそれなりに説得力のある答えだし、恐らくそれは正しいのだと思う。しかし、ここで仮に「ハーヴェイ・カイテル」と答えてみればどうだろうか。

タクシードライバー コレクターズ・エディション [DVD]確かにここ15年ほどのハーヴェイ・カイテルは大車輪の活躍をしている。タランティーノの『パルプフィクション』(1994年)ではこともなげに難題を解決する「掃除屋」を嬉々として演じていたかと思えば、その一方、テオ・アンゲロプーロスの『ユリシーズの瞳』(1995年)では失われた映画のフィルムを探しながら歴史の悲劇の中に翻弄されていく主人公を重厚に演じ、観客を深い感動へと誘う。その傍ら、ポール・オースターと手を組んで『スモーク』(1995年)、『ルル・オン・ザ・ブリッジ』(1998年)などの小品に連続的に出演する。決して派手な活躍ではないが、どの映画もカイテルがいなければ成立しないと思えるほど、圧倒的な存在感を放ってスクリーンの中に佇む彼がいることを誰も否定することは出来まい。

そんなハーヴェイ・カイテルであるが、若いころの彼がどのような映画に出ていたのかを知る人は少ないのではないだろうか。カイテルがマーチン・スコセッシと共に世に登場した『ミーン・ストリート』(1973年)という映画を覚えている人がいまどれぐらいいるだろう。いまやアカデミー監督賞も受賞し、押しも押されぬ大監督と看做されているスコセッシだが、37年前にこの映画を撮ったときは駆け出しの映画青年に過ぎなかった。ほとんど実験映画に近い映像も混じるこの映画は、まだ映画撮影の方法も編集の仕方も習得していない監督が撮った映画であり、それゆえにいま観ても宝石の原石を眺めているかのような不思議な瑞々しさと不安を観客に与える。

物語は一言でいえば青春群像である。ルーカスの『アメリカン・グラフィティ』(1973年)のスコセッシ版といえば分かりやすい。だが、ルーカスが伝統的ヴィルドゥングス・ロマンの形式を採用し、主人公の成長を着実に描こうとしたのに対して、この映画は完全に物語を構築する意志を欠いている。カイテルが演じる主人公はどういうわけだか常に「罪」の意識に怯える実直な青年を演じている。その傍ら、街中で拳銃をぶっ放すなどの放蕩の限りを尽くし、周囲を苛む気の振れた若者役を当時無名のロバート・デ・ニーロが演じている。物語は結局何の解決も見せぬまま唐突に終わりを告げ、一陣の風が通り過ぎていったかのような余韻だけを残すという映画であった。結局、デ・ニーロのインパクトのあまりの強さゆえ、カイテルは全くかすんでしまった。その為か、次の作品『タクシー・ドライバー』(1975年)では主人公と脇役が逆転し、デ・ニーロが主役へと躍り出る。この映画がデ・ニーロを一躍世界に知らしめることになり、スコセッシもまた世界的映画監督として記憶されるようになったことは人も知るとおりである。一人取り残された感じのカイテルがこの作品で演じた役は「ポン引き」であった。

だが、スコセッシはカイテルに非凡の才能を見出していたようだ。特に「罪」の意識に苛まれる『ミーン・ストリート』の主人公役は、そのままスコセッシ自身の姿と重なり合うように思われる(主人公は自分の手を蝋燭で焼くという象徴的な行為を繰り返す)。というのも、スコセッシにおける「罪」の意識のテーマは『タクシー・ドライバー』にも受け継がれ、最終的には『キリスト最後の誘惑』(1988年)へと結実するからだ。ウイレム・デフォーがキリストを演じたこの映画は上演中止運動まで起こった問題作であったが、カイテルはこの映画ではなんとユダを演じているのだ!イエスの弟子でありながら、師を裏切り、捕らえさせるきっかけを作ったあのユダである。スコセッシがカイテルにかける思いがこの配役を見るだけでも十分に伝わってくるではないか。

いまや、深いしわが額に刻まれ、実に渋い役者となったハーヴェイ・カイテル。だが、『ミーン・ストリート』の頃の彼は端正な顔立ちの美青年であり、そこにはその後の彼の映画人生を髣髴させるものは何もないように思える。まだ何も魅力がなかった頃の彼を知るものから見れば、最近のカイテルの活躍ぶりには目を見張らされざるを得ないだろう。だが彼の現在の活躍の根源は、間違いなく37年前の演技の中に密かに醸成され始めていたのではないだろうか。それを思うと、私はカイテルがこれからさらにどこに行くのか、いまだに気になるのである。


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2008年05月28日

懐かしの70年代の名優たち(2) マイケル・ケイン

前回、マイケル・ケインの話が出たのでその続きをしてみよう。

eagle01.jpgかつて、ケイン主演の映画に『鷲は舞いおりた』(1976年)という作品があった。原作はジャック・ヒギンズの同名小説(邦題は『鷲は舞い降りた』、ハヤカワ文庫NV)。監督はジョン・スタージェス(『荒野の七人』(1960年)、『大脱走』(1963年))。舞台は第二次大戦下のヨーロッパ。ケインは危機打開のために「チャーチル首相暗殺」という特殊任務を任されるドイツ軍の中佐を演じている。これに、アイルランド独立運動のためにケインに協力する活動家の役にドナルド・サザーランド、作戦全体を指揮するドイツ軍将校役にロバート・デュバルという布陣だから面白くないわけがない。戦争映画といえばナチスを愚劣な狂者の集団として描く傾向が強かったなかで、この映画では例外的にドイツの兵士たちを人間味溢れた者たちとして描いている(もっともドイツ兵がみな英語をしゃべるという時点で、既にリアリスムがないのだが)。夜明けのイギリスの海岸にポーランド軍の軍服を着たドイツ空挺部隊の精鋭と共に中佐はパラシュート降下を敢行する。イギリスの田舎町に静養に来たチャーチルを護衛を装って密かに消し去るという作戦・・・。だが、完璧なる計画を立てたにも拘らず、思わぬ不手際の為に正体が露見し、舞台は全滅に近い打撃を被ることになる。それでも一人生き残った中佐はチャーチルの別荘に侵入し、庭に現れたイギリス首相に向かって夜陰に紛れて拳銃の弾丸を発射する・・・。

ケインはこうした映画で抜群の魅力を発揮していた。こういう無謀な作戦の指揮官役をやってなお説得力がある俳優といったらマイケル・ケインをおいて他に見当たらないであろう。今は亡き淀川長治が「イギリス一の美男俳優」とケインを褒めちぎっていたことが懐かしく思い出される。また、共演のドナルド・サザーランドもこの頃は乗りに乗っていた。ベルトルッチの『1900年』(1976年)での狂気のファシスト党員役やフェリーニの『カサノバ』(1979年)でのタイトル・ロールといった具合に、大作への出演が矢継ぎ早に続く中で、こういう渋い映画の助演を嬉々として演じているときのサザーランドは本当に輝いていた。他方、ロバート・デュバルもこの頃が全盛期であろう。もともとジョージ・ルーカスの劇場用映画第一作『 THX-1138』(1970年)に主演した縁で、コッポラ・ファミリーに絶大なる信頼を得ていたデュバルはその後『ゴッドファーザー』正続編のコルレオーネ家の番頭役、『地獄の黙示録』(1979年)では狂気のヘリコプター攻撃を指揮するキルゴア中佐役など重要な役を次々と任されるようになる。

ところで、私が『鷲は舞いおりた』という映画を思い出したのも、トム・クルーズが新作でシュタウフェンベルク大佐を演じるという情報を入手したからかもしれない。この名前をご存知の方はかなり第二次世界大戦の歴史に詳しい向きかもしれない。シュタウフェンベルク大佐とはナチス政権下において「ヒトラー暗殺」という作戦を実行に移したドイツ軍人である。ナチス内部にも反ヒトラー勢力というものが隠然と存在しており、元帥から下士官に至るまで一つの別の軍隊のようなものを見えない形で組織していた。そのグループが「ヒトラーに任せていたらドイツは間違いなく滅ぶ」ということを危惧し、暗殺作戦を実際に計画したのだ。シュタウフェンベルクは書類鞄に爆弾を潜ませてヒトラーの出席する会議に臨むことによって、暗殺作戦を遂行しようとしたのである。残念ながら作戦は失敗し、シュタウフェンベルクら反乱グループは粛清されることになるが、彼はいまでもドイツの英雄的人物の一人と看做されている(詳しくはロジャー・ムーアハウス著『ヒトラー暗殺』、白水社、2007年を参照)。

今にして思えば『鷲は舞いおりた』という映画が語る物語はこの作戦の「陰画」だったような気がする。ケインが演じた役名はシュタイナー中佐という、シュタウフェンベルクと似たような名前であったし(ありふれた名前ではあるが)、何よりも主人公以下のドイツ軍人がみな高潔な人格に描かれていたのが特徴的であった。しかし、あの当時はまだ「ヒトラー暗殺」作戦などいうことを決行する英雄的ドイツ軍人などというものを小説や映画が描き出すということは倫理的に許されない時代であったような気がする。あくまでドイツは「悪」であり、彼らはそうした振る舞いしか小説でも映画でもすることが出来なかった。それゆえに彼らの暗殺対象が「ヒトラー」から「チャーチル」にすり替えられたのではないのだろうか。とはいえ原作者も監督もそうした傾向に疑問を持っていたに違いない。「ドイツにもまともな人間が(当然ながら)いたはずだ。」『鷲は舞いおりた』の主人公たちがみな高潔な人間であることに作り手のそのような意図を感じずにはいられない。それを考えるとこの映画の意味がさらに増してくるように思える。未見の方は是非ご覧いただきたいものである。

さて、問題はクルーズが演じるシュタウフェンベルク大佐だ。私はこの映画が『ミッション・インポッシブル』(1997年)のような映画になってしまうことを深く危惧する(もっとも『 MI:III 』(2006年)が近年稀なる傑作であることを否定するつもりはないが)。果たして、クルーズにこの救国の英雄を演じることが出来るのだろうか。



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2008年05月23日

懐かしの70年代の名優たち(1) エリオット・グールド

オーシャンズ11 特別版先日、『オーシャンズ13』を観に行った。『オーシャンズ11』(2001年)から始まったシリーズの第三弾。批評は賛否が分かれているようだが、私自身はとても楽しむことが出来た。このシリーズは常に独特のリズムを持っており、始まったとたんにそのリズムに浸ることが出来る。これが実に心地よいのだ。そんなこの映画の最大の売りはアル・パチーノが敵役として出ていることだろう。実際、憎憎しいホテル王を迫力たっぷりに演じており、パチーノとしては久々に存在感を示したと言えよう。加えて、『オーシャンズ』シリーズの常連アンディ・ガルシアとの対決場面もあったりして、『ゴッドファーザーPart V』(1990年)を髣髴とさせる映画ファン垂涎の場面も用意されていたりする。

しかし私が今回語りたいのはパチーノではない。この『オーシャンズ』シリーズにレギュラーとして出ているエリオット・グールドに私は世間がもっと注目してほしいと思うのだ。先ごろなくなったロバート・アルトマン監督の『 M★A★S★H』(1970年)で圧倒的存在感を放っていたグールド。『ロング・グッドバイ』(1973年)の探偵グールド。『カプリコン・1』(1977年)の新聞記者グールド。『遠すぎた橋』(1977年)の鬼軍曹グールド。70年代にあれほど輝いていた俳優が今は脇役として、映画を内側からしっかりと支えているということに注目してほしい。ジョージ・クルーニーもブラッド・ピットも確かに良いが、まだまだ彼の域には到底達していないのだ。グールドのような俳優の存在がなければ現在の映画は実は立ち行かないのだ。

バットマン ビギンズ 特別版こういう俳優はグールドだけではない。マイケル・ケインの最近の活躍ぶりも往年の映画ファンには嬉しいことだろう。もともとイギリス映画には執事役の系譜があり、最近ではカズオ・イシグロの原作を映画化した『日の名残り』(1993年)のアンソニー・ホプキンスの執事役が有名であるが、ケインが『バットマン・ビギンズ』(2005年)で演じた執事役も秀逸なものであった。同時期に公開された『奥さまは魔女』(2005年)での父親役もコミカルで良かったが、『バットマン〜』での演技は特筆すべきもので、主役を完全に食っている。比較して申し訳ないが同じ映画に出ていた渡辺謙では到底太刀打ちできないと思う(最もこの映画の白眉はリーアム・ニーソンの怪演にあり、愁いを帯びたまでに美しい悪役ぶりについては稿を改めて論じなければならない)。

昔、Ex‐fan des Sixties『思い出のロックンローラー』という歌をジェーン・バーキンが歌っていた。懐かしの1960年代の歌手の名前をだらだらと繋げただけのゲンスブールならではのいい加減な歌なのだが、このいい加減さが実に良いのだ。それに倣い、このコーナーでは懐かしの1970年代の俳優の名前をだらだらと挙げながら、かつて輝きを放っていた映画を振り返っていく予定である。




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2008年01月17日

ゾディアック

zodiac_ver2.jpg1969年、ドライブ中のカップルが銃撃され、女性が死亡する事件が起き、警察に「自分がやった」と電話がかかってくる。その後、新聞社に「ゾディアック」と名乗る人物から、犯行の内容を語る手紙と暗号文が次々に届き、同時に新たな殺人事件も発生する。担当の刑事(マーク・ラファロ)、新聞記者(ロバート・ダウニー・Jr.)、そしてその新聞の風刺漫画家(ジェイク・ギレンホール)は、それぞれ事件を追っていく・・この映画は実際にアメリカで起きた未解決の連続殺人事件を扱ったものです。「ブロークバック・マウンテン」の色っぽいジャック役だったジェイク・ギレンホールが、一転して地味で真面目な青年を演じています。


手書きの手紙を多数新聞社に送りつけ、警察や関係者の自宅に電話をかけたり、果てはテレビの身の上相談にまで出演しようとするなど、メディアを大胆に利用した犯行で、目撃者もいれば遺留品も多く残しているのに、犯人への手がかりはなかなかつかめません。それはゾディアックが用意周到で、巧みに人々を翻弄したこともありますが、別の要因として警察の中での連携の悪さ、メディアの報道による混乱も描かれています。


zodiac4.jpgそれぞれの地域の警察が情報をうまくやり取りしなかったことで、犯人に接触する機会を逃してしまったり、ゾディアックからの手紙の内容をテレビで流したために世間がパニックに陥ったり、警察から情報を得られないまま自己判断で犯人像を仕立て上げた新聞記者が今度はゾディアックの標的となってしまったりする状況は現在起こったとしても全くおかしくないわけで、とても40年近く前の事件だとは思えない生々しさが伝わってきました。そして皮肉なことに、解決に一途の光が見えてくるのは、世間が事件を忘れ去ろうとしたころ、依然として関心を持ち続けていた風刺漫画家が、警察と「陰で」連携して独自に調査を進めたときからなのです。


心身ともに疲れ果てて異動を願い出る刑事、ドラッグやアルコールに溺れる新聞記者など、この事件の捜査から脱落していく者たちが出てくるなか、利害関係にとらわれず単なる好奇心からアプローチした風刺漫画家だけが、「生き残り」ます。取り憑かれたように事件のことばかり考えている夫に不安を感じる妻から問いただされて、彼がゾディアックを追う目的を語る場面、そしてついに彼がその目的を果たす場面は、静かながらも高揚感を覚えます。


zodiac3.jpgこの作品を観た人たちの感想をネットで見たところ、「退屈だった」という意見が多くて驚きました。たしかに監督がこれまで撮ってきた「セブン」「ゲーム」「ファイト・クラブ」などと比べれば、派手な展開もなければ、大どんでん返しといったサプライズも見当たらず、そういった内容を求めた人には期待はずれの映画でしょう。しかしながら、余計な小細工や無駄に感情的な部分を省いた正攻法で真摯な撮り方、タイトな物語構成、丁寧に再現された70年代の空気がすばらしく、私には2時間37分の上映時間があっという間に思えました。


ゾディアックが送った手紙には、「自分の映画を作れ」という要求も書かれていました。実際この事件を扱った映画は過去に作られ、またこの事件を題材にしてクリント・イーストウッド主演の「ダーティー・ハリー」も制作されました(この映画の中でも一部が流れます)。今回また映画が制作されてその要求に応える形になったわけですが、ゾディアックそのものよりも、彼を追う人々に焦点を置くことで、犯人の思惑から外れた作りにしてある点に、フィンチャーらしいヒネリが感じられます。


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2007年11月06日

フランス映画好きに捧げる非・フランス映画(4)ー「マルホランド・ドライブ」

mulholland_drive_ver1.jpg怖い映画は巷にたくさんあれど、私にとって最も恐ろしいのは、デヴィッド・リンチの映画です。「ロスト・ハイウェイ」(1996)みたいに、何者かが自宅を撮影したビデオテープを次々と送りつけてくる・・なんて考えたら、気が遠くなりそうです。長編デビュー作「イレイザー・ヘッド」(1976)に至っては、ビデオで手元にあるものの怖くて手が付けられません。リンチ作品は、わかろうとしてもどうにも理解できない、そのような不条理な恐ろしさが満載です。けれども観終わった後ではまたその不可解な世界をまたかいま見たくなる、というどうにも不思議な魅力をも兼ね備えているのです。今回ご紹介する「マルホランド・ドライブ」(2002)を観た後も、あれこれ考えてしまってなかなか眠れなかったことを覚えています。皆さんもデヴィッド・リンチ監督の仕掛けた美しい迷宮をご覧になってはいかがでしょうか。


女優になる夢を抱いてハリウッドにやってきたベティ(ナオミ・ワッツ)は、下宿する叔母のアパートに忍び込んでいたリタ(ローラ・エレナ・ハリング)と出会う。リタは何か事件に巻き込まれたらしいのだが、記憶を失っており、手持ちのバッグには大金と青い鍵が入っている。優しいベティは彼女の足跡をたどろうとする一方で、女優としての才能も開花させる・・


mulhollanddrive2.jpgと、ここまでの物語はよくあるサスペンス映画のようですが、後半からナオミ・ワッツはダイアン、ローラ・エレナ・ハリングはカミーラと役名が変わり、雰囲気も一変、ダイアンは恋人であるカミーラに裏切られ、人に頼んでカミーラを殺してしまい、女優としてもパッとすることなく人生にも絶望している状態です。全く違う物語に見えながらも、ベティとダイアンには共通点もあるし、前半の登場人物が名前や性格を変えて再び現れるなど、混乱を招く展開になっています。


この前半と後半をどう受け止めればよいのでしょうか。あまり説明すると映画の面白さが半減してしまいますので、いくつかヒントを挙げておきましょう。

1 映画冒頭部にナオミ・ワッツが眠っている場面がある

2 「目覚めよ」というセリフ

3 前半部の物語がベティに都合よく展開する

さらに、前半の登場人物やモノが、後半では違う人物やモノに「置き換え」られているといえば精神分析を少しでもかじった方なら、ははーんと思われることでしょう。そこで再度映画を観直すといろいろと「見えてくる」わけで、「マルホランド・ドライブ」はデヴィッド・リンチ作品のなかでもかなり「わかりやすい」ほうだといえます。


mulhollanddrive1.jpgしかし、ひとつの読み方だけではすっぱりと理解できないのが彼の持ち味です。上のヒントをもとにひとつの解釈を試みても、あれこれの要素がぴったりと合わさらず、必ずそこからはみでる部分が出てきて、やっぱり「わけわからん」状況に陥ってしまいます。でもそうやって、ああでもないこうでもないと頭を悩ませながら、個性的な俳優たちやリンチ作品におなじみの小道具が醸し出す怪しげな雰囲気を楽しむのがよいのかもしれません。


タイトルになっている「マルホランド・ドライブ」は実在する道の名前で、ハリウッドを一望できる高みにあり、リンチ監督が作品をこの映画の都に捧げていることを暗示しています。それは前半部の2人の女性の名前ベティとリタが、ベティ・デーヴィスとリタ・ヘイワースという往年のハリウッド大女優を思い出させることからも明らかで、映画への情熱に燃えて集まってくる数えきれないほどの人びとが味わう成功と挫折を描いた作品という見方もできます。


デヴィッド・リンチはフランスから愛されているアメリカ人監督でもあります。この「マルホランド・ドライブ」もテレビドラマを想定して制作されたものの、内容の過激さゆえにアメリカの会社から配給を拒まれていたところ、救いの手を差し伸べたのはフランスのテレビ会社 Canal Plus だったのでした(というわけで、厳密に言うと「非・フランス映画」ではないのですが・・)。そうしてできあがった作品は、カンヌ映画祭で監督賞を獲得しました。フランスは近年のリンチ作品制作にも多く関わり、監督はカンヌの常連になっています。


さて、4年のブランクを経て昨年発表された最新作「インランド・エンパイア」はついに日本でも7月公開予定となりました。今回も映画がテーマの作品で、なんと3時間の大作! またしても妖しく美しいリンチ・ワールドに悩まされそうです。


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5 よく見て!



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2007年05月03日

新作DVD情報 「父親たちの星条旗」「硫黄島からの手紙」

父親たちの星条旗 (特別版)去年の12月、映画館へ行って見た映画がDVDになりました(フランス映画ではないのですが…)。クリント・イーストウッド監督が硫黄島を舞台にして制作した戦争映画二部作の第1部、「父親たちの星条旗」です。


太平洋戦争末期、アメリカ軍が硫黄島への上陸作戦を展開するなかで撮られた歴史的に有名な写真にまつわる物語です。その写真は全くと言っていいほどドラマティックでない状況下で撮影されたにもかかわらず、そこに写る兵士たちは、アメリカ本国で「英雄」として祭り上げられ、戦争の資金を集めるための格好の材料とされてしまいます。写真に写っていた6名の中で、生き残って帰国した3人(ドク、レイニー、アイラ)は、「英雄」扱いとされることに違和感を覚えながらも、国債を販売して費用をかせぎ、いまだ最前線にいる戦友たちを助けなければならない、という思いで各地を回ることになりますが、何かにつけて戦地での経験がフラッシュバックしてきます・・


ブルーグレーがかった色調でかなりの時間を割いて繰り広げられる戦地でのシーンは、非常にグロテスクなものも多々ありますが、全体として淡々と描かれています。製作にスティーヴン・スピルバーグが参加しているので、このあたりではスピルバーグ色が強く感じられ、「プライベート・ライアン」などの作品と比較されることも多いようですが、感情的な要素は極力抑えられており、そのために名もなき兵士たちが、単なる「モノ」として扱われる悲惨さが強く迫ってきます。「戦死」とひとくくりにされる者たちのなかには、味方に見放されたり撃たれたりして命を落とす兵士たちもいて、これでもか、というくらい見せつけられるこの戦闘シーンにむなしさ、やるせなさをいやというほど感じさせられます。


生き残った3人を演じたのは、いわゆるビッグ・ネームの俳優ではありませんが、それぞれ感じのよい演技をしていました。中心人物となるドクを演じたライアン・フィリップはヒーロー扱いされてとまどっている普通の人、という役柄にぴったりだったと思います。また写真に写っていたなかで戦死した一人のマイク役のバリー・ペッパー(「25時」などに出演)も皆に慕われるリーダーを好演していました。なかでも胸を打つのはネイティヴ・アメリカンの血を引くアイラを演ずるアダム・ビーチで、彼の流す涙にもらい泣きした人も少なくないでしょう。来年のアカデミー賞候補になるのでは、と思っています。


戦闘時、帰国後、終戦後、そして現在、と4つの時間が交錯するために、特に最初のほうは物語を追うのに混乱するのと、終盤が少々長引かせすぎかな、というのが難ですが、終始ニュートラルな視点で戦争を見つめるイーストウッド監督の姿勢には感服します。このような内容の映画がいまのご時世でアメリカ資本で作られたことにも驚きですが、逆にこのようなスケールの作品はアメリカでしかできなかったでしょう。


硫黄島からの手紙 (特製BOX付 初回限定版)第2部の「硫黄島からの手紙」は、早くもLA批評家協会最優秀作品賞を受賞しました。渡辺謙、二宮和也、中村獅童ら日本人俳優が出演するこの作品は、「父親〜」とは逆の日本軍の立場から作られたものです。「父親〜」では、日本軍はほとんど具体的に登場せず、「匿名」と化した存在だっただけに、こちらの映画ではどのように扱われているか興味深いです。この作品も近々鑑賞予定ですので、感想をまたお伝えできれば、と思っています。


*「父親たちの星条旗 (特別版)」(5月3日発売)

*「硫黄島からの手紙 (特製BOX付 初回限定版)」(4月20日発売)



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2007年03月11日

フランス映画好きに捧げる非・フランス映画(3)ー「青の稲妻」

plasirs1.jpg昨今の映画界においても最も勢いがあるのは、おそらく中国でしょう。北京五輪に向けて急速に発展しつつある国の内情を反映するがごとく、新しいタイプの作品が次々と生み出され、世界各国の映画祭でノミネートされる数も少なくありません。日本でもおなじみのチャン・イーモウ(代表作:「初恋のきた道」「HERO」「LOVERS」など)や、チェン・カイコー(代表作:「さらば、わが愛-覇王別姫」「北京ヴァイオリン」「PROMISE」など)監督らは、「第五世代」と呼ばれ、すでに巨匠の風格が感じられますが、今回ご紹介する「青の稲妻」(2002)を制作したジャ・ジャンクー(賈樟柯)は、その後の「第六世代」に属する監督です。1970年生まれ、という若さでこれまでに撮影した長編作品はまだ5本であるにもかかわらず、ヨーロッパで非常に高く評価されており、今年のヴェネツィア映画祭では、最新作「三峡好人」が最高賞である金獅子賞を獲得しました。「青の稲妻」は3作目の長編にあたり、2002年のカンヌ映画祭でパルム・ドールを受賞しています。


Plaisirs2.jpgジャ・ジャンクー作品では、激変する中国社会に生きる若者たちがたびたび取り上げられていて、この作品の主人公シャオジイとビンビンもそうです。大同という地方都市に暮らし、北京へのあこがれを抱きつつもやはりこの土地を離れられない二人の顔にはなんと生気がないのでしょうか。職にもつかず行き当たりばったりにその日を暮らす彼らには、未来への期待も希望もあまり感じられません。都市が活気づき豊かになるなかで、「今」をただ生きるしかない若者たちの姿を象徴しているのが、この二人のうつろな眼差しなのです。二人を演ずるのは素人の役者なのですが、彼らを選んだ決め手となったのは、強い印象を与える彼らの目だったと監督はあるインタビューで語っています。


髪型や服装を気にしながら、煙草をひっきりなしに吹かし、ディスコに通ったりバイクを乗り回しては女の子を追っかける・・二人は最新の若者の姿であるといえるでしょうが、彼らの目は外の世界へは全く開かれていません。中国がWTOへ加盟したり、北京がオリンピック開催地に選ばれるというニュースにも無関心、おまけに1ドルの価値すら知らないのです。そのような国と個人のあり方のギャップをこの作品は暗に批判しているようにも見えます。そのためもあってか、ジャ・ジャンクー作品は長い間自国では上映禁止でした。


plaisirs3.jpg実はこの作品は北野武監督の映画プロダクションであるオフィス北野がサポートしています。かつてジャ・ジャンクーは「あの夏、いちばん静かな海。」に感動したそうで、彼の作品にも北野作品に通じるクールさが感じられます。一方で、映画終盤にはゴダールの「気狂いピエロ」のラストシーンを思わせる場面があるのですが、その後の展開はあまりにもお粗末で、二人はジャン=ポール・ベルモンド演ずるフェルディナンのようにカッコよく自分の生活にケリをつけることもできません。そのようにクールなまま映画を終わらせないこの若い監督のセンスに、これからも大いに期待したいです。


青の稲妻
青の稲妻
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5 傑作中の傑作
5 19歳!



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2007年03月02日

フランス映画好きに捧げる非・フランス映画(2)−「乙女の祈り」

ニュージーランド、というと皆さんはどんな印象をお持ちですか? 自然が豊かで、食べ物やワインがおいしくて、人々が大らかで・・と我々が勝手に健康的なイメージを抱いてしまうこの国で作られた、ちょっと風変わりな映画「乙女の祈り」(1994)をご紹介しましょう。


heavenly_creatures-1.jpg女子高生のポウリーンは、転校してきた魅力的な少女ジュリエットに好意を抱き、二人はすぐに意気投合します。空想好きな彼女たちは、共同で壮大な物語を考えだし、登場人物になりきるほど、深くのめりこんでいきます。二人のあまりにも親密な関係を心配したジュリエットの両親は二人の交際を禁じますが、それに憤った彼女たちは、憎むべき母親を亡きものにしようと計画を立てます・・


heavenly2.jpg1954年に起こった実話をもとにしたこの映画は、内容だけ聞くと陰惨に思えますが、実際の映像はとてもあっけらかんとしていて、ちょっと感じやすい女の子たちがキャーキャー騒いで冒険している青春映画と錯覚しそうなくらいです。けれども画面にあふれる鮮やかな色彩と明るさは、どこかクレイジーな一面を潜めていて、それが彼女たちの妄想シーンで一挙に炸裂するところが奇妙にも面白く、この映画の魅力となっています。


heavenly3.jpgこの作品を監督したのはピーター・ジャクソン。「ロード・オブ・ザ・リング」3部作や「キング・コング」で、今ではファンタジー系映画の大家となっていますが、ハリウッドに進出する前に母国のニュージーランドで作った映画にはこんなユニークなものがあるのです。またジュリエットを演ずるのは「タイタニック」(1997)でブレイクする前のケイト・ウィンスレット。すでにこの時点で大輪の花のような輝きを全身から放っています。


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2007年02月13日

フランス映画好きに捧げる非・フランス映画(1)ー「エレファント」

ガス・ヴァン・サント監督が2003年に発表した「エレファント」(注1)は、ここ数年観たなかで、最も印象深い映画です。


Alex.jpgアメリカの高校を舞台に、少年少女たち数名の1日がドキュメンタリー風に描かれます。登場する高校生たちは、部活に情熱を燃やしたり、恋愛とダイエットのことばかり考えていたり、家のことで悩んだり、授業中にいじめられたり様々(注2)ですが、ひどく変わった子が出てくるわけではなく、高校生活でよくある風景が静かに映し出されているように見えます。


少なくとも中盤までは。


girls.jpg静けさを保ちつつも映像が行き着く最後のシーンを、のどかそうな空が映し出される冒頭の時点ではよもや想像することはできないでしょう。それまで私たちが好感をもったり、反感を感じたりした高校生たちが、すべてひとつの事件に、いわば「対等に」巻き込まれ、それぞれの行く末をたどっていく図を見せつけられると、やるせない気分にさせられ、どうしても「不条理」という言葉が頭をよぎります。


観終わったあとでは、この映画がアメリカの高校で実際に起こったある悲惨な事件を題材にしていることがわかるでしょう。けれども作品自体はあくまでも「フィクション」という立場で、特定の高校を名指ししているわけではなく、高校生たちのほとんどはファーストネームのみ、ナレーションも解説も何もありません。一方で、ありふれた日常の場は、ある時突然に、非日常的な空間へと変わってしまい、平々凡々と暮らす私たち誰にでもその体験の可能性がいくらでもあるのだ、という事実を、この極端に寡黙な映像は強く語りかけてくるのです。


john.jpg同じテーマを扱った映画にマイケル・ムーア監督(注3)の「ボウリング・フォー・コロンバイン」があります。こちらは真正面からこの事件に取り組み、現場や関係者を自ら取材したドキュメンタリーです。しかし、彼独自の考え方に貫かれたその編集方法は、この映画を「ドキュメンタリー」という枠からはみださせるほどで、「エレファント」の対極にある「饒舌な」作品といえるでしょう。


注1:2003年度のカンヌ映画祭に出品されたこの作品は、パルム・ドールとグランプリを同時に受賞しました。監督のガス・ヴァン・サントの作品には、ほかに「ドラッグストア・カウボーイ」(1989)、「マイ・プライベート・アイダホ」(1991)、「グッドウィル・ハンティング」(1997)などがあります。

注2:高校生役で出演した若者たちは、ほとんどが演技経験の少ない素人で、それだけに作品中で彼らが交わしている何気ない会話には、非常にリアルなものが感じられます。

注3:ムーア監督の「華氏911」は、「エレファント」がパルム・ドールに輝いたカンヌで、翌年同賞を受賞しました。


エレファント デラックス版
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