2022年09月29日

『彼らは生きていた They Shall Not Grow Old 』- カラーで蘇る戦場の若者のリアル

カラー化というものに弱い。モノクロ映像でも十分わかるじゃないか、何のための想像力だ!と思うのではある。しかし、カラーで復元された1920年代のパリの街の映像とか、戦争の足音が聞こえない頃の沖縄の市場の写真をなどを見せられると、向こうとこちらの距離がぐっと縮まったように感じてしまうのだ。なんて単純な。でも仕方がない。



そんな人間にとってうってつけのドキュメンタリー映画を、ピーター・ジャクソン監督が最先端の映像・音響技術を駆使して作り上げた。第一次世界大戦がテーマである。不勉強で映画やドラマ、文学の背景に登場する不吉な影くらいにしかこの戦争のことを捉えきれていなかったこともあり、思い切って映画館に足を運んでみた。

イギリス帝国戦争博物館からの依頼が、この映画の全ての始まりだった。博物館が所蔵する、第一次世界大戦中に撮影されたおびただしい数の未公開映像を活用してほしいージャクソン監督と製作チームは、眠っていた経年劣化の激しい映像を徹底的に処理することにした。

サイレント映画の時代の映像を思い浮かべてほしい。外枠を感じさせる小さいフレームの中で、人や物が実際とはかけ離れたスピードでちゃかちゃかと動く。モーターではなく手回しだった撮影カメラでは、このクオリティが精一杯。味わいはあるものの、そこにリアルを見出すのは今の人間にはとても難しい。この問題を製作チームは解決した。てんでバラバラな撮影速度で撮影されていた映像を現在の標準速度に統一、なめらかで自然な動きになるよう調節したのだ。

カラー化にも細心の注意を払った。場所が特定できる映像は、監督自ら撮影地へ足を運んで写真を取り、土の色などその土地ならではの色彩の再現に努めた。イギリス・ドイツ両軍の軍服の細かな飾りといった細部にも、本物の色に合わせてカラー化されている。

更に、当時の技術ではできなかった「音」を再現した。炸裂する砲弾、腹に応える地雷の爆発音といった戦場の音を現場で体感する音量で加えただけではない。可能な部分では、兵士がなにをしゃべっていたかを再現した。読唇術のプロに読み取ってもらった言葉を声優にアフレコさせた。

結果はお見事の一言につきる。遠い昔の「記録」でしかなかったフィルムが、ヴィヴィッドでリアルな映像として蘇ったのだから。スクリーンに映る100年前の人々と、観ている私たちとの壁がさあっと取り払われた感じだ。あそこに写っている彼らは、そこらへんにいる兄ちゃんたちとなんら変わりはない。今と同じような軽口をたたき、笑っている。

この映像をどう活かすか。監督が選んだのは、ナレーションを使わずあの場所にいた兵士たちに語らせることだった。BBCが所有していた600時間以上ある200人もの元兵士のインタビューからより抜いて編集、復元された映像に兵士たちの生の声を当てた。

インタビューを始めた時期が影響しているのだろうか、証言者の戦争当時の年齢はおしなべて若い。主に20代、中には16歳、17歳といったティーンエイジャーも含まれる。おかげで、観る側はプロの軍人でなく、世間の熱に浮かされるまま志願し、にわか作りの兵隊としてフランスへ送られ、有名な西部戦線の生き残りとなったイギリスの若者たちと同じ目線で、開戦から終戦後までを経験することになる。

戦争とは、毎日が歴史に残る戦いではないー当たり前のことだけれど。 お終いが見通せない長大な溝のような塹壕の中に潜み、無人地帯(No Man’s Land、平たく言えば標的になるので誰も生存できない場所)を挟んで敵のドイツ軍と睨みあう日常が延々と続く。1日の時間割も決まっている。この戦争で初めて投入された新兵器ー毒ガス、戦車、マシンガン等といったものにさらされ、目を見張り右往左往する状況もある。敵のスナイパーに撃たれ不意打ちの死を迎える危険も常にある。しかし、敵が何かを仕掛け緊張が走る状況がなければ、「野郎同士でキャンプに来たような気分」で過ごすこともある。

そんな兵士達の日常を、衣食レベルの細々したことを積み上げる形でこの映画は教えてくれる。素材となった映像の多くは「戦場で兵隊さんは元気にしています」ということを伝えるために撮られた、ニュース映画用の素材だったのだろう。塹壕で、非番の兵舎で、カメラを向けられとびきりの笑顔で応える兵士たちが登場する。ビールの配給に並ぶ長蛇の列、軍服のノミを潰し、ふざけあう姿ーしかしフィルムに残された陽気な兵隊さんたちの「本当のところ」を、元兵士たちは100年後に観る私たちに教えてくれる。水みたいに薄かったビールの味を、ふざけずにはおられなかった複雑な心中を。単なる記録映像はこの言葉によって別の意味やニュアンスを帯び、兵隊たちと観客はいつのまにか近しい間柄になってゆく。

戦局は膠着したまま季節は流れ、塹壕の中の環境はますます劣悪となり、敵の攻撃以外の、この戦場でしかありえない原因で命を落とすものもたくさん出るようになる。まだ車が貴重な中運搬の主な担い手だった「相棒」の馬たちも、使い捨てられどんどん死んでゆく。

そして、塹壕でのルーティーンの日々もついに終わる。効果がないに等しい敵陣への突撃を命ぜられたのだ。あれほどふんだんにあった映像は途絶え(丸腰でカメラを回すカメラマンなぞ100%生き延びられない状況だからだ)、当時の新聞や雑誌を飾った勇ましい突撃のイラストがスクリーンに登場する。元兵士の肉声と、効果音として加えられた大音量の発射音・破裂音が、そこで何が起こったかをまざまざと伝えてくれる。敵・味方の砲弾が入り混じって飛び交い、前方から襲ってくる「鉄の暴風雨」の最中を、銃剣を装着したライフルだけ持ってひたすら敵陣を目指したこと、被弾した瞬間の感触、前後左右の仲間たちがバタバタと倒れる中、自分にあったはずの「人間らしさ」がはげ落ちて行くこと。まだろくに思い出もない身では、死の前に見るという人生の走馬灯なんて流れるわけがないー言葉のあまりの生々しさに、ただ愕然とする。そして、スクリーンをにぎにぎしく飾る勇敢な兵隊さんの姿とのあまりの落差にクラクラする。なぜ彼らはこんな目にあわされなければならなかったのか?

何とか死をかわしてドイツ軍の塹壕にたどり着いた兵士たちが、敵相手にどんな行動に出たかはご想像にお任せする。しかしそんな中にも、 自分たちがよく知っている人達と敵兵が変わらないことを見出す兵隊もいる。やり過ぎたと我に返って、自分が襲った瀕死の敵兵に水を含ませる。ありがとう、という一言を残してほんの坊やの兵は息を引き取るのだ。

4年の月日が流れ戦場にいるだれもがうんざりしていた頃、戦争が終わる。戦争しかしてこなかった若者を故郷で待っていたのは、戦争のことなど忘れてしまいたい世間の無関心だった。戦場での体験に耳を貸すものはなく、職歴のない厄介者扱いされ生活に追われた元兵士たちは戦場での記憶を封印することになる。

取り放題が許されない中戦場を撮影したカメラマン達が、レンズを向けフィルムに残した光景(お蔵入り覚悟で撮られた凄惨なショットもあった)。老人となってからようやく戦場での経験とあの日の感情を吐露することができた元兵士たちの、録音テープに記録された言葉。仕舞いこまれていた、あの戦争を生きた人々の思いが100年経って解き放たれ、なにが起こったかを知りたい人々のもとに届いたのだ。第一次世界大戦という括りだけではなく、戦争というものがどんなものであるかをも感覚レベルで伝える形で。封を切るだけでなく今の観客がより明確に受け止められるよう腐心した、ピーター・ジャクソンとその最新鋭の技術を操るスタッフたちの地道な仕事に心から敬意を評したい。

また、戦場に行くのは若者であるという当たり前の事実を突きつけられもした。生きのびて証言した元兵士たちにとって、この忌まわしい数年間は青春の日々でもあったのだ。懐かしくもおぞましい思い出として青春時代を抱えてゆかなければいけなかった者たちもいれば、その青春すら断ち切られ、原題の示す通り年を取ることを許されなかった者たちもいる。戦争は若者をこんな目に合わせるのだということを、若くない側の一人として、あらためて胸に刻んだ。

トレイラーはこちらで。
https://youtu.be/IrabKK9Bhds

体調が良くない時に観るのはお勧めできません。しかし、見れるとき見ときヤ!な一本です。

全編カラーではなく途中でモノクロからカラーに切り替わるのですが、その切り替わりの効果の嫌ったらしさも必見です。映画『オズの魔法使い』の真逆を狙ったようですね。



GOYYAKOD
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2020年02月22日

是枝裕和監督、『万引き家族』でカンヌ映画祭パルム・ドール受賞

是枝裕和がついにカンヌ映画祭でパルム・ドールを受賞した。2004年の『誰も知らない』では柳楽優弥が史上最年少で主演男優賞、2013年の『そして父になる』が審査員賞と来ているので、いつかは受賞してもおかしくないと思っていたが、ついに2018年に栄冠を手にした。

1995年に『幻の光』で長篇映画の監督としてデビューから23年。是枝はついに日本を代表する映画監督の地位に登り詰めたと言っても過言ではない。だが、その道は必ずしも平坦だったわけではない。

是枝が『幻の光』でデビューした際、多くのシネフィルはほとんど黙殺したのではないかと記憶する。その理由は、この作品が宮本輝の小説を原作としていることにあったのかもしれないが、何かその朴訥な映像を俄かには信じることが出来なかったように思われる。『誰も知らない』がカンヌで大変な話題になっても、我々はまだ懐疑的だった。「これは柳楽の演技力の賜物ではないのか?是枝の演出がここにあるのか?」という具合に自問し、是枝を映画作家として認めることを留保し続けたのである。



少なくとも私が是枝を意識せざるを得ないと感じたのは、2008年の『歩いても 歩いても』を見たときからである。医者であった父(原田芳雄)と、その父の期待を裏切って家を出た息子(阿部寛)が妻(夏川結衣)を連れ、久々に実家に戻る。当然ながら生じる父との葛藤。母(樹木希林)、姉(YOU)との穏やかな語らい。そして、家族の中で封印された過去…。ここには間違いなく「家族」をテーマにして現代の人間の姿を描き出す映画作家がいた。作品を見るものは、一瞬でも画面から目を逸らすことが出来ないほど、登場人物の一挙手一投足に夢中にさせられたはずだ。

あまりにも話題になった『そして父になる』が「家族」の問題と言うよりも「親子」の問題に収斂したのに対し、『海街diary』(2015)は原作ものとはいえ、再び「家族」に焦点を当てる。普通に考えれば、綾瀬はるか、長澤まさみ、夏帆の三姉妹が暮らす家に異母妹の広瀬すずがやって来るという物語など、商業映画以外の何物でもないだろう。だが、この作品で四人は間違いなく「家族」としての在り方を模索する姉妹として存在しており、そこに母(大竹しのぶ)や大叔母(樹木希林)も加わることで、常に不安定なままの彼女たちの行く末を我々も思いやらずにはいられなくなる。やはり是枝の作品が光輝くのは「家族」をテーマとする時なのだ。



そして、再び阿部寛を主演に据えた『海よりもまだ深く』(2016)では、是枝のオリジナル脚本によって、崩壊した「家族」のつながりを取り戻そうと苦悶する男の姿が描かれる。売れない小説家(阿部)が別れた妻(真木よう子)と息子との関係を振り返る中で、失ったものの大きさをようやくにして悟るという物語であった。普通ならば悲哀を感じさせる主人公を演じる阿部寛は、持ち前の喜劇性を持ちこむことで崇高なまでの域に達している。だが、これは「家族」(とその崩壊した姿)をアンサンブルで造形する是枝の奇跡的な演出力があるからこそ成り立っているに違いない。

そして、最新作は『万引き家族』。仏語タイトルは ≪ Une affaire de famille ≫。ついにタイトルに「家族(famille)」の文字を入れ、正面から「家族」とは何か?という問いに向かおうとしている。この作品にパルム・ドールをもたらした審査員、女優ケイト・ブランシェットが「圧倒させられた」と言い、映画監督ドゥニ・ヴィルヌーヴが「魂を鷲づかみにされた」とまで言う映画は一体どういう映画なのか、それは見るまでは分からないが、我々の期待を裏切ることはないであろう。そして、「対立する人と人、隔てられている世界と世界を映画によって繋ぐことが出来るのではないか」と受賞時のコメントで語る映画作家の真摯な姿勢を疑うことはもはや誰にも出来ないだろう。



小津安二郎、そして木下恵介。日本映画には「家族」をテーマに作品を撮る系譜が確実に存在していたが、そこに是枝を加えることが出来るだろう。彼らは東洋の島国だけの小さな世界を撮っていたはずだったが、いつのまにか普遍的なテーマに辿り着いていたのかもしれない。是枝の映画は、家族を求め続けたトリュフォー、そしてそのテーマに周期的に回帰するヴェンダースのような大作家たちと同次元にあり、そして一層現代的であろうとしている。世界のシネフィルたちは今後も是枝の作品から目が離せないであろう。


posted by 不知火検校


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2020年02月19日

『ファントム・スレッド』

映画『ファントム・スレッド』が公開されるとすぐ、いそいそと映画館へ出かけた。監督のポール・トーマス・アンダーソンもご贔屓だし、主演のダニエル・デイ・ルイスもその演技を見届けたい数少ない俳優の一人。が、ここまで心待ちにしたのは、伝説のクチュリエ、クリストバル・バレンシアガを垣間見せてくれるという前評判を読んだからだ。



主人公はモード界の帝王と讃えられる英国人デザイナー、レイノルズ・ウッドコック。時は1950年代。彼の「城」であるロンドンのアトリエには世界中から金と時間を持て余した女達、成金のヘアレスから貴族階級のマダム、某国の王女様といった方々が押し寄せる。ミュージアム・ピースの域に達した工芸品とでもいうべき彼のドレス―デザイナー自ら針を持ち仕立てた夢のような一着−を自分のものにするために。彼の生活はほぼ100%仕事のために捧げられている。上品な美男ながら華やかな顧客達とは距離を置き、浮いた噂ひとつない。ひたすらデザインし、創作に打ち込む人生に彼が本当に満足しているかは誰にもわからない。

このキャラクターは、脚本を手がけたアンダーソン監督が一から造り上げたものではない。場所をはじめ細かな設定は変えてはいるけれど、そこから透けて見えるのは、1930年代にパリ、ジョルジュV通りにブティックをオープンしてから1968年に突然引退するまでモード界に君臨したクリストバル・バレンシアガだ。今やカジュアルなコットンのバッグのロゴとしてしか認知されていないけれど、モード界を去るまでバレンシアガは「絶対的」な存在だった。

新しいシルエットを提案した等、モード史を眺めてバレンシアガの功績を箇条書きすることはたやすい。しかし、それは「退位」後にまとめられた栄光の残り香に過ぎない。人々をひざまづかせたのは、彼の服の圧倒的な存在感に他ならない。

服は着る人があってこそ輝くもの、美術館に展示されたドレス達は名品といえど何やら寂しげで、影の薄さを感じさせる。が、バレンシアガのドレスは違う。顔のないトルソに着せかけられた状態でもそれはただ、美しい。

しかも、バレンシアガの服を着た人はもう他のメゾンの服が着れなくなる、と言われるほど着心地がいいのである。空気のように身体を包み、鏡に映せば体型の七難をきれいに消してあなたを美しい人に変える。

当然のことながらお値段も立派だ。手の込んだドレスを一着オーダーすれば、当時の平均的な男性の年収に匹敵する額が請求された。しかし、そんな請求書を眉一つ動かさず受け取れる身分の選ばれた大人の女達が、絶えることなくメゾンを訪れた。また、欧米の高級百貨店は、2倍の金額を払って服のデザインを買い、モード誌の読者である顧客にぐっとお求めやすいコピー商品を販売した。社交界から都会の片隅までその名が知れ渡った、パリ・モードの代名詞−バレンシアガ。しかしデザイナー本人は、その名声にも関わらずその姿をメディアの前に曝すことはほとんどなかった。

正式なインタビューの依頼に応えたのは引退後の一度きり。エキゾチックな美しい容姿に恵まれたにも関わらず写真に取られるのも、マスコミに取り巻かれるのも嫌い。心を許した少数の人々としか付き合わず(法外な金を落とす「太い」お客様でも親しく接するとは限らない)、生涯独身を通す。「バレンシアガは実在しない」というデマがまことしやかに囁かれた程、謎めいた人物だった。

両腕ともに利き腕という驚異的なドレスメーキングの才能にも恵まれ、デザインを描くだけでなく腕利きの仕立て職人やお針子達に混じって白衣姿で針を持ち続けた。寡黙で、己に厳しい人だった。拍手喝采で終わったコレクションの後、スタジオでお披露目したばかりの作品を引き裂いていたという逸話も残っている。それまでの人生を振り返って、「犬の生活だった」と後年語っているが、その表現には自嘲を超えた重さがある。

映画は、そうしたバレンシアガの仕事の現場を、メゾンのインテリアや顧客のために用意された椅子に至るまで「ウッドコックのブティック」として再現している。モノクロ写真でしか知らない伝説の場所、そして固唾をのむ顧客達の沈黙が支配したというサロンでのコレクションの発表―デザイナーが選び抜いた無表情のハウスモデル達が、番号札を掲げて室内を一回りするだけの簡素きわまりないもの―も見せてくれた(覗き穴から客の様子を伺うデザイナーの姿も含めて)。伝え聞いて妄想してはみたものの、実際にスクリーンで見たそれは胸を躍らせるものがあった。ダニエル・デイ・ルイスも、バレンシアガが漂わせていただろう厳しさと情熱を体現して見せてくれた。(バレンシアガの上客だった、満たされない人生を送ったアメリカのビリオネアの女性もしっかり登場していた)。バレンシアガのものとは違うけれども、ドレスの美しさも堪能できた。

しかし、監督自ら語っているように、バレンシアガはあくまでインスピレーションを授けてくれた素材でしかない。レイノルズ・ウッドコックとクリストバル・バレンシアガは似て非なる存在だ。その違いを通して眺めると、また興味深い。

ウッドコックの美への献身は、ごくプライベートな欠落感が原動力になっている。美しいものに魅了されていて、それを我が手で創り出すことに執着はしているものの、どれだけ仕事をしても欠落感は深まるばかり。塞がることのない穴をどうにかしようというあがきが、デザイナーとしてのウッドコックを突き動かしていたように見える。

バレンシアガは、生活してゆくために針を持った。スペイン、バスク地方の漁村に生まれ、12才で船乗りだった父を亡くし、お針子として兄妹を養う母を助ける立場にあった。雇われの身から起業しついにパリで成功してからも、スペインに残る妹達とその家族がバレンシアガ・ブランドに携わり立派に生活できるよう取りはからった。数多い従業員のことを考え、税金に頭を悩ませる経営者でもあった。

一方で、美しい服を作ることは幼いころからの望みだった。避暑のためにバレンシアガの村を訪れるカサ・トレス侯爵夫人のドレスの補修を母がしていたため、最新のパリ・モードのドレスに接していたせいもある。12才のバレンシアガはある日、高貴で洗練された美しさで名高い奥様の前に進み出る。「パリでお作りになったそのドレスと同じものを作ってみせます。」出入りのお針子の息子からの唐突な申し出に驚きつつも、侯爵夫人は必要な材料と道具を与えてみた。そして、立派に仕立てられたドレスを手に入れたのだ。侯爵夫人の口添えもあって、バレンシアガは都会に出て仕立て職人の見習いになる。美を探求することを許されたもの、アーティストであることの誇りが、彼を奮い立たせ続けたのかもしれない。

ウッドコックはついに欠落感を埋めてくれる、彼の追い求める美とはほど遠い女性と巡り会い、「幸せ」になる。しかし、欠落感が埋まり彼を縛ってきたものから解放されたことで、デザイナーとしてのウッドコックは緩やかに、確実に凋落してゆく(沢田研二の名曲の一節「男と女が漂いながら/落ちてゆくのも幸せだよと」が思い出されて仕方なかった)。この落ちてゆくめくるめく陶酔感が、この映画の本当の狙いであり美味なところだ。

バレンシアガは、引退後隠者のような生活を送り、ほどなく他界する。世間で言うところのわかりやすい幸せとは縁のない人だったかもしれない。しかし彼はウッドコックのような欠落感を味わうことはなかった。まず、心から愛したパートナーがいた。フランスとロシアの血を引くウラジオ・ダタンヴィルだ。貴族の出でバレンシアガが志した洗練された美を体現する人でもあり、スペイン時代からパリで名声を得るまで数十年の日々を一緒に過ごした。バレンシアガのデザインをより素晴らしいものにする帽子のデザイナーとして、ビジネスパートナーとして、バレンシアガを支えるとともに、思うような袖が作れないと煩悶するバレンシアガの苦しみ、クリエイターとしての才能と情熱を理解し慰めてくれる人だった。49才の若さでダタンヴィルが他界した時、バレンシアガは本気でメゾンを閉めることを考えたという。

また、愛する人を失ってからの人生も、光が射さないわけではなかった。息子のような年齢の若いデザイナー、ユベール・ド・ジバンシーとの出会いは少なからぬ意味を持ったと思われる。弟子ではなく商売敵であるにも関わらず、バレンシアガは自分のことを心から尊敬するジバンシーを見守り、手の内を披露し、仕事について親しく対話することを楽しんだ。美しいものの探求とそれを実現する技について語るに足る相手を得たことは、バレンシアガのデザイナーとしての晩年を潤いのあるものにしたに違いない。そのデザインはますます冴え渡った。当時発表された装飾的な要素を削ぎ落としたシンプリシティを極めたドレスは、時の移ろいをものともしない強い美しさを放っている。そして1968年、バレンシアガはメゾンを閉める。人生を彼の服で彩ってきた忠実な顧客達を心から信頼するジバンシーに託して。

人生いろいろ、である。どちらがいいということを言い出すだけ野暮だとは思う。しかし、厳しい道を歩んだバレンシアガが晩年に作り得た作品は、彼の献身に応えて天から投げられた花束のようなものではないか、と思うのだ。

この映画は音楽も素晴らしく、ドレスが放つうっとり感に見合う音が用意されている。トレイラーを見るよりまずこの音楽に接して頂ければ、映画の雰囲気がしっかり伝わると思う。
https://youtu.be/bT_XjcdgT6g

故郷ゲタリアにあるクリストバル・バレンシアガ美術館の所蔵品の映像。圧巻です。
https://youtu.be/VGrwn24aN_A


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2018年06月16日

異色の伝記映画『ザ・ダンサー』

伝記映画をつい見てしまうのはどうしてだろう。絵になる逸話がつまっている、取り上げられた人物がすこぶる魅力的、等あるけれど、知識のレベルで知っている栄光、栄華が追体験できるからかもしれない。

ただヒーロー、ヒロインが歌舞音曲の世界の人であると、栄光を可視化するのはなかなか難しい。スポーツ選手なら記録を達成する過程や、伝説の試合の再現でその人に対する世間の熱狂を無理なく説明することができる。しかし歌や踊りのすばらしさや衝撃は、観客のリアクションを描くことでしか表現できない。だから見ていてもやもやした気分に陥ることも少なくなかったりする。なぜそのパフォーマンスにそんなにまで感激するのか、自分の五感では納得できなかったからだ。



そんな高いハードルに挑む伝記映画が登場した。取り上げたのは19世紀末のパリでユニークなサーベンタイン・ダンスを披露し一世を風靡したアメリカ人女性、ロイ・フラー。残されたモノクロの映像や写真からはその凄さがわからない有名人でもある。個人的にはロートレックの絵でその名に馴染みはあるものの、彼が好んで描いた踊り子達と違って、彼女の何が絵描きのアンリさんの筆を取らせたのか謎だった。存在したのは明らかなのだがそれがどんなものかわからない、ジグソーパズルから欠け落ちたピースの穴のような存在。

この映画の作り手は、思い切った手に打って出た。興味深い枝葉(舞台照明に関係する化学薬品系発明を行ったりキュリー夫妻とも交流したリケ女の一面、ルーマニア王室との親密な交際など)はばっさり落とし、花形文化人との華麗な交遊もカット。一点だけに焦点を絞った。まずダンス・パフォーマンスありき。ヒロイン像は踊ることを巡るストーリーでのみ描けばよい。結果として、浮かび上がったのが己が信じる美に奉じるストイックで不器用な「アート女子」としてのロイ・フラーだ。

女優を夢見る山出しで変わり者のヤンキー・ガールは、舞台での失敗をヒントに誰も思いつかなかった「ダンス」を創作し、彼女の美をわかってくれる場を求めて盗んだ金で大西洋を渡る。このとき25才。パリの興行主の目から見ればとうが経ちすぎた新人芸人。しかもその出し物はこれをダンスと呼べるのかという代物だ。

真っ白なシーツから顔を出したような衣装に身を包み、腕に仕込んだ竹の棒で袖がずりおちないようしっかり固定し、色を変えてゆく投光器の光を全身に浴びながら音楽にあわせて旋回する。上下左右斜めと両腕を振り回し長い袖の長いドレープをはためかせ、ひたすらぐるぐるぐるぐる。踊りというより体操のようだ。尻込む回りをよそに、ロイは寝食を忘れ初演を目指しひたすら手直しにいそしむ。衣装の色を微妙に染め直し、体の動きを試行錯誤し、練習に励む。全ては、舞台の上で最高の効果を上げるため。私の思い描いた美しいヴィジョンを観客の前に現すため―。この成功一歩手前の場面が全篇の中で特にわくわくさせられるところだ。初舞台を終え、暑さと体力の消耗で衣装の襞に埋まるように倒れ込むロイの横顔は美しい。

名声と金を手にし、したいことができる身となったロイは、望みを次々かなえてゆく。稽古場を手に入れ、後のモダンダンスに通じるような自由な動きで舞う女性舞踊団を設立、彼女の考える美を共に探求する仲間を育てようとする。孤独に生きてきた彼女がとうとう手に入れた「私の居場所」だった。しかし、成功は激しい消耗と肉体の酷使が続くことを意味した。ステージをこなす度に腕も腰も、熱と強烈な光に曝される目も痛めつけられる。痛みをごまかすために氷の塊を抱き、黒眼鏡で過ごす生活を余儀なくされ、美の殿堂オペラ座からオファーが来たときには体の悲鳴は押し殺すことができないほど大きくなっていた。

そして満足に踊れなくなったロイと入れ替わるように、洗練された容姿とギミックなしのナチュラルなダンスを売り物にする踊る若いアメリカ人が登場し、世間の関心は新しいスターへ移って行く。その人、イサドラ・ダンカンは、ロイの庇護を受けていたダンサーだった。新しいスターを見守るかわいそうなヒロイン―伝記映画ではよくあるパターンはここでも描かれている。

が、それだけでおわらせないのがこの映画。最大の見せ場はなんといっても完全に再現されたロイ・フラーの舞台だ。闇の中から様々な色の光を浴びて浮かび上がる彼女の舞は、息を飲むほどに美しい。ゆらめくドレープの波はまさに変幻自在、CGの派手な人工ファンタジーに食傷した目もこれにはびっくり。当時の人が賞賛した通り、まさに「夢の花」なんである。100年以上前の観客と同じ興奮をわかちあい、本気でロイ・フラーに拍手すことができるなんて!まさに、映画ならではのモーメント。この数分間にだけでも大人一枚のお金を払う価値あり。

今回の再現が実現できたのは、ロイ・フラーがこの夢のひとときのからくりの一部を明確な文章にし、特許を取っていたからだ。裸足の舞姫イサドラ・ダンカンの踊りがモノクロの写真やフィルムでしか拝むことができず、何が人々を熱狂させたのかおぼつかないのと対称的だ。自分一代だけのものとして仕舞い込まず、後の世の人とも美の体験を分かち合おうとしたロイ・フラーのユニークさに敬服する。

全体にヨーロッパ調耽美趣味に流れ過ぎ、わけがわからなくなってしまうのがこの映画の泣き所。タフなダンス・パフォーマンスも込みで揺れ動くロイ・フラーを骨太に演じきったソーコ(綴りはSoko、本名ステファニー・ソコリンスキ。シンガーが本業)の存在なしには成立しえなかったのではないか。ギャスパー・ウリエル演じる没落貴族のねっちょりとした存在感も好き嫌いがわかれるところ。イサドラ・ダンカンを演じたリリー・ローズ・デップはご愛嬌という感じだ。

意外な拾い物は、駆け出しのころからロイを支えた女性、ガブリエルを演じたメラニー・ティエリー。演技もさることながら、当時の男前な女性の魅力を物腰やしぐさのレベルでも見せてくれる(煙草のくわえ方なぞかっこいい)。長いスカートとコルセットの時代の働く女の衣装を颯爽と着こなし、ファッションに関心のある向きも満足されるのでは。久しぶりにフランス女性の繊細な美しさを堪能した。

トレイラーはこちらで見れます。
https://youtu.be/D2Io9hEl7TA




GOYAAKOD


posted by cyberbloom at 01:04 | パリ | Comment(0) | 日本と世界の映画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
2018年04月15日

『沈黙』の映画化は成功したか?―スコセッシが描く遠藤周作の世界―

マーティン・スコセッシと言えば、初期には『タクシー・ドライバー』(1976)や『レイジング・ブル』(1980)といった斬新な作品でハリウッドの話題を独占し、その後も『カジノ』(1995)や『ギャング・オブ・ニューヨーク』(2002)といった大作を連発し、近年では『ディパーテッド』(2006)で遂にアカデミー監督賞を受賞、コッポラやスピルバーグと並ぶアメリカを代表する映画監督の地位を確立したとされている。その後も旺盛に新作を発表し続けている彼が遠藤周作の『沈黙』を映画化するという情報を得てから、どれほどの時間が過ぎただろうか。あまりにも時間がかかった為、「企画が流れたのでは?」と思った昨年半ばに「2017年公開決定」の知らせが届き、この作品に期待する者はかたずを飲んで公開日を待ちわびたに違いない。



他方、遠藤周作の『沈黙』(1966)と言うと、世界的に読まれているこのカトリック作家を代表する長編小説であり、彼自身の作品群の中では中期の思想――神の沈黙――を最も如実に示したものと専門家からも見なされている。その小説としての完成度から言っても現代日本文学の最高峰に位置するような作品を、「ハリウッドの映画監督が映画化して大丈夫なのか?」、と誰もが考えたに違いない。しかしながら、このスコセッシという監督が、そのキャリアの初期から宗教に対する深い関心(『ミーン・ストリート』、『キリスト最後の誘惑』など)を示してきたということを知る者ならば、この映画化は当然のことのように受け止められたであろう。

映画を観た者たちは、原作小説に対してスコセッシが示した真摯な姿勢に驚かされたのではないか。ほとんどの場面が原作通りに描かれており、付け加えられた場面や改変された場面はほぼないと言ってよい。それに加え、主人公ロドリゴを演じるアンドリュー・ガーフィールドはもちろんのこと、重要な役割を果たすフェレイラ神父に扮するリーアム・ニーソン、厳しい詮議を推し進める奉行井上筑後守を演じるイッセー尾形、通辞役の浅野忠信、そして物語の鍵を握るキチジローを演じる窪塚洋介に加え、信仰を持つ村人役の塚本晋也、ヨシ笈田、加瀬亮らに至るまで、完ぺきな俳優陣によって固められており、観る者は間違いなく圧倒されることになるだろう。

とりわけ、前半部分に登場するモキチ役の塚本晋也の演技は特筆に値する。塚本は、波打ち際に建てられた木製の巨大な十字架に括りつけられ、激しい波を何度も浴びるという拷問をかけられても信仰を捨てない村人を演じ切る。その姿には誰もが度肝を抜かれるのではないか。塚本と言えば、2015年に大岡昇平原作を映画化した『野火』においても監督を務めるばかりでなく主演もこなし、戦場において狂気に陥る兵士の心理を見事に表現したが、ここにおいても重要な役を文字通り「命がけ」で演じている(本人曰く、「死ぬかと思った」そうだが、スコセッシに対する宗教的な敬愛の念がこの熱演を可能にしたとのことである)。

あまりにも有名な小説なので、粗筋は最小限にとどめよう。敬虔な宣教師であったフェレイラが日本で棄教したという情報がポルトガルに伝わり、その真意を探るべく、ロドリゴらが日本に潜入。そこで苛烈な迫害の実態を目の当たりにし、信徒らの命と引き換えに、彼自身もフェレイラと同様に棄教をしなければならない状況に追い込まれる、という展開である。映画でのキリシタンに対する迫害の場面の凄まじさには誰もが戦慄させられるだろうが、これは遠藤の原作通りであり、実証的に調べ上げられたものだ。このようなことが現実に行われていたということを考えると、迫害も含めた宗教的非寛容にはまともな論理が通用しないことが明瞭に分かる。

優れた映画だが、二点、問題がある。まず、映画のクライマックスで主人公のロドリゴが踏み絵に足をかける場面だが、ここは評価が分かれるであろう。ロドリゴが自らの足の下にある、踏み絵に刻まれたキリストの顔を見つめると、どこからともなく声が聞こえてくるという、あの場面だ。原作では以下のようになっている。

「司祭は足をあげた。足に鈍い思い痛みを感じた。それは形だけのことではなかった。自分は今、自分の生涯の中で最も美しいと思ってきたもの、最も聖らかと信じたもの、最も人間の理想と夢にみたされたものを踏む。この足の痛み。その時、踏むがいいと銅板のあの人は司祭に向かって言った。踏むがいい。お前の足の痛さをこの私が一番よく知っている。踏むがいい。私はお前たちに踏まれるため、この世に生れ、お前たちの痛さを分つため十字架を背負ったのだ。」(遠藤周作『沈黙』、新潮文庫、平成23年、268頁)

ここは、原作が刊行された際にカトリック教会が最も問題視した部分だ。確かに、恐らく、最も解釈が分かれる部分であると同時に、映像化の最も困難な部分であろう。原作では、これを司祭の「心のなかの声」のように描いているように思われるが、スコセッシは明確に「別の何者かの声」としてオフ・ヴォイスで挿入している、という点が異なっている。このように、「神の声」を可聴なものとして表現することに対しては、神学的にはともかく、映画の演出としてはどうしても疑問が残ると言われても仕方がないであろう。

そして、もう一点。原作では少なくとも明確には示されていない主人公ロドリゴが亡くなった後の場面――映画の最後の場面――において、スコセッシが施した一つの仕掛けだ(これはこの映画の核心部分なのでここでは明かさない)。この部分はスコセッシ自身による解釈であり、これに関しても遠藤周作の研究者からは疑問の声が上がるかもしれない。しかし、カトリック教徒であるスコセッシとしては、このような形でしか納得できる終わり方を考えられなかったという点も理解できる。この部分は、この作品を観た者に投げかけられた最後の問いとも言える。

しかし、いずれにせよ、極めて真摯な姿勢でこの映画が作られたことは間違いがなく、恐らく日本文学が外国人の手で、これほど精緻に、一寸の隙もなく映画化されたことはかつてなかったと言っても過言ではないだろう。それはやはり、スコセッシのような日本文化に対する深い理解者がいたからこそ可能であったのかもしれない――彼が日本映画から極めて多くのことを学んだと述べていることは、いまや周知の事実だろう――。その意味では、『沈黙――サイレンス――』の誕生によって、世界映画史の一つの画期となる作品が誕生したと取り敢えずは言えるのではないだろうか。


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2015年11月01日

黒沢清、あるいは撮り続ける意思―2015年カンヌ映画祭「ある視点」部門で監督賞―

いまや日本を代表する映画監督のひとり、黒沢清(1955-)が2015年のカンヌ映画祭「ある視点」部門において、最新作『岸辺の旅』により監督賞を受賞した。黒沢はフランスの観客との相性が非常によく、映画ファンの間では日本以上に彼の名声は高い。カンヌでは『回路』(2000)がすでに2001年にコンペティション部門で国際批評家連盟賞を受賞しているし、『アカルイミライ』(2003)もコンペティション部門に正式出品され、2008年には『トウキョウソナタ』が「ある視点」部門の審査員賞を受賞するなど、もはや常連といってもいいほどの存在感を示している。また、日本ではテレビドラマとして製作された『贖罪』がフランスでは2013年に2部作の映画として劇場公開され、話題を集めていた。

神戸市に生まれた黒沢は、灘区にあるカトリック系の名門高校、六甲学院に進学(大森一樹もこの高校の出身)、その後、立教大学へと進む。ここで、黒沢は自主映画サークル「パロディアス・ユニティ」に属する一方、ひとりの教師と決定的な出会いをする。映画論の講義を担当していた蓮實重彦である(蓮實は1968年4月から1970年3月まで立教大学一般教育部の専任教員を務め、同年4月に東大に転出した後も立教で映画論講義を続行する)。「映画を観る」という体験を根底から覆すことになった蓮實の授業がもたらす強烈なインパクトについて、黒沢は自らの著書でたびたび語っている。この蓮實ゼミナールからは他に、塩田明彦(1961-)や青山真治(1964-)のような世界的に活躍する映画監督が多数誕生したことはいまやよく知られた事実であろう。

その後、長谷川和彦ら当時の若手映画監督たちが発起人となった映画製作会社ディレクターズ・カンパニーの立ち上げに最年少メンバーとして参加。しかし、ここで『ドレミファ娘の血は騒ぐ』(1985)、『スウィートホーム』(1989)の2作を撮っていたころは、黒沢にとっては試練の時代であった。「自分の思い通りに作品を撮らせてもらえない」という監督の悩みはいつの時代にもあるものだが、『スウィートホーム』ではそれが決定的な所にまで行ってしまう。この作品の実質的なプロデューサーであった伊丹十三(1933-1997)との確執は当時話題になった。裁判沙汰にまで行くこのトラブルを乗り越えたあたりから、黒沢は独自の世界を切り開き、真の才能を開花させることになる。

1997年製作のホラー映画『Cure』はカルト的な人気を呼び起こし、主演の役所広司の演技にも高い評価が集まった。役所の信頼を得た黒沢は、奇妙な男とその周りの人間との葛藤を描いた『ニンゲン合格』(1999)においても西島秀俊と共に役所を主演に据える。その後も、不思議な一本の木を巡る哲学的な物語『カリスマ』(2000)、「もうひとりの自分」に苦しめられる人間を描く『ドッペルゲンガー』(2003)、『叫』(2006)と三作に亘って役所を主演に起用。独自のサイコ・サスペンスを続々と世に送り届ける。この「黒沢=役所コンビ」作品と平行しつつ、『アカルイミライ』(2003)などの話題作を製作していく。この、休む間もなく自らの本能のおもむくままに作品を撮り続ける黒沢の姿には、かつて、個性的なB級映画を職人的に撮り続けて来た何人かのアメリカ映画作家たちの姿が重なってくる(ロバート・オルドリッチ、サム・ペキンパー、etc….)。


いわゆる「恐怖映画」に深く影響された黒沢であるが、その作品は、巷にあふれるホラー映画やスプラッタ系の作品とは一線を画している。彼の映画の画面が血しぶきや切り落とされた肉体などの具体的なイメージに満たされることはまずない。彼は事物によって人を恐怖に陥れるのではない。黒沢が描こうとするのは、人間が恐怖という体験に直面する際の「緊張感」と「寄る辺なさ」、「逃れがたさ」であり、また、そのような恐怖に直面する前の状態がはらむ「切迫感」である。「何かが起こるのかもしれない」、「何かが起こっているのかもしれない」という予感と感覚に登場人物たちは常に苛まれ、苦悩する。そのような底知れぬ恐怖の状態を抜け出たのかどうか分からぬまま、映画はいつの間にか終わる、という展開が彼の映画のひとつのパターンである。

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そのような作風を堅持していた黒沢に変化の兆しがはっきりと現れたのは、2013年公開の『完全なる首長竜の日』であった。綾瀬はるかと佐藤健という当代きっての人気俳優を主演に据えたこの映画をひとことでまとめれば、SF・サイコ・アクションということになろう。自殺未遂を起こして昏睡状態に陥った恋人(綾瀬)の意識下に潜入した主人公(佐藤)が、その世界の中で恋人の意識を何とかして正常な状態に戻して救い出そうと苦闘する…という物語はクリストファー・ノーランの『インセプション』(2010)に似ており、また、CGを使って首長竜を映像化する辺りは近年ますます流行しているハリウッド映画の規定路線を踏襲しているようにも見える。だが、そのような物語・映像の変化は大きな問題ではない。

この映画での大きな変化は、黒沢が「愛の物語」というテーマを前面に押し出してきた点である。蓮實重彦も「黒沢清はラブシーンを絶対撮ることが出来ないと思っていたが、この映画で見事に覆された」と雑誌で語っており、黒沢自身もフランスのラジオ局 France Culture のインタビューにおいて、「愛そのものよりも、愛することの苦しさに魅かれる」と率直に語り、自分自身でも新境地に達したことを認めていたようだった。今回、カンヌで受賞した『岸辺の旅』は、湯本香樹実の小説の映画化であり、死んだはずの夫(浅野忠信)と旅を続ける妻(深津絵里)との心の交流を描く作品だという。ということは、恐らく、この新たな路線が進められているのだと思う。黒沢がどのように夫婦の姿を映像化しているのか、10月の日本公開が待ち望まれてならない。


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2012年05月24日

灼熱の魂

すさまじい映画だ。

冒頭は何の台詞もない。中東のどこかの国で一人の少年がこちらを見つめてくる。ただそれだけ。並ばされ、髪を次々に刈られる少年たち。こちらを凝視する少年の足首に三つ並んだ点状の刺青。

場面は切り替わって、所はカナダ。フランス語圏。双子の姉弟が突如プールでの事故で不可解な死を遂げた母ナワルの遺言を受け取る。ひどく奇妙な遺言だ。姉には父を、弟には兄を捜せといい、二人が見つかるまでは自分は裸で世間に顔もむけず、うつぶせに墓石もなしで葬ってくれという。遺言が果たされて初めて墓石を置くようにという。

双子がこの遺言を果たすまでが描かれるのだが、いくつかのチャプタ―に話がわかれ、章を追うごとにナワルの辿ってきた言葉に尽くせない凄まじい過去が明らかになっていく。   

そして今まで存在すら知らなかった父と兄の秘密も。冒頭に登場した少年の運命も。



オリジナルのタイトルは incendis (戦火)なのだが、邦題をうまくつけたと思う。まさに灼熱の大地の灼熱の魂。生まれた場所による宗教の違い。ただそれだけから相争い殺しあい、憎しみがまた復讐を呼び、その途切れない連鎖の炎に人は巻かれていく。

許されない愛によって産み落とし、手放さねばならなかった命をいとしいと思えばこそ、宗教は違えども同じ母親と子供が目の前で殺されるのを見、自分の子も又無残に殺されたと絶望した時、信仰も愛の強さだけ憎しみに変わる。

そして手放された子供も又、懸命に母を探していた。ギリシャ悲劇を思わせるあまりにも皮肉な巡りあいに絶望を覚えるが、それでもなお強い母の愛に、かすかな希望を感じるまさに魂の一本。決して楽しい気分にはなりえないが、ずしんと下腹に来る重量感のある作品。演技と思えない演技もまた素晴らしい。

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2012年03月31日

ジョエル&イーサン・コーエン監督 『トゥルー・グリット』

2008年に『ノーカントリー』でアカデミー賞を得たコーエン兄弟の西部劇。原作(チャールズ・ポーティス)は、1969年にジョン・ウェイン主演によってすでに映画化されている(『勇気ある追跡』、ヘンリー・ハサウェイ監督)。

トゥルー・グリット スペシャル・エディション [DVD]物語は、14歳の少女、マティ・ロス(=ヘイリー・スタインフェルド)がアーカンソーへ父親の遺体を引き取りに来るところから始まる。彼女の父親は、たった金貨2枚のために牧場の使用人、チェイニーに殺されたのだ。チェイニーは捕縛を逃れるべく、インディアンの居留地に姿を隠して出てこない。父を殺した犯人が何の処罰も受けず、逃げおおせていることが許せないマティは、連邦保安官のコグバーン(=ジェフ・ブリッジス)を金で雇い、途中テキサス・レンジャーのラビーフ(=マット・デイモン)も加わって、ついにチェイニーを捕らえるに至る。

このように、描かれる事実だけを挙げれば、『トゥルー・グリット』は69年の『勇気ある追跡』と何ら変わるところはない。ところが、これが全くの別物、今回のリメイクは、近来稀に見る「名作」となっている。恥ずかしい話、私はこの作品を見ながら、2回大泣きに泣いてしまった。

最初に胸が熱くなったのは、コグバーンとラビーフに追跡の邪魔だからと言われて岸辺に取り残されたマティが、馬もろとも川に飛び込むシーンである。二人の男は、少女がついて来れないように先に川を渡って、彼女を置いてきぼりにするのだが、マティはここで捨てられてはならじと、自分が乗った馬ごと川に飛び込む。私は馬が泳げるということをこの時初めて知ったが、そのこと以上にこのシーンを感動的なものとしているのは、マティを岸へと運ぶ馬の健気さである(馬はまるで彼女を応援するかのように力を振り絞って泳ぐ)。しかし、この場面の真の感動は馬の運動にあるのではない。それは、川へ飛び込む騎乗のマティをカメラが真正面から捉えたことにこそ求められるべきであろう。前作にも少女(キム・ダービー)が馬に乗って川を渡るシーンはあるのだが、ハサウェイ版ではそれがロングで撮らえられていて、「少女はこうやって川を渡ったのですよ」という単なる事実報告にしか過ぎないのに対して、コーエン兄弟の作品は、馬にまたがった少女を大きく正面から映し出すことによって、彼女の気丈さを表現するばかりでなく、少女の思い入れの「熱さ」を表現することに成功している。それがために、変な言い方だが、2010年版はまぎれもない「女子」の映画となっている。このことは、映画の開巻当初からわかっていたことではあるのだが、『勇気ある追跡』があくまでも保安官ジョン・ウエインの映画であったのに対し、『トゥルー・グリット』は、ヘイリー・スタインフェルド=マティが「まっすぐに」、そして「一人で」選び取る行為(馬の買い取り、コグバーンとの交渉、他)を繰り返し描くことによって、一人の「女子」がその存在を知らしめて行く作品となっている。

また、このことはラストに位置するコグバーンの命がけの疾走場面がもたらす感動とも繋がっている。マティはコグバーンとラビーフの協力のもと、みごとチェイニーとその一味を倒す。ところが、戦いが終わった後、彼女は運悪く岩山の穴に落ちて毒蛇に腕を噛まれてしまう。穴からマティを助けたコグバーンは、彼女の全身に毒が回る前に、馬を乗りつぶしながら、遥かかなたの医者のところまで彼女を運ぼうとする。コーエン兄弟はこの搬送シーンを全くの暗闇の中で撮っている。星空の下、必死に馬を駆る老保安官の形相を見るだけでも、私たちは充分に感動してしまうのだが、観客はこの場面でマティとコグバーンが純粋の絆で結ばれていることを悟る。あれほど子ども扱いしていたマティの存在がコグバーンの中ではっきりとその重さを得たのだ。最初はお金とほんの少しの正義感で結ばれていた二人の関係が、ここで何の混じり気もない純粋の域に達している。私はマティを思うコグバーンの心を思い、気を失っているとはいえ、自分を抱きかかえているコグバーンの心がわかるマティの心を思ったとき、もはや涙をとどめることはできなかった。

コグバーンは最後に人家の灯にたどりついたところで力尽きるのだが、力走の甲斐あって、マティは助かる(ただし、片腕は失ってしまう)。そう、人家の灯を見せるためにもコクバーンは夜の闇の中を走らねばならなかったのだ(この点も、前作は何の工夫もなされていない)。映画では、この後、4半世紀後の彼らへの言及があるのだが、それは見てのお楽しみとしておこう。

このように、『トゥルー・グリット』の素晴らしさは、「女子」の存在を「純粋の絆」の中で浮かび上がらせたことにあるのであり、その「純粋さ」が通り一遍のお涙頂戴劇では達することのできないレベルにまで達しているが故に「名作」たりえているのである。

さて、みなさんはこの西部劇をどうご覧になるであろうか。全国の婦女子諸君、『トゥルー・グリット』を見逃すことなかれ(もちろん、お父さんもボクも)。



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2011年07月08日

瞳の奥の秘密

 どこか懐かしさを覚える画面づくりだ。
機内で見たせいか全体に黄色っぽく見えたからか。それとも女が走り出す列車に追いすがるという昔のメロドラマさながらのあまりに定番な別れのシーンのせいか。
 ラテン映画らしくきっと「濃いだろう」というこちらの期待を裏切らない。人間関係における愛憎。そのどちらもが強く激しい。
 かつて検察書記官だった男が、昔関わったある殺人事件を小説にするところから物語は幕を開ける。
 新婚間もなく殺された美しい若妻。男はアルバムに残された写真の人物の視線(瞳)から犯人を割り出す。男とその友人の活躍の末、犯人は捕らえられるのだが、その処遇を巡って当時のアルゼンチンの政治事情から、予想だにしない方向へと事件は展開することになる。
 瞳は黙っていても語る。
 男が上司である新米検事に寄せる少年のような初々しい憧れ。
 今でいうストーカーの犯人が新妻に向けるゆがんだ視線。
 犯人を求めて毎日駅に立ち続ける被害者の夫の献身。
 いつも酔いどれで情けない友人が見せる思わぬ侠気。
 様々な場面で色々な愛の形を見せられる。
 事件から数十年を経て男に突き付けられるのは衝撃の事実と、長い時間を経ても消えなかった大人の愛。そして憎しみ。
 単なるサスペンス映画ではない。人間の怖さと愚かさでいえばホラーよりもずっと怖い映画だ。主人公の男と検事の年を経て熟成した愛が救いになっている。
 どうにもならない感情に悩んだときに見ると、これに比べると大したことないかと思えます。あくまでもドラマチックな展開に身を委ねる快感を楽しめる一本。


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2010年12月11日

「インセプション」

inception01.jpgレオナルド・ディカプリオってこんな俳優だったっけ?―と首をひねってしまう。いつから常に眉間にしわを寄せてる役ばかりやるようになったのか。あの軽快な彼の持ち味はどこへやら、そんなにのめりこみすぎると壊れちゃうよって感じなのだ。演技力には疑問はないのだからそんなに全力投球しなくてもねえ…また横に広がり続ける顔も心配である。どうかマーロン・ブランドみたいにならないでね。

今回も又眉間にしわのレオである。映画自体は悪くない。巧みにデザインされた夢に相手を引き込み相手の考えを操作する。アイディアを盗むというより相手の潜在意識に小さな種子を植え付ける。それが自分が期待するように育つように。しかしもちろんそう期待通りには事は運ばず悲劇を招くこともあるし、夢もデザイン通りに進行するとは限らない。

この夢の世界の構築は良くできているし画面もはっとするほど美しい。ぐいぐい夢のまた夢に引き込む力とテンポは相当なものだ。退屈する暇はない。油断していると今誰の夢の、どのレベルにいるのかわからなくなる。

ただ核になるディカプリオ演じる男とその妻マリオン・コティヤールの相性はどうだろう。
 
男のデザインした夢に現れては事を妨害する完璧なほど妖しくも美しい女。役どころはマリオンにぴたりとはまっているのだがレオとの相性が良くないように思う。どうも対等に見えないのだ。奥さんー?ううん…似合わない。演技力だけではカバーしきれない化学反応みたいなものがこの二人では生じないような気がする。
 
むしろ夢の新たなデザイナーとして登場するエレン・ペイジの方が、役どころが彼女に合うかは別にして、レオとの相性は悪くない気がする。共に童顔だからか。

ハリウッドスターと言うものの、今一つな役どころの多い渡辺謙も今回はまあまあの役。ただアクションもできる人なのだからもう少し動かしてほしかったなあ…

クールに、無表情にアクションを演じたジョセフ・ゴードン・レビットはスタイリッシュだった。

作りこまれた夢の世界を体感するためだけに見ても損はしない作品。




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2010年09月10日

マラドーナに見る英雄の条件

ワールドカップが始まった。僕はいまテレビのない家に住んでいるので、今回はよく分からないのだが、アルゼンチンが好調だという。監督はディエゴ・マラドーナ。それだけでなぜかわくわくしてしまうのは、彼がすでに神話上の人物に等しいからだ。マラドーナなら、たとえ作戦らしい作戦を立てられなくても、優勝してしまうかもしれない。そうなったら面白い、と思わせる。そうなるために、選手が努力するだろう、と思ってしまう。

神話の世界に生きる英雄であるためには、ある条件が必要だ。それは、自らの役割を反省しないということ。マラドーナは、自分がマラドーナというポップアイコンであることに無頓着である。だから、自分の人生に対してアイロニカルな視点がなく、いつでも自分自身を生きている。マラドーナがときにバカだと思われてしまうのは、まさにこの「他人の眼に映る自分を想像してみる」という反省意識の欠如のためだ。

クストリッツァのドキュメンタリー映画『マラドーナ』は、その点でとても面白かった。欧米の考え方に違和感を覚えながらもヨーロッパで成功した二人だが、カストロとチャベスを称賛する天真爛漫なマラドーナに対して、クストリッツァは何重にも屈折した表情を見せる。麻薬とアルコールの中毒者となり、胃を切除するほどの肥満を経験し、数々の過激発言で物議を醸してきた末に、ついにアルゼンチン代表監督となったマラドーナと、映画と音楽の両方で成功しつつも、祖国を戦乱で失い、亡命者となってパリに住むクストリッツァ。いろんな意味で似ており、かつ対照的な二人の出会い自体が、このドキュメンタリーの主題であり、マラドーナという人物を理解する助けにはほとんどならない。クストリッツァは、結局マラドーナがなぜあのような言動をするのか、理解できなかったのではないだろうか。それは、クストリッツァが、派手な作風にもかかわらず、基本的にはインテリで、アイロニーに囚われているからである。

マラドーナは違う。ライブハウスのマイクを前にして、娘を両脇に抱きかかえて、涙ながらに、その名も「神の手」という自分の半生の歌を歌えてしまうのだ。そして、離婚した妻がそれに手拍子を打ち、合唱する。それを最後列から見つめるクストリッツァは、彼自身が言うように、まるで自分の映画の登場人物を見ているような気分だっただろう。

http://www.youtube.com/watch?v=_FMkL7ulkJ8

映画のラストで、マラドーナは街角でギターを弾いて歌う二人組に出会う。じつは歌っているのは、あのマヌ・チャオなのだが、「マラドーナになりたい/何もかも乗り越えて」というその歌を聴いて、マラドーナ本人がサングラス越しに涙ぐむ場面は、この人物が心の底に抱えている孤独を垣間みた気がして、印象的だった。彼の孤独とは、マラドーナにしかなれないということ、どんな困難に直面して、どんなにみっともない状態を晒しても、自分が生きてきた以外の生き方を考えることができないということなのだ。

http://www.youtube.com/watch?v=4nCPA3-HURw

『イーリアス』の英雄たちは、自分が英雄であることを知らないわけではない。むしろ武運無双を誇り、大言壮語を並べ、にもかかわらず、敵に倒れていく。だからと言って、その英雄ぶりが地に落ちてしまうわけではない。英雄とは不敗の者ではない。最初に述べたように、英雄とは、自分が英雄であることをアイロニーなしに受け入れる者なのだ。その意味で、宗教家に似ているところがある。教祖は自分の説く教義を心底信じていることで、他人を惹きつける。マラドーナにも、そのような素質を感じる。そして、映画によると、実際にアルゼンチンにはマラドーナを神と仰ぐ「マラドーナ教」が存在し、結婚式でサッカーボールを蹴って愛を誓っているらしい。

英雄マラドーナ。監督として、どこまで伝説を作るのか。その結果も楽しみだが、たとえ敗れても、彼の英雄としての地位に揺るぎはないだろう。そんな人物が登場するのも、またワールドカップの面白さの一つである。


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2010年07月16日

グラントリノ -アジアの少年に受け継がれる古き良きアメリカ-

グラン・トリノ [DVD]クリント・イーストウッド監督・主演の『グラン・トリノ』に関してはすでに bird dog さんが「グラントリノはいい車なのか」を書いてくれている。車種を通して話題を広げていく bird dog さんの博識ぶりには舌を巻くが、ちょっと別の視点でこの映画を見てみたい(ネタバレ注意!)。

イーストウッドが演じる主人公のウォルトは、実際にフォードで働いていた、典型的なフォーディズム(ford+ism)の時代の人間である。フォーディズムはオートメーション化された流れ作業に象徴されるが、一方で様々な工具を的確に使いこなす熟練工の技術に支えられていたのだろう。そこにはまだ仕事と技術に対する誇りが確実にあったのだ。しかし、彼の技術を生かせる場所はもうないし、それを受け継ぐ者もいない。

一方、ウォルトの息子はトヨタのセールスマンで、ポストフォーディズム post-fordism に典型的なサービス業に従事している。そしてトヨタと言えば、カンバン方式と呼ばれるリスク回避のための柔軟な生産体制で知られる。今回のトヨタのリコール騒動で暴露されたように、今や車は熟練した職人の手によって作られるのではない。製造業とはいえ実際には単なる組立て屋に過ぎない。ある程度完成したものを下請けから集めて仕上げをしているだけなのだ。だから細かい部品のことまで目が届かない。

ウォルトの息子たちは父親を時代錯誤の厄介者としか思っていない。父親の価値がわからないし、わかろうともしない。しかしウォルトの価値はモン族の少年、タオによって発見される。ガレージにそろった工具の使い方を教えることができたのは、全くルーツの違うアジア系移民の2世だった。2世は同化のキーになる。英語で教育を受け、英語が話せるので、異なったコミュニティーの橋渡し役になれるからだ。おしゃべりで人懐っこいタオの姉、スーの存在も重要だ。ウォルトは単に聞き分けのない頑固ジジイなわけではない。家を修理したり、庭の手入れをしたり、家のことは自分できちんとやる。それだけではなく、近所の放置された家の修理もする(タオにもそれをやらせている)。地域の建物が荒れると、治安が悪くなる。破れ窓の論理だ。ウォルトは彼なりのやり方で古いコミュニティーを守ろうとしているのだ。

グラントリノはウォルトが信じる「古き良きアメリカ」を体現しているわけだが、それは新しい今どきのアメリカとは結びつかずに、アジア的な純朴さとつながり、受け継がれたということなのだろう。タオにはちょうど父親がいなかった。ウォルトはタオの父親のような存在になるが、ウォルトはまたホスト国に同化するためのモデルでもある。ウォルトは昔ながらのコミュニティーの中にタオを招き入れ、民族ジョークや身嗜みなど、コミュニティーの中での口の利き方や立ち振る舞いを教え、仕事まで紹介してやる。自立して、不良の世界に堕ちないためにも。一方でウォルトは遠いアジアから来た、見たこともない衣装を着て、よくわからない慣習を持っている人々を、血のつながった自分の子供や孫たちよりも身近に感じる。うわべだけの関係ではなく、本音で語り合うことができることに驚く。アメリカで忘れられたコミュニティーの暖かさがアジア人のうちに再発見される。

各民族ごとにモザイク状に棲み分け、互いに憎しみあい、縄張り争いに終始するようになってからでは遅い。同化の可能性がほとんどなくなってしまう。ましてや縄張りの中の足の引っ張りあいには、勝手にやってくれって感じで警察も関心を示さない。

この映画は現在紛糾している外国人参政権との問題とも重なり合う。ネットを見ていると、「外国人参政権を与えると日本が反日勢力によってのっとられてしまう」ということらしい。今日のニュースで亀井金融大臣まで「外国人参政権付与が日本を滅ぼす」と言っていた。確かに今の中国や韓国との信頼関係のなさがそういう形で噴き上がるのもわからないではない。しかし少子化対策として外国人労働者を入れるという選択をするのならば、どうやって彼らとうまく共存できるのかという議論とからんでくる。

ネットでの外国人参政権の議論で、ブラジル系労働者が多い浜松市の元市長が、ちゃんと自覚を持ってゴミの分別に始まる市政に参加してもらうために参政権は必要だと持論を述べていた。人手が足りないときに働きに来てもらい、要らなくなったから帰ってくださいでは済まない。すでに魅力的な労働市場ではない日本はタカビーな態度はとれなくなるだろう。外国人参政権は日本に来てもらう移民の人々を迎える態度の問題なのだと。また逆に自分が外国に労働者や移民として出て行くことになったとき(これから経済規模が縮小していく日本では十分ありえることだ)、今度は自分が同じような差別と排除の対象になるかもしれない。そういう想像力も欠けている気がする。

『グラントリノ』に照らし合わせれば、日本の伝統的な価値観を持った日本人が、日本的な規範を失った今の日本人に失望し、その代わりに外国からの移民が日本で生きる際の模範となり、同化を媒介する存在になるというモデルが考えられる。例えば、頑固で保守的な日本の爺さんがブラジルから来た少年と交流し、少年が爺さんから日本的な価値観を受け継ぐというストーリーに置き換えてみればいい。これだったらウヨクの人たちも納得してくれるだろうか。

ウォルトの死に様はキリストのようにかっこいい。でも彼がマシンガン撃たれて蜂の巣になる姿は日本の現実からは程遠い。ウォルトがそういうラディカルな行動ができるのも朝鮮戦争の従軍体験があるからで、そこで何人もの人間を殺しているからだ。こういう問題を解決するにはそこまで身体を張らなきゃだめなのかと、一方では絶望的になってしまうのも事実だ。


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4 争いの種をまいたものは?
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2010年06月09日

「湖のほとりで」

イタリアらしくない映画ともいえるしイタリアらしい映画ともいえるだろうか。

湖のほとりで [DVD]というのもこれは「親子」の映画なのだ。湖の近くにある小さな田舎町。少女が行方不明になるが無事に見つかる。ところがこの少女の口から湖で若い女性が蛇の呪いで眠っているということが語られてから大騒ぎになる。

湖のほとりで全裸で発見された遺体はアンナ。恋人もいてホッケーの主力選手、父親に溺愛されていた美少女とわかる。

そこから犯人の捜査が始まるのだが、小さな町の町民はお互いに顔見知り、さまざまな憶測やうわさが飛び交う。そう多くない登場人物のほぼ全ての親子関係が顔を出す。

犯人と目される少女の恋人は父親を知らず母の手一つで育てられた。捜査の指揮を執る警部の妻は精神病で娘の顔もわからない。真実を知らされない娘はいつまでも子ども扱いと警部をなじる。遺体の第一発見者の男性には知的障害があり、その父親は足が悪く、容姿と才能に恵まれた被害者を憎んでいた。被害者と不倫関係にあったと目される男性には重い障害がある子どもがいたが亡くなっている。

人気があり、将来に何の問題もないと思われた被害者は実は処女で、脳腫瘍であと半年の命だったことがかなり早い段階でわかるのだが、犯罪捜査というのは実にその人の人生を暴きたてるものなのだなあと思いいたる。何が好きで、何が嫌い。どんな人と付き合い、どんな夢を抱いていたのか。殺されるのはもちろん嫌だが秘密にしておきたいこともすべて白日にさらされる。それもまた嫌な話だ。

ここで描かれるのは親子の悲劇だ。親だからといってすべての親が子供を愛せるわけではない。望まれぬまま生まれる子供も多い。たまたま美しく生まれつき、才能にも恵まれるか、障害を持って生まれ親に多大な負担を強いるか。それは蓋を開けてみないとわからない。また愛し合っていてもすれ違うこともある。溺愛もまた行き過ぎると病的なものを感じさせる。

懸命に親業を果たそうとしたけれど果たせなかったとき、それを責める事ができるのかー問いかけてくる映画だ。






黒カナリア

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2010年05月28日

映画 「ジュリー&ジュリア」 I'm Julia Child. Bon appetit!

1949年パリにやってきたアメリカ人主婦ジュリアは退屈な毎日を打破するために、好きな「食べること」をいかそうと、「ル・コルドン・ブルー」で料理を習い始める。初めは包丁を握る手もおぼつかないジュリアなのだが、その明るさとバイタリティーでだんだんと周囲も巻き込みながら、アメリカにはそれまでなかった「家庭でも作れるフランス料理の料理本」を執筆するまでに・・・。

一方、現代のニューヨークに住むアラサーのジュリーは作家になる夢を半ばあきらめ、仕事に疲れる毎日をなんとか打破しようと、尊敬しているジュリア・チャイルドの執筆した本にのっているフランス料理全524品を1年で制覇してその様子をブログにすることを思いつく。



時代や環境は違うけれど、配偶者や友人たちに支えられながら夢に向かって、料理を作る2人を同時進行で描いていく映画です。

とにかく185cmという大柄のジュリア・チャイルドを好演していると評判のメリル・ストリ―プ。微妙にアメリカ人ということがマイナスに働く当時のパリの雰囲気の中で、美味しいものが食べたい、旦那さんにも友達にも作って食べさせてあげたい、そしてアメリカの人たちにも食べさせてあげたい・・・純粋な気持ちと情熱で成功を手にします。かたやジュリーは現代らしく、ブログで成功することがいつしか目的になってしまって純粋に料理が楽しめなくなり、挫折してしまいそうになりますが・・・

ジュリー&ジュリア (イソラ文庫)1950年代のパリと現代のニューヨークの街並み、食材を買いに行くフランスのマルシェと都会の「ディーン&デルーカ」、という様々なコントラストがとても興味深いです。

でも2人が愛用しているお鍋が共にル・クルーゼのオレンジ色のココットだったり、それぞれの優しく支える旦那さんが、奥さんが作った「ブッフ・ブルギニョン」(牛肉の赤ワイン煮込みブルゴーニュ風)を美味しそうに食べている様子は、時代や環境が違えど料理を作ることが与えてくれる幸せだったり、美味しい食卓を囲む幸せが普遍であることを教えてくれます。

私は勉強不足でジュリア・チャイルドを知りませんでしたが、当時コルドン・ブルーの家庭料理コース(ゆで卵のゆで方を学びましょう〜だったりする)ではない本講習をアメリカ人女性が男性ばかりのなかで挫けずに受ける、それは異例中の異例で、想像を超える努力だったのだろうなと思います。けれど彼女はそんな大変さの微塵も見せず、後にはアメリカのお茶の間の料理番組で明るくフランス料理の手ほどきをする。そしてそれは決して気取ったり、小難しいものだったりしない、シンプルな美味しさを伝えようとするものであって、それが彼女の素晴らしさなのでしょう。

ジュリーが深夜旦那さんとジュリアのDVDを見ているシーンがありますが、中にたぶん「サタデーナイトライブ」でダン・エイクロイドがジュリア・チャイルドをものまねしているコントが流れます。

内容はかなりブラックで笑ってしまいましたが、真似されるぐらい彼女はお茶の間の人気者だったんですね。

「ジュリー&ジュリア」を観れば、人が生きていくうえで本質的な食べるという行為を支える「料理」の中に、国によって異なる食文化や、以前に流行った番組「料理の鉄人」のようなエンターテイメント性や、料理を作り上げるという行為の芸術性、達成感そして分かち合うことの幸福感、色々な側面を発見することでしょう。そして、残念ながら最近は長らく人気のないフランス料理ですが、観終わった後には、きっと温かい香りの漂うビストロに行ってみたくなるのではないでしょうか?

□「ジュリー&ジュリア」(公式サイト、予告編)  http://www.julie-julia.jp/
料理で人生が変わる!(コルドン・ブルーHP)
□『ジュリー&ジュリア』(原作:ジュリー・パルエル著) (イソラ文庫)

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2010年05月20日

『アンヴィル!』または半端な才能に恵まれることについて

トロント出身のバンド、アンヴィルのことは、名前さえ知らなかった。1982年に発表されたアルバム『メタル・オン・メタル』は、ヘヴィーメタルの領域では名盤として名高いらしい。日本のロックフェスティヴァルでは、ヴァイブレーターを使ったギタープレイが話題になった(僕はのちにミスター・ビッグが電気ドリルにピックを装着して弾いたことを思い出したが、あれもアンヴィルの影響なのだろうか)。アンスラックスやメタリカといった僕でも名前くらいは知っているバンドのメンバーが、アンヴィルのステージを見たときの衝撃を語っている。ガンズ・アンド・ローゼズのスラッシュに至っては、「僕らは彼らから盗み、そのうえで見捨てた。もっとリスペクトすべきだったんだ」とさえ言っている。

http://www.uplink.co.jp/anvil/

映画『アンヴィル!』は、そんな伝説的バンドの現状を取材したドキュメンタリー映画だ。「伝説のバンド」は、よく数枚の名盤を残して解散する。しかし、アンヴィルは解散しなかった。ヴォーカル&ギターのリップスとドラムスのロブは14歳からの付き合いで、「この世でいちばん近い存在」と呼んではばからない。彼らにとって、いちばん大事なのは、音楽を続けることだった。しかし、バンドでは食えなくなり、現在、リップスは給食の配達係、ドラムスのロブは内装工事現場で働いている。なんだかシルヴァーの名曲「ミュージシャン」を彷彿とさせるが、あれは若い下積みの辛さを歌った曲。50代に差し掛かった二人にとって、「ミュージシャンの人生は楽じゃない」ことは、あまりにも厳しい現実である。

http://www.youtube.com/watch?v=geMC_LDXt1Y

そんな彼らの往年のファンだというルーマニアの女性が欧州ツアーを企画してくれるが、各地のバーやライブハウス巡りは散々な結果になり、プラハでは遅刻を理由に支払い拒否までされてしまう。失意のリップスは、かつてのプロデューサーにデモテープを送る。すると意外にも色よい返事があり、プロデューサーが所有するドーヴァーの個人スタジオで13枚目のアルバム録音に取りかかる。レコーディング費用を稼ごうとリップスは、地元トロントの熱狂的ファンが経営するコールセンターでアルバイトしてみるが、嘘をつけないたちでうまくいかない。結局、彼の姉が200万円相当を貸してくれて、ようやく渡英する。しかし、レコーディングが始まると、プレッシャーを感じたリップスは癇癪を起こして、ロブを罵倒してしまう。プロデューサーが仲裁し、なんとか音源は完成するが、カナダEMIをはじめ、どのレコード会社も出してくれない。「こんな音では、今は出せませんよ」と、糊の利いたシャツを着た社員にあっさり断られてしまう。

Metal on Metalこのあたりを見ていると、バンドが成功するためには、楽曲や演奏の質だけでなく、優れたマネージャーも必要なのだということを痛感する。ビートルズは、ブライアン・エプスタインという青年がマネージメントに乗り出してから、ヒットチャートへの道を歩み始めた。1980年代以降のヘヴィメタ事情に関しては、僕はまったくの無知だが、アンヴィルが時代の潮流に乗れなかったこと以上に、主流に対してアンヴィルを位置づけてくれる助言者が皆無だったことが不幸だったということくらいは想像がつく。

とはいえ、映画『アンヴィル!』がよかったのは、凋落したスターの痛々しい物語ではないところだ。二人には、ちゃんと妻や子供がいて、家庭をまともに営みながら、少年の夢を追っている。そんな彼らを家族たちは温かく、多少のあきらめも込めて、見守っている。セールスというかたちで報われなくても、やり続けること自体が彼らの人生を支えてきたと言える。「人生で一番大切なのは人とのつながりだ。音楽でいろんな人と出会えたことに感謝している」というリップスの言葉は素敵だ。その音楽自体は、残念ながら僕には魅力的には思えなかったけれど、やはりリップスが言うとおり、「人生はいつか終わるのだから、たとえアホな夢でも、今やるしかない」という覚悟は、とても潔く聞こえた。

ドーヴァーで自費制作した13枚目のアルバム『これが13番目だ』をネット上で発売したアンヴィル。すると、日本のプロモーターがアンヴィルをメタルフェスに招待してくれることになる。30年ぶりの来日。幕張メッセで満員の客を前に演奏したところでフィルムは終わる。おまけに、この映画のおかげで、日本ではソニーからアルバムが発売される運びとなった。日本人メタルファンはすごいな。英米ポップスファンの僕は、長門芳郎が、引退してアンティーク家具店を営んでいたアルゾのアルバムをひそかに日本で復刻し、それを知った本人が仰天して連絡してきたというエピソードを思い出した。

大きな文脈で考えてみると、結局のところ、英語圏のバンドであるということが、アンヴィルを完全な忘却から救い出してくれることになったのではないか、と思ってしまう。英語で歌うということは、単にアメリカやイギリスで聴かれる可能性を生み出すだけでなく、英語を母語としない聴衆にも訴えることになる。それは、英語とともにやってきたロックという音楽形式において、英語で歌うことが、もっとも屈折の少ないスタイルだからだ。そうでなければ、僕自身も含め、歌詞を十分に聞き取れない英米ロックをなぜこれほど熱心に聴き続けるのか、うまく説明できないだろう。その背後には、やはり文化的な刷り込みがあると考えるべきである。リズムがすでに身に染みついてしまっているのだ。

それはそれとして、『アンヴィル!』は、人生の目的とは何かということについて、かなり真剣に考えさせられてしまう映画だった。かっこ悪くても、誰も褒めてくれなくても、やりたいことがあるなら今やるしかない、というのは本当だ。と同時に、そんなことは時間の無駄だ、もっと有益なことをすべきだ、という批判に立ち向かうためには、盲目的なまでの自己への信頼と、能天気とも言えるほどの楽観性を備えていなければ、とても続けられるものではない。それもまた才能の一部だと思う。これは、いろんな意味において、誰もを説得する圧倒的才能には恵まれず、しかし人を少しだけ動かすことのできる半端な才能に恵まれた人の勇気の物語である。そして、おそらく、契約や成功に恵まれない多くのミュージシャンや、創造に係わる人にとっても、まったく無縁の話ではないはずだ。


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2010年05月06日

「ゆれる」

ゆれる [DVD]香川照之とオダギリジョーが全く似てない兄弟を演じている『ゆれる』。ゆれているのは吊り橋だけではない。(ネタバレになるので映画を見てから読んでください)

才能ある人間は自由に移動できる。クリエイティブな人間はひとつの場所に縛られずに、移動しながら仕事をする。弟は派手なアメリカ車(フォード)に乗っていて、オルガン入りのジャズがバックに流れる導入のスタイリッシュなシーンはアメリカの郊外を思わせるが、それは弟の自由な感覚を決定的に印象付けている。一方兄は仕事と家庭に縛りつけられている。兄の仕事が、車にガソリンを供給し、車を整備する、つまり車に奉仕する仕事というのが象徴的だ。家では頑固な父親の相手をし、母親を失くしたあとは家事もやらなければならない。

弟の存在が田舎の人間の隠されていた劣等感や欲望をあぶりだしていく。それを容赦なく自覚させるのだ。危険をさけて臆病に生きていたら(つまり田舎にとどまっていたら)、何にもない人生になってしまったという、死ぬ直前の千恵子の告白が重く突き刺さる。誰も責められないような、不幸な男と女のあいだに起こった事件だが、引き金をひいてしまったのは弟だ。成功したカメラマンなんてそういるものじゃないが、不幸にもそれを弟に持ってしまった兄。クリエイティブな人間は自由にふるまい、欲しいものを簡単に手に入れる。兄のかけがえのない、ささやかな幸福を、遊び半分で奪ってしまった。裁判の場で告げられる、被害者の体内に残っていた物的証拠があまりに生々しく、残酷である。

私たちは裁判を通して事件の真相や客観的事実が暴かれると信じている。しかしそんなものは存在するのだろうか。芥川龍之介の『藪の中』のように、それぞれの立場からの視点によって現実が相対化されているだけでなく、さらには思い込みと抑えきれない感情によって、現実は容易にゆれ動き、塗り替えられる。裁判員に当たってしまったら、こういう現実を吟味させられることになるのだろう。そして裁判の過程で作られる真実とは全く別物の、映画を見る者に暗示されるだけの内的な真実がある。

都会と田舎のメンタリティーが兄と弟のあいだで入れ替わっていく過程も見物だ。不幸な事故がきっかけで、兄の心は「都会的に」すさんでいく。夢も希望もない反復の地獄からようやく解放されたのが塀の中という皮肉。一方、弟の方は忌み嫌い、捨て去ったはずの共同体に固執し始める。

「都会と田舎」は19世紀の近代小説の始まりからの主要なテーマである。都会に出て一旗揚げようとするのは近代人の典型的な行動パターンだ。小説だけでなく、「都会で夢破れる」というテーマは映画や流行歌の定番でもあった。かつては成功できなくても少なくとも挑戦することはできた。しかし現在、夢破れるどころか夢にトライすることすら難しいという閉塞感が田舎にはある。越えがたく広がる希望格差。実際、自分が田舎に帰ると、繁華街ですら若者や子供の姿が少なく、少子高齢化の状況も切実に感じられる。不況がやってきても、なすすべもなく立ち往生しているような地方の姿は、そのまま今の若い世代と重なり合う。

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2010年05月05日

「昔々、西部の街で」…懐かしの70年代の名優たち(11)

ウエスタン スペシャル・コレクターズ・エディション [DVD]『昔々、西部の街で』なんてそんなタイトルの映画はあったろうか、とお思いの方はいるかも知れない。この映画の英語タイトルはOnce upon a time in the West。日本では単に『ウエスタン』(1968)というタイトルで公開されたセルジオ・レオーネの最後の西部劇である。英語タイトルを見ればわかるように、実はこれは『夕陽のギャングたち』(1971)、『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・アメリカ』(1984)(レオーネの遺作)と三部作をなしている。『夕陽〜』の仏語タイトルはIl était une fois la Révolution(『昔々、革命がありました』の意)であって、仏語ではこの三本は全てIl était une fois…で統一されている。

『ウエスタン』という映画を初めて観た人は面喰ったことだろう。もともとレオーネの映画は型破りな作風で有名だが、この思わせぶりで勿体ぶった展開は一体何なのかと思ってしまう。クリント・イーストウッドが降板した結果、チャールズ・ブロンソンが主演を務め、ヘンリー・フォンダ、クラウディア・カルディナーレが脇を固める、という具合にキャスティングの点では申し分ない。しかし、何といっても、ヘンリー・フォンダが凄まじい。ネタばれになるので残念ながら詳細は明かせないが、ジョン・フォード監督『いとしのクレメンタイン―荒野の決闘―』(1946)で颯爽とした保安官を演じたあのフォンダが、この映画では極悪非道の人物を演じている。こんな役を彼がやっていいのか、と誰もが驚かされたのではないだろうか。

夕陽のギャングたち (アルティメット・エディション) [DVD]『ウエスタン』という映画は実は60年代の映画であり、70年代の映画を扱うこのブログにはふさわしくないかもしれない。だが、そうとばかりは言えないだろう。レオーネ+イーストウッドのコンビは60年代に数多くの西部劇の傑作を世に送り届けてきたが、『ウエスタン』はそのレオーネによる最後の本格的西部劇といえる作品である。その為か、この作品は妙に哀愁に満ち満ちている。モリコーネの音楽にしてからが、もう、西部劇の音楽とはとても思えない。これではまるでオペラの音楽であり、じっと聞いていると葬送行進曲のようにも聴こえてくる。レオーネは60年代の映画と西部劇というジャンルに、この映画で自ら終止符を打とうとしているようだ。実際、レオーネは『夕陽〜』以後13年ものあいだ映画を撮らなくなる。

西部劇というジャンルは1930年代から50年代にかけ(いやもっと以前から)、もっとも「映画的な」ジャンルであった、ということを否定する人はいないであろう。ジョン・フォード、ハワード・フォークスらによって鮮やかに切り開かれた裾野は、そのマニエリスム的再現といってもいい、レオーネを中心とする60年代のマカロニ・ウエスタンにおいてもその映画的魅力に衰えはなかった。もちろん、そこに投影されたネイティヴ・アメリカンの表象や暴力描写に関しては、現在の観点からは批判されても致し方ないものであろう。しかし、このジャンルに関わった者は純粋なる映画的楽しみ、アクションの追求という考えから西部劇を生み出していったのであり、そこに何らかの高邁な思想や社会に対する眼差しを取り入れようという気は初めからなかった。せいぜい「兄弟愛」や「仲間意識」といった程度の思想が盛り込まれる中で、これらの映画は作られていったのである。

ワンス・アポン・ア・タイム・イン・アメリカ [DVD]だが、『ウエスタン』には、鉄道の建設というテーマが挿入されている点が特徴的である。アメリカの東部と西部を結ぶ大陸横断鉄道の建設が徐々に進んで行き、相互に孤立していた幾つかの町が一つに結ばれ、アメリカが一つの国になろうとする過程が映画の端々で暗示されるのだ。しかしながら、誰もが分かるように、そのようなテーマは全く西部劇的ではない。それはこのジャンルの中心をなす「アクション」を完全に封じてしまうような鈍重なテーマなのだ。このようなテーマを西部劇に持ち込めば、このジャンルが崩壊することは目に見えているのだが、レオーネはそれをせざるを得なかった。理由は「ネタが尽きた」からである。こうして、歴史学的、社会学的方向への転換を契機に、西部劇というジャンルは自己崩壊を起こしていく。

そういう意味で、この映画は西部劇というジャンルに惜別の思いを綴った作品であるといえよう。70年代以降、本格的な西部劇は姿を消す。幾ら、再起を図ろうと様々な試みをしたとしても(ローレンス・カスダン『シルバラード』(1985)など)、それらはことごとく失敗に終わらざるを得なかった。そして、数々の傑作に主演してきたイーストウッド自身が監督・主演した『許されざる者』(1992)によって、虫の息で生き延びてきたこのジャンルは完全に葬り去られることになるのだ。






不知火検校

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2010年04月15日

腑抜けども、悲しみの愛を見せろ!

腑抜けども、悲しみの愛を見せろ (講談社文庫)何だか馴染みのある方言だと思ったら、舞台は自分の故郷からそう遠くない場所だった。田舎のからみつくような引力を振り切って、圏外に飛び出すには狂気じみたパワーがいる。東京の大学を受験するという安易な方法ではなく、女優になるとか、漫画家になるとか、そういうケモノ道を行く場合はなおさらのことだ(※ネタバレになるので、見ようと思っている人は見てから読んでね)。

究極の勘違い女、澄伽(すみか)を佐藤江梨子が演じる。見事な逆ギレぶりは逆に清々しさを感じるほどだ。地味でオタクな妹、清深(きよみ)も派手な姉に負けないくらいのパワーを内に秘めている。自分の身に降りかかった最悪の不幸さえもホラー漫画でリアルに表現せざるを得ない。さらには兄と姉の危険な関係さえも観察の対象にしてしまう、好奇心旺盛、ナチュラルボーンなアーティストなのだ。それに澄伽にとって自分の本当の価値を教えてくれたのは兄ではなく、いじめ倒していた清深だった。兄は物分かりの良い顔をしながら、家族の病理をひとりで抱え込み、延命させていただけ。「家族、家族」と言いながら、兄の気遣いは全く的外れで(死ぬ必要だって全くなかった)、それは結局家族を壊すことにしかならなかった。兄が死んで姉妹は自由になり、ようやくふたりで外に飛び出していけるのだ。

サトエリもハマリ役だが、待子(まちこ)役の永作博美の怪演も見逃せない。夫の姉妹たちとは逆に、東京に生まれ、東京で育ったが(コインロッカーに捨てられ、孤児院で育った)、結婚相談所を通して田舎に嫁いできた。そういう待子の微妙にずれた狂気をうまく演じている。ぶん殴られて畳の上をゴロゴロ転がったり、めんつゆをぶっかけられたり、処女のまま放置する夫に必死にセックスをせがんだり。それに彼女が作る人形の気持ち悪さときたら。ずっと孤独だった待子は家族を求めて田舎にやってきたわけで、彼女なりに自分の欲望を田舎の新しい家族に刷り合わせようと必死だったのだ。おせっかいながら待子のその後が非常に気にかかる。

CM監督から初めて映画を撮ったという吉田大八監督は、テンションの高いドラマの合間に、スタイリッシュに切り取られた田舎の風景をまるで洗練されたCMのようにはさみこんでいる。あの切り取り方は田舎にどっぷり浸かった人間からは出てこない。自分も田舎に帰ったときああいう風に田舎を見ようとするからだ。疎外感とノスタルジーのあいだに引き裂かれるような感情と一緒に。

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2010年04月08日

「エリ、エリ、レマサバクタニ」 Eli, Eli, Lema Sabachthani ?

エリ・エリ・レマ・サバクタニ 通常版 [DVD]以前から気になっていた青山真治の「エリ、エリ、レマサバクタニ」(第58回カンヌ映画祭ある視点部門出品作品)を見た。タイトルは十字架にかけられたキリストが息を引き取る前に叫んだ言葉だ。最初から既視感と今さら感が抜けなくて、30分くらいで見るのをやめようと思った。人間を自殺させるレミング・ウイルスの蔓延だって?ノイズの轟音は80年代にさんざん聴いたので今さら驚きもない(暴力温泉芸者の中原昌也が俳優として出演している)。2006年に撮る映画なのだろうかと。しかし陰気な顔をした宮崎あおいが登場したあたりから少し空気が変わった。気を取り直して続きを見た。

エリ、エリ、レマサバクタニ(わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになったのですか)。神に見捨てられることは、最終的なセーフティーネットにさえ見捨てられるということだろうか。確かに今の時代ほど不透明な空気に満ちていて、人間の存在が根っこから見捨てられる感覚にとらわれる時代はない。レミング病が流行らなくても、すでにうつ病や自殺の時代になっている。一方で去年インフルエンザが大流行して、目に見えないウィルスの恐怖(メディアティックな伝染も含めて)を私たちは身をもって感じた。

レミング病を治すには、二人が奏でる音楽を聴くしかない。今では音楽療法が一般化していたり、「癒しの音楽」と呼ばれる音楽があったり、音楽の治療的な側面が注目されるようになっている。音楽は音を方向づけ、安定と調和を表現する。そもそも人間の文化は荒々しい自然を反復と形式の中に押し込めることで成立し、それが人間の生活に安心を与えてきた。音楽はノイズ(無秩序な音)のコントロール&オーケストレーションという意味で人間の文化の象徴だった。

しかし人間を守っていた文化=音楽が崩れ始めている。人間を保護膜のように包み、精神を安定させていた音楽が失われつつある。私たちは剥き出しの自然と宇宙に直接向き合い、それらが放つ生々しい音を聴かなければならない。本来、音(楽)を聴くことはそういう経験だったはずだ。ノイズミュージックは壊れた音楽なのではない。人間が分化する以前の、原初的な音楽なのだ。泡立ち騒めく細胞の音、生命が飛躍する瞬間の絶叫のような。

最近新聞で読んだのだが、ウィルスの侵入が従来考えられていた以上に、生物の進化に大きな影響を与えてきた可能性があるらしい。人間のDNAにもウィルスの遺伝子が組み込まれていて、人類の生命に根本的な変化をもたらしてきた。人類のDNAを書き換えるのがウィルスだとすれば、新しい音楽に対する感受性を呼び込むのもまたウィルスなのかもしれない。

不治の病を治す音楽を設定することは、音楽に絶対性を持たせることになる。キリストの死に全人類の贖罪の絶対的な瞬間を求めるように。しかしそういう絶対的な(宗教的な)瞬間を失った代わりに、それを埋め合わせるために、私たちはそれぞれ音楽を聴いている。相対化された音楽を孤独に消費している。それは楽園を追放された人間の宿命なのだ。ノイズミュージックもまた趣味性の高い音楽で、感情移入できる人間はむしろ少数派だろう。音楽を共有することは難しく、音楽を介した共感はそう簡単に起こることではない。ましてや万人が陶酔できるような絶対的な音楽なんて不可能に近い。それでも人間はそれを夢見ずにはいられないのだ。

長髪の浅野忠信が近未来のキリストを演じる。広い青空の下の黄色い平原でノイズギターをひきまくる。ノイズによって罪を贖うキリストだ。十字架のように屹立する縦長のスピーカー。目隠しをした黒衣の宮崎あおい。このシーンを見せてもらっただけで十分だ。監督もこれを撮りたかったのだろう。何かピンク・フロイドの「ライブ・アット・ポンペイ」を思わせる神々しさがあった。

「エリ、エリ、レマサバクタニ」公式サイト 




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2010年04月03日

「トウキョウソナタ」

トウキョウソナタ [DVD]2008年のカンヌ映画祭の「ある視点」部門で審査員賞を受賞した『トウキョウソナタ』を見た。キャッチコピーから、もっと淡々とした感じの映画かと思っていたら、シャレになっていないシーンも多く、かなり深い部分をえぐってくるような衝撃を感じた。しかし直視すべき映画である。派遣村の報道などでしばしば垣間見られる底の抜けた東京の現実。そして完全に破綻した世代間のコミュニケーション。

リストラにあった夫(香川照之)は46歳。微妙な年齢だし、微妙な世代だ。50代、60代と違って「昭和的価値観」で目と耳を閉ざしたまま逃げ切ることもできない。自分自身それに疑念を抱いているから、まるっきり張りぼてなのだ。子供に対して怒鳴ったり、殴ったり、旧態依然とした権威を振りかざすが、説教の内容は「おまえが言うな」って感じで、そのまま自分に返ってくる。むしろ子供たちが見ていてかわいそうだ。子供たちは今までよりもいっそう早熟にならざるをえないのだろう。なぜなら親たちの価値観ときたらまるで全く使いものにならず、逆に有害ですらあるからだ。人生の方向付けにアドバイスできるどころか、子供たちからは親たちの思考停止ぶりやバカさ加減がはっきりと見えている。だから早くから自分で自立と自活の道を模索しなければならない。

次の世代に何も伝えられない。生きる指針として伝えるものが何もない。これが最も深刻な事態なのだろう。下の世代からは「あんたたちはバブルで浮かれて、バブルの余力で生き残っているだけじゃないか」というふうにしか見えない。「父親の権威」なんて羽振りの良かった時期の、年功序列と終身雇用に裏打ちされた「男性正社員」という身分によって担保されていたにすぎない。それだって自分で考え抜いて選択したものではなく、時流に流されてきたにすぎない。オルタナティブについて考えたことすらないから、その虚像の上塗りを繰り返すしかない。子供がアメリカの軍隊に志願しても、なぜそれがダメなのか説得力のあることが言えない。家族がセーフティネットになるか、泥舟になるかは、日ごろから話し合っていかに価値観を詰めておくってことだろうか。最後の砦である家族のあいだでコンセンサスがとれていないことは今の時代にあっては限りなくリスキーなことなのだ。私自身の、あるいは同世代の周囲の家族を見ていてもそれを実感させられる。

トウキョウソナタ(竹書房文庫た1-1)もうひとつ会社という組織の変化がある。前の会社で総務課長をやっていた自分が何で他の会社で受け入れられないのか。主人公の男は傷ついている。リストラされた会社でも、新しい会社の面接でも「あなたは会社のために何ができますか」と聞かれて何も答えられない。質問の意味すらわからない。新しいアメリカ式の人事は「すぐここであなたの能力を示してください」とまで言う。日本のサラリーマンの能力は、ある会社のある部署で培われるローカルな能力なので応用が利かないとしばしば指摘される。男は苦し紛れに「人間関係を円滑にできます」と言うが、そんなものは何の役にも立たない。「フランステレコムで何が起こったのか」で書いたことだが、今や労働者は与えられた仕事を従順にこなすことを求められているのではなく、潜在的な能力を持った人的な資本とみなされ、常にみずからの能力を開発しなければならないのだ。

小泉今日子はいい感じで歳をとっている。私と同い年だったと思うが、彼女が16歳でデビューしたときあまりにかわいくてファーストアルバムを予約してしまったほどだ。彼女と、リストラにあった夫と一緒に心中してしまったもうひとりの主婦とは、どこが違ったのだろうか。とにかく現状を受け入れようと開き直ったことだろうか。コミュニケーションが取れたわけでも、価値観を刷り合わせたわけでもない。その作業はこれからだ。ドビュッシーのピアノソナタが家族の再生を奏でる。

「トウキョウソナタ」公式サイト




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2010年03月09日

かもめ食堂

かもめ食堂 [DVD]フィンランドで「かもめ食堂」を開く日本人女性(小林聡美)が主人公。フィンランドと言えば、ムーミンの舞台になった美しい森と湖がトレードマーク。北欧の夏の淡い光も印象的で、それが映画に決定的なトーンを与えている。

小林聡美も、片桐はいりも、もたいまさこも全然好きな女優じゃないし、彼女たちのノリにも正直あまり馴染めない(昔やっていた「やっぱり猫が好き」というTVドラマを思い出す)。キャスティングからある程度展開と雰囲気が想像できたが、意外に面白かった。まるでみんなが何とはなしに「かもめ食堂」が気になり、引き寄せられていくように。

客はそのうち来るだろう、とりあえず迎え入れておけばそのうち何とかなるだろう。そんな主人公の軽やかな自信とオプティミズムが食堂というゆるい関係の場を支え、男っ気のない女性のあいだの淡々としたやりとりが続く。草食系の日本オタクのフィンランドの若者は出てくるが、日本人男性は全く出てこない。それが日本の男性社会をネガとしてあぶりだしているように見える。そのしがらみがない場所では、日本人女性はこういうナチュラルな空気と関係を作れるんだという驚き。それに日本人女性の洗練、清潔感、趣味の良さといったものが、北欧の空気に違和感なくなじんで映る。

それぞれ勝手な思い入れや偶然によって、フィンランドにやって来るのだが、人間関係はそういうものが折り合って、刷り合わさって出来ていく。外国との関係を取り結ぶときも、その国に対する勝手な思い入れから手探りで始まる。ガッチャマンとかムーミンとか、一見取るに足らないことも重要な結び目になる。最初、日本人とフィンランド人が並んでいる姿に違和感を感じたが、荻上直子監督の言語と文化の超え方にはそれなりの説得力があった。やはり食は重要な媒介だ。

「かもめ食堂」-trailer




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2010年02月17日

役者としてのポランスキー、あるいは迷宮としてのパリ〜懐かしの70年代の名優たち(10)

2009年9月、映画監督ロマン・ポランスキーが滞在先のスイスで身柄を拘束されたというニュースが流れた。このブログでも以前に触れた、32年前のアメリカでの暴行容疑の為である。マーチン・スコセッシら世界の映画人たちが彼を支援する声明を発していたが、どうやら釈放される見通しである。新作の完成も控えているということで、気になるニュースであった。さて、ここではクリント・イーストウッドと同様に、フランスで最も愛されている映画作家の一人、ロマン・ポランスキーについて語ってみよう。

戦場のピアニスト [DVD]最近のポランスキーといえば『戦場のピアニスト』(2002年)が米国アカデミー監督賞を受賞したり(しかしもちろん授賞式には出席していない)、ディケンズ原作の文芸大作『オリバー・ツイスト』(2005年)を世に出したりと、妙に巨匠じみた振る舞いをし、またそのような扱いをされているのが目につく。しかし、昔からのポランスキー愛好者は最近の作品には到底満足していないだろう。ポランスキーの真骨頂は彼の60年代後半から70年代の活動にこそあるのだから。

むろん、『マクベス』(1971年)がシェークスピアの史劇をおどろおどろしい恐怖映画に変貌させたとか、『テス』(1979年)が女優ナスターシャ・キンスキーを世に送り出し、トマス・ハーディの原作を映画史に残る傑作に仕上げてしまった、という程度の話ではない。これらの作品でもまだポランスキーらしさが完全に発揮されているとは言えないのだ。むしろポランスキー自身が役者として出演する作品にこそ、彼の映画の真髄があるのではないだろうか。例えば『吸血鬼』(1967年)。このオカルトなのかコメディなのか分類不能の映画の中で、頼りない生真面目な青年を嬉々として演じているポランスキーは実に素晴らしい。そして『チャイナタウン』(1974年)。ジャック・ニコルソン主演のこのフィルム・ノワール史上に残る傑作の中で、突然、主人公にナイフで切りかかる男として登場するポランスキーは自分の映画が孕む衝撃を完全に掌握しているという印象を与える。この頃の彼の映画が持つ強度を我々は忘れることが出来ないであろう。

しかし私が一番問題にしたいのは、日本では未公開の『下宿人』(1976年)という映画だ(『テナント/恐怖を借りた男』という邦題でビデオ発売あり)。この作品こそ、その後のポランスキーの世界を決定付ける作品になったといっても過言ではない。パリに住む会社員の男(ポランスキー)が、あるアパートに引っ越す。若い恋人(イザベル・アジャーニ)も出来て、新しい生活が始まろうとする。だが、どうやらその部屋の以前の住人に何か悲惨な出来事があったらしいのだが、詳しいことを知ることが出来ない。しかし、ことあるごとに以前の住人の影が男のそばにしのびより、次から次へと男の身辺に奇怪な出来事が起こり始める。男は精神的に追い詰められていく。これは現実なのか、それとも男の単なる妄想に過ぎないのか…。

こういう人物を演じるとき、ポランスキーは実に巧みな俳優となる。これはポランスキーがパリに住み始めたころの作品だが、まるで彼自身がパリという都市の中で彷徨っている様を捉えたかのようにも思えてくる。この作品はこの年老いた都市に住む魔物、その迷宮的感覚を見事に捉えた傑作であると思う。魔術的幻惑を生み出すことに長けたポランスキーの映画術にかかればパリがこのように不気味な街に変わってしまうのかと誰もが唸らされるのではないだろうか。

フランティック [DVD]実際、このあとのポランスキーの映画はこの『下宿人』を反復しているのではないかと思える。例えば、『フランティック』(1988年)では学会の為にパリに滞在しに来た医師(ハリソン・フォード)のもとから妻が忽然と姿を消す。彼女を探していくうちに理由の分からぬ犯罪の中に巻き込まれ、男はパリという見知らぬ都市の中で彷徨い続けることを余儀なくされる…。また、『赤い航路』(1992年)では謎めいた美女の魅力に憑かれた初老の作家がパリの街で果てしなく転落していく様が描かれる。そして、『ナインスゲート』(1999年)では廃墟に残された古文書の解読を任された探偵(ジョニー・デップ)が、行く先々のパリの街角で奇怪な殺人事件に巻き込まれ、いつのまにか狂信的組織の犯罪に絡め取られていく…。まさに、『下宿人』のテーマをポランスキーは繰り返し映像化しているのだ(主人公を幻惑の中に誘う女が常にエマニュエル・セニエというポランスキーの妻でもある女優によって演じられることも興味深い)。

ポランスキーにとってパリは常に自身のアイデンティティーを揺るがされる迷宮に他ならない。自分が信じていたものが消え去り、自分が確かだと思っていたものの根拠が瞬く間に失われていく場所。いかなる人物もそこで安息を得ることは出来ない場所。それこそがポランスキーにとってのパリなのだ。彼はそれ以外の形でパリを捉えることはできないし、そうする気はさらさらないであろう。

このようなポランスキーの映像感覚は彼がポーランドという地図上から三度姿を消した国の出身であることと無関係ではあるまい。国家ほど彼にとって不確実であるものはこの世にはないのだ。いつ自分の住む場所を奪われるのか。いつ自分が自分であることを否定されるのか。これこそがポランスキーが常変わることなく持ち続けている感覚なのだ。こうした感覚は彼がどのような名声を得たとしても変わることはないだろう。そしてこれは一人ポランスキーだけのものではなく、実は誰もが感じてもおかしくない普遍的な感覚なのではないだろうか。





不知火検校

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2009年10月03日

「あなたになら言える秘密のこと」

あなたになら言える秘密のこと [DVD]辺見庸氏が現代は全てがコーティングされた世界だと語っていたがその通りかもしれない。恐ろしいこと、ひどいことが身近に起きていても人はすぐにそれに慣れてしまう。それを直接に感じられなくなっているのだ。当事者を除いて。考えみるとひどい事件がいくつもあったのにその一つ一つを思い出せなくなっている。しかしそれに巻き込まれた人たちの時間は止まったままだ。

サラ・ポーリーはハリウッドから距離を置いている理由について、インディペンデント系の映画や出身国カナダへの思い入れを語っていたが、ハリウッドが取り上げないような、しかし忘れがたい秀作にあの静謐さをたたえた深いブルーの瞳で登場する。
 
映画をみているとカラーなのに色のない映画だと気付く。色がないといってもモノトーンなわけではないのだが彼女の身につける服の色、景色、職場の工場、強制的に取らされた休暇中の旅先から不意に飛び込んだ北海油田の掘削所。全てがくすんだ、華やかな色合いが抜け落ちた世界。ヒロインの生活もただ工場と自宅の往復のみ。交わされる会話もない。食べるのはいつもチキンと米だけ。

透明な何かで周囲から切り離されたような彼女ハンナは、油田の事故でひどい火傷を負い、後遺症で目が一時的に見えなくなった男に出会う。目が見えずに彼女の看護に身を任せる男は苦痛を紛らわせるためか彼女に話しかける。答えない彼女。

周囲の口の重い仲間達たちから少しずつ事故の詳細を聞いた彼女もわずかずつ男に打ち解け始める。

ティム・ロビンスというとまずあの大きな体とそれに似合わず威圧感のないキューピーのような顔が目に浮かぶ。その大きな体を今回は動かせない。目の演技も封じられた難役を体のわずかな動きと声、表情のみでこなす。体と心の両方の痛み、男は彼女にひとつずつ秘密を打ち明ける。たわいもない話題から思わぬ少年時代の心の傷と事故の原因。

対する彼女も少しずつ変わり始める。二人がつい噴き出すシーンではこちらもなんだかほっとしてしまう。そして彼を病院に移す前日、ついに彼女も自らの秘密を語りだす。


ショックだったのはなんと簡単に人間は忘れてしまうのかということだ。癒えない傷を抱えてそれでも生きていかねばならない人がいるのに、そんなことあったっけと簡単に忘れてしまう。傷を受けた当人は傷の深さゆえ語らない―語れない。ティムの大きな体がここで活きてくる。すべてを語っても彼ならばひょっとして受け止めてくれるかもしれないーと。

ラストシーンで草原を歩いてくる子供たちの身に着けた鮮やかな赤が目に入る。かすかな希望の証として。


あなたになら言える秘密のこと [DVD]
松竹ホームビデオ (2008-11-27)
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おすすめ度の平均: 5.0
5 外見からはわからない
内面の苦しみを表現しきった良作




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2009年08月28日

グラン・トリノはいい車なのか

grandtorino01.jpgクリント・イーストウッドの最新作『グラン・トリノ』は、移民問題、家族間の対話、友情と無理解、銃器と暴力の蔓延、法律や宗教の限界など、さまざまなテーマをコンパクトに織り込んだ脚本も素晴らしいが、何よりもイーストウッド本人の圧倒的な存在感を確かめるための映画でもある。そのことについては、もはや贅言を要さないだろうから、ここでは別のことに注目したい。それは、題名にもなっている車、グラン・トリノ(Gran Torino)のことだ。

グラン・トリノはイーストウッド演じるウォルト・コワルスキーが働いていたフォード社の誇りである。日本製の自動車を乗り回す彼の息子やその家族にはとりわけ譲りたくない品だ。そんな風に状況が説明される。だが、僕にはその思い入れが共有できない。映画を見ながら、そもそもグラン・トリノってそんなにいい車なのか、という疑問がずっと頭にこびりついていた。

まず、僕自身も含めて、日本で育った人のほとんどは「グラン・トリノ」がフォード社の車名だということに、すぐには気づかないだろう。サンダーバード(ビーチ・ボーイズの歌でお馴染みのいわゆるT-Bird)やムスタングならまだしも、トリノはこれまで、映画やドラマなどでも、さほど脚光を浴びてこなかった。映画のなかで、モン族の不良集団が盗もうとしていた、ウォルトの所有する72年型グラン・トリノは、見るからに素敵なクラシックカーだが、それはきれいに保存されてさえいれば、別にこの車でなくてもよかった、と言えるかもしれない。事実、Wikipediaによると、トリノという中型車のシリーズは、たとえば同時期に発売されたシヴォレー・シェヴェルと較べても、さほど人気のある車ではなかったらしい。

http://www.youtube.com/watch?v=KoLMLFz2Hg8
http://en.wikipedia.org/wiki/Ford_Torino#Popularity

ヌーヴォー・ロマンの作家として有名なミシェル・ビュトールに『モビール』(1962)というアメリカ旅行記がある。横長の変形判に印刷されていて、作家の目に映った外的世界の断片的記述と、作家の意識に捉えられた対象の描写と、通過中の土地の歴史や雑多な情報が、同時進行的に表れるという、複雑な構成をもつ。『グラン・トリノ』を見て、なぜこの旅行記の話が出てくるのかと言えば、ページの左端に、作家が車で旅しながら道路上ですれ違ったり、追い抜いたりした車の種類をいちいち書き留めていて、かつて読もうとしたときに、この固有名詞の羅列がどうにも分からなかったことを思い出したからだ。よほどアメ車を趣味にしていないと、この本に出てくるMercury, Nash, Oldsmobile, Packard, Plymouth, Rambler, Studebaker, Willysといったメーカーが、そもそも現存しているかどうかさえ、言い当てることができないだろう。同時代のフランス人読者にも、どのくらい固有名詞として認識されていたのか、疑問に思う。

固有名詞は、その指示する対象を知らない者には、謎の言葉でしかない。だが、車種を熟知していなくても、これらの車の名前が、それぞれの乗り手の記憶と結びついているだろうということには思い至る。今では誰も乗らない車の名前は、誰かがそれに乗っていた時間と結びつく。忘れられた固有名詞は、忘れられた歴史と結びついているのだ。

そうした車の歴史に関して印象深いのは、ジャン=ポール・デュボワの小説『フランス的人生』の主人公の父親が、Simcaの整備工場に勤めていた、というエピソードだ。シムカは1970年代にクライスラーに吸収されてしまったフランスの自動車メーカーだが(そのクライスラーも先日ついにGMに吸収されてしまった)、現代のフランスの若者にとって、それはオオタ自動車やプリンス自動車同様、馴染みの薄い、あるいはまったく聞いたこともないメーカーになりつつある。その意味でも、シムカに勤めていたという経歴自体が、「かつてのフランス」的なのである。

そういう意味では、グラン・トリノ72年型は、「かつてのアメリカ」のアイコンなのだろう。主人公ウォルトも、まさに「かつてのアメリカ白人労働者」のカリカチュアのような、ごりごりの人種差別主義者として振る舞う。そして、ポーチで日がな缶ビールを飲む。ポーチという空間も、缶ビールというアイテムも、どちらも極めてアメリカ的だ。『キネマ旬報』の小林信彦と芝山幹郎の対談によると、ウォルトが飲むビールも、労働者階級が好む典型的な銘柄だそうだ。

だが、それだけなのだろうか。グラン・トリノが中年以上のアメリカ人のノスタルジーを掻き立てるという、それだけの理由で、イーストウッド監督作品中、アメリカで最大のヒットとなったこの映画のタイトルに選ばれたのだろうか。

本作のストーリーを詳しく語るつもりはないが、多少ぼかして言えば、ウォルトが血の繋がりのない隣人に、グラン・トリノを譲る、という結末である。ラストシーンは、この車を隣人が運転して湖のほとりを走っている場面だ。そこにイーストウッド作曲(彼はここ最近の監督作品には自らスコアを書いている)の主題歌が、珍しくイーストウッド自身の歌声で始まる。さすがに年老いて、呟くような声だが、それが何ともいえない味わいを出している名曲だ。2番からは、もっと若い歌手が歌い継ぐ。そして出てくるのが、「あなたの世界は、あなたが残してきた小さなものすべてを集めたものでしかない」(Your world is nothing more than all the tiny things you’ve left behind)という一節だ。

http://www.youtube.com/watch?v=HEXF7U5TYV8

映画を見終わった後、この歌が忘れられず、iTunesストアで購入した。そして、繰り返し聴くうちに、僕はようやく意味が分かった気がした。やはりグラン・トリノは大した車ではないと考えてもいいのだ。それは「小さなもの」でしかない。といっても、それはグラン・トリノという車に価値がないのではなく、人が人に遺せる物品は、しょせんそこに込められた気持ちに較べれば、大したものではない、ということである。逆に言えば、気持ちのこもった物なら、何を遺しても、それはあなたの世界をかたちづくるだろう。ただ財産として車を受け取るのと、広い世界へ出て行くチャンスを与えるものとして車を譲られるのとでは、同じように運転しても、その意味は違ってくる。結局は、人の思いというものをどのように測り、受け止め、表現していくか、ということが、この映画の題名が問いかけていることなのだと思う。

アメ車といえば、子供の頃、テレビドラマ『ナイト・ライダー』シリーズのKITTのモデルが、GMのポンティアック・ファイアーバード・トランザムだということを調べて以来、ずっと興味を失ったままだったが、久しぶりにアメリカ人と自動車のつきあいがどんなものであるかを考えさせられた。そのアメ車企業は、今まさに倒産の危機に瀕している。そのことも、この映画がアメリカ人の琴線に触れるタイミングをもっていたことに含まれるのかもしれない。車をめぐる孤独な人たちの物語は、同時に車のたどった寂しい歴史の物語でもある。だからきっと、主題歌は夜を駆けていく車のエンジン音を歌って終わるのだろう。It beats a lonely rhythm all night long…

http://www.youtube.com/watch?v=oc_0SK2BKUI

グラン・トリノ [DVD]
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おすすめ度の平均: 5.0
4 イーストウッドが俳優引退作品に選んだ理由
5 イーストウッドの魅力
5 やられたらやり返せ!
5 心身が震える体験
5 ラストの受け取り方は十人十色。





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2009年07月28日

『おくりびと』と埋葬の現在

おくりびと [DVD]今年の2月、実家に戻って親類の葬式を手伝う機会があり、今話題の「納棺の儀」を体験した。実家は映画「おくりびと」の舞台になった山形ではないが、映画の原作者(小説)と映画監督の故郷である。「おくりびと」がアカデミー賞を受賞したとき、地元では「アカデミー賞作品をなぜ誘致できなかったんだ」と悔やむ声が上がっていたようだ(笑)。比較的葬式にお金をかける土地柄のようで、葬式の際に動くお金の大きさに驚いたし、「何でこんなことにお金をかけるわけ!?」と田舎の年寄りのお金の使い方に非合理さも感じた。私たちの世代はそんな経済的な余裕はないし、親戚やご近所の相互扶助も成り立たないだろう。

納棺の儀を執り行ってもらったのは20代の若いお兄さんで、納棺の儀だけでなく、葬式の司会など、すべてのプロセスを仕切っていただいた。納棺の儀は北海道のやり手企業が発明したもので、日本の伝統と何の関係もないという意見もあるようだが、重要なことは、それがいかに故人を偲びやすい形式であるかだ。最近、個人葬が増えてきたようだが、確かに宗教(具体的には仏教のことだが)が大きく絡むと儀式ばかりに時間が取られ、その集金システムがあからさまに見えたりして、お金がかかるほど興ざめしてしまう。一体、誰のための葬式なのかと。

日本の社会・経済構造の変化から鑑みて、死は共同体的なものから個人的なものへと変わらざるを得ないだろう。その点、納棺の儀はコンパクトでなかなか良い儀式だと思った。本当に身近な人間だけが集まって、故人を自分たちの手で持ち上げて棺桶に収め、故人を話題にしながら花を入れたり、遺品を入れたりする。棺桶の蓋が閉まるやいなや、故人に触れる機会はそれ以降なく、火葬場まで一連の儀式の流れに委ねられてしまう。

宗教をテーマに東京でフィールドワークをしている文化人類学者の友人から聞くお墓の話はいつも面白い。フランス人から「日本の墓の現在」を聞くというのも奇妙な経験なのだが、やはり日本社会の変動を反映しているのだという。新しい世代は、先祖供養に対して無関心になっていて、お金をかけなくなっているようだ。つまりは先祖供養が従来持っていた影響力(自分が先祖につながっていて、守られているという意識)が失われているのだ。

離婚した女性、子どもがない女性、あるいは自分の夫と同じ墓に埋葬されたくなかった女性の要求に応じて永代墓が作られたケースがある。その原因に出生率の低下と離婚の増加があることは想像に難くない。少子化とは、多くの個人や家族において子孫がいなくなることを意味するのだ。夫と同じ墓に入りたくないというのは、自己選択の自由に基づいているわけだが、それは家制度に基づく檀家制度を崩壊させてしまうだろう。

死が個人主義化していると言っても、社会関係を捨てるというわけではない。個人の重心は、従来の家制度的な関係から、重要だった生前の関係や自身の死生観へと移っているのだ。それは、自分自身が葬られる場所とその場所を分かち合う人々を自分で決めることに帰結する。

先端テクノロジーを駆使し、故人の生前のデータを収めた電脳墓。ひとつの墓に血のつながりのない二人の骨壷を一緒に入れた二人墓。その関係は、同性のカップルだったり、友人だったり、愛人だったりする。ペットと一緒に墓に入る人もいる。人間と動物という新しい社会関係だ。自然葬への関心も高まっていて、自然葬と言えば海や空などの自然の中に遺灰を撒くのが一般的だが、骨壷を埋めたそばに桜などの樹木を植えるという樹木葬というのもある。この考えかたは、宗教よりも自然を重要視していて、死は何よりも社会的な帰属を離れ、大地に帰ることを意味している。それは日本というローカリズムから離れ、グローバル(世界共通の形式に向かう)でエコロジック(人工物を作らず、自然環境に親和性がある)ですらある。自然葬の場合、故人は自然の中に遍在することになるわけだが、一方で故人との距離を限りなく縮める方向もある。それは遺骨や遺灰をオブジェ化して(置物やペンダントにする)、自分の部屋に置いたり、身につけたりすることだ。これは故人そのものであるので、仏壇や形見とも違った形式である。

日本の埋葬はつい最近まで伝統にのっとって綿々と続いてきたのだろうが、ここ数十年で急激な変化に見舞われることになったのだろう。家制度に支配されたプレモダンの時代が長く続いたあと、急激な自己決定=モダンの時期がやってきたわけだが、日本の埋葬は今後どこへ向かうのだろうか。サブカル大国の途方もない想像力はこの先、タブーを失った葬式とお墓をターゲットにするのかもしれない。

「おくりびと」(予告編)


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