2015年08月17日

生誕100年目のロマン・ガリ

今年はマルグリット・デュラス生誕100年ということだが、先日届いた Magazine littéraire 誌で、ロマン・ガリの生誕100年でもあることを知った。これに合わせて、ロジェ・グルニエとの未刊の対談集や幻の処女作がまもなく出版されるとのことだ。

La promesse de l'aubeLa promesse De l'aube (Folio)

ロマン・ガリ(Romain Gary)という作家は、日本では残念ながらほとんど紹介されてこなかった(1980年前後に、後述のアジャール名義の小説が数冊翻訳されたが、とっくに絶版になっている)が、没後34年経った現在でも、フランス人によく読まれている。とりわけ『夜明けの約束 La promesse de l’aube 』(1961)は、母子家庭に育った自分の半生を、強烈な母親の肖像とともに、ユーモラスに、ときに苦く語り、一大ベストセラーとなった。映画や舞台にもなり、14カ国語に訳されたそうだが、日本語版はない(じつはこれを訳して世に出したいというのが、僕の積年の野望である)。「たとえ母親でも、誰か一人だけをあれほどまでに愛するということは許されないのではないか」と言うほどの激しい愛情は、決して無償の愛ではなかった。その強烈な個性は、母親を追慕しがちな優しい日本の小説には見当たらないものである。

さて、ロマン・ガリというと、枕詞のように付いて回るのが、ドゴール主義者、ゴンクール賞、ジーン・セバーグである。空軍パイロットだったガリは、ドゴールの呼びかけに応じてナチスと戦い、勲章を受けた。その功績から外交官のキャリアを得て、最後はロサンジェルス総領事にまでなった。また、『空の根っこLes racines du ciel』(1956)でゴンクール賞を受賞し、さらにエミール・アジャール(Emile Ajar)名義で書いた『これからの人生 La vie devant soi 』(1975)で二度目のゴンクール賞を受賞した。これは一人一回という賞の原則が裏切られた事件として、文学史上有名である。1963年から1970年にかけては、ジーン・セバーグと結婚していた。ちなみに最初の妻レスリー・ブランチ(小説家)もイギリス人だった。ロシア人の母とともにポーランドで幼少期を過ごしたロマン・ガリは、14歳のときにフランスに移住した。その結果、ロシア語・ポーランド語・フランス語・英語に堪能だった(英語では6冊の小説を執筆している)。1980年にピストル自殺。遺書には「ジーン・セバーグとは何の関係もない」、「いっぱい楽しんだ。さようなら、ありがとう」と記されていた。

こうした派手な経歴と、誇張を含んだ虚言の数々で、生前は批評家たちの反感を買った。だが、いまロマン・ガリを読む人は、たぶんこうしたスキャンダルは忘れて、単純に興味深い小説家として接することができるだろう。ロマン・ガリの主題は、一言で言うと、絶対的な価値を追求する者への同情と疑義である。理想がなければ人は生きていけないが、絶対化された理想は、他人に対しては暴力的になり、自分に対しては絶望を植えつける。デビュー作『ヨーロッパの教育 Education européenne 』(1945)では、ポーランドで反ナチスのレジスタンス運動に従事する若者たちを主人公にして、その献身的な態度の美しさと、その先にある凄惨な殺戮の実態とを対比させた。『空の根っこ』では、フランス領チャドを舞台に、象の保護のためにテロ行為に手を染める一人のフランス人を狂言回しに、理想に生きることの意味を問うた。『星を食らう人々 Les mangeurs d’étoiles 』(1966)では、大道芸に熱狂する南米の独裁者を描き、不可能性が麻薬のように人を魅了する恐ろしさを喚起した。

だが、ガリはニヒリストではない。ガリにとって、裏切り者は偽善者よりも愛すべき人間の象徴だった。偽善者は保身のために偽るが、裏切り者は欲望に忠実だ。だから、人の姿としては、嘘がない。だが、そんな人間でさえも、何らかの理想が必要だということを、ガリは悲しみをたたえた眼で見つめていた。ツヴェタン・トドロフは、「批判的ヒューマニズム」の作家としてガリを高く評価した(『悪の記憶・善の誘惑』)。

ガリの文体については、早書きのせいで、文章が乱れている、という批判が多い。しかし、小説の随所に印象的な言葉を残している。いくつか紹介してみよう。 「愛国心とは身内を愛することだ。ナショナリズムとは他者を憎むことだ。」 「ズボンを脱いだときに人を判断することはできない。本当にひどいことは服を着てやるものだ。」 「私は滅多に嘘をつかない、嘘は無能の甘えの味がするからだ。」

最後に余談をひとつ。僕にロマン・ガリという作家を薦めてくれたのは、パトリス・ルロワだった。ある語学学校で彼のクラスの生徒だった僕は、たまたま帰りの電車が一緒になったときに、彼の好きな作家を訊ねた。パトリスは即座にガリの名前を挙げた。それ以来、彼がテレビやラジオでどんなに馬鹿げたコントをやっていても、僕はそこに、悲しみをユーモアで超えようとするロマン・ガリ的なポーズを見出してしまう。たぶん、勝手な思い込みにちがいない。

□初出2014年5月21日


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2014年03月07日

鹿島茂 『悪党が行く−ピカレスク文学を読む』

お題をいただいたので、ピカレスク小説に関する本をいくつか読んでいる。重要参考書のひとつが鹿島茂氏の『ピカロが行く』だ。ピカレスク小説は悪漢小説と訳され、スペイン語の「悪漢、悪党」を意味する「ピカロ」を語源とし、作品としては16世紀のスペインで書かれた作者不明の『ラサリーリョ・デ・トルメスの生涯』にまでさかのぼる。つまり、悪人、悪党を主人公にした小説なのだが、ピカレスク小説は、悪や悪党はなぜこれほどまで人の心をひきつけるのか、作家はなぜ善人よりも悪人を描きたがるのか、なぜ善人よりも悪党の方が女性にもてるのか、という問いにつながっていく。

悪党(ピカロ)が行く―ピカレスク文学を読む (角川選書)鹿島氏はモーリス・ブランショやジョルジュ・バタイユの悪の定義に違和感を表明しつつ、悪をなすことはショートカットの魅力だと主張する。それをマラソンにたとえると、ショートカットとはインチキや近道をして1位になることだ。人生はしばしばマラソンに例えられる。決められたコースを地道に走ること。すなわち、何十年もコツコツ働いて、退職金と年金をもらう。お金とは地道な努力の報酬なのだ。その美徳に真っ向から逆らって、一獲千金の金儲けを企てたり、他人の蓄財を奪うことは、ショートカット的な人生だ。もちろん、凡人は少なからずそうすることに魅力を感じてはいる。しかし、ルールにしばられ、罰せられる恐怖からそれをしないのだ。またショートカットをするにしても条件があり、それが愚かさや弱さから出たものだとすれば、単にカッコ悪く、惨めなだけで、ヒーローには決してなれない。文学的な価値がないのだ。悪党は断固たる意志に基づいてショートカットを実践する。それが悪や悪党の魅力である。私たちは正義であれ、悪であれ、断固とした意志を持つものにあこがれるのだ。

ゴリオ爺さん (上) (岩波文庫)鹿島氏が筆頭に挙げる悪のヒーローは、バルザックが『ゴリオ爺さん』で創造したヴォートランという人物だ。ヴォ―トランはショートカットの哲学を南仏の貧乏貴族の息子、ラスティニャックに吹き込み、馬鹿げた服従か、それに反抗するかを迫る。このままじゃお前の人生なんてたかが知れている。「金持ちになるんだったら、このパリじゃ、一か八かの大バクチを打ってみるにかぎる。さもなけりゃ、せこい暮らしで一生終わりだ。はい、ご苦労さん」。そして、一度ショートカットを行うポイントをしっかり意識したら、方法を選ばずに、強い意志を持って目的実現に邁進する。それも単なる思い込みではなく、冷徹な人間観察に基づかなければならない。

しかしながら、ピカレスク小説の原点と言われる『ラサリーリョ』はそういう華々しい悪とは無縁である。社会という真っ当なマラソンコースを走れずに、コースの外で小競り合いをしている感じだろうか。19世紀のフランスは成り上がる社会的な土壌が整備されているが、16世紀のスペインはまだその段階にはない。この本は16世紀半ばごろ、ちょうどスペインの黄金時代に書かれた。そのころのスペインは中南米から金銀財宝を収奪していたが、肝心の食糧である小麦が不足していた。おかげで貧富の差が拡大し、街には多くの浮浪者、ならず者、乞食がはびこっていた。彼らがピカロと呼ばれる張本人だ。鹿島氏によれば、この小説は悪知恵を働かせ、悪党を出し抜く、「悪知恵比べの小説」と定義される。ピカレスクの原点は、「善対悪」(確信犯的に善に挑む悪)の物語ではなく、「悪対悪」(悪どうしの小競り合い)の物語だった。

ピカレスク小説名作選 (スペイン中世・黄金世紀文学選集)『ラサリーリョ』の主人公ラーサロは貧しい家の出身で、10歳にもならないうちに、盲目の祈祷師に引き渡され、彼の手引をすることになる。ラーサロは祈祷師と別れたあとも、新しい師匠たちのもとを転々とするのだが、師匠たちは表の姿とは裏腹に、ケチで欲深く、人をだまして生きる悪党だった。少年はのっけから祈祷師にだまされて牛の石像に頭をしたたかにぶつける。その瞬間に子供の無邪気さから目覚め、「自分はひとりなのだから、自分の身は自分で守らなければならない」ことを悟る。少年の師匠たちは教育者として、悪党を出し抜く悪知恵、つまり法も人権もない、過酷で混沌とした時代をサバイバルする処世術を身を持って教える。しかしケチな師匠たちは知恵を授けても、食べ物は与えない。おかげでラーサロはいつも腹ペコで、厳重に保管された師匠の食べ物をくすねることに執念を燃やす。この物語の半分は師匠と少年の食べ物を巡る攻防のドタバタで占められている。少年はそうやって悪知恵比べの戦果を積み重ねることでもサバイバル力を獲得していく。

このように、ピカレスク小説は若い主人公が偶然出会った恩師から知恵を授かることで主人公が成長を遂げる、一種のビルグンドゥスロマン(教養小説)の形式をとる。フランスに移植されたピカレスク小説であるアラン・ルネ・ルサージュ『ジル・ブラース物語』(1715〜35年)もまたそのような形式を持っている。バロック時代の小説は人々を楽しませる以外に、人々を教化する役割も持っていた。これは必ずしもキリスト教的な教化ではなく、悪人に騙されないようにと導く教化であった。主人公であり、語り手でもある17歳のジル・ブラースは留学のためにサマランカの大学に向かうが、途中で様々な悪党と出会い、世間知らずのうぶな彼はものの見事に騙され続ける。しかし、だまされる中で彼自身も悪知恵を身につけ、したたかな人物に成長する。これがピカレスク小説の基本文法なのだ。

ピカレスク小説のもうひとつの特徴は主人公の遍歴性にある。悪知恵に長けた主人公は都市から都市へ、人から人へと渡り歩く。主人公は次々と襲いかかる試練を克服し、悪知恵には悪知恵で対抗するのだが、試練には終わりがない。ピカロは自分の社会的条件を改善しようとするが、いつも失敗し、ピカロのままでいる。偽善を行う有力者に加担はするが、自分自身は社会を動かすような立場には絶対に昇格できない。先の例えで言えば、決してマラソンのコースに上がれないのだ。ピカロとして語り、行動することから逃れられない。したがって小説の形式も反復されるしかない。読者が繰り返しに退屈しないために、物語はむしろ悪い方向へ展開する。

ラーサロが盲目の祈祷師の次に出会ったのは司祭だったが、彼は「この世のすべてのさもしさといやしさ」がつまった人間で、彼に比べれば祈祷師は「アレキサンドロス大帝」に見えるくらいだ。ラーサロは司祭から4日に1個の玉ねぎしか与えられず、常に餓死寸前の状態におかれる。ラーサロはさらなる強者の悪党から食べ物をくすねるために、さらに際どくスリリングな知恵比べをすることになる。読者はラーサロが司祭と手を切って、もっとましな主人に仕えればいいと思うだろう。しかし彼がひとりの師匠に執着するのは、新しく見つける師匠はさらにひどい人間だという確信があるからだ。

またピカロの遍歴性は、主人公がいろんな階層の人々と出会うことを可能にする。各階層を代表するような営みの中に入って行くことによって、それを批判する視点を獲得するのだ。文学的形式を重視する、つまりは形式によって現実を捻じ曲げている、悲劇や喜劇や説話や歴史物語とは違って、ピカレスク小説は規則がないので、社会と人生の無限の多様性を描くのに適していた。それは嘘くさく、古い時代の小説、騎士道小説や牧歌的なロマンスへの批判でもあった。

ピカロの視点はひとつの自由な語りの形式を与えている。何よりも彼は立場的に自由である。彼はピカロであるが、ピカロたちの中に埋没せず、確かな批判精神と視点を持っている。それは客観性と明確な視点を持つ主人公を前提に置くリアリズム小説の先駆けになった。リアリズム小説はリアリズムに徹して面白くない単調な現実も描写するが、ピカレスク小説はあざけりや幻滅によって面白さを生み出している。

小説が登場する前は、大道芸人的な語りによって物語は語られていた。その際、ひとつの続いた物語であれば、途中が抜けるとわからなくなる。しかし、主人公と敵のキャラクターが決まっていて、状況が変わるという設定ならば、その回ごとに楽しめるし、語る方も無限に物語を反復できる。その都度、新しいエピソードが導入され、語られる物語は際限なく続く。これはピカロ的な存在を主人公にしたシリーズものの発現である。

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ピカレスク・ロマンの哲学は、例えば、多くの西部劇に受け継がれていると言われている。しかし西部劇は基本的に白人を善、インディアンを悪とした勧善懲悪なので、ピカレスク・ロマン的なものは、むしろ西部劇のイタリア版、マカロニウエスタンの中に見出されるだろう。このジャンルを世に知らしめたクリント・イーストウッド主演の『荒野の用心棒』の元ネタは黒沢明の『用心棒』である。『用心棒』が象徴するように、日本の時代劇はピカレスクな作品の宝庫である。法の支配が行き渡らず、悪党がのさばる混沌とした時代に、各地を放浪する浪人や渡世人。剣術の確かさや狡賢さを武器に、その土地の親分に世話になって何とか糊口を凌ぐ。「座頭市」もこの範疇に入るだろう。「座頭市」は勝新太郎の演じる、キャラの立ったピカロ的な存在を主人公にし、何作もの傑作映画を生みだし、テレビシリーズにもなった。世の中一般とヤクザ社会に向けられる、彼の長ドス同様に切れ味の鋭い批判や、筋の通った倫理も忘れてはいけない。

21世紀に入って、世界的に社会的格差が広がっている。つまり人生のマラソンコースが狭くなっていて、誰もがその上を順調に走ることができなくなっている。社会階層が固定化されてしまうと、ヴォートランのようなショートカット=成り上がり戦術も通用しなくなるだろう。平凡な人生か、一発逆転の華やかな人生か、という選択よりむしろ、ラーサロのような近代以前の混沌とした社会をやっとの思いでサバイバルする物語の方が共感を得る時代かもしれない。


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2013年05月18日

辻仁成『永遠者』

著者とツィッターでやりとりする中で書く書評はスリリングな体験である。バンドをやりながら小説を書いて20代を過ごした人間にとって、その両方を実現してしまった辻さんは、ある種の嫉妬の対象であった。それゆえ、辻さんの小説や音楽と素直に向き合う機会があまりなかったのだが、それらに興味を持つきっかけになったのは、パリ在住の子育てパパの姿に著しい共感を覚え、ツィッターでフォローし始めてからである。ツィッターは本性を偽れないというが、ツィートからは真摯で、情熱的な素顔がうかがえる。最近、表現者というジャンルを超えたコンセプトを打ち出しておられるが、パリで精力的に311の被災地のためのチャリティーライブを行い、パリの映画祭に監督作品『その後のふたり』を送り込み、パリを拠点に「オールナイトフランス」とラジオ番組も始められた。まさに表現者としてのめざましい活躍ぶりである。

永遠者辻さんが去年11月に発表された最新作『永遠者』はパリと東京を中心に展開する吸血鬼譚の形を取っているが、その時代的な舞台となるのは、1900年のパリ、太平洋戦争時の東京、万博開催時の大阪、1970年代のパリ、1986年のチェルノブイリ事故後の日本、そして911と311である。現代史の節目となる事件に主人公は居合わせ、目撃者となる。そして読者は否応なしにそれらの光景のいくつかを重ね合わせて見ることになる。当然のことながら歴史はつねに現在の反映として創出される。新たな事件が起こると、それらは過去の事件と重ね合わせられ、新しい印象や感情を生む。21世紀以降に限っても、私たちは911や311のような衝撃的な事件のあとには時間の流れや質が変わるのを確実に感じる。

この小説は21世紀の小説だ。そう断言するにはふたつの理由がある。主人公のコウヤは極東の国の武士階級の出身だが、最初は外交官としてパリに赴き、その後は永遠者として東京、パリ、ニューヨークと国境をまたぎグローバルに移動する。永遠者は遍在者でもある。グローバルな移動は共時的な軸だが、この小説はまた20世紀の様々な歴史的な出来事を現在時からデータベースのように活用しながら、20世紀を立体的に切り出している。

ふたつ目の理由は21世紀に入ってフランスと日本の力関係が完全に変わってしまった状況で書かれていることだ。私たちはもはや一方的にフランスにあこがれているわけではない。洗練された文化的な伝統を持つが、先進国としては落ち目の国として、同じ社会的現実や問題を共有した友人なのだ。さらにはフランスの若い世代が日本のサブカルチャーに熱狂し、JAPAN EXPO が何十万人もの若者を集める時代になっている。箱庭のようなパリの街も、エッフェル塔や凱旋門といった歴史的なモニュメントも、相変わらず世界中のお上りさんが目指す場所であり続けているが、一方でグローバルに共有される舞台であり、題材になっている。

たまたま同じ時期に西川長夫さんの『パリ五月革命 私論』 を読んだ。68年のカオスを生で体験した西川さんの貴重な証言であったが、「フランスを仰ぎ見た世代」の最後の大作という印象を抱かざるを得なかった (辻さんも参考文献に挙げている仏文学の大御所、森有正も登場する)。とりわけ5月革命へのこだわりと仏文学の世界の師弟関係へのこだわりが共存することに違和感を覚えた。この著作に感じられるフランスに関する特権意識は、文学的な先端や思想的な課題はフランスから一方的にやってくるという非対称的な関係が前提になっている。そういう関係の中ではいくらフランスに関する知識や教養を深めても決して埋まらない溝が存在し続け、「フランスは自分のものではない」という疎外感にとらわれる。これらの疎外感と特権性は裏腹な関係にあるのだ。そういうルサンチマンやコンプレックスは『永遠者』の主人公、コウヤの刀によってばっさり斬り捨てられている。とはいえ、主人公のふたりはフランスの出身ではない、マージナルな人間である。コウヤは武士という特権階級に属するが、ようやく近代化に乗り出した極東の島国の出身であり、カミーユはバルカン半島出身の流浪の民であり、宗教的にも異端の流れを汲む。同時に、血みどろのヴァンピールの儀式に拮抗させられる強度を持つのは「パックスお江戸」の300年のあいだに様式的に磨き上げられた侍の刀くらいなのだ。

パリ五月革命 私論−転換点としての68年 (平凡社新書595)ボヌール・デ・ダム百貨店デパートを発明した夫婦 (講談社現代新書)

『永遠者』において万博やデパートは過去と現在を結ぶ重要なモチーフになっている。コウヤがカミーユと離れ離れになったあと、大阪万博の会場で一瞬すれ違う。日本の高度成長期に開催され、6400万人が訪れたという大阪万博。小説に描かれる万博の時期の大阪と、2012年に刷新された今の大阪を重ね合わせずにはいられない。私たちもまた歴史の目撃者なのだから。小説に「梅田の駅前はあちこちが工事中」という記述があるが、万博の勢いに乗って大阪市など周辺市街地の都市インフラも一気に整備することになったようだ。それは現在の再開発が完了する前、長いあいだ工事中で迷路のようだった大阪駅を思い出させる。JR大阪駅周辺に林立する、改装されたデパートの広大な空間を見上げても、バブル期のような陶酔はない。あのひきさらわれるような空間に見合う欲望がどこに存在するのだろうか。中国人観光客をあてにしているのかもしれないが、格差社会の闇が背後に透けてみえるだけだ。

20世紀初頭にマキエはコウヤに次のように書き送る。「そっちはグラン・マガザンと呼ばれるいろんなお店を一堂に会した巨大な店舗があるのでしょ?ベル・エポックの気品ある品々が陳列されている…」。当時のパリのグラン・マガザン=百貨店と言えば、ブシコー夫妻が経営するボン・マルシェ百貨店である。エミール・ゾラの『ボヌールダム百貨店』のモデルにもなった。派手なショーウィンドウが作られ、季節物の大安売りで顧客を呼び込んだが、その手法はパリ万博を参考にしたと言われている。チェルノブイリ原発事故直後の1986年に東京にやってきたコウヤは賑わう三越デパートを見て、1900年初頭にできたばかりの三越デパートにマキエと足繁く通ったことを思い出す。しかし同時に「東京自体がひとつのエキスポのように」見える。まさに日本がディズニーランド化していく時代である。

もちろん自分は永遠者ではないが、永遠者の感覚には覚えがある。永遠に続くように錯覚したバブル期の繁栄と、バブルが弾けた後の余韻の中で、「終わりなき日常」と言われたようにいつまでも若さと青さを引きずりながら遊んで暮らせる気がしていた。あらゆるものと戯れつつそれを相対化していくシニシズムも味わった記憶がある。思えばそれは右肩上がりの時代が支えていたものだ。「あの時代に戻りたい」という欲望は今の政治のスローガンにも頻繁に顔をのぞかせる(今の自民党がそうだ)。何も考えずに、無為のままに生きていけた時代へのノスタルジーは未だにやまない。

「人間は待つ動物、あらゆる物語は待つことが美徳として描かれる。永遠者は動物に近い感覚を持ったことになるかもしれない。永遠者には瞬間的な今は存在しない。長大な時間が横たわるように存在している」。

さらに永遠者はネガとして、限りある命の存在の本質を反照的に映し出す。近代以前、人間は生まれてから死ぬまで自分の生まれた村から出ることなく一生を終えた。そういう時代の人間が(例えばコウヤが武士のままだったら)、永遠者になっても困ることはなかっただろう。近代化とは人間をそういう反復と習慣に塗りこめられた動物的な環境から解放することだった。一方で近代化によって、人間を絡めとっていた(同時に安心と安定を与えていた)あらゆる文化的な網の目は次々とほどけ、人間はよりどころのない世界に放り出されてしまった。私たちの周囲で渦巻く知覚=情報は、私たちの人生をますます不確実で、迷いに満ちたものにしている。永遠者はそういう近代人の究極の姿なのだ。動物が永遠の命を得たとしても、分化し、専門化した本能の指令にしたがって淡々と生きるだけだ。動物は生存目的と関係のない対象を知ることはないのだから。人間は無限や永遠について想像をめぐらす有限な存在、有限と無限のあいだに引き裂かれ、未来に対する不安に苛まれる存在だ。21世紀になって人間のそういう本性が全面化している。

それゆえ限りある命は言葉を紡がざるをえない。それは自分の存在証明であり、生きた証だからだ。誰も聞いていなくても、誰かに語りかけずにはいられない。コウヤの娘、ミワコの饒舌さ、空間を埋め尽くすような言葉のほとばしりは、永遠者であるコウヤの無口さと際立っている。人間は広大な時空の片隅に、歴史の座標軸のどこかに身を置かなければならない。そこに必死にしがみついて生きなければならない。その住み着いた場所には巣のように言葉の網の目を張り巡らせる。それが物語だ。物語を紡ぎ、それを繰り返し語ることでその場所をかけがえのないものにしていく。それは人間の「文化の礎」とも言える行為だ。ソルボンヌ界隈で、ミワコが目の前を通り過ぎるのをこみ上げながらもコウヤが声をかけられず見ている場面が感動的だ。「いつのまにこんなに逞しい顔になったのだろう」とコウヤは思う。彼の血を受け継いでいるが、ミワコは永遠者ではなく、普通の人々のあいだで生きている。それだけに引き裂かれ具合が半端ではない。「パパは過去をどんどん捨てていったけど、そのゴミのような思い出の中にも歪ながら真実の愛があったっていう皮肉をパパは覚えておくべきだわ」とミワコは言う。真実の愛は限りある命の側にしかないのだから。

『永遠者』にも辻さんが反復するテーマである「再会」の変奏がある。人間はかつて同じ場所に居合わせた、同じものを目撃したことに、記憶が一致し、共振することに幸福を憶え、興奮する。それは言葉で理解しあうことよりも大きいことかもしれない。限りある命だから記憶をいつくしむ。奇跡的な記憶の交錯に感動せざるを得ない。再会において深く心を動かされるのはコウヤではなく、コウヤと再会する側だ。コウヤが永遠者であるがゆえの特殊な再会である。フランス人の医者との再会、元総理大臣との再会などがそうだが、通常、ふたりの人間が何十年もの歳月を経て再会するとき、ふたりとも老いていて、昔の面影を認めるのみだが、コウヤはそのときの若い姿のままなのだ。

そしてコウヤは「私はあのときあの場所にいたんですよ」という永遠者という立場をさりげなく示す。そのことだけで影響力を与える。永遠者という立場を濫用して歴史を作り変えることはしない。あなたは永遠者に見られているのだと、人々にメッセージを発する。ちょうど元総理大臣の男に対してそうしたように。その視線は当人をして歴史に目を向けさせる。同時に当人が隠し続けてきた不都合な真実に対しても。歴史に名を残すことを何よりも願う政治家にとって、それは当人を良き政治へとうながす批判的な視線だ。もちろんコウヤはすべての人間に自分を明かすわけではない。そこが何ともじれったいのだが、読者に安易なカタルシスを与えず、宙吊り状態にするのも小説家の技だ。

カミーユは「時空を超えて生き続ける私たちは目撃者」と言いながら、目撃者の立場を超えて歴史に介入しようとする。永遠に生きられない人間が、子孫に、あるいは他者に引き継いでいくのが人間の営みであり、文化だ。引き継がれて人間が変わると考え方も変わる。多様な営みがそこで発現する。人間が限りある命を持つことで、ひとつの方向に収斂しない多様性が担保される。カミーユのように永遠者がひとつの意思を持ち続けることは危険なことだ。それに対してコウヤは無為である。コウヤ自身が『20世紀博覧会』という小説を書く小説家であったように、彼は視点にすぎない。歴史を可視化してみせる目撃者に徹する。

日本とフランスが原発大国であることは偶然ではない。日仏ともに中央集権的で、独占的で、官僚支配の最たる国だ。そのシステムは原発の運営と非常に親和性がある。また原発はひとつの意志の象徴である。影響が何万年にも及び、人間の手に余る、世界を破壊し尽くすようなエネルギーをコントロールしようという無謀な意志だ。一方でコウヤとカミーユが出会うたびに性行為にふけるしかなかったように、日本人は原発と性愛的な関係しか持てなかった。あらゆる快楽の源泉でありながらそれを対象化できなかった。ちょうど電気の供給を当たり前のように感じ、それがどこから来ているか意識していなかったように。今こそ融通の利かない過剰な力にとどめをささなくてならない。核のリサイクル事業にも手を染めているカミーユ自身がプルトニウムのメタファーだ。何十万年も放射線を出し続けるプルトニウムを地中深く埋めなければならないように、カミーユの第二の心臓に杭を打ち込んで封印しなければならない。

優れたフィクションは現実と共振し、現在をも巻き込んでいく。最近バルカン半島では吸血鬼騒ぎが再燃しているらしい。カミーユはやはり生きていたのか。


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2009年06月23日

『ノートルダム・ド・パリ』の予言

ノートル=ダム・ド・パリ (ヴィクトル・ユゴー文学館)「レ・ミゼラブル」で有名なヴィクトル・ユゴーに「ノートルダム・ド・パリ」(Notre-Dame de Paris)という作品がある。「ノートルダムのせむし男」(The Hunchback of Notre Dame)というタイトルでも知られ、ディズニー映画「ノートルダムの鐘」の原作でもある。

しかし、今回話題にするのは、美しいジプシー娘、エスメラルダ(Esmeralda)でもなければ、醜い鐘つき男、カジモド(Quasimodo)でもない。エスメラルダに一目ぼれし、カジモドを利用して、彼女をものにしようとするフロロ副司教(Frollo)が口にする謎めいた言葉である。フロロはテーブルの上に開いたままになっている書物を右手で指し、左手でパリのど真ん中に鎮座するカテドラルを指差し、こう言う ― Hélas!, ceci tuera cela. (ああ、これがあれを滅ばすだろう)

ユゴーはメインのストーリーを語るだけでなく、その合間に様々な知識や思想を披露しているが、ユゴーが副司教に言わせていることは、印刷と文字の普及が教会の権威を失墜させるだろうということだ。聖人の彫像が飾られ、ステンドグラスで彩られた中世のカテドラルはキリスト教の権威と中世的な意味での知識の集大成を象徴していた。もちろん、印刷術が発明されたからといって、人々は紙とペンで書くことをやめなかったし、カテドラルで祈ることをやめたわけでもなかった。しかし、印刷は手書きにとって代わった。書物の形態の中で印刷された書籍が最も評価されるようになり、それが中世的な組織と表現を駆逐したのである。

「人間の思考は形式を変えながら、表現の方法を変えるだろう。それぞれの世代の主流となる考え方は、もはや同じ素材に同じ方法で書かれることはないだろう。石に刻まれた書物は、あれほどしっかりして長持ちするものであっても、紙でできた書物にとって代わられるだろう。そうした書物はさらにしっかりして長持ちする。そういう予感がするのだ。この関係のもとで副司教の曖昧な表現はふたつめの意味を持つ。それはひとつの技術が別の技術にとって代わることを意味する。つまり、印刷技術が建築を滅ぼすということだ(=L'imprimerie tuera l'architecture.)」(ヴィクトル・ユゴー『ノートルダム・ド・パリ』)

ノートルダムの鐘 [DVD]ユゴーが生きていた19世紀は印刷技術が資本主義と結びつき、隆盛を極めた時代だった。書籍、新聞、雑誌という媒体の発達が、情報の大量生産と大量散布を可能にしていた。文学はまさにこの流れに乗り、多くの人々の支持を集めていた。印刷技術は印刷されたテキストを神聖不可侵の人工物に祭り上げ、作品と著者をその時代のモニュメントとみなすように仕向けた。まさにユゴーは文学史に燦然と輝くビッグネームであるが、Ceci tuera cela はユゴーの勝利宣言だったのかもしれない。著者はモニュメンタルな姿を獲得する一方で(著者=author,auteurの語源は、権威=authority, autoritéである)、著者と読者のあいだは引き裂かれ、隔てられ、読み手は著者の崇拝者にすぎなくなった。

教育に目を向けてみると、19世紀以来、「文学はかくあるべし」と教えるのが人文教育で、その目標は同じテクストの読書経験をさせることだった。それは文学的な遺産を共有することで文化的な統一がされるというブルジョワジーの理想が根底にあるが、つまり、印刷技術がもたらしたのは、特権的な人間が書いたテキストを多くの人々に「刷り込む」というモデルだ。つまり、近代という営みそのものということになる。このモデルでは、読者(大衆や消費者と言い換えることもできる)は受動的で、従属的な存在に過ぎず、常に過小評価されるが、コンピュータ・テクノロジーによって脚光を浴び、顕在化するのはまさしく彼らなのである。

文学の古典(それはすべて西洋のものだ)を読むべきとか、それが教養だという考え方(=イデオロギー)は、ポスト印刷文化の時代において相対化される運命にあるだろう。中世のカテドラルは「キリスト教の権威と中世的な意味での知識の集大成」の象徴だったわけだが、今度ターゲットになるのは印刷技術とそれがもたらした価値体系である。

デヴィッド・ボルターは「ライティング・スペース」の中でフロロ副司教にならって「コンピュータのキーボードから目を上げ、書棚に並ぶ本を見上げるとき、これはあれを滅ぼすのだろうか、と考えないわけにいかない」と述べている。具体的に言い換えてみると、La Toile tuera le livre. (ウェブは本を滅ぼすだろう) である。古代のパピルス・ロール、中世の写本、印刷書籍に続いて私たちが手にしている第4のライティング・テクノロジー、それがハイパーテキストだ。




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2009年05月01日

『ボヌール・デ・ダム百貨店』 エミール・ゾラ

ボヌール・デ・ダム百貨店デパートの黎明期を活写したエミール・ゾラの小説がある。『ボヌール・デ・ダム百貨店』である。物語の主軸は、パリのデパート「ボヌール・デ・ダム百貨店」の貧しい女店員である主人公ドゥニーズ・ボーデュと、このデパートの経営者、青年実業家オクターヴ・ムーレとの身分違いの恋愛。しかし読み進めるにしたがって、ドゥニーズのシンデレラ・ストーリーよりも、消費社会の権化とも呼ぶべきデパートの実態に興味がひきつけられる。その時代のデパートは、豪華な店内に陳列された魅惑的な大量の商品と、現代の小売店の商法にも通じる薄利多売方式などの近代的商法によって女性客を虜にし、容赦ない価格競争によって近隣の老舗商店を押し潰しながら発展していった。

パリのデパートは第2帝政期のナポレオン3世のパリ改造と軌を一にして急成長し、第3共和制下において続々と巨大な新館を築いたが、ゾラは30年におよぶデパートの発展の歴史を『ボヌール・デ・ダム百貨店』内の5年足らずの時間に圧縮して描き出してみせた。ゾラは本作執筆にあたって、パリのさまざまなデパートに対して綿密な取材調査を行なったが、デパートの管理経営についてはボン・マルシェ百貨店およびルーヴル百貨店の管理職から直接資料提供を受けたのだった。

デパートは何よりも私たちに贅沢を無料で見せてくれる場所である。まばゆい照明に照らされたデパートのスペクタクル空間で、世界各国から集められた豪華絢爛たる品々を自由に手に取ることができる。またデパートは欲望喚起装置でもある。デパートは純粋な資本主義的な制度であるばかりでなく、欲望という資本主義固有のプロセスは、まさにデパートによって発動された。デパートで人は必要によって買うのではなく、欲望によって買う。その特徴は直接モノに向かうのではなく、第3者の媒介によって駆動することである。誰かが着ていたからとか、雑誌や新聞の広告に載っていたとか、ディスプレイが幻惑的だったからとか。前段階資本主義が本格的な資本主義に移行した時期はデパートの誕生と一致する。それは19世紀の中ごろから20世紀の始めにかけてのことであり、フランス、イギリス、アメリカなどの大都市にデパートが次々と誕生するのである。

当時のデパートは単に商品を売るだけでなく、ライフスタイルの提唱ということをすでにやっていた。ライフスタイルを設定することで、まず新興中産階級の女性が持っていた豪奢への罪の意識を取り除いてやることが必要だったからだ。今の人間には理解できないだろうが、それが新しい消費生活に向かう際の最も大きな壁だった。それを贅沢への罪の意識を階級の義務を果しているにすぎないと合理化させるわけだ。それはアッパー・ミドルに対して憧れを持つ階層へのメッセージだった。もちろん、ライフスタイルを変えることは生活のすべてを刷新し、あらゆるものを買い換えることを意味している。

デパートを発明した夫婦 (講談社現代新書)「理想的なアッパー・ミドルの生活を隅々にまで実現するには、これこれの家具や食器類を揃え、これこれのカジュアル・ウエアを身につけ、これこれのヴァカンス用品を購入しなければならないというように、具体的なライフスタイルを中産階級の消費者に教育してやる必要があるのだ。なぜなら、彼らはまだ何を買うべきか知らず、しかも、それが買うこともできるのを知らないのだ。消費者に、到達すべき理想と目標を教え、彼らを励ますこと、これが「ボン・マルシェ」の、ひいてはデパートの任務となる」(鹿島茂『デパートを発明した夫婦』)

「この小説はまた、デパートに押し寄せる群衆や店員たちの詳しい描写を通して、階級の混交やブルジョワ層の底辺が飛躍的に拡大するさまを描いており、現代にいたる大衆消費社会の原点に屹立する作品となっている」(吉田典子「近代消費社会と女性」)

19世紀からの流れをどのように現在と接続するかだが、「階級の混交やブルジョワ層の底辺の飛躍的な拡大」は、私たちが生きている日本の総中流社会において理想的に実現され、爛熟した消費社会が花開くことになる。百貨店の現状を知るには、最近出た辻井喬と上野千鶴子の対談『ポスト消費社会のゆくえ』が興味深い。作家・詩人の辻井喬は西武グループを率いた堤清二の分身であり、最近では『おひとりさまの老後』で知られる社会学者の上野千鶴子は西武デパートの社史編纂に参加した経歴がある。

百貨店はフランスで19世紀半ばに誕生したが、新聞や雑誌や小説などの印刷文化と同様に、21世紀に入ってからの本格的なネット&モバイル社会の到来によって主役の座を追われつつある19世紀文化のひとつでもある。「階級の混交やブルジョワ層の底辺の飛躍的な拡大」によって人々は同じ価値観や常識やライフスタイルを共有することになるが、それが少数の特権者が描くモデルを刷り込む均質な下地になる。大多数の人々は同じモデルを注入され、そのコピーになる。近年起こっていることは、このようなコミュニケーション形式の崩壊と言えるだろう。

FBN関連エントリー:書評『ポスト消費社会のゆくえ』(デパートの現在)




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2008年06月10日

「失われた時を求めて」を1冊で

失われた時を求めて〈1 第1篇〉スワン家のほうへ (ちくま文庫)前回、「カラマーゾフの兄弟」や「ユリシーズ」といった長大な小説がイギリスやフランスでは文庫本1冊に収まっていることについて書いた。
だが、上には上がいるものである。
ジョイスと並び、20世紀最大の小説家と称されるマルセル・プルーストの「失われた時を求めて」も、本国フランスでは1冊で読むことができるのだ。
もちろん抄訳版ではなく、完全版でである。
日本では、鈴木道彦訳の集英社文庫版で13冊。
井上究一郎訳のちくま文庫版で10冊であることを考えれば、その密度の濃さがうかがえる。
ガリマールの1冊版では、2408ページ。
価格は5867円(※)とあるから、1ページあたり約2.4円ということになる。
ブックオフ並みの価格である。
言うまでもなく、これは文庫版で揃えるよりも、はるかに安上がりだ。

また、表紙にはプルーストと同時代の写真家ジャック=アンリ・ラルティーグの写真が使われており、邦訳版より見た目は数段カッコ良い。
広辞苑より一回り小さいサイズということで、当然、文庫本のように行方不明になることもない。
それは一つの固体として、部屋の中に独自の地位を占めることになるのだ。

もちろん、一冊であるが故の欠点もあるだろう。
広辞苑より小型であるとはいえ、やはり通勤・通学の途中に電車の中で読もうという気にはなれない。
それは、常に机の上に置かれることが前提とされているように思われる。

ここまで書いて、その内容に全く触れていないことに気が付いた。
しかし、本書の内容について語ることは筆者には目下のところ不可能である。
というのも、この「失われた時〜」の一冊本、購入して随分と経つが「お得な買い物をした」という幸福感に未だに包まれており、そのページを開く気にはなれないのだ。
というわけで、「失われた時」は、悲しいかな、未だに「失われた」ままである。


※2008年6月10日現在、8989円


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2008年04月04日

プチ・ニコラ

学校ではクラスで記念写真を撮る機会が少なくない。
入学式、学校行事、卒業式…。
そんな風景を思い起こすことはあっても、写真撮影そのものの思い出とか記憶はあまりない。
写真撮影は、あまりにもあっさり通り過ぎていく。

Nicolas たちの学校で記念写真のエピソード。写真一枚撮るのに、まぁ、大変。
Nicolas の目線で進むので、Nicolas がどんなキャラなのか解りにくいけど、たぶん、普通の子。
というか、他の面々(les copains)が「濃い」のである。

Geoffroy: 欲しい物は何でも買ってくれる超お金持ちのパパがいる。
Agnan: クラスのトップ。先生のお気に入りだけど皆からはあまり好かれていないようだ。
Eudes: とても強い。(人に)げんこつしたくて仕方がない。
Alceste: ぽっちゃりしていて、いつも何か食べている。
Rufus: (本文では)バッグを被って「お化けだぞ〜」と叫んでいる。
la Maîtresse: 担任の先生。優しくてみんな大好き。でも怒ると怖い。

たった一枚の写真を撮るのに、みんなが好き勝手に何かするので、なかなか写真が撮れません。Geoffroy はおもちゃの火星人ヘルメットを被ってきて、どうしてもこの格好じゃなきゃ嫌だとダダをこね、Eudes は Agnan の鼻っ柱に一発お見舞いしたくて仕方がない。Alceste はタルティーヌをシャツに落っことし、そのジャムでシャツを汚す…。

最前列は地面に座り、二列目はそのまま立つ。三列目は椅子を並べてひな壇をつくり、その上に乗る。背の高い子だけだといっているのに、皆最後列の椅子(chaise)に乗りたがったり、カメラマンにカメラについて蘊蓄を垂れたり、列は乱すわ、ケンカは始めるわ、温厚なカメラマンも我慢の限界!?

こんな面々で、今時の感覚で言うところの「学級崩壊!?」かと思いきや、先生も負けていない。ことあるごとに叱り、動詞の活用だの、書き取りだの罰を与えるけれど、最後は「おとなしくできたら罰はナシにしてあげる!」と巧みにアメとムチを使い分ける。「先生を悲しませたくない」と頑張るくらいに皆の信頼も厚い。

さて、「Un souvenir qu'on va chérir」な記念写真の出来映えは…?

児童向けとはいえ、なかなか読み進まず、たった数ページ読むのに時間がかかりすぎました。
ドタバタで「悪ガキ」ばっかりだけど、どこか微笑ましいです。子どもって、やっぱりやんちゃだよなぁ…。


□本のタイトルが「Le petit Nicolas」(プチ・ニコラ)。和訳のものに「プチ・ニコラ」(偕成社)「わんぱくニコラ」(文春文庫:絶版)があります。その中のエピソードの一つが、この「Un souvenir qu'on va cherir」というお話です。

□Sempé-Goscinny は作者で、サンペが絵担当、ゴシニがお話担当。

□公式サイト http://www.petitnicolas.com/
フランス語とドイツ語が選べます。トップページでニコラが走っているのがかわいい。


プチ・ニコラ〈1〉集まれ、わんぱく! (偕成社文庫)
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2008年03月21日

『なしくずしの死』 ルイ・フェルディナン・セリーヌ

なしくずしの死〈上〉 (河出文庫)生き続けるのは残酷なことだ、他人とともにいるのは不幸の源だ、というのは文学の大きなテーマの一つ。「不思議なのは、どうして誰も自殺しないでいられるのかということです」と、トマス・ベルンハルトの芝居の登場人物は呟きました。セリーヌの『なしくずしの死』は、まさに自殺を回避するための戦いの記録です。人生がくだらないと思っているなら、どうして死んでしまわないんだ、という問いに、神だとか愛だとか家族だとかを持ち出さずに答えようとすると、なかなか大変です。原題は『クレジット払いの死』ですが、本当は「抵当に入った生」というべきです。主人公は子供の頃から失敗ばかりします。それでも、寝転がって星を眺める心はもっています。しかし、不器用な大人の悲惨な死に直面したとき、都会の空は濁って、もう星は見えなくなります。星を見ることに関して、これほど美しく悲しい小説を僕は他に知りません。暗い、とはいえ、笑える場面もたくさんあります。カフカやベケットで笑えるという人に限りますが。


なしくずしの死〈上〉 (河出文庫)
ルイ‐フェルディナン セリーヌ
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5 怒りをこめて生き延びる
4 なしくずし




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2008年02月15日

森茉莉 『記憶の絵』

kiokunoe.jpg「ふらんすへ行きたしと思へども ふらんすはあまりに遠し・・」と謳ったのは詩人の萩原朔太郎です。この「旅上」という詩が収められた『純情小曲集』が発表されたのは1925年(大正14年)のことですが、当時は今と違ってヨーロッパへ行くのは物理的にも経済的にも大変な時代でした。しかし幸運にも憧れの洋行を実現した日本人たちもいたわけで、ろくなガイドブックもなく、言葉もおぼつかないなかでも、刺激的な滞在を送り、興味深い記録を残している者も少なくありません。今回は森鴎外の長女で稀代の文章家である森茉莉についてご紹介しましょう。


1903年(明治36年)生まれの彼女が、先に留学していた夫に合流すべく渡欧したのは1922年(大正11年)のことで、まだ19歳という若さでした。嫁ぐまで靴のひもを結ぶのも人にやってもらっていた(!)というお嬢育ちの彼女が、夫と二人だけのパリ暮らしをやっていけるのかと思いきや、この花の都に到着すると間もなく「毛虫が蝶になるようにしてなんとも面白い巴里女(パリジェンヌ)に孵化した」というのです。


夫が外へ出ている間はホテルの中にいるだけ(一人きりで外出したのはたった一回だけだったと言います)だったにもかかわらず、彼女はパリでの生活を心の底から満喫し、(滞在中父親である鴎外の死を知らされたときは別として)日本を恋しがることもほとんどありませんでした。百貨店で買い求めたつるしの洋服を嬉々として着こなし、夜な夜なオペラや芝居を見に出かけ、街中のレストランでおいしいものを食べ歩く毎日を楽しみました。ことのほか食いしん坊の彼女にとっては、レストランで味わうビフテキや牡蠣はもちろんのこと、ホテルで出されるカフェとパンという簡素な朝食でさえ、「胸が一杯になるほど楽しいもの」でした。


ソルボンヌ大学近くの安ホテルに下宿した二人を取り囲むのは、若いツバメを連れた婆さんや商売女たち、若い恋人のいるフランス語の先生などどこかいかがわしい人々ばかり。そしていくらぼんやりとした性格の彼女でも、つまらないことで議論したり、浮気っぽかったり、少しのお金でも出すのを惜しみ「貰うものはスリッパ片方でも喜ぶ」(!)くらいケチだったりする、パリジャンたちの様々な側面がわかってくるのですが、それに幻滅するどころか、彼らの自由で、粋で、人生を謳歌する姿に共鳴して「パリが自分のほんとうの国であり、自分のほんとうのいる場所である」と感じるまでになるのです。


滞在を終えて1923年に帰国した彼女が、1987年に84歳の生涯を終えるまで「自分のほんとうの国」に戻ることは二度とありませんでした。しかし、約一年半のパリでの生活はその後彼女の人生に大きな影響を与えたのは間違いありません。彼女がパリでの思い出を『記憶の繪』と題して文章にまとめたのは実に60歳を過ぎてのことですが、40年以上も前の出来事がまるで昨日あったことのように鮮明に語られています。またお金は持っていなくとも、「貴族」的な精神をもち、上等な生活をする術を披露した「贅沢貧乏」など、彼女の珠玉の文章そこここに、パリで培われた感性が花開いています。


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2008年01月06日

『雪沼とその周辺』

雪沼とその周辺 (新潮文庫 ほ 16-2)仏文学者でもある堀江敏幸さんの短編集『雪沼とその周辺』は、最近読んだ現代日本文学作品のなかで最も記憶に残る小説です。


雪沼という架空の町のまわりで、小さなボーリング場やレコード店、中華食堂、書道教室などをひっそりと営む人々の暮らしが、取り立てて大事件が起きるわけでもなく静かに語られます。しかし淡々とした文章にはしばしば過去の回想が織り交ぜられ、実は彼らは決して平穏とはいえない年月を送ってきたことがわかってきます。仕事上の悩み、肉親との離別、身体的なコンプレックスといった問題を抱えながら、彼らはそれでも自分の仕事に真摯に取り組みつつ、現在に至ったのでした。


人生にはいろいろある、という当たり前のことをしみじみと納得させ、かつそれを変に強調することもなく穏やかに描ききる、堀江さんの文章力が冴え渡っています。堀江さんのそれまでの作品は、静かながら蛇行するような長い文章が特徴的で、以前にご紹介したトゥーサンやオステールのそれを連想させるため、日本語でちょっと前衛的な現代フランス文学を読んでいるような気分になりました。それがこの『雪沼』ではかなりシンプルな文章になり、それだけ親しみやすさが増したように思います。


また職業柄、ということもあるのでしょうか、過去の作品のなかには文学的な脱線がしばしばあり、それが時としてマニアックな内容になっていたりするので、少々取っつきにくいところがありましたが、この作品では、そういった面はほとんど見られません。唯一フランスの作家、アラン・フルニエが話題にのぼる一編がありますが、物語の最後の展開に非常に効果的に使われる小道具となっていて、全く嫌みを感じませんでした。


作品に一貫して感じられるのは、登場人物たちに対する堀江さんの穏やかでやさしい視線です。それは特に主人公が周囲の人々に向ける視線に重なり、彼らの交流の描写は、何がどうというわけではないのに、妙にじんとくるものがあります。冒頭の「スタンス・ドット」や「レンガを積む」「ピラニア」などがそのよい例です。もちろんその他の短編もすばらしく、久しぶりに読み進めるのが惜しく思えるような作品に出会えて嬉しい夏でした。


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2007年05月26日

デビッド・セダリス 仏蘭西のアメリカ人

sedarispix.gifフランスに住み始めて6ヶ月。でもフランス語は上達せず、語学学校に通うのもやめてしまった。会話の内容はなんとか理解できるけれど、きちんとわかっているのか心もとない。でも、「何とおっしゃいました?」を連発するのはきまりが悪い。だからついついあの魔法の決まり文句、“D’accord.(=わかりました)”が口を付いてしまう…。“D’accord.”と言ってしまったばかりに我が身に降りかかった思いがけない体験を在フランスのアメリカ人作家、デビッド・セダリス David Sedaris はエッセイ”In The Waiting Room”に綴っています。

病院でナースに「服を脱いで下着だけになってください。」と命じられ、気軽に例のヒトコトで応じたものの、ちょっと待てよと思ったがあとの祭。どこかに去っていったナースは他にも何か言い残したようだが聞き取れず…。かくして、中年、やや長髪ぎみのアメリカ人は、ナースの指示した通りの格好で、普通の身支度の患者とともに待合室で一時を過ごすはめに陥るのです。
 
悪夢のような自身の体験を、クリームのように滑らかに、明るいユーモアをこめて描いた上で、セダリスはこう締めくくります。不完全なフランス語の語学力と“D’accord.”は、こんどはどんな冒険を、お楽しみを用意してくれるのだろう?

Dress Your Family in Corduroy and Denim人気作家として The New Yorker を始めメジャーな雑誌に頻繁に寄稿しているセダリスは、ゲイである自分のアイデンティティーや年下のパートナーとの生活、中流家庭に育った幸せな子供時代の思い出にこだわったエッセイを多数発表しています。フランスに住んでいても、彼の作品は異国の香りをさほど感じさせてくれません。(日本のフランス発のエッセイがいやおうなしにフランスを語るものとなっているのとは対象的、面白いですね。)異邦人であることを強調せず、コスモポリタンであることを自慢せず、誰しもの身にも起こりうる日々の暮しのあれこれから得た思いや意見を軽妙な筆致で描きだす。そんな作風がアメリカでうけている理由なのかもしれません。異国にあってぶしつけに振舞わないけれど、卑屈にもならない、よい意味でアメリカ人らしいフランクな雰囲気がセダリスの作品の魅力となっています。作品中で作り上げられた彼のイメージは、アメリカの読者が楽しみ羨む、理想的な「パリのアメリカ人」のように思います。
 
彼の作品は雑誌やペーパーバックなどで手軽に読むことができます。子供時代の思い出を綴った物も絶品で、特に子供の頃に出くわした「恐怖のベビーシッター」の話は抱腹絶倒ものです。


*David Sedaris
"Dress Your Family in Corduroy and Denim"
"Holidays on Ice"
"Je Parler Francais"

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4 mundane becomes funny,
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2006年12月28日

『待ち合わせ』クリスチャン・オステール

rendez-vous01.gifミニュイ社 Les Éditions de Minuit は、かつてアラン・ロブ=グリエやミシェル・ビュトールといった「ヌーヴォー・ロマン」の作家たちや、『ゴドーを待ちながら』のサミュエル・ベケット、また最近では日本でもおなじみのジャン=フィリップ・トゥーサンやジャン・エシュノーズなどの、ユニークな作家の作品を世に送り出してきた出版社です。白地に青い星印のシンプルで美しいその装丁の本は、モード写真の小道具としてたまに登場していますから、書店ならずとも、雑誌で目にした人も多いかもしれません。


そのミニュイ社で、ここ数年コンスタントに作品を発表している作家に、クリスチャン・オステール Christian Oster がいます。オステールはさまざまな職業を転々とし、数冊の推理小説を出した後で、1989年にミニュイから本格的デビューを果たしました。それが40歳になろうという年のことですから、遅咲きの人と言えますが、1996年以降はほぼ毎年1冊小説を発表し、1999年の作品『僕の大きなアパルトマン Mon grand appartement 』はメディシス賞(注1)を受賞しました。最近では子供向けの童話も次々出していて、非常に意欲的な活動を続けています。


オステールの小説では、家へ帰ったら鍵がなくて中に入れないだの、家の中にハエがいて気になってしかたがないだの、いかにもありえそうな日常的な事件からスタートします。しかし、物語はだんだんと思わぬ方向へ進み、読者が予想もつかないような結末へ至ります。その思いもよらぬ展開は、話者である主人公の風変わりな性格によるところ大であり、理路整然としているようで、どこか歪んだ彼らの考え方が、新しい局面を導き出していくのです。鍵が入っていたかばんをなくしたことに気がついても、「悲しいのは鍵をなくしたことではなく、それが入っていたかばんをなくしたことだ。だってかばんをとても気に入っていたし、鍵には愛情など持ってなかったから」と話が続いていくのは、やっぱりおかしくないですか? そんな奇妙な語りをユーモラスで楽しく仕立てあげているのが、オステールの発想の豊かさと魅力的な文体なのです。


新作がいつも待ち遠しいオステールですが、日本でも2003年作の『待ち合わせ Les rendez-vous 』が昨年翻訳されました。文字通り、主人公フランシスがカフェで元恋人と「待ち合わせる」場面から始まりますが、彼による「待ち合わせ」の定義がこれまた相当変わっていて、数ページ読んだだけでもフランシスの非常に理屈っぽい性格とどこかずれたものの考え方がすぐに分かっていただけると思います。この部分で辟易してしまう人もいるかもしれませんが、それがツボにはまれば話が次にどう転ぶのか、ワクワクしながらオステールの世界を楽しめることでしょう。そしてめぐりめぐった物語が、最後の段落に行き着いて冒頭のシーンとつながるときに、彼の小説家としての力が否応なく感じられるのです。


注1:ちなみに今年の受賞作はトゥーサンの最新作 Fuir でした。


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2006年08月23日

『おわりの雪』ユベール・マンガレリ

derniere neige.jpg夏休みも半ばが過ぎようとしていますが、時間の余裕があるこのときに、何かフランスの小説を読んでみませんか? 今回の夏休みの期間には、フランスの「今」を感じる現代小説をいくつかご紹介する予定です。まずはユベール・マンガレリの『おわりの雪』を取り上げたいと思います。この小説は FBN が CYBER FRENCH CAFE という名で始動したとき、最初のエントリーで扱ったものですが、依然方々で高い評価を得ており、書店のフランス文学コーナーで目立つ場所に置かれていることが多いので、再度ご紹介しましょう。


母親と病気の父親と3人で貧しい暮らしをしている主人公の少年は、ある日古道具屋の店先でトビが売られているのを見つけ、欲しくてたまらなくなります。その日から少年は、少しずつお金を貯めながら、毎日仕事帰りに古道具屋に立ち寄ってはトビを眺め、夜にはこの鳥の話を父親にするようになります。ある夜、少年は古道具屋で見かけた男がトビをつかまえた人物だと思いこみ、彼とトビとの格闘の物語を自分で作り上げ、「本当の話」として父親に語って聞かせます。その後父親はこの話を気に入って、何度も何度も少年に語らせます・・・


少年の目を通して日常が静かに語られていきますが、そのうちに彼は数々の「死」を体験します。彼が勤めるホスピスの老人の死、小さな動物たちの死、そして自分の父親にも迫りつつある死‥‥それらは突然やってきたり、少年自らがもたらしたり、また自分の力ではどうにもならなかったり、さまざまな形であらわれますが、彼はそれぞれの死をひっそりと受け入れ、人知れず悲しいおもいをしています。だからこそいっそう彼は「生」の象徴であるトビに憧れるのです。


この少年はおそらく十代半ばぐらいだと思いますが、とても大人びていて、まわりの大人たちよりもはるかに老成しているようにすら見えます。特に父親は弱く、息子に対して子どもっぽいふるまいをすることもあります。しかし少年は常に彼にやさしく接し、繰りかえしトビの話を語るときなどは、まるで寝物語をしてやる親のようです。『おわりの雪』はこの父子の物語を中心としていますが、いわゆる「病気もの」にありがちな、感情に走ったところはほとんどなく、実に淡々と語られています。それだけに少年の内面がかいま見られるような、たとえば彼が「誰にも気づかれぬよう」夜中に涙を流している場面などでは深く胸を打たれます。


少年の語りはとてもシンプルで、具体的な説明は極力省かれており、たとえば彼が作ったトビの話や、ホスピスの老女が語るリスの思い出話は、何度も登場するにもかかわらず実際にはどんな話なのかほとんどわかりません。また父親がどんな病気なのか、そして夜中に家を空ける母親が一体何をしているのか、謎めいた部分もあります。その点でパトリック・モディアノや、日本の作家なら小川洋子の作品を連想させますが、彼らの小説にしばしば感じられるような人工的な雰囲気はなく、あくまでも素朴なやり方で私たちの想像力をかきたててくれます。


白水社から出ている翻訳は、田久保麻理さんの訳文も評判がよいようで、その後別作品『しずかに流れるみどりの川』も出版されました。原書にトライしてみたければ、アマゾン・フランスなどを通じて比較的簡単に手に入れることができます。原文はフランス語文法を一通り終えた人ならじゅうぶん読める平易なことばで書かれているので、オリジナルの文章を味わってみるのも楽しいと思いますよ。 

おわりの雪
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ユベール・マンガレリ 田久保 麻理
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2006年05月31日

フランス語で学ぶ村上春樹

kafkarivage01.jpg今週発売の『アエラ』第27号で、「昔の『春樹』に会いたい」という特集が組まれてました。ここで言う「昔」ってのは、1987年出版の『ノルウェイの森』以前ということらしいです。この企画のためにアエラ編集部が行ったネット・アンケートのデータなんかもいろいろ出ていて、面白い。たとえば一番好きな作品は『ノルウェイの森』がトップ、そして最初に読んだ作品も『ノルウェイの森』がダントツ・トップ。これは仕方ないですかね。また、村上春樹の小説を読み返したくなる時は「昔のことを思い出した時」で、彼の小説を読んだ後は「一人旅」がしたくなるとか。福田和也と斉藤環両氏の対談や、内田樹氏の語るキーワードなんかもあり、かなり充実した内容。しかも、小森陽一氏の『村上春樹論『海辺のカフカ』を精読する』という本が平凡社新書から出たばかり。村上春樹をめぐる「冒険」はがぜん勢いを増しているようです。

世界的な作家になり、ノーベル文学賞受賞も遠くないと囁かれる村上春樹。フランスでももの凄い人気で、ほとんどすべての作品が高い評価を受けています。ぼくも何冊かフランス語版の春樹小説を持っていますが、それらを買った当時は実はそれほどでもなかったように記憶しています。小川洋子とか、吉本ばなななんかと本屋の棚に静かに並んでいた記憶があります。フランス語版のタイトルはほとんどが直訳なんですが、いくつか挙げてみると、『羊をめぐる冒険』は La course du mouton sauvage 、例の『海辺のカフカ』は Kafka sur le rivage と訳されています。傑作『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』はさらりと La Fin des temps。『ノルウェイの森』は、La Ballade de l’impossible となり、これには異論のある読者もいるようです。   

それにしても、フランスに限らず、アメリカ、韓国、中国でも、国を問わずよく読まれている村上春樹。もちろん僕も熱心に読みふけった読者のひとりですので、彼の小説が世代も国境も越えて読まれ、評価されていくのはうれしい反面、最近の作品には違和感というか、反復感というか、なにかのめり込めないものを感じていて、やはりぼくも「昔の『春樹』に会いたい」ひとりなのかなと思ったりもします。皆さんはどうなんでしょう?

findestemps.jpgで、こんなにもみんなに読まれているのなら、「村上春樹で学ぶフランス語」なんてのはどうだと思いつき、思いつきでこの記事を書き始めたものの、肝心の本が見つからない。やっとのことで見つけた断片で、今回はお茶を濁して、春樹文学の名台詞たちをフランス語で味わうのはまた今度、ということで... La Fin des divagations 。代わりに、ちょっと長いですが、『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』からの引用で締めましょう。

En général, je suis quelqu'un de plutôt sincère. Quand je comprends, je le dis clairement et, quand je ne comprends pas, je le dis aussi. Je ne laisse planer aucune ambiguité. Je pense que la plupart des gens dans le monde où nous vivons, qui s'expriment de façon ambigue, cherchent des ennuis inconsciemment, au fond d'eux-mêmes. Je ne peux pas penser autrement...

(私はだいたいが正直な人間である。わかったときにはちゃんとわかったと言うし、わからないときにはちゃんとわからないと言う。曖昧な言い方はしない。トラブルの大部分は曖昧なものの言い方に起因していると私は思う。世の中の多くの人々が曖昧なものの言い方をするのは、彼らが心の底で無意識にトラブルを求めているからなのだと私は信じている。そうとしか私には考えられないのだ。)[新潮文庫、上巻、87頁]

どうでしょう? 村上春樹の文体をフランス語はうまく写し取っているでしょうか?



PST

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2006年04月21日

『危険な関係』ラクロ

危険な関係 (角川文庫)「ヨン様」主演の映画「スキャンダル」、アメリカの若者たちのあぶない恋愛ゲームを描いた映画「クルーエル・インテンションズ」、そして昨年フジテレビでやっていたお昼の連ドラ‥‥さてこれらの共通点はなんでしょう?もうおわかりですね。すべての原作が、18世紀のフランス小説『危険な関係』だということです。上記3作のみならず、この小説は世界各国で映画化・ドラマ化されてきました。今から200年以上も前に書かれた小説が、なぜこうも繰り返し映像化されるのか?いくつか理由を考えてみました。

1 まず内容がスキャンダラスである、ということ。表向きは貞淑な未亡人メルトイユ夫人が、かつて捨てられた男に復讐するため、過去の恋人ヴァルモン子爵と共謀して男の婚約者を堕落させ、さらに周囲の人物を次々誘惑していく‥‥という物語は、現代でもかなりショッキング。

2 とはいえそれほどいやらしい感じがしないのは、目的の行為そのものよりも、そこに至るまでの経過に語りの重点が置かれているから。2人は誰を使ってどう動くか逐一報告し、戦術の善し悪しを互いに批評し合いますが、次第に相手よりも優位に立とうとする権力争いになり、その成り行きはまるでチェスか将棋の試合でも見ているようです。

3 その報告をはじめ、この小説はすべてが手紙の形式で語られています。「手紙」は、秘め事を述べるに格好の場ですが、一方で語られる内容にどこまで書き手の本心があらわれているのかは謎。なので、映像化する際には色々な解釈が可能になります。

4 中心の2人のほか、清らかで信仰の厚い人妻だとか、幼くて世間知らずの少女だとか、登場人物の個性がはっきりしていて、「あの俳優さんで」とついキャスティングしたくなります。

映画化された作品を3本見てみましたが、原作に匹敵するものは残念ながらありませんでした(その感想はこちらで)。すぐれた作品は映像作家たちの創作意欲を沸き立たせる反面、完全な映像化はやはり難しいのですね〜。ちなみに私が知るかぎり、最初に映画化した国は意外なことに日本(1957年)です。井上梅次監督のこの作品でヴァルモンを演じたのは、何と金子信雄!「仁義なき戦い」の組長が世紀のプレーボーイ役ですよ!いや〜実に見てみたい!!

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4 大人の小説
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2006年04月09日

『家なき娘』エクトル・マロ

enfamille01.jpgフランスの小説で最初の愛読書は何だったか、ということを考えてみると、私の記憶に浮かんでくるのは『家なき娘』です。『家なき子』なら知ってるけどこっちは知らない、という声が聞こえてきそうですが、アニメ「ペリーヌ物語」の原作だと言ったら、内容を知っている人も多いのでは? 実は『家なき子』と『家なき娘』は著者が同じで、それぞれ"Sans Famille"と"En Famille"という原題の姉妹作なのです。

時代はおそらく19世紀末。インドから父母と馬車でフランスへ向かっていた主人公の少女ペリーヌは、途中で父を、そしてパリで母を亡くします。ひとりぼっちになったペリーヌは母の遺言に従い、祖父の住むマロクールという町(注1)へ向かいますが、この町で大規模な紡績工場を経営している祖父のヴュルフランは、息子の結婚に大反対をしており、絶縁状態の人物でした。そこでマロクールに着いたペリーヌは、オーレリーと名前を変えて工場で働きはじめます。

フランス人の父とインド人の母の間に生まれたペリーヌが、孫娘と名乗ることなく、祖父の信頼と愛情を次第に得て、ついに‥‥という物語はもちろん感動的なのですが、読みごたえがあるのは、ほとんど文無し状態になったペリーヌのパリからのサバイバル生活。『家なき子』のレミには犬のカピがいつも一緒だったのに対して、ペリーヌはたった一人きりで(注2)マロクールまで歩いて(!)行くし、工場で働いているときも、人の住んでいない小屋を見つけてほぼ自給自足生活を送ります。食事はおろか、着るものも、靴も、食器もすべて手作りし、他人の力を借りず何でも自分でやり遂げようとする彼女の姿には、自立する女性像が見られます。このほか、工場のことだけを考えていた祖父に、労働者たちの生活の実態を気づかせ、彼らのことをもっと思いやるよう諭すなど、ペリーヌには先進的な思考も備わっていて、児童文学のなかでも新しいタイプのヒロインと言えるのではないでしょうか。

小さい頃に、少年少女名作全集に入っていたこの物語をぜひもう一度読みたい、と思っていたのが3年前に完訳版で復刊されました。重厚な翻訳は大人でもじゅうぶん楽しめますので、ぜひご一読を。

注1:マロクールは架空の場所ですが、北フランスのアミアン市に近い町として設定されています。

注2:アニメの「ペリーヌ物語」に出てくる犬のバロンは、原作には登場していません。

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5 信じられない名訳
5 『家なき娘[上]』
5 現代語版・家なき娘


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2006年03月29日

『浴室』 ジャン=フィリップ・トゥーサン

sallebain01.jpg 初めてフランスを旅行したとき、パリの街角の所々に風変わりな映画ポスターが貼ってありました。無表情の男がバスタブに横向きに座るそのモノクロのポスターが妙に気になっていたら、本屋にその映画の原作 "La Salle de Bain" が置いてあり、旅みやげにそれを買って帰りました。そのときは全く予測もつきませんでしたが、この作品は後日『浴室』というタイトルで日本で翻訳出版され、著者のトゥーサンは現代のフランス作家(注1)として一躍人気者になったのです(注2)。

『浴室』は文字通りバスルームで暮らそうと思い立った男(今でいえば「ニート」君の部類に入るのかも)の話。だからといって別にどうこうするという訳でもなく、彼は淡々と日々を過ごすだけ。悩み苦しむような大問題も、大きな騒動も起こることはありません。パラグラフに数字がふってあったり、時折小難しいピタゴラスの定理やらがはさまって、なんだかよくわからない。最初に読んだときにはえらく変わった話だなあと思いました。

でも、この小説は読んでいて何となくおかしい。そのおかしさの大部分は、この男が周囲の人々と交わすやりとりから来るものです。彼は浴室にこもっているけれども、彼の恋人や家族や赤の他人までが容赦なくやってきて、彼と接触することになり、男と彼らとの間に生ずる微妙な「ずれ」が、私たちをクスリと笑わせるのです。つまり『浴室』は閉鎖的な空間に身を置く個人そのものというよりも、その個人と他人、個人と外界(男は突然浴室から出てイタリアという異空間へ旅立ったりします)との関わりを描いた小説といえるでしょう。

映画の「浴室」も物語の雰囲気をうまく表していて、おすすめです。簡潔な文体を映像に移したかのようなストイックなモノクロ画面、モンドリアンを意識したショット、そして小説からそのまま抜け出てきたかのような主人公‥‥トゥーサン自身はこの映画がお気に召さなかったのか、その後作品を映画化するにあたって自らメガホンを取ることになりました。しかし「浴室」で主人公を演じたトム・ノヴァンブルは、トゥーサンが監督した映画にもすべて出演し、おなじみの顔になっています。


注1:トゥーサンはベルギー出身ですが、彼の作品はフランスのミニュイ社から出版されています。

注2:トゥーサンの作品はこのデビュー作をはじめ、2002年発表の『愛しあう』まですべて邦訳されました。最新作の Fuir (2005)も、いずれ翻訳されるでしょう。

浴室
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