2020年09月20日

『わたしが「軽さ」を取り戻すまでー“シャルリ・エブド”を生き残って』 カトリーヌ・ムリス

最近読んだマンガに、こんなエピソードがあった。登場人物の一人が、しんどい状況にある二人に彼なりのメッセージとして写真集や画集を送るが、どちらからも見事に拒絶されてしまう。同じやらかしの経験者として、落ち込む「彼」と一緒に反省することしきりだったが、こんな疑問もわいてくるのだった。写真や絵の力に一方的に頼った彼のやり方はたしかにマズかった。しかし、写真や絵画は、芸術は、本質的に人を癒す力があるのだろうか?



そんな大きな問いを自らの人生でもって検証せざるを得なかった人がいる。この本の著者、カトリーヌ・ムリス だ。2015年1月7日に起こったシャルリ・エブド襲撃事件の生き残りの一人である。

男と別れて気が塞いでつい会議に遅刻したおかげで、彼女は辛くも難を逃れた。しかし、シャルリ・エブドのオフィスがある建物の前に到着したとき、まだ事件は終わっていなかった。路上で、逃げ込んだ近所のオフィスの中で、彼女は仲間たちが手にかけられる音をずっと聞かなければならなかった。Tak Tak!という発射音はその後ずっと彼女につきまとう。

それが終わった後、ムリス は生き残りとしての苦しみを生きることになる。事件直後はまともな会話が成立しないほどのダメージを受けていたにもかかわらず、シャルリ・エブドのスタッフとしてテロに対しリアクションをすることが求められたのだ。テロ後に発行された「生存者の号」の編集にも携わった。本書で公開された当時の創作メモは、ムリスの内面のあからさまな記録だ。一言でいうならばカオス。怒り、恨み、ヒステリックな叫び。全く笑えない、事件がらみのユーモア( 後の報道で殺人者もまたいろいろを抱えた人間であったことを知ってしまった「遠くの部外者」には正直ついていけなかった)。きれいごと抜きの赤むくれの彼女がここにいる。

役目を果たしたムリス は抜け殻も同然となる。何も感じない。記憶は飛び、同僚がかけてくれた新年を祝う言葉も思い出せない。大好きなプルーストのゆかりの地を訪れても何の感興も湧かない。このときの心境をムリスは綴っている。「自分が何者なのかわからない。 無の中に浮いている/精神科医にも言われたわ。身近な人たちや友人がどれほどの善意を持ってもわたしたちに起きたことを理解できないって/とても孤独を感じるだろうと」

そんなムリスを世界は放っておいてはくれない。警察は24時間警護という刑務所同然の暮らしを彼女に強いる。“Je suis Charlie”のスローガンに代表される、シャルリ・エブド襲撃犯が抱えていた憎しみとは真逆の、世間の強い感情の波をまともに被る。生き残りというそれだけの理由で、拍手の嵐の真ん中に立たされる。マスコミは彼女を追い回し、「虐殺」現場は観光名所になってしまった。もはや元の暮らしは望めない。男だって言い寄ってこない(SPに取り押さえられるのがオチ)。そして、11月19日の同時多発テロが彼女にダメを押す。

芸術の力にすがってみようとムリスが思いついたのは、そんな時だった。スタンダールがイタリアで美術の力に圧倒され気を失ったと書き記している。スタンダールのように美に溺れ、美の力で「1月7日」を相殺することはできないか。ムリスはローマへ旅立ち、スタンダールがしたように美の傑作をひたすら見る日々を送る。

スタンダールが力説していたような劇的な効果は現れただろうか?テロはなおもしつこくムリスにつきまとい、美に没入することを許してはくれない。しかし少しずつ、彼女は自分らしい物の見方を取り戻してゆく。ミケランジェロの手がけた教会の天井画を眺めているとき、魅力たっぷりな神のお尻を面白がっていることに気がついたり。そしてフランスに戻り特別なはからいで閉館後のルーブル美術館を生き残り仲間と見学した時には、カラヴァッジョの一枚の絵と目が合ってしまう。イタリアで見たドラマチックな生と死、光と闇に彩られた作品群とは違う、名画ではあるがぐっと世俗的な日常のおかしみに溢れた一枚。そんな絵と心のチューニングが合った彼女は、1月7日前の心の自由をほんの少しではあるが取り戻しているのかもしれない。

芸術とムリスとの関わりで美術とのそれより印象的だったのが、ボードレールの詩の一節を巡るものだ。襲撃で亡くなったシャルリ・エブドの校正担当が、新年の挨拶とともに彼女のために暗唱してくれた言葉でもある。事件のショックで消えてしまったその言葉を、しばらく経って彼女は思い出す。新年に相応しい、高揚感に満ちた華麗な言葉は、通奏低音のように彼女の中に響き続ける。彼女の受けた傷を塞ぎ、直接痛みを和らげることはない。しかしそれは遠くにある光のように、どん底にいる彼女をそっと支えていたように思う。

ムリスの「実験」から言えることは、芸術の「効力」とはそれに触れる人次第ということだろうか。見る人の側の用意ができていなければ、それがどんな傑作であっても無力なのかもしれない。 しかしそれが誰かのために特別に選び思いを込めて届けられたものであるならば、また違ってくるのかもしれない。ボードレールの詩がムリスに捧げられたとっておきの言葉でもあったように。

最後にこの本についての注意書きを少し。セリフの吹き出しはたくさんあるけれども、いわゆるマンガとは手触りが違う。イメージを喚起するたくさんの絵が添えられた言葉の本、というほうが近いだろうか。また、タフな一冊でもある。表紙の淡いタッチのイラストにごまかされてはいけない。わかりやすい立ち直りの物語を期待したら返り討ちにあう。作者はまだ「途上」の人であり、この本をよむことは作者の傷に触れることでもある。ある意味「覚悟の書」なのだ。絵の一枚一枚を描きあげることがどれほど大変だったろうか。2016年の時点でここまで自分をさらけ出したその勇気に敬意を表したい。


GOYAAKOD


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2020年08月25日

『見えない違い 私はアスペルガー』 原作:ジュリー・ダシェ 作画:マドモワゼル・カロリーヌ

マンガの伝える力に瞠目したのは、吉本浩二の『寂しいのはあんただけじゃない』を読んだときだった。文字情報だけではどういうものかわからなかった「耳鳴り」や「聞こえにくさ」を頭上にジェット機、側に稼働中の洗濯機とズバリ絵で表示したり、聞こえた言葉のタイポグラフィーを激しくいじることで一目でわかるものにしてくれた。そうだったのか!と驚くとともに、聴覚障害という言葉の後にある世界に初めてつながったように感じた。



この本も、マンガの伝える力を最大限に活用している。アスペルガー症候群と診断される主人公、かつての原作者の等身大の存在とおぼしき27才のマルグリットの一日を描いた場面では、彼女のしんどさが募ってゆく様が手に取るようにわかる。例えば、静かな早朝のオフィス(彼女にとって快適な空間)が、始業時間が近づくにつれて音に飲み込まれてゆくシーン。ありふれたオフィスの中の音が色とタイポグラフィーを駆使してマルグリットを悩ませるモノとして図示される。

エピソードにさらりと盛り込まれた、マルグリットが人と付き合うことの難しさ(とそのせいで彼女の回りに発生する不協和音)にもなるほどそうなのか、と思うことしきりだった。相手の表情から間の悪さ、気まずさが痛い程伝わる。これもリアクションを微妙なところまで表現できるマンガならではのことだと思う。

誰でもこれくらいして当たり前、なことが彼女にはこなしがたい。なんとかしようと必死に努力しても回りにはとんちんかんな振る舞いにしか見えない。着るもの食べるものなどマルグリットにとって譲ることのできない細かなこだわりの存在も手伝って、「変な人」のレッテルを貼られてしまう。私は変わっているからと、マルグリットも世界と真正面からつながることをあきらめてきた。

仕事でもプライベートでも壁に突き当たったマルグリットは自分のしんどさと向き合い、医療と正しくつながり、ついに「正真正銘のアスペルガー症候群」と診断される。子供の頃からの「謎」にとうとう答えを見つけたマルグリットは考え抜いた結果、自分の生き方に大鉈を振るう。

「アスペルガー症候群について適切に伝える好著」を越えてこの本が読み手に語りかけるのはここからだ。マルグリットは片隅の存在であることをやめ、自分を中心にして自分と世の中との関係を積極的に見直す。世の中が目の前にぶらさげた「普通」「正常」に近づくよう努力を続けるのはもうおしまい。社会の中で生きる上で折り合いを付けなければいけないことには知恵を絞って対処するけれども。そして、自分らしくのびのびとしていられる関係以外は人間関係をリセットすることを選ぶ。

そこにはマルグリットと親しくつきあってきた人との別れもあった。私はあなたが好きだし、あなたがいろいろある私のことを好きでいてくれたのはうれしいけれど、あなたにとっての私があなたの「普通」の基準からはみ出た残念な人のままであり続けるなら、一緒にやってゆくことを終わりにしたい。「血を流す」決断だ。けれど彼女はやってのけた。マルグリットが別れを心に決める瞬間を描いた、連続した彼女の目のアップのコマから始まるシークエンスは、マンガならではの軽やかな自在さのおかげですっと胸に届くものがあった。

大整理のしめくくりに、マルグリットは自分のためにもう一つ勇気のいることをする。そこまでするか、というリアクションもありそうだけれど、ことが終わった彼女の晴れ晴れとした顔に拍手を送りたくなった。

フランスのマンガ(BD)と聞いて何やらマニアックなと二の足を踏まれる方もいるかもしれない。が、色使いがきれいでイラストタッチのガーリーな絵柄も手伝って、典型的なマンガというより文章の多い大人の絵本として読んだ。

年を重ねるにつれ、惰性としがらみとなあなあの中で身動き取れなくなっている自分に気付かされる。少々のことと目をつぶって腰が上がらない情けなさを噛みしめる身だからこそ、自分に真摯に向き合い自分を大事にすることを最優先にして新たな人生を歩み出したマルグリットに、敬意を表したい。ジミー・クリフの歌ではありませんが、this little girl is moving on! なのだ。

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2014年01月09日

水城せとな『失恋ショコラティエ』

『失恋ショコラティエ』は第2回 anan マンガ大賞受賞作であり、各種メディアでも取り上げられた話題作で、現在4巻まで発売中(14年1月で7巻)。水城せとなはすでにいくつもの代表作を持つ人気作家で、この作品や『放課後保健室』などの仏語訳も発売されており、2008年のジャパンエキスポに招待された実績があるなどフランスでもファンを獲得している模様です(仏語版はアマゾン・フランスで入手可能)。

失恋ショコラティエ(1) (フラワーコミックスα)窮鼠はチーズの夢を見る (フラワーコミックスα)脳内ポイズンベリー 1 (クイーンズコミックス)

『失恋ショコラティエ』には、タイトルどおり「スイーツ+恋愛」という女の子が大好きな二大要素を盛り込んだ楽しい作品です! …と一言では済ませたくない魅力があります。もちろんチョコレートと恋愛がテーマではあるのですが、「そもそも恋愛って何だろう?」と一歩踏み込んだ問いかけが根底にあり、それはまた水城作品の持ち味でもあります。

ストーリーは…
チョコレートが大好きなサエコにふられた爽太は、フランスへと修業に旅立つ。帰国後、実家のケーキ屋を改装してチョコレート店をオープンし、彼女と再会を果たす。人妻となったサエコをあきらめられない爽太、そんな爽太に密かに思いを寄せる従業員の薫子。そして爽太の店で働くフランス人のオリヴィエは、爽太の妹に恋をする。

小悪魔的に爽太をひたすら翻弄するサエコですが、4巻では結婚生活に不満を感じていることが明らかになってしまいました。爽太はサエコとどうなりたいのかよくわからないまま、とにかく彼女を振り向かせようとあの手この手で頑張ってきたわけですが、サエコ側の状況がはっきりしたことで、今後新たな展開が予想されます。

スイーツの要素に注目すると、それはそれはおいしそうなチョコレートが次々に登場するので、読むと必ずどこかに買いに走りたくなります。サエコのチョコレートマニアぶりに感心させられ、チョコレートの奥深さに興味津々。ただ日本では、高級チョコレートブームは続いていますが、フランスのようなチョコレート文化は存在していないと言えるでしょう。爽太が開いたようなチョコレート店が近所にあればどれだけ嬉しいか。水城氏のブログでもチョコレート話やフランスグルメ旅行記が読めるので、おすすめです。

フランスネタだと、オタクであるオリヴィエの言動もおかしい。ヴァカンス中も南仏で日本アニメの録画を見ているライフスタイルが、何ともリアリティーあります。

恋愛の要素に注目すると、ふられてもへこたれない爽太の心理描写が興味深い。全く消えない恋の感情とどう付き合っていくのか、なかなか読み応えあります。サエコに対する想いは一途で執着的ですが、他の女性と一時的な関係を持ってしまう軽さもあり、そこがリアルとも言えます。そして、爽太が「妖精さん」と形容するサエコを見た薫子が「めちゃめちゃフツーじゃん…」と呟く場面は、薫子の嫉妬心が多少あるにせよ、従来の恋愛マンガではあまり見られなかったパターンではないでしょうか。もちろん絵柄としてはサエコは明らかに可愛らしい女性として描かれていますが、彼女に対する爽太と薫子の評価の差は、恋心の不思議さをうまく表しているように思えます。

恋愛ってなんだろう? …水城作品には、この根源的な問いがあらためて感じられます。従来の恋愛マンガであれば、主人公の男女が恋に落ちて当たり前、紆余曲折はあれどいかに想いを伝えて二人が結ばれるか、という過程が問題になるでしょう。昨今流行っている「恋愛できない女子」というテーマも、そもそも恋愛というものが当たり前のように存在しそして経験すべきものである、という前提で成立しているように思われます。仕事や趣味に生きる女性が「自分には恋愛なんかいらない」と主張するパターンもおなじみですが、これもまた恋愛は本当は必要なもの、という視点から発せられているのではないでしょうか。

サエコと薫子というふたりの女性は、非常に対照的なキャラクターです。サエコは恋愛すること及び自分が恋愛対象になることについて何の疑問もなく、一方アラサーの薫子は自分には恋愛は無理かもしれない、などと考えている状態。

そこで、以前読んだ次のような一節を思い出しました。

「キリスト教の尼さんじゃないけど、自分のからだが罪深いと思ってるとかね、それから、こんなにオッパイが大きくなっちゃってイヤだと思ってるとかね、自分は肉体とか容姿を売りものにして生きてるんじゃなくてアタマで生きてるんだと思ってるとかね−−、そういう女はいっぱいいるんだろうけど、それは全部、自分のからだが人から注目されるっていう前提で考えてるっていうことでしょ。
女はまず絶対、その前提だけは外さないんだよね。
だって化粧するもんね。しない女はする女よりもっと、しないことの意味とかキョーレツな自意識とかあるし。見られたい特定の男がいるとかそういうことじゃなくて、もっとずっと深いところで、女は見られるものだと思うように育っていくんだよね。
タツヤみたいなのっていうのは、そうじゃなかったもん。
自分のからだが人から見られることがありうるなんて、おれと知り合うまで一度も考えたことがなかった−−」
(保坂和志『季節の記憶』、中央公論新社)

これは同性愛者である男性が発したせりふなのですが、女性の意識を鋭く指摘しています。サエコのように女としての魅力を最大限に行使する女性、そしてなんだかんだと理屈を並べて恋愛しない薫子は、実は女としての強い自意識の持ち主。どちらに転んでも、それぞれ苦難がありそうです。

ここで男性にとっての恋愛について言及する準備は全くできていませんが、『失恋ショコラティエ』はきっと男性も楽しめるのでは、と思います。実際、男性読者の支持も多く得ているようです。

『失恋ショコラティエ』がどのような結末を迎え、そして登場人物たちが恋愛についてどのような哲学を打ち立てていくのか。水城氏の新作『脳内ポイズンベリー』も、まだ1巻のみの発売ですが、恋愛に対する個性的なアプローチが見られて新鮮です。さらに恋愛についてディープに考えてみたい人には、『窮鼠はチーズの夢を見る』シリーズもおすすめ。こちらの作品はフランスでも何かの賞を獲ったとか。ただし男性同士の性愛描写がありますので、苦手な人はご注意ください。人間関係のひとつとしての恋愛のあり方に、思いが至ります。

■この記事は2012年3月3日にメインブログに掲載されました


cespetitsriens

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2012年10月26日

『おおかみこどもの雨と雪』

パリでワールドプレミアが行われた本作品は、『時をかける少女』そして『サマーウォーズ』で人気を博した細田監督の最新作である。実を言えばこの映画を鑑賞するつもりは全くなかった。日頃、どこかほの昏い“萌え”を求めてひたすら深夜アニメを漁っている身には、いかにも健全そうな感動アニメというのは完全に興味の範囲外である。がしかし、先日『時をかける少女』と『サマーウォーズ』が地上波で放映された際、評価高いらしいから一応チェックしてみるか〜と気まぐれに録画したのが大正解であった。まず見た『サマーウォーズ』、今さらながら大ヒットした理由がよくわかった。とにかく楽しめた。仮想空間でのバトルにワクワクさせられ、家族ドラマにほろりとなり、登場人物たちがただただ愛おしく、映画後半はなにやら涙目での鑑賞になってしまった。家族で安心して見ることができる娯楽作だ、もう一度見たい。

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続けて見た『時をかける少女』も意外に楽しめた。はるか昔に見た原田知世主演版の記憶がかすかに残っていて、おおまかな内容は覚えていたが、やはり涙が。青春期のまぶしさ、傲慢さそして儚さにこみあげるものがあった。残念ながら個人的にはヒロインにそれほど魅力を感じられず。一度見れば十分かな。

そして『おおかみこどもの雨と雪』はぜひ映画館で、と期待に胸をふくらませ、いざ鑑賞。…残念ながら期待値が高かったせいかもしれないが、それほど楽しめなかった。各要素が生かし切れておらず、どこか不完全燃焼という印象だ。「おおかみおとこ」との恋愛、出産、夫婦愛、親子愛、夫の死、「おおかみこども」の子育て、シングルマザー、田舎暮らし、職探し、子供の成長、と盛り沢山だがどれも中途半端に思え、何よりヒロインがあまりにも純粋すぎて首をかしげてしまった。彼女を母性の権化のようなキャラクターにするなら、おおかみおとことの恋愛エピソードは必要なかったように思う。二人の出会いはぼんやりとした描写に留め、おおかみこども姉弟の愛らしさと成長に伴う悩みを中心にすれば良かったのではないだろうか。そういえば『時をかける少女』だけでなく『サマーウォーズ』のヒロインも魅力に乏しかった。最新作のヒロインは、性格だけでなく、風貌からしてあまり気に入らない。3作共にキャラクターデザインを担当したのは『エヴァンゲリオン』を手がけた貞本義行だが、男性キャラクターの方が断然魅力的に感じた。

ただ『おおかみこどもの雨と雪』の雪ちゃんの小学校でのエピソードは、繊細で情緒に溢れ、好きだ。教室でのラストシーンを見た時、映画館まで足を運んだ価値はあったと思わせてくれた。

厳しい意見を述べたが、今後も細田監督に期待したい。日本アニメの新たな魅力を生み出していることは間違いない。

□公式サイト http://www.ookamikodomo.jp/


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2012年08月14日

バーバパパとエコロジー

大学生の頃、初めてフランス語の授業で「講読」したのは、ボードレールでもモーパッサンでもなく、「象のババール」だった。確かに、子供向けの本は概してフランス語が易しい。しかし、野生の象を老婦人が躾けていく過程は、読んでいてあまり楽しいものではなかった。あからさまに植民地主義的な匂いがしたからだ。

それでも、パリに住んでいた頃は、ときどき Sèvres-Babylone 駅近くにある Chantelivre という本屋に立ち寄るのが楽しみだった。ここは Editions des loisirs という出版社の本拠地でもあって、近所の歯医者に通院したときには、毎回絵本を何冊か立ち読みして帰ったものだ。とくに気に入ったのは、Elzbieta の作品で、そのうち戦争をテーマにした傑作『 Fron-Fron et Musette 』は、『あいたかったよ』の邦題で日本語訳も出ている。日本の絵本も、福音館書店のカタログをはじめ多数翻訳されており、とくに安野光雅は人気が高いようだ。



では、僕が子供の頃に読んだ絵本に、フランスのものはあったかというと、何よりもまず「バーバパパ」シリーズが思い浮かぶ。最近、もうすぐ3歳になる娘と一緒に旧蔵の『バーバパパ』を久しぶりに読み返して、発見したことがある。それは、このシリーズがやたらとエコロジストであることだ。環境汚染から動物を護るために他の惑星への移住を図る壮大な『バーバパパのはこぶね』や、フクロウの木を守るために一家団結して闘う『バーバパパのしまづくり』などは、その代表例である。

『バーバパパのプレゼント』では、動物好きのバーバズー(Barbidur)がクリスマスプレゼントに南国の鳥たちを貰ったものの、寒さのせいで衰弱していく。そこで発明家のバーバピカリ(Barbibul)が暖房器具を考案する。最初は水力発電機を開発するが、川が凍りついてしまい、使い物にならなくなる。そこで風力・太陽光など、自然エネルギーを利用した発電装置も作ってみるが、いずれもうまくいかない。最後は家族総出で自転車発電まで試みるが、部屋は十分に暖まらず、結局鳥たちを南国に送り返すことにする。エネルギーを作り出す方法よりも、エネルギーを大量に使う必要があるかどうかというところにまで問いを深めたうえでの結論と言える。

動物を本来いる土地から別の土地へと連れてくることへの嫌悪感は、どうやら夜を昼にするような不自然を享受する消費社会への批判と結びついているようである。シリーズ第1作の『おばけのバーバパパ』(おばけ? 土の中で育って、ある日フランソワの家の庭からニュッと出てくるのだけれど)でも、動物園に入れられたバーバパパは檻から抜け出して、園を追放される。『バーバパパのアフリカ行き』では、貨物列車で乗り合わせた動物たちを、大きなトランクに変身して自分のなかに隠し、飛行機でアフリカまで帰してやる。



エコロジーは、動物に関わることにとどまらない。『バーバパパのいえさがし』では、バーバパパ一家が古い家を改築して住み始めた矢先に、集合住宅建設のため立ち退きを迫られる。しかし、団地暮らしに馴染めない彼らは退去し、工場の立ち並ぶ川沿いを川上に向かって歩き続け、とある野原に自分たちの家を建てる。そこに再び解体用のクレーン車がやって来る。バーバパパ一家は溶かしたプラスチックを使ってこれを追い払い、勝利のダンスを踊り出す。1970年代に揺曳していたヒッピー思想が見え隠れする内容だ。また、暴力には暴力で対抗するあたりは、いかにも68年以降のフランスらしい。ちなみに、バーバリブ(Barbotine)の部屋には、アフロヘアで腕を突き上げている彼女のイラストが飾られている。メキシコ五輪陸上男子200mの表彰台で黒い手袋を填めた手を挙げて黒人差別に抗議した、二人のアメリカ人選手を思い出さずにはいられない。いわゆる Black Power Salute の史上最も有名なパフォーマンスだ。

日本でも、空き家は社会の負の財産である。最近は、所有者不明の廃屋を行政代執行で解体できる条例が、各地で施行されている。空き家が増える背景には、もちろん高齢化と人口減少という問題があるが、それ以上に、経済界と政治が新築住宅を奨励し続けたという事実がある。リーマンショックの遠因となったサブプライムローン(準優良層向け貸付)も、本来家を建てることなどできないはずの人たちに貸し付けることで、経済を回そうとしたものだった。『バーバパパのいえさがし』は、「住み替え」というエコロジカルな(そしてノスタルジックな)行為が否定され、新しい家に無理矢理住まされるという不幸への怒りと、それに対抗できたらという想像力豊かな復讐の気分が見られる。

資本主義社会とは、大量のゴミを出す仕組みになっている社会である。バーバパパは、そのようなゴミ=資本主義へのアンチテーゼであり、資源の再利用・再分配を要求する。考えてみれば、ネーミングの由来である綿菓子 barbe à papa (「パパのあごひげ」)は、跡にゴミを残さず口のなかに溶けていく――虫歯は残すかもしれないけれど。エネルギー問題が深刻になる時代に、エコロジー絵本として、「バーバパパ」を読み返してみるのも面白いかもしれない。


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2012年03月16日

『テルマエ・ロマエ』と銭湯の作法

今授業で『アメリ』のシナリオを読んでいる。映画の冒頭に登場するアメリの父親は、字幕ではパリ郊外の「アンギャン・レ・バン Enghien-les-bains の治療院で働いている」となっている。治療院の部分はフランス語で、les établissements termaux つまり温泉施設である。フランスには約100ヶ所の温泉があるが、温泉と言えば専門医を配置した温泉病院や医療施設である。もちろん日本にも「湯治」という概念があるが、フランスには日本の温泉が喚起する露天風呂や地元の料理というレジャー的な側面はない。フランス有数の温泉地、ヴィシー Vichy の広場には洗い場のようにたくさんの蛇口があって、温泉を飲めるようにコップが備えつけられている。

テルマエ・ロマエ IV (ビームコミックス)隣のドイツには バーデン・バーデン Baden-Baden(温泉×2) という有名な温泉保養地があり、そこに立派な大理石のローマ風呂がある。温度の異なるお風呂やサウナの部屋を巡回し、最後に大きな毛布にくるんでもらって仮眠をとる(至福!)。まるでフリードリヒの絵のような「中世の古城にかかる月」というゴシックな風景を眺めながらの温泉プール&スパも貴重な体験だった。「古代ローマ人はお風呂が大好きだった」と『テルマエ・ロマエ』の作者ヤマザキ・マリは言うが、イタリアの温泉文化は昔と比べると衰退したということなのだろうか。イタリア、温泉とくれば、真っ先にタルコフスキーの映画『ノスタルジア』を思い出す。映画全体が霧と水に満たされ、息が詰まるくらい湿度の高い映画だったが、とりわけ湯煙に覆われた古代遺跡の中でお湯に浸かる姿が印象的だった(サルジニア出身の友達は小さいころ、廃墟が半分沈んだ海で泳いでいたと言っていたが、そういうのも憧れる)。

ヤマザキ・マリはリスボンに住んでいたときシャワーしか使えず、いつも寒い思いをしていた。そんなときはいつも日本のお風呂が恋しくなったという。フランスでも普段はシャワーで済ませる。しかし、シャワーかお風呂かというマテリアルな問題は些細なものでしかない。ヤマザキ・マリが古代ローマと現代日本をショートさせることで描出するのは文化の様式化、そして他者との関わりの問題である。確かにローマ帝国にとっての究極的な未来は今の日本なのかもしれない。パックス・ロマーナの時代に求められた文化的な理想は、アメリカの核の傘下の平和のもとで経済発展を遂げた日本の大衆文化やサブカルにおいて実現されたのかもしれない。時空を超えてやってくる究極の外国人の目を通して日本の日常に埋もれた様式が再発見される。それは『聖☆おにいさん』によって発見される日本の大衆文化やサブカルの細部や、スラヴォイ・ジジェクが究極の文明と絶賛する「女子高生のパンツの自動販売機」と通底するものだ。

聖☆おにいさん(7) (モーニングKC)人権と国家 ―世界の本質をめぐる考察 (集英社新書)

銭湯が込む時間帯に行くと、あれだけの人間がひしめきあいながらトラブルを起こすことなく規律を守って風呂に入り、身体を洗っていることが奇跡のように思えないだろうか。「銭湯の作法の自然発生は銭湯の密度に依存する。裸という無防備な状態での密度が作法を現出させる」と社会学者の西澤晃彦は言う。番台に座る経営者は入浴客の領分に介入することはあまりない。外国人もいれば、入墨を入れた人もいるような、銭湯の客の多様性と異質性が、彼らと一定の距離を置かせる。番台から緩やかな監視の視線で銭湯の全体を見渡す。銭湯の作法は番台に座る者がとやかく言う問題ではない。最低限の介入にとどめ、客どうしのさりげない交渉や調停に任せるのだ。大声で歌ったりする人がいれば、誰かがそれとなく注意する。入墨をした恐そうな人がいたら適当にやりすごす(私が住む地域の銭湯は「入墨お断り」規定がないことに最近気がついた)。銭湯だけでなく、混んだバスの中の作法というものの確かに存在する。

1980年代に東京都心の下町の木賃アパートに中国人を初めとする多くの外国人がやってくるようになった。「銭湯に来る外国人」は文化摩擦の格好の題材になった。それこそ最初のうちは下着をつけたまま風呂に入ったり、洗い場で着替えたりする外国人もいたようだが、周囲の人が注意をしたり、身振りでアドバイスすれば多くの場合その場で解決できた。苦情もそんなに出なかったという。中国人が来る前は、地方から上京してきた若者たちがストレンジャーだった。そしてルシウスはまさに時空を越えてやってきた究極のストレンジャーである。『テルマエ・ロマエ』は比較文化の物語であると同時に、ストレンジャーを受け入れる作法の物語でもある。

銭湯では初心者にくどくどマナーを教えたりしない。「とにかく入ってみればわかる」。つまり「あとは周りの人が何とかしてくれる」という信頼がある。銭湯は長い時間をかけて経験的に確認され、選択されたストレンジャーとの共生の作法が、まるで自然発生的に実現される場所だ。ガラパゴスと揶揄され、歴史的にも排外的な印象の強い日本だが、こういう他者を受容する知恵と作法を持っている。いきなり日本の銭湯や温泉に出現するルシウスが、言葉が通じなくても、世話を焼いてくれる人が周りにいて、「お風呂上りに腰に手を当ててフルーツ牛乳を飲み干す」など、様式化された文化の細部にまでいざなわれる。そうやってルシウスは湯に浸かる快楽と作法の本質に触れていくのである。

『テルマエ・ロマエ』のサイトを見ると、「東京都浴場組合推薦」とある。先に引用した西澤晃彦の論考にちょうど「浴場組合と石原慎太郎は良好な関係にあるという。そこでは思想としてのアーバニズムとナショナルな物語のあいだの矛盾は自覚されていない」という件があった。つまり石原新太郎の外国人排斥的な発言は、人々の外国人に対する銭湯での寛容な振る舞いと相容れないということだ。しかしそれはあまりに自然なことなので自覚されない。それに加え、銭湯のようなソーシャルな作法を学ぶ場所は次第に失われつつあり、私たちは大勢の人間の集う場所での他者との調停を、権力や環境的な管理に丸投げしつつつある。電車に乗れば駆け込み乗車をするな、車内で迷惑行為をするな、とアナウンスにがなりたてられ、カフェに入れば、椅子の硬さや空調や店の構造そのものによって行動をコントロールされる。もはや練り上げられた作法によって動くのではない。そこには人と交渉する余地も、出会いやドラマが生まれる機会もない。

若い人こそ銭湯に行って欲しいと願うばかりである。



cyberbloom

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2010年11月12日

「聖☆おにいさん」 仏人も聖人も住みたくなるサブカル日本

女子学生から「これを読まないと現代っ子は理解できないですよ」と言われ、Wiki で検索したら、設定のあまりの奇想天外さに吹いてしまった「聖☆おにいさん」。早速その日に TSUTAYA で借りて読んでみた。「聖☆おにいさん」を読んでいて、「日本の良さが若者をダメにする」(NEWSWEEK 日本版)というレジス・アルノーの記事を思い出さずにいられなかった。その一部を引用する。



18歳になるまで日本で暮らしたフランス人の多くが選ぶのは(いや、ほとんどかもしれない)、フランスよりも日本だ。なぜか。彼らは日本社会の柔和さや格差の小ささ、日常生活の質の高さを知っているからだ。日本とフランスの両方で税務署や郵便局を利用したり、郊外の電車に乗ってみれば、よく分かる。日本は清潔で効率が良く、マナーもいい。フランスのこうした場所は、不潔で効率が悪くて、係員は攻撃的だ。2つの国で同じ体験をした人なら、100%私の意見に賛成するだろう。(…)日本の若者は自分の国の良さをちゃんと理解していない。日本の本当の素晴らしさとは、自動車やロボットではなく「日常生活にひそむ英知」だ。だが日本と外国の両方で暮らしたことがなければ、このことに気付かない。ある意味で日本の生活は、素晴らし過ぎるのかもしれない。日本の若者も、日本で暮らすフランス人の若者も、どこかの国の王様のような快適な生活に慣れ切っている。

日本で育ったフランス人は日本に住むことを選ぶ。その理由は日本の「日常に潜む英知」に惹かれているのだという。仏人だけではない。仏陀もキリストもサブカル日本に住むことを選ぶのである。ふたりの「聖☆おにいさん」は天界からそれぞれ月13万円の仕送りをもらって生活している。風呂なしアパートで共同生活すれば十分にやっていける額だ。切り詰めればPCを買って、ブログというクリエイティブなこともやれる。「王様のような快適な生活」とあるが、重要なことは、彼らが労働から解放されていることだ。1日まるまる空いているのだが、それでも日常生活に飽くことがない。日本の日常に張り巡らされたサブカルの仕掛けに身を任せ、電子ガジェットを使いこなし、それらのティテールに耽溺することによって。あるいは聖書や仏典をネタにすること=サブカル化することで。過剰な労働の代価で家やクルマや、高価な既製品やサービスを買うのではなく(ある意味、これは極めて貧困な価値観だ)、リサイクル品を工夫して使ったり、ありあわせのものでブリコラージュすることで。そのクリエイティブな過程は生活そのものになる。またご近所付き合い(大家やヤクザ)というジモティ・ネットワークも生活を充実させる。

子供が勝手に「聖☆おにいさん」を読み始めたのでちょっとあわてたが、彼らの最もエッチな行為が「リア・ディゾンで検索」。そういう心配は全くなかった。さすが聖人たち。つまり聖人のストイックな生き方と、草食系の生き方が、絶妙に手を結んでしまったのだ。というより、聖人たちが厳しい苦行や戒律によって押さえ込もうとした欲望や煩悩が草食系においては最初からないか、著しく低レベルなのだ。

高度経済成長時代にはみんなで共有できる大きな物語があった。日本人たちは金銭欲、名誉欲、食欲、性欲という人間の本質的な欲望をその中にぶちこみつつ、時代とともに邁進した。やることなすことが常に既視感にさいなまれる隣のバブルな中国では、愛人ブームとグルメブームだという。余計な金を手にした人間のやることは同じなのだ。

企業戦士として働くことが当たり前で、「働かざるもの食うべからず」とか「男はこうあるべき」とか、一昔前の倫理観が染み付いた人々には理解できないことかもしれない。草食系が中性的に見えるのは、男女の役割分担の外にいるからだ。男女の役割分担は最初からあったわけではなく、経済成長の時代が強制的に分割していたにすぎない。仕事というファクターが後退し、生活の内実に焦点が当てられたときに見えてくる男女のイメージは全く違ったものになるだろうし、同居人が男だろうが女だろうがもはや関係ないのだ。もちろん、「草食系の行き着く果ては孤独死」という指摘や、誰が彼らの社会的コストを払うのかという問題は出てくるだろう。しかし、完全雇用はもはや不可能で、若い世代は残された小さなパイをめぐって熾烈な競争を強いられる。政治もまた世代間で仕事をフェアにシェアするために社会を組み替えるつもりがないらしい。だったら最初からそこから降りてしまうことは合理的な選択のひとつになる。

「聖☆おにいさん」たちの天界から月額13万の仕送りをベーシックインカムと考えれば(極めて妥当な金額だ)、聖人のようにストイックに、草食的に、そしてサブカルという文化インフラが整備された日本をまったりと生きれば、それなりに幸せに生きられますというメッセージになる。熾烈なシューカツ戦争に嫌気がさした草食系の学生が「早くベーシックインカムが導入されないかな」と本音を漏らしていたが、これでベーシックインカムが実現なんかしちゃったら日本は本当の楽園になってしまうのかもしれない。


cyberbloom


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2009年09月18日

「JAPON―Japan×France manga collection」 日仏マンガ家の共演

davidmichaud01.jpg日本在住のフランス人カメラマン David Michaud 氏のブログが面白い。フランス語が読めなくても、写真を見ているだけで、フランス人が日本の何に注目し、どんな側面に興味を持っているのか、よくわかる。日本は観光国としても売り出したいようだが、日本人の見せたいものと、外国人が見たいものにはつねにズレがある。そういうズレをこのブログはうまく見せてくれている。今年フランスで彼の写真集も発売されたようだ。

□Le Japon par David Michaud http://www.lejapon.fr/blog/

授業の教材に『WASABI』を使っているが、学生の受けがすこぶる良い。その原因は出産と離婚を経て一皮向け(最近の女優さんはこれでハクをつける)、『おくりびと』でアカデミー賞女優になった広末涼子の再人気化にあるようだ。広末ってこんな映画に出てて、フランス語までしゃべってたの?と学生はびっくり。フランス語を話す広末に非常に親しみを覚えると同時にフランス語に対するモチベーションも上がるようだ。

確かに『WASABI』は忘れ去られつつある映画だが、これが撮られた21世紀に入ったばかりの2001年は今から見れば日本のドラスティックな変化の時期にあたっている。日本にケータイが爆発的に普及し始め、ハワード・ラインゴールドが「忠犬ハチ公前体験」と呼ぶ状況を生み出した(「フランス人も注目、日本のケータイ小説」参照)。また日本の若い女性のファッションに有名ブランドのデザイナーまでもが注目し始める(「エルメス」参照)。『WASABI』はフランス人監督による東京(後半部)を舞台にした映画だが、B級だからこそ日本に対するフランス人の欲望と幻想が紋切り型によってあからさまに表現されている。

関連エントリー「WASABI」

広末のフランス語は授業の教材として使うには少々問題があるのだが、それを逆手に取るように映画の中でジャン・レノに発音を矯正されるシーンがある。trou (穴)という単語を正確に発音するために、[r]と[u]の音を含む tigre (虎) と loup (狼)という単語で先に練習させている。これはフランス語の音に関するシーンなので日本語の字幕ではうまく伝わらない。

Wasabi-‘trou’ scene(from youtube)

2006年には「JAPON―Japan×France manga collection」というマンガ本も出ている。内と外の両側から見た日本を舞台にした16篇の物語で構成され、フランスの漫画家たちは実際に日本に滞在した体験をもとに現代の日本の姿を描き、一方で日本在住の作家たちはイメージ豊かに自分の国の姿をつむぎだしている。

日本チームは安野モヨコを筆頭に、松本大洋、花輪和一、谷口ジロー、高浜寛、五十嵐大介、沓澤龍一郎の面々。フランス・チームは、フレデリック・ボワレ、エティエンヌ・ダヴォドー、エマニュエル・ベギール、オレリア・オリタ、ジョアン・スファール、ダヴィッド・プリュドム、ニコラ・ド・クレシー、ファブリス・ノー、シュテイン&ペータース。

JAPON―Japan×France manga collection
安野 モヨコ
飛鳥新社
売り上げランキング: 114241
おすすめ度の平均: 4.5
5 素晴らしい企画の素晴らしい作品集
4 フランスの漫画





cyberbloom

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2009年08月22日

マドレーヌちゃんとサブリナ

突然ですが「マドレーヌ」という名前の女の子をご存知ですか?

ベルギー出身のルードウィッヒ・ベーメルマンスが作者の絵本のシリーズの主人公。

いたずら好きで元気一杯のマドレーヌがパリの寄宿学校で繰り広げる心温まるストーリーで、パリの街の名所がふんだんに描かれています。

げんきなマドレーヌ (世界傑作絵本シリーズ―アメリカの絵本)マドレーヌといぬ (世界傑作絵本シリーズ―アメリカの絵本)ロンドンのマドレーヌ

子供の頃に読んだ記憶はないのですが、最近子供服の「ファミリア」に行くと、この「マドレーヌちゃん」の着せ替え人形やグッズがたくさん置いてあるのを見て、密かに「娘がいたら、このお人形を持たせたい・・・」と思ってしまう可愛いキャラクターです。(以前のもののほうが手づくり感いっぱいのお人形で素朴な可愛らしさがありました。)

実は絵本は1960年代から出版されており、2000年以降は江國香織氏翻訳の作品も出版されているロングセラーの絵本です。

アニメの「マドレーヌちゃん」も放送されていたこともあるので、そちらでご存知の方が多いかもしれません。随分前に何気なく見たそのアニメ「マドレーヌちゃん」のなかで、マドレーヌちゃんが料理学校でお友達と並んでお料理を習うというお話があって、映画「麗しのサブリナ」のなかでサブリナ(オードリー・ヘップバーン)がパリのコルドン・ブルーで料理を習っているシーンを思い出させるものだったことをふと思い出したのです。

私が探した限りでは、日本語版のDVDでこの料理学校のお話は残念ながらありませんでしたが、英語版でありました。

madeleine cooking.jpg・・・サンドイッチをうまく作れなかったマドレーヌちゃんたちが「コルドン・ルージュ」に料理を習いに行くことになったのですが、チキンにいたずらをしたり、材料のカニやエビを逃がしてしまったりで大騒ぎ。結局、マドレーヌちゃんは卒業試験でホームレスの子どもにチキンをあげてしまって、お免状はもらえませんでした。しかし担任のクラベル先生はマドレーヌの心優しいその行動を見守っていてくれるのでした・・・というストーリー。

サブリナといい、マドレーヌちゃんのお話といい、パリの「コルドン・ブルー」は料理学校の代名詞的な扱いなのだと気付きました。

3年ほど前、ル・コルドン・ブルー神戸校に一回だけのお菓子の講習を受講するチャンスがあり、その講習はフランス人のシェフによる(もちろん通訳付)本格的なケーキのデモンストレーションでしたが、施設も素晴らしく、大満足の講習会でした。

「ル・コルドン・ブルー」は16世紀フランスのアンリV世の聖霊騎士団、彼らが絹のブルーのリボンが結ばれた十字架を付けていたことから由来し、その名前がつきました。1895年に料理ジャーナリストのマダム・ディステルが自ら出版していた料理雑誌の読者にも著名シェフたちのテクニックを見せてあげたいとパリのパレロワイヤル一角でシェフのデモンストレーションを始めたのがきっかけだそうです。コルドン・ブルーは今や世界17カ国に30校、110年以上の歴史のある世界でもっとも有名な料理学校で、以前に紹介した狐野扶実子さんも卒業生で、たくさんの有名な料理家が卒業生として活躍しています。日本でも現在、代官山と神戸の2校があり、フランス・パリ校と同じカリキュラムで実践的にフランス料理・お菓子・パンが学べるようになっています。

現在は9ヶ月で取得できるグランディプロムは、世界中の料理界で通用するパスポートと呼ばれているようです。ホームページに紹介されていた文章:フランス語の “Vous êtes un vrai Cordon Bleu” (あなたは正真正銘のコルドン・ブルーです)とは、フランス人がすばらしく見事な料理でもてなされたときに料理人(招待者の奥様であることが多いのですが)に贈る最高の賞賛の言葉です

本講習はさすがに敷居が高いですが、ワイン講座やチーズの講座、一回だけの入門講座、全6回のフランス料理の基本が習える「サブリナコース」も開かれているので興味のある方はホームページで調べて見られてはいかがでしょうか?マドレーヌちゃんやサブリナの気分を味わえるかもしれません。


□コルドン・ブルーのHP
http://www.cordonbleu.co.jp/
http://www.cordonbleu.fr/





mandoline

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2009年02月10日

デトロイト・メタル・シティ DETROIT METAL CITY

デトロイト・メタル・シティ 1 (1) (ジェッツコミックス)「デトロイト・メタル・シティ」っていう漫画、ご存知ですか?

最近映画化されて、コンビニにも白塗りの顔の男のポスターが貼ってありますが、内容は結構…というかかなり、お下劣系で笑いを取る系漫画です。

特筆すべきは、主人公が「フレンチ好きの渋谷系青年」なこと!
フレンチな音楽に憧れて路上ミュージシャンをしたり、大学ではフランス語専攻したり、カヒミカリィのCDを全コンプリートしてたりするんですが、全然自分の音楽が売れなくて…

アメリ漫画の作品中に、「アメリ」が出てきて、主人公があまりの自分の音楽の売れなさに、「このっ!!なにニヤニヤ笑ってんだ!!このアメリがぁぁ!!」みたいな感じでアメリのポスターにキレてみたり。

間違って売れっ子になってしまったデスメタルバンドの方では、フランスのデスメタルバンドと対決して(第3巻)、フランスのお株を奪っちゃうくらい爆笑のフレンチネタ(攻撃)を炸裂させたり。フレンチな知識があると主人公のズレっぷりと物悲しさが伝わってきて爆笑度がUPします。

改めて、 ストーリーのあらすじなんですが、

主人公の根岸くん(23歳童貞)は、ポップでオシャレなミュージシャンに憧れて大分から上京してきます。
上京するまでの車窓がパリのようだ…と思う根岸くん。
で、東京の大学で知り合ったオシャレな友達や後輩と仲良くして、卒業後に本格的にミュージシャンを目指して路上活動を始めるのですが、
お客さんは誰一人立ち止まってくれず…
しかし、ある日目に入った「デモテープ募集」のポスターを見て、自分の曲を送ってみることに。
結果は見事合格!これでオシャレポップミュージシャンへの道は開かれた!

Three Cheers for our side ~海へ行くつもりじゃなかった私の好きなサラヴァ ― セレクテッド・バイ・カヒミ・カリィ

カヒミにも会える!フリッパーズみたいになれる!
が、しかし…
合格したレーベルは、怖い女社長率いるバリバリのデスメタルレーベル…。
気弱な根岸くんは嫌々ながら、顔面白塗りにメイク、カツラをかぶり、鎧を背負ってステージへ。
そこでデスメタルを演奏したところ、思いのほかお客さんが熱狂。
一晩にして、デスメタル界のカリスマ、クラウザーU世の座に君臨してしまいます。
ホントは、ポップな音楽をやりたい。優しい性格で、意中の女の子とも仲良くなりたい。
でも、日に日にクラウザーさんとしての性格も顔を出すようになり、
ついには何かあればクラウザーさんに変貌して、悲劇(という名の喜劇)を地獄の技(という名のマグレ)で乗り越えたり、また、抑圧していた怒りをぶつけてみたり。
とにかく根岸くん(クラウザーさん)が動けば伝説(しかし読み手は爆笑)が起こるという事態に!

かわいそうな根岸くんはフレンチでスウェディッシュで、アメリにカヒミな生活に戻れるのか!?果たして…


「デトロイト・メタル・シティ」映画版公式サイト
□「 デトロイト・メタル・シティvsシブヤ・シティ~渋谷系コンピレーション」(CD)


デトロイト・メタル・シティ スタンダード・エディション [DVD]
東宝 (2009-02-13)
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3 期待は大きかったけど
5 松山ケンイチさん うますぎです
5 爽快に楽しめる一品!
4 マジで笑った
2 おいおい





Caz

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2009年01月23日

フランス語版「神の雫」 LES GOUTTES DE DIEU

gouttesdedieu01.jpg来週の木曜にボージョレ・ヌーボーの解禁日を迎えるが、「ニューヨーク・タイムズ」が先月22日、アジアのワイン市場にブームをもたらした20代の日本人青年を紹介していた(※)。4年前に突然姿を現したこの青年は、ワインの歴史が浅いアジアにワインブームを巻き起こし、ワインの売り上げに最も影響力のある人物になったという。しかし、この人物は実在の人物ではない。日本の人気連載マンガ『神の雫』の主人公、神咲雫のことだ。

このマンガは日本から韓国に飛び火し、ワインブームの火つけ役になった。韓国では200万部を売り上げる人気ぶりである。12日に『神の雫』がKAT-TUNの亀梨和也主演でドラマ化されることが伝えられていたが、韓国では一足先に『神の雫』のドラマ制作を進めている。亀梨和也は、父の遺書をきっかけにワインに目覚め、宿命のライバルと対決を繰り広げる主人公を演じるが、韓国版では、ペ・ヨンジュンがワイン評論家、遠峰一青を演じるようだ。来年はドラマ版に刺激され、日本と韓国でワインブームがいっそう盛り上がるかもしれない。

『神の雫』はフランス語にも翻訳されている。写真はフランス版の表紙であるが、フランス語で Les gouttes de dieu という。どのように評価されているか気になるところであるが、由緒あるテレビ雑誌「テレラマ」(2008年7月22日)がこのマンガを紹介している。実はこのマンガ、ワインの本場の専門家の眉をひそめさせるどころか、ワインを語る硬直した言語を根本的に変えてしまうほどの影響力があるようだ。記事に登場する『神の雫』の序文を書いたというパリのワイン大学の教授は非常に時代の変化に敏感な人のようだ。これぞグローバリゼーションという事例であり、絵によって言語の壁を低くするマンガはその媒体として適役であることの証明でもある。また専門家によって権威付けられ、囲い込まれていた領域が一般の人々に解放されるという側面も興味深い。専門家の言葉よりも、より多くの共感を呼び、より多くの人を説得できる言葉の方が価値があるってことだ。

「テレラマ」の記事の一部を紹介してみたい。




専門家の意見によれば、「神の雫」に書かれた多くの情報の信頼性に関して、ほとんど非難の余地がない。ワインのラベルも詳細に描かれ、すべてのエピソードは実話に基づいている。しかしながら、見所は別のところにある。それはこのマンガがそれまで玄人に限られていたワインの世界の門戸を多くの人々に開いたことにある。「神の雫」を出版しているグレナ社のステファヌ・フェランは、「初心者のワイン入門」と「夢中にさせるミステリー小説」を巧みに混ぜ合わせていると解説する。実際、マンガの語りのテクニックの効果をワインの世界に適用することに完全に成功している。

二人の著者(姉弟の樹林ゆう子&樹林伸が「亜樹直」というペンネームで書いている)はワインのデギュスタシオンのために数多くの旅行をしたが、とりわけブルゴーニュを頻繁に訪れた。ときにはブドウ栽培者にはったりをかました。ボーヌ・ロマネの生産者、エマニュエル・ルジェ(彼は2巻に登場するのだが、そのことを知らない)は「彼らには味覚の敏感さと、味見したワインをとても正確に記憶する能力」があったことをまだ覚えている。二人の著者は次のように説明する。「私たちはアジアで広く抱かれているワインのいかめしいイメージを変えたかった」。また、ワインはエリート限定の、洗練され、格式ばった飲み物ではなく、想像力とインスピレーションを広げる飲み物なのだと。私たちは一緒にワインを飲むとき、私たちはそれを描写するための面白いがあまり使われない表現やイメージを探そうとする。それはひとつのゲームであり、その唯一のルールはソムリエの使う言葉を決して使わないことである。

私たちは「ニコラ」(フランスのワイン専門店)の店員がこのマンガのようにムートン・ロートシルトをミレーの「晩鐘」に、プルミエール・コート・ド・ボルドーをクィーンのコンサートに喩えたりするのを想像できないだろう。しかしながら、何人もの神殿の番人の気分を害するようなこの大胆さと冒涜を、何人かの有力者は嫌ってはいない。パリのワイン・アカデミーの教授であり、権威のある百科辞典の執筆者であるミシェル・ドバズは二つ返事で「神の雫」の序文を書くことを引き受けた。「20世紀の初め、ワインを表現する言語は仰々しく、しばしば馬鹿げたものだった。そして次には技術的で、学問的な、とっつきにくいボキャブラリーに移行した。ワインがそういうものすべてから抜け出し、このマンガのようにオープンかつ現代的にアプローチするのは良いことだろう。かつてドビュッシーは−音楽は習得されるものではない。楽しむことがルールなのである−と言った。ワインについても同じだ」と教授は言う。

すでに14巻を数えるこのシリーズは日本で成功を収めているが、同様に中国や韓国を熱狂させている。予想しなかった結果である。マンガの中で名前が挙がったワインはパブロフの犬のような反応を引き起こしている。つまりマンガで見たら欲しくなるのである。シャトー・モン・ペレア(2001年)はボルドレのドメーヌでは名高いものではないが、それがマンガで賞賛されると注文がピークに達する。マンガが出て2日後には台湾のワイン輸入業者がすばやくそれを50ケースを買っていき、日本では当日で売切れてしまう。

この新しい渇きの恩恵を受けているのはフランスワインであるが、とりわけこのマンガの中でもてはやされているブルゴーニュワインである。このマンガに対する韓国の熱狂はもの凄く、「神の雫」の前と後では全く状況が変わった。ブルゴーニュワインの輸出を取り仕切る事務所の責任者、ネリー・ブロ=ピカールは次のように言う。「2006年に「神の雫」が出て以来、ブルゴーニュワインの売上は130%増えた!ソウルで花開いているワインバーにマンガを脇にはさんだ客が欲しいワインの絵をそのまま見せることも珍しくない。去年、私たちはこのマンガをめぐって起こったことを知らずに、韓国にフランスワインを売り込みに行った。一日のあいだに私たちは40の企業から900人以上の訪問を受けた」。

美味しいワインの栓を抜きたくなるマンガ、これよりも素晴らしい幸運を夢見ることは難しい。あとは、フランスにいる日本のマンガの読者の大多数を構成する水やソーダしか飲まない人たちがこの現代的なトロイの木馬に影響されるか知るだけである。


UN MANGA DU MEILLEUR CRU 22 juillet 2008 Télérama n.3049
par Stéphane Jarno


※このエントリーは08年11月16日にmain blogにアップしたものです。


神の雫 (1) (モーニングKC (1422))
亜樹 直 オキモト シュウ
講談社
おすすめ度の平均: 4.5
5 何故クイーンの演奏がLPレコードなんだ?
2 ワインを知るにはいいかも。
3 お隣の韓国でなぜか大人気らしいですよ。
5 美味しんぼのワイン版?
4 ゆうきゆうさんのレビューの方が面白かった。




cyberbloom

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2008年10月29日

『モンテクリスト伯』アレクサンドル・デュマ (2)

原作とアニメ版の大きな違いは、物語を構成する視点だけでなく、キリスト教という原作の骨子が外されていることである。罪を犯した者たちは神の裁きから逃れられない。ダンテス=モンテクリスト伯は神に匹敵する全能の力をもって、彼を陥れた男たちを追い詰めるのである。いくら酷い目にあったとは言え、ダンテスに復讐が許されるのは神の代役を務めているからだ。そしてダンテスが寛容さを示すとき、それは神の赦しに重なり合う。しかし、前田監督がインタビューで答えているように、「現代人の感覚的に、全てキリスト教的概念でドラマを構築しても、単なるロジックでしかないだろうし、ひとつの宗教に偏って作るというのは、今的でない」だろう。だから「巌窟王」では「人の感情がキャラの全ての行動軸となるように」描かれている。それゆえ、神なきアニメ版は復讐心が全面化して、救いのない方向へひたすらストイックに突き進むことになる。原作のモンテクリスト伯は復讐心にとらわれながらも、一方では復讐を他人事のように思っているような呑気な一面も見せる。



ところで、アニメ版「巌窟王」はテレビ朝日で毎週火曜の深夜に全24話のシリーズとして放送されていた。毎回冒頭で前回のあらすじが仰々しいフランス語のナレーション(字幕付)で語られ、また毎回の終わり方も絶妙で、見る者を欲求の不満の宙吊り状態にする(もっともDVDではこれを味わえないが)。実はこの「シリーズ=連載」という方法もまた原作と深い関係がある。

イギリスから半世紀遅れた1830年代にようやくフランスでも産業革命が進展する。それと平行して新聞や雑誌といったジャーナリズムも整備されつつあった。時の新聞王、エミール・ド・ジラルダンは新聞の発行部数を伸ばすために新聞小説を連載することを考案。ジラルダンは新聞の購読料を下げるために、その埋め合わせとして紙面の広告を増やしたが、広告を出してくれるスポンサーを獲得するために、何よりも発行部数を増やさなければならなかった。新聞小説は、多くの読者をあてにする多くのスポンサーを引き寄せる切り札のコンテンツだったのである。広告とメディアとコンテンツの結びつきはここに端を発し、今の Google の戦略へと進化している。

「モンテクリスト伯」も新聞小説として「デバ」紙に1844年8月28日から1845年1月15日まで掲載。デュマのもうひとつの大作「三銃士」も新聞小説として成功している。デュマは新聞小説によって新聞の発行部数を倍増させ、巨額の富を手にすることになるが、それを自らの豪邸「モンテクリスト城」の建設につぎ込むのである。

新聞小説の特徴は、波乱万丈の物語の連載の毎回毎回がちょっとした山場になるように按配してあること。毎回の最後には未解決の謎や未完のプロットを残し、続きを読みたくなるように構成する。まさに今のテレビの連続ドラマの手法はここに起源がある。そしてアニメ版「巌窟王」もそれを踏襲しているというわけだ。

原作「モンテクリスト伯」(岩波文庫では1巻)に「船乗りシンドバッド」というエピソードがある。フランツがモンテクリスト伯と出合う前に、モンテクリスト島に上陸し、不思議な館に迷い込む。そこに館の主である波乗りシンドバッドという人物(それが伯爵であることが暗示されている)が現れ、彼はフランツにハシッシュを勧める。ラリったフランツの眼にはただでさえ摩訶不思議な造りの館や、供されたオリエンタルな食べ物がいっそう非現実的なものに見える。もちろん原作ではドラッグによる酩酊状態は言葉によって説明され、表現されている。

おそらくこのエピソードはアニメ版ではアルベールやフランツがシャンゼリゼにある伯爵の館に招待されたシーンに対応するのだろう。アニメ版でパリは実際のロケーションハンティングをもとに 3Dcgi という技術によって未来都市として再現されているが(2D テクスチャリングを使ったキャラクターの服飾のデザインも印象的だ)、ここに前田真宏の真骨頂が示されている。このシーンの目が眩む豪華絢爛な映像は圧巻である。なぜかシャンゼリゼの館の地下には黄金の宮殿があり、その宮殿の外には広大な海が広がっている。まさにハシッシュによってもたらされる壮大な幻覚が CG によって再現されているかのようである。

19世紀のフランスではハシッシュが流行し、多くの作家や詩人がドラッグの想像力を拡張させる働きに関心を持った。ボートレールの『人工天国』がその代表的な作品である。デュマが描いたシーンもドラッグブームの影響下で構想されたものだろう。そして19世紀のハシッシュの役割を今は CG が担っているわけだ。ある意味、いくら優れた作家の言葉を尽くしても、この映像の衝撃に匹敵する効果を作り出すことはできない。これを見せつけられると、原作はアニメの先鋭的な技術を披露するための口実にすぎないのではと思えてくるほどだ。この映像の洪水、過剰な光と色彩は、そういう転倒にまで確実に達している。

実は「フランス文学史」の講義でこのような話をしたのだが、ぜひ小説「モンテ・クリスト伯」(岩波文庫)、原作に比較的忠実なドパルデュー主演の「モンテ・クリスト伯」、それとアニメ版「巌窟王」を比べて楽しんでみていただきたい。ドパルデューは「レ・ミゼラブル」の長編TVドラマでジャン・バルジャンも演じていて、国民俳優として文学大作をすべて制覇しようという野望を抱いているようにも見える。シリアスで青臭いアニメ版を見たあとで映画版を見ると、笑えるというか、緊張感がないというか、良くも悪くもドパルデューのキャラに依存している。アレクサンドル・デュマに関しては「人と思想 アレクサンドル・デュマ」(辻昶&稲垣直樹著)を参照。文学マシーンのようなデュマの生涯とその時代背景が「いまとここ」に捉え直されており、著者の語り口も軽快。文学が生き残っていくには、既成の権威の中でお高くとまっているよりも、様々な捉え直しの中で新たな価値を見つけていくことが肝要だろう。




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2008年10月28日

『モンテクリスト伯』アレクサンドル・デュマ (1)

「フランス文学」を扱う講義は近年、学生に人気がなくなってしまった。私たちの世代にはまだ特別な響きがあったが、今の学生たちにとっては憧れもないし、何よりもとっかかりがないようだ。「教養が必要だ」と言ってもあまり通じない。もっとも教養なんて特定の時代の約束事にすぎないのかもしれない。もはや文学愛好者も「特殊なテーマでハイになれるオタクな人々」というわけだ。そして去年(2007年)は、文芸書が全く売れず、年間ベストセラーのベスト3はすべて「ケータイ小説」で、出版業界に大きな衝撃を与えた。



しかしフランスの文学作品の一部は、これまでとは全く違う形で通俗化し、流通している。「通俗化」という言い方自体が、19世紀的な価値体系によって編まれた文学史の位置づけから離れ、本来の特別な価値が毀損されているという差別的なニュアンスがあるのだが、例えば、ミュージカルになったり、アニメ化されたり、新たな形式を与えられて生き続けている。

ところで、19世紀の大作『レ・ミゼラブル』と双璧をなす『モンテクリスト伯』が数年前にアニメ化されている。「青の6号」の前田真宏によって『巌窟王』として甦った。前田真宏は『マトリックス』のウォシャウスキー兄弟に見込まれ、ハリウッドより「アニマトリックス」の監督に抜擢された経歴を持つ。類い稀なビジュアルセンスは世界から賞賛され、いま最も注目される監督のひとりだ。

「巌窟王」は、黒岩涙香が「万朝報」という新聞に翻訳を連載(明治34年3月18日〜翌年6月14日)したときにつけたタイトルである。涙香訳「巌窟王」では、エドモン・ダンテスは団友太郎、ファリア神父は法師梁谷と変えられている。アニメ版は涙香のタイトルを使っているわけだが、漢字のグラフィックなインパクトを考慮してのことだろう。

アニメ版の舞台はナポレオンの時代ではなく、未来のパリに設定されている。すでに人類は月に住み、移動手段にはロケットが使われ、戦争ではモビールスーツが活躍する。これまでの『モンテクリスト伯』のリメイク作品は原作に忠実に、復讐を誓うモンテクリスト伯の一代記として描かれてきたが(ドパルデュー主演の映画「モンテクリスト伯」が参考になる)、この作品では復讐の犠牲となるひとりの少年の目線から物語が再構築されている。退屈なくらい平和で恵まれた世界に生きていた少年が、伯爵の復讐によって、それが大人たちの暗い過去に支えられていることを知る、といった具合だ。ジャンル的にはパンクオペラと銘打ってあるが、主人公たちの大仰な台詞と身振りのマニエリズム、そしてゴシックで耽美的な演出が目を惹く。音楽はストラングラーズのジャンジャック・バーネルが担当。ストラングラーズと言えば、イギリスのパンクバンドだが、オープニング曲はプログレ風のバラードで、メロトロンが効果的に使われている。


【OP】巌窟王 https://youtu.be/gRo6vOEbJ7k


だいたいアホな人間が下手に復讐を企てると返り討ちに合うのが関の山。敵は将軍、主席検事、銀行家と、政治的にも経済的にも成功している人間たちだ。そういう相手に対して復讐の計画を完全犯罪の形で遂行することは至難の業だ。エドモン・ダンテスは航海士として一流で、長い航海によって鍛え上げられた強靭な肉体の持ち主だったが、身分が高かったわけでもないし、航海術以外の専門的な知識はなかった。しかし、ダンテスはイフの監獄の中で博識のファリア神父に最高の個人授業を受けたのだ。彼はモンテクリスト島に眠る財宝だけでなく、5つの言語とあらゆる分野の知識を余すところなく伝授され、超ハイスペックな人間に生まれ変わった。ダンテスとファリア神父の交流を詳細に読めるのは原作だけで、映画やアニメでは味わえない部分である。

つまり原作のモンテクリスト伯の超人的な能力はもともと彼に備わっていたわけではなく、復讐という強固な動機に支えられた自らの努力によってゼロから身に着けた能力だ。船乗りが貴族を名乗り、階級を超えて成り上がる。また変幻自在に人格を変えながら敵に接近する。それが元囚人のジャン・バルジャンとともに19世紀の近代的な人間像を体現しているのである。

アニメ版といえば、ファリア神父は出てこないし、またモンテクリスト伯の過去は曖昧なままで、最初から超人として現れ、超人ゆえの孤独と苦悩が描かれる。さらにはダンテスとモンテクリスト伯の関係が微妙なのだが、これはストーリーの核心部分なので見る人の判断に任せたい。(続く)

『モンテクリスト伯』アレクサンドル・デュマ (2)はコチラ


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2008年09月09日

「フランダースの犬」の現在

ベルギー北部フランドル(英名はフランダース)地方在住のベルギー人映画監督が、日本で人気アニメになっている「フランダースの犬」を検証するドキュメンタリー映画を去年完成させた。その映画が、物語の主人公ネロと忠犬パトラッシュがクリスマスイブの夜に力尽きたアントワープの大聖堂で、去年の12月27日に上映され、話題を集めた。映画のタイトルは「パトラッシュ」で、監督はディディエ・ボルカールト。制作のきっかけは、大聖堂でルーベンスの絵を見上げ、涙を流す日本人の姿を見たことだったという。

flanderstoyota02.JPGflanderstoyota01.JPG 

物語では、画家を夢見る少年ネロが、放火の濡れ衣を着せられて、村を追われ、吹雪の中をさまよった揚げ句、一度見たかったこの絵を目にする。そして誰を恨むこともなく、忠犬とともに天に召される。原作は英国人作家ウィーダが1870年代に書いたが、欧州では、物語は「負け犬の死」(ボルカールト氏)としか映らず、評価されることはなかった。米国では過去に5回映画化されているが、いずれもハッピーエンドに書き換えられた。悲しい結末の原作が、なぜ日本でのみ共感を集めたのかは、長く謎とされてきた。ボルカールトさんらは、3年をかけて謎の解明を試みた。資料発掘や、世界6か国での計100人を超えるインタビューで、浮かび上がったのは、日本人の心に潜む「滅びの美学」だった。

プロデューサーのアン・バンディーンデレン氏は「日本人は、信義や友情のために敗北や挫折を受け入れることに、ある種の崇高さを見いだす。ネロの死に方は、まさに日本人の価値観を体現するもの」と結論づけた。

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以上は、読売新聞「『フランダースの犬』日本人だけ共感…ベルギーで検証映画」(2007年12月25日 )の記事からの抜粋。「滅びの美学」なんてありがちなオリエンタリズムでしかないが、多くの日本人はそう言われると納得するのだろう。むしろベルギーまできて、日本的なコンテクストによって強引に外国を見ようとするメンタリティーの方が興味深い。

それ以前にも「フランダースの犬」に興味を持ったベルギー人がいた。「世界名作劇場」で「フランダースの犬」がテレビアニメ化されたのは1975年のことだが、ベルギー観光局のヤンさんという人物が「フランスダースの犬」の舞台はどこですかと訪ねる日本人観光客があまりに多いので不思議に思い、調べてみたところ、イギリス人作家ウィーダが書いた小説(1872年)の存在を知った。ヤンさんは、ネロが牛乳を運んでいた運河沿いや、どのあたりから教会の塔が見えてくるとか、小説のいくつかのシーンから「フランスダースの犬」の舞台を割り出した。それがフランスダースのホーボーケンであることが判明。1986年、そこにネロとパトラッシュの銅像が建てられた。また観光案内所には牛乳を運ぶ車や関連本も展示されている。

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その銅像から2キロくらい離れた小学校の校庭には、アニメのトレードマークにもなっている風車小屋の6分の1の模型もある。

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アントワープのノートルダム寺院は「フランスダースの犬」のラストシーンの舞台だが、有名なルーベンスの絵の前でネロとパトラッシュが天に召される。ノートルダム寺院の正面には2003年にトヨタが寄贈した「フランダースの犬」の記念碑がある(いちばん上の写真)。記念碑には「フランダースの犬、この物語は悲しみの奥底から見出すことが出来る本当の希望と友情であり、永遠に語り継がれる私達の物語なのです」と刻まれている。夜になると円形の部分がライトアップされて日の丸が浮かび上がるという趣向になっているが、記念碑には常に犬がオシッコをかけていくらしい。ルーベンスの絵はネロの時代と同じく、未だに有料で、鑑賞の終了時間も早いようだ。早めに行って見ておかないと、うっかり見逃すこともあるとのこと。


□ベルギーは北部(フランドル)がオランダ語圏、南部(ワロン)がフランス語圏と二分されている。
□この記事の後半部はベルギー文化を研究なさっているK大学K学部のI先生から伺ったお話をもとに構成した。写真もご提供いただいた。
□ドキュメンタリー映画「パトラッシュ」の使用言語は主にオランダ語。日英の字幕付きDVDがインターネットなどで販売されている。1時間25分。
□映画のサイト「Patrasch, a dog of Flanders, made in Japan」 
映画の予告編
□「フランダースの犬」に関してはサイト A Dog of Flanders が超詳しい。




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2008年08月09日

ルネッサンス RENAISSANCE

renaissance01.jpg「ルネッサンス」は近未来のパリを舞台に、タフな男と謎の美女が活躍する陰謀と暴力のドラマ。従来のSF作品はしばしば華やかなテクノロジーを強調してきたが、ここで描かれるパリは真夏の闇夜のような美しいモノクロ。まるでフィルム・ノワールと攻殻機動隊が出会ったような、衝撃的でオリジナルな世界だ。確かにこんな映像は見たことがない。「ルネッサンス」はCGアニメと実写の組み合わせ、そして白と黒だけを使っている。日本のアニメの影響を受けつつ、フランスが先導するホットなジャンル、グラフィック・ノベルの先鋭的な産物と言えるだろう。

「舞台は2054年のパリ。この設定がクリスチャン・ヴォルクマン監督とスタッフたちの腕が最高に冴えている部分だ。このフランスの首都は容易にそれと認められるが(エッフェル塔とモンマルトルのサクレクール寺院が二大ランドマーク)、典型的な建築物には、いかにも近未来的なタッチがたっぷりと加えられている。広々としたガラス張りのペントハウスからノートルダム寺院前の何層にもなった透明な歩道まで、夜の場面が多く、雨が頻繁に降り、フィルム・ノワールの表現において光の都は文字通りのものとして幾度となく示唆されている」(アマゾンの解説より抜粋)

光の都を白と黒によって表現する「ルネッサンス」の魅力が的確に表現されている。ヴォルクマンは影響を受けた作家として押井守を挙げるが、「攻殻機動隊」のアジア的な近未来の廃墟(ある意味どこでもない場所)とは違って、不朽の記号群と化したパリを斬新に描くのは至難の技だ。その永遠の観光都市を全く新しい平面において描き出すことに成功している。他には大友克弘の名前を挙げ、また宮崎駿の生徒を自認する。リドリー・スコットの「ブレードランナー」や20世紀初頭の表現主義の影響も色濃い。確かにキャラクターの造形やストーリーが弱い印象を受けるが(ここが賛否の分かれるところ)、それは今後の宿題にしてもらって、長編第一作目は映像のインパクトを味わいたい(難を言えば、慣れない映像のせいか目がちょっと痛くなるし、黒が多いシーンではキャラの動きがわかりにくい)。

ヴォルクマンはフランスで大人のためのアニメを作り始めた先駆者の一人だ。彼が言うには、フランスでは大人がアニメを見る習慣がない(「アニメと子供の発見」参照)。アニメはまず子供の、あるいは家族のためのものである。大人だけの世界では相変わらずリアリズム(現実を舞台にするという意味での)が重視される。あくまで現実のみが公共性を担う場なのだという堅固なコンセンサスの反映なのだろう。映画のセザール賞にはアニメ部門はなく、アニメ映画を正しく評価するという土壌が全くない。それを徐々に変えていきたい、とヴォルクマンは力強く宣言する。

RENAISSANCE 公式サイト(英)
※trailer をクリックすれば映像が見れます。サイトもかなり凝ってます。
RENAISSANCE 公式サイト(仏)
※ENTREZ DANS LE SITE DU FILM というバナーをクリック。さらに videos をクリック。
RENAISSANCE-TRAILER(long version)


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2008年03月25日

フランスのアニメ

先日、某大学でフランス人アニメーターの講演があり、その通訳を務めた。通訳といっても、ほとんどの時間は彼の自作と他のフランス人による短篇アニメの上映にあてられたので、実際には作品紹介と最後の質疑応答の手助けをしたにすぎない。あとは一緒に座って作品を見ていた。
 
ジェロームという名前の30代のアニメーターは、3Dのコンピューター・グラフィックの短篇アニメを3本制作してきた(ちなみにフランス語では3Dのことを synthèse d'images と言う)。現在はアルテ・フランスの出資で初の長篇を制作中とのことだ。講演があった大学は、CGによるアニメ制作科を設置しており、学生の興味を惹くように、彼はフランスのアニメーター養成過程についても解説し、講演の後半では学生による卒業制作を上映した。これが大変レベルが高く、驚いた。なかには、フランスにいるときに、どこかで見た覚えのある作品も混じっていた。
 
フランスは、日本、アメリカに次ぐアニメ大国である、とジェロームは言う。消費者としてもそうだが、制作者としても、数こそ少ないが、70年代の『ファンタスティック・プラネット』から、2002年の大ヒット作『ベルヴィル・ランデブー』まで、個性的な作品を世に送り続けている。それを支えているのが、規模は小さいが良質な専門学校の存在である。
 
たとえば、南仏の片田舎にあるシュパンフォコム Supinfocom という学校では、最後の2年で短篇を一つ制作する。最初にシナリオのコンペがあり、教授に選ばれた学生を中心に3〜4人のチームを作り、コンピューターを用いて、作品を練り上げていく。卒業生は、特殊効果のエンジニアや広告を手がけるなど、すぐに商業的な現場で活躍するのが普通らしい。これに対して、パリにある国立高等装飾芸術学校のアニメ科では、手描きアニメが中心で、画家や彫刻家を志す人が、一種の修行としてアニメに挑戦する傾向があるという。内容も個人的なものが多く、詩的な味わいのある作品が生み出されている。また別の学校では、すでにアニメーターとしての経験を積んだ人を集めて、資金集めやスタッフ管理などの実務も含めて、監督として独り立ちするのに必要なノウハウを教える。このように、フランスも、韓国ほどではないかもしれないが、アニメ制作者の養成に力を入れている。 

ヤン・シュヴァンクマイエル コンプリート・ボックス僕は日本のセル画アニメよりも、チェコでよく作られるような人形アニメが好きで、一時はイジィ・トルンカやイジィ・ヴァルダ、『パット&マット』などをよく見に通った。もちろん、ヤン・シュヴァンクマイエルも忘れてはならない。『アリス』に出てくる剥製のウサギが自分の腹におがくずを詰め直す場面や、『ファウスト』で悪魔を呼び出しては追い返す場面など、今でもときどき思い出して笑ってしまう。
 
また、ロシアのユーリ・ノルシュテインの作品も忘れがたい。『話の話』は、何度見ても胸が痛んだ。こちらは手描きアニメの最高峰だ。芭蕉の連句集を、日本人を中心とする世界中のアニメーター36人で映像化した『冬の日』で、ノルシュテインは久しぶりに新作を披露してくれたが、蕪村の『奥の細道絵巻』からインスピレーションを受けた映像は、他の誰よりも俳味をもっていた。会場に来ていたある日本人アニメーターと講演後に雑談していたときも、彼は「シュヴァンクマイエルとノルシュテイン、この二人はとにかく別格なんです」と言っていた。
 
フランスのアニメは、短篇がほとんどなため、なかなか興行的な成功を得ることができない。また、セリフに重きを置く伝統があるため、外国で認められにくい、という指摘もある。日本のアニメは何よりもシナリオが良いので、長篇にしても鑑賞に堪えられるが、映像的な冒険と長篇とは両立しにくい。去年発表された全編白黒の3Dアニメ『ルネッサンス』は、その点で冒険作と言えるだろう。ただ、まさに日本アニメを見慣れた者の目からすれば、シナリオがまだ弱い印象を受けた。
 
アニメの表現は、一方でリアリティの追求であり、他方で実写には不可能なノン=リアリティの追求でもある。表現の可能性の二つの極の間で、アニメは模索する。しかし、考えてみれば、それは小説から映画に至るまで、人間が想像力を使って何かを生み出すときに、常につきまとってきた問題だ。アニメは、その探究の新参者であるにすぎない。3D映像の可能性については、ゲームがものすごい勢いで開拓し、それが映画の特殊効果にも還元されている。アニメは、今後映画とゲームを気にしつつ、どのような独自性を出すことができるのだろうか。通訳をしながら、そんなことも考えさせられた一日だった。




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2007年04月12日

箸とバゲット(Gaspard et Lisa au Japon)

lisaaujapon01.jpgリサ一家とガスパールが日本にやってきました。

ほのぼのと可愛らしい出来事に和みつつ、逆に軽いカルチャーショックを受けるという忙しい読書でした。

ぜんぜんわからない日本語の文字、靴を脱ぐ事、地べたで寝る事(ふとん)、お弁当…。かなり無意識な日常の習慣や物なので、リサとガスパールのフィルターを通してみて、それが当たり前のことではなかったんだ、と気づかされたり。

(リサの)ママが「触っちゃダメよ 」と言ったのに、リサとガスパールは、ウォシュレットの操作ボタンをいたずらしてしまったり、箸をうまく使えなかったり(でも、楽しそう)、大きすぎるスリッパをはいて歩きにくかったり、と、「彼らは6歳の子どもだったんだよな」と再認識しつつ、フランス語に苦戦しながらも可愛らしいエピソードに頬が緩んでしまいました。ウォシュレットは自分も使った事がないので先を越されました(笑)

お弁当を食べるシーンで、「箸」にあたるフランス語が、「baguette(s)」。後で辞書をひいたら、棒(英語のstick)や杖の意がある言葉ってことはすぐにわかるんですが、「baguette」って、パンのことじゃないの?という先入観で読んでしまったために、弁当でパン?でも絵にはパンなんて描かれてないし…。と混乱してしまいました。「棒状で日本でフランスパンとして売られているもの」がバゲット、と辞書に書いてありました。

そして、リサたちを案内してくれる日本人「M.Fukushima」。最初、「M.」は名前かと思ったけれど、「Monsieur」の事だと気づくのに時間がかかった(遅すぎ!)。直訳して、「フクシマさん」。

彼はお寺を観光中に、大きすぎるスリッパをはいて歩きにくく、パパとママのように速く歩けないリサとガスパールが、迷子にならにように待っててくれます。境内の小道を移動中、その大きすぎるスリッパのせいで、ガズパールが足を取られ、リサとガスパール二人で彼を巻き込みながら転んでしまい、彼は怪我をしてしまいます。

お寺の観光の翌日、フクシマさんは足にギプスをはめてみんなの前に表れるのですが、彼はその怪我がリサとガスパールのせいだとパパとママには言わず、二人には目配せしながら「大丈夫だよ」と気遣います。

さらに、二人はフクシマさんのギプスに絵を描いてあげるのですが、彼は「とってもすてきな絵だから、ギプスを取るのがさびしいな」と言います。

(訳は正確ではないと思いますが、だいたいこんな意味だろうと思います。)

気配り上手でとってもやさしい人です。

なんていい人だ!と思いながら、ギプスをはめてみんなの前に表れたシーンで、はたと、こんな状態で仕事に出てくるのって万国共通なのか、日本人だけなのか、すこし首を傾げてしまいました。

ついでに、フクシマさんの風貌は、眼鏡をかけてカメラを携えているのですが、日本人のイメージとしての「眼鏡」と「カメラ」は万国共通なんだろうか…?

フクシマさんのギプスに、リサがサイン(?)を残していますが、なんと、カタカナで「リサ」。エピソードの中に、プレゼントで名前(日本語)入りのスカーフをもらうところがあり、リサはきっとそこで覚えたのでしょうが、子どもの柔軟性や、もしかしたら、フクシマさんが読めるようにという気遣いだったのかも、なんて想像をしてみるのでした。

以前、「ポネット」のワンシーンでもあったのですが、フランスではギプスに落書きをするのはお約束なのでしょうか???

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2007年04月11日

リサとガスパール 「ガスパール こいぬをかう」

ガスパール こいぬをかう私が初めて「リサとガスパール」に出会ったのはおよそ2年前。地元のとある雑貨店で、ウサギか犬だかはっきりしないモコっとした生き物のグッズを発見し、その癒しっぷりに卒倒。あの焦点の定まらないぐるぐる黒目に吸い寄せられ、すぐさま虜になってしまった事をつい昨日のように思い出す。

それから少し後、友達に「リサとガスパール」の絵本原画展に誘われ、絵本としてのリサガスに出会った。何と愛らしいベタ塗り仕様か。これぞまさに夢の絵だと、新鮮な感銘を受けた。可愛いものは、やはり可愛い。五味太郎氏の「きんぎょが にげた」を私の絵本における第1次ブームとすると、リサガスこそ第二次ブームの座に輝くことうけあいだ。

私の大好きなシーンは「ガスパール こいぬをかう」のラストで、寝転んだガスパールが沢山の子犬にかこまれているところだ。自分も犬みたいなくせに子犬を飼うなんてあんた!しかもじゃれあっている!とツボを突かれた。それに何とも綺麗な青を使ってくる。こういったキャラクターの可愛らしさとストーリーのほのぼのさ、それに陽気で自由な色使いの組み合わせという、ベタながらもきちんとストライクゾーンに入れてくる仕事が、大ヒットへの道を切り開いたのだろう。

リサとガスパール、二人のかもし出す温かさによって、一体何人の人がほんわかとした気持ちになっただろうか。私も実際、受験でピリピリしたときは何度も助けられた。神経質になっている私は、絵本コーナーで簡単に感涙したあと、いささか爽やかな気持ちで空気のよどんだ参考書コーナーへと進むのだ。当然のごとく現実という天敵にわき腹を突かれ、すぐに私はげんなりとなってしまうが、それでも今は淡い思い出だ。何はともあれ、今でも時々応援隊として駆けつけてもらっている、私の本棚に住む二匹の可愛い生き物に、心から感謝している。

■ちょっと解説:リサとガスパールは、鮮やかな色彩の絵の具を使ったのびのびと温かいタッチと、ユニークな物語が組み合わさって描かれた絵本シリーズ。児童書のデザイナーだったアン・グッドマンと画家ゲオルグ・ハンスレーベンが出会い、1999年に「リサ ひこうきにのる」がフランスで出版された。現在までに21冊以上のシリーズを手掛け、日本では19冊が翻訳されている。赤いマフラーをしている白いリサは女の子で、青いマフラーをしている黒いガスパールは男の子。二人は一見ウサギか犬のように見えるが、実は空想上の生き物で、悩み事があると相談しあう仲良し。彼らも彼らの家族も普通に人間と生活している。


★関連エントリー「リサとガスパール-La Jalousie de Gaspard


Y・T

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2006年11月01日

『のだめカンタビーレ』

のだめカンタービレ #16 (16)音楽関係の方たちには大人気。クラシック音楽漫画『のだめカンタービレ』。講談社『Kiss』で連載中、単行本はすでに16巻まで出ています。

実はかれこれ1年前、K大の授業で、ある学生さんに教えてもらったのでした。彼女、デュマの『岩窟王』とか読んでて「ほー、今時の学生さんにしては」(しかも文学部ではないので)とか思っていたのですが、実はそのとき、アニメ版『巌窟王』が放映されたところだったのです。

その後彼女に『のだめカンタービレ』12巻まで借りて読んで、あとは買って読んでいます。一緒にDVD版『岩窟王』を借りたんだけど、これもまたすごくって、オリジナルストーリーはもはやどうでもよく、もうマニエリスムの世界!なんで音楽がジャン=ジャック・バーネル!?って、ストラングラーズのべース&ボーカルなんだけど…最初ジャン=ジャック・ブリュネルって読んじゃって一瞬「誰これ?」とか思った。

Nodame Cantabile 1で、なんで『のだめカンタービレ』がフランスと関係があるかというと、第10巻で主人公「のだめ」こと、野田恵がパリのコンセルヴァトワールへ留学し、以降パリ編になるからなのです。彼女のユニークな語学習得法(音楽関係の方は耳が良いのでこういうのもアリ?)や彼女のユニークな性格については漫画を読んでいただくとして(私的には「伊賀のカバ丸」+「動物のお医者さん」のテイストかなと)、パリの描写がとてもしっかりしててストーリーとは別にまた楽しめるのです。
 
パリにいたとき時々行ってたカネット通りのイタリアンレストラン「サンタ・ルチア」が『のだめ』に出てきたのには、思わず「ギャボー」。ビンボ学生だったのでそんなにしょっちゅう行ってたわけではありませんが(結構高いと思う!)、カマドで焼いたピザはパリで一番と言われており、パスタも前菜もとてもおいしい。去年の夏に久し振りに行きました(おいしいけどやっぱり高かった!)。

実際パリには音楽関係で留学している人はとても多いです。特にピアノの方。シテ・ユニベルシテール(パリ国際大学都市)に住んでいたのでお知り合いになる機会は多かったのですが、やはりお金持ちのお嬢さんが多いデス。まあ、いろいろと厳しい世界ですが。もちろん向こうに残って実力でやってく方もいらっしゃいます。音楽に理解のない日本に帰るよりはチャンスが多いようです。かつてパリで仲良くしていただいていた声楽のN子さんは、ラジオ・フランス(フランス国営ラジオ)のコーラス部にご就職され、男声パートのフランス人の方とご結婚なさり、今もご活躍です。またこちらには日本人の方が他にも何人かいらっしゃいます。自分の芸に自信があって、どんな環境にも適応力があり、チャレンジ精神がある人、そして依存心がない人、かつコミュニケーション能力の高い人はどこでも成功するってことですか。
 
それはさておき、12巻だったかで、オーボエの黒木君が、フランス人の時間に対するアバウトさや、あまりにストレートな(自己中心的な?)感情表現に耐えられなくて落ち込んだり泣いちゃったりしたとこ、リアリティありますよね〜。セントラル・ヒーティングが壊れて大家さんに言っても全然来てくれなかったり、約束をキャンセルしても「ごめん」の一言もなかったり(ホントは人によるんだけどね!)、特に留学したばっかりの頃は人間(フランス人?)不信になるような出来事が続くようです。

★「のだめ」は英語版 Nodame Cantabile が出ていますが、パリも舞台になるのでフランス語版が出てないかなと思って調べてみたけど、さすがに出てない。Amazon.frでは英語版が売ってました。こちらはもうすぐ9巻が出ます。ドラマも始まり、「のだめ」の注目度は増すばかりですね。(06年10月31日追記)


noisette

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2006年08月04日

BARBAPAPA バーバパパ

子供のために「バーバパパ」のDVDを借りた。フランス発のアニメだが、一緒に見てみるとけっこう面白い。どこかの銀行のキャラクターにも採用されていた気がする(調べてみたら114銀行だった)。子供は最初気味悪がっていたが、今はお気に入り。主題歌も楽しく歌っている。

Voici venir les Barbapapas♪
Ils se transforment à volonté courts longs carrés♪



バーバーパパは barbe à papa というフランス語がもとになっているのだが、スライムみたいに自分の形を自在に変える謎の生き物。地中から生まれ、伴侶を見つけ、子供を儲け、家族を作る。バルビビュール(Barbibule)だの、バルビデュール(Barbidur)だの、バルビドゥ(Barbidou)だの、バルブーユ(Barbouille)だの、7人の子供たちの名前が紛らわしい。今列挙したのは原作のオリジナルな名前。日本語訳の名前とは異なっている。

話としては、自分のやりたいことがうまくできなくて、困ったり、悲しんだりしているが、そのうち自分の身体の形を変えればいいことに気がつくという展開。そんなこと最初から気づけよとつっこみを入れたくなる。なりたいものになんにでもなれる。自分の姿を変えるときの掛け声は Barbatruc!で、吹き替えでは「バーバ変身」と訳されている。ウルトラマンや仮面ライダーではないが、「変身」は70年代のキーワードなのかもしれない。どうみても70年代のサイケ文化の影響が色濃い。「私が世界で、世界は私」というアシッドな世界観だ。

作者は、アネット・チゾンとタラス・テイラー。ふたりは偶然パリのカフェで隣の席になり、紙製のテーブルクロスで落書きを交換した。そのやりとりの中で生まれたキャラクターらしい。タラスの方がアメリカからの旅行者で、フランス語があまり話せなかったので、絵でコミュニケーションを取ることになったという。旅行者だったということだが、世界を旅するヒッピーだったのでは。



まずは1970年に絵本が出版され、74年にテレビシリーズが放映される。日本でも77年にすでに放映されてたというが、当時は全然知らなかった。特に「バーバパパたびにでる」というエピソードが素晴らしい。バーバパパが仲間を求めて旅に出るのだが、フランスから、ロンドン、そしてインド経由でニューヨークへ。最後は宇宙に飛ぶ。まさにサイケでヒッピーな旅だ。バックに流れる音楽も、エレピをフィーチャーした70年代風のジャズ・ロックだ。

セリフもナレーションも簡潔なフランス語で、フランス語を始めたばかりの人にも聴き取りやすい。日本版は、音声も字幕も、日本語、英語、フランス語がそろっていて、組み合わせは6通り。お子さんのトリリンガル化計画にもいかがでしょう。


BARBAPAPA - Dessin animé - Episode 1 "La naissance de Barbapapa"(youtube)

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2006年07月26日

セレブと戯れるマンガの話

貴婦人は頷かないこの文を綴っている者(木魚と申します)はコッテコテの庶民ですけど、そのじつ心だけは貴族でありたいともあんまり思っていない。かといって「陋巷に在り」を気取るのもしんどいからあっためてないレトルトカレーのようにぬるく生きている。梅雨ってじめじめするね、洗濯乾かんし。

お上のやることはようわからへんっていうのは庶民のクリシェ。日々のてづら口銭稼がな落ち着くところもままならない我らにとって、生きるとはあくせくすることかも知んない。ほんでご褒美に時たま遊ぶ。ささやかささやか。

殿上人はなーんもせんでもごっそ食べれる境遇とすれば、こん方たちの生きるはあくせくするを引き算すればいいわけで、残りは遊ぶになる。「生きる? そんなん召使にやらしとったらええやん」とはリラダンっちゅうフランス人のお言葉やけど、殿上人の遊びは地下人の「おもろかったらええやん、われ」の逃避まじりの鬱屈感とは別の時空にある気がする。

というのも、ぶっとびが優雅でスケールがちゃうんで、はたからは伊達や酔狂と映り、お上のやることはようわからへんでーと、止まり木で安酒あおるおいちゃんの言葉が繰られるのだろう。そして、一合頼んだのにこの徳利8勺しか入れへんがな、どないなってんねんガメやがってアホんだらぁとクダ巻き巻きが展開されていく。やめときおいちゃん、酒が過ぎるで。

ダンゴ理屈をこねれば、「究極の貴族」(って実は存在しないけど)にとって、よいわるいは善悪とちゃいま。善はしていいことで人から褒められる、悪はしたらあかんことで人からどやされる。そのモノサシは誰が決めたんか知らんけど、煎じ詰めればどうも庶民感覚がにおうな。善悪のモノサシがないと庶民は生きていかれへんのでね、おまんまのためにはルールが必要。それを否定する気はさらさらない。

対して、ルールに脅迫されることない「究極の貴族」(って現存しないけどね)のよいは気持いいこと、わるいは気色わるいことで、唯一のカタキは退屈、してええんかなとか、褒めてくれはるやろかとか、どやされるんちゃうかとかに引きずられることはない。要はわがまま、天然なんやね。庶民がこれやるとドえらい目にあってきたけど、最近はそうでもなくきな臭い世の中かもしんない。

現実には存在しない(と思う)そんな貴族。でもマンガなら描くこともでき、おまけに大笑いさせてくれるから、ささやかに遊ばしてくれはる。フランスが舞台ですよ!cyberbloomはん、フランスが舞台ですよ! 木魚は頑張ってますよ! フランスが舞台ですよ! みなさん! フランスが…といえば、『ベルサイユのばら』『ラ・セーヌの星』『岩窟王』と二次元もので名作がありますけど、どれも設定は昔で大時代。

秘密はバラしてもいいけど、名香智子がさばくこの「シャルトル公爵シリーズ」は、70年代の名作『花の美女姫』のキャラのひとり、アンリ・ド・シャルトルを中心に現代の貴族・セレブたちの企みや恋のはっちゃかめっちゃかがいっそすがすがしくとことん行く。フランスねたのため再読したけどやっぱ強力で、ことに木魚の愛するキャラ、アンリの御母堂ヴィスタリアやハプスブルク家のレオポルディーネの「究極の貴族」ぶりにくらくら振りまわされちゃいました。

木魚の手持ちは小学館プチフラワーコミックスで各巻気の効いたタイトル。でもそこがネックで「シャルトル公爵」で検索かけても引っ掛かりません。老婆心ながら読む順で紹介しておくと、

純愛はジゴロの愉しみ』『アポローンは嫉妬する』『貴婦人は頷かない』『向日葵が恋したのは誰?』『黒の皇太子』『少年は贔屓される』『悪趣味な美学』『籠の中のお姫様』『秘密はバラしてもいい』『エメラルドは気取り屋』『縦横無尽の風』『薄情が薄氷を踏む』

の計12冊。文庫落ちは『シャルトル公爵の愉しみ』の統一タイトルでわかりやすい。

最近は追っかけてないけど、名香智子作品はハマった時期があったな。SHALL WE DANCEの数年先行く社交ダンスもの『パートナー』、えがったな。今日は『グリーン・ボーイ』(あすかコミックス)でも手にしよか、はたまた釣りに行くべきか…、うーん、釣りやね、ささやかささやか。

木魚@無縁仏

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2006年07月07日

フランスのオタク文化(1)−子供の発見

ぞうのババール 1 ~いざ出発! 冒険の旅へ~黒猫亭主人さんが「さらばシベリア鉄道」で書いていた『リベラシオン』紙の記事には驚かされた。フランスの2人の少女が日本を目指して家出をしたというのだ。マンガがあふれ、雅(Miyavi)が歌い、人々が素敵な暮らしをしている日本に憧れて。それも、陸路をシベリア鉄道経由で!

なぜ、日本のサブカルチャーが16歳のフランスの少女の心を完全に虜にしてしまったのだろうか。日本のマンガやアニメの何が特別なんだろうか。

フランスに「テレラマ」(Télérama)という中堅のテレビ週刊誌がある。この雑誌は、フランスを侵食し始めた日本のアニメを執拗に批判してきた。とりわけ、日本のアニメを流していた番組「クリュブ・ドロテ」の司会者、ドロテ姉さんに対するバッシングは凄まじく、ほとんど個人的な中傷に近いものだった。それは番組が終わるまでの10年間続くことになる。彼らの日本アニメ批判は、エリート主義が基調になっているのだが、彼らの主張には注目すべき点がいくつかある。

まず彼らは、子供というカテゴリーを12歳という線でふたつに分けている。これはフランスではコレージュ(中学校)にあがる年齢だ。この年齢から子供たちは、つまり青年期 adolescent と呼ばれる時期に移行し、子供 enfant から区別される。ロベール仏語辞典では少女に関しては12~18歳、少年に関しては14~20歳と細かく定義されている。そして、アニメは12歳以下の子供のためのものであり、その場合は何よりも教育的でなければならず、表現も一定の節度を越えてはならない。一方で、12歳以上の子供は十分成長しているのだから、アニメなど幼稚なものを見る必要はないと、彼らは主張している。

しかし、日本のアニメはそのような区分を侵犯する。アニメがそれまでフランス人に想起させたものと言えば、「象のババール」のような、小さな子供向けのヨーロッパ産のおとぎ話だった。だから、アニメが暴力やセックスを扱うなど思いもよらなかった。「テレラマ」がとりわけ憂慮したのは、やはり青年期の子供たち adolescent に対する影響である。その時期は、あくまで大人になる準備段階であり、大人になるための教化、良識ある市民の育成が最優先される。娯楽に関しては、子供は大人が与えるもので満足すべきであり、彼ら固有の文化など必要ないのだ。だから彼らは早く大人になろうとした。自立心が旺盛なのもそのせいだった。

フランスの文化は成熟した大人の文化と言われるが、その背後には、子供は入れない大人の堅固な公共性が存在していた。テレビもあくまでそれを支えるサービスであり、子供向けの番組は一定の枠と節度の中に押し込められていた。そのような条件下では、子供固有の文化が育まれる余地はない。しかし、テレビの民営化がもたらした大量の日本アニメはその構造を撹乱することになった。フランス社会はアニメのような文化のあり方が理解できなかった。いわば意表をつかれた形で、オタク文化の流入を許してしまった。大人は暴力やセックスなど、アニメの内容について激しくバッシングをしたが、最も重要なことは、大人と子供の関係を組み変えてしまったことだ。

オタク・ジャポニカ―仮想現実人間の誕生「オタク文化の魅力は、若者を子供扱いしないことや、とりわけ説教臭くないことにあるのだろう。そのうえで十代の夢をふくらませることのできる若者文化は珍しいのだ」

「オタク・ジャポニカ」の著者、エチエンヌ・バラールはこんな言い方をしている。社会から文化的に疎外されてきた子供たちは、自分たちの文化が世の中に存在しうることを知る由もなかった。彼らは日本のアニメを通して、「子供」という固有の時間が存在しうることを知ったのである。大人でも子供でもない、大人になるための過渡期的な存在にすぎなかった子供が、その多感な時期にふさわしい自分たちの文化を発見した。それは、大人と完全に切り離され、大人を目指して急き立てられる必要のない、彼らだけの居場所、立ち止まることが許された時間なのだ。それゆえに、モラトリアムを限りなく引き伸ばしたいという危険な欲望にもかられるのだ。

アニメのさらなる問題は、子供が固有の文化を享受し、関連商品を買うことで大人と同じように消費活動に参入したことにある。今や子供はマーケティングの重要なターゲットだ。それまで子供は消費なんてしなかった。アニメは何よりも成熟した消費社会の産物ともいえる。この話は、次の機会に。



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2006年06月19日

オタク文化、フランスで大人気!

オタク文化、仏で人気 イベントに6万人予想」との記事が、今日のヤフーのニュースのトップで流れていた。

□「オタク文化」と呼ばれることもある日本の漫画やアニメ、コスプレなどの人気がフランスで拡大中だ。日本のサブカルチャーを集める「ジャパンエキスポ」がパリ郊外で7年前からほぼ年に1度のペースで開催され、今年は7月7日から3日間の日程で過去最高の6万人の入場を見込む。
□フランスは世界で最も早く日本のアニメが紹介された国の一つとされ、世界有数の漫画市場。エキスポ関係者によると、コスプレ人口も増加中で、パリ近郊だけで約2500人を数える。
□エキスポの入場者は第1回の3200人から年々増加。今年は、名古屋市で8月に開かれる「世界コスプレサミット2006」のフランス予選を行うほか、日本のプロレスも紹介する。
(共同通信、6月19日)


barral01.jpgここで日本のアニメとマンガがフランスの子供たちの心をわしづかみにし、明治以来日本が仰ぎ見た文化大国にそれらが根付いた経緯を紹介してみたい。

1987年にクリュブ・ドロテ(Club Dorothée)という記念すべき番組がTF1(テレビ局)で始まった。クリュブ・ドロテは、ドロテという女性司会者を起用したバラエティー番組。その番組で日本のアニメが何本も放映されることになった。1978年にA2(テレビ局)がすでに Goldorak (原題は「UFOロボ・グレンダイザー」)によって日本のアニメ放映の口火を切り、人気のある定番作品がいくつか存在していたが、クリュブ・ドロテでは、まだ知られていなかったアニメ作品が次々と発掘された。

この年、フランス最初のテレビ局であったTF1はフランス社会を自由競争によって再建するというミッテラン政権の政策の一環として民営化されたばかりだった。民営化によって突然出現した放送時間の空白を埋めるために、すぐに使える作品が緊急に要請されたのであった。このようにコンテンツ不足状態にあったフランスのテレビ局にとって、日本のアニメは安上がりかつ品揃え豊富な番組用のコンテンツの宝庫だった。ほとんど手当たり次第に買い付け、にわか作りの番組編成だったのが、またたく間にフランスの子供たちの心を捉えてしまった。日本のアニメは1981年の時点で3つのテレビ局で年間237時間放映されていたが、1989年には5局で2611時間と80年代に10倍以上に増加した。

1990年代に入ると「北斗の拳」がその暴力性ゆえに放映中止に追い込まれ、これをきっかけに日本のアニメがメディアに叩かれ始める。「ドラゴンボール」も同じ理由で批判の対象になり、ピーク時にはフランスで放映されるアニメの半分を占めていた日本のアニメは一割にまで減少した。また検閲によってアニメ作品の修正箇所が増えて、シリーズの一貫性やストーリーの面白さを損なうほどになり、それがテレビのアニメ離れに追い討ちをかけた。

このような事態に平行して、フランスのアニメ愛好者たちはテレビで放映された作品を、その原作であるマンガという形式で楽しむことを始める。企業もアニメの市場としての潜在力を認識し、テレビの原作マンガが次々と翻訳され、同時にビデオの需要も拡大した。1988年に公開された大友克洋の「アキラ」映画版の成功を受けて、翌年にマンガ版が翻訳される。しかし、その支持はまだ熱狂的なものではなく、隣国のイタリアやスペインに比べると遅れてさえいた。

ところが、「ドラゴンボール」の第二部「ドラゴンボールZ」の放映が始まってから、それと平行して「ドラゴンボール」のマンガシリーズが飛ぶように売れ、アニメに遅れて本格的なマンガ・ブームがフランスに到来するのである。フランスは今や日本に次ぐ第二のマンガ消費国になっている。

オタク・ジャポニカ―仮想現実人間の誕生数年前にエチエンヌ・バラール Etienne Barralによるルポルタージュ、『ヴァーチャル世界の子供たち』(上の写真が原書の表紙、右は翻訳版、タイトルは「オタク・ジャポニカ―仮想現実人間の誕生」)がフランスで発行され、OTAKUの存在を知らしめた。バラールは日本通のジャーナリスト。この著作はオタクと呼ばれる若者たちの綿密な取材に基づいているが、その基本的な論調は、常軌を逸したサブカルチャー集団であるオタクが、日本社会の特殊性や病理性に起因しているというもの。つまり、オタクは受験戦争や集団主義によるストレスによって生み出された、いびつな日本社会の産物というわけだ。

最近は、フランス発のアーチストたちが日本アニメに対する憧れを告白しいてる。松本零士とコラボレーションしたDaft Punkのメンバーは、「日本は第二の故郷だ」とまで言い切っている。彼らは5歳から10歳にかけて、「宇宙海賊キャプテンはーロック」(フランスでのタイトルはAlbator)に夢中になり、放映時間には家族とテレビの前に集まり、学校ではクラスの仲間とハーロックや宇宙船を描いていたという。私の小さいころと何ら変わりのない光景だ。つまり、80年代に日本アニメの洗礼を受けたフランスの世代が表現を始め、私たちがフランス経由で自分たちの文化に再会するという事態が生じたのである。ブログでも紹介したPLEYMOなんて、来日ライブで、ハードな音を求めてやってきたイカツイお兄ちゃんたちに、「ナウシカ歌おうぜ!」と強引に「風の谷のナウシカ」の主題曲を合唱させるという暴挙に出ている(笑)。

■関連記事「フランスのオタク文化(1)−子供の発見」(07/07)

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2006年06月05日

『SHOE MAKER』 鳩山郁子

モノを作るってのは、どういうことなんやろ。

最近、家作りの一行程である下地や天井貼りを手伝ったり、知り合いの職人から和菓子作りの手ほどきを受けたりと、理屈より実践という現場に立ち会った。こういう世界では、技ってのはよぅ、頭じゃなくってよぅ、体で覚えるもんでぇ、べらぼうめ、てやんでぃめ、ヘクションてなことをよう聞くんやけど、ご説ごもっともかもしれまへん。

別にハンドメイドをもちあげてるんじゃないんよ。機械による量産品でもいいんやけど、ふと目の前にあるタバコやライターにビアグラス、ちりし、ボールペンなんか見て、いったいこいつら、誰がどこで何をどうした結果、木魚の目の前におるんやろうってね。

小枝2本拾ってお箸にするだけじゃ、野趣溢れるとはいえ手を加えてないから不思議感はそんなにない。文字どおりハダカ一貫でなにからなにまでやってみんしゃいといわれたら、とりあえずイチジクの葉っぱで秘部を隠して、それから呆然とする。万歳しちゃうとモロだしになり行司の木村庄之助が相手に軍配を挙げ木魚に土がつくからだ。そうなると一生こころの傷が残るから困る。

ツタかなんかでヒモ代わりにすればいいのだが、葉っぱとツタを結びつけた段階で、葉っぱとツタでなくなりパンツイッチョコ前というモノができあがるのだろうか。それとも葉っぱをパンツと思った時点で、モノになってしまうのかもしれない。

shoemaker.gif

こんな孤島でひとりでサバイバルな想像はさておき、モノへこだわりだすとモノへのフェチ度が増す。ここでお披露目させてもらうマンガは、釣り話ばっかやとフランスがそっぽ向くんで気がひけること幾星霜、どうしたもんかとうんうんしてたら思いだした一品、鳩山郁子の『SHOE MAKER』(青林工藝舎)であります。

青林工藝舎は一般向けとはピリッとちゃうアングラ風雑誌『ガロ』を出してた青林堂の衣鉢を継ぐ出版社。彼女の作品はこの2つから出ててどの作品も独特の耽美な世界、いろんなモノを鉱物的にこだわっています。新装版を除いていちおう全部楽しませてもらってます。オフィシャルサイトで表紙だけでも出歯亀しちゃってみてくらさい。

その『SHOE MAKER』の「PASSAGE II・薔薇色の本」というお話の舞台がパリ。フレンチにかこつけるにはちぃーと短かすぎる物語で、まいどのことながら強引すぎて気随い(わがまま)者な木魚やけどこらえてくらはい。ある古い本の装幀をめぐって鳩山郁子ならではの詩想が結びつくんがミソやろか。そや難波、じゃなく、そやさかい、木魚の筆では筋をうまく語れませんねん、亀は万年。これもこらえてくんさい。

ほでもね、これ読んでると、昔の本って仮綴じしてるだけで、しかも袋とじでね、読むにはペーパーナイフでいちいちページを切らなあかんし、正味、むき出しのページを束ねただけ、おにぎりやと飯だけのまんま、「ママー、ハダカじゃ嫌」って感じで売ってることがわかるんやわ。そやから海苔まいたらなあかん。仮綴じ本買ったお客さんは本におべべ着せたらんと風邪ひくから、自分好みでやれモロッコ皮にしようか、やれ箔押ししちゃろか、やれへチマやとうんうんする。フェチ度がアップする仕組やね。

papiermarble01.jpg皮や箔押しのお召し物はやっぱ値がはる。そこでリーゾナブルな大理石紙(パピエ・マーブル)を登場人物は選ぶんやけど、ジャストちょっと待ってモーメントプリーズ、それなら木魚も持ってるやん。ゴソゴソゴソ、あったあった。

シリーズものの一冊、色調はおんなじでも一冊ごと柄が微妙に異なってる。サイケやな、ウルトラQちゃんやな。どやって作るんやろ。この手の本はもう買うことないな、財布とのツロクが合わんから。中身だけ読ませてもうたらいいし。でも手ぶらで眺めるだけなら楽しそう。

もし木魚が装幀職人やったらどうするやろ?
そらもちろんイチジクの葉っぱでキメッ。


木魚@無縁仏

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2006年05月05日

まんがバトン exquise編

「心に残る5冊、ではなく7冊」
ここに紹介する7冊の前に、まず別格本として『サザエさん』(長谷川町子)と『ピーナツ』(チャールズ・M・シュルツ)を挙げておきます。両者とも物心ついたころから慣れ親しんできた漫画で、すでに体の一部となっている感じ。

トーマの心臓Banana fish (1)棒がいっぽん

☆『トーマの心臓』(萩尾望都)
小学校のとき、もともと姉の持ち物だったのをこっそり読んでいたら見つかって、「あなたにはまだ内容がわからない」と言われ、悔しい思いをした。まあそれは正論だったのだけれども。

☆『いつもポケットにショパン』(くらもちふさこ)
クラシック音楽をテーマにした漫画といえば、今では「のだめカンタービレ」でしょうが、私にとってはコレ。高橋源一郎も言及していた「麻子はシチューが得意です」をはじめ、じんとくる名場面がいっぱい。

☆『F式蘭丸』(大島弓子)
乙女チックな絵柄と内容のシビアさのギャップがいつも面白い大島作品。好きなものがたくさんあるので迷った末、フロイト理論をモチーフにしたこの作品を。

☆『おいしい関係』(岩館真理子)
オリーブ少女御用達の岩館さんの漫画のなかでも、つかみどころのない主人公と内容のこの作品が、続編の『週末のメニュー』とあわせていちばん好き。

☆『日出処の天子』(山岸涼子)
謎の多い聖徳太子をここまで大胆に扱った漫画はないだろう。超人的な力をもちながら、かなわぬ恋に苦しむ厩戸皇子が不憫だ。でも私は調子麻呂ファン。

☆『BANANA FISH』(吉田秋生)
『河よりも長くゆるやかに』も同じぐらい好きだが、ここではベトナム戦争、ドラッグ、マフィア間の抗争などハードな内容が次々と導入されたこの意欲作を挙げておきます。アッシュ役をリヴァー・フェニックスでぜひ映画化してもらいたかった。

☆『棒がいっぽん』(高野文子)
デビュー作『絶対安全剃刀』から23年の間に発表されたのは6作という寡作な作家だが、どの作品も愛おしい。この作品集のなかでは「美しき町」と「病気になったトモコさん」のレトロな情景が好きだ。


■つげ義春や花輪和一の漫画も挙げたかったのだけれど、結局少女モノばかりになってしまいました。最後に今気になっている漫画は、『バカ姉弟』(安達哲、2巻までしか読んでいないので続きが読みたい)と『天久聖一のこんな感じ』(ロッキング・オンで毎月連載:資料類やジャケットを何も見ずに、アルバムの音楽だけを頼りにその作品を表現する、というもの)です。



exquise

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