2020年08月16日

パリからの手紙 ― 増井和子さんのこと

子供の頃に見知った「すてきな大人」の訃報を目にすることが増えた。物事には順番があってどうしようもないとは頭ではわかっているのだけれど、やはりさびしい。長い間埋まっていたピースが一つ、はらりと欠けおちたような気持といおうか。先頃他界された増井和子さんもその一人だ。



昭和の子供に開かれた文化への窓というのは、今に比べればたいそう小さかった。親の本棚はそうしたささやかな窓の一つで、何もすることがない休みの日に勝手に抜き取って眺めていた。中でもおとがめを受けにくいのが『暮らしの手帖』だった。 

今思い返しても不思議な雑誌だったと思う。いい意味でぐっと野暮ったく、強い意志を感じさせた。花森安治による独特の手描きレタリングとインパクトのあるイラストが陣取る表紙をめくると、多様なトピックスが無造作に並んでいる。おなじみ商品テストから、夜間保育に取り組む保育園についてといった身近な社会問題のルポ、一流シェフによるバター香る西洋料理のわかりやすいレシピ、バイタリティあふれる日常を綴った読者の投稿欄。ファッションの頁もあったけれど、ブティックに今並んでいるものは載らず、夫の仕事の都合で日本にやってきたアメリカやヨーロッパのの奥さまの普段のワードローブを紹介していた(これがなかなかセンスがよくて好きだった)。具材が持ち味を主張しつつも、スープそのものもおいしい、おおらかなシチューのようなたのしさがあった。

読むところの多い雑誌でもあった。便利な商品の紹介頁からテレビ時評、モームやモーパッサンの名作を語り下ろす頁まで(滅入ってしまうような人生の厳しさを垣間みてしまった)なんでも読んだが、とりわけとっつきやすかったのは、「すてきなあなたに」と銘打たれた、複数の無記名のライターによる短いコラムの花束のような頁だった。物事によく通じた、品のいい大人の女の人たちが日々の生活で感じたことや小さな出会い、出来事を書き綴る。コラムの形を取ってはいるが、どこか読者に宛てた手紙のような趣きがあった。とりわけ興味を掻き立てられたのは、パリに住んでいる人がいる、ということだった。あの街に普通に暮らしているなんて。こんな行き届いた、(当時はまだこの形容詞をしらなかったけれど)「シック」な大人がいるのか。畳に腹這いになり、広げた雑誌を前に思ったものだ。その人こそが、増井和子さんだったのだ。

増井さんの名前を初めて意識したのは、『暮らしの手帖』に載った長めの署名入りの文章を読んだときだ。高田賢三のパリ・コレクションで、ある一着の服−今の目で見ればリアルクローズとして活躍するだろう一着−がランウェイで披露されるまでの物語。ファッションに関心のない家の子供は高田賢三がどれほどの人なのか見当もつかない。でも、魅了された。「主役」のその服はもちろんのこと、コレクションで発表された何着もの服の写真に見惚れた(フィナーレを飾った山口小夜子の着る小さな花が全面にプリントされたフォークロア調のウェディングドレスは特に)。少女マンガから描き写すひらひらとしたドレスの類とは全く違う、実体のある美しい服がそこにあった。

そして、たくさんの服の写真に向けるのと同じぐらいの熱量で、増井さんの文章にも接した。旬のデザイナー、世界のKENZOを前にしてもあくまで自然体。好奇心の赴くまま目をきらきらとさせてファッションの現場に飛び込んでゆく。ランウェイで披露されたぴかぴかのニュールックについても、ファッションの世界の人なら絶対言わないような自由な解釈が飛び出す(昔の日本のおじさんがインスピレーションかしら、という大胆な発言もあった)。何よりすばらしかったのは、デザイナーとその周囲に溢れる祝祭とでもいうべきピュアなよろこび、楽しさが活写されていたことだ。ファッションとは遠く離れた世界にいる子供にもわかるほどに。そしてその楽しさを少しわけてもらった気がして、繰り返し、繰り返し、読んだ。

あれから何十年。かつての小学生は成長し色気づき、見栄やお楽しみや消費のために何冊ものモード誌を手に取り、読み捨ててきた。ファッションを取り巻く状況も目まぐるしく変化した。気がつけば、少しづつ進行形の華やかな世界からは遠ざかりはじめている(気に入りの雑誌の春と秋の特集号は買い続けているけれど)。それでも性懲りもなく、つたないのを承知でファッションについて見知ったことを綴るのは、子供の頃にあてられたあの熱気と、それを目撃して共振する増井さんのはずむ文章が根っこにあるからだと思う。

『暮らしの手帖』から離れた場でのお仕事、特にフランスの食文化についての著作については不勉強で、語る言葉を持たない。ただ、あの雑誌を通じて増井さんがパリから書き送った「手紙」の数々―短いものから写真を添え時間をかけたものまで―を、今も大事にしている読者がいることを、この場を借りて述べたい。そして、そうした「手紙」を受け取ったことからパリのこと、フランスのことが好きになった人が少なからずいるであろうことも。当時の色あざやかでのびやかなお仕事が、何らかの形で再び世に出ることを願ってやまない。

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2016年04月06日

ディオール兄妹の戦争

1944年8月15日、聖母昇天祭の祝日。じりじり照りつける夏の大陽が沈みパリが闇に包まれた時、パンタン駅から貨物列車が出て行きました。積み込まれていたのは人間。レジスタンスに加担したとして逮捕され、市内の幾つもの刑務所に収容されていた2,457人もの人々が、ドイツ国内の強制収容所へ移送されていったのです。数百人の女達も含まれていました。覗き窓が一つあるきりの貨車に身動き取れない程詰め込まれ、ひどい暑さとひといきれのあまり服を脱ぎ、汗まみれの下着姿というありさまで。動き出した列車からは、人々が唱和する『ラ・マルセイエーズ』が流れてきたと言います。パリ解放の、ほんの数日前の出来事でした。

その中には、ファッション・デザイナー、クリスチャン・ディオールの末の妹、カトリーヌがいました。2,000人を超える人々が関わった地下抵抗組織マッシフ・セントラルの一員として6月に逮捕され、獄に繋がれていたのです。彼女がレジスタンス活動に加わったのは1941年、24才の時。恋に落ちた相手がたまたま組織の設立メンバーだったということもあったとはいえ、人生を左右する重い決断でした。

当時のフランスでは、ドイツ軍の占領下様々な制約が課せられていたものの、平穏な生活を営むことはできました。ひたすら耐え忍び、禁じられていたBBCのラジオ放送をこっそり聞いて連合国軍がドイツ軍を破りじりじりとやって来るのを待つ―多くの普通の市民が選んだのはそんな暮らしでした。しかし、その選択肢を捨てレジスタンスに参加した人々には、日々「死」を覚悟する生活が待っていました。

ゲシュタポをはじめとする占領ドイツ軍は抵抗勢力を根絶やしにすることに血道を上げており、逮捕されれば苛烈な尋問が待っています。拷問に屈して情報を漏らせば、さらに犠牲が広がる―組織を、仲間を守るために、関与の有無はおろか自分の名前すら明かす事なく命を落とす人が少なくなかったといいます。ある日突然姿を消し、誰にも知られる事なく獄死したレジスタンスの活動家達が、今もフランス各地にひっそり眠っているのです。「解放」の日がいつになるのか全くわからない状況―それでもカトリーヌは、組織の歯車の一つとして生きる事を選びます。

属していた組織は、ドイツ軍の兵力・武器・動向といった軍事情報を取り扱う機関で、カトリーヌは秘密情報をレポートにまとめ、運ぶ任務についていました。自転車であちこち駆けずり回り、指定された場所に行き情報を手渡すのです。同じ組織の仲間は、当時のカトリーヌについてこう回想しています。

「私たちは、自転車の上で暮らしていたといってもおおげさでないくらい、毎日毎日ペダルを漕いで走り回っていました。午前中は数名の仲間のもとへ、午後は秘密会議が開かれている場所へといった具合に。カトリーヌは、自転車に乗りやすいようロングスカートを切って長いスリットを開けていました。ニットの帽子に、お母さんからのお下がりの短い毛皮のジャケットをはおり、長いウールの靴下をはいて、少女のようにかわいらしかった。街路を駆け抜けるその姿を、男たちが目で追っていましたっけ。』

取り締まりは厳しさを増す一方で、昨日は一人、今日は二人と仲間たちが逮捕され、消えてゆきました。非情な現実をかみしめる日が増えてゆきます。それでも、カトリーヌは働きつづけました。空家同然になっている兄クリスチャンのアパートを拠点にして(仕事場にこもりきりだったクリスチャンは妹が自分の部屋を何に使ってるのか知りませんでした)、ゲシュタポが乗り込んで来る日まで。

口を割らなかったカトリーヌは獄中に捕われたまま、移送の日を迎えます。クリスチャンは顧客であるドイツ軍のつてをたよりに何とか逮捕された妹を救い出そうとしましたが、果たせませんでした。彼だけではありません。様々な人々が、ドイツへの移送を止めようとあらゆる手を尽くしました。刑務所から駅へ向かうバスを故障させたり、列車の走行を阻止する妨害工作もなされました。ついには中立国スウェーデンの領事ノルドリングが、パリ占領軍の指揮官コルテッツ将軍との交渉に成功し、フランス国内で捕われているユダヤ人、政治犯全員を解放し赤十字の保護下に置いてよいという約束を取り付けます。しかし、この取り決めがなされた時点で、貨物列車は国境を越えドイツ国内に入ってしまっていたのでした。クリスチャンは、無事を祈りひたすら待ち続けました。「妹さんは戻ってきます」という、千里眼の言葉だけを信じて。

カトリーヌは女囚専用の強制収容所レーゲンスブリュックへ送られ、兵器工場で働かされました。慢性的な飢え、伝染病が蔓延する劣悪な生活環境、そして常に死と隣り合わせでいることを強いられる目を覆いたくなるような日常を、彼女は生き延びます。幾つかの収容所を転々とした後、1945年5月に解放され、幸運にもパリに戻ることができたのです(あの夏の日に移送された2,457人の仲間達のうち、フランスへ帰ることができたのはわずか数百人でした。)。自分と年が変わらないほどに老けこみ、面やつれした12才下の妹を見たクリスチャンの胸中はどんなものだったでしょう。食料難の中苦労して手に入れた食材で兄がせっかく拵えてくれた大好物のチーズ・スフレにも手をつけられないほど、カトリーヌは衰弱していました。収容所での日々は、それほど過酷だったのです。

妹がドイツ軍に逆らい命を危険にさらす日々を送っていた頃、クリスチャンはある意味ドイツ軍に「仕えて」いました。占領後も営業を続けていた数少ないクチュリエ、ルシアン・ルロンに雇われ、デザイナーとして働いていたのです(同僚にはピエール・バルマンがいました)。ドレスのデザインは、30代も半ばを過ぎた彼がようやく見つけた、情熱を傾けられる仕事でした。それまでのクリスチャンは、流され漂う人生を生きてきたとも言えます。裕福なブルジョワ家庭の次男として何不自由なく育ち、息子を外交官にさせたい両親の意向で名門パリ政治学院に進学、その方面の勉強はしたものの芸術への志向はやみがたく挫折。少しでも美に関わる仕事をと友人と共同経営の画廊を開きますが、やがて訪れた世界大恐慌のせいで閉店に追い込まれ、実家は破産。精神的、経済的な支えを失い、友人の家を転々とする無為の日々を送りさえしました。戦争により兵役についたためせっかく掴んだ雇われデザイナーの職をいったん失ったクリスチャンにとって、ルロンの下で再びデザイナーとして働く事は糧を得る手段以上の大きな意味を持っていたのです。滅多にアパートに帰らず、アトリエに入り浸っていたという日常からも、その意気込みが伝わってきます。

一方、ドレスを作るということは顧客を喜ばせるという行為でもあります。ルロンの上得意は、ドイツ軍人の妻や娘、秘書たち、ドイツ軍の取り巻きとなったフランスの女達でした。パリにはドイツ軍を中心とする「社交界」があり、庶民が深刻な食糧難に苦しむ一方で戦前と変わらぬ豪勢な食を楽しむ華やかな宴が開かれていたのです。仕事と割り切っていたとは思うものの、クリスチャンが複雑な立場に置かれていたことは想像に難くありません―レジスタンスの妹がいる身としては余計に。(パリ解放の時、ドイツ軍将軍の秘書は、街角でつばをはきかけられたことを記憶しています。パリで誂えたスーツを汚したのは、その服の仮縫いをしたお針子だったそうです。)

もろもろの事情を抱えた兄が占領下のパリでしていたことは、無抵抗で消極的に見えます。しかし、現在の視点から見れば、クリスチャンの行為−フレンチ・モードのドレスを作り続けたこと―は、フランスの文化を守る静かな戦いであったと言えます。パリ陥落前から、ナチスはベルリンをヨーロッパのファッションの中心地にしようともくろんでいました。(ドイツ軍占領を見越して有名クチュリエのメゾンがいくつも閉じましたが、ナチスにとっては願ったり叶ったりなことだったのです。)しかし、妻や娘達、恋人のパリモードへの憧れを吹き消す事はできませんでした。かつてほどの華やかさ、活気はないものの、手の込んだ優雅なドレスは作り続けられ、より美しい一着を生み出す創造性と技術が守られ、結局ナチスのもくろみは頓挫したのです。

1945年、ドイツは降伏し、長い戦争はついに終わります。クリスチャンは独立し、“ニュー・ルック”を発表、戦後のフレンチ・モードの代名詞と呼ばれるまでに登り詰めてゆきます―戦争をともに生き延びた、フランスのファッション業界とともに。カトリーヌは、その戦時中の活動と犠牲により、フランス政府からいくつも勲章を授かりました(そのうちの一つは、戦場で大きな功績があった兵士だけに贈られる特別なものでした)。療養ののち、彼女はレジスタンス時代からの恋人と、花を扱う商売を始めます。世界のあちこちにあるフランス領の国々から届いた花を卸す仕事で、朝4時にはレ・アールの中央市場にある店を開け働く、静かな日々を送りました。仕事から離れてからも、花は常にカトリーヌのそばにありました。2008年に91才で亡くなりましたが、プロヴァンスにある自宅の庭は、丹精して育てたバラやジャスミンといったお気に入りの花で埋まっていたそうです。

*華やかな兄の世界には足を踏み入れなかったものの、カトリーヌはクリスチャンと親しい関係にありました。ディオールの定番の香水『ミス・ディオール』の名前は、クリスチャンがアトリエでスタッフと新しい香水の名前を考えていた時に、兄に会いにきたカトリーヌがひょいと顔をのぞかせたことから着想されたそうです。

*2013年、この香水にちなんだ展覧会が開かれました。レジスタンスの女性達をモチーフにした作品も展示されたそうです。会場の模様はこちらでどうぞ




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2014年06月07日

A Little wisdom from Ms. Salamon ― おしゃれ道を極めるニューヨーカーより 一言

A Little wisdom from Ms. Salamon―おしゃれ道を極めるニューヨーカーより 一言ニューヨークはファッションの街。ファッションに関わる人々がたくさんいます。しかし「お仕事は?」と問われて「装うことです。」と答える人がどれだけいるでしょうか。



ためらわずにそう答えられる人、それがジポラ・サロモン。1950年生まれのニューヨーカーです。彼女の着こなしはとてつもなくユニーク。独特の審美眼で選び抜いたアイテムを、プロのスタイリストでも思いもつかないような組み合わせで着てみせます。はっと目を引く配色、手技を極めたテキスタイル使いの妙。ジポラの存在自体が一枚の完全なタブローとでもいいましょうか。自転車で颯爽と通りを走る彼女を目にした誰もが息を飲み、立ち止まります。NYのファッションの生き字引、ストリート・ファッションフォトグラファーのビル・カニングハム翁もその一人。彼女が通りがかると必ずシャッターを切ります。ヴィンテージが詰まった彼女のクローゼットは美の宝庫。ラルフ・ローレンを始めとする有名デザイナーも、創作のヒントを得ようと見せてもらいにくるのだとか。        

しかし、ジポラは「ファッション業界の人」ではありません。西海岸で精神分析医になろうと勉強したものの開業せず、教師、ウェイトレス、ブティックの店員、クローク係と生活のために様々なことをしてきました。今も小さなアパートに住み、華やかな暮らしとは縁がありません。しかし、「普通の人」であるジポラの毎日を輝かせてきたのは、たくさんのすばらしい服、アクセサリーとの出会いでした。

腕利きの仕立て職人を父に、ドレスメーキングを仕事とする母を持つジポラは、母お手製のシックな服を着て育ち、本当によい服とはどういうものかを日々の暮らしから学びました。既製服を自分好みに手直しする技術を身につけたのも、この環境のおかげです。

「芸術的」な着こなしをすることに目覚めたのもごく自然の成り行きでした。懐が寂しいときも、蚤の市、古着屋へ行けば、今店に並んでいるものより良い品を安く買う事ができました。高級ブティックでは、手の届かない品を見て触って、着こなしの引き出しを豊かにしました。高校で教えていた頃、ある学生にこう言われたそうです。「今日は他のクラスは全部サボったんだけど、このクラスには来たよ。だって今日先生がどんなカッコしてくるかだけは見たかったんだもんね。」

一つアイテムを手に入れたら、それが最も輝く着こなしを何年かかっても見つけ出す。パズルのピースがぴたっとはまるように、どこからともなくアイデアが降りてくるのです。日々街で見かけるあれやこれやが着こなしのインスピレーションになります。ジポラにとって、生きる事すなわち装うことであり、クリエイティブな毎日の積み重ねなのです。

近年は請われてパーソンズやその他の場所で着こなし術を教えたり、「おしゃれな一般人」の代表としてランバンの2012年秋冬キャンペーンの広告モデルも務めるなど、おしゃれの達人として世界に認知されたジポラ。仰ぎ見るような存在の彼女ですが、「衣」についてそこまで極められない我々普通の人にもピンとくるようなことをインタビューで語っています。彼女のそんな名言を集めてみました。

「自分がどんな体つきをしているのか、よく知ること。できるだけたくさん試着して、鏡に映る自分の姿を厳しくチェックして。年を重ねれば、ボディラインを見せないという選択もあるということを考えるべきね。」

「すてきに装うことということは、つまり、日々の営みの中であなたの芸術性と個性を表現すること。着るあなたにとっても喜びをもたらすわ。きれいに着こなせた日には、物事が上手く行かない時も、ふと下に目をやれば、とても美しいあなたが見えるでしょう。」

「私の持つもののレベルはとても高いの。どれも他のものと同じぐらいよいものでないといけないし、どれも私の決めた基準−このアイテムは、これからの人生死ぬまでずっと携えていたいもの?−をクリアしないといけないわね。答えがノーなら、買わないわ。」

「独自の個性的なファッションに身をつつんだ女達が、人の目を奪うのを見るのはいいものね。レディ・ガガのように、目立てばいいというファッションがいいというのではないの。よいテイストのファッションで人の目をひくべきということ。私たちはみんな美しいものが好き―赤ん坊、花、美しい絵、沈む夕日といったものをね。美しい女性、また美人でなくとも美しく着こなした女性に出会ったら、息を飲むでしょう?」

「トレンドは追いません。今何が流行っていて、かっこいいと言われているか関心がないの。私自身が自分のデザイナーでありスタイリストだと思っているので。」

「ファッションは今や何かを買う事になってしまい、クリエイトすることでなくなってしまった。ファッションの喜びはどこにいってしまったの?遊び心は?創造性はどうしてしまったのかしら?」


ジポラ・サロモンのウェブサイトはこちらでどうぞ。彼女の着こなしのあれこれを見ることが出来ます。
http://www.tziporahsalamon.com/


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2014年05月09日

Je suis comme je suis−ステファニー・ズウィッキーのわたし流スタイル

フランスの女性はみんな華奢でスリムでシック―そんなイメージをお持ちでは?日本に限らずアメリカでもこのイメージは揺るぎないものと信じられていて、「フランスの女性に学ぶステキなライフスタイル」というようなタイトルの本が書店に並んでいます(「フランスでは毎朝、ふくよかな女性が牛乳の空き瓶のようにトラックで回収される」という趣旨の一コマ漫画を見たのもアメリカの雑誌でした)。

しかしこのイメージ、ただの「幻想」でしかありません。フランスには、プラスサイズの服を着る女性が、あなたの思う以上にたくさんいるのです。統計によれば、15歳以上のフランス女性の実に42%が肥満の問題を抱えているそうです。インターネットのおかげでどの国のリアルな情報も簡単に手に入るようになったはずなのに、どうして知られていないのでしょう?フランス映画やパリ・モードが提示するフランスの女性達が「幻想」を体現する人ばかりということもありますが、プラスサイズの女性達の声がなかなか聞こえてこないという状況もあるのだと思います。

そんな中、異色ファッション・ブロガーとして注目を集めているのがステファニー・ズウィッキー。スイス生まれのパリに住む30代の女性です。プラスサイズの体型ながら、色を楽しみアクセサリーを上手に使ってキュートにも大胆にも変身する着こなしはフレンチ・シックそのもの。フランス版「ELLE」誌にも取り上げられる程です。そのサイズゆえにアイテムにかなり制約があるはずですが、そんなことはみじんも感じさせず「装う楽しみ」を発信。世界中でたくさんの読者を獲得しています。フランスでは、コメンテーターとしてテレビ出演するなど、ブログ以外のメディアにも活躍の場を広げている、旬の人なのです。

ステファニーのモットーは「スタイルは体型じゃない、あなたの心持ち次第」。彼女がこの境地に至るまでの道のりは平坦ではありませんでした。小学生のころ医者に「肥満児」の宣告を受けてから、体重に振り回される人生がスタートします。ありとあらゆるダイエットを試みたそうです。他人の視線が気になるティーンエイジャーの頃には、天国と地獄を経験しました。「ちょっとぽっちゃり」な見かけだった時は、大人っぽいグラマーギャルとしてモテモテに。有名美人コンテスト”Miss OK”のスイス大会で第2位に選ばれたこともありました。でも、体重が増え続け体型が変わると、向けられる視線は賞賛から嘲笑に変わります。日々太っていることを呪い、苦しむステファニーに、手を差し伸べてくれる人はいませんでした。また不幸なことに、誰よりも悩みを聞いてくれるはずの母親が、全く頼りになりませんでした。彼女自身も同じ悩みを抱えていて、自分と同じように太ってゆく娘を受け入れられなかったのです。無茶なダイエットをしていると気付いても、だまって見ているだけ。あきらめなさい、ステファニー…。

1年で63キロやせられる、という医者の口説きにのせられて、ステファニーはとうとう減量手術に踏み切ります。胃にバンドを取り付けてサイズをコントロールし、摂取する量を減らせるようにしたのです。術後は食べる喜びを放棄し、レストランへお誘いも全て断ってカロリーだけを考える生活を送りました。ついには36キロ体重を落とす事に成功。ぐっとスリムになった彼女を、回りは褒め讃えました。「すごい!」「きれいになったね」「どうやってやせたの?」しかし、気持ちは晴れませんでした。みんなにとってスリムになったこの体型だけが大事で、私という存在は「影」でしかないの?…。「太っていたときの私」が結果的に否定されたことにステファニーは打ちのめされました。うつになり、「消えてなくなりたい」とさえ思いつめます。

しかしこのうつの治療を受けたおかげで、ステファニーは心の病の原因となった「体重と自分」の問題と正面から向き合うきっかけをつかみました。そしてついに、「プラスサイズの私」をありのままに受け入れることができるようになったのです。もともと好きだったファッションへの情熱も復活。おしゃれを前向きに楽しむこともできるようになると、みんなとシェアしたいことがたくさんあることに気がつきます。地味な扱いのプラスサイズの服でもステキな着こなしができること、気の利いたブティックのこと、最近見つけたかわいいドレスのこと!ブログを始めたのは自然の成り行きでした(プラスサイズの女性のおしゃれ心を無視し続けるファッション業界に物申したい気持ちもあったようですが)。

メディアへの露出も増え、プラスサイズの女性を代表する存在として扱われる事も増えてきましたが、ステファニーの基本姿勢は変わりません。誰かのために活動しているのではない、私にできるのはただ、他人からどう見られようと私らしくあること―。サイズゼロの彼女達のように何でも着こなせるわけでなく、ジーンズをアイテムに取り入れたスタイルはあきらめたけれど、私がうれしくなる装いで日々楽しんでいる。ほら、私を見て!着道楽と自己顕示欲という表現では片付けられない、いろいろあった後に到達したピュアな喜び―それこそがステファニーのブログの真の魅力なのです。

ポジティブな見方へ変わることを促した原風景について、ステファニーは語っています。それは、17歳の頃たまたま見たおバカ系トークショウの一場面。数名のとってもふくよかな女たちが着飾ってレッドカーベットを歩くという趣向で、視聴者の笑いを誘うための企画なのが見え見えでしたが、登場した女たちの堂々とした姿に思わず見入ってしまったそうです。体型に引け目を感じるどころか、いろんな意味で盛り上がる観客を気にもかけず、顔を上げてポーズを取り、歩く彼女達。「私は私よ!」 −そのとき感じた、霧が晴れたような気持ちを素直に受け入れるまでだいぶ回り道しましたが、今自ら用意したレッド・カーベットを生き生きと歩く彼女がいます。

ステファニーのブログはここで見ることが出来ます。
http://www.leblogdebigbeauty.com/en/faq/

ステファニーが出演したファッション・ブランド、マリナ・リナルディのPRフィルムです。おしゃべりするステファニーも魅力的。
http://youtu.be/QP3bnQ2QCF4



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2013年08月22日

Simply, Lilly 女子を元気にするパームビーチのカラフルな魔法

ネットにアップされた1着のイメージを世界中のみんなが一瞬でシェアして、世界のあちこちで着こなしに取り入れられている、なんてことは当たり前となった今。それでも特定の国だけで熱狂的に支持されている ファッションというのもまだあると思うのです。



思い浮かぶのが、アメリカのブランド、リリー・ピュリッツァー。ちょっとひいちゃうぐらいの鮮烈な色とトロピカルでにぎやかなモチーフのプリントで知られています。ブランドがずっと提案してきたのは、カプリパンツやコットンシャツといった、常夏の高級リゾート地で過ごす時に着たくなるようなリラックスウェア。余計な飾りを付けずプリントの楽しさを生かしたノースリーブのコットンワンピース(シフトドレス)は、ブランドを代表する一着となりました。ビジネスをいったんクローズした時期があるものの、1960年の設立から今に至るまで、着るとハッピーになれるブランドとして、アメリカの女性達の共感と支持を集めています。今ではキッズラインからステーショナリー、クッションやベッドリネンといったリビングウェアまで幅広く展開し、3世代みんなリリーのファンというのも珍しくありません。ファッションの枠を超えた、スペシャルな存在−それがリリー・ピュリッツァーなのです。

ブランドの始まりそのものが、ファッションともビジネスとも無縁でした。有閑階級の若奥様、リリー・ピューリッツァーが、必要に迫られて一着のドレスをあつらえたことから、全てが突然動き出したのです。スタンダード・オイル社の設立メンバーを祖父に持ち、アメリカ東部のハイ・ソサイエティの一員として育った陽気な女の子、リリーは、21歳の時避暑地で出会った出版界の大物ピューリッツァー家のハンサムな御曹司と電撃結婚。夫が経営する果樹園があるフロリダのパームビーチに移り住みます。3人の子供にも恵まれ、知人友人とパーティ三昧の日々。そんな幸せ一杯な彼女を、不安発作が襲います。家族と離れ東部で療養した時医師にもらったアドバイスは「夢中になれるような趣味を見つけること」。夫はリリーに提案します。「うちの果樹園の果物でも売ってみるかい?」

Lilly: Palm Beach, Tropical Glamour, and the Birth of a Fashion Legend小さなジューススタンドをオープンしたリリーは、ちょっとした問題に直面します。ジュースを絞る時に飛び散ったオレンジやグレープフルーツの果汁が服について、なかなか落ちないのです。ぱりっとした白いシャツは、しみだらけになって台無しになってしまう。しみが出来ても目立たない服なんてクローゼットにないし…そこでリリーは、庶民的な雑貨店で安く売られていた派手な柄のコットンのカーテン用生地を買ってきて、好みのデザインに仕立ててもらいました。ノースリーブで丈は短く、かがみやすいように両サイドにスリットを入れて…こうしてシフトドレスの原型となるドレスが完成したのです。

出来上がったドレスを着て店に立つと、驚いたことにジュースよりドレスについて客が熱心に聞いてきます。それなら、と同じデザインのにぎやかな柄のドレスを数枚、20ドル程度のお求めやすい値段でオレンジと一緒に売り始めたのです。ドレスは飛ぶように売れ、パームビーチの優雅な友人達がこぞって着始めた頃には、自分で注文をさばくことができないほどになっていました。これを機に、リリーはこれまたにぎやかな柄が大好きなオーナーが経営するテキスタイル会社を見つけ出し、オリジナルデザインのプリント生地を使ったドレスの製造に乗り出します。1961年に自らの名を冠したショップをパームビーチの目抜き通りにオープンした頃には、州外の高級百貨店、ブティックからも注文が舞い込むようになり、リリーは本格的にファッションの世界に身を投じてゆきます。

かつてのクラスメイトで親交を続けていた当時の大統領夫人、ジャクリーン・ケネディもリリーのドレスを気に入った一人でした。避暑地で取られた大統領一家の家族写真でジャッキーが着ていた明るい色のシフトドレスは国中で評判になり、リリーは時の人となります。全国の大都市や高級住宅地に次々ショップがオープンし、みんながリリーのドレスに夢中になりました。

何がそんなにウケたのでしょう?そのトロピカルで明るいプリントが単純に楽しい気分にさせてくれたということもあります。(9.11のテロの後数ヶ月間、ブランドは最高益を売り上げたそうです。)ヨーロッパからの借り物でない、アメリカの自然をモチーフにしたプリントは、アメリカの女性達の共感を呼ぶところがあったのかもしれません。

リリーのドレスが、人々が憧れるパームビーチの有閑女性のライフスタイルを喚起させたこともあります。何せとても大胆なプリントですから、仕事に着てゆく訳にはいきません。あくまでリラックスウェアとしてドレスを楽しめる場所とゆとりがある女達のものなのです。にぎやかなプリントながら素材はコットンでデザインも簡素であることも、ポイントでした。ファッションのひとつの側面である豪華さ、官能性をほのめかす要素は巧みに排除されているのです。ちょっとハメを外したような色柄だけれど、清潔で健全、華美に走りすぎていない。このバランス感覚が、リリーの出自であるアメリカの上流階級が伝統的に持つメンタリティにアピールしたのだと人気を分析する向きもあります。

しかし何よりも女性達の心をつかんだのは、リリーの作ったドレスの自由さでした。ファッションがまだ限られた人々だけのものであり、母でも妻でも娘でもなく自分らしく気ままに着ることを楽しめる時代は夢のまた夢だった当時、デザインの上でもボディラインの上でもフェミニンというよりは子供服に近い無邪気さを放ったリリーのドレスは、着るひとにつかのまの開放感を与えたのです。何せこんな服ですから、気取ったり背伸びする必要は一才なし。ビーチを裸足で駆け回った子供のころのように、リラックスして楽しみましょう!そんな隠れたメッセージを、当時の女性達は直感で読み取ったのではないでしょうか。

それは、リリー・ピューリッツァーがとても自由な心の女性であったことにあるかもしれません。あくまで上流階級の一員であり表に出ることを嫌うゆかしい女性であったリリーですが、とても開放的な一面がありました。例えば、どうしても必要という場合でなければ、靴は履きませんでした。また、アンダーウェアも窮屈で嫌い。(厚手のコットンをシフトドレスの生地に選んだのは、ブラなしでいることがわからないようにするためだったとか。)ファッションビジネスに身を置いてからも、リリーは自分らしさを優先させました。取引先が秋冬物の商品を提案してほしいと言ってきたとき、彼女はこう答えたと言います。「まあ、わかってないわね。世の中には年中夏ってところもあるのよ。」我が道を押し通したリリーは、図らずも一年通して夏っぽいラインを提案するユニークなブランドを作り上げ、リゾート・コレクションの先駆けとなったのでした。ビジネスウーマンとしての物の考え方を優先させていたら、今のブランドはなかったでしょう。

ビジネスの第一線にあった頃を振り返って、リリーはコメントしています。「ただただ、毎日が言いようもなく楽しかったわ。ドレスがお店で売られ、実際に着てもらっている。箱に詰められて、国のどこかへ送り出される。見ているだけでとてもわくわくしたわ。」彼女の「楽しい気持ち」は、今もアメリカの女性達を元気にしています。

今のリリー・ピュリッツァーを知りたいあなたは、こちらをどうぞ。
http://www.lillypulitzer.com/

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2012年11月29日

After a fuss….ディオールを巡るあれこれについての雑感

電話帳のような Vogue の September Issue が店頭に並び、新しいシーズンに向けてファッション業界が飛び立ってゆく今、去年春から今年にかけてクリスチャン・ディオールに起こったことについて思ったことをぼそぼそつぶやいてみたい。

Dior Coutureジョン・ガリアーノが放逐され、ラフ・シモンズが新しいアーティスティック・ディレクターに就任。業界を震撼させたスキャンダルは、思いがけない、しかしこれ以上ない選択へ道を開いた。

しかし、ラフ・シモンズがディオールの伝統を引継ぐことになるとは!ジル・サンダーでの仕事は鮮やかな印象を与え、映画の衣装やレッドカーペット用のドレスで旬の女優を輝かせるなどその名はとどろいていたものの、「フェミニンな女性の美しさ」を第一に考えてきたブランドの華やかなイメージと、シモンズの作品のミニマルなイメージとには距離が感じられたからだ。そもそもシモンズは、ジル・サンダーのアーティスティック・ディレクターになるまで女性のためにデザインをしたことがなかった。ディオールをコントロールする LVMH にとって、シモンズの起用は「賭け」だったと思われる。

しかし、この大胆な起用は、ディオールのブランドイメージを一新するために不可欠だったのではないか?ハリウッド・スターや上流階級のエレガントな女性達に好まれるあこがれのドレスメーカーとして、化粧品や香水、高価な日常の品々についたロゴでおなじみのブランドとして、ディオールは長きに渡りゆるぎなく存在してきた。しかし、ファッションの歴史において、ディオールについての記述は思いのほか少ないのではないだろうか。同じビッグメゾンであるシャネルは、創始者ココ・シャネルを神聖なアイコンとしてあの手この手で引っ張り出し、時代を超えた憧れの女性、モードの革新者と讃えることでブランドイメージを新鮮に保つことができた。ディオールが勝負できる手札といえば、「ニュー・ルック」のころの懐かしいモノクロ写真と若きサンローランがブランドを引継いだときのセンセーションをかき立てる記事ぐらいだろうか(しかもサンローランは短期間でブランドを追われた)。柔和でぽっちゃりした美食家だったムッシュ・ディオールはビジュアル的に魅力的なアイコンとは言い難い。サンローラン後から80年代にアルノー氏がブランドを掌握するまでの数十年間ディオールのデザインを任されていたデザイナー、マルク・ボアンのことを覚えている人がどれだけいるだろう? 

そんなディオールにとって、ジョン・ガリアーノのクリエイティヴ・ディレクター就任は大きな転機となった。例の “J’adore Dior” T シャツに代表されるようなカジュアルな側面は上品だけど保守的なブランドのイメージを変え、カワイイもの好きの Chick 達も今風なディオールのロゴをあしらったグッズを財布をはたいて買いもとめててくれるようになった。しかし、ガリアーノがあのような形で去ってしまったことは、ディオールというブランドのアイデンティティに疑問符を投げかけることになった。スター・デザイナーが不在でもコレクションは発表され、ブランドビジネスはこれまで通り上手く回った。ならば、各ブランドがその才能を喧伝するアーティスティック・デザイナーの存在とはいったいなんなのだろう?「(ブランドの基礎である)ファッションの魅力」を全面に掲げなくとも商品は売れるのなら、前に進まず過去のイメージだけに頼ってもブランドは存続できてしまう・・・?そんなしらけた見方を打ち消し、「ディオールらしさ」が変わらぬ美であることを証明するためにも、大胆な決断が必要だったのだと思う。だからこそ経営陣は、ダークホースである44歳のベルギー人の可能性に賭けたのだ。

ラフ・シモンズは、様々な個性が集うファッション業界でもひときわユニークな存在だ。まず、彼のバックグラウンドには将来を暗示、予感させるような要素が全くない。本人曰く「文化も何も全く何もない場所」のワーキングクラスの家に生まれ、森と農場と家畜に囲まれて育った。音楽だけが、唯一手に入る刺激だったという。大学で学んだのは工業デザイン。教育を受けられなかった両親の「学校で学んだことを活かして身を建ててほしい」という希望を受けてのことで、エッグスタンドなどモードとは縁のないものをデザインしていた。



ファッションと遭遇したのは20をとうに超えてから。ベルギー発の異才デザイナー集団アントワープ・シックスの一人で、悪目立ちする外見の持ち主、ウォルター・ヴァン・ベイレンドンクのアトリエにインターンとしてもぐりこんでからだ。(ベイレンドングのショーや、彼に連れられてパリで見たマルタン・マルジェラのコレクションを見て、ファッションデザインの道に進むことを決めたそうだ。)

シモンズは学校でファッションデザインを学んでいない。ベルギーには有名デザイナーを排出したアントワープ王立芸術学院があるが、ここで学ぶ機会をついぞ持たなかった。デザイナーとしての彼を造ったのは、この学校で学ぶ同年代の若者達とその周辺だった。クラブにたむろし世間とは違う美意識、物差しで自分なりのクールネスを無意識に体現するストリートの仲間達の姿に、遅れてやってきた素朴な若者は魅了される。自分を惹き付けてやまないこの何ものかに声を与えたい―ファッションデザインという方法でそれを試みたとき、ファッション・デザイナー ラフ・シモンズが誕生した。まさにゼロからのスタートだった。

また、シモンズは、他のデザイナーが創作の原点と公言する「女性の美への賞賛とあこがれ」とは距離を置いている。おしゃれに装う母や洋裁を仕事とする家族、人形遊び、ファッション雑誌といったありがちな要素が子供の頃になく、そうした感情が育まれなかったということもあるが、彼にとってファッションとは、人を飾りより美しく、カッコ良く見せることというより、もっとピュアで抽象的な美の探求のように思われる。独特なシェイプやスタイルは、自分が心惹かれる抽象的なイメージ、現象を形にした結果にすぎない―そんなストイックな挑戦が、はっとするほど新鮮な作品を生んできた。

人並みはずれてシャイで、繊細で、カメラが苦手。業界人との表面的なおつきあいはできるだけ避けるけれども、親しくなればとことん付き合う熱血ロマンチスト・・シモンズを知る人による彼の人物評だ。今でもストリートで知り合った仲間を大切にし、才能を見抜き、一緒に仕事をする(彼のマネージャーは、出会った頃はタトゥーまみれの普通の兄ちゃんでしかなかった)。そんな彼がアーティスティック・ディレクターとして素晴らしい仕事ができるように、彼を雇い入れたLVMHのトップ達にお願いしたい。どうぞ良い意味で気にかけ、守ってほしい。ガリアーノの悲劇は、回りに真剣に彼に向き合う人が回りにいなかったことにあると思う。あの場の彼はどう控えめに見ても、己をコントロールする術を完全に失っていた。本来はとてもタフな人物で、ディオール時代には、父親の葬儀からとんぼ返りしてコレクションを無事終わらせることができたぐらいだ。そんな彼があられもない状態を曝したのは、アルコールやドラッグにすっかり呑み込まれていたからだと思う。(彼のしでかしたことについてはいろいろな見方はあると思うが、彼への裁きと並行して存在する事柄について触れておきたい。まず一つ。嫌ユダヤをはっきり口にする老リーダーを戴く極右政党「国民戦線」は、フランスで意外なほどの支持を得ている。そしてもう一つ。ユダヤ人の娘達が黄色い星をつけてパリの街を歩いていたあの頃に素面のココがしていたことについては、誰も何も言わないし、真相はこれからも闇の中に置かれたままだろう。)

7月にシモンズが発表したクチュールのコレクションは、過剰な飾りを排しピュアな女性の美しさを体現していて素晴らしかった。ディオールはまさに息を吹き返したと思う。カメレオンのように変わることをおそれていない、とシモンズは述べているそうだが、ムッシュ・ディオールの遺産であるデザインアーカイヴと柔らかなシモンズの感性が結びついて生み出される美の世界に期待したい。


上の動画は新生ディオールのクチュールのショーです。何人の有名人を見つけられました?最後の最後に本の一瞬登場したのがシモンズです。




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2012年07月01日

熱するレッドカーペットビジネス―『レッドカーペットの舞台裏』

先日NHKのBSプレミアムで放映された『レッドカーペットの舞台裏』、制作はフランスのプロダクションだそうですが、なかなか興味深い番組でした。レッドカーペットビジネスとは、レッドカーペットを歩く女優にドレスやジュエリーを身につけてもらいブランドの宣伝を行うこと。いまやアカデミー賞のレッドカーペットは世界最大のファッションショーと化し、有名女優にはブランド側からオリジナルのドレスが提供されたり、さらには商品を身につけてもらうために巨額の報酬が支払われる場合もあるとか。レッドカーペットを歩く女優陣に対し、レポーターからドレスやジュエリーについて質問がなされるのはすでにお馴染みの風景。ブランドの名前はインターネットを通じて一瞬で全世界に配信され、その宣伝効果は計り知れない。無論、女優が着用するような高価なドレスを一般人が購入できるわけはない。ブランド側の狙いはバッグや靴、香水や化粧品を買ってもらうことだ。ファン心理とは不思議なもの、一種の「刷り込み効果」で憧れの女優が身に着けたブランドの商品が欲しくなるのである。

ブランドビジネス (平凡社新書)2000年代前半から女優(セレブ)とファッションの結びつきが強まり、ファッション誌の表紙をハリウッドスターが飾るようになった。ブランドのなかには女優と専属契約を結び、厳しい制約を課して宣伝活動に従事してもらう場合もある。番組内ではファッション関連の仕事が本業よりも目立つ女優としてスカーレット・ヨハンソンの名前が挙げられ、またシャロン・ストーンやデミ・ムーアはいまや女優ではなく「レッドカーペット・スター」であると揶揄されていた。

そして女優達は演技だけでなく、レッドカーペット上でもドレスで優劣をつけられることに。結果、批判を恐れる彼女たちのファッションは保守的になり、個性が失われてしまう傾向にある。ただしファッション関係の仕事が増えたのは、女優達にとってマイナス面だけではない。例えばモニカ・ベルッチは広告の仕事で収入が得られることによって経済的に安定し、低いギャラでも出演したい映画の仕事を選択できるようになったというメリットを述べている。

一方、過熱するレッドカーペットビジネスについて批判的なデザイナーもいる。マーク・ジェイコブスは「レッドカーペットのために服を作る気などない」と述べ、カール・ラガーフェルドは「このままでは悪趣味の巣窟、ファッションのあり方を見直すべきである」と苦言を呈した。

番組では最後にアンディ・ウォーホルの「財力と知名度が個性をかき消す世界」という言葉を引用し、レッドカーペットはまさにこの状況に陥っていると指摘する。財力を使って名声を保とうとすれば、個性は消されてしまう。メジャーブランドが莫大な予算をかけて提供した衣装をまとい、レッドカーペットを歩くセレブ達の姿―そこがアカデミー賞なのかカンヌなのか、同じようなドレスを着用して微笑んでいるのは誰なのか、もはや区別がつかなくなってくる。それはまるで店に並ぶ大量生産された商品のようではないか。

以上が番組の趣旨だが、改めて痛感したのが、ブランドの生命線はあくまでも知名度であるということ。どんなに素晴らしいクリエイションを行っていても、ビジネスである以上知ってもらい、憧れてもらわなければ意味がない。あのセレブが愛用、このモデルが着用、などというキャッチフレーズがつけばてっとり早く人々の注目を集めることができる。だがそれは諸刃の剣でもあり、安易な宣伝方法はブランドのイメージを損なう恐れもあるのだ。ブランドイメージのコントロールとビジネスを両立させるのは容易なことではない。この『ブランドビジネス』は、2004年出版ということで内容的にはやや古い部分もあるが、ルイヴィトンが日本で成功した経緯やライセンスビジネスについてなどわかりやすくまとまっており、一読の価値あり。ブランドに興味がある人もない人も、ビジネスという側面から興味が深まること間違いなし、お勧めです。

三田村 蕗子著 『ブランドビジネス』 (平凡社新書)


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2012年03月03日

米澤よう子『パリ流おしゃれアレンジ!』

パリ流おしゃれ術? …毎月のようにどこかの雑誌で取り上げられているそんなテーマ、今さら感いっぱいだわ〜と思っていました。が、米澤よう子さんの本はけっこう楽しめます。

パリ流 おしゃれアレンジ! 自分らしく着こなす41の魔法米澤さんはイラストレーターで、パリに4年滞在された経験あり。パリ流おしゃれの本を何冊も出版されています。私は『パリ流おしゃれアレンジ!』とその続編を読んだのですが、とにかくわかりやすい。イラストによる失敗例を見ると、非常に説得力があります。「最新アイテムを取り入れているのになぜかダメな例」など、なるほど〜と納得できます。

『パリ流おしゃれアレンジ!2』の冒頭、「リアル・パリジェンヌ 世界が関心を寄せるおしゃれ その実態は…」というページには、このような説明があります。

「少ないアイテムを着まわし、着こなし、着くずし、程よくフェミニンでこなれたカッコ良さがあり、どれも普遍的アイテムでありながら個性的に映る。服に“着られる”ことのない自分が主役のおしゃれです!」

パリ流おしゃれアレンジ!2 (大人可愛く着こなす41の魔法)…これが実現すれば、理想的ですよね。ところで、パリに滞在したら、きっと誰もが一度はこう思うはずです、「パリジェンヌ全員がおしゃれなわけではないのね…」と。そんな当たり前のことも、「おしゃれなパリジェンヌ!」というイメージを日本でこれでもかと植えつけられた頭には、現地に行くまで実感できない方が多いのではないかと。

と同時に、パリジェンヌ(というよりフランス人女性全体)は、日本人女性にはない何か決定的におしゃれな要素を持っているなぁ、と感じる瞬間があるのも事実ではないでしょうか。漠然としたその何か、それを米澤さんは非常にうまく説明してくれています。



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2011年12月29日

Superdry 極度乾燥(しなさい)

アヌシー(仏サヴォワ地方)の街角でふと見つけた看板。中国発のバッタもんかと思いきや、ネットで調べてみるとロンドン発のブランドはないか。Twitter で看板の写真をアップすると、ロンドン在住のフォロワーの方々から情報が上がってきた。



ヨーロッパではかなり人気のあるブランドのようだ。Super Dry というロゴを使っているからか、日本への進出の予定はないそう(ビールの銘柄とかぶるからだろう)。「”極度乾燥”という漢字の固さと”しなさい”という平仮名のやわらかさの組み合わせが Cool 」なんだそうだ。ロンドンの天候を考えると「しなさい」という命令口調に説得力がある、という意見も。



「Superdry 極度乾燥(しなさい)」はイギリスの新興アパレルメーカーのスーパーグループ(SuperGroup)が展開。同社の創業は1985年。2003年にSuperdry ブランドを立ち上げて以来、急成長してきた。そして昨年3月、ロンドン証券取引所で IPO を果たした。11月には株価が上場時の3倍以上になり、昨年の IPO で最も成功した銘柄と言われる。実際、業績も好調で、2010年5〜10月期の売上高は前年同期比65%増の9030万ポンド(約117億円)を記録。英国内の店舗は同期間に14店増え55店となったが、欧州を超え米国、中東まで世界展開を急いでいる。

お店のサイト:http://www.superdry.com/
参照記事:世界狙う「極度乾燥」(日経ビジネスオンライン)



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タグ:極度乾燥
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2011年06月25日

See you soon, Carine! カリーヌ・ロワトフェルドが Paris Vogue を去る日

「カリーヌ・ロワトフェルドが Paris Vogue 誌の編集長を辞める」− 昨年12月、クリスマス前のにぎにぎしい時期に飛び込んできたヘッドラインに、目を疑いました。90周年記念の絢爛たる仮面舞踏会も成功させ、クリスマスには何をするのかと次の一手を待っていたというのに。

Carine-Roitfeld-01.png業界の人々だけでなく、カリーヌの身近で働いていたスタッフでさえも寝耳に水だったようです。発行元であるコンデナスト社がアナウンスする前にこのことを知っていたのは、リカルド・ティッシ、エディ・スリマン、アズディン・アライア、アルベール・エルバスといった親しい友人だけだったそうです。

辞職の理由について、インターネットではあれこれもっともらしい噂が流れています(ウィメンズラインを起ち上げる盟友トム・フォードともう一度タッグを組むため、最新号の内容がLVMHのトップの逆鱗にふれたせい、などなど)。しかし、どれも噂でしかないようです。カリーヌが最新インタビューで語っているように、「10年やった。もう十分。」というのが本当のところではないでしょうか。

痩せっぽち、ストレートヘアに、強い印象のアイメイク。唇と脚は基本裸のまま(女性版イギー・ポップと呼ばれたりもする)。そして口元にはいつも微笑み。スタッフを従え、彼女ならではの人目を引く着こなしで颯爽と現れるカリーヌは、一雑誌の編集長という立場を超えた存在でした。Tastemaker’s tastemaker と呼ばれ、何を着てくるかが常に話題となり、フラッシュを浴びていたあの人がショーのフロントロウに姿を見せなくなるなんて!

個人的には、カリーヌならではの誌面が見れなくなる事がとても残念です。大枚はたいて Paris Vogue を手に入れてきたのは、ここにしかない「自由」があったから。プロモーションにカタログめいた商品写真、シーン別着回しといったお役立ち情報にまみれた普通のファッション誌に食傷気味の身には、「私は私」を貫いて己の信じるクールネス、美しさを追求する Paris Vogue にはまさに解放区でした。ここまでやるか、という大胆な試みにドキドキさせられたものです。特に写真がすばらしかった。編集長の子供の名付け親でもあるマリオ・テスティーノを始め、有名写真家がこぎれいなファッション写真の枠をこえた作品をばんばん発表していました。

Paris Vogue Covers 1920-2009カリーヌの仕事の中で一番好きだったのが、ブルース・ウェーバーと組んで丸々一冊を作ったプロジェクト。このブログでもご紹介しましたが、プロンドのトップモデルと、黒い肌にあごひげを生やしたトランスベスタイトが、ミニのドレスを着て心底楽しげに笑っている表紙の写真は、まじりっけなしの Free Spirit そのものでした。世の話題になってやろうなんて姑息な計算高さとは無縁、「どう、いい感じでしょ?」という気持の素直な現れなのがありありで、とても気持がよかった。

雑誌での一連の大胆な仕事は、「自分はスタイリストである」というカリーヌの自意識のなせる技ではないかと思います。ハイティーンの頃モデルとしてファッション業界入りしてから、雑誌の編集にたずさわることはあっても、常にスタイリストとして仕事をしてきました。特に有名なのは、トム・フォードとともに、沈みかけていた老舗ブランド、グッチを再生させたこと。この大成功により、Paris Vogue のポストがオファーされたようですが、この時の仕事についてカリーヌはこう語っています。「トムは私を女の姿をした自分の片割れとして使った。デザインした服を、私ならどう着るか聞いてくるわけ。私は自分のことにかまけていればよかった。このシャツはどう着よう、どのバッグを選ぶ? ピアスをするならどんなタイプにする? そんなこと、がファッションの写真には大事なのね。シャツの袖をどうロールアップするか、どんな風にバッグを持つか、どうやって脚を組むか…そういった事がとても大きな違いを生むの。」編集長になっても、自分の雑誌のためのスタイリングをこなしてきたカリーヌにとって、ファッションとはつきつめたところ「素晴らしいもの、美しいものを、自分の感性に正直に装う楽しみ」なのかもしれません。
 
そんなスタンスを持つカリーヌに、Paris Vogue の編集長という肩書きはだんだん重たくなってきたのではないでしょうか。過去にもインタビューで、こう漏らしていました。「世界のファッションはちょっとばかり退屈になっているわね。お金、お金で、ショーに行くと、ハンドバッグをたくさん売りつけようとする空気を感じる。正直、私はハンドバッグが好きじゃない。ハンドバッグは持たないの。ハンドバッグを持った姿って、いいとは思わない。」ファッション雑誌の編集長なのに、そんなこと言っていいんですか!という発言ですが、今回の決断と全く無関係ではないように思います。(対極の存在と比べられてきたアメリカ・ヴォーグの編集長アナ・ウィンターとはそもそも、立ち位置が違う人なのです。世界中で120万部を売り上げる雑誌のトップという責任を負い、ハリウッドやセレブリティ、業界を巧みに仕切り話題と華やかな誌面を作り続けるウィンター女史と、スタイリストとしての自分にこだわり続けるカリーヌとを比べるのはお門ちがいというものでしょう。)
 
「ファッションとは、服のことじゃない。スタイルなの。」そんなモットーを掲げ、56年間の人生のほとんどをファッションの世界で生きてきたカリーヌ。編集長の職を辞したからといって、ファッションから離れることは決してないと信じています。片腕だったエマニュエル・アルトが後任に決まりましたが、任期が終わる1月末までの編集長カリーヌ・ロワトフェルドの仕事に触れてゆきたいと思います。




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2010年08月11日

“Living in a waking dream” ファッションモデル バチスト・ジャビコーニの出世街道

baptiste001.jpg「なんだか醒めない夢の中にいるみたいな感じ」とファッション雑誌『W』のインタビュアーにうち明けるのは、20歳の人気ファッションモデル、バチスト・ジャビコーニ。華やかな世界で今飛ぶ鳥を落とす勢いの人物が口にしそうな、よくある台詞と思われるかもしれません。しかし彼の来し方を見ると、それなりにリアリティのある言葉なのです。
 
3年前、バチストは、マルセイユにあるヘリコプターの組み立て工場で働いていました。コルシカ出身の父親は整備士というワーキングクラスの出で、学校は16才でドロップアウト。将来はおカネを貯めてピザのトラック屋台を買って商売してみたいなあ、とつつましい夢をもつごく普通のお兄ちゃん。
 
しかし、仕事の後筋トレにはげんでいたジムで声をかけられてから、平凡な日々を生きるはずだったバチストの人生は一変します。地元のプロカメラマンの紹介とポートフォリオを抱え、パリの一流モデルエージェンシーの戸をたたいたところ、採用。細かな仕事をこなしてゆくうち、イタリアの雑誌に掲載された写真が、『皇帝』カール・ラガーフェルドの目に留まり、即呼び出し。ラガーフェルドと対面したその日から、彼の人生はまた大きく変転します。
 
ワークアウトで鍛えた腹筋が目を引く細身のボディに、甘さの中に本のひとつまみ「毒」を孕んだマスクを持つ若者は、御大の創造力をいたく刺激したようです。ファッションフォトグラファーとして、自分が手がけるブランドの広告だけでなく、ファッション誌の依頼で撮り下ろすラガーフェルドは、ありとあらゆる機会にバチストを起用、写真を撮りまくりました。
 
baptiste002.jpg着ても脱いでも見応え十分なのに加え、年上の女に甘える若い“シェリ”にバービー人形をエスコートするボーイフレンド、フォークロアな衣装の似合う田舎のボーギャルソンといろいろなタイプの男になれるのが彼の強み。「与えられた役柄を見事に演じ、変幻自在に自分を変化させる稀な能力がある」というのが皇帝の評。思い描くイメージを形にしてくれるにとどまらず、その存在が新しいイメージを、ストーリーを喚起させてくれるようです。
 
ラガーフェルドにとってバチストがいかに特別であるかは、彼がシャネルのショーや広告、PR用ショートムービーに使われていることからも伺えます。男性向け商品のお取り扱いはごく少ないこのプランドで、男性モデルには商品を着てもらってアピールする役目はないわけで、ビジネス面で目に見えてプラスとなる効果はありません。にも関わらず、「女達の引き立て役」以上の使われ方をしています。例えば、フランス版ヴォーグ誌のシャネル特集の最初を飾る一枚として、ラガーフェルドが撮り下ろした写真。ピンヒールにシャネルジャケットの特徴を誇張したオーバーサイズのジャケット(マルタン・マルジェラのデザイン)だけを身にまとったバチストを撮影しています。時代を超えて受容され、たとえ素っ裸の美男が着たとしても、その独特のエレガンスは揺らぐ事はない―シャネルのデザインの影響力と偉大さを大胆に伝える写真ですが、一歩間違えればキワものに落ちるアイデアを形にすることに踏み切らせたのも、「この被写体だからできること」への期待と信頼があってこそといえます。
 
baptiste003.jpgラガーフェルドのクリエイターとしての欲望を燃え立たせるオトコ版ミューズとしてだけでなく、プライベートでも親しい間柄で、ラガーフェルドの近くに住み公の場でのツーショットもめずらしくなくなったバチスト。「皇帝のお気に入り」という立場は、他の有名フォトグラファーとの仕事も続々と呼び込み、これまで女性のファッションモデルが独占してきた「ファーストネームで親しまれる、誰もが知っているアイコン」になるのも時間の問題。モデルのキャリアを足がかりにしたステップアップも、望めば実現しそうです。「ピザの屋台なんてケチな事言わないで、ピザのフランチャイズを丸ごと手に入れてもおもしろいかもね」と昔のささやかな野望を振り返るバチストですが、彼の目下の野心は、俳優としてキャリアアップすることにあるとか。(ちなみに、彼はアラン・ドロンの映画のファンなんだそう)。
 
最近は、ラガーフェルドがプロデュースした“皇帝仕様”のコカコーラ・ライトのための広告写真で、“コカコーラを運ぶボーイさん“としてコミカルな面も披露しています。味のある俳優は数あれど、世界中でもてはやされる正統派の美男俳優がいないフランス映画界。バチストは、映画スターへの扉を開く事ができるでしょうか?

□コカコーラのための写真はこちらで見れます。

□動く姿はこんな感じ。写真でのイメージと違います。
http://www.youtube.com/watch?v=aWpIdy_GcgE





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2010年05月15日

I Dream You Love Me Still The Same A. マックイーンの死に思う

アレクサンダー・マックイーンの訃報から一ヶ月が経ちましたが、いまだに実感が湧きません。まだ40才。パンク以降の新しいイギリス発ファッションを世界中に認知させた立役者としたデザイナー、スコットランド系のルーツを大事にするワーキングクラスヒーロー(ロンドンのタクシードライバーの息子でもありました)として広く知られた彼の身に何が起こったのか。
 
Alexander Mcqueen: Genius of a Generation母を亡くしたばかりで、死を選んだ日は葬儀が執り行われる事になっていました。スター・デザイナーとして華やかな日々を生きる一方、マックイーンは普通の人である家族との絆を大事にする人だったようです。640,000 ポンドもするフラットに住みながら、下町にある実家に帰っては両親のためにお茶を入れ、クッキーをつまみくつろぐ時間も大事にする。そんなマックイーンにとって、家族の死は深い悲しみであったのは想像に難くありませんが、母の喪失は特別の意味があったようです。
 
社会科の教師をしながら6人の子を育て上げたマックイーンの母、ジョイスは、この「ちょっと変わった」末っ子をずっと支えてきました。16才で学校をドロップアウト。伝統的なイギリス紳士のスタイルを守り続けてきた仕立街、サヴィルロウで仕立職人見習いとして働き始め、ロイヤルファミリーのスーツを手がけるまでに腕を磨いた後、多くの著名デザイナーの出身校として有名な芸術大学、セント・マーティンズ・カレッジで初めて正規の教育を受ける — 他のファッションデザイナーと比べても異色の経歴です。マックイーン自ら、自分のことを”一家のPink Sheep”と称していたそうですが、人と違う道を行く息子を、母はずっと応援してきました。最初のコレクションでは材料の購入資金を援助するだけでなく、針を持ってビーズの飾りを作るのを手伝い、成功した後もコレクションのバックステージで息子を気遣っていたそうです。ゲイである事をカミングアウトしても、最終的に受け入れてくれました。新聞の企画で母からインタビューを受けた際、面と向かって「(あなたを)誇りに思う」と言い切ったマックイーンにとって、その死は計り知れない悲嘆をもたらしたのでしょう。
 
Alexander McQueen: Savage Beauty (Metropolitan Museum of Art)この母とは違うやり方で理解し、支えてくれた人を、マックイーンは3年前に失っています。イギリス・ファッション界の名物スタイリスト/エディター、イザベラ・ブロウ(→)。マックイーンの卒業制作コレクションを、偶然見たのが事の始まりでした。表面のキラキラにまどわされず、真の輝きを秘めた才能の原石を掘り出すことで有名だったブロウのアンテナが反応します。「空いている席がなく、私は階段に腰を下ろしてショーを眺めていた。そして突然思った。素晴らしい。今見せられた作品をみんな手元に置いておきたい。」ブロウは結局、このコレクションの作品全部を買い上げることにします。お値段は、一着300ポンド。デザイナーの卵にしては強気な値段です。さすがにまとめて支払う訳にゆかず、毎月1着ずつ購入することになりました。マックイーンは毎回作品をゴミ袋(!)に入れて持参し、ブロウが代金を銀行のキャッシングコーナーで引き出すのに付き合ったそうです。
 
きっぱりしたボブの黒髪に、発想の限界に挑戦する斬新な帽子(自ら発掘した帽子デザイナー、フィリップ・トレーシーの手によるもの)、流行や虚栄と一線を画した着こなしがトレードマークのエキセントリックな才女は、デザイナーとして一歩を踏み出したマックイーンを励まし、業界の泳ぎ方を教えました。ファーストネームの“リー”ではなくミドルネームの“アレクサンダー”を名乗るよう進言したのもブロウでした。また、押し掛けPRとして、独自の人脈を駆使しマックイーンの売り出しに尽力します。ジバンシーのデザイナーに就任したのも、グッチ・グループ傘下にマックイーンのブランドが入ったのも、ブロウの力添えがあったと言われています。
 
Alexander McQueen: Evolution強い個性と挑み続ける姿勢はもちろん、笑いのツボから繊細さまで似通ったところの多かった二人は、20才ほどの年の差や階級の違い(ブロウは由緒正しい貴族の出)を乗り越え、友情を超えた強い絆で結ばれていました。マックイーンの両親ともお茶を楽しむ間柄であったようです。しかし、ファッションビジネスの世界は、二人の関係に影を落とします。一般の目には奇抜にしか見えないものにも美を見いだし、世間のファッションの許容度を変えてきたブロウの心意気は、利益を上げていかねばならないビジネスの世界にはしっくりこず、骨を折ったにもかかわらず、「デザイナー」マックイーンと仕事をする機会はついに与えられませんでした。(オードリー・ヘップバーンのお召し物として名を馳せたジバンシーのデザイナーになることが決まった時、ブロウは新生ジバンシーの顔として、イギリスのモデル、オナー・フレーザー(↑)を起用することを考えていたそうです。しかしこの興味深いプランも実現しませんでした。)  
 
名声は得ても実を手に出来ないもどかしさ、失意を味わい続けたブロウは心を病みます。プライベートでの悩みとガン発病が追い打ちをかけ、追いつめられた彼女は、ある日致死量を超える除草剤を飲んで倒れているところを発見されます。徐々に臓器の機能を弱らせてゆく毒のせいで、緩慢な死への時間を耐えなければなりませんでした。お気に入りのマックイーンのドレスを着せられて、ブロウは旅立ちます。
 
マックイーンは、霊媒師をやとってあの世のブロウとコンタクトを試みていたことがあるそうです。ブロウは上機嫌でした。「こっちではみんな元気でやってるわ。でも、ママは私の帽子と靴がどれも気に入らないみたいで、借りようとしないのよね。」今頃、二人で問題解決のために知恵を絞っているのでしょうか。R.I.P.





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2010年01月26日

Good work, kid! ニューヨーク ファッションシーンを見守る伝説のストリートフォトグラファー

topics_cunningham_395.jpg今マンハッタンでは何が流行っている?答えを知りたければ、まずウェブ版ニューヨーク・タイムズで名物コラム、”On The Street”をチェックして。タイトル通り、街を行く人々を写したショットが満載。どのファッション雑誌より速くて信頼ができる、“もぎたて”ファッション通信なのです。
 
ファッション雑誌でしょっちゅうやってる「街角ファッションスナップ」みたいなもんでしょ、と早合点してはいけません!足掛け20年連載を続けてきたフォトグラファー、ビル・カニングハムは、業界のエディターのそれとは違うところを見ています。
 
まず、セレクトのポイントが違う。ビルさんにとって関心があるのは純粋に「服とその着こなし」のみ。上から下までばっちり決まっている必要はなく、さりげない工夫、閃きが大事。着ている「人」は興味の対象外。何気に“完璧な着こなしの理想の彼女”をピックしている日本のおしゃれスナップとは、ここで一線を画しています。一見地味にみえるけれど洗練された着こなしに惹かれ路上で激写、後で編集者に見せたら被写体は伝説の女優、グレタ・ガルボだった、という逸話もあるビルさん。徹底しているのです。
 
アイテム単独の魅力につられないのもビルさんのポリシー。ファッションメディアに足を踏み入れて約半世紀、社交界の記事も手がけるビルさんは、そんじょそこらの業界人なぞ足下にも及ばない、歩くファッション辞典のような御仁。いい物をさんざん見てきた審美眼はもちろんのこと、知識も豊富なのですが、特定のアイテムを取り上げ良さを褒め上げることはありません。街角おしゃれスナップの脚注がおおむね被写体の持ち物、服の身元調査に終止しているのとは対照的です。ファッション・アイテムとは「道具」であって、それを使いこなし、着こなしてこそ生きるもの。ハイファッションは素敵だけれど、それにひれ伏しちゃあおしまい、なのです。
 
そして、何よりも、ファッションに対するスタンスが違う。スナップ特集の背後には、読者の代表として、また業界人として、少しでもお洒落を盗み活用しようという血眼な眼差しが感じられます。あくなき追求心を否定しませんが、ビルさんはそういった生々しい欲とは無縁です。街を行く人々のファッションは、刻々と変わるニューヨークという街の表情そのもの。現れては消える流行は、生まれては消える街のスラングのようなもの。人々の装いを通じて、時ににぎやかに、時に静かに語りかける街を見ることこそが、ビルさんにとってこのうえない喜びのようです。
 
ビルさん自身は華やかなマンハッタンの業界人と一線を画した、仙人のような生活を送っています。カーネギーホールになぜか奇跡的に残っている、バス・キッチン共同の狭いアパートに一人暮らし。牛乳缶でこしらえた手製のベッドで眠り、移動手段は基本自転車!今時制服屋さんでも売ってるの?といぶかしんでしまうようなクラシカルな事務職系スモックを着て街を走り回るビルさんの辞書に、「虚飾」の文字はありません。

ビルさんのコラムに「登場」する人には3つのタイプがあります。US版ヴォーグの編集長アナ・ウィンターを初めとする、いわゆるセレブの方々。ファッションリーダーとして、一歩先行くことを意識している人達にとって、ビルさんに選ばれないことは由々しき事態なのだとか。(もっとも、テレビのない生活を送っているビルさんは、有名人と気づかずにシャッターを切っていることもたびたびですが。)

marilyn2-full.jpg

次のタイプは、流行に流されず我が道をゆく本物のお洒落さん。コラムの常連である重役秘書嬢は、毎回チャレンジングな着こなしで、ビルさんを驚喜させてきました。4つ袖があるコートをお召しだったり、額縁をネックレス代わりに首にかけていたり。突飛だけれど、その人らしく見事に決まっている。ビルさんにとっては、立派な芸術家なのです。
 
そしてもっとも多いのが、一般のみなさん。ファッション業界とも縁がなく、マンハッタンで働き生活し、自分がお洒落な人間だとはつゆ思っていない人々。しかし、そんな彼・彼女が日常の一部としてクローゼットから選び身にまとっているものにこそ、その時々の人々の気分が反映され、思いがけなく共鳴し、トレンドになる。手持ちのアイテムで、その日の気分にびったりくる「ちょっといい感じ」な姿をつくる、誰もがやってる朝の儀式から、知らず知らずのうちにあたらしいものが生まれてくる。ストリートは、思いがけないものや「流行の発露」を見いだせる、スリリングな場所なのです。
 
ティーンエイジャーのころから街行く人を眺めるのが趣味だったビルさん。ファッションの源としてのストリートに目が向くようになったのは、60年代に見たフラワーチルドレンのデモのおかげだとか。ファッションショーの会場からでてきた時に目撃したデモ隊の着こなしは、自由で、色彩に溢れ、不思議な調和に満ちていて、さっき取材したばかりのハイファッションの印象が消し飛んでしまうほどのインパクトだったそうです。「僕の目は美しいもの、すばらしいものしか捉えない。こんな格好ぜんせんおしゃれじゃないですよ、って被写体になってくれる人は謙遜するけど、気がついていないだけ。本当に美しい物はあちらこちらにあるんだよ。」
 
運が良ければ、マンハッタンで取材中のビルさんに会えるかもしれません。高級百貨店バーグドルフ・グッドマンの近くの歩道で、青い上っ張りにボロボロのニコンをぶら下げたおじいさんがいたら、それがビルさんです。めでたく被写体になれるかどうかはわかりませんが、この伝説の人物に是非挨拶してみてください。

ニューヨークの初冬のファッションについて語るビルさん

パリからの番外編。参考になる方も多いかと。

いかにも好々爺な、ビルさんの語りがたまりません。話の中身は結構鋭くて、考現学が好きな方にも楽しんで頂けるとおもいます。  

(「ニューヨーカー」2009年3月号より)




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2009年09月08日

マリーの3つの名前 -ある人生-

bambi01.jpg写真の人物をまず見てください。上品で、落ち着いた、知的なたたずまい。茶目っ気も感じるまなざしと、微笑み。ブロンドの髪にマッチした赤いニット姿も小粋なその人が、数十年にわたって国語教育に携わり、業績を讃える賞を授与されたベテラン教師であると聞けば、なるほどと思われるでしょう。その人、マリー・ピエール・プリュヴォーは、今に至るまで更に2つの名前を名乗り生きてきました。

1つは、生まれた時に与えられた名前、ジャン・ピエール・プリュヴォー。アルジェリアに暮らす中流フランス人一家に生まれ、自分はfille であることに何ら疑問をもたなかった「彼女」は、大きくなるにつれて自分の認識と世間の見方が違う事に苦しめられます。お気に入りのドレスを捨てられ、お人形遊びを禁じられたのは始まりに過ぎませんでした。他の男の子達と立ち振る舞いが違うとご近所の噂になり、両親を困惑させ、クラスメイトからはバカにされる。快活な子供は、内向的で目立たないガリ勉少年に成長します。
 
16才の時エンジニアだった父親が病で亡くなり、学校も退学。母一人子一人の家計を助けるため、カフェのボーイとして働き始めた頃、運命を変える出会いがありました。近くのカジノに、パリのキャバレー、カルーセル・ド・パリの一座がやってきたのです。洗練されたレビューとお色気が売り物の一座最大の特色は、出演する美女達が全員hommeであること。ジャン・ピエールは衝撃を受けます。「男の肉体」という牢に生涯閉じ込められて生きてゆくのだとあきらめていたその時に、違う生き方もあることを知ったのです。まさに暗闇のなかの一筋の光、でした。意を決して楽屋を訪ねたジャン・ピエールは、一座のメンバーの助けを借り「変身」します。鏡に映っていたのは、華奢なブロンドの若い娘—ショーガール、バンビとしての人生のスタートでした。
 
18才になるのをまって、着の身着のまま一人パリへやってきた「彼女」は、同じ趣向のキャバレー、マダム・アルチュールでクリスマスの夜に初舞台を踏みます。何もかもが初めてのことだらけ、生活も楽ではありませんでしたが、一座のスターであるブロンドの「美女」、コクシネルを始め仲間達にかわいがられ、開放感に満ちた日々でもありました。「小学校にあがるころから、同級生の男の子達から浮き上がらないように髪を短くしなさい、男らしくしなさいと親に言われ、従ってきたけれど、自分が女の子であることを封印したりはしなかった。いつも鏡を見て、女の子である本当の自分の姿をイメージしていたわ。だから、自分らしく装い、振る舞える喜びは格別だったわね。ああしたいこうしたいとこれまで胸の中で思い描いていた自分のイメージを、実現する事ができるようになったのだから。」
 
bambi02.jpgしかし大都会パリでも、世間との戦いは続きました。「深夜に舞台がはねた後、近所のレストランへ朝ご飯を食べにいくのだけれど、化粧は落とさなくとも必ずパンツをはいて出かけたわね。警察の手入れがしょっちゅうあったから。おかしなもので、どんな厚化粧でも、“社会の窓”がある服さえ着ていれば「男」とみなされて、おとがめは受けなかったの。警察の風変わりな基準をしらないトランスジェンダーの「彼」たちは、逆に”社会の窓“のある男仕立てのパンツをはいているという理由から、風紀良俗を乱したかどで逮捕されたわ。」
 
見せ物や笑いの要素はほとんどなく、着飾った紳士淑女の観客の前で本気の歌と踊りを要求されるステージで、パンビはその美貌とコケティッシュな魅力をたっぷり披露し、やがてスターの仲間入りをします。専属バンドのピアニストはセルジュ・ゲンズブールのパパ。後を引き継いだ息子の曲を歌う事もあったとか。
 
先輩格のコクシネルにならって、時代に先駆け機能の上でも、戸籍の上でもFemmeになったのもこのころ。ヘテロセクシャルの恋人がいたということもありましたが、自分の意志で決めた、大きな選択でした。
 
そして、バンビは次なる人生へ向けて一歩を踏み出します。断念した勉強をしてみたくなったのです。ステージをこなす傍ら学業を再開した彼女は、やがてソルボンヌ大学に入学します。プルーストの文学を研究し、学位と教職免許を取得。ついにはステージを去り、教職につきます。ヒッピースタイルできめた、マリー・ピエール・プリュヴォー先生の誕生でした。
 
教鞭を取っていた間はバンビとして生きた時代を封印してきましたが、自伝の出版を機に過去をオープンにしたマリー。テレビをはじめマスコミの取材に応じていますが、テレビの映像や写真で見る彼女の美しさはまさに驚き。インタヴューしたヴォーグ誌の記者が「黄金時代のハリウッド映画の女優のようにグラマラス」と評していましたが、そのたたずまい、物腰、話し方、どれをとっても実に洗練されていて、かくありたしと思う女性らしい魅力に溢れています。生まれたときから自分と世界との齟齬感と向き合い、偽らない生を生きるために信念を貫いたマリーに与えられた、恩寵なのかもしれません。

バンビとしてのステージを見たい方はこちらをどうぞ。  

ご本人のウェブサイトはこちらです。






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2009年08月15日

AUDREY TOTOU × JEAN-PIERRE JEUNET CHANEL NO.5



新しいシャネルのNO.5のプロモーション・フィルムでオドレー・トトゥーとジャン=ピエール・ジュネ監督という『アメリ』のタッグが実現した。トトゥを起用した2分半の短編プロモーション・フィルムは、パリからイスタンブールへ向かうオリエント急行が舞台。Passeport, SVP!というちょっとキモい検札のおじさんとか、随所にジュネっぽさが出ている。シャネルは映画界とのコラボレーションに熱心で、「N゚5」については過去にニコール・キッドマン×バズ・ラーマン監督の『ムーラン・ルージュ』組、「ココ マドモワゼル」についてはキーラ・ナイトレイ×ジョー・ライト監督の『つぐない』組を起用し、注目を集めてきた。

メイキング・フィルム
Chanel No.5 Nicole kidman
Chanel Coco Mademoiselle Keira Knightley



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2009年08月13日

Mature beautyの真実 ―シンディ・シャーマンの新作に思うこと―

Untitled Film Stillsファッション雑誌の年齢別化にいっそう拍車がかかる昨今。少し前ではあからさまにターゲットにされていなかった年齢層まで、「いけてますよ!どんどんいきましょう!」と鼓舞されるようになりました。目につくようになったのが、「女性は年を重ねるほどに美しくなる」という趣旨の記事。お手本となる国内外の方々のカバー・ストーリーで、過去と現在をライフスタイル込みで紹介するもの。でも、どうにも違和感を感じてしまうのです。褒めそやす「美しさ」の焦点が、お若い方を扱った時のそれと違う。その人の仕事やライフストーリー、暮らし、といった付属の部分も込みでの「魅力ある人」に変換されてしまうんですね。アピールしやすくわかりやすい”mature beauty“の提示方法なんでしょうけど、なんだかごまかされているような気がする。小じわも込みで賞賛されているのは、ジェーン・バーキンくらいではございません?どうも腑に落ちない。ぼんやりと前々から思っていた事を、形にしてくれた人がいました。シンディ・シャーマンです。
 
整っているけれど個性が強すぎない容姿を逆手に取って、架空のB級映画の女優や男性誌のセンターフォールドの「彼女」達、名画に限りなく似ている架空の絵の登場人物とカメレオンのように姿を変えた自分を撮影、独特の写真作品を作り続けているシャーマン。今回選んだテーマは、Powerを持った中年女性。爵位のある女性から石油成金の妻、実業家に社交界の住人、有名知識人。いずれも、階級、富、名声、権力といった何かを持っているという設定。雑誌がmature beautyの見本としたくなるような「魅力的」と称される人々。身なりもそれなりに立派で、指にはゴツい石の指輪が光っていたり、趣味の良し悪しは別として普通にドレスをお召しだったり。お庭やお屋敷といった、それぞれのステイタスを象徴する場所を背景に撮られた、2メートル近い巨大サイズのポートレートの彼女たちは、カメラをまっすぐ見つめ返し、自信に溢れています。
 
しかし、その顔は限界いっぱいまでメイクしていて、それでも隠しきれないシワがしっかりある。二の腕はやっぱりたるんでいる。そして、それはヴィジュアル的に、まことに残念ながら、魅力的とはいえない。どんなに美辞麗句で讃えられても、被写体になれば写し込まれてしまうそんな現実を、シャーマンはしっかり提示しています。雑誌に掲載する写真なら、ソフトフォーカスだ修正だとオミットしてしまう部分を、Powerに対する風刺でも、セレブ批判でもなんでもなく、見たままの姿としてそのままにすることで、シャーマンは彼女たちのなまなましさ、むき身の部分に迫っています。
 
人生の勝者として羨まれる生活をしていても、平等にやってくる老いに向き合わなければならない。他の事はなんとでもなるのに、鏡の中の変わりゆく自分をなんともできないもどかしさ、あせり、悪あがき・・・。勝ち取ったPowerゆえに、持たない人以上に美しく魅力的であることを強要され、無意識に「素」でいることを禁じている彼女達は、シャーマンによって美しくない部分を暴露されたことで、解放されたかのようです。みんなじたばたしているんじゃない?彼女達の「醜悪さ」に向けられた、同年代のシャーマンの視線には、これまでにない「共感」すら感じます。
 
この作品には、もう一つ趣向があります。Powerの根拠になっていたポートレートの背景は、実は、CGの「書割り」なのです。ショッピングモールの写真スタジオで撮る、おちゃらけポートレートで使われる類いの、ペラペラの虚構。つまり、シャーマンのマダム達のPowerは、クリック一つで消滅するもろいものなのです。彼女達は決して遠い存在ではない、背景が消えれば、彼女達は「あなた」になることを、シャーマンは暗に示しているようです。

シンディ・シャーマンの最新作はここで見る事ができます。
シンディ・シャーマンの過去の作品はここで見る事ができます。


The Complete Untitled Film Stills: He Complete Untitled Film Stills
Cindy Sherman
Museum of Modern Art
売り上げランキング: 26735
おすすめ度の平均: 5.0
5 映画よりも美しい





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2009年08月05日

「マリー・アントワネット」あるいは「小悪魔AGEHA」(2)

2年くらい前のことだが、金髪を上に盛るように結い上げ、お姫様のようなピンクのドレスを着て授業に出てくる学生さんがいて、「一体これは何だろう」とずっと思っていた。その後、彼女と話す機会があり、ジーザス・ディアマンテ Jesus Diamante というブランドを知った。

マリー・アントワネット (初回生産限定版) [DVD]ソフィア・コッポラの映画「マリー・アントワネット」は想像もしなかった影響を日本に及ぼした。影響というよりは映画そのものが具体化され、物質化されることになる。それが姫系と呼ばれるファッションであり、それを引っ張るのがジーザス・ディマンテである。ブランドが繰り出すラインナップの中でも、マリー・アントワネットの名を冠したワンピース、「アントワーヌワンピ」と「マリーワンピ」は発表されて2年以上が経つが、根強い人気のアイテムである。アントワーヌワンピは映画の中でマリー・アントワネットがヴェルサイユに入るときに着ていた水色(=サックス、フランス王家の色)のドレスがモデルになっている。

マリー・アントワネットのサブカル化はすでに日本で起こっている。誰もが知っている1970年代のカルト・マンガ「ベルサイユの薔薇」である。池田理代子の原作は、1974年に宝塚歌劇団によってミュージカルになり、この女性だけの歌劇団の最も大きな成功となった。宝塚歌劇団は「ベルサイユの薔薇」を2000回も上演し、これまでに400万人以上の日本女性たちが喝采を送った。

一方、映画「マリー・アントワネット」は悲劇の王妃の物語よりも、ドレスや靴やお菓子などのモノにスポットを当て、それを匂い立つ生モノのように映し出した。紙の上の線によって描かれるマンガの記号的な世界とは対照的である。欲望の形も大きく異なっている。それは悲劇の物語の主人公にロマンティックに同一化するのではない。あくまでモノの「かわいさ」への共感であり、最終的にはそれを手に入れ、身につけることにつながっていく。

映画のようにキルスティン・ダンストが代表してマリー・アントワネットになり、それをみんなが鑑賞するという形式は、特権者が代表するという近代のシステムである。そのシステムの中では物語という表象を通して背後にある理念を理解することが重要だった。しかし、姫系ファションにおいては誰もが即物的にマリー・アントワネットになる。共和主義者たちはマリーを打倒すべき象徴としてギロチンにかけたが、マリーになりたいと望むすべての女性をアントワネット化するほうがずっとラディカルだ。それを可能にしたのが個人の欲望をピンポイントで満たしてくれる日本の洗練された消費主義である。



ソフィア・コッポラは、18世紀のフランスの宮廷と80年代の英国のポップチューンを組み合わせているが、それらのあいだには何の関係もない。ストーリーの展開の代わりにコラージュのようにモノを並べ立てる。それだけではシーンが動かないので、80年代のポップチューンを使って時間軸を作り、リズムを与える。私たちの注意はスクリーンの背後にあるものに向かわない。ただモノが全面化し、つねにモノの現前につなぎとめられている。ピンクやサックスの色に、魅惑的なフォルムやラインに、想像の中で感じる素材の質感、匂いや味に。画面の中で自足してしまうから、映画ではなく、ビデオクリップにしか見えないのだ。そういう映画から姫系ファッションはさらにモノだけを純粋に切り出している。

このファションは男性へのアピールでもないし、「ただかわいいからとしか言いようがない」と先の彼女も言っていたが、姫系ファッションの豪奢さは、外部の人間には理解しにくいものだろう。そのあいだには絶対的な壁がある。東宏紀の言葉を借りれば、それは小さな物語ということになる。小説や映画やアニメやゲームといった物語コンテンツは社会全体で共有可能なリアリティーを表現する媒体として機能しておらず、ただ消費者の感情や感覚を的確に刺激する「小さな物語」として、個別に消費されている。姫系ファッションの「かわいい」は彼女たちの感覚をピンポイントで射止めているのであり、オタクの「萌え」やケータイ小説の「泣ける」と、同じように理解できるのだろう。

ちょっと古い記事だが、今年の2月、アメリカの「タイム誌」に姫系ファッションのことが紹介されていた。タイトルは「落ち目の経済の中で着飾るお姫様たち」。その一部を適当に訳出してみた。このシーンの概観を知るには良い記事だ。


小悪魔 ageha (アゲハ) 2009年 05月号 [雑誌]東京の原宿の中心にある明治通りを歩いている3人の少女たちが、かわいい高い声でおしゃべりしている。ときどき、それはくすくす笑いになる。彼女たちは東京にある若者ファションの聖地でショッピングを楽しんでいる10代のグループで、18世紀のプリンセス・スタイルをまとったマンガのヒロインのような服とアクセサリーを身につけている。

「お父さんが私に言ったわ。一体どうしてしまったんだ?って」ワタナベ・マユカは笑いながら言った。彼女は17歳の高校生で、大きなリボンと3つのピンクの薔薇のついたヘアバンドをしている。彼女の友だちの、タカハシミキは18歳。彼女のファションはシンデレラからインスピレーションを受けている。「みんなわたしのことを見るわ。ときどき指さしたりする。一度電車で、小さな子供が私を見て、ほら、妖精がいるよ!と叫んだわ。ちょっとびっくりしたけど、気にしなかった。だって私は着たいものを着ているだけだから」。

茨城県の北にある日立から来ている21歳のウェートレス、ナガミネ・サナエは友だちと一緒にジーザス・ディアマンテへの巡礼に行くために電車に2時間乗らなければならない。ジーザス・ディアマンテは姫系ファションをプロモートする先端のブランドのひとつで、フリルのついたパステルカラーのドレスと巻き毛のヘアスタイルで知られている。パートタイムの仕事で稼いだお金で、少女たちはジーザス・ディアマンテのお店に向かう。「私はJDのデザインが好き。私をパワーアップしてくれるから」

jd001.jpg姫系ファションはアメリカの映画監督、ソフィア・コッポラの「マリー・アントワネット」にインスピレーションを受けたようだ。それはルイ16世の退廃的な宮廷生活を斬新に解釈している。若い日本の女性たちは18世紀の貴族たちの服装にいっせいに飛びつき、それは一時的な流行からひとつのムーブメントにまで成長した。そのファション・リーダーは歌手の浜崎あゆみである。また姫系ファッションは35万部を売る独自の雑誌「小悪魔ageha」を擁している。ソフィア・コッポラの映画がひとつの波を作ったとすれば、ジーザス・ディアマンテ Jesus Diamante はそれに乗る準備ができていた。ジーザス・ディアマンテは2001年に設立され、最初はフランスの女優、ブリジッド・バルドーを継承した豪奢な路線(この時期は上品な令嬢路線。バルドーが写真集で着ていたワンピをモデルにしたBBワンピというのがあった)だったのが、「マリー・アントワネット」にインパクトを受け、「マリーワンピ」(写真)のような商品を急いで導入したのだった。胸の大きなリボンを強調したドレス、ファーの襟と袖のついたシンデレラ・コートもそうである。

イマダ・サトシ(どこかの大学の先生)は姫系ファッションは満足のいかない日常生活に対する反応だという。女の子たちはヴァーチャルと現実世界のボーダーを取り去っているのだと。彼女たちは別の自己表現の形を望み、もっと意味のある生き方を探している。命運の尽きたヨーロッパの貴族のファションを通して生きる意味を探すことは、ビジネスによって動いている現代の日本文化に対する抗議のひとつの形なのかもしれない。

しかし、それは確実にジーザス・ディアマンテをしこたま儲けさせている。現在、会社は4つの店を経営し、2007年の半期で14億円を稼ぎ出している。ドレスは1着5万から6万円で、コートに至っては15万円に跳ね上がる。平均的な客はまるでお姫様のように1ヶ月に10万円使う。中には40万円使う客もいる。客の大半は10代から20代半ばまでだが、30代、40代の客もいる。

カスタマー・ロイヤルティー(「○○を買うなら××」と決めている顧客が持つ心理的状態)は、カルト化しているファション・ムーブメントにおいて簡単に手に入る。会社は販売員に店舗とウェブ上のモデルになることを求め、その結果、販売員にファンがつくことになった。販売員の中で最も人気があるのはミゾエ・ケイコ、24歳。新宿店の従業員で陶製の人形のような完璧なルックスだ。「みんな私のことをプリンセス・ケイコと呼ぶわ。そう呼ばれるのは好きじゃないし、どうしていいかわからないけど、みんなそういうふうに見てくれるなら、私は自分の役割を果たさなきゃと思うの」。彼女は「小悪魔ageha」のレギュラー・モデルでもあり、ときどきテレビにも出演する。「毎日私は女の子であることをとても楽しんでいるわ。私は偶然プリンセスになった普通の女の子にすぎないけど、世界は私の思い通り。私は最もラッキーな女の子」。そう言う彼女はフリルのついたピンクのドレスを着て、パーフェクトなカーリーヘアに大きな花のアクセサリーをつけている。「私はいつもプリンセス・ファションを楽しみたいし、歳をとってもピンクを着るわ」

「小さな女の子はみんなプリンセスが好き。どんな女の子も一度はプリンセスの真似をしたし、ピンクやフリルが好きだったことがあります」。ジーザス・ディアマンテのデザイナーのチノミ・ユリは言う。「買ってもらったフリルのついたドレスを着たとき、私はとても幸せでした。それを着れるのは特別な機会だけでしたが、その興奮を覚えている大人たちはきっといます。私は彼女たちに私たちのファションを着ることでそれを思い出して欲しいのです」

プリンセス・ハウスの社長、ホソミ・タカコは彼女の顧客たちに「天蓋つきのベッドでハンサムな王子様のキスで目覚めることはすべての女の子の夢です」と付け加えるが、彼女の顧客たちは18世紀のヨーロッパの宮廷を真似て彼らの生活空間を作り変えたがっている。

経済が沈滞した日本において、花嫁に貴族の生活を提供できる王子様は絶滅危惧種である。しかし、マリー・アントワネットの取り巻きのように、姫系の女の子たちはあたかもバブル経済の中に生きているように消費を続けている。


Princesses Preen in a Pauper Economy
By Michiko Toyama Tuesday, Feb. 03, 2009
Time World


「命運の尽きたヨーロッパの貴族のファションを通して生きる意味を探すことは、ビジネスによって動いている現代の日本文化に対する抗議のひとつの形なのかもしれない」と、誰かが姫系ファッションを評しているが、どこかで雨宮カリンが自分のファッション(雨宮の場合はゴスロリ)はオジサンたちをひかせるための、オジサンたちから身を守るための戦闘服と言っていた。確かに姫系ファッションは日本のビジネスと日本的組織を体現するオジサンたちとは最も相容れない、「水と油」的なものである。彼らはオタク系文化にはそれなりに馴染みがあるだろうし、ケータイ小説も小説の一種として理解するかもしれないが、姫系ファッションには完全に跳ね返されるだろう。

「マリー・アントワネット」あるいは「小悪魔AGEHA」(1)



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2009年08月01日

「マリー・アントワネット」あるいは「小悪魔ageha」(1)

マリー・アントワネット (通常版) [DVD]オープニングから18世紀の宮廷の風景を80年代ニューウェーブ(Natural's Not In It, by Gang Of Four)が切り裂くという離れ業。花火のついた大きなケーキが現れ、Happy Birthday! と声がかかる誕生パーティのシーンの背後でニュー・オーダーの Ceremony が流れる(あの独特なベースライン!)。仮面舞踏会のシーンではバンシーズの「香港庭園」が、18世紀の現場で流れているような錯覚を抱かせ、舞踏会もディスコのようなノリだ。これが英語劇であるから違和感がないのだろう。フランスの18世紀とイギリスの80年代が重ね合わさり、私のような80年世代は二重のめまいに襲われる。

この映画は2006年のカンヌ映画祭で「ダヴィンチ・コード」とともに話題になったが、上映中に居眠りする人が続出するほど評判が悪かった。これを18世紀の史実を扱った映画として見るからおもしろくないのだ。ソフィア・コッポラの「マリー・アントワネット」は二重のめまいどころか、いろんな既視感にとらわれる映画である。

18世紀に起こった歴史上の残酷な出来事も、フランス式庭園の真髄であるヴェルサイユの幾何学的なラインも、すべては素材であり、ソフィア・コッポラにとっては書き換えるべきテキストなのだ。ひとコマひとコマがグラビア誌やファション誌を見ているようだし、そのままワンシーンを切り取ってファッションショーやCMやビデオクリップにも使えそうなアイデアでいっぱいだ。

何よりも構図がキレイなのである。それは淡々と知覚に訴えてかけてくる。普通の映画を見るときとは違う回路が動き出すのがわかる。その知覚への静かな刺激の積み重ねが一種のスリルにまで高められていく。それだけが観客の視線を引っ張り続ける映画なんてかつてあっただろうか。映画は基本的に物量作戦であるが、モノは背景を作っているのではなく、モノが映画そのものを作っている。

キルスティン・ダンストはドイツ系の血を引き、それがアントワネットに適役だという理由になったようだが、彼女はオーストラリアのハプスブルグ家というより、アメリカの大草原の小さな家からやってきたように見える。そして農民ごっこのシーンはプチ・トリアノンにアメリカの草原が出現する。スウェーデンの伯爵との一夜も、何だかアメリカの青春映画を見ているようだ。お父さんのフランシスの「アメリカン・グラフィティ」ほど荒んでもいないし、ソフィアの出世作「ヴァージン・スーサイズ」ほど謎めいてはいないが、後者のテイストはマリーのキャラの中に引き継がれている。ソフィア・コッポラはインタビューで「彼女が母親のマリア・テレジアに書いた手紙は面白かった。その文面を読むと、まさに勉強嫌いで生意気なティーンエイジャー。皆と同じでしょ」と答えている。つまり、これはティーンエイジャーの物語なのだ。際立った演技をするわけではないが、キルスティンは一瞬の表情によってそれを物語っている。そこには現代(=いま)が忍び込んでいる。

宮廷のバカバカしい無意味なしきたりに向けるマリーの軽蔑のまなざし(This is ridiculous!)。それは日本の組織社会をかさにきて威張り散らしたり、説教したりするオヤジたちを前にしたときの視線と酷似している。またときには朝1時限目に必ず遅刻してくる寝起きのつらい女子学生と同じ表情を見せる。パーティーが終わり、みんなが帰ったあとの、人のいない部屋。食べ残したお菓子、飲み残しのグラス。その上に漂う喪失感。徹夜で遊んで、夜を明かしたときの朝の光景。眠いのに気分はハイで、みんなで夜明けを見て、キレイだねーとか言って、別れて、始発の電車に乗って帰るみたいな。でも、そこは18世紀のヴェルサイユなのだ。

かつて文学が担っていた領域がどのように他のジャンルに再配分されているのかというテーマ(講義)の中で、この映画の一部を女子大の学生たちと見たが、私なんかより、ガーリーな当事者たちの方が、この映画に対するレセプターを持っている。複雑な物語や揺れ動く心理状態を読み解き、普遍的なテーマを読み取る、そういう文学的な習慣の代わりに、この映画はひたすら即物的で感覚的であることを求める。ひとつの洗練を極めた特殊なレセプターを希求している。それを持ってない、あなたたちにはわからないでしょ、とソフィア・コッポラは開き直っているのだ。

ドレスや靴やお菓子が次から次へと現れ、泡立つシャンパンがグラスからあふれる。食欲と物欲は、ガーリーな感受性の中で「甘さ」と「かわいさ」への志向として磨き上げられる。「かわいい kawaii」という言葉がフランス語に直接取り入れられているように、始まりは日本の若い女性たちだ。この映画では淡いブルー(=サックス)のドレスもピンクのそれと好対照を成していて印象的だが、コッポラによるとマリーがヴェルサイユにやってきたときブルーを選んだのは、それがフランス王室の色だったからだという。その後の宮殿の生活では、ピンクでガーリーなドレスを着るようになるが、それはマリーの選び取った個性的な色というわけだ。そして今やピンクは「かわいい」と直接結びつく絶対的な色である。

マリー・アントワネットは共和主義によってギロチンにかけられたが、次回で書くつもりの「マリー・アントワネットの日常化」は、自由と平等と資本主義の究極の産物だ。この映画は日本のサブカルチャーに決定的な影響を与えることになる。やはり日本なのだ。

マリー・アントワネット (初回生産限定版) [DVD]
東北新社 (2007-07-19)
売り上げランキング: 5932
おすすめ度の平均: 4.0
3 華やかな王族の宮廷生活
5 使い古した題材の新しい解釈
5 一人の少女
5 フランス革命前夜を想像する絢爛たる作品。
4 特典にガッカリ…





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2009年06月20日

サンローランの美術コレクション

yves-1-2.jpgイヴ・サンローランと彼の長年のパートナー、ピエール・ベルジュの美術コレクションのオークションは世界中の関心を集めました。3日間で700点を超える品が出品され、総売り上げは約430億円。動いたおカネの大きさはもちろんのこと、競売にかけられた品々が、美術の教科書に出てくるようなミュージアム・ピースばかりだったことも話題になりました。

個人コレクターが、これだけの見事な美術品を数多く所有できたのは希有なこと。いくつかの条件が、幸運にも重なった結果と言えます。まず、潤沢な資金。世界中で売れに売れた服・化粧品・香水がもたらすマネーは、好きな物をためらう事なく購入する自由を二人に与えました。次にタイミング。ごく若いうちに成功を収めたサンローランは、投資マネーとも無縁な牧歌的な時期である60年代末からコレクションを始めることができました。芸術家の家族や親しい人々が所有する作品が、望めば手に入れられる状況にあったのです。そして、二人の美への純粋な愛情と強い意志。サンローランとベルジュは、美術史はもちろん芸術家の人生と作品について徹底的に学んだ上で、これぞという品を手にいれてゆきました。モットーは「芸術家の創作歴で最も重要な時期に製作された作品で、作者以外の一切の手が加えれておらず、ちゃんとした証明書がついていること。」惚れ込んだ作品であれば、即購入。どんな値段でもベルジュは受け入れ、サンローランは値段すら尋ねなかったといいます。

かくして、ベル・エポックのファッションデザイナーでサラ・ベルナールのごひいきであったジャック・ドゥーセ所有のアールデコ・コレクションを皮切りに、二人は次々と美術品を手に入れてゆきました。ジェリコやゴヤ、アングルといったヨーロッパの古典絵画、セザンヌにピカソ、マティスにモンドリアンなどの近現代の絵画、彫像、はては家具、工芸品にいたるまで、幅広いジャンルの古今東西の品々が収集されました。セレクションには二人の美へのこだわりが反映されています。例えば、シュールレアリストの手による作品は一点もありません。名誉とも所有欲とは一線を画す深い思い入れ、別居後も二人を結びつけ続けた美しい物への愛が、ひとつひとつの品に込められているのです。

ysl02.jpgモンドリアン・ルック等デザインのインスピレーションの源ともなった大事な「資産」は、サンローランとベルジュの生活の一部でもありました。手に入れた美しい物を身近に置き、いかに愛でるかにもこだわったのです。手本になったのは、このブログでも紹介した、マリー=ロール・ド・ノアイユ。マダム・ビザールと呼ばれた公爵夫人のサロンは、父祖の代から受け継いだヨーロッパの古典美術品と、夫人好みの現代美術の作品がモダンで簡素な室内に一緒くたして飾り付けられ、新旧の美が「悪趣味」と「絶妙なセンスの良さ」の間でせめぎあう独特の空間として知られていました。ノアイユ夫人の流儀に従って、二人は住まいをコレクションで埋めていったのです。もくろみは見事成功し、曰く言い難い夢のような空間が生まれました。

パリにある2つの住まいを埋め尽くし(かける場所がなく、ドガのパステル画はビデとトイレの間の壁に飾られたとか)、二人の日々を見守ってきた美術コレクション。思い出が詰まった、愛着ある品々の大半をベルジュは売りに出しました。「イヴが生きていれば、決して同意しなかったろうね。」パクスしたパートナーとして、有能なビジネスマンとして、イヴを支えてきたベルジュは、ヴァニティー・フェア誌のインタビューで語っています。「イヴが亡くなった今、コレクションも意味を失った。全ては終わったんだ。自分の葬式に参列することは誰にもできないけれど、愛した物の葬式は出してやることができる。」

売り上げは、イヴの仕事を後世に伝えるべく設立された財団と、エイズ研究のために設立された財団の資金にあてられます。ウォーホルが手がけたイヴと愛犬ムジークのシルクスクリーンのポートレート、そしてグラフィックデザイナー、カッサンドルがデザインしたかの有名なサンローランのロゴマークの原型イラストは、売らずにベルジュの手元に置いておくそうです。

業界人の間で伝説となっていたサンローランのパリの住まいの映像は、ここで見る事ができます





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2009年06月17日

After Hurricane −ステファニー王女の復権−

monaco01.jpg1月号のフランス版『ヴォーグ』誌は特別仕様。編集長として、モナコ公国のステファニー王女を迎え、彼女にスポットを当てた内容になっています。
  
ステファニー王女はハリウッド黄金時代の名花グレース・ケリーとモナコ公国のレーニエ大公の次女で、ゴシップ誌をにぎわし続けてきた人としても有名。ファッションモデル、ポップシンガー、スイムウェアのデザイナーという「お姫様らしからぬ」キャリアを歩んできたこともありますが、未だ終止符を打たない華麗な男性遍歴もその理由の一つ。映画俳優や有名人の息子といったセレブから、王女には相応しからぬタイプの男性(ボディーガードにサーカスのブランコ乗り!)とさまざまなタイプの男性が登場します。

そして王女自身の人生にも傷跡として残る、母の交通事故死。同乗していたハイティーンの王女は、ケガのために母の葬儀に参列できなかっただけでなく、事故原因を詮索する世間やマスコミに疑惑をかけられるという過酷な経験もしました。

姉のカロリーヌ王女も80年代に一号限りのヴォーグ特別編集長になりましたが、いろいろあったステファニー王女だからこそ、今回の一冊はなかなか興味深い。

まず、ファッション・アイコンとしてのステファニー王女。短期間ではあるもののプロのモデルとしてファッション雑誌のためにポーズをとったのはもちろん、歌手・話題の跳ねっ返りプリンセスとしてメディアに露出していた王女のイメージそのものに、スポットが当てられています。背が高く肩幅を感じさせる、アスリートのような体つき(カービィーな女性らしいボディの逆ですね)。ブルネットの短い髪に、ナイーブさと野生がないまぜになった不思議な面差し。そして、惜しげなく人目にさらした、いやらしさのない水着姿。ボーイッシュとも、中性的とも呼べない不思議なムードを漂わせたそんな王女の独特なイメージが80年代にもたらしたインパクトを、今の視点で表現しています。極めつけは、ミラ・ジョボビッチが誌上で演じるステファニー王女でしょうか。王女が当時着こなしていた、ショート丈の皮のブルゾンに、ごく色の薄いジーンズ(もちろんローライズじゃない!)の組み合わせを現代のアイテムで蘇らせ、一歩踏み外せばおしゃれと呼べないきわどい試みを見事成功させています。

最大の目玉は、ステファニー王女本人が登場するページ。代表を務めるエイズ予防と患者支援のための団体『ファイト!モナコ』の活動の紹介(今回のオファーを受けたのも活動の啓蒙・宣伝のためだそう)に、家族の写真、彼女の好きな物のコラージュ(好きな映画にフランス製時代物どたばたコメディを選んでいるのが、人柄をしのばせます)。そして、彼女へのインタビューと、現在の彼女がモデルとなった写真。それなりの年齢を重ね、いい意味で枯れた王女の素を覗かせた写真が、シングルマザーとして、チャリティの責任者としての生活を語る彼女の言葉とあいまって、深みを与えています。単なるビバ!80年代的な企画に終わらなかったのも、タトゥーも含め全てをさらけ出した王女に創り手も応えたからではないでしょうか。

いくら天下のヴォーグが持ち上げたとて、80年代にフランスでヒットした王女のポップソング“Ouragan”(ハリケーン)のビデオクリップは、見ている方が赤面しちゃう代物です。ただ、モデルとしても、シンガーとしても、王族のメンバーとしても器用に立ち回ったとは言えず、ただ自分に素直に生きてきた王女の存在感は、90年代以降に登場した、自在にイメージを変えファッション界でのポジションを守り続ける賢いスーパーモデル達にはない何かがあります。

ステファニー王女のビデオクリップ(from youtube)
□ミラ・ジョボビッチの一連の写真はここでみることができます。





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2009年06月11日

セレブを斬る! - フランスの人気コメディエンヌ -

セレブ繋がりという趣旨か、フランス版”ヴォーグ”1月号(2009年)で取り上げられていたのが、フランスのコメディエンヌ、フローレンス・フォレスティ。サラ・ペイリンなりきりスケッチでオバマ大統領選出に貢献した?アメリカのコメディエンヌ、ティナ・フェイの向こうを張って、フランスはもちろんアメリカのセレブの皆さんを演じ、大人気です。

ネタにされているのは、大統領の別れた妻セシリア・サルコジに、カメラ写りを極度に気にするロワイヤル元社会党書記長、イザベル・アジャーニ(スコットランドの女王メアリの霊に取り付かれた状態で登場!)、セリーヌ・ディオン、マドンナ、パリス・ヒルトン、そして最近復活をアピールしているブリトニー・スピアーズ。
 


当然の事ながら、そっくりさん振りで笑いを取るはずもなく、話題の人々をデフォルメしてフォレスティ流に批評しているのですが、個人的にはアメリカのセレブのおちょくり方が興味深い。テレビ番組にセレブがやってきた、という設定で、司会者のフランス語の問いかけにどう反応するかが笑いのポイントになっています。投げやりに、でもフランス語でなんとか受け答えちゃうブリトニー(ベビーカーを押し片手に抱えた赤ん坊(の人形)を落っことして登場)、「自分で通訳しちゃうわねえん♡」と語尾上げ英語でしゃべったとたん、色気0パーセントの愛想なし通訳に切り替わるパリス。次第に通訳のペルソナが暴走、勝手に本音のしゃべりだしてしまい、笑いを誘います。そして英語ととっても怪しげなフランス語のチャンポンで、往生際の悪い会話をするマドンナ。他の国のみなさまと同様アメリカのポップカルチャーを楽しんでいるけれども心酔しきっている訳ではない、そんなフランス人の本音もちらと見えて興味深いです。

イギリス人になりきることでミシガン州出身のイタリア系アメリカ人からクラスアップ?を計ったマドンナは、特にからかいがいがあるよう。まだまだ現役セクシーアイコンよ、と特権意識むき出しの振る舞いはもちろん、インタビュー中にメイク休憩を取ったり、ピントのはずれたコメントをあやしいフランス語でぶっちゃうなど、笑いのポイントを随所に盛り込んでいて個人的にも爆笑しちゃいました。

パリ・マッチ誌の表紙を愛娘とツーショットで飾ったママで、バッグと靴に目がなくて、おしゃれ大好き。かといってブランド信奉者ではなく、お気に入りの29ユーロのH&Mのドレスで堂々公の場に登場してしまうフォレスティ。彼女の次のターゲットになるアメリカ人は誰なのか、興味しんしんです。

□上の youtube の画面はフォレスティによるパリス・ヒルトン
フォレスティによるマドンナ
フォレスティによるセゴレーヌ・ロワイヤル
フォレスティによるイザベル・アジャーニ
フォレスティによるブリトニー・スピアーズ





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2009年05月19日

ファースト・レディの選択 “First Lady’s Choice”

RubenIsabelToledo03.jpg世界中が注目したオバマ大統領の就任式。歴史的な瞬間を目撃するため夜更かしした方も多い事と思いますが、ファッショニスタの関心事は「ミシェル・オバマが何を着るか」。選挙キャンペーン中から、ブランドネームに寄りかからず「ファッションで自分を表現することに臆しない」姿勢はもちろんのこと、冒険をおそれない大胆さとセンスのよさで、ミシェル夫人は世のお洋服好きを驚かせてきました(例えば、アライアのベルトのようなエッジのきいた小物をさりげなくしていたり)。政治家の妻らしからぬ絶妙な着こなしの裏には、ひいきにしている地元シカゴの高級セレクトショップのオーナー氏のアドバイスもあるようですが。
 
このままいけば春頃には公の場でマルタン・マルジェラを着てしまうんじゃないかと噂されるミシェル・オバマが、ファーストレディーとなる日の記念すべき一着として選んだのは、マンハッタン在住のアメリカ人デザイナー、イザベル・トレドのもの。実に心憎い選択で、思わず嘆息してしまいました。
 
イザベル・トレドとは、どんなデザイナーでしょう。業界人は、世間がチェスの天才プレーヤーに寄せるような畏敬の念をこめて、こう呼びます−「Designer’s designer」。服作りに関わる人が手に取れば、そのカッティングを含めた造形の見事さ、素晴らしさにうならされてしまうそうです。また、彼女はいわゆるデザイン画を描きません(!)。平面の布を前に、頭の中でパターンを折り紙のように組み立て、2次元の発想ではとても考えつかない夢のような服を、自分で針を持って作ってしまう。まさに「完璧な」デザイナーなのです。
 
RubenIsabelToledo01.jpgクラーク・ゲーブルそっくりな父と女性だけの野球チームで捕手をするなど活発な母のもと、キューバからの亡命者一家の娘としてニュージャージーで育ったトレドは、幼くして洋裁を学び、自分や姉妹のために自分でデザインした洋服を作ってきました。ニューヨークの有名ファッションスクールで学んだ後、お針子としての腕を買われて、メトロポリタン美術館の服飾部門で、元ヴォーグの名編集長、ダイアナ・ヴリーランドの下アシスタントとして働きます。クチュールのマスターピースを解き、裏返し、縫い直す作業は、トレドいわく「幼児が一言一言、言葉を覚えてゆくようなもの」で、とても勉強になったそうです。ほどなく独立、最初のコレクションで発表した作品はマンハッタンの超高級店バードルフ・グッドマンのウィンドウを飾るなど、業界内でセンセーションを巻き起こしました。
 
オリジナルな造形から川久保玲と同列で語られる事もあるトレドですが、彼女の服は決して奇抜な訳ではなく、むしろ第一印象は「クリスチャン・ディオール本人が手がけたヴィンテージ?」と思わせるぐらいクラシカルで上品。トレンドとかスタイルとか表面的な次元を超越した、根源的な美しさの追求こそが、創作の基礎となっているようです。ちなみに、トレドは自分の作品の事を”Romantic Mathematics”とよんでいます。
 
同じくキューバ移民の息子で、ローティーンの頃スペイン語のクラスで出会ってからずっとそばにいる著名イラストレーターの夫、ルーベンと、彼の父を含む十数人ほどの人々とともに、マンハッタンの片隅でアルチザンのように納得のゆく服だけを作り続けるトレド。一年に作るのはせいぜい数百着、お取り扱いはバーニーズ・ニューヨークやパリのコレット等本物がわかる一部高級ショップのみ。一時招かれてアン・クラインのためにデザインしたことはあったものの一年ほどで契約を解かれてしまい、知る人ぞ知る存在であった彼女は、ミシェルのおかげで一躍注目の人となりました。
 
RubenIsabelToledo05.jpg「ミシェル・オバマのために何点か製作したけれど、就任式に自分のドレスが選ばれるとは全く知らされていなかった」とはトレドの弁。テレビを見てびっくりしたとか。大量消費されあっというまに飽きられるファースト・ファションではなく、着る人が変わっても大事にされるHand-me-down(お下がり)の創り手でありたい、服作りに対する姿勢について、彼女はそう語っています。就任式の後の舞踏会のドレスに台湾出身の新進デザイナーの一着が選ばれたことから、トレドの起用も彼女の出自を意識した、政治的な配慮によるものだとするうがった見方もあるようですが、個人的にはファーストレディーが自分が一番輝かせてくれる服を選んだだけだと思っています。トレドが、今後もミシェル・オバマのために、彼女の娘達に受け継がれるタイムレスな作品を作ってくれる事を願ってやみません。

※昨秋ニューヨークのバーニーズでトレドの服を見ましたが、セールになってもゼロが4つつく立派なお値段で、泣く泣くあきらめました。ご主人のルーベンのイラストレーションがそばに飾られていて、互いに引き立てあっていたのも印象に残っています。ちなみに、購入する人の多くが業界人で、解体してコピーするためにお買い上げしていくのだとか。


Isabel & Ruben Toledo Speak with Rose Brantley at Otis
Isabel & Ruben Toledo A Marriage of Fashion and Art




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2009年03月20日

エルメス HERMES

Main‐d’or―アトリエ・エルメスエルメスは近年のブランドブームに逆行するように、自社の職人技術に基づいた品質を強調し、ブランド、マーケティングの存在を徹底して否定している。広告に依存する比率も低い。これはコングロマリット化を進めるLVMHが、よりファッション性やモード感、大規模な店舗展開や広告を行っているのとは対照的である。とくに品質に関して手ごろな価格を標榜するルイ・ヴィトンが若者を中心に日常化する中で、販売数を限ることでいっそう憧れの度合いを高めている。

その代表がエルメスの「バーキン」であろうか。飛行機で偶然ジェーン・バーキンと隣り合わせになったデュマ・エルメスが彼女の籐のバッグがあふれていたのを見かね、荷物がたくさん入る実用的なバッグを作ることを彼女に約束した。その後、法外な価格と希少価値によって成功した女性の証となった。

日本はエルメスの重要な顧客であり続けているわけだが、それが可能だったのは円高のおかげで購買力が上がったせいであり、日本の経済成長を切り離して考えられない。それまで庶民は手が出ない舶来品だったものが、必須アイテムとして日常化していったのである。1977年に最初のヴィトン・ブームがあり、パリの本店にはブランド品の買占めとして問題化するほどの日本人の長い行列ができた。その背景には急激に円高が進んだことがある(加えて内外価格差が大きかった)。その年、ドル円相場は1ドル=200円を、さらに1978年末頃には一時1ドル=180円を突破した。

エルメスの日本進出は丸の内に直営店を開いた1979年にさかのぼる。その芸術性に富んだウィンドウ・ディスプレイは日本ではまだ見られず、丸の内のOLたちの憧れの的となり、他のデパートもこぞって取り入れたのだった。エルメス・ジャポンは1983年に西武との折半出資で設立されたが、他国にはない独自の戦略を展開した。それがスカーフの結び方講習会の開催であり、結び方を提案した小冊子の配布だった。それは日本で絶大な効果を発揮することになった。この方法はパリの本社へ逆輸入され、さらに世界各国で行われ、スカーフの売上が爆発的に伸びた。このようにエルメスの世界的なスカーフ人気に関しては、日本が火付け役になった。

どのブランドにとっても生き残っていくためには、伝統の中にも革新的なもの、先端的なものを織り込んでいくことが必要だが、その中で日本が意外に重要な役割を果たしてきた。それはデザインとインスピレーションの源泉としての日本である。

日本の家紋のようなデザインのルイ・ヴィトンのモノグラムは1896年に発表されたが、当時流行していたジャポニスム(日本趣味)の影響を受けている。ダミエ(市松模様)も日本の意匠が起源と言われている。日本でのヴィトン人気は、単にフランスのブランドへの憧れだけではなく、そこに自分自身の文化を発見しているからだとも考えられる。エルメスのスカーフもジャポニスムを積極的に取り入れ、刀のつばや鞘、盆栽、印籠などがモチーフになった。1986年にはそのような傾向の先駆けとなるバッグ「スマック」、通称「スモウバッグ」が発表された。ずんぐりした形と、中心分の丸いポケットが力士のお腹や土俵の円形を思わせるデザインだ。

エルメスの道さらに興味深いのは21世紀に入ってからの動向である。エルメスと言えば、1997年(21世紀の少し手前だが)、マンガによる社史の作成に竹宮恵子を起用したことでも知られている。当時すでにフランスには日本のマンガブームが到来していたが、「馬に乗れる人、馬が描ける人」というデュマ・エルメスが提示した条件に竹宮恵子が合致し、「エルメスの道」はエルメスが公刊した唯一の社史となった。サムライや日本庭園といった伝統的なジャポニスムだけでなく、日本の先端のテクノロジーやポップカルチャーも重要な対象になったのである。2001年に銀座に完成したエルメスの旗艦店「メゾン・エルメス」の開店の際には、ソニービルとのお隣になることを記念して、ソニー製の犬型ロボット、アイボ専用のキャリーバッグが作られた。日本製の精巧なロボット、これもまた欧米人の日本幻想をかきたてるのである。

ジェラール・クラブジック監督の「WASABI」(2002年)を見ると、各シーンの中に日本の先端と伝統の対比が極めて意図的にわかりやすく表現され、フランス人が日本に何を見たがっているのかよくわかる。ケータイを使いこなし、デパートで買い物をしまくる、いまどきの少女が日本の伝統的な意匠を背景に動き回る。クラブジックはDVDに収録されたインタビューで東京は「ブレードランナー」の街だと言っているが、これはアナクロニズムではなく、それが現実化してきたということなのだろう。

2003年の春夏コレクションでは、ルイ・ヴィトンがポップ・アーティスト、村上隆とモノグラムにポップな桜模様を散らしたカラフルな作品を発表した。日本の少女たちのあいだで厚底の靴が流行っていたこの時期(「WASABI」で広末涼子も履いている)、多くのデザイナーが来日していた。LVMHのアルノー会長も「日本の10代の女の子のファションを見てくるといい。彼女たちのファションは非常に進んでいて、ブームよりも先に、トレンドを生み出す。彼女たちを観察するだけで感性を磨ける」と周囲に勧めていたという。彼らの日本滞在記(ジョン・ガリアーノは京都の俵屋旅館がお気に入り)やお買い物リストは女性誌の格好の題材となったが、主役はむしろ日本の女性たちだったのだ。

日本の女性たちはただ単にブランドを買い漁ってきたわけではない。その過程でブランドに対する目を肥やしてきた。鑑識眼のある洗練された、成熟した消費者になっていったのである。日本では多くの女性が消費によって自己実現するしかなかったという事情もあるかもしれない。また日本は総中流社会で、消費行動が階層化していないことが特徴的だが、ひとりの消費者がエルメスとユニクロを使い分けるという型にはまらない多様な行動をとることで、様々なスタイルやパターンを学習し、習得できたこともあるのだろう。

モノが氾濫するなかで育った日本の少女たちは世界の消費文化の中でも特異な存在である。彼女たちは階層的なアイテムだったヴィトンやエルメスを日常的に使いまわす。ブランド世代の母親たちが「上がり」として手に入れたブランドと、その過程で獲得した鑑識眼は彼女たちにとっては出発点に過ぎない。もはや憧れではなく、モノとしての機能性やデザイン、イメージに徹底的にこだわる。

ブランド側にしても、一方的にすべてを仕掛け、コントロールできない事態になっている。すでに伝統や職人気質だけが売りになることはありえない。消費者と折り合い、消費者に学ぶことが重要なのである。すでに消費者はただの消費者ではない。彼女たちは洗練された眼で選択し、使いこなす。それによって新しい意味を付け加え、新しい組み合わせを提案し、さらにはそれを発信していく生産者なのだ。これが、アルノーが日本の少女たちの中に見出したものであり、21世紀に入ってからの本質的な変化と言えるだろう。


□このエントリーは下記の戸谷理衣奈著『エルメス』を参照


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2008年11月27日

Fare you well, Mr. Saint Laurent!

saintlaurant01.jpg作家ジュディス・サーマンは、イヴ・サンローラン最後のファッションショーを取材したエッセイで、初めてサンローランの服—厚みのあるアルパカウールで仕立てた、セーブルブラウンのコサック風マキシスカート―を買った時の思い出を綴っています。ミニスカート全盛の当時としては一歩先行くデザイン、体型もカバーしてくれるすぐれものの一着を手に入れた時、彼女はイギリス留学中の学生でした。1969年のロンドン、家賃捻出のための家庭教師のアルバイトの帰り、最終セールのサインに吸い寄せられて、サーマンはボンドストリートにオープンした話題のブティック、リヴ・ゴーシュに初めて足を踏み入れます。

「ブティックのカーペットの色はブラッドオレンジであったと記憶している。こじんまりしたモーヴカラーの椅子がいくつか置いてあり、近未来的な照明の下に、映画『欲望』風のサンローラン本人のモノクロームのポートレートが飾られていた。セール商品のラックにはもう数点しかなかったが、野生のネコの毛皮をあしらった、勇ましい騎兵を連想させる素晴らしいスカートが、15ポンドに値下げされて残っていた——ジッパーの一つは「難あり」だった。ポケットには一週間分のアルバイト代15ポンドが入っていた。(中略) そして、私は、サンローランの香水「オピウム」の広告の有名なコピーがうたっていた女達“Celles qui s’ adonnet á Yves Saint Laurent”—イヴ・サンローランに溺れる女達—の一人となったのだ。」(“Swan Song” The New Yorker 2002年3月18日号より)。
 
先月初めに他界したイヴ・サンローラン。各メディアが一斉にその死を報じ、伝説的な人生を紹介しました。急死したクリスチャン・ディオールの後を20才そこそこで継いでフランス・モードを代表するブランドを救い、独立後も、パンツやタキシードといった男の装いや民族衣装、シースルールックのような「ありえない」ものをエレガントな女性の服にしてみせるなど革新的なデザインで世界を席巻。「メンズライク」も「エスニック」も今や当たり前のファッション・キーワードとなりましたが、これも彼の大胆な挑戦と、革新を普遍化させるだけの説得力と魅力に溢れたデザインがあってこそだったのです。ファッション界に君臨した偉大な人物だけあって、逸話と業績が羅列されるだけでも十分興味深いのですが、どの追悼記事もどこか表面的でよそよそしい。既にファッション界から引退し、過去形の扱いであったからでしょうか。しかし、数十年前、サーマンが追想した熱狂の渦の中心に、サンローランは確かにいたのです。
 
saintlaurant02.jpg60年代、そして70年代。世界はサンローランの才気とクリエイティビティに魅了されていました。年に4回発表されるクチュールとプレタポルテのデザインは、新聞や雑誌と言った限られたメディアを通じて世界中の業界人に吸収され、インスピレーションの源、雛形となりました。本物に手が届かない人々の下にも、サンローランのデザインのエッセンスは届けられました。大手百貨店は悪びれる事なく堂々とコピー商品を売り、雑誌に掲載された写真をまねたスーツやドレスが町の洋裁店で仕立てられました。現在のような人気ブランドのバッグを持つこととは違う形で、人々の日々の装いに、ファッションに確実に浸透していったのです。雑誌やインターネットにはおびただしい情報やイメージが溢れ、ハイソもトラッシーもひっくるめて多様な質とデザインの服が日々消費される現代では、もはや実感を伴って理解されないかもしれません。しかし、当時のそんな「不自由」な環境も手伝って、サンローランの作品は、一握りの熱狂的なファンや有閑階級のクローゼットにしまい込まれず、様々なレベルで広く親しまれることになりました。
 
結婚式のための純白のスーツとドレスを誂えたミック・ジャガーとビアンカのような時代を代表するヒップなカップルだけでなく、都会の片隅でやりくりしながら精一杯オシャレを楽しむ普通の女達も、サンローランに全幅の信頼を寄せていました。75年にアメリカで出版された本『チープ・シック』は、流行に流されず限られた予算で自分らしいオシャレを楽しむ女性達をたくさん紹介していますが、彼女達がここぞとこだわったのが、サンローランのブーツだったり数年前に買ったコピー商品だったりするのが何とも興味深い。(ちなみに、この本の「ほんとうにクラシックなもの」の章でサンローラン本人のインタビューも読む事ができます。)彼がデザインするものは、ファッションの都、パリが送り出す「間違いのないもの」だったのです。
 
それほどの注目と期待にほんの若いうちから曝され続けたサンローランの人生が過酷なものでもあったことは想像に難くありません。新しいコレクションの発表前には、お守りがわりのバッグスバニーのおもちゃをいじって、わき上がる不安をなだめていたそうです。良き理解者であった彼の母は、インタビューで「ディオールの後継者となったとき息子の青春は終わった」と語っていますが、世間が付けた「皇太子」というあだ名に相応しい仕事を、振舞いを常に求められた彼が、アルコールやドラッグに走ったのも無理からぬことであったのではないでしょうか。徴兵された時に患った極度の神経衰弱も、もともと大変繊細な質である彼を生涯苦しめました。死は、ある意味、解放であったのかもしれません。
 
サンローランの仕事は、かつての恋人でビジネスパートナーであったピエール・ベルジェと設立した財団のウェブサイトで見る事ができます。今でも十分魅力的な街着から夢のようなドレス、各年代のショーのスナップと見るべきものは多数ありますが、特におすすめしたいのが、優れたファッションのセンスと華やかなパーソナリティで知られたアメリカ社交界の名華、故ナン・ケンプナー(写真、下)所有のドレスの写真です。サンローランとも親しく、また昔からの熱心なファンとして1000点を超えるアイテムを所有していたといわれるケンプナー。服そのものの写真もけっこうですが、もはや若いとはいえない彼女が自慢のドレスで着飾った写真をご覧頂きたい。着る人を輝かせるために人生を捧げてきた天才の仕事と、シックに生きる事を信条とし「装うこと」を心から愛した女性の素直な喜びが呼応しあって、ちょっと感動的ですらあります。たかがファッション、なんとセンチなと鼻白む方もあるかもしれない。しかし、ケンプナーの晴れやかな姿は、「着る事」の快楽をを知り尽くしたデザイナーと顧客の理想的な関係を象徴しているかのようです。


ピエール・ベルジェ・イヴ・サンローラン財団のウェブサイト

□興味がある方は、ベテランファッションジャーナリスト スージー・メンケスへのインタビュー記事をどうぞ。長きに渡りがイヴ・サンローランの人物と仕事を見てきた人ならではの鋭い洞察とコメントが読めます。





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2008年08月02日

プリンセス気取りはまだ早い−子役・ティーン女優をめぐるファッション事情

princess01.jpg女優達がきらびやかなドレスを競うレッドカーペット。ポーズを取る姿は世界中に配信され、その着こなしを吟味するファッションチェックのページは日本のファッション誌でもすっかりおなじみとなりましたが、この「儀式」はファッション業界にとっても絶好のパブリシティの機会。ハリウッド女優たちは、ブランドを世界に知らしめる最高の媒体なのです。
 
しかし、レッドカーペットを歩けるきらびやかなハリウッドの住人の数にも限りがあります。それならば、とにわかに業界が熱い視線を注いでいるのが、ブロックバスター映画に出演するティーン女優や子役達。作品によっては、主役級のスターとしてプレミア試写や映画祭でプレスのフラッシュを浴び、演技が評価されれば賞レースにだって参加できる。しかも、オトナの女優と違って、文句も言わない、すれてない。ファッションにいたっては、スタイルすらないまっさらな状態。まさに格好のターゲット、とばかりに有名デザイナーや一流ブランドが年若いハリウッド人種に群がり飾り立てようとやっきになっている現状について、アメリカのファッション誌「W」は眉をヒソメテいます(2007年11月号)。
 
例えば、かのシャネル。ハリーポッターの一連の映画に出演し一躍キッズの心をつかんだエマ・ワトソンや、エマ・ロバーツ(ジュリアの姪)、ティーンエイジャーだったころのカミーラ・ベルに、いち早くドレスの提供を申し出ています。ジョディ・フォスターのように、名子役から大女優へ開花する可能性を見越してブランドとの強い結びつきを作っておきたい、という「青田買い」的な狙いがこうしたオファーにはあるとささやかれていますが、オトナまであと一歩、なティーン女優だけでなく、子役にまでファッション業界の触手は伸びています。
 
princess02.jpg例えば、映画『リトル・ミス・サンシャイン』での好演で脚光を浴びたアビゲイル・ブレスリンちゃん。アカデミー賞にノミネートされ、コダック・シアターにブリブリのお姫様スタイルで登場したアビゲイルちゃん。いかにもなドレスのチョイスですが、その小さな足を彩ったのはジミー・チュウのピンクサテンのミュール(ハイヒールは未体験だったのでパス)!。キャンディーバーを偲ばせたクラッチバッグはスワロフスキー製。小さなお耳と首元でキラキラしていたのは、驚くなかれ、ハリー・ウィンストンのダイヤモンド!話題作りとはいえ、オンナを上げる小道具として大人の欲望をかき立てるあこがれブランドが、よってたかっていたいけな女の子を着せ替え人形にしてしまうのはいかがなものか、であります。
 
こうした世の動きに敏感に反応し、アビゲイルちゃんよりお姉さんな世代のティーン女優達は、大人のセレブを顧客に持つ有名スタイリストを雇い入れたり、ママの物でないブランドバッグを持ち歩いたり、「何を着るか」「他人の目にどう映るか」ということについて大人同様神経をすり減らしているようです。

しかし、やはりどんな美少女にも、年相応、はあります。ティーン女優が身にまとうビッグメゾンのドレスは、いずれも大人向けのものをコドモサイズに調整したもの。借り着感は拭えず、世間の受けもイマイチのようです。また、主にお仕事の場であるとはいえ、心も頭もまだ未成熟なコドモのうちからハイファッションにどっぷり浸かることの悪影響(歪んだ価値観を育む)も懸念されるそうです。「プラダに首までつかる生活を送ってきて、突然バナナ・リパブリックを試してみろといわれてもとても難しいでしょう」とは、児童心理学者の弁。
 
野暮ったく恥ずかしー若気のいたりな日々があるからこそ、オシャレ道は磨かれてゆくものではないでしょうか。どうあがいてもアバクロが似合わなくある日はやってくるのですから。過酷な競争を勝ち抜くためのビジネス上の戦略かもしれませんが、ファッション業界の方々にはオトナな態度で若きハリウッド人たちを見守ってほしいものです。

□ピンクのドレスはブレスリン嬢(写真、上)。黒いドレスがシャネルを着たエマ・ワトソン嬢(写真、下)。このルックのおかげで、エマは若干15歳でアメリカの有名ゴシップ誌のファッションダメだしページに登場するという栄誉を得てしまいました。




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posted by cyberbloom at 14:40 | パリ | Comment(0) | TrackBack(0) | ファッション+モード | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする