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今のフランスでは中絶どころか、「複合家族 famille recomposée 」が当たり前になってきている。結婚にせよ、PACS にせよ、くっついたり、別れたりしているうちに、子供もできて、家族関係が複雑になっていくが、それをありのままに受け入れる。子供のために別れた相手と苦々しい思いで一緒にバカンスを過ごすこともあるようだ。日本では相手の連れ子を虐待するニュースが頻繁に流れるが、精神的なタフさがないとこんな状況に耐えられないだろう。見た目には乱れた関係のように見えるが、その時点でのベターな関係を彼らなりに模索しているのだ。
『ジャガーの眼』(Marie-Chantal contre le docteur Kha, 1965)を始めとする映画を撮っていた時期、シャブロルは商業主義に傾斜したのではないか、と批判されたこともある。実際、ヌーヴェル・ヴァーグの監督たちの多くはその実験精神に翳りが見えた時期を経験したが、シャブロルの「ヒッチコック主義」は停滞するということを知らなかった。批判に対して、「それでも私は映画を撮る」Et pourtant je tourne (1976)という著書まで出したシャブロルに迷いは全くなかったようだ。
『愛の地獄』(L’enfer, 1995)、『嘘の心』(Au coeur du mensonge, 1999)、『石の微笑』(La demoiselle d’honneur, 2004)など、90年代から晩年に至る彼の作品群は、その「ヒッチコック主義」がもっとも洗練された形で開花したものと言っても間違いないであろう。彼はヒッチコックの精神を受け継ぎながら、紛れもなく彼でなければ撮ることのできないミステリー映画の世界を完成させたのである。
挑発的で親密なインタビューのためにゴダールは私たちをスイスの自宅に招いてくれた。ロール Rolle にようこそ。ロールは世界の中心という場所ではない。ジュネーブから40キロ離れ、レマン湖に面した少々陰鬱な街に過ぎない。しかし税金逃れをしたい億万長者にとっての楽園でもある。私たちをジュネーブ駅で拾ってくれた愛想のいいタクシー運転手は、ほとんど税金を払っていない人々の地理を知り尽くしている。「あの丘のふもとの家はミヒャエル・シュマッハー(レーサー)の家です。そこにはピーター・ユスティノフ(作家)が住んでいて、向こうにはフィル・コリンズ(ミュージシャン)…」
インタビュア:なぜ、’Film Socialisme’ というタイトルなんですか。 ゴダール:私は前もってタイトルを決めます。タイトルが私が撮る映画の指標になります。映画のどんなアイデアにも先んじてまずタイトルがあります。それは音楽のラ(A)のようなものです。わたしはタイトル(titre)のリストをまるごと持っています。ちょうど貴族の称号(titres de noblesse)や有価証券(titres de banque)のように。今はむしろ有価証券ですね。私は「Socialisme」というタイトルで撮り始めました。撮影が進むに連れてそれは満足できるものではないように思えてきました。映画はコミュニスムやキャピタリスムと呼ばれてよいものでした。ところがある面白い偶然が起こりました。私がプレゼン用の小冊子を哲学者のジャン=ポール・キュルニエに送り、彼がそれを読んだときのことでした。それには制作会社の Vega Film の名前がついていて(※つまり Vega Film Socialisme と書かれてた) 、彼は映画のタイトルを Film Socialisme と勘違いしたのでした。彼は10枚以上もある長い手紙で、それがどれだけ彼の気に入ったかを書いてよこしました。私は彼が正しいに違いないと思い、映画のタイトルをそれに決めました。
インタビュア:例えばアドピ法(La loi Hadopi)、つまりは違法ダウンロードの問題、イメージの所有権についてはどうですか。 ゴダール:私はもちろんアドピ法に反対です。知的所有権など存在しません。私は相続にも反対です。つまりアーティストの子供が彼らの親の作品の著作権の恩恵をうけることです。子供が成人するまではいいと思いますが、ラヴェルの子供たちが「ボレロ」の権利にタッチするのは当然のことではないと思います。
インタビュア:映画の最後から2番目の引用に、「法が不当なものであれば、正義は法に先立つ」というのがありました。 ゴダール:これは著作権に関することです。すべてのDVDは違法コピーを禁じるFBIの警告から始まります。しかしそのフレーズから別のことを知ることもできます。例えばローマン・ポランスキー Roman Polanski の逮捕を思い出すでしょう。
☆Les InRocks.com に掲載されたジャン=リュック・ゴダールのインタビュー "Le droit d’auteur ? Un auteur n’a que des devoirs"(著作権だって?作家には義務しかない)を部分的に訳出してみました。ロメールに言及した箇所もあったのですが、残りは時間があったら。
☆”Film socialisme”は今年のカンヌ映画祭の「ある視点 Un Certain Regard」部門に出品されたが、5月17日と18日の2日間、映画館での封切りに先駆けて、そしてカンヌ映画祭と同じ日にVOD(=Video On Demand)で配信された。 □ http://www.filmotv.fr/
環境汚染もまた同様である。映画『未来の食卓』を観て、その思いを強くした。このドキュメンタリー映画の原題は”Nos enfants nous accuseront”、直訳すれば「私たちの子供たちはいずれ私たちを告発するだろう」。南フランスの農村地帯では、小児がん患者が増加の一方をたどっている。それは明らかに農薬と化学肥料の直接・間接摂取の影響だ、とモンペリエ大学の医学博士は証言する。除草剤と殺虫剤を散布すれば、少人数で大規模な農地の管理が可能になり、それだけ収穫と収入を増やすことができる。だが、土壌は汚染され、やがては不毛の地となるだろう。
映画の冒頭、ユネスコの会議でアメリカの科学者が警告する。「近代が始まって以来、子供の健康が初めて親のそれに劣るであろう」と。医療技術の発達が乳幼児の死亡率や疾病率を下げてきたとすれば、環境汚染が今度は子供たちをゆっくりと殺していくことになる。「そんなことがあってはならない(That should not be.)」と科学者は付け加えた。本当にそうだ。野菜が虫に食われる方が、人間が薬品に蝕まれるより、どれだけ平和な光景かわからない。『未来の食卓』とは、一見希望に満ちた邦題だが、この映画の原題が伝えているのは、むしろ「未来に食卓と呼べるものがあるのか」という危機感である。これからどんなものが食べられるのか、というよりも、安全に食べられるものが何かあるのか、という問いに、僕たちは直面しているのである。
つまり、Je suis à la fac avec toi. Tu es belle. Je te kiffe trop gravement ということなのだが(kiffer=aimerの若者言葉)、オジさんが若作りして痛いメール(=texto)を書いているわけだ。このように若い女性にウケようと涙ぐましい努力を重ねるが、若くてカッコいい恋人を見せつけられたり、サディスティックにふりまわされる姿が悲しい。レティシアにしても、私のことが好きなら、ちゃんと私の置かれている立場(フランスの若い世代が置かれている状況)も理解してよ、という思いもあるのだろう。やはり地位とお金に恵まれたオジさんと普通の女子学生のあいだには越えがたい溝があるのだ。
フランスは自然界を舞台にしたドキュメンタリーの秀作を多く生み出しているが、リュック・ジャケ監督の「皇帝ペンギン La Marche de l'empereur 」もそのひとつに数えられるだろう。こちらは南極に住む皇帝ペンギンの産卵と育児を追った作品であるが、それは自然界で最も過酷な子育てとも言われる。
去年の夏、全国で上映されたオリヴィエ・アサイヤス Olivier Assayas の『NOISE』がDVD化される。この作品は、2005年6月にフランスのサン=ブリュー Saint-Brieucで開催されたアート・ロック・フェスティバルのライブドキュメント映像である。とりわけ、アメリカのソニック・ユース Sonic Youth のメンバー4人が、MIRROR/DASH(サーストン・ムーア&キム・ゴードン)、TEXT OF LIGHT(リー・ラナルド&スティーヴ・シェリー)という、2人ずつ2組のユニットに分かれて参加したことが話題になった。その2組のユニットは、ソニック・ユース以上にアヴァンギャルドでフリーキーなプレイを披露。また、新作を発表したばかりのジム・オルークがエンディングで音楽と映像を提供した。アサイヤス監督は実験的なモンタージュによって、不均質だが、ロック感にあふれる映像を演出している。
上に動画を貼り付けた「ショワジー門 Porte de Choisy 」はオムニバス映画『パリ、ジュテーム』の中に収録されている。クリストファー・ドイル監督が13区を舞台に撮ったもので、その独特の雰囲気をうまく伝えている。イメージのとりとめのなさに比べて、この短編のテーマはすっきりしている。つまりは白人男性のアジア女性への幻想である。アジア女性の髪の問題を解決するヘアケア製品を美容室に売り込みに来た Henny氏(名前をフランス語式に読むと、Je t’aime の中国語「アイニー」と音が似ている)に向かって、マダム・リーが「アジア女性の髪の問題って何なのよ?」と聞き、すかさず「問題があるのはアンタの方よ」とつっこむ。白人のオッサンはやはり黒髪が好きなのだ。
ロケの準備が始まり、周囲があわただしくなってきた。ロケ現場と思われる棟の裏側に回ると、エキストラで出演している教え子のK君に会うことができた。K君は役得で、トラン監督(トラン・アン・ユンのトランが姓)の息子さんにも会ったようで、フランス語で、Quel âge? って聞いたら、Huit ans と答えてくれたと嬉しそうだった(写真はK君が写メで送ってくれた監督直筆のサイン)。
彼の最新作『我が至上の愛〜アストレとセラドン〜』Les amours d'Astrée et de Céladon(2007)は、初めてこのふたつの系統の境界を飛び越えた作品である。原作は17世紀に書かれたバロック小説『アストレ』(オノレ・デュルフェ作)。舞台は5世紀のガリア。若い羊飼いの恋人同士の、誤解と別離と和解の物語である。これまでの彼の映画作りの原則から行けば、当然ふたつめの系統の映画になってもよさそうなものである(そして、それはそれでおもしろいものになったろう)。だが彼はこの映画を、『聖杯伝説』のようにではなく、むしろ『海辺のポーリーヌ』のように撮った。そして出来上がった作品は、初々しさと、生々しい感情と、またその感情とシンクロするかのように豊かな表情を湛える自然の美にあふれるものになった。さらには軽妙な艶笑譚的趣もある(とくに後半)。なぜ彼がここにいたって「原作もの」の演出ポリシーを変更するに至ったのかはよくわからぬが、この新機軸から生まれた結果は非常に好ましく、ロメールが齢九十近くにして新たなる境地に達したことをはっきりと示している。聞くところによると彼はもう長編を撮らないつもりらしいが、こんな若々しい傑作をまだ撮れるのになんともったいないことか、と思ってしまう。
ロメールの映画は総じてシネフィル的な記憶をあまり喚起しないのだが、本作はその自然描写――川、森、陽光!――と生の(そして官能の)喜びの横溢によって、ある映画作家の一本の作品を私たちに想起させる。ジャン・ルノワールJean Renoirの『草の上の昼食』Le Déjeuner sur l'herbe(1959)である。若いころから一貫してルノワールの熱烈な信奉者であったロメール――彼は1959年に『草の上の昼食』を称揚する「ルノワールの若さ」なる文章を発表している――が、老境にいたり、改めて自作によってルノワールへの大いなる共感を表明しているように私には思える。溺れたセラドンが救助されて運ばれたニンフの居城に掛かる絵のなかに、エドゥアール・マネÉdouard Manetの有名なタブロー「草上の昼食」Le Déjeuner sur l'herbeと同様のポーズをとる群像があったことを指摘しておこう。ルノワールの映画と同じ名を持つマネの絵の引用。これが偶然のはずはなかろう。半世紀前に作られた名画にたいするロメールのまわりくどいオマージュに違いあるまい。
■定年退職前の厳しくも優しいロペス先生のもとで、勉強したり遊んだりする13人の子供たちの姿を追った、心温まるドキュメンタリー映画。Etre et Avoir―タイトルにもなっているこの二つの動詞から見ても、フランス人にとってのフランス語の始まりも、日本人がフランス語を始めるときと全く同じなんだな、と分かります。フランス語をやっている人なら、まるで自分も小学生になったような気分になり、子供たちと一緒に「うぃぃ〜!」「ぼんじゅ〜る、むっしゅ〜」と言ってしまいそう。