オスマンは19世紀半ば、大規模な都市改造で混沌としたパリを一望監視できる均質な空間に変貌させることに成功した。相変わらずパリは歴史的モニュメントが絶妙に配置された小さな箱庭のように見える。また、高級住宅街、労働者街、ゲイの街、学生街、中華街など、それぞれの区は昔ながらの色を保持しているように見えるが、今やその中をかつてありえなかった様々な人々が行き来し、そこで生まれる多様な関係性が、パリを近代とは別の次元へと導いている。「パリ、ジュテーム」は18の作品が相乗りするオムニバス形式で構成されているが、そういうパリを多面的にうまく捉えている。最後にそれを結びつける仕掛けも用意されている。
■5区、セーヌ河岸
イスラム女性の口から語られることに青年は新鮮な驚きを覚える。ジーンズをはき、へジャブ(スカーフ)をかぶる今風のイスラム女性だが、これほどミステリアスな存在はない。彼女たちがどのように現代の神なき資本主義社会と折り合いをつけているのか、非常に気になるところだが、青年や彼の友達のように、常に男性の支配下にあり、強制的にヘジャブを被らされているという偏見を抱きがちだ。また彼女たちは常に慎ましく、何よりも「語る主体」ではないと思いがちだ。しかし、彼女はヘジャブついて次のように力強く語る。美しさの定義についても。
Si je veux être jolie, c'est pour moi. Quand je les(=hijjab) porte, j'ai un sentiment d'avoir une foi, une identité. Je me sens bien, et je pense que c’est ça, la beauté…
それにしても主人公の爽やかな好青年ぶりと、女性の美しさと芯の強さが、ちょっと出来すぎかなという印象を与える。どちらかというとこの先の展開が重要だろう。このテーマで1時間半とか2時間の映画が撮れるだろうか。
■10区、フォブール・サン・ドニ
「パリ、ジュテーム」の各監督の持ち時間は5分。そこで、どのように濃密な5分を演出するかが問題になる。ひとつの方法として時間を早回しにする、時間の速度を上げるという方法が考えられる。ちょうど死ぬ間際に見るという人生の走馬灯のように。あるいはハードなドラッグをやったときのイメージの怒涛の湧出のように(ケミカルに起こっていることは前者も後者も同じなのだろうが)。これを映画でやる場合、巧みに速度を操作しつつ、同時に個々のイメージをいかに鮮烈に紡ぎだすかが腕の見せどころになるだろうか。
Tu as été admise bien sûr. T'as quitté Boston pour démenager à Paris. Un petit apartement dans la rue de la faubourg de Saint Denis. Je t'ai montré mon quartier, mon bar, mon école. Je t'ai présenté à mes amis, aux parents. Tu m'écoutais les texts que tu répétais, tes chants, tes espoirs, tes désirs, ta musique…
あまりの衝撃に急停止してしまったトマの感情に反して、本能が無理やり駆動させているかような高速のフラシュバック(このモノローグは、複合過去と半過去のオンパレードなので、早速起こして授業で使ってみた)。ごめん、フランシーヌ…これは目が見えないことの負い目と読むべきなのか。それにしても、シャレがきついよ、フランシーヌ。
この作品を撮ったのはトム・ティクヴァ。映像のスピード感が新鮮で、当時「バンディッツ」(これもロケンロールなお薦め映画)とともに、「ドイツもやるな」と思ったポップな映画「ラン・ローラ・ラン」の監督だったことを思い出し、納得。
■12区、バスティーユ
まさか、赤いコートのポスターがこんな話だとは思わなかった。夫は妻の特異性に惹かれた。変な女は妙に気になるのだ。女の妙な仕草や癖は思い切りツボにはまり、離れられなくなる。最初それが最も許せない部分であったなら、なおさらのことだ。それは理屈ではない。死の病はきっかけでしかなかった。それにハマってしまったら、美しくて若い客室乗務員の愛人さえ問題にならないのだ。
女の好きな小説はハルキ・ムラカミ(それも「スプートニクの恋人」)、好きなブランドはアニエス・べー。それもバーゲンで買う。つまり、赤いコートはアニエス・べーで、こういう外見に無頓着な女が何とかのひとつ覚えで着るようなブランドになってしまったのね。
妻は自分ではデザートを注文しないのに、夫の分を食べてしまう。それで夫は妻の好みのデザートを注文するようになり、自分の好みがわからなくなってしまった。デザートに何を選ぶかというのはフランス人でなくとも、アイデンティティーを賭けた重要な選択なのだ。個人的にもこういう苦々しい思いを知らないわけではない。そう、それは十分に離婚の理由になりえるのだ。
また別れを決めるときのように、感情が絶対的に高まっているときは、どちらの方向にも簡単に振れやすい。感情は容易く反転する。憎しみや嫌悪、愛情や親密さ。対立し、矛盾する感情も結局は絶対値で計られる。別れ話をするつもりで会ったのに、なぜかそこで結婚を決めてしまったという友人の話を思い出した。
こういう男の哀愁が身にしみる歳になってしまった。バックに流れる音楽も哀愁たっぷりだ。日本だと寺尾聡の「ルビーの指輪」(古い)なんかが流れてきそう。
■14区
アメリカのデンバーで郵便配達をしている中年女性のパリの一人旅。ひどい英語なまりの簡素なフランス語がいい味を出している。それが幻想にすぎないにしても、パリは今も多くの人々にとって憧れの場所なのだ。しかしパリに行っても自分が変わるわけでもないし、パリはパリで自分とは全く関係のない街なのだ。その現実がもたらす絶対的な断絶と孤独が、深い部分まで自分を省みる時間を与えてくれる。デンバーで郵便配達をしている日常からは決して見えない自分が見えるのだ。この断絶感と表裏一体の幸福感は個人的にも覚えがあるし、多くの人の共感を呼ぶに違いない。
それにしても、昔は英語で話しかけると相手にしてくれなかったパリの人たちも、今は英語で親切に道を教えてくれる。フランス語を使ってみたくてしょうがないのに、話させてくれないのだ。
■最もスタイリッシュで、映像として気に入ったのが、アメリカ人女優とヤクの売人のストーリー、オリビエ・アサイヤスの「3区、デ・ザンファン・ルージュ地区」(写真、上)。ラリったマギー・ギレンホールがいい。パントマイム(ベレー帽とボーダーシャツというスタイル)のオジさんの、時代に取り残された寒い笑いで押しまくる「7区、エッフェル塔」。「こんなヘンテコリンなやつらと一緒にするなー」という叫びが切実で、寒い笑いが恐怖にまで突き抜ける。パントマイムはもともとコミュニケーションのちょっとしたズレを笑いにしていたのだと思うが、ここではコミュニケーションが完全にブレークダウンしている。開店したころに個人的によく行ったカフェ「ル・ロスタン」(リュクサンブール公園に面する)が舞台の「6区、カルチエ・ラタン」。ジェラール・ドパルデューがギャルソンを演じる。日本から参加した諏訪敦彦監督(マルグリット・デュラスのリメイク「H STORY」で知られる)の「2区、ヴィクトワール広場」。この映画のアイデアは監督の息子との会話の中から生まれたという。彼にはヴィクトワール広場のルイ14世の騎馬像がカウボーイにしか見えなかったらしい。小さい息子がいて、よくこんな映画撮れるよなあ。私にはあまりにリアルすぎて直視できなかった。
パリ、ジュテーム プレミアム・エディション
posted with amazlet at 08.04.18
ジェネオン エンタテインメント (2007-10-24)
売り上げランキング: 2071
売り上げランキング: 2071
おすすめ度の平均: 

ピンクのハートぢゃないけと゛
思わず「パリ ジュテ―ム」と呟いてしまいます。
パリを舞台に凝縮して表現しようとしているのだとは思うのですが・・・
パリの呼吸が感じられます
★パリの全てが詰まった作品★ "Toute le Paris, C'est comme la vie..."
cyberbloom
↑ライターたちの励みになりますので、ぜひ1票=クリックお願いします!

























気鋭の監督たちがパリを舞台にして制作した18本の短編映画から成り、昨年のカンヌ映画祭でも話題を呼んだ「パリ、ジュテーム」。
このオムニバス映画には、フランスはもちろんのこと世界の若手〜中堅どころの監督たちが参加しており、日本でもおなじみの名前も多く見られます。1人あたり約5分という少ない持ち時間ながら、彼らそれぞれの持ち味を発揮した作品がそろっています。移民の少女の現実を淡々と追うウォルター・サレス(「モーターサイクル・ダイアリーズ」の監督)とダニエラ・トマスによる「16区から遠く離れて」、何だかよくわからないがオリエンタルなムードいっぱいのクリストファー・ドイル(ウォン・カーウァイ作品の撮影で有名)の「ショワジー門」、夜の街に突如出現する吸血鬼を描いたヴィンチェンゾ・ナタリ(「CUBE」の監督)の「マドレーヌ界隈」などがその好例といえるでしょう。
個人的に好きだったのは、やはりもともと好きな監督のものが多いのですが、不幸な目に遭う旅行者(演じるのはそういう役がぴったりのスティーヴ・ブシェミ)を皮肉たっぷりに描くコーエン兄弟の「チュイルリー」、「ハンニバル」のギャスパー・ウリエルと「エレファント」のイライアス・マッコネルといううっとりとするような美貌の青年たちの運命の出会いを描いたガス・ヴァン・サントの「マレ地区」、スピード感あふれる凝縮された映像に女優志望の少女(ナタリー・ポートマン)と盲目の青年(メルキオール・ベスロン)の美しいカップルが映える、トム・ティクヴァ(「ラン・ローラ・ラン」の監督)の「フォブール・サン・ドニ」などです。
好き嫌いがわかれる作品

舞台はパリのある有名レストラン。その名も Au Petit Marguery (映画の原タイトル)。フランス国内はもとより、外国からも食べに大勢の客がやってくる。名物は magret de canard (鴨の胸肉)。しかし、レストランは今夜限りで店を閉めてしまう。その最後の晩餐に常連客たちが名残を惜しむために集まってくる。

ソフィア・コッポラ監督が『
ストーリーもさることながら、美しいビジュアルも必見である。森の中には学校と屋敷のほかに街灯や公園や湖はあるものの、文明的なものはいっさい出てこず、強いて言えばバレエレッスンの時に使う蓄音機だけで、いつの時代なのかはわからないようになっている。前述と別のインタビュー**では「場所を選ぶのに、どこの国だか分からない場所にしました。撮影はベルギーで行いましたが、何ケ所かで撮影したものを集め、一つの敷地、学校にしました。美しく、ちょっと奇妙な場所、建物も古びていていつの時代のものだか分からないようにしました」と言っていたルシール監督。ひとつの完成された要塞を見事に描ききった。







本作の原題は L’auberge espagnol−訳すと「スペインの宿」。「スペインの宿のように、そこには持ち込まれたもののすべてが見つかる」というモーロワの一節が引用されているように、つまりは文化的な混沌状態を指す。ちなみに英国での公開タイトルは「ユーロ・プディング」。今のヨーロッパを象徴するような物語だ。(この先はネタばらしの可能性があるので、映画を見てからお読みになることをお薦めします)



なぜ日本の中年女性はハンカチ王子だの、ちょっと前ならヨン様だのを前にすると見事に少女化するんだろう?
日本の映画会社から「ヒロシマ(原爆)」についての映画作成を引き受けたアラン・レネは、シナリオをマルグリット・デュラスに依頼した。少し前に発表されたデュラスの『モデラート・カンタービレ』に深い感銘を受けたからだった。現在ではこのシナリオはデュラス作品のうちの重要な文学テクストとみなされている。そして『ヒロシマ・モナムール』の大成功によってデュラスの名前は一躍世界的なものになった。そもそも初めてのシナリオ作成に戸惑うデュラスにレネがおくったアドバイスは、いつものように「文学をやりなさい」というものであった。
