2013年09月07日

駒沢敏器について

夏の読書案内の企画で、書棚にある本の中でも取り分け思い入れのある一冊について書いたのが2010年の夏。

『語るに足る、ささやかな人生』 駒沢敏器 小学館文庫
語るに足る、ささやかな人生 (小学館文庫)ネットにアクセスすれば旅行記にあたる、とまでは言いませんが、色とりどりの写真で飾られた、様々な国での旅の記録をやすやすと見ることができます。しかし、旅した土地へのそれなりの関心と旅人へのそれなりの共感がなければ、読み通すことはむずかしい。なるほど、あなたは確かにそこにいたのでしょう。で、それで?という問いかけに、答えを返すことができるものがどれほどあるでしょう。旅というあくまで私的な体験を他人に伝わる言葉にすることは、なまなかなことではできないと思うのです。しかし、すぐれた書き手による旅行記は、豊穣なひとときを約束してくれます。

ふた夏をかけスモール・タウンを数珠つなぎ的に巡りアメリカを横断した記録であるこの本は、「旅もの」の棚に置いておくにはもったいない、豊かな一冊です。アメリカ文化へのなみなみならぬ愛情と造詣の深さで知られる著者による、地に足の着いたアメリカ論であるとともに、アメリカの片田舎で今を生き考える人々と出会える「場」でもあります(相手に近づきすぎず離れすぎない、作者の絶妙な距離の取り方のなせる技のたまものです)。短い文章に綴られたスモール・タウンでの体験はどれも密度が濃く、よくできた短編の連作集を読んでいるような錯覚すら覚えます。

アメリカの田舎で著者が見聞きしたことが、2010年夏の日本とすっと結びつくのも、また、おもしろい。一見平和そうな小さな街で数を増している児童虐待、家庭からお母さんの味が失われていく理由、小さなコミュニティの生滅を分けたもの。国境を越えた、他人事ではないリアルがそこにあります。

この本はまた、「詩的」な文章とはどんなものであるか教えてくれます。プレーンな言葉をつみあげたごく簡素な文章なのですが、風景描写ひとつとっても、ダッシュボード越しに目の当たりにしているかのような気分になります。写真にして見せられれば特に感想も出ないような光景なのでしょうが、優れた書き手はその何もなさそうな風景が秘めたものがどんなものか、読む人の五感に直接伝えることができるのです。

ここではないどこかを移動する、パッセンジャーとしての経験を満喫させてくれる一冊です。この夏は旅と無縁だったとお嘆きのあなたに。アメリカのサブカルチャーにに多少なりとも関心のある向きには、めくるめく一時をお約束します。

この本のおもしろさを伝えたいという一心で、こんな前のめりになった一文を書かせた著者、駒沢敏器氏が2012年3月8日亡くなった。51歳だった。翌日の新聞の社会欄の記事は、その死が事件性のあるものであることを伝えていた。その年の暮れ、ようやく、思ったことをまとめてみた。


地球を抱いて眠る (小学館文庫)好きな作家の死を知らされるのはつらい。特に、その作品が「わたし」というもののどこかを作った人となると、たまらない気持になる。

駒沢敏器氏の死には、しばらく立ち直れないほどの衝撃を受けた。作風とはかけ離れた好奇心むきだしの三面記事で、彼の死を知らされなければならないなんて。どうして?

いろいろなことを教わっただけではない。彼の描くアメリカを通じて、なぜ自分がこれほどアメリカ文化に魅了されるのか納得することができた。控えめな態度と曇りない眼差しで、わかりやすいステレオタイプからこぼれおちた物事や人の営みをそっと拾い上げ、ほら、と気さくに手を差し出して見せてくれた。良質の短編小説のように描かれた邂逅の一つ一つににうならされたものだ。

その死を知った直後から頭の中で鳴っていた曲を、献花に代えて紹介したい。穏やかなイメージの彼の作品にそぐわないと思われるかもしれないが、氏の内側には案外激しい思いがあったのではではないか。奔流のようにうねるベダルスチールを聞きながらそう思う。

http://youtu.be/RY1NCN7sBK0

上の一文で触れた Hacienda Brothers の ”Walking on my dreams ”を選んだ気持ちは、今も変わらない。

駒沢氏の作品に触れてみたいという方は、小学館文庫で今でも手に入る著作2冊を手に取ってほしい。毛色の異なる2冊だけれども、この人でしか書き得なかった世界がそこにあります。


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2013年08月29日

『とうとうロボが来た! 』Q.B.B.

最近は『孤独のグルメ』の遅まきブレイクで一躍知名度アップな久住昌之氏が、弟卓也氏と組んだ兄弟マンガユニット、Q.B.Bの出世作。少し昔の小学生、犬が飼いたくてたまらない新吉君の日常生活が爆笑4コマ形式で描かれています。
 
とうとうロボが来た! (幻冬舎文庫)このマンガは、小学生であったころに五感で感じた、言葉にできない「あの」感じを生き生きと呼び覚ましてくれます。いつまでも終わらない風だった、長くて暑い夏の日、プールの帰りの寄り道のけだるい時間のながれ。あの頃の記憶が、手持ちぶたさな時の手遊びや仕草、噛みすぎて味のなくなったガムだとか、さりげない描写を通じてまさに皮膚感覚で蘇ります。(例えば、体育座りの姿勢で内股をぱたんぱたんさせたりしませんでした?そんなツボをこのマンガはびしびしついてくるんです。)単なる懐かしさ以上の、不思議な感覚を味わえます。『孤独のグルメ』でもおなじみ、兄久住氏のセンスの良い「細かさ」のなせるわざなんですが、弟久住氏のゆるーいタッチの絵も多いに貢献しています。
 
また、オトナが手がける以上仕方のない事ですが、コドモの世界=イノセンスでポジティブで素晴らしい、という見方がきれいにナイところもあっぱれ。オトナには謎なコドモじみた論理も、あほらしさも、いい悪いなくそのまま伝えています。オトナが「なんでそんなしょうもないことで泣いたりするの」とあきれ顔をする場面でも、コドモにはコドモの理屈があるんですよね。わかってもらえない焦燥感も、これまた身体レベルであますところなく書き込まれているのがウレシイ。もちろん男子小学生ライフにはお約束の下ネタも満載。イノセンス幻想や甘いノスタルジアを求める人にはちょっと向いていないかも。ただ読了後の幸せな感じはお約束します。
 
はまったら、同じユニットの他の作品もどうぞ。「人生で一番ダサイ季節」を描ききった姉妹編4コママンガ『中学生日記』もおすすめです。

※もともと青林堂から出版されていましたが、幻冬舎からも文庫として出ています。

□初出は2007年8月3日(「夏のなげやりブックガイド」より)

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2013年05月08日

日本は意思決定システムを構築するのが苦手?――『昭和16年夏の敗戦』猪瀬直樹著

ちょっと古い本になります。先日東京都知事に選ばれた猪瀬直樹さんの著作です。詳しい事情はよくわからないんですが、昨年夏ごろに猪瀬さん自身がツウィートして注目をふたたび集めたらしく(たしか何年か前にも石破茂現自民党幹事長を通じて話題になったはず)、初出から30年ほど経っているのを考慮に入れれば「古くて新しい」本といえるでしょうか。

昭和16年夏の敗戦 (中公文庫)背表紙には「緒戦、奇襲攻撃で勝利するが、国力の差から劣勢となり敗戦に至る……。日米開戦直前の夏、総力戦研究所の若手エリートたちがシミュレーションを重ねて出した戦争の経過は、実際とほぼ同じだった! 知られざる実話をもとに日本が<無謀な戦争>に突入したプロセスを描き、意思決定のあるべき姿を示す」とあります。総力戦研究所とは、開戦の直前に、おもに当時の各省に所属する平均年齢33歳の若手官僚を中心に結成された総理大臣直属の機関で、「来るべき」対米戦に関する展望を考察する目的のために結成されました。もうすこしここを詳しく説明しておくと、この研究所は昭和15年8月に閣議決定、同年9月に公布されたバリバリの政府機関です。本書において詳細に描かれているように、同研究所は翌16年4月に本格的&泥縄的に始動をしてから、半年も経たないうちに、具体的には8月27日に対米英開戦の見通しについて以下のような結論にたどりつきました。

「12月中旬、奇襲攻撃を敢行し、成功しても緒戦の勝利は見込まれるが、しかし、物量において劣勢な日本の勝機はない。戦争は長期戦になり、終局ソ連参戦を迎え、日本は敗れる。だから日米開戦はなんとしてでも避けねばならない」

この予測については見事というほかありません。実際の経過をかいつまんでおくと、12月8日に日本は対米英戦を開始し、真珠湾奇襲攻撃に成功。その後しばらくは各地で連戦連勝。ところが17年6月のミッドウェイ海戦の大敗北をきっかけとして、次第に戦局が悪化。18年になると海軍は油不足のために作戦行動に支障をきたすようになり、また米軍は圧倒的な物量を生かして本格的に反撃を開始。19年6月マリアナ沖海戦、10月レイテ沖海戦で海軍が大惨敗。20年2月のヤルタ会談でソ連の対日参戦が決定。8月ソ連参戦、そして敗戦。

彼ら若手エリートは当時日本全体を覆っていた「雰囲気」にとらわれず、具体的な数値やデータを元に、比較的短期間で上記のような結論をはじき出せていたわけです。つまり時局を冷静に見極めることができる頭脳と組織はあるにはあったのですね。しかも、総力戦研究所がソ連による対日参戦まで言及している一方で、日本政府は終戦直前、仲介相手国にソ連を選んでいました…。

そしてここではぼくの意見を補足しておきます。日本はこういった組織を早ければ第一次大戦終結期(1918年。その後の戦争のあり方が国家の「総力戦」になるということが判明した時点)、遅くともワシントン海軍軍縮条約締結(1922年)前までに作っておくべきじゃなかったかと思います(なお、本書では「総力戦研究所」のアイディアを日本で最初に思いついたのは辰巳栄一在英駐在武官補佐官であり、1930年のことであると紹介されています)。ワシントン海軍軍縮条約とはアメリカ、イギリス、日本、フランス、イタリアといった主要国の海軍力の制限および保有比率を決めた条約で、少なくとも現在から判断すれば当時の日本にとってかなりおいしい条約だったといえます。戦艦、空母といった主力艦艇の保有比率が米・英・日でそれぞれ5・5・3と割りふられており、当時の国力差を考えれば自国と比べての両国それぞれの戦力を「2倍以内」に抑えることができたとも考えられるからです。ところが当時の日本海軍にこれを「屈辱」とみなす空気が生まれはじめ、1930年のロンドン軍縮条約(おなじく、当時の国力差を考えるとおいしい条約であったともいえます)締結直後には、軍部、マスコミ、野党政友会がこぞって政府を批判。当時すでにはじまっていた世界恐慌との相乗効果もあいまって、515事件、226事件と政府を狙ったテロやクーデターが相次ぐようになり、事実上このころから政府機能は歯車が狂い始めていました。直接名指しで批判できるような主体が存在しない「対英米参戦の気配」が漂いはじめ、そのうち1939年9月にはヨーロッパで第二次大戦が勃発。日本は時局に右往左往したのちに、ドイツが快進撃中であった1940年8月、上記したように総力戦研究所の設立を閣議決定。1940年9月の日独伊三国同盟締結。時間軸だけでみると(本書でこのあたりの詳しい経緯は書かれていませんが)、このころになってやっと「雰囲気」であった対英米開戦を本気で考えはじめたのかもしれません。いよいよ開戦が時間的に迫ってきたというときに、「さて」とその展望のシミュレーションをはじめたのではないでしょうか。

そして、ちょっと長くなりますが「総力戦研究所」の上記の報告を聞いた東條英機陸相の反応を紹介しておきましょう。彼はこの直後、開戦に反対している天皇陛下に極めて忠実であること、強硬な態度を崩さない陸軍を抑えることができる可能性がある人物として首相の座に就くことになります。また戦後相当な数の日本人がイメージしてきたように、べつに東條英機はなにがなんでも総理&独裁者の地位を手に入れようとしていたわけではありません。どちらかといえば官僚気質の強い人物で、陸軍「省」の省益を極めて忠実に追求する高級官僚の一人であったということを念頭においてご覧ください。

「飯村署長の講評が終わると、二日間にわたり克明にメモをとっていた東條陸相が立ち上がった。(中略…)。前田は、東條の表情が蒼ざめこめかみが心もち震えていたように記憶している。「東條はいったいなにをいう気だろう」。研究生たちは緊張した。以下の東條発言はどこにも記録されていない。研究生それぞれの記憶の奥底にしまい込まれていたものを重ね、総合し、ほぼ正確に復元させたものである。
「諸君の研究の労を多とするが、これはあくまでも机上の演習でありまして、実際の戦争というものは、君たちの考えているようなものではないのであります。日露戦争でわが大日本帝国は、勝てるとは思わなかった。しかし、勝ったのであります。あの当時も列強による三国干渉で、止むに止まれず帝国は立ち上がったのでありまして、勝てる戦争だからと思ってやったのではなかった。戦というものは、計画通りにいかない。意外裡なことが勝利につながっていく。したがって、君たちの考えていることは、机上の空論とはいわないまでも、あくまでも、その意外裡の要素というものをば考慮したものではないのであります。なお、この机上演習の経過を、諸君は軽はずみに口外してはならぬということでありますッ」
 「それにしても」と前田は怪訝に思う。「どうして狼狽しているのだろう。だって、これは架空の話じゃないか。そんなことにいちいち念を押すなんて、どうかしているよ」
 帰り際、新聞記者の秋葉<情報局総裁>は、持ち前の勘で<青国閣僚>たちに解説してみせた。
 「東條さんの考えている実際の戦況は、われわれの演習と相当近いものだったんじゃないのかい。じゃなければ゜口外するな゜なんていわんよ」
 研究生たちには思いあたることがあった。演習の間、しばしば東條陸相は、総力戦研究所の講堂の隅に陣取り<閣議>を傍聴していた。そういうことが一再ならずあった。
 東條は総力戦研究所の本来担うべき役割について、深い関心を寄せていた数少ない首脳の一人だったからである」

この記述によると、総力戦研究所の秋葉記者の意見はもっともだと思います。東條英機は同研究所の見解をまっこうから否定しているわけではありません。そもそも「机上演習」することが目的で設立された同研究所に熱心に足を運びつつ、最終的に「机上演習の経過を、諸君は軽はずみに口外してはならぬということでありますッ」というくだりは、意見に同意しながらも、それが周囲に知れわたることを恐れたことを示していると考えられます。

実際に彼は天皇陛下によって直接大命降下がなされる時点まで、自分が首相に指名されることなどまったく想像してもおらず、首相指名をされた当日も本人は参内するにあたって、とある出来事の件で陛下から「お叱り」を受けると思っていたのが、そこで組閣命令=総理就任を命じられて茫然自失。しばらく言葉を失ってしまい、さらには宮中をあとにしたのちに、明治神宮、東郷神社、靖国神社を立て続けに参拝し、その間押し黙ったままの彼の様子をいぶかった秘書官から「どういうことですか」と問われると、「とんでもないことに…。組閣の大命を拝したんだ…」と途切れ途切れにつぶやいたとあります。

これをみるに、おそらく彼は陸軍省の高級官僚に登りつめた経緯が物語るように「対英米戦主戦派」のひとりでありつつ(当時の陸軍が「対英米戦」は「海軍の仕事」というふうにみなしていたと思われてなりません…)、省益を離れて対英米戦が実際にはじまったときの日本の悲劇も予想できる目をもっていた側面は、良くも悪くも注目すべき点であると思います。

また、この記事の締めくくりとして。タイトルとも絡みます。つくづく日本は意思決定システムを構築するのが苦手な国だなと思います…。

こうして開戦した第二次世界大戦にしたところで、地政学的な条件下に左右された&ある程度の作戦連携はしていますが、陸軍はおもに中国と戦い海軍はアメリカと戦う、しかも陸軍は独自に空母や潜水艦をもつといったように…、統一的な意思決定ができていたとはいえません。少なくとも陸海軍はたがいに正確な戦果/被害報告をしていなかったと判断される事例が数おおく見られ、かりに戦時に突入してしまったことを受け入れざるをえないとしても、いざ事がはじまってからでも、自分たちの思惑に縛られつづけ味方をも欺く行為に及んだと指摘されてもしかたがないと思います(また、そもそも軍部の暴走を許してしまった「統帥権の独立」のことも扱うべきでしょうが、背景まで説明するとかなり長くなるのでこちらの wiki のページをご参照ください)。

さらに、現代においても東日本大震災に際しての原発事故への対応、その後の復興庁(各省庁の利益落としどころ組織にしかみえない)創設、その後の復興予算流用問題。

さらにさらに現時点では問題が見えにくいのは仕方ない面もあると思いますが、少子高齢化&人口減少社会が目の前に迫っているのはわかっているはずなのに、「教育」を念頭に文部科学省が幼稚園を統轄し、「保健衛生」を念頭に厚生労働省が保育園を統轄してるってのは、かりに「人口減少社会」に危惧を抱くのが国民の合意にいたったときには、必要な区分けになるんでしょうか。それぞれの省の思惑が絡んだ理念はいいとしても、棲み分けのために「あれはしてもいいけど、これはだめ!」ってな区分はこれから子どもを持とうとする国民とその子孫のためになるんでしょうか?



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2013年05月02日

石村博子 『たった独りの引き揚げ隊−10歳の少年、満州1000キロを往く』 

文庫の魅力は、単行本として出版された時に日の目をみなかった良書が今一度店頭に並び新しい読者と出会える場を作ってくれる仕組みであること。今回は、そんな仕組みのおかげで再び書店に並んだとびきりのノンフィクションを紹介します。

たった独りの引き揚げ隊  10歳の少年、満州1000キロを征く (角川文庫)引き揚げ隊から突然ほぼ身一つで放り出された小学校高学年の男の子が、たった独りで満州の曠野を踏破したというとてつもない事実の記録です。この本の主人公、古賀正一君がなぜそんな目にあわねばならなかったのか―それは彼が敵であるロシアの血を引く少年だったから。コサックのリーダーの娘である母と、ビクトル(ビーチャ)というロシアの名を持つ少年だったのです。しかしこの災難の原因が、彼を救います。

歩き方や方位の見極め方、何が食べられどの水が飲めるかといったサバイバル術から、良きコサックとしてのあり方・態度−小さい頃からごく当たり前に教わってきたことを、独りぼっちのビーチャは生き延びるため必死に思い出して実践します(その知恵の豊かさ、確かさときたら!圧倒されます)。一つ一つのノウハウは、自然と向き合い生きてきたコサックが親から子へ引継いできた伝統の生活文化そのもの。「文化」という言葉で呼ぶと生きることからかけ離れた遠いものを示すように聞こえますが、コサックの文化はそれを自分の中に取り込んで実践した非力な少年を救ったのです。橋のない川、暑さ寒さ、空腹や害虫、日本人を恨む大人達…降り掛かる困難を自分の力で解決してゆくビーチャの姿に、彼の陥っている苦境を忘れ、手に汗にぎってしまいます。

道行きは当然のことながら過酷な現実の連続。死者の靴を脱がせてはかなければならない状況に置かれ、恐ろしい光景もたくさん目にします(強い日差しに曝された老若男女の死体についての話は、とりわけ衝撃的です)。しかし、ビーチャには「かわいそうな子供」の印象はみじんもありません。独りで行くことを自分で決断した強さのせいでしょうか。日本人の大人は敗戦と敗走という現実にくじけ、下を向いてばかり。弱いものを気遣う余裕もない。それなら、大人なんか当てにせず、独りでゆくさ。前を向いて、ロシアの歌でも口ずさみながら。

子供ならではの好奇心と偏見にくもらされていない目で捉えた道中のあれこれは、これまで大人が書き記してきた引き上げの記録と違い、より「開かれた」ものとなっています。離れたところから目撃した、混乱し自滅してゆく日本人の姿は、鋭い日本人観とも読むことができます。敗走の現場の細部を率直かつリアルに捉えるだけではなく、満州という土地とそこに暮らす様々な国籍の人々の生きざまにもきちんと触れているのにも目を開かされます。

それなりの頁が割かれたビーチャの単独行以前の話も、この本を豊かなものにしています。特に、母方のコサックの人々の暮らしと歴史が、ビーチャの視点を通じて身近なものとして丁寧に伝えられているのがとても興味深い。国を追われ満州で細々と暮らしをたてつつも、祖国ロシアへの熱い思いと優秀な戦士としての誇りを持ち続け伝統を守ってきたコサックの暮らしと文化が、日本の敗戦によりあっけなく終焉してしまう―この隠れた史実が、この本のもう一つのテーマとなっています。 

先祖より受けついだ文化の力で生き延びたけれども、教えてくれた大人や兄貴分はもはやこの世におらず、はからずもその血をひく自分がこの文化の実質的な終わりを見ることとなった。そんな皮肉な運命を負いながら、ひょうひょうと語り回想するビクトル古賀氏の中に、書物だけでは感じ取ることのできない歴史と言う太い川の流れを見ます。ロシアの格闘技サンボの名選手としてロシアで英雄視されている古賀氏ですが、その言葉のはしばしにあの頃のはしっこいビーチャがいます。


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2013年03月06日

石牟礼道子 『食べごしらえ おままごと』 

最近読んだ群ようこのエッセイによると、東京都心のマンションでは住民の出す生ゴミの量が激減しているそうだ。上手に処理しているから?いえいえ、家で料理をすることを放棄し、食事はデパ地下で買うからなのだ。仕事で忙しいカップルだけではなく、定年退職後のゆとり世代もそうだとか。とうとうそこまで来ましたか、と嘆息してしまう。

食べごしらえおままごと (中公文庫)最近の「普通の家」の食事の実態を知らしめた本、『家族の勝手でしょ!』(※)に掲載された、その日のママの都合と家族のメンバーの腹具合を優先させた結果としてのさムーい食卓風景の写真には十分戦慄させられたけれど、見る人によっては当たり前で、別に驚くことも何ともないらしい。むしろ「上から目線で不愉快」とこの本を批判する声も少なくないそうだ。

食べる、ということがこれほど多様を極めたことはなかったのではないだろうか。コンビニのジャンクフードから贅を尽くした一皿、オーガニックにマクロビにチンするだけの中食と、あなたの都合とあくなき欲望に合わせて食べものがあちこちでおいでおいでをする。しかし、そんな多種多様な当世の食には共通点があるように思う。どれも消費される物だけでしかない。食べるひとのためだけに奉仕してオシマイ。どんなに技や人手がかかったものでも、口に入れてしまえば、その背景は消えてなくなる。人の欲を充たすことだけに存在する、孤立した存在。こぎれい、おしゃれな見かけの裏で、そんな食の風潮がとどまることなく進行しているのが今なのだと思う。

家族の勝手でしょ!: 写真274枚で見る食卓の喜劇 (新潮文庫)今回取り上げる本が懐かしく物語るのは、人が積極的に立ち働かなければ腹に入れるものが何もまかなえなかったころの食の風景だ。これぞ天然自然食、昔に帰れなんておいそれとは言えないきびしい生活がある。しかし、小麦もあんも味噌も土を耕すところから作るしかない環境で幼い日々を過ごした著者が語る食べものには、「私」を超えた人々、事象とのつながりがある。甘い甘いあんこ餅にも、田植えの手伝いにきた人をもてなす大皿一杯の煮染にも、食べごしらえする人と家の暮らし、食材を育む四季の移ろいが見えてくる。そんなあれこれをもろもろをひっくるめていただくのである。「美食」では語れない味の風景だ。

前書きでいみじくも著者が言うように、食べることとは、猫が青草を噛んで戻すときのように、「憂愁が伴う」ものだと思う。生きるためには腹に物を入れなければならない。小ぎれいなものではない。それでも著者が語る食の思い出にうたれるのは、食べることに呑み込まれてしまわず、食べものを慈しんで日々を生きる人の様が描かれているからかもしれない。著者が綴る小さな玻璃の玉のような思い出の中に、歌の節のような九州のお国言葉がきらきらしている。(巻頭のリッバな料理の写真(著者のお手製)はあくまで飾り。メインディッシュは本文ですので、ひるまず味わってみてください。)

※『家族の勝手でしょ!』は最近新潮文庫の仲間入りをしました。覗いてみるのも一興かと。


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2013年01月28日

大野更紗著 『困ってるひと』:「これが、苦しむ、ってことか」

大野更紗氏、上智大学の学部生の時代からビルマの難民の方々のお世話に奮闘し、晴れて(?)院生となりタイでのフィールドワークに打ち込もうとした矢先、病名も治療方法もわからぬ難病に倒れ、思いもかけず自分がお世話される側に。今まで何気なく出来ていた日常動作が「ビルマのジャングルに行くよりもずっと大変」、「毎日が全力ダッシュマラソン、超絶探検隊」になってしまう。彼女はそのまま医療難民となり、1年以上たってようやく入院・治療できる病院を執念で探し当てるが、この現代医学が解明できない難病は根治には至らないまま徐々に体を蝕んでゆく。

困ってるひと (ポプラ文庫)どうしてこんなことになってしまったのか、またどうして次々と様々な病態が起こり続けるのか、という不条理に対する疑問はここではひとまずおいておこう。彼女が陥った最大の「難」は、人がこのような長期療養状態に陥ったとき、真っ先に物理的・経済的な問題に直面するという事実であった。難病にかかった事で彼女は生存するためにまず直面する現実的な問題に目を見開かされることになる。日本の社会保障制度は、まんま今の日本を象徴しているようだと彼女は言う。「出口のない経済不況、いつまでも改善されないどころかむしろ悪化の一途をたどる社会保障、医療や福祉の制度、金融危機、就職危機、家族の崩壊、地域の崩壊、うつの増大、自殺者の増加、孤立死の頻発・・・」、「あっちゃこっちゃで火の手があがり、何から手を付けていいかわからないので、とりあえず「対処療法」で時間を稼ぐ。根本的な問題は、とりあえず先延ばしにする。システムそのものの、全身性の機能不全に、太刀打ちできない」。

遠いビルマでなく、この一見便利で裕福な日本で、「難」の当事者になることによって彼女は今まで見えなかった制度のハザマに飲み込まれることになってしまった。しかしながら彼女は、正面きって、おのれの力で、道なき道を切り開いてゆく。文字通り死にそうになりながら。死にかけていても(さらに25歳の乙女でも)世間は厳しい。政治犯への拷問と同じような、普通あり得ない目にあっているのに(麻酔なしで筋肉切除とか、神経がずっとむき出し状態とか、のオンパレードなのだ!)、周りの人が「甘えるな」というメッセージを常に彼女に対して発してくる。

ところで「己の生存をかけて闘う」「逞しい」圧倒的弱者にはさらに世間は厳しくなるように思う。この著書に対するアマゾンのカスタマーレヴューでも思ったのだが、生活保護の問題と同じように当事者の「性格」「態度」や著書の「文体」にまでその批判は及ぶ。(批判する人は「難」を体験してない「健康体」の人ばかりではなく「難」の当事者もいるようだ。)信頼するお医者さますら、親心なのかもしれないが、「社会の制度や障害の制度や他人をむやみに頼るな」と言う。しかしながら当事者としては死んでしまってはもとも子もない。彼女は自分の難病については「治らないものは治らないんだから、仕方ない」と引き受けている(若干20代の方がそういい切れることに深い尊敬の念を抱いてしまう。自分だったらとてもできないだろう…運命を呪いまくるだろう…)。彼女がスゴイのはこの時点で、問題は「難」だらけの体でどうやって自立して生活していくのかであるということを冷静に理解してしまっている点である。彼女は闘病の初期に、命綱の人間関係に亀裂が入ってしまうというあまりにも辛すぎる経験からこのことを学んだ。このような経験をしても彼女が挫けなかったのは、彼女がすでにそれまでの人生の中で精神的に他人に依存することなく生きてきた人だったからなのだろうと思う。実存的な人間の孤独が図らずしも露わになる。

方舟しりあがり寿氏の『方舟』という作品を思い出した。彼は自分の作品に触れて、「お腹が空いてどうしようもなくなった時、いい人のままで死ぬか、人から食べ物を奪ってでも生きるか。そういうラインの人が増えてきている。年間の自殺者が3万人といいますが、考えてみたら、その人たちは仏のままで死んでくれているわけで、鬼になっていたら大変なことになる」とおっしゃっておられる。しかしながら、これらの自殺者の方々は別に「仏」になってひっそりこの世から退場されているわけではないのではないか。人はいざというとき鬼になってまで生きたい本性を持つのかもしれず、単に社会からの「甘えるな」というメッセージを内面化しつつ絶望し、己の身に降りかかる不条理を呪いながら鬼になって亡くなっているのかもしれないのだ。恐ろしいことだ。我々は日々このような呪詛に取り囲まれて生きているのにその恐ろしさに気づけないとは…よくよく考えてみると現代の超ストレス社会&リスク不確実社会においては、実は不条理な事態は誰にでも起こりうる可能性がある事であって、普段はそういった不安を払拭し他人事であるように我々は振舞っている。もしかしたらそういう根源的な不安を惹起し、一見平穏に見える日常に亀裂を入れてしまうような存在を我々は本能的に嫌い、「ひっそり」目の前から消えてくれることを、実は、願っているのではないだろうか…

このように考えてくると、ぎりぎりのところで希望を失わず、生きることを選んだ大野氏こそが「仏」に思えてくるのだ。
彼女は言う。
「「困難の総合商社」となってみて、予想だにしない発見がありました。人は、生命の危機に瀕する状況下において「わたしが、大変だ!」ということばかりを言いたくなるわけではない、ということです。」
「絶対絶命の状況下では、発病前には思いもよらなかった、驚くべき光景や人の営みに出会うのです。」
「直感的に「これが必要だ」とか「これはやらなくちゃいけない」って思ったときは、必ず一旦は少数派になる。それでも、最後まで信じ切ること。「これは重要なことだ」という自らの直感を信じ切って、最後まで理性に頼み、やりきる。」と。…これはもはや仏の言葉ではないか。

メメントモリ―逆説的ではあるが「人はいつか必ず死ぬ」ということを常に忘れない人間だけが、理想を信じ続ける、言い換えれば自分に対する尊厳を保ち続けることができるのかもしれない。瀬戸内寂聴氏も「みんなのために良かれと思ってやっていることを、冷たい目で見る人たちがいます。そういう人は、"縁なき衆生"と思って放っておきましょう。あなたはあなたで正しいことを、自信を持ってすればいいのです。」 と言っておられる。

いずれにせよ、おそらく自分も殺さず、鬼にもなりたくない彼女は、自分の社会生活や人間関係を壊さずに、持続的に生きていくためには、行政・福祉といった社会保障制度を利用し、非持続的な人間関係に頼らず、「自立」して生きていくしかないことに気づく。ところがこの制度を利用するためには、様々な壁が立ちはだかっている。身体的にも精神的にも弱った患者自身が、専門家でもわからないような行政用語を解読し、自分が使える福祉を探り当て、山のような書類を書き込み、さらに物理的に役所関係の様々な場所に移動してまた山のような書類を書き込み提出するという、健康体でもムリムリ!な苦行を成し遂げなくてはならない。さらに生活のすべてにわたる必需品も自分自身でゲットしなくてはならない。地方出身で頼れる親戚縁者もなかなかいない若者世代にとって気が遠くなる話ではないか。こうした不備だらけの制度であっても、長年当事者たちが苦しみながら福祉上の権利を勝ち取ってきた闘いの歴史があるのだが、それも近年の長引く経済不況でバックラッシュ状態であるという。生活保護の問題とも深くリンクする話であることがよくわかるので、合わせて読まれたし。
http://www.magazine9.jp/interv/inaba/index1.php
http://www.magazine9.jp/interv/inaba/index2.php

結局誰もが「持続可能に生きていける」ことを可能にする社会保障制度を切り捨てないことは、我々の共同体・社会全体が呪詛や暴力に支配されず、持続的に安定して営まれてゆくために、非常に合理性に適ったことなのだ。

大野氏はさらに長引く入院生活の中で、専門家のタコツボ化の問題にも気づいてゆく。「医学的に正しい」ことと「実際の患者の生活空間での判断基準」は大きく乖離しているのに、実際受けられる福祉を決定するのは、当事者の声ではなく、主治医の決定=胸三寸にかかっている。これでは、ただでさえ治療の現場においては必然的に非対称的な権力関係になるというのに、患者はますます「いい子」でいることを強いられてしまい、「本当のニーズ」なんて言えるわけがない。

退院後の命綱となる在宅福祉の内容を決定する「主治医の意見書」に、当事者の声も聞かず、ほとんどの必要介助の欄に「必要ない」のチェックマークを入れられ、最低限のヘルパー支援すら受けられなくなる危機に瀕した大野氏。しかも心から信頼しきっていた医師に裏切られた思いに憤った彼女は、始めて彼にブチ切れ喧嘩腰に「先生!どうして何も聞かないで勝手に決めるんですか!」と啖呵を切る。その返答はこれまた喧嘩腰の「いま忙しい!医学的に正しいことを書いた!本人に聞く必要はない!」だった。このエピソードは日本の医療に欠けているもの=当事者の視点であることを見事に浮き彫りにしている。

「身体的にすごく苦痛で、社会的に経済的にどんどんどんどん困窮してっちゃう患者さんたちを目の前で見ていて、本当に……難病になるって、こんなに大変なのに、なんで「こんなに大変だ」って言わないんだろう!」と言いつつ、その理由を彼女は誰よりも身に染みてわかっている。こういう空気を少しでも変えることは時間も根気も手間もかかることであり、「甘えるな」という世間の声にめげずに、当事者たちが「こんなに大変だ」と言い続け可視化してゆくしかない。こうした発想のもと「星の王子さま」バッチは生まれたのだ。http://bit.ly/SeTL3C

このバッジにはサン・ テグジュペリの「星の王子さま」に出てくる「大切なものは目にみえない」という言葉が刻まれているが、これは「星の王子さま」に登場するキツネの言った言葉だ。
‐Voici mon secret. Il est très simple: on ne voit bien qu'avec le cœur. L'essentiel est invisible pour les yeux.

さすがフランス語学科卒!!あるインタヴューの中で、大野氏は、学部生のとき大好きだったというフランス人の先生に言及していたが、数年前亡くなったガブリエル・メランベルジェ先生のことと思われる。なつかしい…彼女はあまりにフランス語が出来ず授業中「コ・ロ・ス・ゾ」と言われたそうだ(笑)。


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2012年12月26日

北原みのり 『毒婦。木嶋佳苗100日裁判傍聴記』

2009年秋「婚活サギ女」「練炭女」「平成の毒婦」などの言葉と共に、センセーショナルに報道された殺人事件。この事件は「男を食い物にした女の事件」として「常識」ある人々を震撼させたが、この事件に当初から違和感を感じた人は多かったのではないだろうか。報道されるたび、地味な容姿でぽっちゃりした体型の制服姿の女の写真が必ず添付され、犯人とされる女性の容姿と性に焦点をあてたセンセーショナルな扱い。しかしながら、その容姿が美しければ、よくある話であり、さらに言えばいやらしい視線を伴った同情が彼女にもっと集まったに違いない。報道は常に、男性目線の物言いで「なぜこんな“ブス”に大金を」と繰り返した。そう、この事件が人目を引いたのは、次々と男性を騙して殺したとされる女性が「美人」ではなく「不美人」だったからだ。この本は2012年1月10日に始まったこの事件の裁判の傍聴記であるが、法廷での木嶋早苗と彼女を取り巻く男たちの証言と振る舞いを、北原みのり氏が「女性の目線」で冷徹に観察している。

毒婦。 木嶋佳苗100日裁判傍聴記ひと言で言えば、木嶋佳苗という人は、女という属性の何が「売り」になるのか、「より高く売れる商品」にするためにはどうすればよいのか、天才的に理解し、それを実践した。そして、彼女を通して、男性に都合の良いクリシェ=「女性は無償で男性に尽くすもの」が男たちの間に相変わらず流通していることが明らかにされたのだった。北原氏が「佳苗ガールズ」と名づける、木嶋佳苗に「憧れる」ブルセラ世代の女性たち(彼女と同世代もしくは少し下の世代の女性たち)もまた、それらのクリシェはもはや男たちの妄想に過ぎないことを証言するのだ。

「申し訳ないんですけど (…) 被害者の男性に同情ができないんです」
「男性の結婚観って、古いですよね。介護とか、料理とか、尽くすとか、そういう言葉に易々とひっかかってしまう。自分の世話をしてくれる女性を求めているだけって気がするんです。佳苗はそういう男性の勘違いを、利用したんだと思う」(30代主婦)
「佳苗に憧れている (…) 堂々としているから。私は、男が求める女を演じて、ついつい媚びたり、笑ったりしちゃう。そういう自分が嫌なんです。でも佳苗って、男に媚びる演技はするけど、実は全然媚びていない。ドライですよね」(30代女性会社員)

これらの言葉が日本の女性たちが背負わされてきたものを如実に示している。

佳苗が介護資格を持ち合わせていたことは、偶然ではない。彼女は「男性が女性に対して本当に求めているもの」を知り尽くしていた。コルドンブルーに通って磨いた料理の腕前、ピアノの技術、安らぎを与える容姿...彼女はマスコミ(=「男たち」)による描写に反し、むしろ男性に警戒心を与えないという意味で好ましい容姿であったし、清潔感や上品さを漂わせ、さらに、裁判中すら足首を細く保つエクササイズをしたり、常に自分の身体的ケアも怠っていなかった。

彼女の洗練、優美さ、美しさ、丁寧さ、愛情(それが偽りに過ぎないとはいえ)といったものは、「男たち」から得たお金で実現されている。そのことをマスコミは非難するが、でもそれは、女性が男性同様に稼げるようになっていないこの社会で、専業主婦をすることとどう違うのか?

だからこそ、「佳苗ガールズ」は佳苗の「潔さ」に憧れる。

彼女の「潔さ」に対して、婚活サイトでは、自分のことを「白馬の王子様」という50代の男や、「手料理、食べたい」という30代のフリーターがあふれ、若い女性を求め、女性の容姿と年齢を値踏みし、バカにする。無償で自分や自分の高齢の寝たきりの老親の介護をやらせるために、婚活サイトで若いヨメを手当たり次第探していた50代の男性は、公判に証人として出廷し(彼は佳苗の金銭的な要求を飲まなかった)、彼女に「ちゃんと更生するように」と説教する。

自分たちの欲望に対し、彼らが差し出せるものは「お金」しかないのに、当人たちだけがいまだにそのことに気づこうとしない。

北原氏はこの事件を「女の事件だ」という。しかしカテゴリーでくくるだけでは本質を見誤る。「女の事件」であると同時に、「すべてはお金で交換可能」な現代社会の闇に生きる現代人すべてに関わる事件なのだ。佳苗はこの事実を身も蓋もなく暴いてしまった。彼女自身が闇そのものなのだ。家族や夫婦を営むために必要な余剰が徹底的にそぎ落とされてしまったこの世界で、彼女は『異邦人』の主人公ムルソーのように他者と切り離されている。彼女の瞳には光がなく、洞のようで、一切感情を読み取ることが出来ない。そこにはその目を見る者の欲望だけが映し出される。他者からの自己承認の欲求も薄っぺらなプライドもそこにはない。彼女は市場における自分の価値に対する正当な「対価」と、そこでの人間としての対等な「関係」だけを求めている。相手が本当に欲しいものを差し出し、取り引きしているだけなのに、なぜあなたはそんなに正義を振りかざし、いきり立っているように振舞うの? 常に他人からの視線を気にし、他者の欲望に合わせて振舞うことでしか安心できず、己の欲望に忠実でいられないなんて、なんて不自由な人なの。彼女の視線は、彼女を裁こうと集まった「男たち」の視線を素通りする。この裁判はムルソーにとってそうであったように、彼女にとって「他人事」にすぎないのだから。

そもそも元来婚活サイトは、年齢、年収、住んでいる場所、家族構成、顔写真などプロフィールの情報すべてが条件として、商品化された場所だ。それなのに、その上男たちは一体何を求めようとするのか。愛? 商品化された愛は、もはや愛と呼べるのか?

男たちのこの勘違いゆえ、この事件には、常にボタンを掛け違えたような、的を外した間抜けさ、あるいは滑稽さが付きまとう。裁判において彼女を裁く男たちは誰も彼女のことが理解できず、常に虚空に叫んでいるようなむなしさが漂う。そもそも「被害者」の男たちは本当に不幸だったのか? そのうちの一人は、彼女との交際中「夢を見ているように楽しそう」で、死んでからさえ「弟の亡骸は非常に穏やかで口元が少し笑って」いたという。いわゆる殺人事件の凄惨さや緊張がこの事件には感じられない。

「こんなブスなのにどうしてこんなにモテるの !?(で、なんでアタシはモテないの !?)」と憤る女性記者(美人)を見ていて、北原氏は思う。「もしかしたら、佳苗は「惚れなかったから」、常に男たちの冷静な観察者だったから、そして決して自分の容姿を卑下することがなかったから、男たちに魔法をかけられたのかもしれない。男たちは、ただ彼女に受け入れられている、愛されている、という安心感のなか、彼女が見せる虚構の世界にゆったりと浸かっていればよかったのだろう」

そう、佳苗はもはや「女」という枠では捉えきれない一つの現象なのだ。彼女は、癒しがたい孤独を抱えた現代人が求める欲望を徹底的に分析し、研究を重ねて具現化し、それを提供する「プロ」だったのだから。

いずれにせよこの事件は、ある意味パンドラの箱を開いてしまった。すべての女性は「佳苗ガールズ」予備軍であるということを露呈してしまったのだから。女は、女にとってあまりにも生きづらいこの日本社会でどう生きれば自由になれるのか。この問いに佳苗は、「不気味なほどの冷酷さと冷静さで」「怖いほどにたった1人の世界で」「とんでもなく不気味な方法で」答えを出したが、その答えとは「男たちが女に求めた幻想そのもの」を殺すことだった。

余談だが、この事件は裁判員制度の危うさも露呈させた。実はこの事件には「決定的な証拠」と呼べるものはなかったのだそうだ。しかし、全面的に検察の主張が通り、死刑判決が下された(注)。

男性中心の、もはや機能しなくなりつつある封建的社会の古い掟に佳苗は裁かれたとも言えるが、でも、彼女にとってはそんなことはどうでも良いこと。裁判中常に涼しい顔で表情を変えず、いきり立つ検察がバカにしか見えないような、的確な応答をしていた彼女にとっては、自分らしくあること、自分の欲望だけに忠実であることが最優先事項だった。裁判判決後、すぐに彼女は自分自身で控訴を決め、手記を発表し続けることを宣言する。


注)
北原氏によれば、裁判員たちは「質問できる立場」なのにほどんど質問をしなかったこと、また評議の内容は絶対話してはいけないのに、「状況証拠しかない中で、どのように死刑判決を出したのか?」という、禁じられているはずの問いに「結束して答えを出しました」と裁判員がにこやかに語っていることに、大きな違和感を感じている。そして50代の男性裁判長が被害者の男性たちを「結婚に対して普通の価値観の男性」と繰り返し表現し、公判中佳苗を叱責し、佳苗の異常さを強調する中で、「裁判員に20代、30代の女性がいなかったことは、判決に何か影響を与えただろうか。裁判員と裁判官が‶結束した″時に、違う意見を言い出しにくい雰囲気にはならないだろうか。(…)裁判長の価値観に、素人の裁判員は引きずられないのだろうか」などと次々疑問を呈している。



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2012年04月05日

小室直樹著 『数学嫌いな人のための数学―数学原論』

とある時期から、「思想」や「社会システム」論といった類の本をほとんど読まなくなりました。その理由はさまざまですが、端的にいっていつまでもこんなこと(抽象的な議論)をしていてもいいのだろうか、と疑問をもったからでしょうか。これらの学問にたいしてこういう疑問をもってしまえば最期。数ページでさえも読みすすめることが苦痛になります。議論のための議論をしているとしか思えなくなってしまったのです。そんななかにあって、友人からずっと薦められてきたのが小室直樹さんでした。法律を専門にしている友人いわく、「とてもためになる」。さらには「経済学に慣れ親しんでいる人にも役に立つと思う」などなど。ところが、どうせまた、いくつかの概念で現実社会を切り分けて悦に入るような著作家ではないかと高を括っていました。

数学嫌いな人のための数学―数学原論ところがどっこい。先日、古本屋で本漁りをしていたときのこと。たまたま小室直樹さんの書物が目に入りました。それが今回紹介する『数学嫌いな人のための数学―数学原論』です。もしかすると、このタイトルだから買ってしまったのかもしれません。まぁ数学が話題であれば1冊くらい読んでみてもかまわないかと判断したのです。そして、さっそく読んでみたのですが、ぐいぐい引き込まれて300ページ強をほぼ一日で読みきってしまうほど刺激的な内容で、もうびっくりしてしまいました…。

まず、ぼくがこの本にたいして抱いた魅力の一つは、まるでパソコンのOSをそっくり交換してしまうかのように、自分の脳味噌が刷新されてしまったこと。具体的には、この1冊で数学の問題がどれもこれもすぱすぱ解けるようになるわけではありません。ところが、この本を読む前と後では、たとえば数式にたいする認識力には明らかに違いが出るようになりました。

そしてこの本のもう一つの特徴といえば、その数学(=論理学)が近代社会の成立といかに密接な関係にあるかを紹介している点です。すこし長くなりますが、著書から引用してみます。

「長い鎖国の末に欧米資本主義国(主として、ドイツとフランス)の法典を真似て基礎的法典(憲法、民法、商法、刑法、民事訴訟法、刑事訴訟法)を作って近代国家として発足した日本は、近代資本主義国家の法律の論理の緻密さに驚いた。近代資本主義国の法律は、論理としてアリストテレスの形式論理学を用いているのである。西洋諸国における法律も、はじめから形式論理学を用いていたわけではなかったが、近代資本主義に至って、法律の論理に、形式論理学(formal logic)に進化していったのである。
 形式論理学に依れば、判決(判断の一種である)は、勝つか負けるか(刑事判決ならば、検事が勝つ[有罪]か負ける[無罪]か)のいずれしかない。勝つと同時に負けるということもなければ(矛盾律)、勝つと負けるの中間もなければ、勝つ、負ける以外の判決もない(排中律)のである。
 最後に繰り返しておこう。形式論理学とは、以下の三つが極意である。

同一律 AはAである。
矛盾律 AはBである。AはBではない。
これら二つの命題が成立することはできない。ともに成立しないこともできない。
排中律 矛盾の中間はない。」(本書pp99~100より引用)

ここではおもに、数学(=論理学)と法律の関係が指摘されていますが、引用後半にある「形式論理学の三つの極意」が経済(=資本主義)とも密接な関係があることにも触れています。

「近代資本主義における所有権は、その存在や内容が、観念的、論理的に決定されるということである。それは所有(possession)と占有(occupation)の分離ともいう。資本制社会における所有(権)は、権利であるから、そのものを実際に占有しているかどうかとは関係ない。
観念的・論理的であるとは、換言すれば、抽象的(abstract)であるということである。抽象的であればこそ、資本主義における所有は数学化されうるのである。抽象的であればこそ、資本主義における所有は、同一律、矛盾律、排中律を具有することが容易に検証され、数学的に処理されてゆくことになるのです(p146)」

ぼくはこのくだりを読んだときに、「ははあ〜」と膝を打ちたい気分になりました。本書以外でも小室さんは、資本主義国には、これになりたいからといってそうそう簡単になれるわけではないと、再三指摘されているようですが、そのいわんとすることがこれでよくわかります。たとえば、共産主義とかかわりのある(あった)中国やロシアでは政治体制自体が、そもそも国民間ならびに国民と国家との間での「所有権」に明確な線引きがないため、資本主義体制に移行したところでいびつなかたちになってしまうのだと思います(たしかに所有権がしっかり保護されないのならば、ヒト、モノ、カネが円滑に循環しづらくなります)。

また、このほかにも(ちょっと専門的な話になりますが)、ケインズ理論の有効需要の原理は方程式で表され、古典派のセイの法則は恒等式で表せるというのは、目から鱗でした。恒等式というのは本書にもあるように、X+1=1+Xのように解いても意味がない式です。なぜ意味がないかといえば、Xにどの数字を放りこんでもつねに成立するからです。市場にたいしてこのような見方をするのがいわゆる古典派であり(それこそ laisser-faire…)、これにたいして程度はともかく市場に介入する(市場に介入→方程式を解く)のがケインズ理論であることを、こういった観点から指摘されてむむむと唸ってしまいました。

以上、引用も交えて長々と紹介しましたが、『数学嫌いな人のための数学―数学原論』というのはそのとおりで、数学嫌いの人でもこの本を読めばその大切さが理解できるようになると思います。さらには、おまけとして経済や法律の基礎的部分についての知識もより深まると思います。わかりやすく解説をされているとはいえ、内容が内容だけに読んですぐ理解できるようになるかは疑問ですが、ぜひチャレンジしていただきたいと思います。

しかし、小室直樹さんの知識量は半端じゃない…。一度でも偏見の目で見てしまったことを草葉の陰におられる故人にお詫びいたします…。



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2012年01月25日

夏石鈴子 『逆襲!にっぽんの明るい奥さま』 『虹色ドロップ』

逆襲、にっぽんの明るい奥さま夏石鈴子さんの短編集『逆襲!にっぽんの明るい奥さま』は、繰り返し読んだ1冊です。「普通の奥さま」がしまいこんでいる、つぶやき、煩悶、怒り、嘆き、その他もろもろがこれ以上ない的確さでむき出しにされています。強い感情は、その強さゆえに捕らえようがなく、さもわかったふりして使い古しの言葉で片付けられることが少なくありません。しかし作者は、奥さま達の中でふつふつ沸き立つ暗い思いも正面から受け止め、きちんと言葉にしてしまいました。思いが形成された過程 もきっちり描かれていて、すとんと納得できる。誰しも自然と奥さま達の思いを追体験できてしまうのです。

強い思いを抱える一方、奥さま達は意外なほど冷静に、自分と自分の背負っているものを見据えています。語り口は、時にユーモアすら感じさせる余裕を見せつつ、少しの無駄もない。だからこそ、安心して、奥さま達の独白に身を任せられるのです。

虹色ドロップ再読してしまう本にはもう一度体験したい何かがあります。ハッピーな気分を確約する本ではないのについ読んでしまうのは、こんなはずではなかった人生を前を向いて生きる奥さま達の独白を引き受けることで、何かしら自分自身も浄化され、強くなれるからかもしれません。「人生捨てたもんでない」と大見得切れる日はやってこないかもしれないけれど、一日一日生きてゆく。そんな精神的なタフさに共感します。奥さまも、そうでないひとにも、おすすめ。

この本を読んでおお、と思われた方には、同じ著者のエッセイ・書評をまとめた本『虹色ドロップ』もおすすめします。エッセイを読む楽しみとは、書き手の生活と意見を通じて良くも悪くも書き手に「触れ」ることであると思います。いろいろあった日々(かなりな事態が進行してゆくのです!)をさらりとユーモラスに綴る文章から、夏石鈴子という心底気持ちのいい人がくっきりと浮かびあがります。読むといつのまにか気持ちがぐっと明るくなる、元気の出る一冊。



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2010年03月04日

ダジャ単 シ・ル・ヴ・プレ―フランス語だじゃれ単語集

ダジャ単 シ・ル・ヴ・プレ―フランス語だじゃれ単語集昔からお世話になってる杉村氏・小林氏・加藤氏がタッグを組んで駄洒落で覚えるフランス語単語帳「ダジャ単」なるものを上梓された。

だじゃれ(おやじギャグとも言う)というジャンルは、いまいち女性に理解を求めるのは難しいジャンルであるような気がする。「ま〜おもしろい、すてき!」というリアクションよりは、「・・・」(沈黙)で迎えられることの方が多いのではないだろうか。

例えば、

もうすぐお昼、昼食でじゅね(déjeuner デジュネ)
夜に縫い(nuit ニュイ)ものをおそわる(soir ソワール)
金曜は手が汗ばんどるでい(vendredi ヴァンドルディ)

「・・・」

しかしながら、そのようなリアクションをものともせず、だじゃれのパワーはとどまるところを知らない。世の男性たちの、だじゃれへの愛は並々ならぬものがあり、それは年齢を問わないということに、実はちょうど、最近気づかされ愕然とさせられているところだった。

連れ合いがそうである分にはまだ良かった。「くっだらな〜い」と冷たい視線を投げつけていれば良かったのだから。

ところが、うちの小学1年生の子供が、原ゆたか(「怪傑ゾロリ」の作者。小学校低学年くらいの男の子たちに圧倒的支持がある)のおやじギャグにすっかりのめり込んでしまったのだ。

彼は原ゆたかの本を読み漁り、そのおやじギャグを熱心に研究し、次々とその成果を披露して、日々母を脱力させている。先日も一つ年上の見るからに賢げな女の子に鼻で笑われていた。(「○○クンったら、犬みたいね」とか冷ややかに言われていたし(汗))

子供にこんなにもおやじギャグが受けるなんて想像もしていなかった。もっとクールな子供に育てるはずだったのに・・・っ。

・・・。はっ!でも、ということは、原ゆたかの代わりに、この「ダジャ単」を与えれば、フランス語の単語もらくらく覚えてしまうのでは。

ああ、今まで気がつきませんでしたよ。さっそく実践してみよう!(18禁単語とかないですよねっ!?)

というわけで、真面目くさったフランス語の授業に飽き飽きしてる学生の皆さん、必携の一冊です!先生に質問もできちゃうかも黒ハート




ダジャ単 シ・ル・ヴ・プレ―フランス語だじゃれ単語集

駿河台出版社
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おすすめ度の平均: 4.0
4 笑って楽しむフランス語
4 約500のフランス語単語に対し
オヤジギャク(ダジャレ)約500発。(^-^);;




noisette

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2009年11月19日

岡尾美代子の「Land Land Land」を読み、外国を旅した気分になる

部屋の片付けをする。
引き出しの奥にパスポートを発見するも、すでに有効期限が切れて久しいことに気づく。
海外旅行がすっかり縁遠いものとなってしまったことを実感する。

というわけで岡尾美代子の「Land Land Land」を読む、というより眺める。
「旅する A to Z」というサブ・タイトルが示すとおり、旅についてAからZまで岡尾さんがセレクトしたキーワードについての文と写真。

写真の大部分は岡尾さん自身の撮影によるものだがポラロイド特有の発色が眩しい。
とりわけロシア、北欧で撮影されたいくつかの写真は「夢の中のような」と形容したくなる美しさ。

写真とは結局のところ現実の断片でしかないのだが、時に極めて現実感を欠いたイメージを生み出してしまうことことに改めて驚かされる。

家にいながらにして外国を旅した気分にさせてくれる一冊。


Land land land―旅するA to Z
岡尾 美代子
ギャップ出版
売り上げランキング: 108833
おすすめ度の平均: 4.5
5 旅に出たくなる本
4 本の“たたずまい”がいい。
5 岡尾さんはJET SETTER
5 ポラロイドカメラが欲しくなる本
5 SWEET!





キャベツ頭の男

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2009年11月09日

『高学歴ワーキングプア「フリーター生産工場」としての大学院』

高学歴ワーキングプア  「フリーター生産工場」としての大学院 (光文社新書)先日『高学歴ワーキングプア「フリーター生産工場」としての大学院』の著者、水月昭道氏の講演会「奨学金問題と高学歴ワーキングプア」を聞く機会に恵まれた。

水月氏は、日本の大学の授業料が現在とてつもなく高くなっているため大学で学ぶのに利子つき奨学金を借り入れなくてはならず、しかも卒業したら仕事があろうがなかろうが返済を始めるのが当たり前という今の制度が、まったく世界基準から外れているということを様々なデーターを用いて述べた。

例えばヨーロッパ諸国は授業料がおおむね無償であり、授業料の高いアメリカでも、悪名高い学生ローンが存在する一方で、返還義務のない給付奨学金も充実していることはあまり知られていない。

実は「国際人権規約」(1966年、国連総会で採択・日本は1979年に加盟)の条項には「高等教育の漸次的な無償化」(13条2項c)というものがあるが、これを承認していないのは、条約加盟国157カ国中、日本、ルワンダ、マダガスカルの3カ国のみである。OEDC加盟先進国30カ国中、半数の大学が無料であるにもかかわらず、である。このように日本政府は高額な授業料と公的な給付奨学金制度の不在という例外的な状態を放置しているのだ。日本学生支援機構の「奨学金」はただのローンにすぎないということを認識していない借り手=学生さんは多いのではないだろうか。

そもそも、新卒が即、正社員になれた一昔前の日本とは状況が一変した経済状況で、連帯保証人を取って立場の弱い未成年に貸し付け、卒業したら強制的に取り立て、さらには払えなかったらブラックリスト化するなんて、ほとんど詐欺と言っても過言ではあるまい。

まさに今週末歴史的な選挙が行われるが、民主党も大学の奨学金を大幅に拡充することをマニフェストに掲げている。自民党政権において長年放置されてきた大学の授業料と奨学金の問題は、選挙の重要な争点になりうるのであり、日本の将来を左右するイシューなのである。

講演会では、いかにこの状況を打破するかという処方箋も盛り込まれており、大変有意義なものであった。

ところで2007年に出版された『「フリーター生産工場」としての大学院』という少々刺激的な副題を持つ著書は、巷で問題になっている「派遣切り」の問題が、大学内部の問題と地続きであることを始めて可視化した貴重な著作として10万部近くを売り上げた。経済誌などでも大きく取り上げられていたが、当の大学人からの関心はあまり高くないように思われる。

まあ、大学内部の力関係からすると、立場の弱い当事者たちがなかなか声をあげられないのは仕方がないことかもしれない。しかし、超格差社会である大学の世代間の問題(一部の上の世代が下の世代から吸い上げている逆ピラミッド構造)は、まさに日本の大学の存在意義を問うており、対処の仕方次第では、日本の大学という共同体が崩壊し、ぺんぺん草も生えない事態になることに、大学の関係者たちはもっと意識的になってもいいのではないだろうか。

水月氏は40代である。大学院という「市場」でも食い物にされている「氷河期世代」が青息吐息なので、まだ余力のある40代世代が自分たちの真下の世代の代弁をすることは、この世代の使命なのかもしれない。自分もこの世代に属しているのだが、実はこのように振舞うことは単なるきれいごとではなく、「逃げ切れない世代」である故の危機感を持っていれば、リーズナブルな行動と言える。

しかしながら、水月氏のエライところは、率先して『高学歴ワーキングプア「フリーター生産工場」としての大学院』という、自分のキャリアにとってかなりリスキーな著書を、「あまりにも元気のない後輩の院生たちの力になりたい」という動機から出したことなのである。彼を駆り立てるものは「愛」なのだ。彼は僧侶でもあり、福祉の仕事にも携わっている。これからの時代のキーワードはもはや「競争」ではなく「共生」であることに、時代の先端を行く人々は気づき始めている。

さて、水月氏の待望のシリーズ第二弾が近々出版されることになった。

□『アカデミア・サバイバル』〜「高学歴ワーキングプア」から抜け出す〜
(9月10日発売予定、定価777円)

★話題作『高学歴ワーキングプア』から2年、待望の第2弾は、大学における「究極の就職術」だ。アカデミアに残りたい人は必ず読むべし。(中央公論新社HPより)

「セブン アンド ワイ」 および 「全国書店ネットワーク e-hon」での予約割り当て分はすでに完売(!)で、早めに入手するには、もう「アマゾン」での予約をチェックするしかないようだ。

水月氏が日本の大学の閉塞状況にどのような処方箋を提出してくれるのか、今から楽しみだ。

水月昭道氏のブログ「博士の道しるべ」


★このエントリーは09年8月25日に main blog に掲載。




noisette

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2009年08月12日

2020年の日本人(2) 高速道路とナショナリズム

2020年の日本人―人口減少時代をどう生きる「2020年の日本人-人口減少時代をどう生きる」の書評のPart 1「年金制度はどうなるか?」を書いてからだいぶ時間が経ってしまった。

この本は決して日本の将来は暗いと言っているわけではない。これから人口が減少していくのは避けられない。だから、日本社会をもっとスリムして、効率の良い国に変えましょうということだ。多くの日本人には「ジャパン・アズ・ナンバーワン」とまで言われた80年代の記憶がまだ鮮明に残っている。復活の日が再び来るんじゃないかと、その幻想にすがろうとしている。しかし、人口が減るということは経済の規模も確実に縮小するということである。

輝かしい80年代が復活しなくても、日本人は貧しくなるということにはならない。人口が減っても国民は豊かなままでいられる。これが「2020年の日本人」の中心テーマであり、そこに日本が生き残る具体的な将来像を読み取ることができる。

日本人の豊かさやゆとりを考えるとき、GDP=国内総生産ではなく国民所得を問題にしなければならない。しかし、その肝心な国民所得のGDPに対する比率は欧米諸国に対して低い。その比率は1980年代以降明確な低下傾向にあり、さらに1990年代後半以降は一段とその傾向を強めている。欧米諸国がほぼ横ばい、もしくは上昇傾向にあるのに対して、日本は1985年の84・3%から2004年の80・2%へと下がっている。

全国の隅々にまで張り巡らされ、さらに建設を進めようとしている高速道路。新幹線もまだ整備の途中だ。そして巨大ビルが林立する大都市の大規模開発。国民所得のGDP比率の低下は、これらの公共投資が影響している。それらは華々しく見える一方で巨大な建設費用や更新費用をGDPから天引きしている。つまり日本は所得を生み出す仕掛けが大きすぎる。その結果、欧米諸国よりも働いているのに、貧しい暮らしを余儀なくなされている。年金が日本人の将来の不安を物語るとすれば、高速道路は日本人がいつまでも豊かになれない象徴のようなものである。

それに加え、生産システムにおける過度の機械化も問題なようだ。人気のない工場でせっせと働き続ける精巧なロボットとか、街中にはびこる自動販売機なんかを想像すればいいのだろうか。結局この25年、企業は賃金を削って設備投資を行ったわりには国民は豊かにならず、「あえていえば機械が一番得をした」と著者は結論づけている。

GDPに対する国民所得の比率のさらなる下落は、過大投資は収まるどころか、いっそう激しさを増している証拠である。高齢化社会に向けて国民所得の充実が急がれなければならないときに、国民所得が低下していることは重大な問題だ。高齢社会に適合的なスリムな経済とは逆方向へと突き進んでいることになる。未だにGDPにこだわる政治家が多いが、国民生活を充実させるよりも、日本の威信を保ちたいのだろう。80年代の成功体験は忘れるべで、そのころの日本の労働力は拡大を続け、労働力の構造も先進工業国の中で飛びぬけて若かった。

もうひとつ、面白いと思ったのは日本の公共事業のあり方だ。先ほど槍玉にあがった高速道路と新幹線だが、それは1969年に策定された「新全国総合開発計画」が出発点になっている。この大規模プロジェクトの目的は、地方の過疎が地域格差意識を拡大させているため、開発可能性を全国土に拡大し、日本を「均衡化」することだった。しかし、高速道路を幹線とする道路の大規模ネットワークによって、大都市の企業は生産や流通の拠点を全国展開できるようになった。それによって生産の拡大と効率化が進み、ますます地方は大都市に吸い上げられてしまう結果になった。

地方の過疎の進行と産業の衰退は一様に進むわけではない。当然ばらつきがでる。その格差を埋めてきたのが公共事業である。実際、一人当たりの製造業産出高の水準が低い地域ほど、地域経済における公共事業費のウェートが高い。これは経済の自律的な動きによるのではなく、政府が公共事業をそのように配分してきたのである。地域の公共事業のほとんどは国からの補助金と地方交付税交付金だ。そうやって国主導で経済の地域格差、生活水準の格差を是正してきた。明らかに公共事業は地域間の所得再配分の手段だったのである。それによって地方の国への依存体質が強まり、製造業の弱い地域はますます弱くなった。その依存体質を作ることが、自民党の集票システムだったと言える。これが自民党の道路族が未だ念仏のように唱える「国土の均衡ある発展」の正体でもある。

著者はマクロ経済の視点から書いているが、一方でナショナリズムが交通通信技術の発達に基づく均質化の産物であることを思い出させてくれる。地方出身の国会議員は、ふるさとの再生のために働いていたわけではない。ふるさというローカリズムを潰し、国家によって直接包摂するためである。その結果、地方はどこも同じような風景になり、クルマに依存する郊外型のライフスタイルに覆いつくされることになる。

「同じ日本人なのに貧しい人々を放置していいのか」というのが日本のナショナリズムだったとすれば、若い世代を見殺しにしている日本からは、それが失われてしまったことになる。公共事業の是非はどうであれ、その思想に基づいて貧しい地域に仕事が再配分されていた。現在この再配分が、とりわけ「世代的に」機能していない。このモデルの終焉は自民党の役割が終わったことを意味するだろうが、次のモデルが緊急に求められているということでもある。



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2020年の日本人―人口減少時代をどう生きる
松谷 明彦
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4 なるほど
5 レベルの違いを痛感した一冊




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2009年08月10日

「2020年の日本人-人口減少時代をどう生きる」(1) -年金制度はどうなるか?

2020年の日本人―人口減少時代をどう生きる「2020年の日本人」はタイトルが語る通り、2020年の時点で日本人がどのように働き、どのように住み、どのように暮らしているのか、マクロ経済の視点から描き出した本である。それだけでなく、「なぜ今の日本がこうなっているのか」という疑問についても明快な視野を与えてくれる。

2020年はそんなに遠い将来ではない。あと12年あるが、何かしようと思えば何かを達成できる十分な時間である。しかし、無策のまま手をこまねいていても12年はあっというまに過ぎてしまうだろう。この12年のあいだに日本はさらに急激な変化にさらされる。

その急激な変化の影響を最も被るのが年金制度である。私たち日本人の最大の関心事である。新聞やテレビで話題にならない日はない。

今年の6月に厚生労働省が発表した人口動態統計で、07年の合計特殊出生率が1.34となったことがあきらかになったが、今後も上昇に転じる見通しはないとのこと。少なくとも近い将来において出生率を上げることは難しい。政府与党は何を根拠に「年金100年安心プラン」とか言っているのか知らないが、日本人は21世紀の後半に至っても安定した年金制度を維持することは困難な事態になっている。

その理由は、20歳から64歳の年齢階級、つまり年金を出す側と、年金を受け取る側の比率の変化があまりに急激で、さらにその水準があまりに高いからだ。

年金を受け取る側の比率は1950年に9・1%だったが、2006年では25・6%になった。そして今後その比率はさらに急激に上昇し、2050年には45%にまで跳ね上がる。ほとんど50%に達する水準は、どうみても高すぎる。

実は先進国でこんな国はどこにもない。日本だけが未曾有の経験をするのである。例えばイギリスでは2030年代に年金を受け取る側の比率は30%、フランスでは2040年代に33%でほぼ安定する。よく例にあがるスウェーデンはイギリスより少し早い時期に同じ水準で安定する。比較的高いのが、37%のドイツだが、いちおうこの水準で安定する。

日本の問題は安定する水準が見えないこと。ゆえに計算の基準を設定できないのだ。高齢化が速さにおいてもレベルにおいても著しい国には、高齢者対策の多くの部分を年金に依存することは現実的ではないと著者は言う。

なぜこんないびつな人口構造になったのか。著者の答えは意外なものだった。出生率は戦争直後のベビーブームのあと一旦上昇したが、1950年代の大規模な産児制限で急激に低下するのである(下のグラフを参照)。その過程で優生保護法が大きな役割を果たす。産児制限は当時の経済状態や食糧事情を考慮すればやむをえない政策だったのだろうが、その後、出生率は下がる一方で回復することなく今に至っている。つまり、過去に人口を人工的にいじったことが日本の人口問題の原点なのである。著者は当時、優生保護法が個人に与えた影響こそが重大で、しばしば出生率低下の原因と挙げられる「女性の就業率の上昇」の影響は限定的だと主張している。一方で、生産性が低いときは頭数が必要だが(=貧乏子沢山)、生産性が上がると頭数が要らなくなるとも一般的に言われる。

合計特殊出生率の推移(厚労省、人口動態統計より)

ヨーロッパの中でも人口の安定性が悪いドイツは、戦後の東西分割による労働不足を補うために、一時的に外国人労働者を積極的に活用した。そうやって人口をいじった影響で高齢化が進んでいる。別の経済誌で読んだのだが、中国の産児制限、つまり「一人っ子政策」がこれから30年後に中国社会に深刻な高齢化をもたらすようだ。

現実はどうなっているのか。日本の05年度の社会保障給付は約71兆円。単年度で15兆円の赤字を出している。日本の年金制度は積み立て方式で出発しているので、そのときの積み立て金がまだ残っていて、今のところはそれで赤字が補填されている。しかし、著者の予測では3‐4年のうちに積立金は底をつく(間もなく底をつくころだろう)。そうすると原則的にはその年の社会保障給付は、すべてのその年の20歳から64歳の人々で負担しなければならない。そして2020年にはどうなるか。一人当たりの平均負担額は2005年で年間約72万円だったが、2020年には約135万円となり、ほとんど倍に近い増加となる。今の制度を維持するとすれば、保険料はそれに連動して上がり続けるのだろう。

日本の場合、年金問題が人災であることも悩ましい。社会保険庁の年金の私物化という信じられない事態が明らかになっている一方で、著者も書いているように(民主党の議員もよく言っている)、年金に関するデータのすべてが公表されていない。本当は著者が出しているようなデータを含め、すべて明らかにして国民に選択肢を示すのが政治の役割だ。それなのに隠し事をしつつ、対処療法を繰り返し、短いスパンで制度がコロコロ変わる。

フランス系のブログとしては、出生率を上げるためにヨーロッパで最も高い出生率を誇るフランスに習おうと言いたくなるところだ。すでにフランスの子育て事情について何度か記事にしている。しかし、著者は言う。日本の出生率の長期の傾向と普遍の流れは、それを変えるべきなのか、このままでいいのか、日本人に問いかけているのだと。子供を作るのは出生率を上げるためではなく、あくまで個人の価値観と幸福の問題だからである。私たちはこの点を勘違いしがちである。

「人々に子供を持つ自由を保障するところまでが政府のなすべきことであって、子供を持つかどうかは人々の判断に委ねるべきである。その結果として出生率が上昇したのだとすれば、それを前提とした社会システムとし、出生率が変わらず、あるいは低下するのであれば、それでも人々が豊かに暮らせる社会システムとはどのようなものか考えるべきである。出生率の低下が現在の年金制度や高齢者福祉を困難にするから、日本経済の持続的な拡大を確保する必要があるから、出生率を向上させるべきというのであれば、産めよ増やせよを推進したかつての軍事政権と変わるところはない」

(続く…次回のテーマは「高速道路」)


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2009年05月08日

『宇宙エレベーター』

夏にinSEA(国際美術教育学会)が大阪で開催され、卒論のネタ探しに潜入(?)してきました。その中での一講演だったのですが、なぜか美術及び美術教育関係者の話より、専門外のセルカン氏(科学者)の話が圧倒的に面白かったです。
 
宇宙エレベーターインフラに依存しない(インフラフリー)住宅の話をききました。ゴミからエネルギーを作るので、ゴミはでない。町はサバイバルの基本で、平時には町があるけど、災害時にはインフラフリーの住宅が必要になるかも。そこでロボットが自分の感覚を使って歩く、この技術を応用して住居に適用するとエネルギーがいらないとか!?(専門知識がないので、正確にお伝えできてないと思いますが…)

そんなものをアートの人と作ったらきっと面白い、と言ってたかと記憶しています。技術者が作ると変な形になると。余談で、「ロボット」というと、トルコでは「殺戮マシン」のイメージで、とても「asimo」のようなものは思い浮かべられないとか。「asimo」はまさにアート的だとも。

ちなみに世界(進化の段階?)を、level 0「Industrial Evolution(revolution?)」→level 1 「Energy(エネルギー)」→level 2 「Light(光)」→level 3「 Dimension(次元)」→ level 4「Final Integration(?場の統一理論のこと?)」とすると、現在は Energyの時代にいるそうです。人間が使えるのはまだまだここまでなんですね。

で、こんな感じで面白かったので「宇宙エレベーター」を読んでみました。すごく難しい物理の内容が書かれてるはずなんですが、とても読みやすいです。「次元」の話は、3次元の人間の限界で理解に苦しむところもありますが、世界はあやふやなものかもしれないと思いました。

物理の世界は理解できないけど、「極小=極大」が矛盾しないというか、宗教的ですが「無」の境地とかそんなとこに行き着くような気がして、何だか楽しそうです。理系知識云々というより「誰かが作った決まり事に拘らず、自分の頭でもっと自由に考えてみよう」っていう思いを感じました。

タイムマシン著者の少年時代のエピソードで、学校でボヤ騒ぎを起こして退学になり、一緒に退学になった仲間とタイムマシンを作った、というものがありました。これは同じくセルカン氏の本「タイムマシン」の元ネタなのでしょう。

退学で世界に散り散りになった少年達が集結し、タイムマシンを作る話です。少年たちだけの物語かと思いきや、その少年たちの父親達もカッコ良いのです。

主人公のお父さん(著者のお父さん)が、退学時に校長に向かって言った言葉が男前すぎます。「ウチの息子の悪口を言っていいのは僕だけだ。二度と言うな!!」作中、いろんなお父さんが出てきますが、こんな親子の信頼関係って良いな。現在の少年、かつての少年。未来の父親、現在の父親。同じ場所にさまざまな時間を持った存在があって、同じ夢を見ている。そんな場所そのものがタイムマシンなのかも。

こういう少年たちのストーリーって、女の子にはなんとなくのけ者感がありますが、主人公の母親が「良い仕事」してますので、ラストは痛快です(ネタバレになるので訳がわかんないでしょうが)。この本もとっても読みやすいので、子ども(中学生くらい?)でも楽しめるとおもいます。

□ア二リール・セルカン氏は東京大学大学院工学系研究科建築学専攻助手、エール大学客員教授。ドイツ生まれのトルコ国籍の人で、2001年NASAジョンソンスペースセンター宇宙構造・材料系客員研究員として宇宙飛行士プログラムを終了、2004年、トルコ人で初の宇宙飛行士候補に選ばれま した。

□セルカン氏のブログ:http://blog.anilir.net/




tk

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2009年04月18日

『人類が消えた世界』

本書を紹介するにあたって、まずこの動画をご覧ください。

人類が消えた世界ある日、人間が理由はともかく忽然と消えてしまったら地球の未来はどうなるだろうか。

たとえば自分たちの住む家は風雨にさらされ、蔦などの雑草に覆われ、シロアリに侵食されつつ崩壊。動画にもあるように、人間のつくった構造物は500年〜数千年後には、ほぼ跡形もないほど倒壊するといわれています。そのあとは「野生?(この時点で野生と呼べるのかな?)動物」の生活圏の一部をなすことになります。ただ人間の足跡が跡形もなく消え去るかといえばそうでもなく、たとえばタイヤなどの樹脂製品は自然分解=腐敗しにくいため、地球上に本来の目的を失ったまま存在しつづけます…。

とにかく、とても面白い本でした。タイトルが暗示している&以上紹介したように、当書は、たしかに人類が消え去った後の未来世界を予測している近未来SFノンフィクションとしても読めます。けれどもそれは全体のなかの一部にすぎません。その扱っている話題は多岐にわたります。最新の科学的知見に配慮しつつ、人類の誕生とそれに影響を与えたであろう地球生態系とをめぐる仮説。さらにその人類の誕生が今度は地球の生態系にいかなる影響を与えてきたのか。人類と切っても切り離せないその「発明物」(たとえば上記の樹脂製品であるタイヤやプラスチックなど)は人類がいなくなったときに自然界でどのように振舞うか。とどめの一撃として、当書巻頭でそのテーマを暗示するために用意された、地球環境そのものを支えている太陽が50億年後に膨張して地球を飲み込んでしまうイラスト。著者のA・ワイズマンのスタンスはあくまで&良くも悪くも傍観者的立場であり、人類にとって起こりうる&起こりえたであろう現実をいやが応でも徹底的に吟味し、そして人間的優しさに満ち溢れた視線でもって当書をしたためています。そしてそのぶん、巷に出回っているどの「地球と人間を考える書物」よりも説得力のある力作として仕上がっています。

ちなみに、いま現在の時点で人類がいなくなったら、地球の今後がどのようになるかが当書のオリジナルHPに掲載されていますが、これを抜粋しておきましょう:

2日後:ニューヨークの地下鉄網が水没。
7日後:原子炉が冷却システムのダウンにより溶解。
1年後:通りの舗道が凍結&氷融により侵食を受ける。
2~4年後:雑草が通りを覆いだす。
4年後:人口の構造物が凍結&氷融により崩れはじめる。
5年後:ニューヨークの大部分が焼失。
20年後:数多の河川や沼地がマンハッタンに形成。
100年後:ほぼすべての民家の屋根が崩壊し、建造物の荒廃を加速する。
500年後:旧ニューヨーク市街を密林が覆う。
5000年後:核弾頭の腐食により、放射性プルトニウム239が大気に放出。
15,000年後:石造物の崩壊。
10万年後:2酸化炭素排出量が産業革命以前に戻る。
1000万年後:銅像などが人間の痕跡をとどめている。
10億年後:人類のみたこともない生物の誕生・
50億年後:太陽の膨張により地球をふくむ内惑星が焼失。

人類にとって、いろんな視点を提供する本じゃないかなぁ。




superlight

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2008年11月20日

「河童が覗いたヨーロッパ」

数年前に「少年H」が大ベストセラーとなった妹尾河童の処女作である.

タイトルが示す通り,著者によるヨーロッパ見聞録.
昭和51年(1976年)の出版ながら,本質的なところは30年を経た今日でも充分に説得力のある内容になっているところはなかなかのもの.
ヨーロッパ各国の窓の大きさや形,さらにそれぞれの国で宿泊したホテルでのビデの有無など,普通の旅人であったならば完全に無視してしまうような生活のディティールに著者はこだわる.
そしてイラストを描き,コメントを付ける.

それをパラパラと眺めていると,自分も旅行をしているような気分になってくるのは,著者の楽しそうな語り口についついのせられてしまうからだろうか.
些細なことを楽しめてしまうということは,才能の一部であることを確信させてくれる1冊.


河童が覗いたヨーロッパ (新潮文庫)
妹尾 河童
新潮社
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おすすめ度の平均: 4.5
5 緻密で好奇心だらけの欧州見聞録
5 愛してやまない
4 河童の本にしては下、ヨーロッパ本にしては上
5 ヨーロッパに行かれる方に限らず,お勧め
5 「粛正」生き残る1冊




キャベツ頭の男

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2007年03月04日

「幻想水族館」

和田ゆりえさんの『幻想水族館』を読みました。

suizokukan01.jpgエッセイ・短編など27の作品が収められた素敵な本です。それぞれの作品には魚の名前がタイトルとして付けられていて、それがアルファベット順に並んでいます。「イワシの軍隊」「ウツボ」とはじまり、「ギギ ― 歌う魚」「人面魚」「人魚」などを眺め、「マンタ」「マンボウ」まで、時の経つのも忘れて楽しく鑑賞することができます。ページを繰るぼくらの手を、しばしば、彼らの愛嬌のある、しかしときにありふれた写真(ぼくたちが水族館でまさに目にする彼らの姿)がしばし止めさせ、まなざしをひきつけ、たとえば「ああ、ニシキテグリってのはこんな魚なんだな」とか、「ゴマフアザラシはやっぱりかわいいな」などとずいぶん現実的な、たわいもない感慨に心地よく浸って、水族館のあの独特な光の具合に思いをはせたりもしてしまいます。

けれども、きわめて整然と分類され、提示されているかのような外観、現実の彼らの写真にもかかわらず、和田さんの紡ぐ言葉、そしてイメージが、ぼくらをさまざまな「幻想」へと、それこそ知らぬ間に連れ去ってしまっているのです。ふと気づくと、きちんと並んでいたはずのアルファベットは順番を変え、夢と現の境はじわっと交じり合い、周りの乗客はみななんらかの魚のよう。『幻想水族館』は幻想の水族館の物語ではありません。摩訶不思議な、この世のものともわからない水族たちの姿を描き出すのではなく、幻想へと滑り込むちょっとしたきっかけ、水族館の大小さまざまな水槽を覗き込むぼくたちのまなざしがふいっと夢へと逃れてしまう入り口としてあるのでしょう。もちろんそこに潜む魚たち、「キメラ化」し、ぼくたちの分類法など軽々ととしなやかに超えていく彼らが重要な導き手となっていることはいうまでもありません。彼らの存在こそが「夢の結節点」として、さまざまな幻想を結びつけることができ、その美しき身体においてのみ現から夢への、夢から現への跳躍・往還を可能にしているのです。

彼らの夢のような存在、現実にありながら夢へと開かれた身体。

『幻想水族館』を脇に抱えて、水族館に出かけよう。淡い光が反射するあの青い空間で、ぼくたちを待っている彼らを、その幻想をぼくたちはぼくたち自身のうちに持ち帰ることになるかもしれません。

■和田ゆりえ 『幻想水族館』 1400円 萌(きざす)書房


PST

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2006年09月04日

「聖人事典」


聖人事典
聖人事典
posted with amazlet on 06.09.04
ドナルド・アットウォーター
キャサリン・レイチェル・ジョン
三交社(1998/06)
売り上げランキング: 314,588

オウェンザセインー♪、ゴーマチイン♪、オウェンザセインー、ゴッ、マッチ、インー♪
(When the saints go marchin'in)

なんの予見前触れ虫の知らせもなく聖者が街にやってきたのは訳があるわけではそんなにないですが、これ書きはじめてんのは6月25日でちょうどクリスマスの半年前、ちゅうことはイエス様の先輩格にあたる洗礼者ヨハネはん(サロメお嬢さんがその首ほしいてしゃあなかったな、ヨカナーン)のお誕生日やったんちゃうかな?どやったっけ?他のライターさんがこのこと書いてた気がするんやけど、記憶がひどく朦朧体、真実は薮の中に置き去りしとこっていうくらいの訳やからわけないに等しい。

キリスト教は神様ひとりぽっきり。やおよろずの倭国と勝手が違う。そん代わり天使はそこそこ、聖者はどっさりてんこもり。ちなみに1300人以上の聖者がオックスフォード版の事典に載ってる。フランスの守護聖者はトゥールのサン・マルタンが有名で、4000を超える教会関係施設と500を超える村がこの偉人さんの名を拝んでるちゅうくらいやから、そらあんた、どえらいことですよ。大阪の通天閣付近は恵比須町や大黒町、ちょっと離れて弁天町と七福神にあやかっているあたり、気持は似たりよったりかもしれません。

聖者になるんは殉教と奇跡が必要という。さてはともかく、フランス語で聖者の名前を冠した有名な魚貝が2つほどある。この子らが奇跡を起こしたかわからんけど、人様のお口のために殉死はしてる。

まんず、coquille Saint-Jacques。ホタテ貝ね。その昔、スペインのサンティアーゴ・デ・コンポステーラという聖堂へお参りする巡礼者がホタテの殻を食器代わりにしてたから、この名があるねんて。使徒ヤコブのスペイン名がサンティアーゴ、フランスに変換するとサン・ジャックというわけ。この聖堂にヤコブの遺骸がある。ひと目見ようと貝殻持ってみんなピレネー山脈越えてたんやな。

ヤコブの次はペテロ、Saint Pierreです。ペテロってもと漁師さんで、いろいろあって皇帝ネロにゆうたら殺された。ほやからカトリックの初代司教に祀られた。そのペテロさんが触った魚がマトウダイ。漢字で書けば「的鯛」、体のちょうど真ん中あたりにマトのような黒マルがあるんが目を引きますが、あっちはマトをペテロさんが付けた指の跡とも触った時に出てきた銀貨ともゆわはって、ようは和仏問わず目出「鯛」わけですわ。学名がZeus faberでこれまたギリシャの主神ゼウスやから、恐れ入りやの鬼子母神、その手は桑名の焼ハマグリ。

鯛といっても鯛と無縁のマトウダイ、それでもフランス料理では高級魚とされるから「腐ってもタイ」やね。


木魚


BOOK INFO:「聖人事典」ドナルド・アットウォーター& キャサリン・レイチェル・ジョン(三交社)

★聖書とならぶキリスト教文化のもう一つの顔、聖人崇拝。生活と信仰のなかに今も息づく聖人たち950余名の生涯と死を可能なかぎり歴史・客観的な態度で紹介する本格的な聖人事典。聖母マリア、使徒、天使、教父、神学者、宣教師、教皇、修道院長から、世俗にあって真摯な信仰の生活を送った様々な階層の老若男女まで、950余名の宗教的人間の栄光と受難の伝記集成。守護聖人一覧、聖人の表象一覧;聖人の祝祭日一覧付き。 (Amazon.co.jpより)

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2006年08月29日

新刊「夢見た日本」小山ブリジット


夢見た日本
夢見た日本
posted with amazlet on 06.09.05
小山 ブリジット
平凡社 (2006/07/25)

そもさん。せっぱ。これなあに?

(1)「魚の小さいパイのようなもの」
(2)「あぶった海藻の葉のなかに米飯を小さく巻いたもの、なんというか黒い腸の皮の中に白い腸詰を入れたような具合の代物」

じっちゃんの名にかけておわかりになりましたでしょうか?(1)は天ぷら。(2)は巻寿司でした。産湯につかってからこっち、天ぷらや寿司を見たことないお人がおるとして、さてそのかたがこいつらを描写すれば、なるほど合点承知の助といった言葉つかい。さもありなん、これはフランス人エドモン・ド・ゴンクールの日記(1878年11月6日付、斉藤一郎訳を拝借)のひとこまっすわ。

「なんというか黒い腸の皮の中に白い腸詰を入れたような具合の代物」…巻寿司をソーセージにたとえてる…奥ゆかしいポエジーがあるね。こうもり傘とミシンの結婚とまではいかんけど、巻寿司のネタに魚肉ソーセージっちゅうのは韓国では定番やし、それを見越したご意見としたらそら恐ろしくてワクワク膝が震えるぞ。あと「魚の白や緑の煮こごり」なるものが日記に登場してるけど、白は白身として、緑はなんぞや、バカな、にがだま(胆のう)か? なんやろ、気になる、ちゅーねん。

ま、それはとんかく、これら日本料理はエドモンさんのお口に合わんくて贔屓筋とはいかんかった。エドモンさん(1822-96)は弟ジュールくん(1830-70)と一緒にゴンクール賞をこさえた人。ゆうても二人とも彼岸に旅立ってからできたんやけどね、今年フランスでごっつう良かった小説にあげちゃうで賞がゴンクール賞、小説のアカデミー賞みたいなんかな、結構なお歴々が受賞してる。

死んで名を成すのとちょい違う。当時の文壇でもそうとうの大御所で、フロベール、ユゴー、ゾラ、ドーデ、マラルメ、ユイスマンス、ドガ、ツルゲーネフ、ロダンなどなど、そらもう、きら、星のごとき交友関係が日記にうかがえる。それよりなにより、だいの日本好き。ムシューとニッポンはエイドリアーン、ロッキー、エイドリアーン、ロッキーなのだ(日本に来たことなく、日本語ちんぷんかんぷんやけどそれが逆にプラトニックな憧憬をかき立てたんやろね)。

日本を愛した異人さんといえば、KWAIDAN好きのヘルンさんこと小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)などおるけど、エドモンさんは怪談やなくて浮世絵や工芸品に目がなくせっせせっせと「屋根裏部屋」にためこんだ。浮世絵を目にして印象派は、こっちもやったれと奮起し、工芸品にかぶれてアール・ヌーヴォーがごそごそうごめき出す。ジャポニカ学習帳、もといジャポネズリー、ジャポニスム(日本趣味)のはじまりはじまりの立て役者の一人。

「ある芸術家の生涯を研究し論じた書物のことをモノグラフィーという」らしい、大層やな。「その意味で美術史上はじめて「存在する」ことになった日本の画家は喜多川歌磨である」とはゴンクールの『歌磨』の訳者の弁、へー、歌磨か。大枚はたいた日本美術コレクションが元手となって、ゴンクール賞関係がうまれたというのは複雑なとこあるけど、不満はここ(↓)。

「魚の好きな民族は、すべて繊細な好みを持っている」と言いながら(ゆうてるらしい、未確認)、天ぷらに寿司をけっちんしてるとこ。エドモンさん、そらないで。今じゃ、それなりに皆はんよろしくしてるのに。そや、高野(こごり豆腐)の天ぷらをご馳走したろ。ここらではその名もオランダ揚げ。やっぱダメかな。

□BOOK INFO:「夢見た日本」小山ブリジット(平凡社、新刊)
★19世紀末フランス、ジャポニスムの最重要人物のひとり、文豪ゴンクールと、彼の日本美術研究に大いに協力した、明治日本最初の国際美術商、林忠正。二人の相互交渉をフランス人研究者が捉え直し、ジャポニスムの生きた姿かたちを評伝スタイルで鮮やかに描き出す。第23回ジャポニスム学会賞受賞作の邦訳。(Amazon.co.jpより)


木魚

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2006年06月03日

『ジャンヌ・ダルク−歴史を生き続ける「聖女」』 高山一彦

ジャンヌ・ダルク処刑裁判フランス救国の聖女ジャンヌ・ダルクの遺骨が真贋「鑑定」されることになりました。炭化した長さ約15センチの「遺骨」とそのとき集められたという「衣類の生地や燃え残った木々」も用いて、総合的な鑑定を行うそうです。

僕は彼女に特別な思い入れがあります...

570年以上昔のその日、イギリス軍に包囲されていたオルレアンを解放したジャンヌは、その後イギリス軍に捕らえられ、魔女として裁判を受け、1431年5月30日にルーアンで火あぶりになったわけですが、時間的にも空間的にも遥かな日本の地であっても彼女の名前が記憶にとどまるのも、そして毎年のように学生さんの口の端にこの名が挙がってくるのも、ジャンヌ・ダルクという歴史上の人物に僕たちの心を揺さぶる何かがあるからなのでしょう。

ジャンヌ・ダルク復権裁判イギリス軍側の捕虜となったジャンヌは、575年前の2月21日、ルーアン城内の国王礼拝堂に出廷。魔女か? 聖女か? 裁判が始まります。「異端者」としてルーアンのヴィユ・マルシュ広場で火刑に処せられるまで、4ヶ月にわたる審理が続きました。イギリス軍側はジャンヌの遺骸が「聖遺物」となるのを怖れ、その灰を残らずセーヌ河に投げ棄てさせたといわれています。ジャンヌ・ダルクが「3回」も焼かれたことを今回の新聞記事で初めて知りましたが、結局「心臓だけは焼き尽くせなかった」という死刑執行人の話も残っています。鑑定される「遺骨」はどういう来歴のものなのでしょうね。20世紀には、ジャンヌ処刑のわずか5年後に現れた「偽ジャンヌ」ジャンヌ・デ・ザルモワーズが眠るピュリニー教会の石棺発掘がワイドショー的になされ、ジャンヌ・ダルク生存説を盛り上げていました。21世紀の真贋鑑定は「ジャンヌは火刑を逃れて生き延びた」というロマンの炎をふたたびかき立てることになるかもしれません。偽物か? 本物か? 鑑定は6ヶ月ほどかかる模様。

昔から多くの人間、とくに絵画、映画、小説、漫画など大きな括りで芸術に携わる者にインスピレーションを与え続けてきたジャンヌ・ダルク。その悲劇的な死の直後から神話化は始まっていて、卑近なところでは描かれるジャンヌはすべて美人になっています。15世紀の人物ですし、短い人生を戦場で燃やしてしまった乙女ですので、もちろん肖像画などなく、後世の人々はみな自分のイメージを描き出していったわけです。

無数にあるジャンヌ像、パリのルーブル近くには黄金の騎馬像までありますが、パリの名もない一市民が殴り書きしたこのジャンヌがなんとなく一番彼女の姿を彷彿とさせてくれるように感じるのは僕だけでしょうか。ジャンヌの噂を聞きながら、日記の片隅に、その姿を想像しながら描きとめたこの絵が500年以上にわたって描き表現され続ける「乙女」の最初の姿なのです。

フランスという国が危機に直面するたびに、ひきあいにだされる救国の英雄ジャンヌ、彼女はこれからもさまざまな神話を身にまとい、姿を変えながらも、人々の記憶に生きつづけることでしょう。

日本でもジャンヌ・ダルクに関する多くの本が出版されています。名前を挙げていくときりがありません。学術的なものとしては、イギリス軍に捕らわれたジャンヌを魔女として裁いた記録(『ジャンヌ・ダルク処刑裁判』)、そして彼女の死後、聖女として復権させた裁判 (『ジャンヌ・ダルク復権裁判』) のふたつが高山一彦氏の翻訳で読めます (ともに白水社)。この高山氏の書いたすばらしい『ジャンヌ・ダルクの神話』(講談社新書) は絶版になっていて、復刊されないかしらと祈り続けていたら、高山氏ご自身が岩波新書から『ジャンヌ・ダルク−歴史を生き続ける「聖女」』という新たな本を届けてくださいました。この春、フランスに行かれる方はぜひ旅行鞄のなかに入れて、出発してください。楽しい旅のお供を勤めてくれることと思います。

ジャンヌ・ダルク―歴史を生き続ける「聖女」
高山 一彦
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おすすめ度の平均: 5
5 永遠の「聖女」
5 ジャンヌの歴史

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2006年05月06日

『うるさい日本の私』中島義道

日本はとにかくうるさい。

大きな声は暴力的で、権力的である。私たちは自分で交渉し、調停する能力が乏しいので、代わりに権力に怒鳴ってもらっているのである。電車に乗ると、ケイタイでしゃべるな、電源を切れ、お年寄りに席を譲れ、駆け込み乗車はするな、頭上のスピーカーががなりたてる。特にJRがうるさい。元国鉄だから、権力意識が強いのか。

常識のある大人ならば、そんなことは自分で判断すればいい。ケータイでしゃべっているやつがいれば、注意すればいい。個人の責任で閉まりかけたドアに突進すればいい。アナウンスや周囲の視線の強制ではなく、席を譲りたいと思えば譲ればいい。あんなに駅の名前を連呼する必要はない。乗り過ごすのも本人の責任だ。

うるさいアナウンスと無責任社会は共犯関係にある。中島先生は鋭く指摘する。

ヨーロッパの電車の中は静かだ。たまにアナウンスはあるが、聴き取れないほど音量が小さい。ケータイで話しているやつがいても、気軽に注意する。他人と言葉で交渉する回路ができている。日本人は黙って、我慢して、我慢して、最後にブチ切れる。これが日本人のコミュニケーションだ。というより、これはコミュニケーションの失敗である。言葉がちゃんと機能していない。「対話のない社会」だ。他人に話しかけることに、こんなに抵抗を感じる国はない。率直に意見を言えないし、議論もできない。

横の人間関係が希薄で、対話力や交渉力が貧弱で、絶えず上から「あーしろ、こーしろ」と怒鳴られている光景は、まるで全体主義国家ではないか。

これまで日本人は同じだと信じられてきた。同じだから、言葉がなくても分かり合える。以心伝心が理想とされた。しかし、そんなことはもはやありえない。それは逆に気持ち悪いことだ。価値観がバラバラで、個人がそれぞれ、普遍化できない個別的な条件に置かれている現在、言葉を尽くしてコミュニケーションをとる以外、道はない。中島先生もそう固く信じ、今日も「言葉の戦い」を挑むのだ。それがドンキホーテのようにしか見えないとしても。

パリの地下鉄では、駆け込み乗車をしてドアに挟まれた人を、みんなでドアをこじあけて助けている光景をよく目にする。もちろん「駆け込み乗車はするな」というアナウンスはない。みな個人の責任において駆け込む。私も1度挟まれて助けてもらったことがある。そのときの周囲の人々の咄嗟のチームプレイはいつも見事だ。

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2006年04月11日

『年収300万円時代を生き抜く経済学』

日本は去年、3万4千人という、小さな地方都市の人口が消失したくらいの自殺者を輩出した。警察庁によると、リストラによる失業が原因で自らの命を絶つ中高年サラリーマンは年々増えているそうだ。

仕事があるうちは血反吐を吐きながら働き、運悪くそれを失ったら死ぬしかない…と言うのが、終身雇用制度が崩壊した時代のサラリーマン像。仕事人間は家族との信頼関係を築いてこなかったから、自殺を思いとどまらせる絆もない。

さらに酷い時代が来ようとしている。1億総中流社会はすでにアメリカ型の階級社会に移行しつつあり、最終的には大半を占める負け組みサラリーマンと少数のお金持ちの勝ち組という形で階層が固定してしまう。小泉首相の構造改革ってまさにこれ。その証拠に長者番付が廃止される。個人情報の保護とか言っているけど、あんなの発表し続けたら、暴動が起こるだろう。長者番付は「誰でも頑張れば、ああいうふうになれますよ」というメッセージでもあったんだから。

そしてサラリーマンの平均年収は、現在の半分くらいの300万円まで落ちてしまい、さらにはフリーターやニートというさらに低い所得者層ができてしまう。国際競争に勝つにはリストラ(人件費削減)して、雇用を流動化(正社員を減らして、派遣やバイトを増やす)させなくてはというのが、企業の言い分。

じゃあ、どうすれば?

心配はいらない。そういう価値観から降りちゃって、もっとラテン的に生きればいいのだ。つまりは仕事以外のすべてを犠牲にしたあくせくした人生から降りてしまえということだ。ヨーロッパのラテン系といえば、フランス、イタリア、スペインなど、生活をエンジョイしている人たちというイメージがある。まさに彼らの年収の平均は300万円くらい。フランスでは5週間のヴァカンスが保証されているが、みんなが別荘を持っているわけではなく、お金のない人はないなりに楽しんでいる。お金持ちなんてつまらない見栄のために、どうでもいいお金を使っているわけだから。

ところで森永氏は県民別ラテン度という興味深いデータを出している(ちょっと眉唾)。失業者の数に比べ自殺者が少ない県を上位から並べているのだが、断トツの1位が沖縄。関西では奈良が2位、大阪4位、兵庫9位。なるほど関西人はラテン系なのか。

最近の森永氏は「負け組みになるのがいやなら知恵を絞って金を稼げ」(『庶民株!』)と方向転換とも取れる発言をしている。それもいいけど、拝金主義から降りて、ラテン的に生きる術を考え抜いて欲しかった。ともあれ、売れっ子経済評論家のベーシックな考えが示された一冊。
 
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2006年04月05日

『森永卓郎の庶民株!』

今回のライブドア・ショックで大きな損失を出した若いデイトレーダーたちが批判の的になっている。「ライブドア株でもうすぐ1億円」というブログが、あの日を境に「ライブドア株で損失1億円」に変わっていた。ネタかもしれないが、ありえる話だ。恥ずかしながら私も最後の10分割をやった直前にライブドア株を買い、分割を機に株が急騰し、急落するのを傍観していた覚えがある(フジテレビ騒動のときに見切りをつけてとっとと売り払い、ことなきを得たが)。あの天井で自社株を売り抜けてたわけね。

評論家のオッサンたちは、それ見たことかという顔で「株はギャンブルではなく、長期的な展望で会社に投資し、資産形成を目指すものだ」と説教を垂れる。しかし、負け組みはそんな悠長なことを言ってられない。資産と言うよりは、なけなしの資金を突っ込むしかない。とりわけ上昇相場は早く乗った者勝ちなのだ。ギャンブル的な一発逆転を狙うしかない社会を、「ギャンブル社会」と呼ぶらしい。つまりギャンブル社会は、スタート地点から大きな差があるアンフェアな格差社会のことだ。だから負け組みのリベンジは一か八かの勝負しかない。負け組みというのは「挑戦して失敗した人」ではなく、「挑戦する前から負けている人」のことですよ、小泉さん。最近は、森永卓郎氏まで『庶民株』の中で「株式投資は庶民の最終手段」と言っている。もちろん森永氏はデイトレード(短期売買)を勧めているわけではないが、「最終手段を使うしかない」というのが若い世代の根底にある気分なのだろう。

現状ではとりわけ世代間格差が顕著だ。上の世代がガッチリと利権を握って離さない現状がある。毎日のように政・官・財の癒着にまつわるニュースが伝えられ、「逃げ切り世代」が最後まで甘い汁を吸おうとする姿を目の当たりにする。一方で、若い世代はちゃんと年金がもらえるかどうかも怪しく、決定権を握っている上の世代といえば、自分の取り分が減るからか、あまり手をつけたくないようにしか見えない。

無気力な若者、マッタリとした若者がいる一方で、やたらと焦っている若者がいる。若いうちに早く会社を大きくしなきゃ、世界一にしなきゃ。ホリエモンは「焦る若者」の代表だった。

日本は相変わらず「株はギャンブル」と言う考えが根強く、経済活動全体を視野に入れた金融リテラシーをはぐくむ教育はほとんど行われていない。かなり無茶な投資をやっている若いやつらは多いのだろう。負け組みとレッテルを貼られても、自分だけは違うとやはり思いたいものだ。自分だけはホリエモンになれる、自分だけは株でうまくいく。だからホリエモンに都合よく同一化できる。確かに若さにはどうにでも転びうる可能性だけはある。しかし、その可能性も万馬券的に確率が低いのだ。

ホリエモンは若い世代のフラストレーションの受け皿になっていたのは確かだろう。それを利用して、個人投資家を食い物にしていたホリエモンは余計に罪深い。そして先の衆議院選挙で自民党はホリエモンを餌に、その若い世代の欲望を手繰り寄せようとした。ホリエモンは、もうひとつの格差を体現する地方の希望、つまりは広島6区の期待を背負っていたことも忘れてはいけない。

先ほど触れた森永さんの『庶民株』だが、「何故、株なのか」という問いに対するひとつの説得力のある答えだと思う。「ますます貧者に落ちていくか」それとも「知恵を絞ってお金を稼ぐか」の二者択一しかないと言っているが、もちろん、勝ち組、負け組みという、選択から降りるという選択もある。負け組だの、ニートだの、希望格差だの、若い世代は上の世代から言いたい放題言われてるが、それに反論し、オルタナティブな価値観を発信する場は、まさにブログのネットワークが提供してくれるはずだ。「知恵を絞る」とは何も株をやることだけではない。


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