2025年02月07日

アニー・エルノーの新しい挑戦  “Les Années Super-8”

アニー・エルノーのノーベル文学賞受賞のニュースはうれしい驚きではあったが、晴天の霹靂ではなかった。ここ数年封切られた映画を数本あげるだけでも顕著なように、女性たちをめぐる表現は劇的に変わった。 10年前の作品の描写はもはや明らかに古臭い。それは表現に携わる人々の考え方、世界の見方がスタンダードとみなされてきたものから自由になり、新しいメソッドを積極的に模索していることの表れだと感じる。そうしたクリエイター(その多くは女性だ)やそれを支持する人たちの根っこには、読み継がれてきたエルノーの著作があるのではないか。セリーヌ・シアマ監督がエルノーの本を読み始めたのは少女のころ。母に勧められたからだった。この受賞をきっかけにエルノーの作品はさらに新しい読者につながり、一人一人に語りかけてゆくだろう。エルノーが覚悟の上で書き上げた『事件』の切実さは、今もこれからも共有されてゆく。

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受賞とそれをめぐる国際的な大騒動が起こるずっと前に、エルノーは新たな一歩を踏み出している。82才にして息子デビッド・エルノー=ブリオと共にドキュメンタリー映画“Les Années Super-8”(The Super 8 Years)を製作、今年のカンヌ映画祭の監督週間にも参加した。共同監督としてもクレジットされているが、エルノー自らカメラは回してはいない。そもそもこの映画には新たに撮影された映像は含まれていない。別れた夫フィリップ・エルノーが1972 年から1981年までスーパー8カメラで撮り溜めたプライベートなエルノー家のホームムービーの映像をそのまま使用するという、型破りな作品なのである。

新興住宅地であったセルジー=ポントワーズ(ロメールの『友達の恋人』(1985)のロケ地でもあり、エルノーは今もそこに暮らしている)に引っ越してきてから夫と離婚し作家としてデビューするするまでの家族の記録を映画にするというプロジェクトが誕生したきっかけは、身内だけでの上映会だった。パパやおばあちゃん、亡くなったおじいちゃんが昔どんなだったか見てみたいという11歳を頭とする子供たちのリクエストにより、デビッドが半世紀ぶりに日の目を見た映像に母や兄の「音声解説」を合わせてみたところ、思いのほか興味深いものが出来上がった。被写体が有名作家であるということを抜きにしても、内輪受けを超えた普遍的な映像作品になりうるのではないか。きちんとした作品に仕上げたいという思いがそこで生まれたという。

パパの8ミリフィルムからドキュメンタリー映画を作らないかという息子からの提案に、エルノーは乗った。映像のためにテキストを書くということ自体、エルノーにとって新しい試みだった。これまでは日記や自分の記憶を掘り下げる形で執筆してきたが、スクリーンの中で動く過去と対峙しつつ書くことは初めての体験だ。また、彼女のテキストは細切れのホームムービーでしかない素材映像を補足する役割を担わなければならない。個人的にはよく知っていることであっても、観客のためにスクリーンに写るそれが何であるかというところから言葉で伝えなければならない。そんな立場で過去の映像を見ると、新たな発見があったという。

スクリーンに映し出された半世紀ほど前の自分ー作家になる野心を抱きつつ、仕事と子育てに追われている若い女ーとは、距離を置いて対面することができた。(「20年前、30年前であれば様々な感情に囚われ平静な気持ちで見ることはできなかったかもしれない」とインタビューでエルノーは語っている。)8ミリカメラを構えた夫が自分を、家族をどんな風に捉えていたかも見えてきた。関係の冷え込みとともに自分が登場しなくなってゆくのもさることながら、スクリーンに映し出された自分や家族の姿はこうあってほしいという無意識な夫の願望の現れではないか。そして被写体としての自分も家族も、夫の無言の要求に応えカメラの前で無意識のうちに演技をしていたのではないか。こうした客観的なの問いかけを含め映像からインスパイアされたあれこれをエルノーはテキストとして書き下ろし、自ら朗読、録音して1時間ほどのナレーションに仕上げた。母から届けられたそんな声のテキストに伴走する映像をデビッドは素材であるホームムービーから組み上げ、双方を合体させることでこの映画は誕生した。ロックダウン下という事情もあり、互いに干渉せずそれぞれ独立して作業する形となったが、意外なほど上手く噛み合ったという。

70年代〜80年代初頭のニュータウンに住むフランスの中産階級一家の日常が延々映し出されるだけで、エルノーの熱心なファンや研究者だけにしか楽しめないようにも思われる(あの「エルノーのお母さん」が動く姿が見られるのは確かにうれしい)。しかし、この映画には他に意外な見どころがある。アニーとフィリップは、家族旅行の目的地に思いがけないところを選んだ。モスクワ、アルバニアそしてチリ。社会主義国だからこそ実現しうるかもしれない新しい世界を目の当たりにできるのではないかと思ったのだろうか。「世界はよい方向に変化する」というポジティブなエネルギーとそれを信じる気持ちがあの時代にはあったからかもしれない、とエルノーは当時を振り返ってコメントしている。家族旅行の思い出は、当時の社会主義政権下の日常が映り込んだ資料映像となった。特にチリでのものは今となっては貴重な記録となった。一家の旅行から1年半後、アジェンデ政権は軍事クーデターにより崩壊し、社会主義国家チリは消滅する。暴力によって消し去られた変革への夢の断片が、若い家族の姿と共に記録されている。

冒頭、「この映画はサイレント・フィルムである」であるというステイトメントが示される。実際のところ全く無音ということはなく、音楽が添えられているし、ナレーターとしてテキストを読み上げるエルノーの声は映画を支える柱だ。教職にあったことを思い起こさせる真面目な雰囲気と、展開してゆく映像の内容から距離を置いた徹底した淡々さはこの映画の個性ともなっている。しかし、映画の素材である8ミリフィルムはそもそもサウンドレスであり、この映画で聞こえる音は全て後付けしたものになる。映像面を仕切ったデビッドはこの点を強く意識しあえて「聞こえる音は全て人為的に加えたもの」と暗に宣言した上で、野心的ななサウンドづくりを行っている。思いがけないところで鳴る雑音がそうだ。聞こえるはずのないドアの閉まる音がごく自然に聞こえてくる。通常の映画なら気にもとまらない当たり前の雑音を効果的に付け加えることで、50年程前の映像記録を一瞬にして現在とつなげる効果をもたらしている。

わかりやすいドキュメンタリーとは一線を画したこの野心的な映像作品が日本で上映されるかは不明だが、アニー・エルノーの作品の一つとして何らかの形で見る機会が与えられることを願うばかりである。

トレイラーをこちらで見ることができます(英語字幕つき)


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2006年02月20日

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