2008年04月18日

「パリ、ジュテーム」、私も見ました

オスマンは19世紀半ば、大規模な都市改造で混沌としたパリを一望監視できる均質な空間に変貌させることに成功した。相変わらずパリは歴史的モニュメントが絶妙に配置された小さな箱庭のように見える。また、高級住宅街、労働者街、ゲイの街、学生街、中華街など、それぞれの区は昔ながらの色を保持しているように見えるが、今やその中をかつてありえなかった様々な人々が行き来し、そこで生まれる多様な関係性が、パリを近代とは別の次元へと導いている。



「パリ、ジュテーム」は18の作品が相乗りするオムニバス形式で構成されているが、そういうパリを多面的にうまく捉えている。最後にそれを結びつける仕掛けも用意されている。

■5区、セーヌ河岸
イスラム女性の口から語られることに青年は新鮮な驚きを覚える。ジーンズをはき、へジャブ(スカーフ)をかぶる今風のイスラム女性だが、これほどミステリアスな存在はない。彼女たちがどのように現代の神なき資本主義社会と折り合いをつけているのか、非常に気になるところだが、青年や彼の友達のように、常に男性の支配下にあり、強制的にヘジャブを被らされているという偏見を抱きがちだ。また彼女たちは常に慎ましく、何よりも「語る主体」ではないと思いがちだ。しかし、彼女はヘジャブついて次のように力強く語る。美しさの定義についても。

Si je veux être jolie, c'est pour moi. Quand je les(=hijjab) porte, j'ai un sentiment d'avoir une foi, une identité. Je me sens bien, et je pense que c’est ça, la beauté…

それにしても主人公の爽やかな好青年ぶりと、女性の美しさと芯の強さが、ちょっと出来すぎかなという印象を与える。どちらかというとこの先の展開が重要だろう。このテーマで1時間半とか2時間の映画が撮れるだろうか。

■10区、フォブール・サン・ドニ
「パリ、ジュテーム」の各監督の持ち時間は5分。そこで、どのように濃密な5分を演出するかが問題になる。ひとつの方法として時間を早回しにする、時間の速度を上げるという方法が考えられる。ちょうど死ぬ間際に見るという人生の走馬灯のように。あるいはハードなドラッグをやったときのイメージの怒涛の湧出のように(ケミカルに起こっていることは前者も後者も同じなのだろうが)。これを映画でやる場合、巧みに速度を操作しつつ、同時に個々のイメージをいかに鮮烈に紡ぎだすかが腕の見せどころになるだろうか。

Tu as été admise bien sûr. T'as quitté Boston pour démenager à Paris. Un petit apartement dans la rue de la faubourg de Saint Denis. Je t'ai montré mon quartier, mon bar, mon école. Je t'ai présenté à mes amis, aux parents. Tu m'écoutais les texts que tu répétais, tes chants, tes espoirs, tes désirs, ta musique…

あまりの衝撃に急停止してしまったトマの感情に反して、本能が無理やり駆動させているかような高速のフラシュバック(このモノローグは、複合過去と半過去のオンパレードなので、早速起こして授業で使ってみた)。ごめん、フランシーヌ…これは目が見えないことの負い目と読むべきなのか。それにしても、シャレがきついよ、フランシーヌ。

この作品を撮ったのはトム・ティクヴァ。映像のスピード感が新鮮で、当時「バンディッツ」(これもロケンロールなお薦め映画)とともに、「ドイツもやるな」と思ったポップな映画「ラン・ローラ・ラン」の監督だったことを思い出し、納得。

■12区、バスティーユ
まさか、赤いコートのポスターがこんな話だとは思わなかった。夫は妻の特異性に惹かれた。変な女は妙に気になるのだ。女の妙な仕草や癖は思い切りツボにはまり、離れられなくなる。最初それが最も許せない部分であったなら、なおさらのことだ。それは理屈ではない。死の病はきっかけでしかなかった。それにハマってしまったら、美しくて若い客室乗務員の愛人さえ問題にならないのだ。

女の好きな小説はハルキ・ムラカミ(それも「スプートニクの恋人」)、好きなブランドはアニエス・べー。それもバーゲンで買う。つまり、赤いコートはアニエス・べーで、こういう外見に無頓着な女が、何とかのひとつ覚えで着るようなブランドになってしまったのね。

妻は自分ではデザートを注文しないのに、夫の分を食べてしまう。それで夫は妻の好みのデザートを注文するようになり、自分の好みがわからなくなってしまった。デザートに何を選ぶかというのはフランス人でなくとも、アイデンティティーを賭けた重要な選択なのだ。個人的にもこういう苦々しい思いを知らないわけではない。そう、それは十分に離婚の理由になりえるのだ。

また別れを決めるときのように、感情が絶対的に高まっているときは、どちらの方向にも簡単に振れやすい。感情は容易く反転する。憎しみや嫌悪、愛情や親密さ。対立し、矛盾する感情も結局は絶対値で計られる。別れ話をするつもりで会ったのに、なぜかそこで結婚を決めてしまったという友人の話を思い出した。

こういう男の哀愁が身にしみる歳になってしまった。バックに流れる音楽も哀愁たっぷりだ。日本だと寺尾聡の「ルビーの指輪」(古い!)なんかが流れてきそう。

■14区
アメリカのデンバーで郵便配達をしている中年女性のパリの一人旅。ひどい英語なまりの簡素なフランス語がいい味を出している。それが幻想にすぎないにしても、パリは今も多くの人々にとって憧れの場所なのだ。しかしパリに行っても自分が変わるわけでもないし、パリはパリで自分とは全く関係のない街なのだ。その現実がもたらす絶対的な断絶と孤独が、深い部分まで自分を省みる時間を与えてくれる。デンバーで郵便配達をしている日常からは決して見えない自分が見えるのだ。この断絶感と表裏一体の幸福感は個人的にも覚えがあるし、多くの人の共感を呼ぶに違いない。

それにしても、昔は英語で話しかけると相手にしてくれなかったパリの人たちも、今は英語で親切に道を教えてくれる。フランス語を使ってみたくてしょうがないのに、話させてくれないのだ。

■最もスタイリッシュで、映像として気に入ったのが、アメリカ人女優とヤクの売人のストーリー、オリビエ・アサイヤスの「3区、デ・ザンファン・ルージュ地区」(写真、上)。ラリったマギー・ギレンホールがいい。パントマイム(ベレー帽とボーダーシャツというスタイル)のオジさんの、時代に取り残された寒い笑いで押しまくる「7区、エッフェル塔」。「こんなヘンテコリンなやつらと一緒にするなー」という叫びが切実で、寒い笑いが恐怖にまで突き抜ける。パントマイムはもともとコミュニケーションのちょっとしたズレを笑いにしていたのだと思うが、ここではコミュニケーションが完全にブレークダウンしている。開店したころに個人的によく行ったカフェ「ル・ロスタン」(リュクサンブール公園に面する)が舞台の「6区、カルチエ・ラタン」。ジェラール・ドパルデューがギャルソンを演じる。日本から参加した諏訪敦彦監督(マルグリット・デュラスのリメイク「H STORY」で知られる)の「2区、ヴィクトワール広場」。この映画のアイデアは監督の息子との会話の中から生まれたという。彼にはヴィクトワール広場のルイ14世の騎馬像がカウボーイにしか見えなかったらしい。小さい息子がいて、よくこんな映画撮れるよなあ。私にはあまりにリアルすぎて直視できなかった。


cyberbloom


posted by cyberbloom at 00:30 | パリ ☀ | Comment(0) | TrackBack(0) | フランス映画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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