2020年08月21日

エドゥアール・ルイ『エディに別れを告げて』

『ルボ 川崎』は刺激的な一冊だった。きれいなモールやタワーマンションが建ちジェントリフィケーションが進むもののタフな土地柄という面も持つ川崎で、多様なルーツを持つ若い世代がラップやスケートボードといったヒップホップ・カルチャーを拠りどころに生き抜くさまが活写されていた。



結局はアメリカのものなのかもと遠巻きに見てきたヒップホップ・カルチャーが生活の一部として根付いていることに驚嘆するとともに、ぼんやりと思った。マッチョであることがベターとされるきらいのあるこの文化にどうしてもなじめない子はどうしているんだろう?輪に入るとっかかりになるものなのに。今回取り上げる本の主人公、エディも輪の外にいる子だ。

マクロン大統領の出身地、北フランスのピカルディ地方。1992年、低所得者が多く住むある村にエディは生まれ、育った。甲高い声とほっそりした体つき、柔らかい仕草で村の子供の中でも浮いた存在の男の子。兄姉や同級生にとっての日常の音楽、ラップがダメだった―キラキラした女性シンガーが歌うポップスが好きだった。その土地の男女が共有する理想像、「タマのあるワル」ならやらないことをするやつは軽蔑されるしかない。エディは「ペデ(ホモ)の腰抜け」と中学で徹底的にいじめられ、激しい暴力のターゲットになる。

やっかいなことに、エディの見かけに対する罵り言葉は彼の秘めた性的志向を正確に言い当てていた。女達には何も感じないことは子どもの頃からわかっていた。バレてしまえば家族はおろか学校、土地の誰かれもに「生きる価値もないヤツ」と切り捨てられてしまう。「オカマの変わりもの」とバカにされながらストレートのふりをし、へっぴり腰のワル志願としてフツーのみんなに必死ついてゆくしか生き延びる道はなかった。

両親に打ち明けるなんて絶対にありえない。親になるどころかちゃんとした大人になる用意もろくにしないまま子ができてしまった二人だ。普通の親のやることができない。その日をしのぐのに精一杯、夕飯のテーブルに出せるものが近所の農家からわけてもらった絞り立ての牛乳しかないなんてこともある。ベルグル(「いい面(ツラ)」という意味らしい)なんてキテレツな姓を名乗らなければならない息子の名前を、アメリカドラマの登場人物から拝借して悦にいっている無神経な人間が、繊細に生まれついた息子の悩みなぞ理解できるはずがない。

土地の大人達も両親とさして変わらない。身体を壊して働けなくなるほど重労働な工場勤めや寝たきり老人相手の介護と、どうがんばっても一家の食い扶持ぎりぎりの金にしかならない仕事の後は、テレビと大酒とケンカと夜のお楽しみしかない。若者であればクルマとサッカー、ラップにカレシ/ガールといちゃつくことが選択肢にプラスされるけれど、恐ろしく狭い世界に変わりはない。こんな人生がを何世代にもわたって繰り返される土地にエディはいた。ここで生きてゆくことはできない。

学校の授業が救いの場だったエディはピカルディ地方の中心都市アミアンにある名門高校に入学を許され、故郷を出て行く。パリの最高学府で学ぶエリートになったとき、家族とも縁を切り普通にフランス的な新しい名前、エドゥアール・ルイを法的手続を踏んで手に入れた。人生の再スタートを切った21才の彼が発表したのが、かつての自分、エディの凄惨な日々を綴った私小説だった。

しかしなぜ、しっかり蓋をし永久に葬って当然というぐらい凄まじい少年時代の記憶をたどり、小説という形で言葉にしたのだろう。世間を驚かせたかったのだろうか(実際、衝撃を受けた読者のおかげでこの本はベストセラーとなった)。いろいろ考えてみたが、その記憶は今も作者の一部であるということにつきるのではないか。消し去ることは、その地獄の日々を生きたエディを見えないものにすることだ。口をつぐんできたエディに語らせたかったのだと思う。その五感が感じ取ったことを。暴力の痛みと身体が壊れてゆく感覚。ローティーンのころ初めて他人に体を開いたときに覚えた性的興奮。表現は極めてヴィヴィッドであからさまだ。本を閉じてしまう人もいることと思う。しかしそのcandidとしかいいようのない表現、ごまかしや嘘を徹底して排したどりついた果ての言葉には思いがけない無垢さがある。

故郷の村―四季とともに変化する美しい自然の中で私たちが親しく感じているフランスとことどこくかけ離れた日常が営まれている場所−の暮らしや両親をはじめとする土地の人々についても頁が費やされているのは、その場所もやはり彼の一部となっているからだろう。ピカルディ方言でしか話せなかった自分を消し去ることができないように。どこへ行こうともその土地の子供なのだ。

冷静に描き出される無茶苦茶さの向うには、ひどい生きざまに甘んじざるを得ない人々の諦めが見えてくる。その土地で生きることは、ワルでマッチョであることが全てに優先する狭い世界を受け入れるということだ。印象的だったのは、若くして刑務所で病死した年上のいとこの話だ。いっぱしのワルで、仮出所中に逃亡を試み警察と大立ち回りもやった。裁判にかけられた時、情状酌量に繋がるような質問を投げかけられたものの、いとこはまともに答えることができなかった。質問の意味が、使われているタームのレベルでわからなかったからだ。いとこの無謀と反抗の人生の裏には、出口を本能的に求め続けたナイーヴな魂が見え隠れする。手が差し伸べられていれば別の人生があったのかもしれない。そんな無言の問いかけは、両親に対するアンビバレントな感情にも繋がってゆく。

こんな親を持ってしまったことで、エディは死ぬ思いを味わった。否定しようのない事実だ。その一方で、エディの言葉からは、「そういう形でしか息子と接することができなかった二人」が浮かび上がる。自分達のどうしようもなさに気がついているけれどどうしようもできないでいるひとたち。(父親は、一度は故郷を離れ外の世界で生きようとしたものの帰ってくるしかなかった、挫折した人間でもある。)しかし二人は、息子を愛していた。その表現方法が全くのデタラメだったにしても。両親から自分に注がれた感情が自分の一部をなしていることをわかった上で、作者は全てをさらけだすかのように両親のことを綴る。このことが、作品に強さをもたらしているように思う。

こんな話日本では絶対ありえないし、と思う方も少なくないだろう。が、この本から聞こえてくるものは、スマホに寄りかかる今の日本の暮らしにも潜んではいないか。「知らない」ということがやすやすと人々を縛ってしまうこと、ブラックな職場での激しい労働に悲鳴をあげる身体。エディが経験しなかったこと―ネグレクト―が新聞の社会面に普通に載ってさえいる。楽しい読後感を味わうための一冊ではないが、この本は手に取った人に訴えるものをもっている。

by GOYAAKOD



posted by cyberbloom at 12:00 | パリ ☁ | Comment(0) | 書評−フランス小説 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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