2020年08月15日

『ヌヌ 完璧なベビーシッター 』レイラ・スリマニ

ベビーシッターにあまりなじみのない日本ではピンとこない人が多いかもしれませんが、それが一般化しているフランスやアメリカを震撼させたゴンクール賞受賞作品。

≪ Le bébé est mort. Il a suffi de quelques secondes. ≫「赤ん坊は死んだ。ほんの数秒で事足りた」で始まるレイラ・スリマニの第二作目は、性依存症に続き嬰児殺しのテーマを扱う。2016年ゴンクール賞を受賞。その年に独創的な散文作品を書いた新進気鋭の作家に贈られるこの文学賞は、1903年の創設以来すでに100人以上の受賞者がいるわけだが、彼女はシモーヌ・ド・ボーヴォワール、マルグリット・デュラスなどに続き12番目の女性受賞者となる。彼女がある講演会で「男ばっかりね」とコメントしたのも宜なるかな。



昨年彼女は男女平等も優先課題に掲げるフランコフォニー担当大統領個人代表に任命されているが、ハーヴェイ・ワインスタイン事件からの一連の出来事の中で改めて彼女の名前を知った人も多いのではなかろうか。アラン・ロブ=グリエの未亡人カトリーヌ・ロブ=グリエ、世界的大女優カトリーヌ・ドヌーヴを始めとする100人の女性たちが賛同署名したル・モンド紙の寄稿記事『私たちは性の自由に不可欠な ≪ importuner ≫「女性にしつこく言い寄る」の自由を擁護する』(2018年1月9日付)に対し、レイラ・スリマニは、≪ importuner ≫ と同じ音の ≪ un porc, tu nais ? ≫「あなたは豚に生まれるの?」というタイトルの記事を1月12日のリベラシオン紙に投稿し「私は ≪ importuner ≫ されない権利を求める」と主張した。

作品に戻ろう。簡潔でテンポの良い文章は、あまりにも有名な ≪ Aujourd’hui, maman est morte. Ou peut-être hier, je ne sais pas. ≫「きょう、ママンが死んだ。もしかすると、昨日かもしれないが、私にはわからない」という文章で始まる『異邦人』を想起させる。またニューヨークで働くプエルトリコ人のベビーシッターが長年世話をしていた子供たちを惨殺したという、2012年に起きた事件の三面記事からインスピレーションを受けたという点では、『ボヴァリー夫人』との類似性が指摘されている。

しかしそれらの作品と異なるのは、事件のすべての「結末」が最初に書かれてしまっていることだ。そもそもヌヌの日常はルーチンな作業(子供の世話や家事)の繰り返しなので、時系列で書いても平凡なストーリーになってしまう。スリマニは、嬰児殺しの犯人であるルイーズがなぜこのような凶行に及んだかを読者が解き明かすべく、淡々と ≪ indices ≫「手がかり」を提示していく。書き手の現在の内面意識が語られる『異邦人』とは異なり、ルイーズの感情的内面が語られることはほぼ、ない。少なくとも彼女に関しては、雇用主とのボタンのかけ違いのような誤解の積み重なり、経済的困窮、そして何よりも周囲の人間の彼女に対する無関心によって、彼女が精神的に徐々に追い詰められていく過程だけが解剖学のような冷徹な筆致で語られていく。

資本主義の原則はお金とそれに見合う商品やサービスを交換することだが、ここではお金と愛(のようなもの)が交換され、雇用主である母親は、ヌヌに自分の子供の安全を確保した上で愛を注いでもらうことに対し賃金を払う。アウトソーシングされる愛。

ただしヌヌとその雇用主との関係性は常に曖昧だ。この主従関係は常に逆転しうる緊張を孕む。とはいえ、どんなにこのヌヌが家族の一員のように扱われ、一見家族にとってなくてはならない存在になっていたとしても、この絆はある時突然、必ず、断ち切られ、永遠に戻ってくることはないのだが。スリマニはこの居心地の悪さに大変興味を惹かれたという。

またスリマニは、この10区に住む若い夫婦のボボ的身振りの欺瞞を情け容赦なく暴き立てている。妻のミリアムは、友人のヌヌに対する人種差別的態度に戸惑いながらも、「移民同士の結束を疑ってかかって」おり、同じ移民という出自である自分とは違うと無意識に考えている。都合の良い時はバカンスに同伴させたり、プレゼントをしたり、家族の一員のような扱いをしておきながら、実は相手の生活や内面には無関心。ブルジョワ的階級差別の方がずっとマシだ。なぜなら人間関係の曖昧さはここでは回避されるから。たとえ売り物が愛であっても、その愛はフェイクであることを常に意識させてくれるから。

しかしそれが平等とリベラルを建前とするボボたち(=エセ左翼)は、逆にその罠に自らハマる。家族のふりをすることで、より自分の子供に有利になるように、より大きな愛情を注いでもらえるように、つまりは対価以上の搾取をするように、ヌヌの期待を最大限利用することによって、それは成し遂げられる。本当はヌヌの悩みなどに全く関心がなく、子供に「愛情」を最大限注いでもらうことにしか関心がないのに。

このボボのカップルの優しい親切心を装った残酷な無関心が、孤独で誰も助けてくれない絶望するヌヌを追い詰めたのだ。彼女に残された唯一の切り札、託された子供(=人質)を殺してしまうほどに。彼女の絶望を救う唯一の望みである子供たち、しかし同時にある時期が来たら突然全く何の役にも立たなくなる切り札。

そもそもミリアムたちは気づくべきだったのだ、このヌヌが非の打ちどころがなく完璧であるほど、その対価は大きくなるはずだということを。なぜ「肌の色の白いヌヌは珍しく」、大半のヌヌは移民の女性なのか、それにもかかわらずルイーズが本来なら仕事内容に含まれない料理や家事まで完璧なまでにこなし、「いつ何時でも雇い主のために時間を割いてくれる」ことの意味を。「こんなにうまい話があっていいのかしら」と心のどこかで気づいていたはずだ。しかし彼女たちは見て見ぬ振りをしたのだ。あまりにも自分たちに都合が良かったから。

作品の中でヌヌたちはこのように描かれる。「みんなそれぞれ人には言えない秘密を持っているのだ。膝が震えるような恐ろしい記憶、屈辱、嘘を隠しているのだ。(…)日々要求されるお金。」

映画『パリ、ジュテーム』の ≪ loin du 16e ≫「16区から遠く離れて」では、まだ夜も明けぬうちから生まれて間もない自分の子供を、ベビーベッドがひしめく託児所に預け、住んでいるパリ郊外の団地から電車とバスを乗り継いで通う16区のブルジョワ家庭で、本来自分の子供に注ぐはずだった愛情をお金に換えて、≪ chanson douce ≫「優しい子守唄」を歌う移民女性の姿が描かれていた。

すべてのやる気を徐々に削いでゆく絶対的な孤独、恥の感情、理由なき罪の意識に苛まされていくルイーズ。彼女は自分がついに「もう誰も愛せなくなってしまった(・・・)心に満ちていた優しさはすべて使い果たしてしまった」ことを意識するに至る。彼女は、人間がそれがないと生きてゆけない内面の愛が枯渇した空洞と化してしまった。ベビーシッターという職業はお金と愛(のようなもの)を交換する感情労働であるが、ルイーズは唯一の売り物である愛が枯渇してしまった自分がそのことで罰せられるという強迫観念に囚われていく。そして「誰かが死ななければならない、私たちが幸せになるためには、誰かが死ななければならばならない」という呪いにも似たリフレインに取り憑かれていく。

ラストわずか10ページあまりのクライマックス。突如ニーナ・ドルヴァルという女性警部が凄惨な事件の現場に現れ、超人的な緻密さと集中力で読者である我々が辿ってきた「手がかり」を漏らさず収集し、分析し、ルイーズの輪郭を浮かび上がらせる。事件を再構成し、謎の封印を解くために。

スリマニが言うようにニーナ警部は著者の分身であるが、彼女はブードゥー教の儀式を司る女祭司のように、ルイーズに一体化し、彼女の孤独と絶望を再現する。欠けていた最後のパズルのピースをパチンと嵌めて、子供たちの最後の瞬間を我々の前に現前させるのだ…

当初『モン・ロワ 愛を巡るそれぞれの理由』(原題 Mon Roi )の女性監督マイウェンが映画化するとのことだったが、最終的に『フィデリオ、あるいはアリスのオデッセイ』(原題 Fidelio, l’odyssée d’Alice )の女性監督リュシー・ボルルトーが手がけることになったようだ(2018年3月現在)。主演はカリン・ヴィアールで2018年5月から6月に撮影の予定とのこと。どのような脚色になるのか、今から楽しみでならない。

posted by noisette



posted by cyberbloom at 15:15 | パリ ☁ | Comment(0) | 書評−フランス小説 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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