2022年09月24日

『ポムポムプリンの「パンセ」』

古典は読みにくい。言葉遣いが古いし、いいことを言っていても、言い方が難しかったりする。でも、古典とはいろんな読み方に耐える書物である、ともよく言われる。確かに、本当に大事なことは、原稿に番号を振って読んでいる学者だけに理解できるものではないはずだ。古典は誰にでも開かられている。だから、2016年度のサンリオ・キャラクター人気投票で第1位に輝いたポムポムプリンが、フランスの思想家パスカルの名作『パンセ』を読んでみても、かまわない。なので、読んでみたら、こうなりました、というのが本書である。



一応解説しておくと、パスカルの基本的な態度は、神がいなければ、人間の生きる意味を保証するものがなくなる、だから、神を信じるべきだ、というもので、その反証として「神なき人間の惨めさ」を書き留めた。『パンセ』には次のような一節がある。

「人間は、死と不幸と無知とを癒すことができなかったので、幸福になるために、それらのことについて考えないことにした。」

これは前田陽一・由木康によるスタンダードな訳文(中公文庫版)で、ポイントを落として、本書にも転載されている。ここは大事なところで、パスカルの「原文」もできれば読んでね、という編集サイドの謙虚な気持ちが表れている。さて、ポムポムプリンは、パスカルのこの言葉をこう解釈している。

「耐えられないときは逃げたっていい。
大きな悲しみに直面すると、無力感にさいなまれる。乗り越えようとするほど、より悲しみが深くなってしまう。無理に向き合おうとせず、毎日を過ごそう。嫌なことを考え過ぎなくてもいいんだよ。」

な、なんとポジティブな。神様抜きでは癒せないものを無視することで幸福になろうとする人間を批判するのではなく、惨めになる前に逃げようね、と優しく諭してくれるとは。さすがサンリオきっての癒し系だ。

「クレオパトラの鼻。それがもっと短かったなら、大地の全表面は変わっていたことだろう。」(パスカル)
→「小さな行動が、未来を変える。」(ポムポムプリン)

「われわれが他人から愛される値うちがあると思うのは誤りであり、それを望むのは不正である。」(パスカル)
→「愛されたいから、愛してみる。」(ポムポムプリン)

ひょっとして意味が反対では? などと批判するのは、野暮というものだろう。どんな言葉もポジティブにしか理解できない人もいるのだ。サンリオのキャラクターたちは、ほかにもこんなものを読んでいる。

 『ハローキティのニーチェ』
 『キキ&ララの「幸福論」』
 『マイメロディの「論語」』
 『けろけろけろっぴの「徒然草」』
 『みんなのたあ坊の「菜根譚」』
 『シナモロールの「エチカ」』
 『バッドばつ丸の「君主論」』

異なる文脈に置かれると、言葉の意味はいくらでも変化する、とかつてボルヘスも書いたことがあったが、彼の短篇「『ドン・キホーテの著者、ピエール・メナール」は、結局は作者名を入れ替えただけの知的遊戯にすぎない。このサンリオ古典シリーズは、もっと過激だ。実際、キティちゃんがニーチェの超人思想について考えている図を想像するだけで、かつてないアートを感じてしまう。

あらゆる古典が、ひたすらポジティブ・メッセージの書へと変換されてしまうのでは、という危惧もなくはない。それは、現代日本に底流する問題である。今後は、思想誌としての『いちご新聞』から目が離せない。


posted by bird dog


posted by cyberbloom at 00:00 | パリ ☁ | Comment(0) | 書評−文学・芸術・思想 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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