2018年04月24日

「モン・ロワ〜愛を巡るそれぞれの理由」

スキーでスピードを出し過ぎて転倒し、負傷した女性弁護士トニー(エマニュエル・ベルコ)が、リハビリに励みながら、愛したジョルジオ(ヴァンサン・カッセル)との過去について振り返る。トニーは治療の最初にカウンセリングも受け、見透かされるように、けがをしたときの心理状態について尋ねられる。ひざにまつわる言葉遊び。genou(ひざ) = je(私) + nous(私たち)…(私たちとは、私とあの男のことだ!)。またカウンセラーはひざについて暗示的な文章を読み上げる。



「ひざは諦めや譲歩と密接な関係にある。後ろにのみ屈折する関節だからである。ひざの痛みは現状を否定する心理と連動する。治療においても同じ心理的道筋をたどる」

実際、リハビリで傷が回復していく過程は、トニーがジョルジオとの過去を反芻しながら、心の整理をし、そうすることで心の傷が癒されていく過程でもある。

二人の出会いが新鮮に感じられたのは、セレブと法曹の世界という、対照的な世界の二人が出会ったからだ。セレブの世界は祝祭的で、性的にも放縦だ。ジョルジオは、自分のことを「ろくでなしの王様 roi des connards 」と呼び、交友関係が派手だが、人を喜ばせ、楽しませる術を知り尽くしている。しかしその分だけ女性関係も込み入っている。ジョルジオはトニーと付き合いながら、モデルの元カノ、アニエスと関係を断つことがことができない。アニエスとの関係を強引に認めさせられ、トニーはそれを納得しようとするが、棘のように喉元に突き刺さっている。

一方トニーは弁護士で、近代の社会制度の担い手にふさわしく、一対一の恋愛と、愛のある結婚と出産に価値を置いている。独占欲も強い。近代以前、恋愛はコントロールできない感情として社会制度の外側にあった。恋愛は既婚者同士の婚外関係にあった。つまり愛人関係にしか恋愛はなかった。フランスは現代においてもそういう恋愛のあり方を引き継いでいるのだろう。セレブの乱痴気騒ぎはそれ以前の乱交的な世界ですらある。ジョルジオはそういう世界の住人で、ジョルジオもトニーに激しく惹かれるが、以前の生活習慣が染みついている。

以前、ジュリー・デルピー監督の『恋人たちの2日間』のレビューで「フランス的性愛の外見的な緩さは、非倫理性を表さない。流動的な関係の中で、にもかかわらず揺らぐことのない「代替不可能なもの」「取替え不可能なもの」を倫理的に模索していると見られるからである」という社会学者の宮台真司の一節を引用したが、そうだとすれば、ジョルジオがフランス的性愛の求道者に見え、むしろトニーはそれに耐性がない。ジョルジオをダメ男と評するレビューが多いが、彼がそうなら、トニーはダメ女である。DV男の餌食になるような腐れ縁を断ち切れない女である。

いずれにせよ、二人の関係は、笑い転げるか、泣き叫ぶかのどちらかだ。まるで「心電図」のように浮き沈みが激しい。トニーは「平坦な関係」が欲しいと言っているが、ジョルジオが言うように、心電図が平坦になったら、それは死を意味する。そもそも、一か八かで憧れのジョルジョにちょっかいを出したのはトニーの方だ。男女関係の本質はふたりの次のやりとりの中の逆説に集約されている。

On quitte les gens pour la même raison. 男と女が別れるのは同じ理由だ。
Exactement ! その通りね。
Pour la même chose pour laquelle ils nous ont attiré en premier lieu. 初めは魅力的に見えていたことが、あとで別れの原因になる。(※1)

恋愛初期の全開のワクワク感は、それを独占できなくなったときの絶望と裏腹で、それを担保に与えられているかのようだ。人間の感情は不自由で、特に嫉妬という感情は致命的だ。そのような感情にどう対処し、未来に向かうのか。トニーは生真面目な人間なので、時間が解決してくれるのを待つしかない。ケガのリハビリに時間と忍耐が必要なように。チンパンジーは目の前の性行為にのみ嫉妬するが、人間は不在のものにも反応できる。嫉妬は人間に特徴的な感情で、人間は粘着質で、恨みがましいのだ。同時に人間は不在のものを表象する力がある。まさにこの作品はトニーの回想力によってできている。(※2)

最後のシーンがポイントだ(ネタバレ注意!)。息子のシンドバッドの通う学校で、親の務めを果たすために彼らは出会う。リハビリ後、初めての再会だ。ジョルジョの髪には白髪が混じり、しわも増えている。それをカメラは執拗に映し出す。出会って10年という設定なので、少なくともアラフォーに達している頃だろう。ジョルジオはバイクで学校にやってきて、最低限の務めを果たすとそそくさと帰ってしまう。学校は学歴のない人間には居心地が悪い。子育てする際には弁護士のような社会的地位が高い方が信用されるのだ。

ここで完全に逆転が起こっている。「私の王様」は急に貧相に見え始め、普通のおじさんになってしまった。ジョルジオとの関係は上手くいかなかったが、そのあいだに有名な事件を担当したり、トニーは弁護士として着実に地位を固めた。すでにジョルジオは嫉妬する側に回り、ほとんどストーカー状態だ。弁護士の立場を利用したのか、美しい息子の親権もしっかり手に入れている。だからと言って、ジョルジオを軽蔑したわけではない。彼女はいとおしげに彼を見つめている。これも恋愛のひとつの境地だ。

心電図のように振れの大きい恋愛を経て、彼女は成長し、以前の彼女ではもうない。美しさも深みを増している。海辺のリハビリ施設で、いろんな出自の若い男たちと楽しくやれるのも、気が若く、人間の幅が広がった証である。いわばジョルジオの世界を取り込んだのだ。

ところで、この映画の監督、マイウェンはリュック・ベッソンの『フィフス・エレメント』で異星人のオペラ歌手、ディーヴァ役を演じたことでも知られている。彼女は17歳でベッソンの子供を出産しているが、彼の方は『フィフス・エレメント』の発表の直後に、その主役であったミラ・ジョボヴィッチのとりこになってしまった。ベッソンに捨てられたマイウェインはうつ状態に陥った。過食症で25キロも太り、アルコールやドラッグにおぼれそうになったという。まさにトニーと似た状況に置かれていたわけだ。

フライヤーでこの作品を「『ベティブルー』から30年!」という強引な紹介の仕方をしていたが、プッツン女とそれに振り回されることに快感を覚える男の映画とは、似ても似つかないことを付け加えておく必要があるだろう。

※1『ふらんす』2017年4月号、対訳シナリオ(中条志穂)参照。 ※2 宮台真司『正義から享楽へ』、「LOVE【3D】」の章を参照。

ふらんす 2017年 04 月正義から享楽へ-映画は近代の幻を暴く-

posted by cyberbloom at 00:41 | パリ | Comment(0) | フランス映画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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