2007年06月05日

「海辺のカフカ」の音楽(1)

海辺のカフカ (上)今やノーベル賞候補と言われている村上春樹。ある批評家が文壇に村上春樹を批判できない空気があると書いていたが、大作家としての地位を不動のものにした感がある。フランスにもファンは多いし、新興国にも支持を広げている。

田村カフカ君の、ブルジョワ的潔癖さがはぐくむ妙なセクシャリティや、佐伯さんの華奢な美少女イメージのベタ塗りには、「やれやれ」って感じだが、村上春樹の魅力のひとつはモノとライフスタイルの細部に徹底的にこだわる一種のスノビズムなんだろう。それが洗練された消費主義の心地よさ、ナルシシズムへといざなう。おそらく新興国で人気があるのもそのせいだ。新聞の対談だったか、島田雅彦も似たようなことを苦々しく言っていた。

それにしても、父親殺し=オイディプス神話の枠組み持ってくるのが強引というか、不自然。今の時代に、そういうモデルが先行して、個人の行動を規定するなんてありえない気がする。神話や精神分析という使い古された枠組みを解体するパターンを作っていくのが小説じゃないんだろうか。

小森陽一が「村上春樹論 『海辺のカフカ』を精読する」という本を書いている。まだ読んでないが、「女性嫌悪」がキーワードのようで(言いたいことはわかる気がする)、アマゾンの書評で春樹ファンに激しく反撃されている。

いろいろとケチをつけてはみるものの、ふたつの物語が同時進行しながら交錯していく展開は「世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド」を思い出させ、結局は巧みなストリーテリングにまんまと引き込まれ、「世界の終わり」と同じようにスリリングな読書タイムを満喫させてもらった。特に、猫と話せるナカタさんのキャラはなかなか味わい深い。後半のナカタさんとホシノ青年のロードムービーっぽい展開もいい。

ところで、今回のテーマは音楽だった。

My Favorite Thingsカフカ少年はウォークマンにいろんな曲を入れて聴いているが、そのひとつにジョン・コルトレーンの「マイ・フェイバリット・シングス」がある。

「僕は沈黙を埋めるために口笛を吹く。『マイ・フェイバリット・シング』、ジョン・コルトレーンのソプラノ・サックス。もちろん僕のたよりない口笛では、びっしりと音符を敷きつめたその複雑なアドリブをたどることはできない。頭の中に思い出すその音の動きに、ある程度の音を添えるだけだ。でも何もないよりはいい…」(下p.342)

カフカ少年は森の中を進みながら「マイ・フェイバリット・シングス」のソプラノ・サックスのソロの部分を口笛で吹く。コルトレーンなんて明らかに村上春樹の世代の趣味だろう。コルトレーンを聞く15歳の少年というのも不自然だが、カフカ少年は不吉なイメージを喚起させる異質なものとしてコルトレーンを聴いている。そこがミソなのだろう。

「そして今ではマッコイ・ターナーのピアノ・ソロが、耳の奥で鳴り響いている。左手が刻む単調なリズムのパターンと右手が積み重ねる分厚いダークなコード。それは、誰か(名前を持たない誰か、顔を持たない誰か)の薄暗い過去が、臓物みたいにずるずると暗闇の中からひきずりだされていく様子を細部までありありとまるで神話の場面のように描写している…」(下p.345)

確かに私の感覚ではマッコイ・ターナーのピアノ・ソロをカッコいいとは思っても、「臓物ズルズル」なんてイメージとは結びつくことはない。早熟な少年はレディオヘッドあたりがちょうどいい感じ。レディオヘッドに関しては exquise さんのエントリーを参照されたし。

カフカ少年はウォークマンでプリンスのベスト盤も聴いているし、古い蓄音機でビートルズの「サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド」も聴いている。音楽に対する耳は確かな人だから、出てくる音楽を拾って聴いてみてるのも「悪くない」だろう。

それにしても、架空のヒットソング「海辺のカフカ」を決定づける「2つの特別なコード」って実際どんなものなんだろう。


John Coltrane / My Favorite Things (Live)


cyberbloom

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posted by cyberbloom at 21:29 | パリ ☀ | Comment(0) | TrackBack(0) | 書評−その他の小説 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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