2015年11月01日

『永遠のピアノ』―奇跡の中国人ピアニストの自叙伝

バッハの『ゴルトベルク変奏曲』といえば、数々の名だたるピアニストが卓抜した演奏を披露してきたバロック音楽の傑作中の傑作として知られている。とりわけグレン・グールドの名演が知られているが、本来の楽器チェンバロで演奏したグスタフ・レオンハルトの味わい深い名演も捨てがたい。そして、パリ在住の中国人ピアニスト、シュ・シャオメイもまた、この曲の演奏史に必ず名前を残すことになるピアニストであろう。一体、なぜ中国人女性がこれほどの演奏をすることができるのか?その謎を解くには、このたび翻訳刊行された彼女の自叙伝『永遠のピアノ』を読まなければならない。



シュ・シャオメイは中国の上海の裕福な家庭に生まれ、幼いころからピアノの才能を開花させる。しかし、彼女が北京中央音楽院に在学中に文化大革命が起こり、状況は一変する。ブルジョワゆえに出自が「不良」とされた彼女は、侮蔑の言葉を投げかけられるだけならばまだしも、ピアノ演奏という彼女にとって生きるに等しい行為が当局によって禁じられたあげく、「再教育」の名のもとに5年に亘って収容所での生活を余儀なくされる。文革の嵐が吹き荒れるなかを過ごさねばならない部分の記述は凄まじく、彼女の周囲の多くの者が希望を失い、自殺を強いられ、精神的な廃人になるまでが悲壮なタッチで描かれる。

我々もそのような場面を映画では観たことがある。ベルナルド・ベルトルッチの『ラストエンペラー』で、清朝最後の皇帝愛新覚羅溥儀が政権崩壊後に自己批判を強要される場面だ。あの映画のなかで、溥儀に自己批判を強要していた政府の役人が、文化大革命では自己批判させられる側になっていた。あれは元皇帝の身の上話と思っていたが、『永遠のピアノ』を読めば、そのような状況が日曜茶飯事であったことが改めて理解される。「他の者の欠点を見つけて批判を続けなければ、自分が生きて行くことが出来ない」という世界。この無間地獄のような状況がいつまで続くのか、と読む者は誰もが戦慄させられるであろう。しかし、これはSFでも何でもなく、数十年前に起こった紛れもない事実なのだ。

しかし、この本の著者は希望を捨てることはなかった。何度も脱走を繰り返し、家族に会うことを果敢に試みるばかりか、演奏することを許されていないピアノを住居の近くにまで運び込むことに成功する。そして、革命の終盤になり、あまりにも過酷であった状況が徐々に崩れて行き、自由への萌芽が人々のあいだに少しずつ吹き出していく様は、まるでカミュの『ペスト』の最後の場面を読んでいるかのような気分に読者に誘う。限界状況、狂気的な世界をようやく逃れたシュ・シャオメイが、彼女の唯一の希望であるピアノを弾くために自由な土地を求めて、アメリカへ、そしてフランスへと渡っていく姿を、読者は彼女と同じ気持ちになって読み進めていくことになるだろう。

シュ・シャオメイの弾くバッハがこれだけ人を惹きつけるのは、彼女に本来の才能が備わっているのはもちろんのこと、過酷な体験の積み重ねから醸成された「生への希望」がそこに紛れもなく感じ取れるからだろう。彼女が奏でるピアノの音色は、アメリカやフランスの名門音楽学校を卒業し、世界的音楽コンクールを制覇したエリートが技巧をひけらかすために演奏するような音楽の「対極」にあるものだ。音楽はそれが音楽であるということを忘れさせるかのような空前絶後の境地にまで達しており、聴く者の心の奥底にいつのまにか忍び込み、深さと優しさを刻みつけて行く。およそ、この水準で演奏を続けるピアニストというのは、現在、他にはいないのではないだろうか。

2007年にロベール・ラフォン社から出版されたこの本は、フランス語で執筆されたその年の最も優れた音楽関連書に贈られる「グランプリ・デ・ミューズ」を受賞したという。大抵の場合このような賞に大きな意味はないが、『永遠のピアノ』を読んでみればその受賞は当然と誰もが思うだろう。ショッキングな内容を抜きにしても、常に自省し続ける稀有なる演奏家の自叙伝として、類書と比べても相当な高い水準に到達していることは明らかだ。しばしば著者によって引用される老子の言葉は、この奇跡的な自叙伝をいっそう味わい深いものにしている。

最後にこの本が日本語で読めることに感謝を述べたい。翻訳に携わった面々の努力は並大抵のものではないだろう。著者の感情の機微を見事に再現した翻訳は、信じられないほど読みやすい。一読する価値はある高い水準の翻訳書であることは間違いない(日本語監修:槌賀七代、訳:大湾宗定、後藤直樹、坂口勝弘、釣馨、芸術新聞社刊、2015年)。

不知火検校


解説(by superlight)

『永遠のピアノ』の背景を解説−−文化大革命の時代とは?

@そもそも文化大革命とは?
1960年中頃〜1970年中頃の中国国内の政治、文化、権力闘争。名目上は、毛沢東Aが独自の共産主義思想を貫徹させるためになされたといわれるが、実質的には自らの内政の失敗(「大躍進政策」など)で失った権力の座をとりもどすための政治闘争。学生を中心とした「紅衛兵」と呼ばれる若者を全国レベルで扇動し、中国の伝統文化や西洋文化などの排斥を目論むB。この混乱のさなかに乗じて、毛沢東は政敵の排除に成功。中国政府の公式発表では死者数は40万人といわれているものの、内外の研究者の主張によるとその数は数千万人規模までばらつきがあり、さらに毛沢東への評価も共産党政権下で明確に定まっているとはいいがたく、全貌はいまだ不明な点が多い。

Aでは、毛沢東って?
現代中国において、総人口14億ともいわれる自国の礎を築いた国父と位置づけられており、毀誉褒貶が渦巻く人物であるものの、20世紀世界に多大な影響を与えた政治家、思想家といわれている。第二次大戦で日本が敗戦して中国大陸から撤退した後、蒋介石率いる国民党との内戦に勝利して、中華人民共和国を建国。当時の中国人民の大多数を占めた「農民」の立場を重視した独自の政治思想により、一時期までは国内からも大きく評価され、現在においても国内外でその思想を高く評価する人々が存在する。けれどもその一方で、建国して間もなく、独裁者的な顔を見せはじめ、大躍進政策や文化大革命によって中国全土を大混乱に陥れることになる。現在の中国共産党は、自らの正統性の機微に触れる問題であるため(すくなくとも国父である毛沢東を否定することは、自らの政権基盤がゆらぐことになりかねない)、彼の功績を「七分功、三分過(7割の功績があり、3割の失敗があった)」としているが、これからも国内外の議論の対象となる20世紀の重要人物であることは間違いない。

Bどうして中国の伝統文化や西洋文化を排斥したのか?
一般的に共産主義Cにおいては、過去の文化や経済システム、伝統を全否定するわけではないものの、自らの目指す理想に合致しない「過去のしがらみ」を極力排除しようとする傾向が見受けられる。文化大革命では、「革命的ではない」という理由で体制側が旧来的な人間関係――家族関係や学校の師弟関係まで否定しようとし、それと格闘するシャオメイの苦悩が随所に描かれている。

C共産主義って?
19世紀後半におもにK・マルクスが体系化した理論に基づいた政治、思想、経済理論。資本(資産、財産)を共有化することによって、平等な理想的社会を目指そうとした。旧ソ連、中国、北朝鮮、キューバなどが、この理論に基づいて国家運営を試みたが、いずれも崩壊するかなんらかの軌道修正を迫られていて、現時点でこの制度を取り入れて持続的に成功した事例はないといわれる。「資本(資産、財産)を共有化する」という理想が逆説的にも諸刃の刃となり、「どれだけがんばっても、労働の成果が自分自身のものにならない」=「私有財産の保有になんらかの制限がかかる」ため、共同体間の各個人の労働意欲が減退するのが原因といわれることがおおい。

Dでは現代の中国は?
毛沢東の死後、1980年ころになって中国政府は大幅な路線変更を試みる。あらたな指導者となったケ小平は経済の「改革開放路線」に乗り出す。「資本(資産、財産)を共有化する」という共産主義の理念をある程度緩和し、さらには政府(党)を直接批判することにつながらなければある一定の言論の自由も認められるようになった。そして、近年日本を追い抜き世界第2位の経済大国の地位を占めるようになる。ところが、1989年に起きた天安門事件(民主化を求める知識人や学生への政権による弾圧)をはじめとして、ウイグル・チベットへの弾圧、格差に不満を抱く民衆への締め付け、共産党員・官僚の腐敗など、いまだ国内に大きな矛盾を抱えたままであることにはかわりない。

まとめ―
中国という国は非常に長い歴史があるといわれますが、「中華人民共和国」すなわち中国共産党が率いる現政治体制が確立したのは1949年のこと。現体制下においては70年弱ほどの歴史しかありません。2015年現在の中東情勢やウクライナ問題をみればわかるように、「国づくり」とは一般的な日本人が考える以上にさまざまな困難がともないます。中国建国後、立て続けに中国国民を襲った大躍進政策や文化大革命も、こうした大きな視点で考えてみれば、どの国や地域においてもいつでも同じことが起こるかもしれない悲しい出来事としてとらえられることもできるでしょう。

そんな激動の時代に生きたシャオメイさんは、時代の一証人としてもがき苦しみつつも同時に屈することなく自らの人生に立ち向かいます。自らのアイデンティティの拠りどころである中国の伝統文化(芸術、哲学、生活様式)を大切にしつつ、同時に西洋発祥のクラシック音楽に魅了された、素朴で実直な飾らない女性。国や宗教、郷里・家族といった枠組みが大切なことはいうまでもありませんが、一人の人間が生きるということはどういうことなのかを考えさせてくれるならば、そういった枠組みを超えて耳を傾けたくなるのではないでしょうか?



posted by cyberbloom at 12:18 | パリ | Comment(0) | TrackBack(0) | 書評−文学・芸術・思想 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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