2014年11月16日

哲学者が語る象徴主義詩人―ランシエール『マラルメ−セイレーンの政治学』を読む

マラルメ―セイレーンの政治学 (批評の小径)現代フランスで最も旺盛な執筆活動を繰り広げている哲学者の一人、ジャック・ランシエール(1940−)が1996年に発表した詩人論が、このたび『マラルメ―セイレーンの政治学』として翻訳刊行された(坂巻康司・森本淳生訳、水声社、2014年)。ランシエールと言えば、哲学者アルチュセールの初期の弟子として知られているが、パリ第8大学教授として教壇に立つ傍ら、政治哲学に関する重要な著作を次々に出版し、特に近年は日本でもその主要な著作が毎年のように翻訳されるような存在である。そのような彼が、なぜ象徴主義の詩人マラルメを語るのだろうか。

マラルメ―セイレーンの政治学 (批評の小径)ランシエールは何よりも、「政治」を語る哲学者である。もちろん、アリストテレス以来、哲学者は常に政治を語り続けてきたわけだが、ランシエールにとって政治は数多ある哲学的対象の一つではなく、最も重要な考察の対象であり続けている。恐らく、マルクス主義を根底に持つアルチュセール派から出発したランシエールには、労働者の生活形態を規定する政治のありかたこそが、人間存在の根源的な部分を形成するファクターであるという揺るぎない確信があるのだろう。そのような観点から、初期の『プロレタリアの夜』(1981年)から2005年刊行の『民主主義への憎悪』(松葉祥一訳、インスクリプト、2008年)に至るまで、民主主義、デモクラシー、合意形成といった政治哲学の主要テーマを次々に議論の俎上に乗せ、現代社会における政治の可能性・不可能性を徹底的に吟味しようとしているようだ。

と同時に、ランシエールは「美学」を語る哲学者でもある。様々な著作における文学についての言及もさることながら、例えば2003年に出された『イメージの運命』(堀潤之訳、平凡社、2010年)では、絵画・デザイン・劇場・映画と、表象芸術の領域を自在に渡り歩きながら、ミメーシスが危機に瀕した近現代におけるイメージの意味について考察を繰り広げている。ランシエールは映画批評誌『カイエ・デュ・シネマ』の常連寄稿者でもあるように、とりわけ映画に対して並々ならぬ博識・偏愛ぶりを見せているようだが、いずれにしてもそこで展開される議論は「表象の不可能性」の問題へと収斂していくものと言えるだろう。

このように、「政治」と「美学」という二つの柱を持つランシエールにとって、マラルメという詩人は彼の哲学の興味深い対象ということになるだろう。なぜならば、マラルメ自身が同様なことを言っているからである。「この世には美学と経済学しかない」とマラルメは書いたが、ここでの「経済学」には「政治学」の意味が少なからず含まれている。一般的には19世紀末を生きたこの象徴主義詩人は、詩的言語を限界まで洗練することを試みた「美学」の探求者と思われているように思う。実際、ランシエールもまずマラルメの韻文詩の美学的考察から『セイレーンの政治学』を始めているように見える。しかし、ランシエールの眼には、マラルメはその「美学」の実践において「政治」的な射程を持った詩人と映っており、章が進むにつれてそのことは明白になっていく。マラルメの散文詩はときに芸術家と労働者の関係を論じ、ときにワーグナーと祝祭の可能性を考察し、ときにバレエに対する綿密な批評を展開することもあるが、そこにあるのは常に「政治」的な射程から逸脱することのない、彼固有の「美学」であった、というのがランシエールの主張なのである。

マラルメは「ただ美しいものがあればそれで良い」と考えていたように思われがちだが、実はそこには様々な戦略的な意図があったとランシエールは推察する。それを一言で表現するならば“「とるにたらぬもの」の称揚”ということになるが、それこそがランシエールが見出したマラルメ美学の核心であった。詩や文学のような「とるにたらぬもの」(マラルメはそれをrienと呼んでいる)が称揚されるような世界は、当然ながら特権や位階が君臨し、豪奢や蕩尽が許容される世界の対極にある。しかしながら、マラルメという人物はペンという唯一の手段を用いることによって、そのような「不可能な世界」を実現しようと試みた前代未聞の詩人だったのではないか、とランシエールは考えるのである。

およそここまで「政治」という観点に注目したマラルメ論は珍しい。しかし、そればかりではなく、この本において、ランシエールはマラルメの「政治学=詩学」を「セイレーン」という言葉に託しながら鮮やかに語っている点が印象的だ。ホメーロスの『オデュッセイア』においてオデュッセウスを惑わすセイレーンの歌声が、2000年の時を超えてマラルメの幾つかの韻文詩(「挨拶」、〔垂れこむ雲に沈黙し…〕)、そして最晩年の傑作『賽の一振り』と絶妙な仕方で反響し、この象徴派の詩人の戦略が古代から現代に至る芸術家の意図の集大成のように捉えられている様を読書は知ることになろう。このような点がランシエール哲学の最大の魅力と言えるのではないだろうか。

マラルメの専門家からすれば異論もあるだろう。「細部を捨象している」、「抽象的過ぎる」、「歴史的厳密さに欠けている」などなど。しかしながら、ランシエールの思想はそのような批判を弾き返すほどの力強さと粘り強さを持っているように思う。『マラルメ―セイレーンの政治学』は数多あるマラルメ論の中で疑いなく確固たる位置を占めるものと言うことが出来るだろう。


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posted by cyberbloom at 16:46 | パリ ☀ | Comment(0) | TrackBack(0) | 書評−文学・芸術・思想 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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