2012年09月27日

ナポレオンの英語の手紙について

6月10日にナポレオンが英語で書いた手紙がオークションにかけられ、32万5千ユーロで落札された。1816年3月9日付の手紙で、時事通信は「間違いだらけ―流刑地で勉強」という見出しを付けた。確かに、手紙の冒頭には “It is two o'clock after midnight, I have enow sleep...” とある。『日刊スポーツ』は「now のつづりが enow になるなど誤記が目立つ」と報じ、フランスの『エスクプレス』は、「午後2時だが、全然眠れない」と、記事自体が誤訳して、訳が分からなくなっている。これは NHK が報じたように、enough の誤記と解釈し、「「十分に」のつづりが違う」と見るべきだろう。この時期、ナポレオンは不眠症だったらしいが、それでなくても、彼は睡眠時間の少ないことで有名だった。

http://www.jiji.com/jc/c?g=int_30&k=2012061100111

この手紙の面白さは、何と言ってもフランス精神の体現者たるナポレオンが、敵国語の英語で自己表現を試みた、ということにある。しかも、それが決してうまくないことは、英語に対するコンプレックスを持つ者にとっては、どこかほっとする話のようである。ちなみにイギリスの『ガーディアン』紙は、「シェークスピアの言語で」ナポレアンが手紙を書いた、と二度も強調している。ここでの英語は、アメリカ語ではなく、イギリス語だった。近代英語は、欽定聖書とシェークスピアによって定着した、という定説を踏まえた修辞である。よく使われる表現だが、もちろんナポレオンがそんな華麗な英語を使いこなしているはずはないので、一種の皮肉も込められているのだろう。

http://www.guardian.co.uk/world/feedarticle/10282457

フランス語に関する限り、ナポレオンは名文家だった。アルベール・チボーデの文学史は、ナポレオンをフランス近代文学の始まりに位置づけている。それはもちろん、彼が執筆した法律の文言が、絶大な影響を後世に与えたからである(ナポレオンを取り上げることには、フィクション性を文学の根拠としないフランス文学史の伝統も関係しているが、ここでは触れない)。そのナポレオンが英語で手紙を書いた理由として、イギリス文化への憧れを挙げる人もいれば、英語誌で彼がどのように報じられているのか知ろうとしたため、と推測する人もいる。いずれにせよ、ナポレオンはサント=ヘレナ島で無聊を持て余し、手すさびに英語で手紙でも書いてみよう、と思い立ったにすぎず、本格的に英語を習得しなければならない状況にはなかった。

しかし、英語を学ばなければならないと感じている人にとっては、ナポレオンの深夜の苦戦(13行の手紙を書くのに2時間かけたという)は、微笑ましいエピソードに見えるだろう。天才にも隙あり、というのは凡人の好むところだからだ。ナポレオンが、大して勉強もしていないのに、英語も流暢だったら、面白味は半減する。英雄が自分と変わりないことを知るのは、それで自分が英雄になれるわけでもないのに、人を喜ばせるものである。

ちなみに、高額で落札したのは、パリの書簡手稿博物館。2004年に開館した、比較的新しい博物館で、住所はサン=ジェルマン大通り222番地、作家の原稿や作曲家の楽譜などのオリジナル版を多数所蔵・展示している。現在はジャック・ケルアックの『路上で』の最初のタイプ原稿を展示中とのこと(2012年8月19日まで)。僕は昔、村上春樹の生原稿をある展覧会で見て、ちょっと幻滅したことがあるけれど、もはや手書き原稿そのものが存在しない時代になってしまった。手紙もメールに取って代わられてしまった。この博物館は、20世紀までの書記文化を要約し、それ以後は扱わない。その意味では、人間と文字との付き合いを振り返る場所として、これからだんだんと意義深い博物館になるかもしれない。

http://www.museedeslettres.fr/public/



bird dog (初出2012年6月13日)

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posted by cyberbloom at 20:26 | パリ ☀ | Comment(0) | TrackBack(0) | グローバリゼーションを考える | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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