2012年06月08日

橋爪大三郎×大澤真幸 『ふしぎなキリスト教』

私の両親は厳格なクリスチャンで、小学生の頃、学校に行く前に、写経ならぬ、聖書を毎日一章ずつ書き写す課題を私に課していた。半ば苦行のように聖書に慣れ親しんでいたが、その中で素朴な疑問が幾度となく沸き起こった。この対談本で大澤氏は質問役に徹しているが、彼が橋爪氏にぶつける質問は、そうそうそう、って感じで小さいころの疑問を鮮やかに思い起こさせてくれた。確かにキリスト教はつっこみどころ満載なのである。




「キリスト教に限らず、どんな知的な主題に関しても言えることだが、ある意味で最も素朴で基本的な質問が一番重要である。そういう質問は、初学者にとっての最初の質問であると同時に最後まで残る最もしぶとい質問であるからだ」(大澤)

この大澤氏の質問力が問題のパースペクティブを開く重要な鍵になる。

「創世記」の初めから、「なぜ神は禁断の木の実を人間のそばにおいて罪へと誘導し、厳しく罰するのか。アダムとイブの過失をなぜ後世の人間がすべて引き受けなければならないのか」という疑問にぶつかる。私も親に何度も訊いたテーマである。また「ヨブ記」のヨブ、大きな魚に飲まれたヨナ、カイン&アベル兄弟のカイン。彼らはなぜあんなに理不尽な目に会わなければならなかったのか。また「不可解なたとえ話」という章があり、不正な管理人、ぶどう園の労働者、放蕩息子、99匹の羊と1匹などのたとえ話の論理的な不可解さがクローズアップされている。

ところで、キリスト教はユダヤ教の上に成立しているわけだが、いわば2段ロケット構造をなしている。ゆえにまずユダヤ教を知らなければならないが、ユダヤ教の真髄に迫るほど、その計算し尽くされた制度設計に驚かざるをえない。「2000年のあいだ世界に離散(ディアスポラ)しながら、イスラエルを再建できたのか」。このユダヤ人最大のなぞを解く鍵は、ユダヤ教の律法にあった。

ユダヤ教の律法は、ユダヤ民族のルールをひとつ残らず列挙してそれをヤハウェの命令だとしたもので、厳密ルール主義にのっとっている。ユダヤ教では、衣食住、生活暦、刑法・民法・商法・家族法、日常生活の一切合財が法律になっている。もし自分の国がどこかの国に占領され、全く別の土地に連れ去られ、そこで生活しなければならなくなったとき、100年後にまで自分の民族のアイデンティティを維持するにはどうすればよいか。民族固有の生活習慣を列挙して、法律にすればいい。実際ユダヤ人は歴史的にそういう辛酸を幾度となく舐めてきたのだ。日本人だったら正月に雑煮とおせちを食べ、春には花見、夏は花火、秋には月見をするとか…。それを天照大神との契約にする。律法はそういう考え方に基づいている。デンマーク人の友だちが、「日常言語の英語化の中(テレビは英語で放送され、デンマーク語の字幕がつく)でデンマーク人としてのアイデンティティを保つためにクリスマスなどの年中行事を友人や家族でしっかりと行う」と言っていたことを思い出したが、民族的なアイデンティティを保持するためには、年中行事だけでなく、生活の細部にまでコントロールする必要があるのだ。

ユダヤ教は戦争に負けてばかりいた負け組みの一神教だ。防衛的な動機で一神教の原型を作った。律法はユダヤ人が歴史から消えないためのプログラミングだったのだ。国家はあてにならない。あてになるのは神だけ。国家が滅んでも神との民族のあいだの契約があれば再建できる。そうやって2千年のあいだユダヤ人たちは自分たちの生活と社会を守り、とうとう20世紀半ばにイスラエルを再建した。ユダヤ教の戦略の正しさは歴史が証明している。近年、以前にも増して「ユダヤ陰謀論」を目にするが、ユダヤ人が恐れられてきた理由はこういうところにあるのかもしれない。

もうひとつの重要なユダヤ教の特徴は、人間が権力をもつことを警戒し、権力を肯定しないことだ。古代の王国や帝国が権力を肯定し、絶対化していたのと全く逆のベクトルを持つ。まず神の意思を体現する預言者がいて(預言者は予言者ではない。神の言葉を預かる者)、彼が王になる者に油を注ぎ、王に任ずる。神が王にその地位を与えるので、王は自分で王になれない。次に部族社会のリーダーである長老たちが同意していることが正統な王権の根拠になる。そして王がヤハウェにそむいた政治を行うと預言者が現れて、王を糾弾する。このような三段構えの権力コントロールになっている。これほど権力に懐疑的な宗教はどこにもないが、このコントロールはヤハウェという絶対神を想定するから可能になった。基本的に王のやることは信用されないし、神に比べるとちっぽけな存在なのだ。このような神と人間の絶対的な差異が民主主義的な平等を可能にした。この発明は後世に大きな影響力を残し、有力な政治哲学として人類の財産になったのである。

ヤハウェとの契約には弱者や低所得者への配慮もてんこ盛りだ。マックス・ウェーバーが「カリテート」と呼ぶ社会福祉的な規定のことで、イエスの教えの根底にも流れている。安息日に休み、奴隷や牛馬の消耗を防ぐ。7年目の安息年には畑の耕作を休む。50年目には債務を帳消しにして奴隷を解放する。畑に残る落穂を拾うのは誰も侵害できない寡婦や孤児の権利。外国人労働者にも一定の保護があった。これらのカリテートは一種の社会保障として機能していた。それは古代奴隷制社会とは相容れない、原始的な部族共同体の態度の名残なのだという。

続きはこちら
橋爪大三郎×大澤真幸 『ふしぎなキリスト教』(2)―キリスト教と言葉
橋爪大三郎×大澤真幸 『ふしぎなキリスト教』(3)―宗教と科学の両立


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posted by cyberbloom at 23:34 | パリ ☀ | Comment(0) | TrackBack(0) | 書評−文学・芸術・思想 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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