2006年10月22日

オルセー美術館展(1)

Paintings in the Musee D'Orsay神戸市立博物館で「オルセー美術館展」が催されている。オルセー美術館はフランス19世紀の美術館なのだが、19世紀といえば絵画において決定的な変革が起こった時期(とりわけ19世紀中葉)である。今回作品が展示される印象派の画家たちも、その変革の時期を生きた。なぜ日本で印象派が好まれるのかというと、その変革が絵画を私たちにより近いものにしたからである。

何か意味ありげな絵を見て、何か意味があるんだろうなと思いながら、消化不良のままその絵の前を通り過ぎる。でも、美術館に行く前に予習をしたり、美術館で解説を読むのはめんどくさい。印象派の絵画の多くにはこういうもどかしさがない。何が描いてあるのかわかる、美しい絵だと直感的にわかる。これは重要なことである。

しかし、絵画の楽しみは、本来、見て楽しむことであり、絵を見た瞬間の感嘆ではなかったのだろうか。印象派の絵画に関して、なぜこういうことが可能なのかというと、私たちの近代的な日常や感受性がある程度共有されていて、それを通して絵がわかるからだ。

この時代の絵画の最大の特徴は、アレゴリー的表出体系からの脱却を始めたことだ。つまれそれ以前の絵画を理解するには、絵画の中の情報を「神話や聖書や歴史」に照らし合わせる必要があった。そういうものに馴染みのない私たちは、まずそれを知る必要がある。しかし、この時代の絵画は過去=歴史=参照を切り捨て、「現在の瞬間」に向かう。印象派が同時代の人々に非難されたのは、まさにその点にあるのだ。

それに加えて、画面の明るさが決定的である。画面の明るさに関しても、技法上の大きな変化がある。「伝統的画法の金科玉条である半濃淡(※)を廃して」、例えばマネなどは「画面の各部分をそれぞれ平らな光を当てられた色の広がり」として把握している。(※中間色からなる色階によって暗い部分から明るい部分への移行が無理なく徐々におこなわれ、これらの色調は主調色に合わせるという方法)

明るさに加え、さらに楽しさがある。印象派の絵画は単なる風景画ではなく、バカンス感覚に満ちている。印象派の画家たちは都市の風景もよく描いたが、田園風景画の領分は、都市風景画から侵食される。つまり都市生活者の視線が田園に持ち込まれる。それは従来の風景画とは異なり、新興ブルジョワが遊びに興じる気楽な風景、そういう遊び人の視線によって捕らえられた田園風景なのだ。イル・ド・フランス(風光明媚なパリ盆地を中心とする地方)の風景も、ワイルドな自然そのものや、農民の労働や生活の場ではなく、次第に都市の小金持ちの遊楽の場として描かれるようになる。そして遊楽の中でも最も重要なのが「舟遊びや水浴び」で、遊びの場としての「河や池」が、絵の題材として次第に重要な位置を占めるようになった。

彼らの視線は、新しさやモード(今何がいちばんイケてて、楽しいのか)への強い関心に満ちている。そういう視線と欲望が私たちと重なり合うのかもしれない。

■「オルセー美術館展」神戸市立博物館 06.9.29-07.1.8

■「群衆の中の芸術家―ボードレールと十九世紀フランス絵画」阿部良雄(中公文庫)
★エントリーはこの著作を参照。「一部の有閑階級の独占物だった絵画を、広くブルジョワ公衆のものに転化させようという、19世紀中葉の美術革新期にあって、その最も先鋭的なイニシアチブをとった」のが、詩人&美術批評家ボードレールだった。彼の美術批評を、ドラクロワやマネとの親交を通して読み解いている。



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posted by cyberbloom at 21:36 | パリ ☁ | Comment(0) | TrackBack(0) | 美術館&美術展 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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