日本語を話していたのは、フランス人の女の子だった。いや、フランス人かどうか、国籍までは分からない。少なくとも、容姿は完全な白人の女の子だった。僕はびっくりした。彼女が完璧な日本語を話していることにではなく、自分が日本語は日本人が話すものといまだに思い込んでいたことにである。
英語を勉強する日本人にとって、「ネイティブ」のように話すことは、無条件の到達目標である。無数の「英会話教室」では、日本人特有のアクセントを矯正することに、誰もが情熱を傾ける。フランス語を勉強する日本人も、たいていはフランス人のように話したいと思う。僕自身、「日本人っぽいアクセントがないね」などと言われて嬉しくなった経験はある。ならば、なぜ日本語を勉強する外国人が、日本人のように日本語を話せただけで、そんなに驚かなければならないのか。事態はまったく同じではないか。
僕たちには、日本語が国際語になり得るという考え方が乏しい。戦時期の植民地における横暴な言語政策に対する反省からか、日本語を称揚することは、国粋的で恥ずかしいことのように感じている。かつて言語学者の鈴木孝夫が、国際語としての日本語を推進する戦略について語ったことがあったが、それは1980年代、経済大国だった時期の日本を背景にした議論だった。
メトロのなかで日本語を聞いて僕が思ったのは、そういうことではない。日本語が外国人をつなぐ言葉として機能するのは、あたりまえのことなのだ、という感想である。ある言語は、それを共有する人のためのものであって、何らかの民族にのみ属しているわけではない。
この考え方を突き詰めていくと、英語だって同じことだと言える。グローバリゼーションが進むなか、英語一辺倒になるのは文化的によろしくない、他の外国語も勉強しましょう、という反論がある。確かに、グローバリゼーションの流れにあって、英語以外の言語はないがしろにされがちだ。だが、そもそも僕たちが外国語を学ぶのは、アメリカ人をはじめとする日本語を知らない外国人とコミュニケーションを図るための手段を手に入れるためであって、英語やフランス語をネイティブのように話すためではない。「ネイティブのように」とは、言語のスタンダードとしての役割しかない。スタンダードから外れたところでも、言語活動は成立するのだ。
英語教育に対する反論として、よく「一つの文化しか知らないと視野が狭くなる」というものがある。だが、僕は日本料理店の隣り合わせたテーブルで、アラブ人とフランス人のビジネスマンが、英語で互いの国の習慣を話し合っているのを聞いたことがある。外国語として英語を操るものは、必然的に自国文化+英語圏の発想を身につけている。だから、英語を自分の表現手段として使っている時点で、一つの文化しか知らないなどということにはなり得ないのだ。
むしろ深刻な問題は、何語にせよ、日本人がいかに自らの考えを発信することができるかどうかということではないだろうか。もしフランス人が日本語で見事にフランスのことを語ったとしたら、「流暢ですね」などと感心しているだけでは済まされない。あなたは、日本語で、同じように日本について語れるだろうか。別にフランスや日本という国に関してでなくてもいい。ある特定の話題について、なれ鮨の作り方や風力発電やグルジアの教会音楽について、外国語で話すためには、まず日本語で話せなければならないという、当たり前すぎることを、今一度考えてみる必要がありそうだ。
bird dog
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