2011年01月19日

新しい優生学?−精子を売る若者とデンマークの精子提供の実態

加爾基 精液 栗ノ花デンマークの議会で性倫理に関する新しい法が審議されるというニュースを France 2 が伝えていた。デンマークは精子提供の最も多い国で、今や提供者の髪や瞳の色とか学歴などが細かくカタログ化されている。提供者の子供の頃の写真もあって、どういう子供が生まれるか想像できるようになっている。議会ではそれを禁じようというのではなく、状況をきちんと把握し、どうやって具体的に法を適応していくかが議論されるようだ。

ニュースでは精子を売りにきたデンマークの若い失業者がインタビューを受けていた。精子を売買するデンマーク(籍は外国)の会社のオフィスに行けば、身分を特定することを条件に、精子の状態や量によって 1日30から70ユーロ稼げる。最後の手段として血を売る話は昔から聞くが、実にショッキングな話だ。若い男はポルノビデオや雑誌のある個室に入って採取するが、そこにはいかがわしさのかけらもない。その会社は年間400万件の精子提供を受け、60ヶ国に販売し、1年に1000人近くの子供が産まれている。ネットでも売買されていて2000ユーロから。20万円ちょっとで買える計算だ。

身分を特定するのは生まれた子供が将来自分の父親を知りたがるときのためだという。アメリカでも金銭的な動機で若者がドナーになるが、そういうドナーでも自分の精子から生まれる子供に興味を持ち、子供の将来を心配するのだという。子供もまた自分に父親がいないことに関心を持ち、生物学上の父について知りたがる。しかしこれらは従来の父子の関係を超えてしまっている。

どのような人々が精子の提供を望むのかというと、不妊のカップル、レズビアンカップルやGIDカップルなどである。むしろ興味深いのは「選択的シングルマザー」の存在だ。つまり子供は欲しいが、男は要らないという女性だ。このような男性との関係性の否定は「男は種にすぎない。男の庇護も、男とのコミュニケーションも要らない」という女性の生き方の可能性を告げ知らせる。男は容姿や学歴などの属性のデータのみ測られ、選択される。それは否応なしに優生学的になり、容姿や学歴の高いほうに偏るだろう。レッセフェールな状態にすると、選ばれた少数の精子が多数の子供を生むことになるだろう。アメリカの精子バンクでは近親婚や遺伝病を避けるために1人あたりの出生数を厳しく制限しているが、ネット上ではそういう規制をかいくぐって売買されている。自分の精子提供によって少なくとも650人の子供の父親になったと主張している男性もいるようだ。一見、一夫多妻の王様のようだが、彼は人格や彼の取り結ぶ人間関係ではなく、カタログ化された属性によって評価されているにすぎない。選択権は明らかに女性の側にある。女性は自ら精子を選び、子供を宿し、子供と関係性を育む。男はわずかな金で精子を搾り取られるだけだ。

これが日本で起こった場合、臭いものに蓋をする式にありえない問題にされるだろう。例えばヨーロッパでは避妊の方法としてピルが普及しているが、日本では保険がきかないし、処方の体制が整っていないので普及していない。それは従来の家族規範にとらわれた保守派の政治家が、性病がひろがるとか、男女関係が乱れるとか言って反対しているせいだ。同じことが精子提供に関しても起こり、一方で問題は地下に潜るだろう。すでに一部の人々にとっては現実的かつ切実な問題になっているのだろう。だからヨーロッパでは起こっていることを認め、現実を把握しつつ、法規制によってコントロールしていくやり方を取る。

デンマークの精子提供のニュースは「これは新しい優生学なのか」と問いかけていたが、これはユダヤ人の大量虐殺という蛮行に至ったナチスのような、国家主導型の強制的な優生学ではない。両親たちの出生前診断や遺伝子治療や、今回の精子のカタログ化が、結果的に優生学的な効果を生み出してしまっているのだ。

親は美しく賢く健康な子供が欲しいと願う。それは自然なことで、偏見に基づくものとは言えない。その欲望が技術的に実現可能になったとき、局所的な視野と欲求充足によるとはいえ自分の生を最適化するために合理的な判断を下すだろう。しかしそれは極めて排他的な社会を生む可能性がある。(東浩紀「情報自由論」)

個人的な経験になるが、連れの妊娠の兆候が現れて、最初に飛び込んだ産婦人科で羊水検査を勧められた。高齢出産の年齢にひっかかっていたからだ。羊水検査とは出生前診断のひとつで、子宮に長い注射針を刺して羊水を抜き、得られた羊水中の物質や胎児細胞によって染色体や遺伝子異常の有無を調べる。「もし異常がわかったら堕ろすことになるのか」と産婦人科医に問い正したら、彼は「社会のお荷物になるだけだから」と言い放った。二度とその病院に足を踏み入れることはなかったが、この確信犯的な物言いは、個人の「局所的な視野と欲求充足」を背景にしている。「キレイごとを言ったって、みんなの本音はそうだろう」ってことだ。

生まれてくる子供すべてが肯定されなければならない。しかしそれまで自然の摂理として否応なしに受け入れていたものが、選択の問題になる。整然とカタログ化された形で、どのコースにしますかと選択を迫られるのだ。その選択は子供に対して重大な責任をともなうものになる。私たちは判断をめぐって右往左往し、これまでありあえなかった後悔を生むことになるだろう。

「正義とは計算不可能なものである」。生活のあらゆる場面がデータ化され、解析され、リスク管理の資源としてシステムへとフィードバックされる環境管理社会において、この言葉ほどわかりやすく実行が難しいことがほかにあるだろうか。(東浩紀「情報自由論」)




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posted by cyberbloom at 22:37 | パリ 🌁 | Comment(0) | TrackBack(0) | グローバリゼーションを考える | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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