2006年04月21日

「太陽がいっぱい」とアラン・ドロン

アラン・ドロン、といえば、元祖イケメン。

pleinsoleil01.jpg当時、小学生だった私には、アラン・ドロン(Alain Delon)が、どうしても人間の名前に思えなかった。ドロンだの、エマニュエルだの、フランスから届いてくる名前は、いかがわしい香りがプンプンしていた。アラン・ドロンは二枚目の代名詞だった(二枚目って、いまや死語?)。アラン・ドロンの顔をはっきり思い出せなくても、それに誰も疑念を差し挟むことはできなかった。当時の日本のイケメンと言えば、御三家と呼ばれた、郷ひろみ、西城秀樹、野口五郎。日本レベルでは、この3人から選ぶことが許されたが、世界レベルでは選択の余地はなく、アラン・ドロンは遥か彼方に神のように君臨していたのだった。

エール・フランスが日本に就航したのが、1958年。南回りで50時間もかかった。その6年後の1964年に海外旅行がようやく自由化された。私がアラン・ドロンの名前を耳にしたのは、70年代に入ってからだと思う。フランスはまだまだ遠い国で、情報が少ない上に、私が住んでいたのは、市内に映画館がひとつしかないド田舎ときていた。一介の小学生がアラン・ドロンのことを知ろうとしても全く手がかりがなかった。ただ、母親が映画音楽好きで、家ではフランス映画のサントラ集が流れていた。こう書くと、私の家が非常にオシャレであったように聞こえるが、全くそうではない。再生装置はちゃぶ台の上のポータブル・プレイヤーだ。ニノ・ロータによる「太陽がいっぱい」の甘美なメロディーは未だにミニマル・ミュージックのように記憶に焼きついている。

アラン・ドロンの出世作「太陽がいっぱい」(1960年、ルネ・クレマン監督)を実際に見たのは中学生になってからだ。アラン・ドロンの容姿には取り立てて感慨はなかったが、「勝ち組」青年をうらやむ「負け組」青年の、悪魔的な瞳が印象的だった。

比較的最近の話題作と言えば、パトリス・ルコント監督の「ハーフ・ア・チャンス」(1988年)。「勝手にしやがれ」のジャン=ポール・ベルモンド、元祖フランス系コギャル、ヴァネッサ・パラディと共演している。変わりネタとしては、阪急交通社が1986年から91年まで「アラン・ドロンとツアーを一緒に」というツアーを企画し、往年のファンのオバ様たちがこぞって参加した。アラン・ドロンはセッティングされたディナーにちゃんとやってきて、参加者たちと食事しながら歓談したという。

FILM INFO
■Plein Soleil-太陽がいっぱい
■Une Chance Sur Deux-ハーフ・ア・チャンス

※アラン・ドロンツアーについてはerinさんから情報をいただきました…当時アラン・ドロンは16区のセーヌ河沿いのアパルトマンに住んでいたそうで、時間になるとその窓から手を振るのをホテルニッコー(現在はNOVOTEL,15区側河沿い)から覗くという(眺める?)趣向があったそうです。その数分でいったいいくら貰っていたのでしょうね?(by erin)

cyberbloom

rankingbanner_03.gif
↑クリックお願いします!
メイン・ブログ-FRENCH BLOOM NET を読む
posted by cyberbloom at 00:16 | パリ ☀ | Comment(0) | TrackBack(0) | フランス映画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前: [必須入力]

メールアドレス: [必須入力]

ホームページアドレス:

コメント: [必須入力]


この記事へのトラックバック