2010年10月23日

カタルーニャで闘牛禁止‐動物愛護か文化的アイデンティティか

7月10日のニュースだが、闘牛反対派にとっては歴史的な勝利になった。カタルーニャ(カタロニア)の州議会の投票結果は68対55で闘牛の禁止に軍配があがった。カタルーニャは闘牛を禁止するカナリア諸島(1991年に禁止)に次ぐスペインの第2の州になった。投票の何ヶ月も前から、賛成派と反対派が二分し、新聞が論争の媒介をした。主要紙 El Pais はネット上に議論の場を提供した。

闘牛擁護派は5億ユーロに上る経済効果を失ってしまうと強調し、もし禁止されれば闘牛業界の保証のために4億ユーロが必要になると試算した。一方、バルセロナ大学の経済学の教授によると、損失はカタルーニャ人ひとりにつき57ユーロに過ぎないと言う。カタルーニャ州で闘牛はすでに縮小傾向にあって、08年には16回しか行われていない。同じ年にマドリッドでは343回も行われているにもかかわらずだ。

闘牛禁止でカスティーリャ(マドリッド)とカタルーニャ(バルセロナ)の対立が先鋭化している。France 2 を見ていると、マドリッドの闘牛好きの親父は「カタルーニャ人のアホどもめ!闘牛が嫌いなやつはくたばってしまえ」と怒り心頭。『カルメン』の舞台になったセビリアのあるアンダルシア州の首長も闘牛の禁止はありえないと発言している。カタルーニャの決定がこれからスペイン全体にどう波及するかが注目される。闘牛反対派はこれに勢いづき、他の自治州でも闘牛が禁止されることを期待している。

スペインの象徴的な文化である闘牛さえも世界的な動物愛護の流れには逆らえないようだ。フランスの南部でも闘牛が行われているが、これを受けて禁止の方向に向かうだろう。またスペインには牛の角に松明をつけたり、牛を追って虐待したりする風習も残っており、それらも槍玉に上がっている。だいぶ前から物愛護団体 PETA が闘牛と牛追い祭りに「裸で」抗議する様子がニュースになっていた。日本でも動物虐待と見られかねないものが少なくない。しかし本来祭りとはそういう過剰を孕んだものであり、動物を殺したり虐待したりする供犠性は祭りの本質ですらあるはずだ。

和歌山県太地町のイルカ漁を批判した映画『ザ・コーブ』に対する反論として、欧米の残虐な文化の例として闘牛がしばしば挙げられていた。欧米人だって残虐なことをやっているじゃないか。なぜ日本のイルカ漁ばかりが叩かれるのかと。『ザ・コーブ』の立場(つまりアメリカ人)からすると、日本のイルカ漁をバッシングすることは、イラクや中東問題、環境問題などとは違って、自分たちには跳ね返ってこない非近代的で野蛮な風習を叩けばいいわけだから、うしろめたさなしに正義を振りかざすことができたわけだ。

スペインの闘牛がここまで追い込まれ、かつ国内で賛成派と反対派に別れて激しい議論を戦わせているのを見ると、動物愛護は地球温暖化などとともに世界的な潮流であり、グローバルに共有される価値観になりつつあるのだろう。しかしスペインの闘牛もまた動物愛護の問題だけで割り切れるわけではない。

カタルーニャはスペインの一部でありながら強烈な文化的アイデンティティーを持つ。今ではカタルーニャ語は地方公用語として認められているが、フランコ政権下で大幅に使用を制限された歴史的経緯がある。過去にスペイン語(=カスティーリャ語)を強制的に押し付けられた抑圧の歴史が、逆にこの地方のアイデンティティーを強める結果となった。それもつい最近のことだ。この事情を知らないと、レアル・マドリッドとFCバルセロナ戦の異様な盛り上がりも理解できない。

闘牛もサッカーと同様にこの歴史的・政治的対立と無縁ではいられない。カタルーニャの場合、闘牛は右派とフランコの記憶と結びつく。フランコはかつて闘牛をいろんな国の寄せ集めであるスペインの求心的な文化として利用した面もあった。それでも闘牛愛好家によれば、闘牛はカタルーニャのアイデンティティの一部なのだ。やはり文化とアイデンティティの議論は動物愛護派ではなく、闘牛擁護派によって進められた。闘牛は重要な社会的な機能を果たしており、闘牛を誹謗中傷するものたちは政治的な理由でそうしているに過ぎないと擁護派は主張する。つまり中央政府とカタルーニャとの対立というロジックにのせようとしていると。一方、カタルーニャ当局は態度を保留し、闘牛をカタルーニャと中央政府の政争のネタにしないように要求してきた。闘牛を歴史的文化の問題ではなく、動物愛護の問題にしておいた方が面倒がないのだろう。

しかし闘牛によって文化的一体感を感じられることには変わりはない。日本から見ても闘牛の禁止はひとつの伝統ある文化の終焉と映る。あるカタルーニャの作家は闘牛の禁止は文化に対する攻撃であり、フランコ時代のカルナヴァルの禁止に比するべきものだと言う。フランコの真似をして自分の首を絞めるのかというわけだ。また二人の有名なスペインの闘牛士が新聞のコラムで表明したところによると、闘牛の禁止は自由に対する侵害であり、分離独立派を勝利させ、中央政府に亀裂を入れ、スペイン国内の不和を生むことにつながるのだと。この法律は何の解決にもならないとエル・パイス紙も書いている。なぜならカタルーニャには他にも動物を虐待する祭りがあり、それはどうなるのかという問題を宙吊りにしているからだ。

一方、動物愛護家たちの根底には、種差別 speciesism という考えかたがある。「性差別」や「人種差別」にならって作られた言葉だが、人間のみを特権化し、他の生物をないがしろにする差別は不当であり、「快苦を感じそれを表現することができる動物」に等しく道徳的配慮をするべきであると考える。動物の権利(アニマルライツ)を主張するピーター・シンガーらによって使われることが多いが、彼らは工場畜産、動物実験、狩猟、サーカス、動物園などを廃止し、人々にベジタリアニズムを呼びかけている。




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posted by cyberbloom at 23:33 | パリ ☁ | Comment(0) | TrackBack(0) | グローバリゼーションを考える | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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