2010年07月30日

GPS Global Positioning System(1)

私が始めて GPS について知ったのは湾岸戦争の直後だった。湾岸戦争の際、砂漠には目標物がないし、あちこちに地雷が仕掛けられていたので GPS が大活躍した。あらかじめ GPS 受信機に地雷源の位置を記憶させ、目的地を設定しておけば、真夜中だろうと砂嵐の中だろうと、正確に行軍することが可能になった。そういう技術がいまやケータイに標準装備されているわけだ。進歩の著しい情報技術が次々と戦争に応用されていく。そもそもインターネット自体が軍事技術の開発のもとで始まっている。半導体も軍事用レーダーの研究から生まれ、ディスプレーに情報を表示する現在のコンピュータのシステムや CG の発明も軍事用コンピュータの研究が基礎になっている。現在進行しているのは、軍事技術が日常化している事態と言うこともできるだろう。

イラク戦争では、91年の湾岸戦争時よりさらに進んだハイテク兵器が使われた。空爆の主体は、命中誤差が数10センチから10メートルという精密誘導弾で、投下後に軌道を修正しながら標的に近づく。この爆弾にも GPS が内蔵され、自律誘導で標的に達する方式が主流だった。湾岸戦争時には航空機から投下される爆弾の約1割が GPS 誘導弾だったが、イラク戦争では約9割まで増えたといわれている。GPS 誘導弾は、命中誤差が小さいだけでなく、天候や砂嵐等の気象条件に左右されないし、標的に接近する必要もない。撃ちっ放しが可能となり、しかも比較的安価なのである。

日常的実践のポイエティーク (ポリロゴス叢書)ピンポイントでミサイルを撃ち込むのは、戦争を効率的に遂行するためである。何よりも「非人道的だ」と批判される無駄な死者を作らないためだ。民間人を殺さず、テロリストのみを殺す、効率的で、「イメージの良い」戦争の遂行。戦争をターゲットスコープからのみ見せる。憎むべき敵だけを映し出し、他の余計なものを映さない。戦争のイメージをフィルターにかけ、中立的な、あるいは魅惑的な部分だけを前景化する。

イラク戦争と並ぶ、近年の大事件といえば、アメリカで起こった911・同時多発テロである。フランスの思想家、ミシェル・ド・セルトーが911の舞台となった WTC の天辺から下界を見下ろしている。それは1980年代のことであり、そこが凄惨な同時テロの舞台になるとはセルトーとて想像もしなかっただろう(以下引用は『日常実践のポイエティーク』)。

「こうして空に飛翔するとき、ひとは見る者へと変貌するのだ。下界を一望するはるかな高みに座すのである。この飛翔によって、ひとを魔法にかけ、呪縛していた世界は、眼下にひろがるテクストに変わってしまう。こうしてひとは世界を読みうる者、太陽の眼、神のまなざしの持ち主となる。視に淫し、想に耽る欲動の昂揚。おのれが、世界を見るに一点にのみ在るということ、まさにそれが知の虚構なのである」

ボードレール全詩集〈2〉小散文詩 パリの憂鬱・人工天国他 (ちくま文庫)「そうした神をよそに、都市の日常的な営みは、下のほう、可視性がそこで途絶えてしまうところから始まる。こうした日々の営みの基本形態、それは、歩く者たちであり、かれら歩行者たちの身体は、自分たちが読めないままに書き綴っている都市というテクストの活字の太さ細さに沿って動いていく。こうして歩いている者たちは、見ることのできない空間を利用しているのである。その空間について彼らが知っていることといえば、抱き合う恋人たちが相手の身体を見ようにも見えないのと同じくらいに、ただひたすら盲目の知識があるだけだ」

都市を歩く私たちはもはや盲目ではない。GPS によって神の視点とは言わなくても、衛星の視点を手に入れている。GPS によって複雑に入り組んだ場所でも自分の行動を読むことができる。私たちは迷えなくなってしまった。どこにいても補足される。私たちは GPS によってつねに現在位置を確認するが、それは自分で自分を捕捉することである。都市はいつのまにか Yahoo! や Google の地図に還元され、私たちはそのバーチャルな虚構の世界を受け入れている(Google Earth もリアルなイメージによって都市を制圧している)。そこでのスマートなふるまいは、時間と空間を可能な限り切り詰めること。迷うことなく、デートの場所に最短経路による最短時間によって到達することである。

モルグ街の殺人・黄金虫―ポー短編集〈2〉ミステリ編 (新潮文庫)かつて都市はロマンティックな広がりを持つ空間だった。都市の魅力は何よりも迷うことだった。いきあたりばったりにさまよい歩き、目に入った興味を引く情報を拾い集めていく。都市を歩くことはその軌跡によって自分だけの地図を作ることだったと言っていい。セルトーの表現にならえば、都市の歩行者たちの身体は、彼らが読めないままに都市というテキストを書き綴っていたのである。近代都市の出現時に文学者たちも新しい経験に文学を刷り合わせようとした。19世紀の詩人、シャルル・ボードレール Charles Baudelaire も新しい詩のリズムを、何か面白いものを見つけては立ち止まり、それを拾い上げる屑屋 chiffonnier (今で言えば廃品回収・リサイクル業)の不規則な歩行のリズムになぞらえていた。

都市はバーチャルな地図のようにクリーンな空間ではない。実際は猥雑で危険でノイジーな場所である。そこには様々な欲望を持った得体の知れない人々がうごめいている。都市の経験とはそのような見知らぬ人々との出会いであり、交渉だった。ボードレールは群集の楽しみとは街で出会う様々な職種の人々に感情移入することであると言い、E・A・ポーは『群集の人』の中で群集そのものが魅惑と陶酔の対象であることを示した。
(続く)




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posted by cyberbloom at 21:45 | パリ ☁ | Comment(0) | TrackBack(0) | WEB+MOBILE+PC | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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