2010年07月16日

グラントリノ -アジアの少年に受け継がれる古き良きアメリカ-

グラン・トリノ [DVD]クリント・イーストウッド監督・主演の『グラン・トリノ』に関してはすでに bird dog さんが「グラントリノはいい車なのか」を書いてくれている。車種を通して話題を広げていく bird dog さんの博識ぶりには舌を巻くが、ちょっと別の視点でこの映画を見てみたい(ネタバレ注意!)。

イーストウッドが演じる主人公のウォルトは、実際にフォードで働いていた、典型的なフォーディズム(ford+ism)の時代の人間である。フォーディズムはオートメーション化された流れ作業に象徴されるが、一方で様々な工具を的確に使いこなす熟練工の技術に支えられていたのだろう。そこにはまだ仕事と技術に対する誇りが確実にあったのだ。しかし、彼の技術を生かせる場所はもうないし、それを受け継ぐ者もいない。

一方、ウォルトの息子はトヨタのセールスマンで、ポストフォーディズム post-fordism に典型的なサービス業に従事している。そしてトヨタと言えば、カンバン方式と呼ばれるリスク回避のための柔軟な生産体制で知られる。今回のトヨタのリコール騒動で暴露されたように、今や車は熟練した職人の手によって作られるのではない。製造業とはいえ実際には単なる組立て屋に過ぎない。ある程度完成したものを下請けから集めて仕上げをしているだけなのだ。だから細かい部品のことまで目が届かない。

ウォルトの息子たちは父親を時代錯誤の厄介者としか思っていない。父親の価値がわからないし、わかろうともしない。しかしウォルトの価値はモン族の少年、タオによって発見される。ガレージにそろった工具の使い方を教えることができたのは、全くルーツの違うアジア系移民の2世だった。2世は同化のキーになる。英語で教育を受け、英語が話せるので、異なったコミュニティーの橋渡し役になれるからだ。おしゃべりで人懐っこいタオの姉、スーの存在も重要だ。ウォルトは単に聞き分けのない頑固ジジイなわけではない。家を修理したり、庭の手入れをしたり、家のことは自分できちんとやる。それだけではなく、近所の放置された家の修理もする(タオにもそれをやらせている)。地域の建物が荒れると、治安が悪くなる。破れ窓の論理だ。ウォルトは彼なりのやり方で古いコミュニティーを守ろうとしているのだ。

グラントリノはウォルトが信じる「古き良きアメリカ」を体現しているわけだが、それは新しい今どきのアメリカとは結びつかずに、アジア的な純朴さとつながり、受け継がれたということなのだろう。タオにはちょうど父親がいなかった。ウォルトはタオの父親のような存在になるが、ウォルトはまたホスト国に同化するためのモデルでもある。ウォルトは昔ながらのコミュニティーの中にタオを招き入れ、民族ジョークや身嗜みなど、コミュニティーの中での口の利き方や立ち振る舞いを教え、仕事まで紹介してやる。自立して、不良の世界に堕ちないためにも。一方でウォルトは遠いアジアから来た、見たこともない衣装を着て、よくわからない慣習を持っている人々を、血のつながった自分の子供や孫たちよりも身近に感じる。うわべだけの関係ではなく、本音で語り合うことができることに驚く。アメリカで忘れられたコミュニティーの暖かさがアジア人のうちに再発見される。

各民族ごとにモザイク状に棲み分け、互いに憎しみあい、縄張り争いに終始するようになってからでは遅い。同化の可能性がほとんどなくなってしまう。ましてや縄張りの中の足の引っ張りあいには、勝手にやってくれって感じで警察も関心を示さない。

この映画は現在紛糾している外国人参政権との問題とも重なり合う。ネットを見ていると、「外国人参政権を与えると日本が反日勢力によってのっとられてしまう」ということらしい。今日のニュースで亀井金融大臣まで「外国人参政権付与が日本を滅ぼす」と言っていた。確かに今の中国や韓国との信頼関係のなさがそういう形で噴き上がるのもわからないではない。しかし少子化対策として外国人労働者を入れるという選択をするのならば、どうやって彼らとうまく共存できるのかという議論とからんでくる。

ネットでの外国人参政権の議論で、ブラジル系労働者が多い浜松市の元市長が、ちゃんと自覚を持ってゴミの分別に始まる市政に参加してもらうために参政権は必要だと持論を述べていた。人手が足りないときに働きに来てもらい、要らなくなったから帰ってくださいでは済まない。すでに魅力的な労働市場ではない日本はタカビーな態度はとれなくなるだろう。外国人参政権は日本に来てもらう移民の人々を迎える態度の問題なのだと。また逆に自分が外国に労働者や移民として出て行くことになったとき(これから経済規模が縮小していく日本では十分ありえることだ)、今度は自分が同じような差別と排除の対象になるかもしれない。そういう想像力も欠けている気がする。

『グラントリノ』に照らし合わせれば、日本の伝統的な価値観を持った日本人が、日本的な規範を失った今の日本人に失望し、その代わりに外国からの移民が日本で生きる際の模範となり、同化を媒介する存在になるというモデルが考えられる。例えば、頑固で保守的な日本の爺さんがブラジルから来た少年と交流し、少年が爺さんから日本的な価値観を受け継ぐというストーリーに置き換えてみればいい。これだったらウヨクの人たちも納得してくれるだろうか。

ウォルトの死に様はキリストのようにかっこいい。でも彼がマシンガン撃たれて蜂の巣になる姿は日本の現実からは程遠い。ウォルトがそういうラディカルな行動ができるのも朝鮮戦争の従軍体験があるからで、そこで何人もの人間を殺しているからだ。こういう問題を解決するにはそこまで身体を張らなきゃだめなのかと、一方では絶望的になってしまうのも事実だ。


グラン・トリノ [DVD]
グラン・トリノ [DVD]
posted with amazlet at 10.04.18
ワーナー・ホーム・ビデオ (2009-09-16)
売り上げランキング: 168
おすすめ度の平均: 4.5
5 そして伝説へ
5 アメリカ合衆国再生への希望
3 シナリオにデジャヴュ 
4 争いの種をまいたものは?
4 救いは?



cyberbloom

人気ブログランキングへ
↑ライターたちの励みになりますので、ぜひ1票=クリックお願いします!

FBN22.png
posted by cyberbloom at 00:38 | パリ ☀ | Comment(2) | TrackBack(0) | 日本と世界の映画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
 ハン族ではなく、モン族(Hmong)です。これは映画の中でも取り上げられています。ウォルトがスーを黒人グループから助けた後、彼女を送っていく車中の会話でモンという言い方について指摘されています。さらに、モン族がなぜアメリカにいるのか、その歴史的背景をウォルトが分かっていなかったことも二人の会話で分かります。
 外国人参政権について私は反対の立場ですが、アメリカにいるモン族をその話題に絡めることには違和感があります。なぜなら、モン族はベトナム戦争でアメリカ側について戦い、敗戦によってラオスを追われ、移民としてアメリカに入ってきており、基本的にはアメリカ国民として生きる態度でいるからです。もちろんアメリカの軍隊に入ることも当然あります(映画の最後の方にはモン族の警察官が登場しました)。在日朝鮮人のように外国籍のまま権利を主張したり、その国に反抗的な思想を持つことは稀です。成り済ましなど論外です。また、在日ブラジル人のように自由意志で出稼ぎに来たのではなく、元は多くが難民です。祖国を追われた立場です。
 モン族の起源は中国にあり、その歴史はキリストが生まれるよりも前に遡るとも言われています。モン族の文化は、文字を持たない口承文化ですが(現在はラテン文字で表記可)、それで伝統文化や価値観を長年守ってきています。失われつつあるアメリカの古き良き伝統文化や価値観をウォルトが教える相手(モン族)には、祖国を離れてもなおそれらが生き続けていることは私は皮肉にも感じます。映画の中でモン族のシャーマン(sharman)が生まれた子供に対して儀式を行ないますが、その場面を見たラオスの知人(モン族)は古いスタイルだと感心していました。
Posted by たかはし at 2010年07月18日 03:57
たかはしさん、コメントありがとうございます。
いちおうモン族(ご指摘ありがとうございます。何と勘違いしたのか)の歴史はざっと調べて抑えておいたつもりですが、改めて整理していただいて読者の方々にも有益かと思います。同化の問題はやはり民族の個別の歴史に大きく左右されることは事実ですね。ブラジルうんぬんの話は、自分で書いてても何かありえないなあ、と思っていました。外国人参政権の問題は理念的にはありえても、現実的には非常に難しいと思っています。
Posted by cyberbloom at 2010年07月18日 11:25
コメントを書く
お名前: [必須入力]

メールアドレス: [必須入力]

ホームページアドレス:

コメント: [必須入力]

※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。

この記事へのトラックバック