2006年03月24日

ブログが大学を解体する!?−『ウェブ進化論』を読む

ウェブ進化論 本当の大変化はこれから始まるこの本、売れてますね。近くの本屋をのぞいたら売り上げ5位でした。サンデープロジェクトで田原総一郎もこの本に触れていました。実はそれで知ったのですが。

大学の年配の先生方の多くは相変わらず「今の学生はものを知らん」とおっしゃる。あなたの知っていることを知らないだけでしょ。それじゃ、あなたは一体何を知っているんですか、と聞き返したくなる。学生から教えてもらうことってけっこう多いと思うけどなあ。先生たちにとって「学生がものを知っている」という意味は、先生たちが生きてきた価値体系を尊重するということなのだ。しかし、そんなものはとっくに崩壊している。そんな裸の王様たちには『ウェブ進化論』が描き出す現実なんて想像もつかないだろう。

既成メディアはブログを嫌悪し、「コンテンツの大半はクズだ」と決め付ける。それは自分たちの既得権が侵されるという危機意識からだ。おそらく堀江バッシングも無意識にそういう欲望を含んでいる。同じように既得権を持った大学の先生たちもブログを嫌悪するだろう。「どうせくだらないことを書ているんだろう」とタカをくくる。

大学は文化の選別をやってきた。こちらは大学で学ぶに値する高尚な文化、こちらは学ぶに値しない低俗な文化。ところが、学生の大半は文化産業が作り出す低俗な文化に染まってしまって困ったものだ、というわけだ。高尚な文化を吸収するにしろ、低級な文化に汚染されるにしろ、学生はいつも無知で受動的な存在とみなされてきた。

しかし、「総表現社会」がやってきた。技術革新によって個人が創造性を発揮するITインフラが整備され、それを安価で、あるいは無料で使えるようになったのだ。それによって発信者と受信者、生産者と消費者の差がなくなる。むしろ立場が固定されないと言った方がいい。大学はもはや「無知な学生に、確立された知識をトップダウンで注入する」という「啓蒙モデル」を前提にできないのだ。

それに文化は確立された体系を持ち、個人に注入されるようなものではない。文化は個人が様々な情報と関わり、意味を与えていくことで生まれる。つまり個人が作り出していくものだ。情報には高尚も低俗もないし、優劣も、貴賎もない。権威のお墨付きではなく、個人のニーズや意味づけによって価値が決まるのだ。そういう意味で、ブログという形式は非常に示唆的である。ブログとは個人が情報を収集し、それを再編集する行為だが、まさに文化は個人の手によって無限に「再構築」されていくのだ。

新しい技術が、新しい現実を出現させ、新しい批判の視点を生じさせる。私たちは絶えず学びながら、その都度生き方を組み替えていかなければならない。ブログ的行為はこういう現代の自己のあり方とパラレルな関係にある。現代の教養というものがあるとすれば、それは従来の教養よりも緊急性の高いサバイバル能力と言える。ブログ的行為の試行錯誤の中で鍛えられるメディアリテラシー−「情報読解能力」と「情報生産能力」の両面の能力−だ。「文化を議論する公衆」から「文化を消費する大衆」へ移行してしまったとハーバーマスは言うが、嘆くなかれ、次に訪れるのは「文化を生産する個人」だ。ハーバーマスが規範とした「文化を議論した時代」が、さらに民主的な形で到来する可能性を秘めている。

ブログを始めた友人たちは異口同音に現実が変わったと言う。世界はネタに満ちている。先ほど述べたように、情報には「玉」も「石」もない。「石」を「玉」に変えるのも個人の腕次第だ。


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posted by cyberbloom at 16:55 | パリ ☔ | Comment(0) | TrackBack(0) | 書評−グローバル化&WEB | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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