2010年05月06日

「ゆれる」

ゆれる [DVD]香川照之とオダギリジョーが全く似てない兄弟を演じている『ゆれる』。ゆれているのは吊り橋だけではない。(ネタバレになるので映画を見てから読んでください)

才能ある人間は自由に移動できる。クリエイティブな人間はひとつの場所に縛られずに、移動しながら仕事をする。弟は派手なアメリカ車(フォード)に乗っていて、オルガン入りのジャズがバックに流れる導入のスタイリッシュなシーンはアメリカの郊外を思わせるが、それは弟の自由な感覚を決定的に印象付けている。一方兄は仕事と家庭に縛りつけられている。兄の仕事が、車にガソリンを供給し、車を整備する、つまり車に奉仕する仕事というのが象徴的だ。家では頑固な父親の相手をし、母親を失くしたあとは家事もやらなければならない。

弟の存在が田舎の人間の隠されていた劣等感や欲望をあぶりだしていく。それを容赦なく自覚させるのだ。危険をさけて臆病に生きていたら(つまり田舎にとどまっていたら)、何にもない人生になってしまったという、死ぬ直前の千恵子の告白が重く突き刺さる。誰も責められないような、不幸な男と女のあいだに起こった事件だが、引き金をひいてしまったのは弟だ。成功したカメラマンなんてそういるものじゃないが、不幸にもそれを弟に持ってしまった兄。クリエイティブな人間は自由にふるまい、欲しいものを簡単に手に入れる。兄のかけがえのない、ささやかな幸福を、遊び半分で奪ってしまった。裁判の場で告げられる、被害者の体内に残っていた物的証拠があまりに生々しく、残酷である。

私たちは裁判を通して事件の真相や客観的事実が暴かれると信じている。しかしそんなものは存在するのだろうか。芥川龍之介の『藪の中』のように、それぞれの立場からの視点によって現実が相対化されているだけでなく、さらには思い込みと抑えきれない感情によって、現実は容易にゆれ動き、塗り替えられる。裁判員に当たってしまったら、こういう現実を吟味させられることになるのだろう。そして裁判の過程で作られる真実とは全く別物の、映画を見る者に暗示されるだけの内的な真実がある。

都会と田舎のメンタリティーが兄と弟のあいだで入れ替わっていく過程も見物だ。不幸な事故がきっかけで、兄の心は「都会的に」すさんでいく。夢も希望もない反復の地獄からようやく解放されたのが塀の中という皮肉。一方、弟の方は忌み嫌い、捨て去ったはずの共同体に固執し始める。

「都会と田舎」は19世紀の近代小説の始まりからの主要なテーマである。都会に出て一旗揚げようとするのは近代人の典型的な行動パターンだ。小説だけでなく、「都会で夢破れる」というテーマは映画や流行歌の定番でもあった。かつては成功できなくても少なくとも挑戦することはできた。しかし現在、夢破れるどころか夢にトライすることすら難しいという閉塞感が田舎にはある。越えがたく広がる希望格差。実際、自分が田舎に帰ると、繁華街ですら若者や子供の姿が少なく、少子高齢化の状況も切実に感じられる。不況がやってきても、なすすべもなく立ち往生しているような地方の姿は、そのまま今の若い世代と重なり合う。

ゆれる-予告編

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3 香川さんの存在感
5 素晴らしい
5 答えなんてない
4 静かな映画
4 兄ちゃんは許していない





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posted by cyberbloom at 20:58 | パリ ☁ | Comment(0) | TrackBack(0) | 日本と世界の映画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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