2010年04月27日

フランスの英語教育事情

2月14日の FRANCE 2 にフランスの英語教育事情が紹介されていた。フランスには新しい英語教育をやるための設備を整える予算が不足しているらしい。大学改革をやろうとして教師や学生に総スカンを食らい教育相を辞めたグザビエ・ダルコス Xavier Darcos がフランスの子供たちを英語&仏語のバイリンガルにすると宣言していたが、外国語教育にはお金がかかるのだ。内容の一部を紹介すると、

■コンピュータの設備が学校で非常に遅れている。(ニュースで紹介されていた)この学校では毎週木曜にいつもと違った授業が行われる。ネット中継でふたり目のラシェル先生が授業をしてくれる。NYから直接話しかけてくれるのだ。ウェブカムによるインタラクティブな授業だ。去年から実験的に行われている。会話がとても弾み、手を挙げ発言することに誰も躊躇しない。楽しみながら英語を学んでいる。最初は半信半疑だった。確かに今では反論しようのない効果的なツールだが、まだこれから学習効果を明らかにしなければいけない。まだ揺籃期の段階だが、早く進むし、楽しくやれる。何よりも生徒の注意力をひきつけることができる。
■英語だけでなく、歴史や数学などの他の科目にも使えるが、導入するにはまだ十分な予算がない。コンピュータの部屋は7つに1つの学校にしか備わっていない。郊外の大規模校ではもっとひどい。600人の小学生が2つの小学校に分かれて通う地区で、ひとつのコンピュータの部屋をシェアしている。ネットの接続は気まぐれなのに、ネット回線が60人でひとつしかない。フランス全体では100人の生徒につき12・5台のPCしかない。PC の数が EU の27国中8番目、先生たちの PC の使いこなし度に至っては24番目と遅れている。イギリスでは学校がほぼ100%デジタル回線化されている。フランスは6%のみ。
■電車は出てしまったのだから、乗り遅れるわけにはいかない。まず先生を養成することが重要だ。イル・ド・フランスでは2400万ユーロを投資し、すべての高校がネット回線につながれる。出席や成績や宿題をそれで一括管理する。親たちもそれを見ることができる。まず先生たちがそれを使いこなさなければいけないのだが、それをいやがる教師たちもいる。

ところで、去年の夏、パリ第1大学(第1、3、4がソルボンヌ大学と呼ばれる)で法律を学んでいるいまどきのフランスの若者、ヴァンサン君がうちに遊びに来た。日本の大学を見てみたいというので、仕事先の大学に連れて行った。図書館に入って彼が驚いたのは、最新の mac が並んでいて、それを学生が自由に使っていることだった。フランスの大学はとんでもなくお金がないらしい。液晶なんてありえないよ。うちの大学なんてこれだよ。傍らにうち捨てられていた古い変色した PC を指さして言った。こういうのが数台あるだけだよ。

日本の小学校(5&6年)でも英語が導入されようとしているが、中学になる前に英語に親しんでおこうということらしい。しかしうまくやらないと中学に入る前に英語嫌いを生みかねない。英語の先生はときどき1年生のクラスにも遊びに来るらしいのだが、みんな黙って聞いているだけ(KIDS英会話をやっている小学生も少なくないはずだ)。日本の学校のように同調圧力が強い場所で英語をやる効果はあまり期待できない。

日本の大学では相変わらず多人数クラスで教師が一方的に文法を教えたり、みんなで訳読するという形式が踏襲されているケースが多い。一方で英語を中心に語学学習のツールは飛躍的に進歩している。ネットを見ても様々な学習ツールが無料で公開されているが、語学はオープンソース的に展開できる数少ない文系のリソースと言えるかもしれない。

大学においてとりわけそうなのだが、語学はこれまで文学や思想の管轄下にあった。しかし今は脳科学や認知科学の領域になりつつある。辞書をひきながらダラダラと文学書を読んでいればいい時代は終わってしまった(私はその最後の世代だ)。もちろん文法や訳読は不要なわけではない。西洋に追いつくこと(=西洋の文献を翻訳すること)が目標だった明治時代から、それがとりあえず達成された1970年代あたりまでは最優先事項だった。しかし今となっては言語能力の一部(基本的には孤独に座して黙読というスタイル)に過ぎないし、むしろ今は「聞く、話す、書く」というコミュニカティブかつパフォーマティブなアウトプット技能が要請されている。

何よりも語学はツールであり、それをいかに効率的に習得するかが問われている。そして伝達のツールとして、まず自分の専門や関心があり、それを発信しようという意志をともなって初めて意味を持つ。だから語学はむしろ最新の技術を創出し、発信している理系の学問と親和性が高い。最近、理系の側からの語学本もよく目にする(それは文系の語学教師に対する不信でもあるのだろう)。

また語学はどんな事態にも対処できる潜在的なコミュニケーション能力を底上げするものでもある。大学が産業界からの要請に応える機関だとすれば(つい最近まではサラリーマン予備軍をプールする場所だった)、対人的なサービス業が主流であるポストフォーディズム的な労働形態が要求する能力でもある。ネット広告では「いかに楽をして英語を学ぶか」というコピーがいまだに花盛りであるが、いかに語学習得が完成型のない、継続的な努力が必要な難しいことなのかもようやく言われ始めている。




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posted by cyberbloom at 23:13 | パリ | Comment(0) | TrackBack(0) | 外国語を学ぶということ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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