2010年04月08日

「エリ、エリ、レマサバクタニ」 Eli, Eli, Lema Sabachthani ?

エリ・エリ・レマ・サバクタニ 通常版 [DVD]以前から気になっていた青山真治の「エリ、エリ、レマサバクタニ」(第58回カンヌ映画祭ある視点部門出品作品)を見た。タイトルは十字架にかけられたキリストが息を引き取る前に叫んだ言葉だ。最初から既視感と今さら感が抜けなくて、30分くらいで見るのをやめようと思った。人間を自殺させるレミング・ウイルスの蔓延だって?ノイズの轟音は80年代にさんざん聴いたので今さら驚きもない(暴力温泉芸者の中原昌也が俳優として出演している)。2006年に撮る映画なのだろうかと。しかし陰気な顔をした宮崎あおいが登場したあたりから少し空気が変わった。気を取り直して続きを見た。

エリ、エリ、レマサバクタニ(わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになったのですか)。神に見捨てられることは、最終的なセーフティーネットにさえ見捨てられるということだろうか。確かに今の時代ほど不透明な空気に満ちていて、人間の存在が根っこから見捨てられる感覚にとらわれる時代はない。レミング病が流行らなくても、すでにうつ病や自殺の時代になっている。一方で去年インフルエンザが大流行して、目に見えないウィルスの恐怖(メディアティックな伝染も含めて)を私たちは身をもって感じた。

レミング病を治すには、二人が奏でる音楽を聴くしかない。今では音楽療法が一般化していたり、「癒しの音楽」と呼ばれる音楽があったり、音楽の治療的な側面が注目されるようになっている。音楽は音を方向づけ、安定と調和を表現する。そもそも人間の文化は荒々しい自然を反復と形式の中に押し込めることで成立し、それが人間の生活に安心を与えてきた。音楽はノイズ(無秩序な音)のコントロール&オーケストレーションという意味で人間の文化の象徴だった。

しかし人間を守っていた文化=音楽が崩れ始めている。人間を保護膜のように包み、精神を安定させていた音楽が失われつつある。私たちは剥き出しの自然と宇宙に直接向き合い、それらが放つ生々しい音を聴かなければならない。本来、音(楽)を聴くことはそういう経験だったはずだ。ノイズミュージックは壊れた音楽なのではない。人間が分化する以前の、原初的な音楽なのだ。泡立ち騒めく細胞の音、生命が飛躍する瞬間の絶叫のような。

最近新聞で読んだのだが、ウィルスの侵入が従来考えられていた以上に、生物の進化に大きな影響を与えてきた可能性があるらしい。人間のDNAにもウィルスの遺伝子が組み込まれていて、人類の生命に根本的な変化をもたらしてきた。人類のDNAを書き換えるのがウィルスだとすれば、新しい音楽に対する感受性を呼び込むのもまたウィルスなのかもしれない。

不治の病を治す音楽を設定することは、音楽に絶対性を持たせることになる。キリストの死に全人類の贖罪の絶対的な瞬間を求めるように。しかしそういう絶対的な(宗教的な)瞬間を失った代わりに、それを埋め合わせるために、私たちはそれぞれ音楽を聴いている。相対化された音楽を孤独に消費している。それは楽園を追放された人間の宿命なのだ。ノイズミュージックもまた趣味性の高い音楽で、感情移入できる人間はむしろ少数派だろう。音楽を共有することは難しく、音楽を介した共感はそう簡単に起こることではない。ましてや万人が陶酔できるような絶対的な音楽なんて不可能に近い。それでも人間はそれを夢見ずにはいられないのだ。

長髪の浅野忠信が近未来のキリストを演じる。広い青空の下の黄色い平原でノイズギターをひきまくる。ノイズによって罪を贖うキリストだ。十字架のように屹立する縦長のスピーカー。目隠しをした黒衣の宮崎あおい。このシーンを見せてもらっただけで十分だ。監督もこれを撮りたかったのだろう。何かピンク・フロイドの「ライブ・アット・ポンペイ」を思わせる神々しさがあった。

「エリ、エリ、レマサバクタニ」公式サイト 




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posted by cyberbloom at 21:32 | パリ ☁ | Comment(0) | TrackBack(0) | 日本と世界の映画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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