2010年02月18日

『ハイデガーとハバーマスと携帯電話』

ハイデガーとハバーマスと携帯電話 (ポスト・モダンブックス)世界中でモバイル化が進んでいる。日本はすでに飽和状態だ。ケータイはどんどん便利になり、もはやケータイなしの生活なんてありえない。モバイル化は英語で、mobilization というが、同時に「動員」という意味もあわせ持つ。モバイル化されているのは電話ではなく、人間なのだ。繁華街ではケータイのキャンペーン campagne(=宣伝活動)が華々しく行われているが、キャンペーンには「軍事行動」という意味もある。インターネットはもともと軍事目的で始められたし、今やケータイに標準装備のGPSは、湾岸戦争のとき、砂漠のど真ん中でも自分の位置がわかるようにと開発された。世界のモバイル化は平和利用というよりは、軍事技術の日常化という様相を呈している。

さらにケータイは支配だけでなく、抵抗のイメージさえも取り込んでいる。『ハイデガーとハバーマスと携帯電話』の著者は、ガソリン税を上げた政府に抗議するためにケータイで連絡を取り合ってガソリン配送施設を封鎖したイギリスのトラック運転手の例を挙げている。私は真っ先に「黒を着ろ、エドサに行け」というチェーンメールのことを思い出す。それは黒い服を着たフィリピンの群集をエドサ通りに集結させ、エストラーダ政権を倒した。ケータイは便利なだけでなく、変化し続ける時代の気分を的確に表すモノなのだ。自分は新しい時代の人間だと実感したいなら、ケータイこそが手に取るべきものだ。

単に便利なものが発明されたということではない。私たちはもはやケータイなしには生きられない。モバイルは私たちの生き方や文化に深く入りこんでいる。モバイル化されているのは人間の方だというのは、そういう意味だ。ケータイのCMを見ていると、コミュニケーションという言葉が全世界の人々とつながり合えるようなイメージをふりまき、それは薔薇色の未来を保証するかのようだ。しかし、コミュニケーションって何だろう。一体、ケータイを使って私たちは何をしているのだろう、と著者は問いかける。

まず勘違いしてしまうのは、コミュニケーションが拡大しているのはケータイの方で、人間ではないということだ。ケータイは互換性が進み、違う機種でもスムーズにつながる。通信速度が速くなり、サクサクと動く。人間といえば、規格(人格)がバラバラでかみ合わないし、飲み込みも遅い。さらに人間関係を深めるには時間がかかる。

だからケータイを使ったコミュニケーションが最もうまくいくのは、人間を相手にしているときではなく、ひとりでネットにつないでいるときだ。国民の半分がケータイをもっているとか、どこかの国で加入者が50%増えたとか、宣伝される驚くべき数字とは裏腹に、コミュニケーションとは孤独な行為なのだ。その場合のコミュニケーションとは、言葉を限り切り詰めたメッセージのやりとりによって行われる。またケータイに向かって欲しいものをオーダー(命令=注文)し、それが瞬く間に手元に届けられることである。ケータイのコミュニケーションの理想は、インテリジェントでインタラクティブな最速の応答だ。しかし、インタラクティブといっても、それはバーチャルなもので、応答してくるのはシステムにすぎない。

スターバックスまであと3分に迫ったところで、ケータイでスタバのメニューを呼び出して、カフェラテのSサイズをクリックする。これで注文も支払いも済む。あとは取りに行くだけ。ハイデガー&ハーバーマス(ふたりともドイツ人)はこのようなモデルをコミュニケーションとは考えない。例えば、ハバーマスによると、コミュニケーションをとるのは、自分の欲望を「満たす」ためではなく、相手に自分の目的や欲望を「知らせる」ことである。もちろん知らせることで、批判されたり、様々なリアクションが想定される。さらにリアクションに対して自己弁護することもありえる。このようなコミュニケーションは外堀からゆっくり埋めていって、核心へと近づいていく。ケータイが無視し、切り詰めようとするコミュニケーションの過程や積み重ねを逆に重視するのである。

しかし、すべてのケースにおいてそんな悠長なことをやっていられない。現代社会では人間関係が複雑で、かつ処理すべき情報が多いからだ。本当に人間的なコミュニケーションを持とうすれば途方もない時間が必要になる。それゆえ、人間の取り決めの多くは、真のコミュニケーションよりも、「システム」によって行われる。ハバーマスによると、システムの代行の仕組みは、コミュニケーション・メディアの形を取って現れ、言葉による説明はできるだけ切り詰め、対話の代わりをする規則や金銭(通貨)や地位の交換(官僚機構や権力)によって済ませられる。健全な社会ではそれが地ならしをすることで、真のコミュニケーションのお膳立てをする。ある程度までシステムにゆだねるのは合理的なことだ。しかし、システムが自己増殖して、人間の共感を担保するスローなコミュニケーションが必要な領域までも覆いつくす危険性がある。ハバーマスの言う「生活世界のシステムによる包摂、植民地化」という事態である。

今やシステムの最大の担い手がケータイということだ。しかし、この著作にはユーザーの視点がなく、個人がそれをどう使いこなしているのかということあまり考慮していない。ケータイを使うことは孤独な行為と言っているが、メールのやりとりに関してもそう言えるのだろうか。例えば、大澤真幸があとがきで、若者たちがケータイに求めているのは近接性の感覚だと書いている。単に近いのではなく、「遠く隔たったものの間の近さの感覚」である。それも本来入り込めないはずの内面に直接入り込むような近さである。これは若くない私にも実感できることだ。また大澤によると、「街中で、電車の中で、そして授業中に、終始、送受信されている短いメールにおいては、肝心なのは何が伝えられているかではなくて、単に伝え合っているという事実である」。これは商売や政治につながる戦略的なものではなく、純粋に相手とつながっていることを楽しむ使い方と言える。






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posted by cyberbloom at 07:32 | パリ 🌁 | Comment(0) | TrackBack(0) | WEB+MOBILE+PC | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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