2006年03月04日

『中村屋のボース』中島 岳志(後篇)

中村屋のボース―インド独立運動と近代日本のアジア主義当時、仏領であったシャンデルナゴル(現、チャンダンナガル)では、イギリス権力の手が及びにくく、反英抵抗運動の拠点のひとつだった。その街で育ったボースは、頑固で熱血的な少年であったらしいが、歴史の本にふれることで、反英意識を高めていくことになる。

血気盛んのあまり学校を中退したボースは、父親のコネで、政府刊行物の出版関連の職につき、ついで20歳頃(1906年)、森林研究所の職員に転ずる。そこで、有能ぶりを発揮、営林署長に出世した。そのころ、シャンデルナゴルを拠点としていた急進的独立運動家のローイ、ゴーシュと知りあったボースは、イギリス支配のトップであるインド総督ハーディング暗殺を計画、営林署長としての立場を利用して爆薬の材料を集めると、みずから爆弾テロの実行者となることを決める。

1912年12月23日、イギリス植民地政府は、首都をカルカッタ(現、コルカタ)からデリーに移したことを記念して、一大パレードを催した。このパレードで、象に乗って行進するハーディングめがけ、ボースは爆弾を投ずる。結果、従者1名が死亡、ハーディングは重傷を負ったものの、死には到らなかった。

事件後、ボースは何食わぬ顔をして、営林署長の職を続けていたが、1913年5月、別の爆弾テロが未遂に終わった結果、急進派のアジトが捜索を受け、ついにボースが急進派のリーダーのひとりであることが判明してしまう。そのことを知ったボースは長い逃亡生活にはいった。

イギリス軍内のインド人兵に叛乱を起こさせるという作戦が失敗したのち、やはり民衆決起による革命しかないと感じたボースは、武器を調達すべく国外逃亡を決意、当時、日露戦争に勝って、頓(とみ)に国威のあがる日本に狙いを定めた。そして、1913年にアジア人で初のノーベル文学賞受賞者となったベンガルの詩人タゴール(Rabindranath Tagore)が渡日することを知り、その親戚のプレオ・ナース・タゴールの名を騙ってチケットを購入、1915年6月、まんまと日本潜入に成功する。

日英同盟を締結していた日本政府は、反英インド人活動家の日本における行動を監視していた。当時の日本には、すでに、アメリカを拠点とするインド独立運動グループが潜伏していたのである。日本上陸後、さっそくその仲間に加わったボースは、辛亥革命を成功させ中華民国を建てたのち、権力闘争に敗れて日本に亡命していた孫文の知遇を得る。そして、イギリス政府に日本潜伏がバレたのち、孫文から、国家主義者の大物・頭山満(とうやま・みつる)を紹介される。頭山は尊皇主義者であったが、大アジア主義をとなえ、孫文らアジアの革命家をバックアップしていたのだ。

そして、1915年11月、ボースともうひとりのインド人活動ヘーランバ・ラール・グプターにたいし、日本政府からの国外退去命令が下される。ボースらがこのことを世論に訴えた結果、野党を中心に反対運動がわきあがるが、政府は強硬であった。ついに頭山らは、ボースとグプター逃亡を計画、当時クリーム・パンで有名だった新宿の中村屋店主である相馬愛蔵・黒光夫妻に隠匿を依頼する。義憤に燃えた夫妻はそれを承諾、同年11月30日、ふたりのインド人は忽然と姿を消したのである。

当時、中村屋には、相馬夫妻の長女・俊子とわかれさせられて出ていった若き天才画家・中村彝(なかむら・つね)の使用していたアトリエがあり(彝は、同じく同居人であったロシアの盲目の詩人エロシェンコの肖像画や裸体の少女像を描いているが、後者のモデルは俊子である)、以後、3ヶ月あまり、ボースはこのアトリエに逼塞することになる。もっぱら世話をしたのは俊子であった。その間、気晴らしに本場インドのカレーを作り、その調理法を相馬家のひとびとに伝授することになったが、これが、12年後の1927年、中村屋の正式メニュー「インドカリー」としてデビューし、こんにちではレトルト・パック化までされている「中村屋のカリー」のルーツであった。

やがて、1918年、頭山の懇願によって、相馬俊子はボースと結婚し、1923年、ボースは日本に帰化、さらに、さまざまな著作を発表、インド独立運動家であるとともにアジア主義者として、広く日本に知られるようになった。

だが、インド独立への道はとおく、ボースが頼みとした日本政府は、1931年の柳条湖事件をきっかけに満州侵略、1937年の蘆溝橋事件から日中戦争へ、1941年12月に太平洋戦争へと、戦乱の道を突き進んでいた。日本軍のアジア侵攻を機にインド独立の悲願を果たそうとしたボースは、しかし、「もうひとりのボース」スバース・チャンドラ・ボース率いるインド国民軍と日本軍の連合軍がインドに侵攻したインパール作戦のゆくえを気にしつつ、病の床につく……。

爆弾テロを指導しながらも、テロルではひとびとの心はついてこないことを論じていたボースは、常に手段と目的の乖離を自覚しつつ、なお、目的のためにはその手段を用いねばならないという信念をいだいていたという。インド独立のために、日本のアジア侵攻や、イギリスの敵としてのナチス・ドイツを容認した背後には、そのような信念があったというわけだ。「中村屋のカリー」は「恋と革命の味」だが、それは文字どおり「辛(から/つら)い」血の出るような苦悩の味だったのである。

フランスは共和主義を国是とするが、アメリカのグローバリズムに対抗して「多様性」を主張している。しかし「民族主義」の擡頭は、各地で摩擦をひきおこす。1947年にインドとパキスタンが独立するが、ヒンドゥー教徒が多数派のインドとイスラム教徒が多数派のパキスタンの争いは3次におよび、ついに1971年の第3次印パ戦争では、イスラム教圏ながらベンガル語を主言語とするボースの故郷ベンガル地方が、バングラディッシュとして独立するに到る。ボースならどう行動したであろうか。「アイデンティティ」は大変重要なものであるが、それが「本質主義」と結託するとき、たいそう危険な爆薬ができあがる。

若き研究者である著者は大阪生まれ。大阪外大でヒンディー語を専攻したことからボースの世界にハマったようだが、そもそも外大でヒンディー語をやるに到ったきっかけはある種の出会いであったという。もちろん、本書を読んでもそのへんの事情が書いてあるわけではないが、人生、ヒョンな出会いからヒョンなことになるのはよくあることだ。本書にも数々の「出会い」が記されている。本書の読後は、アジアとナショナリズムと(もちろんカリーと)、そして出会いについて考えることになるであろう。

【黒猫亭主人】

中村屋のサイト
中村屋サイト内のボースの記事

中村屋のボース―インド独立運動と近代日本のアジア主義
中島 岳志
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posted by cyberbloom at 17:47 | パリ | Comment(0) | TrackBack(1) | 書評−グローバル化&WEB | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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