2006年03月03日

『中村屋のボース』中島 岳志(前篇)

中村屋のボース―インド独立運動と近代日本のアジア主義かつてフランスはあちこちに植民地を持っていたが、たいていイギリスとの喧嘩に負けてとりあげられている――もちろん、本来は、フランスでもイギリスでもない、その現地のひとびとのものだが――。

紅茶といえばインドかイギリスかということになるだろうが、このイメージは、イギリスが、1688 年、名誉革命によって、オランダからメアリ 2 世女王と旦那のオレンジ公ウィリアム 3 世(オラニエ公ウィレム――ちなみに、オラニエ/オレンジとは南仏 Orange [オランジュ] のことで、ここに領土があった。今でもオランジュの博物館にゆくと、ウィレム――仏名は Guillaume [ギヨーム] の肖像画なんかを見ることができる)を迎えたことに端を発する。当時、日本との交流によって「茶」に親しんでいたオランダから、メアリが「お茶する」習慣を持ち込み、上流階級に流行ったのが、イギリスの「ティー・タイム」の起源というわけだ。

その後、喫茶の風習はあまねく全英にひろまり、中国――当時は清の時代だ――の広州から――ちなみに tea とは、仏語の thé 同様、広州周辺のことば te を、17 世紀にオランダ語経由で借用したもの――貿易によってお茶を輸入しまっくったイギリスは、そこからくる貿易赤字を、インドのベンガル地方に作らせたアヘンの対清輸出によって補填することになる。これが、のちのアヘン戦争(1840-42)の原因になるのはいうまでもない。

すでに 1757 年、ベンガル地方のプラッシーにおいて、わずか 3000 の兵をもって、7 万のフランス・ベンガル太守連合軍を破ったイギリスは、ベンガル地方をほぼ手中にしていた。このインド植民地に、大英帝国は、自前のお茶の製産をもくろんだが、最初の企ては、あっさり失敗した。その後、アッサム地方で野生の茶が発見されたことで、インドにおける茶栽培への道が拓けたのは、ようやく 1823 年になってからのことだ。とまれ、現在の「インド紅茶」は、イギリスの自国における紅茶消費の悩みがあったればこそなのである。

その後、1857-59 におこった「セポイ(傭兵)の反乱」を機に、ムガール帝国は廃され、ヴィクトリア女王がインド皇帝を兼任、ついにインドは大英帝国の直接支配を受けることになったが、このイギリス占領下のインドにあって、フランスは、ベンガルのシャンデルナゴル Chandernagor 他数カ所を支配下においていた。ちなみに、シャンデルナゴルがインドに返還され、呼び名もベンガル風に「チャンダンナガル」Chandannagore となるのは 20 世紀なかばの 1952 年、1673 年にフランス東インド会社が支配下において以来、じつに 300 年後のことである。

さて、1886年、ベンガルの農村に生まれ、この仏領シャンデルナゴルにおいて成長したのが、のちに日本に亡命、数奇な人生を歩むことになる、インド独立革命の志士、ラース・ビハーリ・ボース Rash Behari Bose であった。(続く)

【黒猫亭主人】

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中島 岳志
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posted by cyberbloom at 22:59 | パリ ☔ | Comment(0) | TrackBack(0) | 書評−グローバル化&WEB | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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