2010年02月03日

「皇帝ペンギン」

今年の正月の目玉映画のひとつとしてジャック・ペランの「オーシャンズ」が公開されている。「WATARIDORI」で様々な渡り鳥の生態を記録したペラン監督が、世界中の海とそこに暮らす生命体を革新的な映像美で描いた海洋ドキュメンタリーだ。ハンドウイルカの大群、ザドウクジラの捕食、5万匹に及ぶクモガニの交尾、ウミガメの孵化など、自然界で起きる奇跡的なシーンの数々。日本版ナレーションを宮沢りえが担当したことも話題になっている。



フランスは自然界を舞台にしたドキュメンタリーの秀作を多く生み出しているが、リュック・ジャケ監督の「皇帝ペンギン La Marche de l'empereur 」もそのひとつに数えられるだろう。こちらは南極に住む皇帝ペンギンの産卵と育児を追った作品であるが、それは自然界で最も過酷な子育てとも言われる。

しかしそういう過酷な自然の中にあってもペンギンは何をすべきか知っている。やるべきことがプログラミングされているからだ。ペンギンたちは気の遠くなるような距離を歩き続け、極寒の吹雪の中で何日も立ち尽くし、その営みを何代にもわたって続けるのである。

分化し、専門化した本能は、それぞれの状況において何をすべきか、絶対的な確かさをもって指令を下す。分化した動物は生存目的と関係のない対象を知ることはない。人間のように対象を対象として捉えずに、行動系列の一部として把握する。動物にとって生態的に限定された環境で生きることは当然のことで、それに完全に対応した器質と本能を持っているので、不確実さや迷いが生じることもない。知覚は何らかの行動に結びつき、根拠のない行動、つまり知覚からの指令のない行動は存在しない。知覚と行動が完全に調和した円環の中を生きている。

ペンギンの生の営みに驚異と畏怖を感じるのは、ペンギンが自然の中に完全に組み込まれているからだ。またそのように人間が自然=ペンギンを対象化し、さらに表象しようとするのは、人間が自然と乖離し、自然から疎外されているからでもある。私たちの弱さの本質はそこにあるのだ。宇宙の果てについて思い巡らすのも、将来のことを考えて不安になるのも、人間だけなのだ。

ペンギンにはひとつの決まった仕事が待っている。しかし私たちは何をすべきか知らないし、自分の任務は何ひとつ決まっていない。これから仕事を探そうとしている若い人には羨ましいことだろう。ペンギンの姿を見ていると意外にも人間の労働について考えさせられる。人間は良くも悪くも可能性の生き物なのだ。動物はすべてがプログラムされているから可能性がない。

近代以前、生まれてから死ぬまで自分の生まれた村から出ることなく一生を終えた時代の人間は、ペンギンに近い存在だったのかもしれない。近代化とは人間をそういう反復と習慣に塗りこめられた動物的な環境から解放することだったが、人間を絡めとっていた(一方では安心と安定を与えていた)あらゆる文化的な網の目は次々とほどけ、よりどころのない世界に放り出されてしまった。私たちの周囲で渦巻く知覚=情報は、私たちの人生をますます不確実で、迷いに満ちたものにしている。

それでも歩くペンギンのコケティッシュな姿を見ると頬がゆるむし、柔かい毛に覆われたペンギンの赤ちゃんの愛らしさには癒される思いがする。不況の時代には動物や赤ちゃんのCMがうけるという話を聞いたことがある。過酷な状況に置かれたとき、人間は盲目的で絶対的な、本能のような感情に身を任せたくなるのだろう。それは現実逃避ではなく、過酷な状況を過酷だと思わないプログラミングへの志向性なのだ。個人的には、両足の上に卵を載せて温めていたお父さんペンギンが、卵を落として割ってしまったときの表情に言いようのない切なさを感じてしまったが、これも人間の勝手な感情移入に過ぎないのだろう。

LA MARCHE DE L'EMPEREUR - trailer
□フランスのエレクトロな歌姫、エミリー・シモンがサントラを担当


cyberbloom


posted by cyberbloom at 16:29 | パリ ☔ | Comment(0) | TrackBack(0) | フランス映画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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