2010年01月30日

『クレーヴの奥方』事件(2) Lisez, surtout lisez!

サルコジの「クレーブ発言」をきっかけとして、研究者や教師たちと学生たちが世代を超えて連帯できたという事実に驚かされる。2006年のCPE(若者雇用促進策「初期雇用契約」)をめぐるデモでは教師たちは学生のために何もしなかったが、今回、学生たちは教師たちを助けようと連帯の精神を示した。それは研究者や教師たちがなりふり構わず必死になった姿を見たからなのだろう。ふだん研究室に閉じこもり、取り澄ましている人たちが、いきなり激しい抗議運動を繰り広げ、教え子たちの目の前でラディカルな活動家に変身した。横断幕を持ち、胸にバッジをつけ、道路の掃除夫のような普段縁のない人々と顔を合わせた。そして不当に侮辱された若者のように、彼らの研究と文化を伝えることの意味について熱く語ったのである。

学生たちもサルコジの「クレーブの奥方」発言に対して自分たちが侮辱されたと感じた。それがサルコジに対する反発だとしても、同時に文化は自分たちの側にあると感じたことは重要だ。日本では決してこうはならない。文化は学生の側にはないし、教師と学生の共有物でもないだろう。学生と教師が連帯できないのも、先回書いた「現実を黙殺する文化主義」のひとつの現れかもしれない。

ところで、前回の動画ニュースのデモの参加者たちは Je lis la Princesse de Clève.(私はクレーブの奥方を読む)と書かれたバッジを身につけていたが、それは反サルコジ・キャンペーンのキャッチフレーズになった。下の動画にも同じバッジをつけた人々が登場して、それぞれ J’ai lu la Princesse de Clève.(クレーブの奥方を読んだわ) とか Il faut le lire tout le temps. (いつもそれを読まなくちゃいけない)とか言っている。場所は Salon du livre (毎年春に porte de Versailles で催される本の見本市)。そこでゲリラ的にバッジを配ったのだろう。


Je lis la Princesse de Clève ― この言表において「読むという行為」に重点が置かれていることに注意しよう。普段、私たちは文学作品を前にするとき、当然のようにテキストの意味内容に関心が向く。その場合、私たちはそれを誰にも邪魔されない隠れた場所で読む。自分の部屋や図書館、あるいは「群集の中の孤独」を保障してくれるカフェや電車の中で。静かな読書はテキストの意味内容に従属する行為だ。

しかし、「クレーブの奥方」事件では、小説の中身についてほとんど言及されることはなかった。テキストはあくまで口実にすぎず、それを読んだと宣言することや、人前で声に出して読むというパフォーマンスが前面に出ていた。つまり、テキストの内容を後ろに押しやって、読むという行為に特権を与えているわけだ。それは儀式的な行為である。

儀式の本質とは何か。それは沈黙を破って、声を発することである。同時に他者の視線の中に立ちはだかることでもある。動画に登場する女性が message politique と言っているように、それは何よりも政治的な行為である。話すこと、声に出すこと、メッセージを発すること。その行為が表面化するのは、私たちが何らかの困難や危機的な状況にあって、目の前が不透明で、不確かなときであり、それを乗り越えようとするときだ。それは必然的に、あるコンテクストに介入し、それを変えようとする政治的な行為につながる。『クレーヴの奥方』事件の本質はここにある。

声に出すことは危機の時代の自己表現だ。今の時代の特徴は危機が恒常化していることにある。私たちを守ってきた様々な文化的、制度的な網の目が次々とほどけ、私たちが剥き出しの状態におかれていることを日常的に実感じざるをえない。そういう時代だからこそ、他者に働きかけるベーシックなコミュニケーション能力、つまりは自身の言語能力を自覚し、声を発することでその都度それを確認するのである。

サルコジの『クレーヴの奥方』発言をめぐる討論番組もあったようだが、上の動画の突き抜け方は痛快だ。かつて文学がこんなふうに扱われたことがあっただろうか。あのポップなバッジがすべてを物語っている。マジで欲しいと思わせる。キャッチフレーズ、グラフィック、ゲリラ的な偶発性。つまりは広告的な戦略を流用している。ポップな戦術は声を発すること、話しかけることの延長線上にある。ポップとは、わかりやすさと目立つことである。ポップなものは、オーディオ・ヴィジュアル(聴く+見る)に訴え、注意をひきつける。孤独に本を読むこととは対照的に、他者のプレゼンスを前提にしている。対人的なコミュニケーション能力を刺激し、それを引き出そうとする。最後に女性がバッジにキスして口紅をつけるが、ポップなものは何よりもセクシーである。

おそらくサルコジも戦略的に『クレーブの奥方』発言をしたのだろうが、学生たちはそれをパロディ化し、アイロニカルなやり方で抵抗のシンボルとして練り上げた。仲間や賛同者たちと共有しつつ、政治的なメッセージとして投げ返したのである。共感を集めたり、連帯を促すためにはアートな政治表現が必要になってくる。インスピレーションを与えるようなカッコ良さが必要なのだ。

バッジが Salon du Livre (本の見本市)に集まった人々の共感とリアクションをもたらし、そのやり取りによって一時的であれ、その場を占拠したように、「声に出して読むという行為」(=教師と学生が参加した6時間にわたる『クレーヴの奥方』のリレー朗読)はデモと連動し、まさに「都市の占拠」という直接的な戦術とつながっていた。その場で声を出すこと、人の注意をひきつけることは、「いまとここ」のリアリティーを求める。そのリアリティーは普段研究室に閉じこもっている人たちには最も縁遠いものだったはずだ。

クレーヴ事件が生んだおびただしいパフォーマンスと、それを演出した動画の数々。動画を通して私たちは他者の行為を見ることができるし、それに呼応した行為を動画共有サイトを通して見せることができる。それは文章を書いたり、黙って読んだりすることとは本質的に異なるパフォーマティブな行為だ。ネット上も新たな占拠の対象になったのだ。おそらくブログや動画共有サイトはクレーヴ事件において大きな役割を果たしたのだろうが、それはメディアを利用することではなく、自らがメディアになることだった。

『クレーヴの奥方』事件(1) Je lis la princesse de Cleve!
□この記事は2009年11月11日にmain blogに掲載されたものです。





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posted by cyberbloom at 18:17 | パリ ☀ | Comment(0) | TrackBack(0) | フランスの現在 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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