2010年01月28日

『クレーヴの奥方』事件(1) Je lis la princesse de Clèves!

去年、日本でスタンダールの『赤と黒』の翻訳をめぐって論争が勃発かと思われたが、あまり盛り上がらなかった。結局、研究者の内輪の議論の枠を越えられず、外部を巻き込むに至らなかった。一方、フランスでは『クレーヴの奥方』事件が起こった。こちらは同小説に対するサルコジ大統領の侮蔑発言に対して、ニュースのタイトルになっているように抵抗の象徴(une résistante)として祭りあげられたのだった。



サルコジ政権は発足とともに「大学の自由と責任法」(通称ペクレス法 la loi Pécresse)などの法律を成立させ、フランスの大学の効率化に努めている。これは伝統的な大学の独立と自由を侵害するとして当初から大学関係者や学生の反対が強かった。さらに「教員兼研究者」の地位・労働条件の決定権を学長にゆだねる政令を教育相が発布したことをきっかけに、今年の2月2日、ソルボンヌで全国の大学教員の集会が開かれ、無期限のストライキに入った。教育相のグザビエ・ダルコスは改革を1年延期すると譲歩を示したが、大学はその後マヒ状態に陥った。ダルコスは密かに7月、教育相を辞任している。

クレーヴの奥方 他2篇 (岩波文庫 赤 515-1)その一連の動きの中で新しい抵抗の象徴がかつぎだされた。それが17世紀にラファイエット夫人が書いた『クレーヴの奥方』である。具体的な行動として、街角にマイクを立てて『クレーブの奥方』の輪読会が行われた。多くの教師、研究者、学生が参加し、街頭の朗読マラソンは6時間続いた。彼らの反発は、「役所の窓口で『クレーヴの奥方』をどう思うかなんて聞くことがあるだろうか。そんなことがあれば、ちょっとした見物だ」という、サルコジ大統領がまだ大統領ではなかった2007年2月の発言にまでさかのぼる。大統領は公務員試験に出題された無用な知識の例として『クレーヴの奥方』を挙げたのだった。

もちろん『クレーヴの奥方』はサルコジがケチをつけたから脚光を浴びたのであって、その内容が再評価されたということではない。『クレーブの奥方』は抵抗の象徴どころか、17世紀のセレブな文芸サロンの産物である。しかし、思いがけない宣伝効果で、『クレーブの奥方』は書店のスターになった。売上は07年から回復の兆しを見せ、08年は06年の3倍の部数が売れた。

パリ第3大学で教えているオリビエ・ブヴレOlivier Beuvelet氏がブログで興味深いことを書いていた。それはこの事件が知の転換の局面を示すというものだ。

La Princesse De Cleves (Le livre de poche: classiques)「この事件は確実に記憶にとどめられるだろうし、社会の中での知の位置の修正をもたらすだろう。一方が知を所有し、他方が知を求めるという関係は終わり、知はすべての人々の共有物、重要な楽しみとなるだろう。それまで知が届かないとみなされていた時空で、知が共有され、アクセス可能なものになった。ボルドーでは路面電車の中で翻訳の授業が行われ、公園では公開の輪読会が行われた。パリでは歴史的なデモが行われ、大学とは別の形の講義も行われた。最初それらは抗議行動だったが、個々の中にある知識欲を満たす、喜ばしい知の循環へと向かう文化の変化が、どのような条件のもとで起こり、どんな原理を持っているかを示したのである」

「サルコジの発言は文化一般の話だけでなく、窓口の受付係や秘書をしている人たちへの侮蔑にもなる。そういう人たちは良い本を読むのに適していないという意味にもなるから」とニュースの中でデモの参加者が発言している。確かにもっともな意見ではあるが、公務員試験は受験者の人格のすべてを測る必要があるのだろうか。公務員試験は担当する仕事をこなすのに十分な実務能力や適性を問えばいいわけで、その人がどのような文化的な関心や蓄積があるかは別の問題だという考え方もできる。つまり公務員(国家に関わる人材)の採用試験を通して、「あるべき国民の規範」が示されているわけだ。

教養主義の没落―変わりゆくエリート学生文化 (中公新書)日本にも教養試験があるので、「教養のある人間」がひとつの規範になっているのだろう。教養は未だにそれなりの力を持っていて、教養はないよりはあったほうがいいと思われている。それは「読書による人格形成」というモデルに基づいていて、相変わらず読むべき本のリストアップという形を取っている。

日本で文学作品のあらすじをまとめた本が売れているらしい。「あらすじ集」を読む動機を考えてみると、知ったかぶりをするために、あるいは大学入試や公務員試験に合格するためだろうか。もちろん、これから文学作品を読んでみようという人がとっかかりとして利用するケースもあるだろうが、多くの場合作品そのものを楽しむよりは、別の功利的な目的のために読まれていることを意味しているのだろう。「読書による人格形成」の形骸化である。

知ったかぶりや動機のない読書を増やさないためにも、サルコジとは違う意味で試験にそういう問題を出さないほうがいいのかもしれない。しかし、そういう義務をあてにしている人々もいるのだろう。もし、公務員試験に文学の問題を外してしまうと、強制力が働かなくなり、誰も文学作品を読まなくなる。それは文学の危機であると同時に、それで食べている人たちの仕事がなくなるというわけだ。

教養なんて所詮は時代の要請による相対的なもので、その都度組み替えられてしかるべきものなのだ。いつの時代にも増してコミュニケーション能力が問われる時代に「読書による人格形成」(書斎で孤独に書物を紐解く文芸タイプがモデル)を基本に据えることには無理があるだろう。竹内洋の『教養主義の没落』を読むと、教養は新興勢力の文化戦略でもあり、ひとつのイデオロギーにすぎないことがよくわかる(思考停止な大学人に対する竹内氏のいらだちも)。

文学や芸術を見栄のためや道具的に使うという行為と大学人も決して無縁ではない。それは俗物教養主義と呼ばれる。大正以降、教養=文化が新中間層の階級移動(つまり成り上がっていい暮らしをすること)や、都合の良い自己形成の道具として利用されたことはしばしば指摘される。大学の大衆化とともにその傾向はいっそう顕著になったが、学歴による立身出世のメンタリティと教養主義は表裏一体だった。それは、もっぱら無秩序な読書や高踏的な趣味の鑑賞に埋没する一方で、現実の問題に全く目を向けず、それどころかそれらを黙殺するような文化主義として現れた。
(続く)

□この記事は2009年10月15日にmain blogに掲載されたものです




cyberbloom

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posted by cyberbloom at 21:23 | パリ ☁ | Comment(0) | TrackBack(0) | フランスの現在 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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