2010年01月22日

電子ブックと書籍の未来(3) 本の未来図

kindle01.jpg電子ブックにもグーグルの罠が待ち構えている。読者は目を引く本の表紙や面白い書評の代わりに、「頻繁に引用される文章」という検索結果によって本に出会うことになるかもしれない。これまで世界中で書かれたすべてのページが競合関係に置かれることになる。1冊の本というまとまりは意味がなくなり、検索エンジンにひっかかりやすい独立したページや段落の集まりにすぎなくなる。何より頻繁に引用され、検索エンジンにひっかかることが販売戦略になる。それは本の書き方や販売方法を変えるだろう。

作家や出版社はページごと、あるいは章ごとにグーグルのランク付けを念頭において文章を書くようになる。キンドル kindle (写真↑)で売られている本の多くは最初の1章を無料サンプルになっているが、それは本の帯に書かれたキャッチコピーのような役割を果たすようになる。作家は読者が本の全体を買いたくなるように、この部分に力を注ぎ、入念に構成するようになるだろう。

これは19世紀のフランスで隆盛を極めた新聞小説を思い出させる。新聞小説は新聞の発行部数を伸ばすために案出された形式だが、それは波乱万丈の物語を連載の一回一回がちょっとした山場になるように按配し、1回分の最後には未解決の謎や未完のプロットを残し、続きを読みたくなるように構成していた。この手法は今のテレビの連続ドラマにも受け継がれているが、新聞という日刊の媒体に小説の形式が適応した例である。

しばしばコンピュータは画一化や均質化をもたらすと言われるが、それはむしろ印刷物にあてはまることだ。私たちは印刷物をその固定された構造にしたがって読んでいた。文学作品が正典となりえたのは、同じテキストの同じ読書体験が可能だと信じられたからであり、それをベースにすべての人々が文学的な遺産を共有し、文化的な統一も可能だという理想(妄想?)を抱けたからである。また印刷物は書き換えができないがゆえに、著者が決めたバージョンは神聖不可侵であり、それが書き手を読み手から遠いものにする。その関係を通して著者はモニュメンタルな姿を獲得し、読み手はその崇拝者になる。

しかし電子テクノロジーはテキストの章や段落をひとつひとつ別のものにする。印刷物のように有機的でひとつの方向に展開する全体を持たず、それぞれが完結した単位のつながりなる。電子テキストは断片的だが、潜在的な可能性を秘め、絶えまない再組織化の中に置かれることになる。新しい読者は著者に限りなく近づき、テキストを自分で操作するようになる。自分でテキストの断片を再配置し、作られたものを壊しながら、新たに結びつけるのだ。

とりとめない連想は自分が最も自由に感じられる楽しみであるが、印刷物の時代において、それは書く前の準備段階にすぎなかった。書くときには印刷物の厳密な秩序に従わなければならなかった。連想関係はテキストの源泉だが、そういう秩序関係に表れることない思考とイメージのつながり方である。それゆえ印刷物の構造では表現できず、排除されてきた。しかし電子テキストは段落や章、索引や注といった階層的な秩序の中に、多元性をひきこみ、書物をツリー構造からネットワークへと変貌させる。電子ブックは印刷物の形態を残しているが、そこでは階層的な思考と連想的な思考は共存することができるのだ。

キンドルには辞書が搭載されていて、わからない言葉があるとすぐに辞書を引けるが、可能になるのは言語的な参照だけではない。電子ブックはマルチメディア的な参照へと展開するだろう。ちょうどこのブログのような形態になっていく。小説の中に音楽が出てきたら、映画のサントラのように背後に流すことができるし、映画のシーンに言及された場合はその断片を映し出すことができる。当然、書き手もそういうものを小説の中に取り込んでいくだろう。これは自分でもやってみたいことである。文学理論では作品は参照・引用の織物であるとよく言われるが、これはマルチメディア的に現実のものになるだろう。

先回、「小説を読みながら不可解な文章に遭遇した場合は、すぐにオンライン上でその文章の意味について、世界中の読者がどのように注釈を加え、解説し、議論しているかを検索するようになるだろう」と書いた。そして参照されるのは「決して権威のある文学者や批評家ではない」と付け加えた。上意下達方式で「正統的な読み方はこれだ」と言ったってもう誰も聞いちゃいない。正しい解釈を上からおしいただくという権力関係から、議論を広く共有するような水平的な関係と、自らテキストに介入していく楽しみに移行しつつあるのだ。先回「文化的正統性のすき間に自分たちの創意や工夫をしのびこませながら、こうした教化をかわしている」というミシェル・ド・セルトーの一節を引用したが、読書の楽しみはもともとそういうもので、ただ単にそれが顕在化しなかっただけなのだ。文学者や批評家は「こういう読み方は面白いぞ」と介入していくようなプラットフォームをネット上に作り、読者のひとりとして参入していくしかないのだろう。

ブラックジャックによろしく (13) (モーニングKC (1488))東洋経済の8月29日号「アマゾン特集」で最も興味深かったのは、『ブラックジャックによろしく』や『海猿』の人気漫画家、佐藤秀峰氏が自分のHPで著作の有料配信を開始したという記事だった。これは最も出版社が戦慄する話だろう。それだけではない。佐藤氏と同じ機能を持ったシステムを一般に公開し、誰でも登録さえすれば、自由に自分の作品を発表できるようなマンガのためのインフラを作るつもりだという。それは多くの漫画家が参加する電子コミックを取りまとめたポータルサイトの形式で、佐藤氏のHPもそのうちのひとつにすぎなくなるという。

佐藤氏が出版社や電子書店と組んで共同開発をしなかったのは、中間業者が入ると値段が上がってしまうからだ。漫画家からすれば経費以外がすべて売り上げになるし、読者も既存のサイトよりも安く漫画を読めれば双方の利益になる。これは佐藤氏個人の選択と言うよりは、この先、漫画雑誌が立ち行かなくなって、いずれはなくなるだろうという現状認識がある。著者と読者を直接つないでしまう動きはマンガだけでなく、他のジャンルや書籍一般に関しても出てくるだろう。

□このエントリーは下記の記事を参照




追記:kindle は読書に限定された端末だが、アマゾンがアップルのiPhone 用にもキンドル・アプリケーションを発表している。こちらはキンドルがなくても、iPhone で本が読める。一方、アップルは1月27日に、新しいタブレット型デバイスを発表すると言われている。WSJによると、スクリーンサイズは10インチまたは11インチのタッチパネルで、MacBookのような製品に近いものになるという。もちろん、kindle のように文字を読むことに限定されないマルチメディアプレーヤーである。その主要な用途のひとつに、電子教科書としての利用が挙げられている。それを使って単に読み書きするだけでなく、その場でネットで調べたり、動画やインタラクティブコンテンツを使ってより効果的に授業を行える可能性がある。





cyberbloom

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posted by cyberbloom at 19:42 | パリ ☁ | Comment(0) | TrackBack(0) | WEB+MOBILE+PC | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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