2009年12月11日

『ノルウェイの森』−68年以降の大学生

balladeimpossible01.jpg『ノルウェイの森』は主人公が大学生ということに親近感を覚える小説でもある。そのせいか、私自身68年が舞台という意識はあまりなく、小説が発表された自分の大学生時代に重ね合わせて読んでしまう。この小説はワタナベと直子がふたりでひたすら歩くシーンが印象的だ。大学時代というのは、金はないが、時間だけは持て余すほどある。私自身もひたすらそういう無為な行動に明け暮れていた。茫洋としたモラトリアムな時間感覚。みんな勉強なんてしなかったし、何よりも大学で勉強することと、社会に出た先のことが結びつくという意識がほとんどなかった。みんな頭を真っ白にして企業戦士=サラリーマンになった。入社直後の新人研修は人格を破壊するために行われていたとも言われていた。そこには暴力的な要求と断絶があったわけだが、それが日本の高度成長を支えていたことは言うまでもない。

それゆえに、地理の勉強をして地図を作る仕事に就こうとしている、つまり目的を持って、愚直に将来とのつながりを意識して勉強している「突撃隊」が小説の中で揶揄される。それはワタナベの諦念の裏返しなのだろう。「ノルウェイの森」にはフランス語で Balade de l’impossible というタイトルがつけられている。「不可能なもののバラード」。次々と死んでいく『ノルウェイの森』の登場人物たちは、変貌していく社会に致命的な暴力を感じ取っていたということなのだろうか。

このようなワタナベの諦念には時代的な裏づけがある。教育社会学者の竹内洋が『教養主義の没落―変わりゆくエリート学生文化』の中で当時の大学を取り巻く状況について書いている。1960年代後半は日本の高等教育がエリート段階からマス段階に移行した時期である。新規就職者に占める大卒者の割合が急上昇し、大卒者の「タダのサラリーマン化」が進行する。1970年頃まで新規学卒労働市場ではどんな学部を出たかは将来の進路にとってかなり決定的で、大学が教養知や専門知を伝達する場であることは自明だった。しかし、1970年代から日本の企業は大卒の大量採用を始めた。大量採用だから大卒と言っても専門職に就くわけではないし、将来の幹部要員でもない。

ノルウェイの森 上 (講談社文庫)このプロセスを人事制度から見ると、年功序列と終身雇用の制度が確立した時期にあたる。個人の能力や知識がそれほど要求されず、新入社員に求められるのは組織秩序に従順でまじめであること、そして20代前半であること。大学卒業証書はその保証書に過ぎなくなり、大学は卒業資格の発行所に成り下がってしまったのである。そして大学時代は一種のモラトリアム期間となる。

そんな状況で大学生が「知識人とは何か」とか「学問するものの使命と責任」をとことんつきつめようとしたのが大学紛争だった。その根底には大学生がただのサラリーマン予備軍になってしまった不安とルサンチマンがあり、自分たちをサラリーマンとして強引に大衆化しようとする秩序を打ち倒そうとしたのだと、竹内洋は言う。その矛先はしばしば大学の教授たちに向かったが、彼らがお気楽に唱える教養主義は学生たちの目には一種の象徴的な暴力として映ったのである。やがて彼らの抵抗は潰える。大学紛争以後の大学生は教養知と専門知を放棄し、大学のレジャーランド化が始まる。60年代は学生の数が爆発的に増えたが、大学側の受け入れ態勢が十分でなく(つまらない講義とあふれかえる講義室)、意欲のある多くの学生が大学に幻滅したと小熊英二の『1968』にも書かれていた。

1968〈上〉若者たちの叛乱とその背景どの大学を出れば、どの会社に就職できて、どれくらい昇進できるか、あらかじめ人生の先が読めてしまう。大学時代とはそういう自分の行き先を自覚し始める時期である。社会がひとつのシステムと化している社会では、自分で人生を切り開くとか、社会に介入して社会を変えるという可能性がなくなり、敷かれたレールの上を進むだけの人生に不全感を感じる。自分の生きている意味や自分の可能性は社会から一方的に与えられたものでしかないという感覚だ。もちろんこれらは高度経済成長によってもたらされたもので、今から見れば贅沢な話に聞こえるかもしれない。生存が脅かされるくらいの貧困が問題になっている今、若い人たちのあいだでは反動的に敷かれたレールに対する憧れが広がっているという。

当時の若者論はモラトリアムの一時期をどう謳歌するかが問題だった。レールに乗ったらそれでお終いだったからだ。村上春樹はレジャーランド化した大学と親和性があったように思う。成り上がりの手段にすぎない、田舎者根性の丸出しの教養主義(竹内はそれが農村のエートスに支えられていたことを指摘する)にのせられるのを拒否して、カポーティやチャンドラーを読み、ジャズやロックに精通し、趣味の良いポロシャツを着て、慣れた手つきでスパゲッティを作り、付き合っている女の子のバッグの中身が魅惑的なモノで溢れているような、新しい都会的なスノビズムをもたらした。大江健三郎が1995年の時点で村上春樹を「世界全体のサブカルチャーがひとつになった時代の、まことにティピカルな作家」であり、「サブカルチャーという共通性から消費資本主義の世界性に開かれている」と述べている。まさにその世界性がトラン・アン・ユンを呼び込んだ。

現在、大学の中身は変わったわけでは全くないが、企業はコスト削減を強いられる中で新入社員を教育する余裕がなくなり、即戦力を求めるようになっている。以前に比べて大学の授業の期間もはるかに長くなったし、資格を取れとか、平常点重視とか言われ、大学生は入学時から日常的な管理と競争のもとにおかれている。ネオリベ時代の大学生にはモラトリアム感覚はないのだろう。教師の側も成績をつけるときは基準を明確にしろと言われるが、この個人の点数化は巧妙な自己責任化の側面を持つ。つまり就職できなかったとしても、それは大学や社会が悪いのではなく、自分の点数(公正に評価された)が足りなかったのだと自覚させればよい、とでも言いたげである。




cyberbloom

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posted by cyberbloom at 23:38 | パリ | Comment(0) | TrackBack(0) | 書評−その他の小説 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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