2009年11月26日

JEALOUS GUY やきもちやきの男

嫉妬。それは人間が抱く最もやっかいで、最も辛い感情のひとつだ。それはしばしばラブソングのテーマになる。嫉妬というと、どんな歌を思い出すだろうか。

恋愛論 (新潮文庫)嫉妬は恋愛感情のバロメーターにもなる。フランスの小説家、スタンダールの『恋愛論 de l'amour 』に「結晶作用 cristalisation 」という有名な言葉がある。第二の結晶作用の核心は「彼女だけが、この世でただひとり自分にたのしみを与えるだろう」とひしひし感じることにある。つまり、彼女だけが自分にとっての唯一の運命的な相手であるという確信が生まれてくる。具体的な相手に焦点が結ばれ、何らかの関係性が発生したときに嫉妬という感情も芽吹く。スタンダールは告白の瞬間を「おそろしい深淵にのぞみながら、一方の手は完全な幸福にふれている」と表現しているが、そのコントラストが著しいだけに幸福をつかみそこなった場合、世界を喪失してしまったような絶望にとらわれる。ふと彼女が自分のものではないことを思い出し、それが致命的で取り返しのつかないことに思えて、気が狂いそうになる。なぜ狂気じみるかというと、その感情は人生が一度きりで、交換がきかないという実感と強く結びついているからだ。

このところ、人間は社会的、文化的な要因よりも、多くの部分を遺伝的なプログラムに負っているという生物学的な決定論が盛り返してきている。「利己的な遺伝子」のリチャード・ドーキンスなんかは「人間は遺伝子の乗り物にすぎない」と言う。そうすると嫉妬という感情も、遺伝子が自分の利益を守るために、人間=乗り物に対して警鐘を鳴らしているということなる。彼女をとられてもいいのか、ライバルに対して攻撃的になれと。所詮は遺伝子の命令なんだと合理化してみても(ふられたときによく起こる心的機制でもある)、辛いものは辛い。人間は情念にとらわれてしまったら、その外に立つことはできないのだから。

先週、ビートルズ特集で盛り上がったが、ジョン・レノンに 「ジェラス・ガイ Jealous Guy 」という曲がある。ジョンのヨーコに対する激しい嫉妬の感情をテーマにした歌である。下の動画で曲が始まる前にジョン・レノンの貴重なインタビュー映像があり、その発言は歌の内容と呼応している。



Intellectually I thought it right that owning a person is rubbish. But I love Yoko, I want to possess her completely. I don't want to stifle her. You know, that's the danger (is ) you want to possess them to death.
「頭では人を所有するなんて馬鹿げていると思ってた。だけど(今は)ヨーコを愛してて、彼女を完全に自分のものにしたいと思ってる。もちろん窒息させたくはないけどね。そこが危険なところなんだ。死ぬまで人を自分のものにしたいということの」(動画の28秒あたりから transcribed & translated by 黒カナリア)

「ジェラス・ガイ」は要するに「嫉妬に狂って君を傷つけてごめんね、そんなつもりはなかったんだ」という歌なのだが、インタビューからはジョンのヨーコに対する思い入れの激しさを垣間見せられる。ジョンの発言にはマッチョな匂いもするし、たぶんオリエンタリズムも入っている。ジョンは80年に凶弾に倒れる直前のインタビューでも「ヨーコより早く死にたい。ヨーコが死んだら僕は生きていけないから」と語っていた。

ジョンの嫉妬は三角関係によるものではないように聞こえる。それは必ずしも三角関係である必要がない。ジョンの場合、ヨーコに受け入れられているが、捕まえても捕まらない、完全に自分のものにしていないという実感がある。嫉妬という感情は具体的なライバルがいなくても、相手の未知の部分に向けられる。「君が僕のことをもう愛していないかもしれないと思うと不安になった」とあるように、「自分にとっての唯一の運命の女性」(小さいときはあまり会うことができず、早くに事故でなくなったジョンの母親?)に愛されないという挫折が深く刻み込まれていたのかもしれない。あるいは文化背景の違う女性に対して余計そういう感情を抱いたのかもしれない。

イマジン(紙ジャケット仕様)「世界に向けてベッドイン」という平和を訴えるパフォーマンスまでやったふたりの関係が象徴的なのは、当時のピッピーの動きと重なり合うからである。オリエンタリズムに絡ませるならば、1960年代後半から1970年代前半にかけて盛り上がったヒッピー運動は、まさに東洋という他者を理想化していた。1967年のサンフランシスコ発の「サマー・オブ・ラブ」という呼称からもわかるように、そこには「愛」という漠然とした理想が掲げられていたが、東洋は、いまだ自分たちが到達していない、愛に溢れた世界だった。そうやって東洋はいつの時代も西洋の幻想を引き受けてきたのだが、サイードを挙げるまでも無く、それは西洋が自分に欠いているものの投影でしかなかった。ベトナムの泥沼化した戦争に対する反発と自責や、ヒッピーのコミューン運動にも影響を与えたマオイズムの流行も、ほとんど一方的な東洋崇拝に油を注ぐことになった。

話が変わるが、ネットで「草食系男子」に関する記事を見つけた。宮台真司の方程式によれば、「ギャルゲーで充分」の行く末は孤独死なんだそうだ。

「男子学生からの相談が「相手がいない」から「相手と長続きしない」に変わったのがこの数年。抽象的にいえば「現実の異性とつきあっても確かな関係が得られない」という事態で、セックスの相手がいないよりも深刻です。背景にあるのがコミュニケーションの「フラット化」です。情報ツールの発達で人間関係が流動化すると「この女(男)がダメならほかへ」といつでも代替できるようになり、自分も取り替え可能化されているのではと疑心暗鬼が生じます」

ジョン・レノンの場合をみても、嫉妬の激しさは強烈な「肉食的な」欲望と裏腹である。宮台の言う草食的な関係においては、嫉妬という感情もあまり起こらないのかもしれない。たとえ起こったとしても面倒な感情として、その関係とともに即刻切り捨てられるのだろうか。しかし嫉妬はネガティブな感情とはいえ、関係性の確かな実感でもある。人生もうおしまいだとか、絶対的に思えてしまう感情に振り回されながら、自分の欲望の強度を確かめるチャンスでもある。その欲望自体は否定される必要なんて全然ない。それは幸福感とか希望の根源なのだから。それを飼いならしつつ、うまく生き延びさせることが肝要なのだ。それに井上陽水が「君によせる愛はジェラシー」と歌うように、アンビバレンスを引き受ける大人な境地だってあるのだから。

ところで、Jealous Guy はいろんなアーティストによってカバーされているが、その代表的なものは、ロキシー・ミュージック Roxy Music によるカバー。81年にジョン・レノンの追悼のためにロキシー・ミュージックがこの曲をカバーし、全英1位になった。しかし、今聴くには恥ずかしいくらいにグラマラス。PVではブライアン・フェリーが水色のスーツにピンクのネクタイで、ポーズを決めて歌っている。ブライアン、そんなに見つめないで(笑)。

ROXY MUSIC - JEALOUS GUY

斉藤和義が Jealous Guy のカバーをしている。友だちが「これいいよ」とメールに動画をはりつけてくれたのだが、最初カバーと気がつかなかった。歌詞の方は英語でも直訳でもなく、斉藤和義が日本語でアレンジしている。ギター一本で切なくも淡々と歌われる具体的な場面は、その向こうにストリートな闇と空虚感を漂わせている。サイケに響く12弦ギターは感情のゆらめきを映し出すようで、コードの変化がとてもキレイに聞こえる。斉藤和義は相手を傷つける手前の「届かなさ」を歌っているように聞こえる。「嫉妬していることに気がついてよ」って。もちろん、ジョン&ヨーコ的な、あるいは夫婦や恋人どうしというシチュエーションとしても読める。聴き手がそれぞれ歌詞を解釈しながら、自分にとっての一貫性のあるストーリーを組み立てるわけだが、シチュエーションの違いがあっても、感情の本質を的確に掬い取っているのが優れた歌と言えるのだろう。

斉藤和義「ジェラス・ガイ」





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posted by cyberbloom at 07:04 | パリ ☁ | Comment(0) | TrackBack(0) | Musique pour…のための音楽 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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