2009年08月12日

2020年の日本人(2) 高速道路とナショナリズム

2020年の日本人―人口減少時代をどう生きる「2020年の日本人-人口減少時代をどう生きる」の書評のPart 1「年金制度はどうなるか?」を書いてからだいぶ時間が経ってしまった。

この本は決して日本の将来は暗いと言っているわけではない。これから人口が減少していくのは避けられない。だから、日本社会をもっとスリムして、効率の良い国に変えましょうということだ。多くの日本人には「ジャパン・アズ・ナンバーワン」とまで言われた80年代の記憶がまだ鮮明に残っている。復活の日が再び来るんじゃないかと、その幻想にすがろうとしている。しかし、人口が減るということは経済の規模も確実に縮小するということである。

輝かしい80年代が復活しなくても、日本人は貧しくなるということにはならない。人口が減っても国民は豊かなままでいられる。これが「2020年の日本人」の中心テーマであり、そこに日本が生き残る具体的な将来像を読み取ることができる。

日本人の豊かさやゆとりを考えるとき、GDP=国内総生産ではなく国民所得を問題にしなければならない。しかし、その肝心な国民所得のGDPに対する比率は欧米諸国に対して低い。その比率は1980年代以降明確な低下傾向にあり、さらに1990年代後半以降は一段とその傾向を強めている。欧米諸国がほぼ横ばい、もしくは上昇傾向にあるのに対して、日本は1985年の84・3%から2004年の80・2%へと下がっている。

全国の隅々にまで張り巡らされ、さらに建設を進めようとしている高速道路。新幹線もまだ整備の途中だ。そして巨大ビルが林立する大都市の大規模開発。国民所得のGDP比率の低下は、これらの公共投資が影響している。それらは華々しく見える一方で巨大な建設費用や更新費用をGDPから天引きしている。つまり日本は所得を生み出す仕掛けが大きすぎる。その結果、欧米諸国よりも働いているのに、貧しい暮らしを余儀なくなされている。年金が日本人の将来の不安を物語るとすれば、高速道路は日本人がいつまでも豊かになれない象徴のようなものである。

それに加え、生産システムにおける過度の機械化も問題なようだ。人気のない工場でせっせと働き続ける精巧なロボットとか、街中にはびこる自動販売機なんかを想像すればいいのだろうか。結局この25年、企業は賃金を削って設備投資を行ったわりには国民は豊かにならず、「あえていえば機械が一番得をした」と著者は結論づけている。

GDPに対する国民所得の比率のさらなる下落は、過大投資は収まるどころか、いっそう激しさを増している証拠である。高齢化社会に向けて国民所得の充実が急がれなければならないときに、国民所得が低下していることは重大な問題だ。高齢社会に適合的なスリムな経済とは逆方向へと突き進んでいることになる。未だにGDPにこだわる政治家が多いが、国民生活を充実させるよりも、日本の威信を保ちたいのだろう。80年代の成功体験は忘れるべで、そのころの日本の労働力は拡大を続け、労働力の構造も先進工業国の中で飛びぬけて若かった。

もうひとつ、面白いと思ったのは日本の公共事業のあり方だ。先ほど槍玉にあがった高速道路と新幹線だが、それは1969年に策定された「新全国総合開発計画」が出発点になっている。この大規模プロジェクトの目的は、地方の過疎が地域格差意識を拡大させているため、開発可能性を全国土に拡大し、日本を「均衡化」することだった。しかし、高速道路を幹線とする道路の大規模ネットワークによって、大都市の企業は生産や流通の拠点を全国展開できるようになった。それによって生産の拡大と効率化が進み、ますます地方は大都市に吸い上げられてしまう結果になった。

地方の過疎の進行と産業の衰退は一様に進むわけではない。当然ばらつきがでる。その格差を埋めてきたのが公共事業である。実際、一人当たりの製造業産出高の水準が低い地域ほど、地域経済における公共事業費のウェートが高い。これは経済の自律的な動きによるのではなく、政府が公共事業をそのように配分してきたのである。地域の公共事業のほとんどは国からの補助金と地方交付税交付金だ。そうやって国主導で経済の地域格差、生活水準の格差を是正してきた。明らかに公共事業は地域間の所得再配分の手段だったのである。それによって地方の国への依存体質が強まり、製造業の弱い地域はますます弱くなった。その依存体質を作ることが、自民党の集票システムだったと言える。これが自民党の道路族が未だ念仏のように唱える「国土の均衡ある発展」の正体でもある。

著者はマクロ経済の視点から書いているが、一方でナショナリズムが交通通信技術の発達に基づく均質化の産物であることを思い出させてくれる。地方出身の国会議員は、ふるさとの再生のために働いていたわけではない。ふるさというローカリズムを潰し、国家によって直接包摂するためである。その結果、地方はどこも同じような風景になり、クルマに依存する郊外型のライフスタイルに覆いつくされることになる。

「同じ日本人なのに貧しい人々を放置していいのか」というのが日本のナショナリズムだったとすれば、若い世代を見殺しにしている日本からは、それが失われてしまったことになる。公共事業の是非はどうであれ、その思想に基づいて貧しい地域に仕事が再配分されていた。現在この再配分が、とりわけ「世代的に」機能していない。このモデルの終焉は自民党の役割が終わったことを意味するだろうが、次のモデルが緊急に求められているということでもある。



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posted by cyberbloom at 14:32 | パリ | Comment(0) | TrackBack(0) | 書評−その他 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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