2009年08月01日

「マリー・アントワネット」あるいは「小悪魔ageha」(1)

マリー・アントワネット (通常版) [DVD]オープニングから18世紀の宮廷の風景を80年代ニューウェーブ(Natural's Not In It, by Gang Of Four)が切り裂くという離れ業。花火のついた大きなケーキが現れ、Happy Birthday! と声がかかる誕生パーティのシーンの背後でニュー・オーダーの Ceremony が流れる(あの独特なベースライン!)。仮面舞踏会のシーンではバンシーズの「香港庭園」が、18世紀の現場で流れているような錯覚を抱かせ、舞踏会もディスコのようなノリだ。これが英語劇であるから違和感がないのだろう。フランスの18世紀とイギリスの80年代が重ね合わさり、私のような80年世代は二重のめまいに襲われる。

この映画は2006年のカンヌ映画祭で「ダヴィンチ・コード」とともに話題になったが、上映中に居眠りする人が続出するほど評判が悪かった。これを18世紀の史実を扱った映画として見るからおもしろくないのだ。ソフィア・コッポラの「マリー・アントワネット」は二重のめまいどころか、いろんな既視感にとらわれる映画である。

18世紀に起こった歴史上の残酷な出来事も、フランス式庭園の真髄であるヴェルサイユの幾何学的なラインも、すべては素材であり、ソフィア・コッポラにとっては書き換えるべきテキストなのだ。ひとコマひとコマがグラビア誌やファション誌を見ているようだし、そのままワンシーンを切り取ってファッションショーやCMやビデオクリップにも使えそうなアイデアでいっぱいだ。

何よりも構図がキレイなのである。それは淡々と知覚に訴えてかけてくる。普通の映画を見るときとは違う回路が動き出すのがわかる。その知覚への静かな刺激の積み重ねが一種のスリルにまで高められていく。それだけが観客の視線を引っ張り続ける映画なんてかつてあっただろうか。映画は基本的に物量作戦であるが、モノは背景を作っているのではなく、モノが映画そのものを作っている。

キルスティン・ダンストはドイツ系の血を引き、それがアントワネットに適役だという理由になったようだが、彼女はオーストラリアのハプスブルグ家というより、アメリカの大草原の小さな家からやってきたように見える。そして農民ごっこのシーンはプチ・トリアノンにアメリカの草原が出現する。スウェーデンの伯爵との一夜も、何だかアメリカの青春映画を見ているようだ。お父さんのフランシスの「アメリカン・グラフィティ」ほど荒んでもいないし、ソフィアの出世作「ヴァージン・スーサイズ」ほど謎めいてはいないが、後者のテイストはマリーのキャラの中に引き継がれている。ソフィア・コッポラはインタビューで「彼女が母親のマリア・テレジアに書いた手紙は面白かった。その文面を読むと、まさに勉強嫌いで生意気なティーンエイジャー。皆と同じでしょ」と答えている。つまり、これはティーンエイジャーの物語なのだ。際立った演技をするわけではないが、キルスティンは一瞬の表情によってそれを物語っている。そこには現代(=いま)が忍び込んでいる。

宮廷のバカバカしい無意味なしきたりに向けるマリーの軽蔑のまなざし(This is ridiculous!)。それは日本の組織社会をかさにきて威張り散らしたり、説教したりするオヤジたちを前にしたときの視線と酷似している。またときには朝1時限目に必ず遅刻してくる寝起きのつらい女子学生と同じ表情を見せる。パーティーが終わり、みんなが帰ったあとの、人のいない部屋。食べ残したお菓子、飲み残しのグラス。その上に漂う喪失感。徹夜で遊んで、夜を明かしたときの朝の光景。眠いのに気分はハイで、みんなで夜明けを見て、キレイだねーとか言って、別れて、始発の電車に乗って帰るみたいな。でも、そこは18世紀のヴェルサイユなのだ。

かつて文学が担っていた領域がどのように他のジャンルに再配分されているのかというテーマ(講義)の中で、この映画の一部を女子大の学生たちと見たが、私なんかより、ガーリーな当事者たちの方が、この映画に対するレセプターを持っている。複雑な物語や揺れ動く心理状態を読み解き、普遍的なテーマを読み取る、そういう文学的な習慣の代わりに、この映画はひたすら即物的で感覚的であることを求める。ひとつの洗練を極めた特殊なレセプターを希求している。それを持ってない、あなたたちにはわからないでしょ、とソフィア・コッポラは開き直っているのだ。

ドレスや靴やお菓子が次から次へと現れ、泡立つシャンパンがグラスからあふれる。食欲と物欲は、ガーリーな感受性の中で「甘さ」と「かわいさ」への志向として磨き上げられる。「かわいい kawaii」という言葉がフランス語に直接取り入れられているように、始まりは日本の若い女性たちだ。この映画では淡いブルー(=サックス)のドレスもピンクのそれと好対照を成していて印象的だが、コッポラによるとマリーがヴェルサイユにやってきたときブルーを選んだのは、それがフランス王室の色だったからだという。その後の宮殿の生活では、ピンクでガーリーなドレスを着るようになるが、それはマリーの選び取った個性的な色というわけだ。そして今やピンクは「かわいい」と直接結びつく絶対的な色である。

マリー・アントワネットは共和主義によってギロチンにかけられたが、次回で書くつもりの「マリー・アントワネットの日常化」は、自由と平等と資本主義の究極の産物だ。この映画は日本のサブカルチャーに決定的な影響を与えることになる。やはり日本なのだ。

マリー・アントワネット (初回生産限定版) [DVD]
東北新社 (2007-07-19)
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おすすめ度の平均: 4.0
3 華やかな王族の宮廷生活
5 使い古した題材の新しい解釈
5 一人の少女
5 フランス革命前夜を想像する絢爛たる作品。
4 特典にガッカリ…





cyberbloom

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posted by cyberbloom at 22:57 | パリ | Comment(0) | TrackBack(0) | ファッション+モード | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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