2009年06月02日

日本語が亡びるとき、英語が亡びるとき

日本語が亡びるとき―英語の世紀の中で昨年出版されて、周りでも話題にする人が多かった『日本語が亡びるとき』を、ようやく手に入れて読んだ。著者は水村美苗。副題は「英語の世紀の中で」。その論旨は明快で、ほとんど戯画的である。

曰く、日本語は「叡智を求める人」(要するに学術研究者をはじめとする知識人)が発する「読まれるべき言葉」(要するに論文や研究発表に用いる言語)としての資格を失いつつある。日本語だけでなく、フランス語もドイツ語も、英語以外のすべての言葉は、どの学界でも流通しなくなりつつある。英語だけが「普遍語」としての地位を占め、日本語はせいぜい「国語」、悪くすると「現地語」に成り下がってしまうだろう。

この指摘自体は正しい。学問の世界では、英語を読めないということを言い訳にすることができない。たとえば日本文学研究でさえも、英語で書かれた研究書をまったく無視することはできない。なぜなら、それは現在、世界中の高等教育を受けた人が共通に読める唯一の言語だからだ。日本文学研究者は日本語が読めるはずなのだから、論文は日本語で書けばいいのに、と思うが、そうはいかない。日本語を読めることと日本語を書けることは、別の能力である。だから、日本語が書けなくても読める人が、日本に関わりのあることを世界に向けて発信したいと思うなら、英語で書くのが最も効率がよいのである。また世界はそのように英語で発信されたものを中心にして、自らの像を定義していくことになる。

水村美苗自身は、英語と日本語のバイリンガルである。家庭の都合で12歳で渡米し、英語で高等教育を受けたが、英語嫌いで、少女時代に日本の近代文学を耽読し、大学でフランス文学を専攻した。漱石の『明暗』の続編パスティッシュでデビューした彼女にとって、日本近代文学こそは「読まれるべき言葉」だった。彼女が日本語が亡びると言うとき、それは近代日本文学の言語が亡びるということである。「自分がその一部であった文化がしだいに失われていくのを知りつつ生きる一人の人間の寂しさ」(p.224)が、彼女にこの本を書かせた。

加藤周一が夙に指摘したように、『浮雲』以降の言文一致とは、誰もが小説を書けるようになった時代の到来を意味する。それまでは、書き手になるためには、特別な訓練が必要だったのだ。具体的には漢籍の教養である。漢語の知識なしには、手紙さえ書くことはできなかった。読めることと書けることの落差は、江戸時代の方がはるかに大きかった。

そう考えると、日本近代文学の日本語自体が、じつはそれ以前の「読まれるべき言葉」を犠牲にして成立したものであることに思い至る。明治の懐古的な読者にとっては、漱石の近代的な日本語さえもが読むに耐えぬものだったことを想像するのは難しくない。しかし、日本人は漱石の日本語を選び、それをスタンダードにしてきた。だから、ここ数年の「日本文学」の日本語が、漱石の日本語と似ても似つかぬものだとしても、それは知的エリートが英語に吸い取られ、英語のできない残余者が貧しい日本語を書いているからではなく、文学的言語のスタンダードが改編されつつあるということを意味していると考えた方がよい。

漱石が専門家以外には読まれなくなるのではないか、と水村美苗が危惧する気持ちは分かるが、すでに私たちのほとんどは、上田秋成の『雨月物語』さえ注釈なしには満足に読めない。まして秋成のような日本語を書くことは、もはや専門家にも無理だろう。言語は、大衆化すれば、それだけ平易に、あるいは貧しくなる。中国の簡体字の導入や、韓国の漢字廃止は、確かに識字率を上げただろうが、同時に読める中国語や朝鮮語は、同時代のものやリライト版にほぼ限られることになった。言語の大衆化とは、言語の歴史を剥奪することである。

だから、英語の覇権を憂いて、シェークスピアは読まれ続けるだろうが、ラシーヌは忘れ去られるだろう、と水村美苗が言うとき、私は首をかしげてしまうのだ。ラシーヌが忘れられることについてではなく、シェークスピアが読まれ続けることについてである。彼女の言う「普遍語」となった英語は、そんなに高級なものにとどまってはいないだろう。”O Romeo, wherefore art thou Romeo ?”などという台詞を理解できることが、これからも教養として求められていくだろうか。別の言い方をすれば、シェークスピアの読解が「文化資本」として機能し続けるかどうか。私は多分に疑わしいと思う。

普遍語としての英語の時代、それはまさに日本語ネイティブの知識人が日本語の存亡に直面しているのと同じように、英語ネイティブの知識人にとっては、貧しい英語がのさばり、それまで英語圏で「読まれるべき言葉」だった文学作品さえ読まれなくなる時代なのではないか。英語圏が拡大するにつれて、英語は簡単にならざるを得なくなるからだ。ここでcyberbloomさんが書いていたユゴーの『ノートルダム・ド・パリ』のエピソードを思い出す。司教補佐クロード・フロロは、印刷術が建築を殺すだろう、と言った。そのときユゴーがイメージしていたのは、単に聖書の内容が民衆に直接行き渡ったという史実だけでなく、書物によって思想が蓄積されて出来上がる、「未来という深い霧の中にその巨大な頂を隠した」「人類の生んだ第二のバベルの塔」の姿だった。だが、それはまさに高い頂をもつ塔であり、特別な訓練なしには最上階への登り方さえ判らないような塔である。

英語の普及によって、確かに漱石のような「近代日本文学の日本語」は衰退するかもしれない。だが、英語もまた亡びるだろう。グローバルな流通は、かえって英語を殺すだろう。もし日本語の破壊を憂うならば、英語の破壊も憂えなければならない。なぜなら、グローバル化によって本当に亡びつつあるのは、情報伝達以外を目的とする言語の使用そのものだからだ。一読して即座に内容が理解できるようなテクストしか、もはや存在価値がない。そうでなければ、消費効率が悪いという話になる。

シェークスピアが「読まれるべき言葉」であり続けられるならば、漱石もまたそうなるだろう。それは社会の価値観の問題であって、英語が学術やビジネスの現場で「普遍語」になっていることと密接な繋がりがある。誰も英語以外の言語を骨折って、不自由ながら使ってみようとしないということは、理解の精度とスピードを上げることが至上命令だということだからだ。バベルの塔は、単一言語で建てられたとされる。だが、それは英語のような普遍語による世界の建設を意味するのではない。私は、バベルとは無数の言語が同じ未来を目指している状態、と定義したい。そうでなければ、私たちは限られた言語で、世界に向かって何かを言うことはできないだろう。語を超えて分け合えるものがあると信じていなければ、私たちは本当のグローバリゼーションを生き抜くことができないだろう。



日本語が亡びるとき―英語の世紀の中で
水村 美苗
筑摩書房
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おすすめ度の平均: 4.0
1 読む必要はない
3 主張に至る論理展開がいまいち
5 なるほど、戦に敗れるといふことは
かういふことだったのか‥。
5 読み出したら止まらなくなる
4 グローバルな世界に生きているということ




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posted by cyberbloom at 22:04 | パリ | Comment(0) | TrackBack(0) | 外国語を学ぶということ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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