2009年05月06日

『ポスト消費社会のゆくえ』 辻井喬×上野千鶴子

ポスト消費社会のゆくえ (文春新書)「書評−フランス小説」のコーナーでエミール・ゾラの『ボヌール・デ・ダム百貨店』(1883年)の書評を書いた。この作品は黎明期のデパートを舞台にしているが、パリやロンドンで始まったデパート文化の現状を知るには辻井喬と上野千鶴子の対談『ポスト消費社会のゆくえ』が興味深い。作家・詩人の辻井喬は西武グループを率いた堤清二の分身であり、最近では『おひとりさまの老後』で知られる社会学者の上野千鶴子は西武百貨店の社史編纂に参加した経歴がある。西武百貨店は70年代から80年代に脚光を浴び、文化を先導していた印象すらあるが、それがピークに達するのはウッディ・アレンを起用した広告「おいしい生活」(1982年)を打ったときだった。

上野千鶴子は「セゾンとパルコが領導したこの時期の広告は世界史的にみても空前絶後」と評価しているが、それを記号論的に解釈すると、広告のメッセージ性がなくなって記号の指示対象物=商品が消えてしまったということになる。つまりそれはシニフィアンだけの商品を訴求しない広告、商品の宣伝をしない非常識な広告で、商品の代わりに企業イメージや空間イメージを演出するのである。

広告イメージ戦略と同時に進められたのが、西武の文化事業活動である。西武のとんがった文化事業はデパートの顧客と重ならず、販売促進の役にはたっていなかったと堤清二=辻井喬は懐古するが、その象徴が西武美術館であり、実験的な音楽や映画、映像、ダンス、演劇を上演するスタジオ200だった。このような西武百貨店の盛衰については本書を読んでもらうことにして、最近、新聞社や出版社と同様、凋落傾向にある(再編や閉店を余儀なくされている)としばしばニュースになっているデパートの現在に焦点を当ててみたい。

話を今からそんなにも遠くない1990年代くらいから始めよう。90年代後半になると「薄利多売」で突き進んできたスーパーマーケット最大手のダイエーが流通戦争に負ける。デフレスパイラルでさらに急速に価格破壊が進む。ポスト・ダイエーの象徴的な企業がユニクロなのだが、その価格破壊を可能にしたのはグローバル化、つまりは生産拠点を中国などの海外に移転したことである。グローバル化の恐ろしいのは市場が国内完結しなくなったこと。60年代からの高度成長期と大きく異なるのはこの点だ。「内需の拡大が所得分配につながる」、つまりは「景気が良くなると仕事が増え、給料が上がる」という日本の成長経済のメカニズムは完全に崩れたのである。たとえ内需が拡大しても雇用にはあまり波及しない。そして雇用調整のしわ寄せがもっぱら若い世代に向いているのが今の状態である。

量販店やユニクロの価格破壊が進んでいく一方で、高級ブランドは専門店化していく(ヴィトンのメガストアやエルメスの「メゾン・エルメス」)。そのあいだに位置する百貨店は中途半端な存在になる。そうするとパルコのような場所貸し業にならざるをえないが、今の百貨店すべてにパルコのようなプロデュース能力があるわけではない。ところで、パルコ的な店舗観とは何だったかと言えば、空間それ自体が物販の媒体となるという考え方、つまりステージとしての百貨店である。百貨店に行くのは匿名性の高い集団に着飾った自分を見てもらうためなのだ。私もパルコのバーゲンには繁く通ったのでそれは実感として良くわかる。

しかし、今やハレのステージは必ずしも百貨店である必要がなくなったし、最大の問題はコミュニケーションが島宇宙化してしまったことである。とりわけ若い世代は匿名性の高い集団を求めず、内輪の気心の知れた人たちのあいだでコードを共有したコミュニケーションしか望まなくなっている。コミュニケーション自体のセグメンテーションが起こっているのだ。それを推し進めたのがネット&モバイル社会である。ネットショッピングも出現し、WEB上のHPさえ維持すれば在庫を持たなくても良いという、省コスト、省リスクの商売を実現し、またサイトに広告を載せれば手数料収入が入るシステムも確立されている。この面においても、ショッピングはハレの行為ではなく、日常化(=ケ)しつつある。

ユニクロのデザイン (SEIBUNDO Mook)つまり、百貨店が成り立たなくなっているのは、新聞や総合雑誌の凋落現象と同じである(とうとう朝日、毎日、産経が赤字転落した)。新聞や雑誌は19世紀のフランス文化史の中で最も注目されたメディアであったが、21世紀に入ってからの本格的なネット&モバイルの到来によって息の根を止められつつある。その背景にあるのは、「万人のための」とか「総中流社会」という社会的基盤そのものの急速な消滅である。もはや少数の特権者が描くモデルに誰も従わなくなっている。資本主義という巨大なブルドーザーによって均質に地ならしされ、「階級の混交やブルジョワ層の底辺の飛躍的な拡大」が起こり、大衆社会が成立したが、そこには次の時代の新たなセグメンテーションが確実に起こっている。

一方で経済格差や世代間格差がもたらすものも無視できない。日本では高度な消費文化が発達してきたが、その特徴は多様性ということである。日本の消費文化に多様性があったのは、高度成長期の総中流化が背景にあって消費生活が階層化していなかったからである。ひとりの消費者がスーパーと百貨店を使い分け、分不相応な買い物もする。ふだんカップラーメンで済ませている若者が、高級フレンチにも行く。エルメスも買うし、ユニクロにも行くのだ。このライフスタイルは総中流社会のひとつの指標である。その総中流化が崩れ始めている。80年代には自分のことを中流に帰属すると思っていた日本人は9割もいたが、今は6割台まで落ちている。

ユニクロは安いだけでなく、商品の種類も多様だが、これはポストフォーディズムの特徴である。すでに大量生産・大量消費モデルのフォーディズム(現在、フォードを含むビッグ3が危機に瀕している)から、多様な趣味嗜好に応じた微細な差異化に対応する少量生産・少量消費モデルのポスト・フォーディズムへと移行している。例えば、音楽産業においてもジャンルの細分化、世代や趣味、性別や文化背景に応じてターゲットを細かくセグメンテーションする。

これは労働や雇用の問題と表裏一体である。ポストフォーディズムを支える生産過程はフレキシブルなものである。これもグローバル化のひとつの側面であり、グローバル化した市場の急激な変化に対応するために、組み換え可能なシステムへと再編された。そうやって採算の悪い部門を切り捨てやすくするのである。この再編が非正規雇用社員、派遣社員、パートタイム、フリーターという労働形態を要請し、現在のような不況時においては真っ先に調整の対象になる。それを隠すように自己責任論が横行しているが、3分の1以上に達する非正規労働者の割合(2006年で35・5%)をそれだけで説明できない。

関連エントリー「『ボヌールデダム百貨店』エミール・ゾラ」



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おすすめ度の平均: 4.5
5 中高年にとって大変に面白い「読み物」
4 我々はどこへゆくのか?
3 上野千鶴子と堤清二の関係が面白い
5 セゾンを通して何が見えるか?
3 セゾンの蹉跌から今学べることって、
それほど多くないような気がする




cyberblom

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posted by cyberbloom at 20:29 | パリ ☁ | Comment(0) | TrackBack(0) | 書評−グローバル化&WEB | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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